2009年3月31日火曜日

小田原城主稲葉氏一族の墓 春日の局の墓







箱根にある長興山の「しだれ桜」と「石垣山一夜城跡」を見に行きました。
この長興山一帯は、江戸時代の小田原城主稲葉氏一族の菩提寺紹太寺となっているものでしたので、ついでと言えば失礼ですが、この一族の墓所を見学してきました。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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小田原市のHPから無断借用。
<稲葉一族の墓所> 
墓所は、入生田の旧東海道から約700m入った長興山(標高209m)の中腹にあって、360段の石段を登った先にあります。 この墓所は、東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、正面は南を向いていて、石段を登ると正面に3m近い堂々とした8基の墓石が横に並んでいます。 墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっています。 墓および供養塔の型は、美濃守正則だけ位牌型で、そのほかは五輪塔です。 塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死したので、その忠節をたたえ、藩主の墓地に葬られました。
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初代藩主の正勝の父は小早川秀秋の旧臣であった正成(美濃の稲葉重通の婿養子)、母は明智光秀の重臣斎藤利三の娘の福(春日局、家光の乳母)だそうです。
小早川家臣ということで関ヶ原ではいろいろあった(家康に内通の件)と思います。
家光の乳母春日の局の存在でわかるように、徳川家の信頼厚く、東海道の要衝小田原城を任されたのだと思います。
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稲葉一族の墓
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ナヴィゲータのシマさん、ご同行のヤマさん。お疲れサマ。
でもチョイ飲み過ぎかな。焼酎ボトル900ml空けて、追加で900は無理かと、350にしたらこれが2本。おまけに、お銚子大も3~4本転がってましたよ。モチロン、「とりあえずナマチュー」もあったし。
終電は間に合いました。

2009年3月30日月曜日

治承4(1180)年記(7) 源三位頼政、叛乱を説く 「源氏揃」

治承4(1180)年4月9日
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以仁王の乱。
以仁王(30、後白河法王第2皇子)、最勝親王と称し平家追討の令旨を諸国源氏に下す。
源頼政、以仁王を奉じ平家追討の宣旨を諸国の源氏に伝える。
治承・寿永の内乱の始り
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[乱の概略と意義]
以仁王の乱は、発覚後の5月15日、以仁王(高倉宮)の配流の宣下があり、追捕のため検非違使が三条高倉亭に向かうところから始まる。
以仁王は、一足早く脱出し三井寺に逃れる。三井寺衆徒は以仁王に加担。
源頼政は、子の仲綱以下を率い宮に加わる。
しかし、延暦寺衆徒との連携に失敗し、興福寺を頼って南都に落ちる途中、平家軍に攻められ、僅か10日程で乱は失敗に終わる。
乱の残す影響は大きい。
①これを契機に平氏は南都北嶺の衆徒との武力対決の途をとらざるを得なくなり、遂には都を福原に遷す。
②乱の直前に発した以仁王の令旨により、諸国の源氏が挙兵、一斉蜂起の事態となる。乱は王朝国家への公然たる叛乱であり、この時挙兵した頼朝は、東国に樹立した支配権を令旨によって正当化しつつ、やがて幕府権力を樹立。
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□「吾妻鏡」では・・・。
入道源三位頼政卿、平相国禅門(ヘイソウゴクゼンモン、清盛)を討滅すべき由、日者(ヒゴロ)用意の事あり。然れども私の計略を以ては、太(ハナハ)だ宿意を遂げ難きに依って、今日夜に入り、子息伊豆の守仲綱等を相具し、密かに一院第二宮の三條高倉の御所に参る。前の右兵衛佐頼朝已下の源氏等を催して、彼の氏族を誅し、天下を執らしめ給うべきの由、これをを申し行ふ。仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。而るに陸奥の十郎義盛(廷尉(テイイ)為の末子)折節在京するの間、この令旨を帯して東国に向い、先ず前の兵衛佐に相触るの後、その外の源氏等に伝うべきの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の蔵人に補す(名字を行家と改む)。」(「吾妻鏡」)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「四月小 九日、辛卯。入道源三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。
しかし、自分の力だけではこの願いを遂げる事は難しく、この日、子の伊豆守仲綱を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王が住まう三条高倉の御所へ密かに参上。
「前右兵衛佐(源)頼朝をはじめとする源氏に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになってほしい。」と申し述べると、以仁王は、散位藤原宗信に命じて令旨を下す。
そこで、廷尉(源)為義の末子である陸奥十郎義盛が在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝にこれを見せた後、そのはかの源氏にも伝えるように。」と命じる。
義盛は八条院の蔵人に任ぜられ、名乗を行家と改めた。」
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①「日者用意の事」:頼政の平家転覆の企ては、かねてからの宿意である。
②「今日夜に入りて」:4月9日夜、三条高倉の御所を訪ねる。
③「前右兵衛佐頼朝以下の源氏等」:頼朝を諸国の源氏の中心的存在と強調。
④「散位宗信に仰せて」:六条亮大夫宗信が令旨作成の任に当たったとする。
⑤「八条院の蔵人に補せらる」:令旨の伝達にあたる行家が八条院の蔵人に補せられる。
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□「平家物語」では・・・。巻4「源氏揃」(げんじそろえ):
源三位入道頼政、深夜以仁王(高倉の宮)を訪い、平家打倒を呼びかける。
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「其の頃近衛河原に候はれける源三位入道頼政、或夜潜かに此の宮の御所に参りて、申されける事こそ怖しけれ。
「たとへば、君は天照大神四十八世の正統、神武天皇より七十八代に当らせ給ふ。然れば、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりし人の、三十まで宮にて渡らせ給ふ御事をば、御心憂しとは思し召され候はずや。早々(ハヤハヤ)御謀叛起させ給ひて、平家を亡し、法皇の、何となく、鳥羽殿に押籠められて渡らせ給ふ御憤をも、休め参らせ、君も位に即かせ給ふべし。これ偏(ヒトヘ)に御孝行の御至にてこそ候はんずれ。若し思し召し立たせ給ひて、令旨を下され給ふものならば、悦びをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ、国々に多く候へ」
とて申し続く。」
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「近衛河原」:近衛大路の東にの賀茂川の河原、現在の荒神橋附近。清し荒神の社の東にあり「荒神河原」とも、関白道長の遺址法成寺に近いことから「法成寺河原」とも呼ばれる。
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頼政は、決起を呼びかければ直ちに馳せ集まるであろうと思われる諸国に散在する源氏一族の名を数えあげる(「名寄せ」)。
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「先づ京都には、出羽前司光信(デハノゼンジミツノブ)が子ども、伊賀守光基(イガノカミミツモト)・出羽判官光長(デハノハングワンミツナガ)・出羽蔵人光重・出羽冠者光能(ミツヨシ)、熊野には、故六条判官為義が末子(バッシ)十郎義盛とて隠れて候。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へども、これは新大納言成親卿の謀叛の時同心しながら返忠(カヘリチュウ)したる不当人(フタウジン)にて候へば、申すに及ばず。さりながら其の弟、多田(ノ)次郎朝実(トモザネ)・手島冠者高頼(テシマノクワンジャタカヨリ)・大田(オホタノ)太郎頼基、河内国には、石川(ノ)郡を知行しける武蔵権守入道義基・子息石河判官代義兼、大和国には、宇野(ノ)七郎親治が子ども、太郎有治(ハリハル)・次郎清治(キヨハル)・三郎成治・四郎義治、近江国には、山本・柏木・錦織(ニシゴリ)、美濃尾張には山田(ノ)次郎重広・河辺(ノ)太郎重直・泉(ノ)太郎重光・浦野四郎重遠・安食次郎重頼・其の子の太郎重資・木太(ノ)三郎重長・開田判官代重国・矢島(ノ)先生(センジョウ)重高・其の子の太郎重行、甲斐国には、逸見冠者(ヘミノクワンジャ)義清・其の子の太郎清光・武田太郎信義・加賀美(カガミノ)次郎遠光・同じき小次郎長清・一条(ノ)次郎忠頼・板垣(ノ)三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光・安田(ノ)三郎義定、信濃国には、大内(ノ)太郎維義・岡田冠者親義・平賀冠者盛義・其の子の四郎義信・故帯刀先生義方(コタテワキノセンジョウヨシカタ)が次男、木曽冠者義仲、伊豆国には流人前兵衛佐(サキノヒョウエノスケ)頼朝、常陸国には信太三郎先生(シノダノサブロウセンジョウ)義教・佐竹冠者正義、其の子の太郎忠義・三郎義宗・四郎高義・五郎義季、陸奥国には故左馬頭義朝が末子九郎冠者義経、これ皆六孫王の御苗裔、多田の新発意満仲の後胤なり。」
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[源氏の一族の展開の経緯概略]
清和天皇の子陽成天皇の皇子元平親王の嫡子の経基王が、天徳5年(961)6月15日に「源朝臣」の姓を与えられ臣籍に降り、「源経基」と名乗って以来、「源」をその姓とする。
経基の子の満仲には数人の男子があり、夫々に独立して家を立てる。
①長子頼光は嫡流を継ぎ、その子孫が摂津国多田の庄(川西市)を拠点として、「摂津源氏」「多田源氏」と呼ばれる。
②次男頼親は、数度大和守に任ぜられ、国府のある高市(タケチ)郡軽(カルミ)に住み、その子孫は「大和源氏」として大和地方に勢力をふるったといわれる。
③第3子頼信は、河内守として河内の国古市(フルイチ)郡壷井(ツボイ)の里(羽曳野市)に住み、「河内源氏」と呼ばれる。
頼信の第2子頼清は、信濃の国の村上御厨(長野県坂城町村上)を中心に活躍し、「信濃源氏」を称した。
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さらに頼信の孫で頼義の3男義光は、常陸守として任国に下り、常陸の佐竹郷(常陸大田市佐竹町)を基盤として「常陸源氏」と称す(佐竹氏・志田氏の祖)。
義光はまた甲斐守にも任ぜられ、その任地甲斐の国余部(アマベ)郡(韮崎市)に次男の義清を残し、この一統を「甲斐源氏」と呼ぶ。
さらに義光は晩年近江の園城寺に住み、その所領柏木庄(滋賀県水口町)を伝領した子孫が「近江源氏」と呼ばれるようになる。
また満仲の次弟の満政は美濃の国方(カタカタ)県郡八島郷(岐阜市八島町)に下り、その子孫はこの地に土着して「美濃源氏」と呼ばれる。
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「源氏揃」で挙げられる諸国に散在する源氏一族の状況については、次回以降とします。
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「源三位入道頼政というひと」はコチラ
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to be continued

2009年3月28日土曜日

東京 三浦按針屋敷跡 魚河岸跡








教科書にでてくるウィリアム・アダムスこと三浦按針さんです。
関ヶ原の直前の慶長5年(1600)3月16日に乗組員ヤン・ヨーステンらと豊後海部郡臼杵荘佐志生に漂着します。船の名は、「リーフデ号」(オランダ船)。ハウステンボスに復元したものがあるそうです。家康は、5月12日に大阪城で2名を引見。後に、外交顧問として優遇します。
背後には、アジア(日本)市場を巡るイギリス・オランダのプロテスタント連合とポルトガル・スペインのカトリック連合との対立・角逐があるのでしょう。
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いろんなエピソードは有名すぎて省略。何故名を三浦としたか。「八重洲」の起源・・・・。
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ただ、もう少し調べる必要がありますが、按針の日本人の奥さん(つまり現地妻)は江戸伝馬役馬込勘解由の娘「雪」とあるそうですので、非常に偶然ですが、このエントリの下にある本日UPしたエントリのうちの「1758年11月」の項目に同じ名前「江戸伝馬役馬込勘解由」があります。
按針さんに現地妻を差し出した「馬込勘解由」さんが、「御伝馬方旧記」に出てくる「馬込勘解由」さんより何代か上だったようです。
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按針はたまたま平戸にいて病没(56歳)するそうですが、本国の家族、現地の家族ともにきちんと遺産分与したそうです。


1758年(宝暦8年) モーツアルト(3歳)はフランス革命世代

■1758年(宝暦8年) モーツアルト3歳
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5月6日
・仏、マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール、ベルギーに近い北部フランス・アルトワ州(現在のパ・ド・カレ県)で弁護士の長男として誕生。
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5月6日
・仏、アンドレ・マッセナ(後、ナポレオンの元帥)、ニースでワインの貿易商の家に誕生。
幼い頃に両親を失い、石鹸製造業を営んでいた叔父に育てられ、13歳の時に家を出て、キャビンボーイとして船に乗り込み住み込みで働く。
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5月8日
・プロイセン・フリードリッヒ2世軍、オルミュッツ包囲
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6月23日
・プロイセン軍、クレフェルトの戦いでフランス軍を破る。
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7月20日
・郡上一揆。幕府、郡上金森藩の本格的な調査を開始。
老中酒井忠寄は、寺社奉行阿部伊予守を長とする詮議掛(裁判官)5人を任命し石徹白騒動とともに郡上一揆について郡上金森藩を詮議。
7月21日~12月25日、殆ど毎日裁判。取調は幕府側(老中・若年寄・三奉行)、郡上藩(藩主金森頼錦・藩役人)、美濃国郡上郡・越前国大野郡石徹白村の村人数百人に及ぶ。また、審議には、将軍徳川家重の側衆である田沼意次も参加。
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7月22日
・宝暦事件。京都所司代、公家へ尊王論を講義していた尊王論者竹内式部を捕縛。
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7月26日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。英軍アマースト将軍、ヌーヴェル・フランスの要塞ルイブール(ルイスバーグ)を奪う。
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8月26日
・郡上一揆。身を隠していた前谷村定次郎(駕籠訴人)・切立村喜四郎(同)・前谷村吉良治(歩岐島騒動の際江戸へ逃亡)・切立村吉十郎(同)の4名、箱訴が無駄になることを心配して北町奉行依田和泉守の役宅へ訴状をもって訴え出て(駆込訴)、直ちに入牢。
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9月3日
田沼意次、加増(1万石となる)されて大名となり、評定所へ出ることを許される。いよいよ幕政に参画。
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「そもそも田沼意次は専左衛門意行(オキユキ)の嫡子として、素(モト)は紀州の士であった。専左衛門意行、和歌山において吉宗に召使われ、吉宗が八代将軍となった時に、付いて江戸に来たのである。そうして享保九〔一七二四〕年に叙爵して、主殿頭(トノモノカミ)となった。十年を経て、意次は西丸の御小姓(オコショウ)となった。享保二十〔一七三五〕年意行が死んで、意次が家を嗣ぎ、家重に事えて、宝暦元〔一七五一〕年に御側衆となった。八〔一七五八〕年の九月には万石の家となって大名に列し、宝暦十二〔一七六二〕年に五千石を加えられて、一万五千石となった。これからその才を現わして、明和四〔一七六七〕年には御側御用人となり、また加増せられて二万石となり、遠州相良に城を築いて、城主の列に入れられたのである。六年には老中の格となって、さらに五千石を加えられ、なお、奥勤故(オクヅトメモト)の如くいたしておった。安永元〔一七七二〕年には、本格の老中となって、さらに五千石を加えられ、その後もしばしば封を加えられて遂に五万三千石にまで昇った。天明三〔一七八三〕年に、その子の意知(オキトモ)は若年寄となり、父子相列んで要路に当って、天下の政治を自由にした。」(辻善之助「田沼時代」)。
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9月3
・ポルトガル国王とポンバル侯暗殺計画、露見。ポンバル侯、これを口実に大貴族1千以上逮捕、弾圧。
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9月25日
・モーツアルト従姉妹マリア・アンナ・テクラ・モーツァルト(ベースレ)、誕生。
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9月29日
・英、ネルソン提督、ノーフォーク、バーナムソープに誕生。
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10月29日
・郡上一揆関連の役人への判決。
老中本多正珍をはじめ、若年寄・勘定奉行・笠松代官(青木次郎九郎)免職、他に幕府役人も多数処罰。笠松代官の青木次郎九郎には役職権限外の口出しを理由に免職。藩主金森頼錦は領地没収・お家断絶。金森藩重役も重罰(渡辺外記;島流し、粥川仁兵衛;島流し、根尾甚左衛門;死罪、片重半助;死罪)。
百姓一揆が原因で老中など幕閣や藩主が免職や改易になったのは江戸時代でこの事件だけ
12月25日、農民側判決。死罪14。既に詮議中の獄死21。他に手鎖・遠島・重追放10。
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美濃八幡城主金森頼錦は、「領民ヲシテ暴歛苛法ニ苦シメ、騒擾セシムルヲ以テ封除セラレ」(「徳川除封録」)とある。
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この月、岩村藩藩主松平乗薀が郡上八幡城を預かり、12月、丹後国宮津藩青山幸道4万8千石が入る。
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11月
・「五海(街)道」に関する記述。道中奉行所御勘定谷金十郎が尋ねられて、江戸伝馬役馬込勘解由に回答。
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「一、五海道と申す儀、何れの海道を申し候哉と御尋ね、道中奉行所にては、 五ケ宿と申す儀度々承り候得共、何れの海道を以て五ケ宿と申し候哉、存 じ奉らず候、東海道・中山道・日光海道・北陸道、右を海道の様に覚へ居 り申し候得共、此の儀も五海道の内に御座候哉、聢と申上られず候、尚又 壱ケ所の儀何れを申し候哉、存じ奉らず候旨申上げ候。・・・ 
一、右五海道の訳、同月十七日道中方御勘定谷金十郎殿え承合ひ候処、左の通り御支配共相知り候に付、同月十九日書付右御番所え持参差上げ候得ば、 上げ置き候様仰渡され候事。 
一、東海道 品川より守口迄 美濃路 名護屋より大垣迄 佐屋廻り 岩塚より守山迄 
一、中山道 板橋より守山迄 
一、日光道中 千住より鉢石迄 壬生通り 板橋より岩淵迄 水戸佐倉道 新宿より松戸迄 
一、奥州道中 白沢より白川迄 
一、甲州道中 上高井戸より上諏訪迄 右五口五海道と申し、道中御奉行御支配に御座候、以上。
 寅十一月 大伝馬町 馬込勘解由」(「御伝馬方旧記」)。
5街道の起点である江戸日本橋の伝馬所の記録。
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5街道の呼称(表記):
正徳6年(1716)、中山道は東山道の内の中筋の道であるので「中山道」というべきで、中仙道は適切でないとする。また奥州海道、日光海道、甲州海道は、海のない国を通るのに適した呼称でないので、「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」とすべき、とする。
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「東海道五十七次」:
東海道は江戸日本橋~大坂高麗橋間をいい、宿場は江戸~京都間53次で、京都~大坂間にも4ヶ所に設けられている。合わせて57次ある。
この年の「御伝馬方旧記」には「東海道 品川より守口迄」とされている。また、天保14年(1843)、幕府が東海道の各宿場の人家数などを調査した「東海道宿村大概帳」には、品川~大津53宿と伏見、淀(京都)、枚方、守口(大阪)の4宿が記載されている。従って、東海道は江戸~大坂間をいうことは間違いはない。
では「東海道五十三次」とは? 
一般に、江戸~京都間を旅する人が多く、また、京都~大阪間については、大阪へは伏見から船で淀川を下り、京都~大坂間の4宿は上り中心の片宿となり、他の53宿と比べ利用する人々は少なかったようだ。江戸後期、広重の「東海道五十三次」がベストセラーになるなど、東海道は公的には57次の機能を持ちながら、一般には53次として定着していったと推測される。
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日光道中と奥州道中は、古くから奥州街道と云うが、日光に東照宮があるところからこれを区別している。①日光道中は、千住~鉢石(日光の手前)の21宿、②奥州道中は、白沢(日光道中宇都宮宿の先き)~白河宿の10宿。
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12月25日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。英フォーブズ准将、デュケーヌ砦占領。ジョージ・ワシントンは3旅団の1つを率いる。フォート・デュケーヌは英宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名。
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ワシントンはイングランドに属する者として戦い、帝国での出世を願うが、植民地軍将校は無価値と悟る。新進将校として勇名を馳せ、マーサ・ダンドリッジ・カスティスという若い裕福な未亡人と結婚。実兄夫妻が相次いで没し大土地所有者となる。
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[モーツアルト世代=フランス革命世代]
この年表は、モーツアルトが生まれた1756年1月27日から始まり、幼・少・青年期のモーツアルトの足跡を辿ろうとして始めました(今のところ、未だ主人公は誕生日以外出てきていませんが・・・)。
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ただこの年(1758年)もそうですが、後にフランス革命に登場する人物がかなり誕生してます。モーツアルトは、生まれはザルツブルクなんですが、世代としてはフランス革命世代なんですね。
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モーツアルトの作品にあらわれる、貴族に対する揶揄、批判などを指して、モーツアルトの業績に「音楽の市民革命」・・・云々を挙げられる方もおられますが、それは正しいとしても、要はそういう時代であった、或いはそういう雰囲気のする時代であったということなんでしょうかね。
モーツアルト一人が「音楽の市民革命」を標榜しても、それを受け入れる土壌(聴衆=市民)がいないと、成立しえない訳ですから。
モーツアルトの才能をもってしかそれをなし得なかったという側面はあるにしても、です。
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という訳で、モーツアルト誕生前後のフランス革命関係者をあげると・・・(一部重複)。
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1754年2月12日
・仏、シャルル・モーリス・ド・タレイラン、パリに誕生。宮廷貴族の長子。政治家・外交官。1789~1838年の全ての政権に仕える。
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3月17日
・仏、ロラン夫人、パリに誕生。
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7月31日
・仏、ボン=アドリエン・ジャンノ・ ド・モンセイ(後のナポレオンの元帥)、ブルゴーニュ地方ドゥー県で誕生。中流家庭の貴族、ブザンソン市地方議会法律事務官の家庭。
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8月23日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間に第3男ベリー公ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)、誕生。
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1755年5月11日
・仏、ジャン・バプティスト・アンドレ・アマール(弁護士、国民公会議員、保安委員)、グルノーブルで裕福な毛織物商の家庭に誕生。
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6月24日
・独、ジャン・バプティスト・"アナカルシス"・クローツ(ドイツ人活動家、哲学者、無神論者、非キリスト教化運動提唱者)、ライン河畔のプロシア領で裕福な貴族の家庭に誕生。1792年8月フランスに帰化。国民公会議員。のち処刑される。
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9月4日
・スウェーデン、フォン・フェルセン伯爵、誕生。マリー・アントワネットの愛人。
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9月10日
・仏、ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザック(平原派政治家、モンターニュ派協力者)、タルブの名家に誕生。高等法院高級官職を望むが地方出身者ゆえに道を阻まれ、トゥールーズで弁護士となる。
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10月25日
・仏、フランソワ=ジョセフ・ルフェーヴル(後、ナポレオンの元帥)、オー・ラン県ルーファで誕生。父は軽騎兵連隊に所属する軍人(貴族ではないので、士官にはなれない)。
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11月2日
・墺、マリー・アントワネット、墺女帝マリア・テレジアと夫フランツ1世の間に末娘としてウィーン・シェーンブルン宮で誕生。
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11月17日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間に第4男プロヴァンス伯爵ルイ・スタニフラフ誕生(後のルイ18世)。  
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1756年6月10日
・ピエール=ジョセフ・カンボン(平原派の政治、「財政のロベスピエール」)、モンペリエで裕福な綿織物商人の家に誕生。
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6月24日
・仏、テオドール・ド・ラメット4男)、パリで誕生。ピカルディー地方の帯剣貴族、父ルイ・シャルル・ド・ラメット侯爵。 
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1757年10月5日
・仏、シャルル・ド・ラメット(三頭派政治家、5男)、パリで誕生。
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10月19日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間にアルトワ伯爵シャルル・フィリップ、誕生(後のシャルル10世)。
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10月21日
・仏、シャルル・ピエール・フランソワ・ オージュロー(後、ナポレオンの元帥)、パリ市フォブール・サン=マルソーで誕生。煉瓦工と果物露店商を営むドイツ系の貧しい家庭。 
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11月15日
・仏、ジャック・ルネ・エベール(サンキュロット主義者)、アランソンの金細工師の親方の息子として誕生。
to be continued 

2009年3月26日木曜日

京都のいしぶみ 平安京内裏待賢門跡


待賢門跡は、上京区の大宮通椹木町通辺りらしいのですが、このいしぶみは、何故かそこからは少し離れたところにあります。
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自宅前に歴史遺跡址のいしぶみを置く方は、その管理などご苦労多いことと思います。費用なんかどうなってんでしょうか。
前回掲載した検非違使庁跡のいしぶみを置いておられる方は、写真でも判ると思いますが、とてもきれいに管理されてまして感動しました。
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前回掲載後、チョコチョコっとネットで遊んでましたら、長年の願望であったこの検非違使庁跡のいしぶみに会えて、感激のあまりそれを撫でてきたという方(女性だったか?)もおられました。
私もご同様いしぶみフェチですが、そこまではやらず、ただ何枚かの写真を撮らせていただくだけです。
しかし、注意しなきゃと自分なりに気がついたのは、この検非違使庁のいしぶみ写真の場合、遠景のものも撮ったのですが、いしぶみと駐車場が隣接していて、知らずにこれを置いておられる方の車の番号まで撮ってしまいました。失礼しました。
勿論これを掲載するなどというバカはしません。
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【訂正】
以前に方言(「へんじょこんご」)のことを書いた折、女性作家の「富岡多恵子」さんを間違って「河野多恵子」さんとしてしまいました。どちらも大阪のご出身です(しかし、タイプはかなり異なります)。
その際、書名不明としましたが、多分「歌・言葉・日本人」という本かもしれません。
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訂正ついでに・・・。
以前、ノーマ・フィールドさん「小林多喜二」(岩波新書)に関し、便乗臭くてまだ読んでませんと、書いてしまいましたが、これは何と不遜な言い方をしたかと反省と訂正。
書いた直後に、購入して読み始めていますが、すごくいい本です。
多喜二を捉える自分の視点というかポジションが明確です。
膨大な時間をかけて、資料分析のみならず小樽に住んでまでして、きちっと多喜二と作品に寄り添ってられます。
昨日の「朝日」朝刊にもインタビュー記事がありました。

天文5(1536)年(3) 天文法華の乱 [信長3歳]

■天文5(1536)年(3) [信長3歳]
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今回は天文法華の乱に絞り込んでの掲載とします。
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7月27日
・天文法華の乱

比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、早朝、四条口から京へ乱入、各所に放火。洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上。
あおりを受けて、上京一帯が焼け、革堂行願寺、百万遍知恩院、誓願寺(浄土宗)も炎上(「御湯殿上日記」同日条)。この頃、誓願寺近辺には、千本釈迦堂末寺の末寺の栢尾閻魔堂引接寺(浄土宗)再興のための勧進所(募金集め場所)があり、これも類焼。
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京都の町衆に日蓮宗が流行し、この年3月の宗論では洛中で叡山の天台僧が日蓮僧に説破され、叡山など旧仏教側の日蓮宗への反撥強まる。
一条烏丸観音堂での山門に属する華王房の説法に法華宗松本新左衛門久吉が宗論を申し懸け、華王房を論破(松本問答)。これを契機に、延暦寺は三院集会を開き、洛中の法華寺院退治を決議。
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一方、この前後、町衆は大規模な地子不払い運動を展開。
茨木長隆らは、山門衆徒・近江六角軍に檄を飛ばし、山僧は諸権門に働きかけ、権力側による日蓮衆徒包囲戦線を結成。
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京都の都市住民は、一方で細川晴元政権に妥協しつつも洛中から荘園領主権力を排除し、新たな都市共和制とでもいうべき自治体制を模索。
しかし、
①度重なる一向一揆殺戮・郷村焼打ちによって周辺農村から全く孤立し、
②洛外代官請・洛中地子末進等により諸荘園領主、ひいては晴元政権の猜疑を受け
③この年3月の宗論によって旧勢力挙げての大弾圧を受ける。
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以降、町組・町衆による自検断・在地裁判権行使はなくなる
晴元政権崩壊の天文18年までは、茨木長隆ら晴元の奉行人や山城守護代木沢長政、山城下5郡郡代高畠長信・同甚九即、幕府侍所開闔松田頼康・同盛秀らが洛中の検察にあたる。
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「四(ヨツ)の時分に、三条のきぬ屋(ヤ)破れて下京悉く焼く。東よりも出で、声聞師村焼きて、報恩寺に陣取る衆逃げうせて皆討たるゝ。悉く落居してめでたしめでたし。武家より・・・日蓮退治めでたきよし申さるゝ。」(「御湯殿上日記」この日条)。
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8月19日
・将軍義晴、本願寺証如(光教)と和睦。寺領山科を還付(「石山本願寺日記」)。
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8月29日
・細川高国の部将三宅国村、摂津天王寺に於いて細川晴国を自刃に追い込む。
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9月24日
細川晴元、芥川城より京都入り。将軍義晴に謁し、名実ともに幕府執政となり、管領に相当する政治的地位を継承。翌年8月、右京大夫に任ぜられ、足利義晴の偏諱を受けて晴元を名乗る。
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大永7年(1527)、堺に上陸して以来、おおむね畿内の政治的実権を掌握していたが、ここに至って初めて中心地京都に座をすえ、将軍を擁する安定的位置を占める。
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晴元政権の政策変更。
一向一揆は沈黙し、法華一揆も崩壊し、畿内の動乱は小康状態に入り、晴元政権の基盤となる諸勢力のうちでは木沢長政・茨木長隆らに代表される畿内、とくに摂・河・泉の国衆の比重が大きくなる。
入京前の晴元政権は、京都近郊の軍事拠点獲得のため、欠所とした権門の所領を家臣団に宛行い、戦国大名化の政策をとっていた。
荘園制は解体の最後の段階にきているが、入京後は、晴元および国衆らは荘園の全面的解消を抑え、京都の諸権門を一定度保護・温存する政策を採用。これにより、大徳・妙心・竜安寺などの禅院は、加地子得分を集積し、近世的禅寺へ成長して行く。
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①茨木長隆:
細川氏の奉行人であると同時に、春日社領摂津国垂水西牧南郷(豊中市)の給人を兼ね、また大徳寺領洛中土御門四町町の代官職をも入手するなど、一面では代官職・名主職を通じて荘園制的収取機構に寄生する性格も併せ持つ。晴元政権の性格は、摂津国衆と在京権門の連合政権と定義づけられる。
②三好長慶:
阿波国人の出身ながら父祖之長・元長らが畿内に扶殖した地盤を引き継ぎ晴元に帰参し、重んじられ、越水城(西宮市)に居城し摂津下郡の守護代に補任されたと推定される。
③木沢長政:
天文元年以来山城守護代であるほか、天文10年の史料によれば山城上3郡・河内半国でも守護代職を帯び、大和の一部でも守護代に準ずる地位にあったと推定される。従って、三好長慶・木沢長政は、勢力相桔抗し、いずれは反目・対立せざるをえない運命にある。
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閏10月7日
・細川晴元政権による日蓮宗残党追求。
法華宗徒の集会、洛中洛外徘徊、還俗転宗を厳禁(「本能寺文書」)。晴元の管領代飯尾元通の下知。
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「定 
一、日蓮党衆僧幷集会(ジョウエ)の輩、洛中洛外徘徊に於ては、御意を得成敗を加うべし。彼僧を還俗せしめ或いは他宗に相紛るゝ族あらば、同罪たるべし。然る上は、彼等許容に於ては罪科せらるべき事。 
一、日蓮午王(ゴオウ)幷推札家の事、隣三間開所(ケッショ)に行なわるべき事。 
一、日蓮衆諸党諸事再興停止の事。 右条々、違犯の輩有らば罪科に処せらるべき者なり。仰せに仍て下知件の如し。 
天文五年閏十月七日          上野介(飯尾元連)三善朝臣在判」(「本能寺文書」)
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11月28日
・堅田本福寺の明宗と子の明誓、山科・大坂の防衛などに活躍するが、下間頼盛に同心したとの理由で破門に処せられ通告を受ける。
本願寺と六角氏の和平条件の一つ、追放した下間頼盛に同心という表面的な理由を附して、その犠牲に供される。
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前年、軍事的に不利となった本願寺の滅亡を避けるため証如は、主戦派の下間頼秀・頼盛を追放し、興正寺蓮秀の主導権のもとに細川晴元と和議を結ぶ。
また、翌年11月12日、六角氏との和議が成立するが、この条件に近江門徒の追放の問題があり、証如は、六角氏と講和し近江の通路を開くことの重要性を優先させ、止むなく近江門徒の追放を承認し、12月1日に六角定頼に書状を送る(「天文日記」)。
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破門、そして長・年老による寺ないし惣有財産の差押えというなかで、明宗は1540(天文9)年に餓死、子の明誓は、「田地ヲ買ツケントオモハゝ、他村ノ他宗ニアツケラルヘシ」とし、本福寺に背反した長・年老を批難。
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▽[ここに至るまでの経緯]
細川晴元政権内部の摂津国衆(茨木氏)と阿波国衆(三好氏)の権力闘争に、
②それらに利用される一向一揆(教団内部の闘争を孕みつつ)
法華一揆(自立を志向する京都町衆)との対立・抗争が絡む。
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[一向一揆を利用した摂津国衆(茨木長隆)の阿波国衆(三好元長)追い落とし]
享禄4年(1531)、大物崩れの戦いで細川高国という共通の敵を亡ぼして以後、摂津国衆と阿波国衆を代表する茨木長隆・三好元長の対立が表面化。
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兵粘線が延び切って糧道確保に苦しむ阿波軍は、京都近郊で劫掠し、これは京都町衆の抵抗を招き、荘園体制維持を前提に京都支配を目ざす茨木長隆ら摂津国衆との離反を深める。
長隆にとって、三好元長ある限り山城郡代を配下に納めえず、荘園領主に対する奉書発給の報酬(礼銭=賄賂)を中間で搾取されることになる。
しかし、摂津国衆は単独では三好軍に対抗しえず、2万或いは20万騎(「言継卿記」)と称される一向一揆を引き込む事を画策し、本願寺坊官下間氏と姻戚関係にある茨木長隆や摂津守護代家の長塩氏らの口人でこれに成功。
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享禄5年(1532)6月、一行衆門徒10万は河内の飯盛城に畠山義堯(ヨシタカ)攻め亡ぼし、6月20日、堺の顕本寺に三好元長を包囲、自刃させる。阿波国衆はあらかた敗死し、将軍跡目足利義維、元長の幼子千熊丸(20年後に畿内を制覇する三好長慶)らは阿波へ逃れる。
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これが、第1次石山戦争、天文法華一揆の序幕となる。
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[第1次石山戦争]
晴元政権から阿波国人色が一掃され、茨木長隆と、三好一族の中で比較的穏健派で京都の権門にも通じる三好政長が大きな勢力を持ち、本拠を堺から京都に移す構えを見せるが、この前に大きな障害、地上に法王国を築こうとする熱烈な信仰心に燃えた真宗門徒(一向一揆の農民たち)が立ちはだかる。
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一向一揆勢は、山科に本山を構える法主証如光教ら上層の意向と関わりなく急進化し、各地で国衆・荘園領主に対する農民闘争を展開
享禄5年(1532)7月17日、奈良の富裕な町衆を中心とする一向一揆により、菩提院等の興福寺塔頭が炎上(「後法成寺尚通公記」同日条、「二水記」同日条)。
ついで同年(改元され天文元年)8月5日、本願寺門徒は摂津池田城を包囲(「細川両家記」)。
門主証如(17)は、国衆を中心とする武士等の世俗領主との対抗方針を採用しないが、過激化した門徒エネルギーの抑制は不可能となり、山科から大坂石山道場に出張して指揮をとり、摂・河・泉の門徒を動員。
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晴元政権は、京都代官として在京の茨木長隆が急遽堺に下向し、河内守護代木沢長政に堺近郊の真宗浅香道場を焼き打ちさせ、一方、証如光教自ら号令する一向宗徒の堺攻撃(「経厚法印日記」「後法成寺尚通公記」「二水記」)に対抗して、現地で諸宗僧徒を動員。
また、朽木谷の足利義晴からも京都の日蓮宗寺院へ檄が飛ぶ(「本満寺文書」)。
一向一揆の手を借りて畠山義尭・三好元長打倒を画策した管領代茨木長隆白身も、彼らの鋒先が自分たち権力層に向けられるようになり、あらゆる階層の支配勢力を動員してその弾圧に狂奔する
長隆は「諸宗滅亡この時たるべきか」と自らの周章を語り、京都の公家たちは、「風聞の如くんば、天下は一揆の世たるべしと云々。漸く然るが如きか。末世の躰たらく、嘆くべし嘆くべし」(「二水記」)、「天下はみな一揆のままなり。愁嘆愁嘆」(「言継卿記」)と、その感慨を記す。
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[町衆の自治]
一方、大永7年(1527)秋頃から、近江に亡命中の足利義晴・細川高国らが入京し、京都は洛中支配に乗り出す足利義維・細川晴元らの堺公方軍との勢力伯仲状態となり、堺公方軍と公家・町衆の間でトラブルが生じていた。
この時点では、公家・町衆は親幕府の立場をとり、共同して堺公方府の軍事行動に対応。
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町衆の結束の典型は、同年末の一条畳屋襲撃事件
東寺に布陣の義晴・高国連合軍に対峙して洛中を支配下に置く柳本・波多野・三好ら堺公方側の軍兵は、この年11月、高国与同の公家衆庶の第宅を闕所処分にするため乱入を繰り返し、11月26日、刑部卿入道某の宿所に波多野稙通の軍兵が押し入る(「実隆公記」同日条)。
公家・町衆は、釘貫や「かこい」を築き堺軍の乱入に対し防衛措置を施すが、同月29日、三好元長の軍勢は一条烏丸の畳屋を襲撃する。この時、近辺の町衆2~3千が群集して三好軍を撃退する。
また同日夕刻、堺の軍勢は武者小路の下級公家である行方(ユキカタ)の宿所に押し入る。この時もまた、町衆は結束を固めて阿波軍を追い返す。翌日には、大軍が報復に押し寄せるとの噂が流れ、山科言継らは「ちゃうのかこい」や「つし(辻子)の口ニかまへ」をますます厳重にする(「言継卿記」12月1日条)。
その後も堺方の諸家押入は止まないが、町衆らは革堂(コウドウ)の早鐘をつき、鬨の声をあげて、上下京の町人を糾合して三好・柳本軍に抵抗。
このような町衆の軍事的行動は、永正8年7月、上京町人が「打廻」と号して示威行進するまでに至る(「実隆公記」7月18日条)。
享禄2年(1529)正月と7月にも、柳本新三郎や柳本修理・松井某らが違乱を加えるが、正月の場合、町衆数百人が柳本の兵士を包囲し、土蔵衆の高屋弥助らが放った矢によって柳本軍の兵3人死亡・8人が負傷。この時、公家衆は20家以上200人が駆けつける。この様に、町衆の自衛的団結が次第に形成されてゆく。
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その後、晴元政権の畿内支配が洛中にしだいに浸透してくると、町衆は晴元の京都代官木沢長政らの指揮下に軍事行動を起こすようになり、享禄3年(1530)未頃には、洛中を抑えている木沢指揮の軍隊を、公家は「下京衆」と呼ぶようになる(「宣胤卿記」享禄4年正月2、21、28日条他)。
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天文元年(1532)、一向一揆が勃発すると、これら町衆の軍事行動は法華一揆に代表されるようなる。
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法華一揆の初見は、「六条本国寺今日柳本徒党その外京中町人等相率い打廻これあり。その勢三四千人と云々。惣別(ソウベツ)一向衆として今度法華衆に発向すべきの由風聞、よって本国寺用害馳走、奇異の事なり。」(「二水記」天文元年8月7日条)とされる。
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また、石山本願寺攻撃後、天文元年9月26日、山崎で一向一揆と戦った際の状況は、
「六角堂の鐘、撞き候。何事どもか知らず。今夜、山サキの彼方、ヤク候ツル。残リ候法華町人トモ、東寺のアタリマテ、ウチマハリシ候。」(「祇園執行日記」同日条)、
「この間、山崎辺において一揆と合戦これあり。薬師寺備後は小勢なり。よって京勢、少々合力す。しかりといえども、一揆衆の猛勢、恐怖なりと云々。町人、日々集会の鐘を打つ。上京は革堂の鐘、下京は六角堂なり。終夜終日、耳に針す。」(「二水記」同日条)、
とある。
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このように、法華一揆は、大永7年(1527)以来続く町衆の自治的軍事活動に注目した幕府・晴元政権(畿内武士勢力)が、一向一揆弾圧に利用するために日蓮宗の師檀関係によって結成させた政治・軍事的組織といえる。
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[石山本願寺滅亡]
こうして糾合された反一向一揆連合(叡山衆徒、近江守護六角氏、洛中の法華寺院など)は、天文元年8月23日、山科本願寺を包囲。
翌24日、一宇も余さず焼き払い(「祇園執行日記」「経厚法印日記」、これにより「寺中広大無辺、荘厳只だ仏国の如し」(「二水記」)と称された一向一揆の本拠山科の寺内町は姿を消す。
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しかし、真宗門徒らはこれにも屈せず、本拠を大坂石山に移して戦闘を続行、摂津下郡(伊丹・豊中市付近)一帯は戦場と化す。
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天文元年12月、摂津国衆は反撃を開始、摂津上郡(高槻・茨木市付近)の国衆は富田道場一帯を焼き払い、同日、下郡では池田・伊丹両氏が下郡の全ての真宗道場を悉く放火という。この為、大物崩れの戦い(1531年)以来、淀川中下流~武庫川流域一帯が焦土と化し、近辺に所領を有する公家には遁世する者まで現れる(「実隆公記」)。
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以後天文2年まで続く全支配階層と農民一揆の対決の中で、晴元政権は法華一揆に結集した京都町衆のエネルギーを利用する
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滅亡後の山科本願寺の遣領は、一向一揆弾圧に参加した諸勢力に恩賞として与えられる(「経厚法印日記」天文元年8月28日条)。
また、義晴・晴元の和睦も成り、天文元年11月には、中絶していた室町幕府は再興され、茨木長隆は初めて「室町幕府管領代」となる。
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[天文法華一揆と町衆]
石山に立て籠った一向宗門徒は頑強に抵抗し、天文2(1533)には形勢は逆転、殉教の意気に燃える真宗門徒は大坂から晴元の駐屯する堺に進出し攻撃。
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細川晴元・茨木長隆らは、支えきれず、2月10日淡路島へ脱出。以降、晴元が再び上陸し、摂津池田城に入城する4月7日(「細川両家記」「本満寺文書」)までは、畿内は無政府状態となり、洛中は少数の木沢長政(河内守護代、茨木長隆被官)の軍が駐留するほかは、町衆を主体とした法華一揆(日蓮宗門徒)の自検断が支配
京都が真に自由都市になった期間は、この天文2年2~4月の間といえる。この間、町衆は市内において真宗僧侶を逮捕し、一向一揆のスパイとして死刑に処す(「実隆公記」同年2月14、15日条)など、完全に京都の警察権を掌握。
「今日、町人、下京を打ち廻わり、時の声を揚ぐ。昨今、法華衆、同じく檀那等、諸道具をまた持ち運ぶと云々。はなはだもって物惣(ブッソウ)なり。」(「二水記」天文2年2月13日条)。
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しかし、京都の周囲は一向一揆の農民軍が取り巻いている。
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4月、京都町衆が法華一揆として晴元軍と呼応し、摂津に進出すると戦線は膠着、細川晴元・茨木長隆らは池田から摂津上郡の要害芥川城に入り、淀川を挟み中島・石山の一向一揆と対峠。
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この頃から徐々に晴元の権力が再び京都に浸透し始めるが、晴元軍側に立つ京都の日蓮宗徒(法華一揆)の軍事力は、侮りがたく、政権内において日蓮宗徒=町衆の勢威は上昇
天文2年末には、室町幕府は京都の防衛を法華宗寺院に命じ、京都の権門は日蓮宗(特に本能寺)の干渉を恐れ(「実隆公記」)、天文元年末には先例を破り、日蓮衆徒が禁中に参内(「実隆公記」)する事態にもなる。
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だが、法華一揆の勢力は、洛中に限られ、洛外の農村は一向門徒の農民も多く、法華町衆の上層部は、洛外農民が一向一揆を組み、土一揆となって町を襲撃する恐怖を抱いている。富裕な町衆(大森・角倉んどの豪商)は高利貸しとして土倉を営んでおり、徳政を要求する農民の一揆に怯えている。
故に、日蓮宗寺院上層は木沢長政・茨木長隆ら権力層に接近し、洛外の農村や被差別民集落を攻撃し、権門による分裂支配の呪縛から抜け出ることができていない。彼らは反農民的で、晴元政権に協力して農民闘争を弾圧している。
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[地子不払いと法華一揆壊滅]
石山攻撃の主力となり、一向一揆の猛威から晴元政権を救ったのは法華一揆であるとの自負が京都市民のに広がり、下層町衆を中心に大規模な地子不払い運動が広まる(「鹿王院文書」ほか)。
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地子は元来、荘園領主に納入するもので、幕府や晴元政権には地子免除権限はなく、従って地子未進は必ずしも反権力闘争とはいえないが、大がかりな地子不払いは荘園体制崩壊を招く恐れがあり、なお荘園制に依存寄生する摂津国衆や茨木長降ら支配層の好むところでない。
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ここに至り、晴元政権は法華一揆排除を決意。天文5年(1536)3月、日蓮宗と天台宗の間の宗論がおこり、叡山を中心とする旧仏教側の日蓮宗に対する反発が高まる。
これを奇貨とした茨木長降らは、山門衆徒・近江六角軍などに檄を飛ばし、今度は反日蓮宗戦線を結成、7月27日、大挙京都に侵入、日蓮宗寺院を悉く焼き払い、法華信徒を虐殺、京都の町街は大部分が灰燼に帰す。
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このように晴元政権に対抗しうる諸勢力は、茨木長隆の巧妙な策謀により、次々と抹殺され、対抗勢力が抹殺された天文5年秋、細川晴元は芥川城から京都に入り、将軍義晴に謁し正式に管領となる。日蓮宗以外の一般寺院に対しても、その門前検断権の衰退に乗ずるように、管領代の圧力が強化されてゆく。
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[茨木氏]
15世紀初期、細川氏が摂津を領国として以来の根本被官で、地理的にも摂津の中核に位し、春日社や興福寺領の荘園の給人(代官)を兼ね、荘園領主の受けもよく、細川高国の時代にも長隆の父祖は管領に内衆として仕える。
長隆は大永7年(1527)2月に柳本賢治軍が優勢になるや時流に逆らわずいち早く堺の晴元に帰参(「細川両家記」)し、三好政長ら阿波軍参謀に見込まれ管領代に抜擢される。
元来、管領代は文明年間以来、飯尾・斎藤氏ら伝統的な幕府奉行人の家系から選任されているが、初めて奉行人とは無関係の摂津国人茨木氏が管領代に列したことになる。
以後、長隆は若年の晴元を補佐し、天文18年(1549)の晴元政権崩壊に至るまで20余年間、京畿の中心的武将として活躍する。
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[その後の法華寺]
天文8(1538)年9月、堺の法華宗が幕府に京都還住を請うが拒否される。
天文11(1542)年11月14日、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、同15年から諸寺が帰洛をはじめ、15本寺が再興。
to be continued

2009年3月24日火曜日

京都のいしぶみ 検非違使庁址 義経の自由任官問題



所在地は、上京区葭屋町通出水上ル西側。大内裏に近接してあるのは、江戸城桜田門近くにある現代の「権力装置」と同じ。
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説明の看板。
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「平安京 検非違使庁址
東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、西を猪隈小路(猪熊通)、南を近衛大路(出水通)に囲まれた範囲は、平安京左京一条二坊七町にあたる。平安時代前期から中期にかけ、この地には平安京の「首都警察」であった検非違使庁が存在した。検非違使は弘仁六年(八一五)頃に令外官(リョウゲノカン)として創設され、当初は左右両庁に分かれていたが、天暦元年(九四七)にひとつに統合された。この左京一条二坊七町の地は、もとは左衛門府の一部であったが、分割されて検非違使の庁舎の敷地にあてられた。検非違使の職掌は警察、裁判、科刑に及んでいたが、時代を経るに従ってその役割は拡張され、やがては京内の行政全般にわたる広範な権限を持つにいたった。ただ、平安時代後期になると検非違使の事務は別当(長官)の私邸でおこなわれるようになり、左京一条二坊七町の庁舎は廃絶したのである。・・・」
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検非違使というと、義経の自由任官問題を思い出します。これが、その後の義経の運命を決定づける険悪な兄弟関係の遠因と云われている件です。
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義経は、一ノ谷合戦で平氏を破り京都に凱旋するが、この時義経は無位無冠であった。それが、「吾妻鏡」元暦元年(1184)8月17日条によれば、8月6日、左衛門少尉(サエモンノショウジョウ)に任官し、検非違使の宣旨を蒙ることになる。「玉葉」8月6日条では、「明日除書あるべし、九郎任官すべし」とある。
義経は頼朝に対し、自分が望んだ任官ではなく、後白河が義経の勲功に報いる為に「自然の朝恩」として与えたもので、自分は固辞できなかったと報告。
しかし、これが頼朝の「頗る御気色に違い」、義経は平氏追討使の任を「猶予」される(「吾妻鏡」17日条)。
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そもそも頼朝は、一族や御家人が朝廷に取り込まれる事を防ぐ為、自由に官職に就くことを禁止し、平氏追討の勲功賞は、後日に頼朝が「計らい申し上ぐ」としていた。
この年6月、頼朝の推挙により、範頼・広綱・大内義信が三河守・駿河守・武蔵守に任官しているが、義経は任官されず、範頼は自分が先に任官した事を喜んだといわれる(「吾妻鏡」6月21日条)。
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しかし、義経のこの自由任官問題以降も、義経は、畿内近国や西国についての頼朝代官としての権限を持っており、頼朝・義経の関係は「険悪」になっているとは思えない。
例えば、9月9日、頼朝は、これまで武士の沙汰ではない京内の平氏没官領の平信兼の所領を義経の沙汰とする。
また9月14日、頼朝の計らいで、河越重頼の娘が義経との結婚の為に上洛する。
11月14日、頼朝は、宇都宮朝綱・小野成綱など西国に所領を与えられた御家人達へ、所領をきちんと引き渡すよう、義経に命じている(12月20日、この件の義経の請文が鎌倉に届く)。
12月1日、頼朝は園城寺に平氏没官領から所領を寄進するが、園城寺は北条時政が帰依している寺院のため、時政は、所領寄進を間違いなく行い、衆徒の要望を粗略に扱わないよう、義経に頼み込んでいる。
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「頗る御気色に違う」というのは、自由任官に激怒しその後の関係悪化のもとになるというものでなく、単に「機嫌を損ねた」程度ではないか、というのである。
検非違使は、天皇に直属し、京都の治安維持を司る官職であり、この官職につく事は、朝廷に取り込まれたことを意味し、おまけにこの頃、検非違使左衛門尉を勤めているのは後白河側近ばかりであり、後白河側近になることを意味している。また、京都の治安維持が職務であるため、京都を離れる追討使の役を果たせなくなる。従って、頼朝は義経の追討使を「猶予」することになる。
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では「猶予」とは、どういう意味か。それは、解任のことかどうか。
解任された義経に代わって追討使になったと云われる範頼は、8月8日に鎌倉を出発(「吾妻鏡」同日)するが、この時点では、義経からの任官報告は鎌倉に届いていない。この時点では義経も追討使であり、範頼は義経に代わって追討使となったのではないことになる。
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「猶予」は解任ではなく、検非違使左衛門尉のままで追討使になることが可能かどうか、頼朝が朝廷や大江広元などに確認する為の「一時保留」ではなかったか、というのが近藤好和さん「日本評伝選 源義経」の見解です。

明治17(1884)年11月1日 秩父(16)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党、一斉蜂起

■明治17(1884)年秩父(16)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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11月(日付なし)
上海に東洋学館設立
この年7月、日下部正一、九州改進党員の宗像政・和泉邦彦・長谷場純孝が、「東洋学館趣意書」を発表。
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日下部は神風連に参加、征韓論で奔走、佐賀の乱を助けようとして敗れ、西南戦争で西郷軍に参加して降服、秋田監獄に1年余を過す。
その後、熊本の反民権政社紫溟会に属す。
この年2月清国に旅行、大阪事件の弁護人横田虎彦によると、彼は清国をみて、「到底今にして支那の一部を分割せざれば、支部の十八省は遠からず欧州諸強国の植民地と化すること必然なりと信じ、機に乗じ寧ろ一部分にでも分取せばやとの考を起し、他日機会に応ぜん為め一筒の学館を設け、続々壮士を送りで予め事ある日を待たんとの決心を為し・・・」、佐賀出身の大陸浪人山口五郎太や玄洋社平岡浩太郎とも結びついて学館設立を計画。
山口は途中、「最早や学校などを作りて間に合わぬゆえ一つ奮発せんか」「かうして居てはいけぬ。今は清国は仏国からもやられる所なれば、我より兵を出さん」と言う。
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この挙兵は、いわゆる福州組事件で、福州駐在陸軍中尉小沢豁郎を中心として大陸浪人が挙兵を図り実現せずに終った事件で、大井憲太郎、小林樟雄も日下部を通じてこの事件の計画に関係する。
小林によれば、事件の意図は、「朝鮮の独立其物に無形に関係し目的を達せんと欲する」もので、清仏戦争中の清国で挙兵し、間接的に朝鮮に対する清国の勢力を弱めようというのが目的。
東洋学館設立にはその後、小林樟雄、杉田定一、植木枝盛、末広重恭、中江兆民など民権家が関係する。
東洋学館設立・福州組事件も、ともにアジア侵略の動向に沿って生じたものであり、しかも国権主義者と民権家がともに関係する
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・川上音二郎、神戸大黒屋で仏教演説会。中止解散命令。
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・西多摩郡五日市地方の山林所有者たち、大上田彦左衛門・深沢名生・高尾道太郎らを総代に地租上納延期願を県令宛に提出。
11月30日までに11、12両年度の山林原野の地租納入の決定が下った為の延納運動。各地で活発な嘆願運動展開。
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・国会期限短縮建白書を起草。ただし、提出建白の日付は、明治18年4月。元老院受付は7月。
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・この頃、福田英子、築地新栄町にあるミッションスクール新栄女学校(女子学院の前身)に入学。~翌年4、5月。
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岡山から東京に出る。出るにあたっては、小林樟雄の紹介で自由党総理板垣退助に会って激励をうけ、ついで、自由党の運動や教育事業に資金援助を惜しまない土倉庄三郎から旅費50円、学資提供の約束も貰う。
上京後は、かねて板垣から紹介されている「自由燈」記者坂崎斌を頼る。英子は、ここで英語を学び、傍ら坂崎から心理学や、自由党の人々の思想的拠所の一つスぺンサーの社会哲学を学ぶ。
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・文部省、「民権数え歌」が小学生に歌われるのを取締るため宮城県などの知事宛に内達。
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11月1日
秩父蜂起。失うべき何物ももたぬ秩父の困民は、この日一斉蜂起する
死刑7人・重罪296人。
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・午前1時、松山警察署長吉峰警部、13名率い寄居町出発。
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・午前1時25分、県警本部長江夏警部長、寄居に向う途中で浦和の警察本部・岩槻・所沢・大和田・飯能各分署の全警官の出動命令を出す。
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・午前5時、県警本部長江夏警部長、寄居警察所到着。午前6時以降、本野上・小鹿野分署より急報届く。
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・午前6時、松山警察署長吉峰警部、皆野村で大宮郷警察署長斎藤警部と合同、計23人で出発。「永保社」打毀しの周三郎を追う。
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・朝、上州三波川村木下武平、4名率い秩父応援第3陣として秩父に向かい椋神社入り。
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・午前10時前、吉峰・斎藤警部隊、阿熊渓谷入り。新井周三郎・柏木太郎吉らの銃撃で下吉田村清泉寺に逃込む。
清泉寺の警官隊を攻撃した柏木太郎吉・影山久太郎、抜刀接戦により斬死。門平惣平が苦悶する太郎吉の首を切り落とす。巡査4負傷。
午前10時頃、警官は下吉田村戸長役場に退く。
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これより前、警官隊が阿熊の谷間を走るとき、巡査窪田鷹男が脚気の為に落伍、農家に匿われているところを戦死した柏木に捕えられ、周三郎と問答の末、斬られ、匿った農民も2日後に斬られ、首を晒される、とある。
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○柏木太郎吉・影山久太郎:
落合寅市遺稿にある血判密約に名を連ね、秩父国民党運動には早くから携わる。
「神奈川県柏木太郎吉ハ博徒ニシテ、加藤織平方ニ久敷出入致シ居リタル者」(「田代栄助訊問調書」)。
「柏木太郎吉ハ門平惣平卜縁故アル者」(「新井周三郎訊問調書」)。
「新志坂ニテ殺サレタル柏木太郎吉ハ、神奈川県坂村木挽其村ニテ、伯父ヲ刃傷シ、秩父ニ来り、石間村加藤織平ノ子分ナリシ者、二六歳」(「田中千弥日記」)。
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・午前12時、下鹿野分署の増援隊、下吉田村内での戦闘情報受け、清涼寺から下吉田戸長役場に移った吉峰警部と合流。警官の数は30余となる。
午後3時、織平・周三郎ら農民300が四方から役場を攻撃。警官隊は抜刀して、血路を開き脱出。逃げ遅れた青木巡査・秩父新道工事の県役人が捕虜となる
(青木巡査は椋神社迄連行。後、小鹿野~大宮郷~皆野と引立てられ、皆野で諭され新井周三郎の組に入る。11月4日新井に斬り付け殉職)。
午後5時頃、包囲の農民が椋神社に引上げる。
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風布村の貧農・炭焼渡世の宮下茂十郎(33、重禁錮3年)は巡査青木与市に石塊を投げ、この石塊を額に受けた青木巡査は捕虜となる。茂十即はこの功により、青木巡査のサーベルを委ねられる。
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埼玉県土木技師千葉正規、椋神社に連行され、菊池貫平より困民党参加を説得される。菊池は「現政府ヲ転覆スル革命ノ乱」と説明する。
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・午前12時、鎌田警部、寄居を出発、皆野村で増援来着を待つ。
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・午後1時、遠田宇市・坂本宗作・新井貞吉(23、寅吉息子)ら9名、上州勢の秩父応援第4陣として日野村出発。夜12時石間村加藤織平宅に着。蜂起軍を追尾し小鹿坂峠で追いつく(貞吉は後、信州転戦組に加わり十国峠捕虜巡査殺害事件で死刑)。
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・午後2時、門平惣平、阿熊村新井駒吉宅にいた田代栄助に警官隊との戦闘、敵味方死傷者を報告。椋神社への進出を促す。
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・午後2時、寄居に集結の警察官が40名に達した為、江夏警部長は、皆野村に向う。
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・午後2時、三条実美一行、館林通過。
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・貴布禰神社神官田中千弥の証言(「秩父暴動雑録」)。神官、中規模農家(負債あり)。
この日、畠に出ていたところ、午前11時、戸長役場から、非常事態のため巡査衆が大勢出張し、人夫を申し付けたので、得物を携え役場に集合するよう急報を受ける。
午後1時頃、家を出ようとすると、谷川一つ隔てた吉田往還を100人近い人数が白鉢巻、白襷、白い帽子をつけ、鉄砲組を前にして、槍、長刀、竹槍がこれに続き、吉田方面に押出して行く。
この耕地は誰も出ないことを申し合わせ、せがれを裏の山林に隠し、自分は現況を記録。
3時頃、4~5人が、「巡査共ハ残リナク片付タゾ、鉄砲大刀竹槍ナドヲ持テ椋神社へ出ヨ、出ザレバ焼払フゾ、早ク出ナイト片付ルゾ。」と怒鳴りながら上吉田へ走ってゆく。
4時頃、坂本宗作ら9名が近所の家から刀剣など強借。その時の暴徒の言葉。「今般自由党ノ者共、総理板垣公ノ命令ヲ受ケ、天下ノ政治ヲ直シ、人民ヲ自由ナラシメソト欲シ、諸氏ノ為ニ兵ヲ起ス・・・今般ノ役、運ニ叶ヒ勝利ヲ得バ金貨ヲ以テ厚ク謝セン。」
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「秩父暴動雑録」が述べる「暴徒蜂起原因」。
①高利貸営業が必然的に困民を発生させる。
②自由党の「妄言、困民ノ心ヲ結ビ、貧民党ニ混淆シ」、ついには暴動に至る。
③賭博者で、高利貸に金を借りるのも、彼らと遊惰のやからである。
④警察官吏が農村の窮乏に眼をおおい、高利貸説諭請願をはねつけ、困民が家庭で安心して生業にいそしむ方法を考えず、また暴発を防止する点でも無力極まる。
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・午後3時、石間村の主力が椋神社に向かう。石間の織平宅はこの日午前3時頃から農民100が集結、風布組も加わり、蜂起状態であった。
to be continued

2009年3月23日月曜日

思いがけなく桜を・・・








今年は桜の開花予想はどこも早めですが、わが町にも桜前線が到達したようで、今朝最寄駅までの道筋で思いがけなく桜を見かけました。

2009年3月22日日曜日

護良親王首洗い井戸  王子神社

建武2年(1335)7月23日、足利直義(尊氏の弟)の命令により鎌倉の東光寺で殺害された後醍醐天皇の第3皇子護良親王に関連する遺跡。



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①首洗い井戸
護良親王首洗い井戸
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②③その首が葬られたとする王子神社。
王子神社
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④護良親王とは全く無関係です。たまたま、①~③の近くにある。江戸時代の大山信仰に関するもので、東海道から別れて大山への道(大山道)の分岐点を示すもの。
大山信仰
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護良親王(1308~1335):
第95代後醍醐天皇(位1318~1339)の第3皇子、母は三位大納言北畠師親の娘の親子(しんし)。読み方について、昔は、「もりなが」と教わりましたが、「もりよし」が正しいそうです。
正和2年(1313)、6歳で梶井門跡三千院に入室。
元享3年(1323)、16歳で比叡山延暦寺にて出家、法名を尊雲(法親王)と称す。
正中2年(1325年)、門跡を継承して門主となる。
後醍醐天皇の画策により、嘉暦2年(1327年)12月~元徳元年(1329年)2月、同年12月~元徳2年(1330年)4月、2度に亘り天台座主となる。
また、岡崎の法勝寺大塔(九重塔)周辺に門室を置き大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれる。
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元弘の乱(1331~1333)に際し、父後醍醐天皇を助け延暦寺僧兵を纏め、赤松則祐・村上義光らと十津川・吉野・高野山などで幕府軍と戦い、諸方に令旨を発し、楠木正成らと鎌倉幕府倒幕行動をおこす。
倒幕後は、足利尊氏(高氏)と相容れず、上洛せず信貴山を拠点に尊氏を牽制。
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建武の新政では征夷大将軍・兵部卿に任じられて上洛。一方、六波羅探題を討ち倒幕の第一の功労者である足利尊氏は、鎮守府将軍・従四位下左兵衛督に任じられるにとどまる。
建武政権においても尊氏らを警戒し、縁戚関係にある北畠親房と共に東北地方支配を目的に、義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。 
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後醍醐天皇の寵妃の三位局阿野廉子にとって、還俗して皇位後継者となる護良は、自分が生んだ皇子たちの大きな障害とうつる。
利害が一致する尊氏と阿野廉子は共謀して、護良は謀反の疑いありと讒訴。
建武元年(1334年)10月、護良親王は伯耆守名和長年・結城親光らに捕縛され鎌倉に送られ、尊氏弟の左馬頭足利直義の監視下に置かれて、二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉される。
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「土牢」はコチラ(鎌倉宮)
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翌建武2年(1335)、鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男北条時行が信濃の守護代諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府復興の為に挙兵した中先代の乱が勃発。
鎌倉は北条軍に奪還され、幽閉中の護良親王は、時行に奉じられる事を警戒した足利直義の命により家臣の淵辺義博に殺害される。
「太平記」巻13「兵部卿の宮(護良親王)薨御の事」の段に、その模様が描かれている。
親王の首を切った淵辺は、その親王の目がまるで生きているようであったので、直義の許には持参せず、薮の中へ投げ捨ててしまったという。この為、非業の死をとげた親王の首にまつわる説話、伝承が各地に残ったそうです。
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親王は、藤原保藤の娘の南方(みなみのかた)に弔われたと伝えられ、南方と護良親王との間は鎌倉の妙法寺を開く日叡上人が生まれ、後に父母の菩提を弔う。
また、護良親王の妹が後醍醐天皇の命をうけ、東慶寺5代目の尼として入り、用堂尼と呼ばれる。東慶寺には護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。
尚、北条時行はのちに捕えられ、先に掲載しました「龍口」の刑場で処刑されます。
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護良親王のお墓については、以下を参照下さい。2ヶ所です。
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「宮内庁」管理のお墓
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妙法寺にあるお墓
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昭和13(1938)年1月7~13日 (4) 南京は終らない

昭和13(1938)年1月7日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。
「市内にはいまだに千ほどの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十六日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。
福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。」
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1月7日
・映画「5人の斥候兵」(日活)封切。監督田坂具隆、主演小杉勇・見明凡太郎。
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1月7日
・イタリア、大規模な海軍増強計画表明。
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1月8日
・江寧県陸郎村での「敗残兵狩り」。
県城から避難の市民100余が、「敗残兵狩り」で殺害。・・・(掲載するに堪えぬ残忍な行為の記述あり略す。黙翁)・・・。岔路郷では南京城から近く、交通の便も良い為、日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」に頻繁に襲来、・・・。(「江寧県誌」)
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1月8日
・駐蒙兵団設立。第26師団基幹。兵団長は蓮沼蕃中将(15期)
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1月8日
・双葉山、陸・海軍省に1500円を献納。
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1月8日
・スペイン、テルエルの戦い。叛乱軍テルエル守備隊レイ・ダルワール大佐、降服。
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1月8日
・ソ連、メイエルホリド劇場閉鎖。
詩人パステルナークが彼を見舞う。エイゼンシュテインは、前年には自分の映画も上映禁止になっているが、メイエルホリドの膨大な資料を自分の別荘の壁の中に隠し後世に伝える。
スタニスラフスキーは演劇作風では対極にあるが、この年3月、自分のオペラ劇場の助手に起用。この年7月、スタニスラフスキー病没後、メイエルホリドはこのオペラ劇場の主席演出家となり後を継ぐ。39年3月「リゴレット」上演。6月20日逮捕、40年2月2日監獄内で銃殺。
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メイエルホリド逮捕の口実には、日本人「スパイ」杉本良吉が決め手として利用され、メイエルホリド逮捕後、39年9月27日、杉本良吉、処刑。
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1月9日
・郭沫若、広州より武漢に到着。この時、武漢には「新四軍事務所」があり葉挺、周恩来もいる。国民党は、政治部を復活させ、陳誠を部長に、周恩来・黄琪翔を副部長に、その下部の4つの庁のうち三庁(宣伝)庁長に郭沫若を充てる目論見。2月6日、本人の承諾なしに政治部の会議に出席させられ、翌日、郭はこれに怒って長沙へ「逃亡」。
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葉挺の事務所(大和街26号)に引っ越し、八路軍事務所の周恩来の部屋で、周恩来、鄧穎超、王明(陳紹禹)、博古(秦邦憲)、林老(林伯渠)、董老(董必武)と会う。王明とは初対面、博古とは3ヶ月前に南京で一度会っただけだが、他は10年来の老朋友。
八路軍事務所は新四軍事務所と通りを2つ隔てた日本租界の中にあり、元は日本人の何とか洋行という商店だったところ。政治部第1庁庁長賀衷寒(戦後、解放戦で共産党軍の捕虜となる)、第2庁庁長康沢・第3庁副庁長劉健群などは復興社(蒋直属の反動結社)の人物で、劉健群は郭のお目付役、事実上の庁長で、郭をあやつり人形にしようという狙い。
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国民政府、国民党中央党部は重慶にあったが、国民党・党政軍関係の主要人物は全て武漢にいた。事実上の抗日首都。「新華日報」創刊、「全日抗戦」復刊。
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1月10日
・「外国人の見た日本軍の暴行」(「マンチェスター・ガーディアン」紙ティンパーレー記者)より。
「今日は一月十日である。情勢は大分改善されたが、しかし毎日暴行事件はあった。而かもその性質は非常に悪性であった。
・・・昨夜車で街に出て見ると火の手が四個所に上って居り、また日本兵が一軒の店に入って放火しているのを目撃した。十二月十九日から今日まで日本兵が放火をしない日は一日もなかった。
昨日クロイゲル君は東門から帰って来て彼が通った二十哩の途々では家も焼かれ人影もなく家畜も見当らなかったと報告した。
私達は上海の日本新聞と東京日日新聞を読んだが、早くも十二月二十八日には各商店とも続々と店を開き市場も常態に復しつつあって日本軍は外国人の難民救済に協力し城内の中国匪徒を粛清し、南京は安静を取り戻したと書いてあったのには現実の悲惨な話と較べて苦笑を禁じ得なかった」。
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1月10日
・五台山区を中心に晋察冀辺区(解放区)が成立。晋察冀辺区臨時行政委員会成立大会、開催、~15日。
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1月10日
・日本軍、蕪湖上流荻港突破
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1月10日
・海軍陸戦隊、青島上陸
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1月10日
・外相、ディルクセンに中国の迅速なる回答を要求。
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1月10日
・矢内原忠雄「民族と国家」(自家版)、対支行動の無意義を提示しているとして発禁。
戸坂潤「読書法」、読書推奨本例としてマルクス主義入門を挙げているため発禁。
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1月11日
・漢口、以後中国共産党が国民党支配地区で発刊し続ける唯一の新聞「新華日報」創刊。
鄒韜奮編集「全民抗戦」も復刊。
抗敵演劇隊・抗劇九隊と抗敵宣伝隊・抗宣四隊が結成。
抗日戦1周年を記念して武漢三鎮5ヶ所に設けられた献金台には市民の列が続き、5日間で100万元超の現金と物資を集まる。
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1月11日
・厚生省官制公布(厚生省設置)。戦時体制下の健民健兵の推進、科学的な国民体力と精神の練成が目的。初代厚生大臣は木戸幸一(文相兼任)。
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1月11日
・御前会議として開催の大本営政府連絡会議、「支那事変処理根本方針」(和戦両様の対策)決定。
中国側が講和を求めない場合、これを相手とせず、自動的に新和平方針(要求項目)を実行する決定。
翌日、堀内謙介外務次官は、もう2、3日は待てない(15日までには回答)とし、中国側の回答をドイツ大使に督促するよう求める。
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①和の場合は新条件とする、
②「支那現中央政府ガ和ヲ求め来ラザル場合ニオイテハ、帝国ハ爾後コレヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲカケズ、新興支那政権ノ成立ヲ助長シ、コレト両国国交ノ調整ヲ協定」する、
③蒋政権は「コレガ潰滅ヲ図り又ハ新興中央政権ノ傘下ニ収容セラルル如ク施策ス」る方針を確認。
但し、和を求め、中国政府が講和条件を誠意をもって実行し、日中提携の実があがるならば、非武装地帯、華北の特殊権益の規定を解除し、かつ塘沽停戦協定などの諸軍事協定や従来からの特殊権益(治外法権、租界、駐兵権など)廃棄を考慮することを認め、条件緩和もあり得るとする。
これは御前会議開催を強力に主張し、実現させた参謀本部戦争指導班堀場一雄少佐らの主張により付加されたものと思われる。しかし、この趣旨がどの程度中国側に伝えられたかは疑問。
* 
回答期限は、最初は12月未、次いで1月10とされるが、到着せず、12日には「十五日までに回答がなければ和平を打ち切る」という申し合わせ。
政府・軍部の大勢は蒋政権否認・新政権育成の方向に傾く。
* 
1月11日
・各新聞、執筆禁止処分の事実を報道し始める。
「糧道をたたれた急進派、原稿お断りに犇々迫るは生活の悩み、帰る故郷もなき人々、時代の霧は深い」(「読売新聞」1月11日)。
「生活に喘ぐ左翼文士、就職に駈け廻るけふこの頃」(「東京朝日新聞」2月24日)。
* 
○中野重治の場合:
「一九三八年の例の執筆禁止のとき、わたしはどうして飯を食ったものかいろいろに考えたすえ、ある日、斎藤茂吉さんに手紙を書いて、岩波書店かどこかへ--かどこかでなく、岩波書店へだったろうと思う。--校正係として雇われることはできまいか、そういう口があったらお取りもちを願いたいと書いて出した。」(重治「何かの因縁」)。
茂吉は面識のない重治の為に動く(結果は成功せず)。「岩波氏ニ電話ニテ中野重治氏ノコトヲ談合ス。(為事ノ口ナシ)」(茂吉の日記1月31日)。
この頃、重治は、石堂清倫と、四高時代の旧友農林省米穀課長柴野和喜夫の世話で、ナチス・ドイツの油脂法の翻訳などをしてしのぐ。
5月、飯田橋の東京市職業紹介所知識階級失業者係を通じて、鳩森八幡前の東京市社会局調査課千駄ヶ谷分室の臨時雇になる。東京帝大ドイッ文学科の後輩金子和の紹介、東京朝日新聞社社会部の東京市担当記者星野政雄の世話によるもの。事務員ではなく、1室を与えられナチス・ドイツのアルバイツ・ディーンスト(勤労奉仕)関係法の翻訳。
12月、執筆禁止措置が緩み、翌39年「歌のわかれ」を発表(雑誌「革新」4、5、7、8月号)。
* 
1月11日
・米ルーズベルト大統領、国際状況改善のための諸国会議開催と、事前での英との討議を英に提案。
* 
1月12日
・モスクワ、ソ連の新憲法による第1回最高会議。
*
1月13日
・ドイツ大使館南京分室事務長シャルフエンベルクの記録。
「南京の状況 一九三八年一月十三日
 当地南京では、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、すべて機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館のなかだけ。しかも一階しか使えない。イギリス大使館にはまだ電気が通じていない。
なぜ交通が麻痺しているかといえば、城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本人によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいまだれも住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、かれらはここから出ていくことはできない。・・・。
南京に進駐したときの日本軍のしわざについては黙ってるのが一番だ。チンギス=ハーンを思い出してしまう。要するに「根絶やしにしろ!」ということだ。ある参謀部の中佐から聞いたのだが、上海から南京へむかった補給部隊は本隊に追いつけなかったそうだ。それで、日本兵はベルゼルカー(北欧神話に出てくる熊の皮をまとった大力で狂暴な戦士)のように手当たり次第に襲ったのか。「戦い抜けば、南京で美しい娘が手に入る」とでもいわれたにちがいない。
だから女性たちが、ここでいま目もあてられないほどひどい目にあっているのだ。それを目のあたりにした人たちとその件について話すのは難しい。話そうとすると、くりかえしそのときの嫌悪感がよみがえるからだ。」
* 
1月13日
・英チェンバレン首相、米ルーズベルトの提案に対して延期することを回答。外相イーデンは休暇中で不在。
to be continued

2009年3月20日金曜日

京都のいしぶみ 坂本龍馬寓居之跡





①②寓居跡は中京区河原町通三条下ル1筋目東入北側にあります。
「酢屋」というのは、「酢」を商うのではなく、材木商(中川嘉兵衛)なんですよね。
*
③は中京区河原町通蛸薬師下ル西側にある近江屋の跡です。
慶応3(1867)年11月15日夜、2人はここで暗殺されます。
*
「★京都インデックス」をご参照下さい。
*
70年代に黒木和雄監督(亡くなられましたね)、役者は原田芳夫(竜馬役)、松田優作(この方も亡くなられた)、桃井かおりなどが出ている「竜馬暗殺」という映画がありました。
この時の原田の竜馬ぶりのは迫力はすごかったですよ。
それと、あの頃は、原田・桃井はコンビでよく映画にでてましたね。
*
司馬さんの暗殺シーンで、
「「ほたえなっ」とどなった。土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。」
という一節がありますが、私の記憶では、「ほたえなっ」は、京都でも使ってました。司馬さんも関西なんで、この言葉をお使いではなかったのかなと、かねがね不思議に思っています。
*
方言繋がりで・・・。
子供の頃、親に叱られた時などに、グチュグチュ言い訳すると「へんじょこんごいうな」とまた叱られた記憶があります。これって、変な言葉だとずっと思ってましたところ、高校生の頃か、多分、河野多恵子さんの書名を忘れた新潮文庫だったかの本に、その「へんじょこんご」の起源が書かれていて、疑問氷解となったのを思い出しました。河野さんも関西です。
*
空海(弘法大師)が、805年に命がけで唐に渡り修行し、伝法阿闍梨位の灌頂を受けますが、その灌頂名が、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)でした。
*
専門でないので間違っているかもしれませんが、この灌頂の関連で真言宗の「お唱え」は「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」となっています。四国のお遍路さんの背中にもこれが書かれてます。
*
これが転じて、「もったいないお唱え、有難い、有難い、でも長い、早く終わらんか」から、また転じて「ぐずぐず(長口上で)言い訳するな」になったようです。
*
先ほどパラパラとネットを見たら、方言にこだわっている方もたくさんおられまして、その方たちの調査では、京都・大阪など関西、四国、出雲地方、山口、佐賀などでもこの「へんじょこんご」を使っていたそうです。
*
バチ当りついでに・・・。
龍馬がもし暗殺されなかったら、その後はどうなったか?
①薩長同盟の立役者ですが、これは軍事的相互援助同盟で倒幕同盟ではないので、武力討幕にはくみしない。近しい関係にある松平慶永・伊達宗城などに近い路線をとる。
②維新後は、土佐出身ということもあり有司専制にはくみしない。西南戦争でも西郷にはくみしない。
板垣らの民権派、岩崎みたいに商売に進む、あたりではないでしょうか。
商船・軍船を率いて朝鮮半島へ、という最悪ストーリーもあり得る。・・・・。
こんなことをボケーと考えたりします。
(竜馬ファンにどつかれるかな)

1871年4月1~2日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(12)

■1871年4月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(12)
*
1871年4月1日
・婦人たち700~800人がコンコルド広場に集まり、ヴェルサイユに赴こうとする。
「一八七一年四月一日、私をみかけて驚いた隣の婦人が私に、コンコルド広場における女性集会の開催を報せた新聞を読んだかとたずねた。彼女らは流血を止めさせにヴェルサイユまで出かけようというのである。
私は母に集会に出かけることを告げ、子供たちに接吻して広場にむかった。
一時半にコンコルド広場で行進に加わった。七、八百人の女性が参加していた。ヴェルサイユへ行って、パリのしようとしていることを説明するのだと話している女たちがいるかと思えば、百年前にもパリの女たちがヴェルサイユに行って、当時の言い方にしたがえばパン屋とパン屋のかみさんとパン屋の小僧をパリにつれもどしたときのことを話している女たちもいた。
私たちはこうしてパリのヴェルサイユ門まで行進した。そこで私たちはフリー・メーソンの使者たちがもどってくるのに出会った。
この遠征を組織した市民S・A夫人がすっかり疲れきって、どこかで集会を開こうと提案した。
そこで私たちは、ラガッシュ・ホールにむかった。遠征をさらにつづけるために別の市民をこの会場で指揮者に選ばなければならなくなった。ここまでの長い行進でS・A夫人は疲労し、両足の苦痛に耐えかねていたのである。
私が彼女の後任に指名され、撞球台の上にのばらされた。そこで私は、もうヴェルサイユにむかうほどの人数はいないが、コミューンの歩兵中隊の負傷者の看護なら十分まにあうからそちらに行こうと自分の考えを述べた。他の人たちも私の意見に賛成してくれたので、私たちは翌日出発することになった。だがじっさいに出発したのは数日後だった。市民S・A夫人も、国民衛兵の参謀部まで私たちと一緒に来ることができた。」
その後、彼女らはイシ要塞で2週間野戦救護看護婦として働く。・・・(「ベアトリックス・エクスコフォンの手記」(ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」所収)。
*
4月2日
・仏、ヴェルサイユ軍、パリ攻撃開始
パリに向い北西方向に進出。国民軍と戦闘。圧倒的に優勢な兵力により、パリ西郊クールプヴォアとパリ進撃に有利な諸陣地を占領。
国民軍の悲惨な結果。国民軍、政府軍主任軍医バスキエ殺害。ヴェルサイユ軍、報復で連盟兵捕虜を殺害。
* 
3月18日の革命初期に、ヴェルサイユへ逃亡したティエール政府の軍隊は2万7千未満、その後、予備軍を呼び寄せ4万に増やす。3月末、ヴェルサイユ軍司令部とドイツ占領軍司令部とで協定が結ばれ、ヴェルサイユ派は8万にまで軍隊を増加させ、その後、主として帰還したフランス軍捕虜によって13万にまで増加させる。
* 
朝、ヴェルサイユ側では、モン・ヴァレリアンの砲台からヌイイ大通りに向かって砲撃。同時に警官隊、歩兵部隊、騎兵隊がクールブヴォワとヌイイに向かって進軍。
前日夜11時、ティエールは軍事会議を召集し、翌日早朝にデュ・バライユ将軍による敵兵力偵察を決定し、将軍はまだ暗闇の中をパリ南方のパトロールに出発。
ティエールは、この時、別にヴィノワ将軍率いる1歩兵部隊を誰にも知らさずに派遣。
7時前後、2部隊を編成し作戦展開のためモン・ヴァレリアンの北に集結。
①プリア師団第74混成連隊と海兵連隊及び陸戦隊で、ヴィノワ将軍と行動を共にする。
②ドーデル旅団第113、114連隊。支援を命じられたガリフェの騎兵隊と砲兵中隊の半分を加え、総兵力は約9千。
ヴィノワは既にクールプヴォワの円形交差路から100ヤード足らずの地点に進出。
* 
パリ側では、この朝、ベルジュレの命令によって連盟軍10箇大隊が偵察に出発。
* 
ヴェルサイユ側は、第113連隊をガリフェ軍と合流させ、クールプヴォワの交差路を北から包囲攻撃させる計画を立てるが、攻撃前、軍の主任軍医パスキエ博士が本隊から離れ連盟軍の中に迷い込み、捕えられて射殺される事件が起こる。
ガリフェ将軍が砲兵隊に発砲を命じるが、誰もそれに従わず、敵の砦からの最初の砲撃で、第113連隊の兵士たちが前進を止め逃亡する者も出る。ガリフェが馬から下り、幕僚と共に連発ピストルを抜いて砲兵を叱咤し、ようやく砲撃が始まる。
* 
ガリフェ隊の砲声を聞き、ヴィノワ将軍も砲撃を命令。
クールプヴォワ砦の連盟軍は混乱。
第74混成連隊がバリケードに接近した時、隣接する民家から一斉射撃が起こり、兵士は混乱し、将校をおきざりにして逃亡。非常事態のためヴィノワ将軍は、温存しておいた海兵隊の出撃を命じる。
しかし、バリケードの連盟兵は数において劣り、側面砲撃に脅威を感じ、セーヌを渡河して退却。
ヴィノワ軍は容易にここを占拠して捕虜30名ほどを得て、更にヌイイ橋まで殆ど抵抗なしに進出してこれを占領。
ティエールから前進禁止命令が届き、午後1時15分、ヴィノワ将軍は偵察行終了。パスキエ博士を含めて3名戦死、21名負傷。
* 
ヴィノワ将軍に命じられプーランジェ大佐指揮下の第114連隊は捕虜の内5名を射殺。外科医パスキエを殺したとされるサン・タントワーヌ郊外地区の床屋ルイ・ベーム(22)、連盟軍に寝返った兵士2名、国民軍兵士2名が犠牲となる。
* 
・パリに召集太鼓。午後3時、モンマルトル、ベルヴィルから5万人集合、「ヴェルサイユへ!」と叫ぶ。
* 
・ロセル、ベルジュレと中央委員会の命令に従い、逮捕され警視庁留置所に監禁される。ついで、リゴーとコミューンの命令によって釈放。
○[コミューン群像:ルイ・ナタニエル・ロセル(1844~71)]
工兵大尉、中佐として、普仏戦争に参加。メス要塞包囲の際、バーゼン元帥に対し、守備隊をたちあがらせようとするが失敗。メス降服後、国外逃亡。その後トゥールに赴き、国防政府のトゥール代表団長ガンペックの命令に服す。ネヴェール軍工兵指揮官に任命される。
3月19日、パリ蜂起を知り、辞職声明をだし、この中で、フランスを敗北に導いた「降服将軍たち」を非難。
3月20日パリ到着。
23日、国民軍中央委員会は彼を、第17軍団司令官に任命。
4月初め、軍事省参謀総長、4月中旬、軍法会議議長、30日、コミューンの軍事代表委員。
この地位で積極性を発揮(コミューン軍隊を再組織しようと努め、ヴェルサイユ軍に対する大規模進撃計画を作成)。
5月9日、イシ壁の陥落後辞職(コミューン議員たちへの公開状で、前線での失敗の貴任は彼らにあるとする)。コミューン命令によって逮捕されるが隠れる。
6月8日、警察に逮捕され、軍法会議で銃殺判決を受け、1871年11月28日執行。
*
ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」で紹介されているロセルの文章。
「この章を終わるにあたって、ロッセルの文章を二つ引用しておこう。
最初のものは彼がコミューンの軍隊にはいる以前のもので、彼のコミューンにたいする評価がうかがわれる。これは七一年三月十九日、ヌヴェールのキャンプからヴェルサイユの陸軍大臣である将軍にあてた手紙の一節である。
「この国では二つの党派が争っております。私はためらうことなく、講和条約に署名しなかった側、その戦列に降伏の責を負うべき将軍たちをもたぬ側に与するものです」。
第二のものは、正規軍について、死の直前に自分の弁護士アルベール・ジョリーに言いのこしたものである。
「あなたは共和主義者です。もし今すぐにあなたが軍隊を再編成しなければ、軍隊が共和国を崩壊させるでしょう。私は兵士の公民権のために死ぬのです。少なくともこのことだけは私を信じてください。」」
* 
・パリの2つの権力の妥協。
クリュズレが軍事代表委員ウードの補佐となり、ベルジュレ、ウード、デュヴァルが合議の上で衛兵の総指揮にあたる。
* 
・教会と国家の分離に関する布告(2日起草、3日布告)。
「パリ・コミューンは、信仰の自由は諸々の自由のうち第一に位することにかんがみ・・・左のことく布告する-
第一条、教会は国家から分離される。
第二条、宗教予算は廃止される。
第三条、宗教団体に属するいわゆる譲渡不能の財産は、動産であると不動産であるとを問わず、国有財産と宣言される。」
* 
・行政機関・公共業務における俸給最高額(6千フラン)を定める布告。
* 
・住民に対する呼び掛け。
「王党派の陰謀家どもが攻撃を加えてきた。われわれが穏和な態度を示しているにもかかわらず、彼らは攻撃を加えてきた・・・ 
パリの住民によって選出されたわれわれの義務は、この偉大な都市を犯罪的攻撃者から防衛することである。われわれは諸君の助力をえて、この都市を防衛するであろう。執行委員会。」
* 
・夕方、パリ要塞から執行委員会に宛てた電報が掲示。
「わが軍は士気旺盛。戦列歩兵の兵士は、上級将校を除き誰れひとり交戦を望まない、と言明する。」
* 
・ペルジュレはコミューン議会においてモン・ヴァレリアンの砲列は連盟軍に対して火を吹くことはないであろうと言明。
クリュズレは友愛の感情がヴェルサイユ軍のあらゆる抵抗を排除するであろうと主張。
* 
・コミューン執行委員会の国民軍に対する檄。
「このような犯罪的侵略者たちから、偉大な都市を防衛することはわれわれの義務である。諸君の援助によってまもりぬこう」。
* 
・コミューン、ティエールとヴェルサイユ政府閣僚5人を裁判にかけ、彼らが「内乱を組織し、開始し、パリを攻撃し、国民軍兵士、戦列軍兵士、婦人、子供たちを殺傷した」ために、彼らの財産を差押えるという法令を採択。
ヴェルサイユ軍に対する戦闘で倒れた市民の家族を、コミューンの養子にする法令を採択。
* 
・ベルジュレ、ウード、デュヴァルがヴェルサイユ攻撃計画を作成し、クリュズレがそれを実行。
3つの縦隊(ルイユに対する牽制攻撃、ムードンからの集中攻撃、シャティヨン高地からの別な攻撃)で構成。第1縦隊が敵兵カの一部をルイユに引き寄せている間に、敵は合流した第2、3の縦隊によって分断され、包囲される筈。
* 
・連盟兵、ヴェルサイユ進撃にうつれと要求。国民軍諸大隊、命令なしにパリ西方防備強化の為に活動。
コミューン軍事評議会、ヴァンドーム広場で軍事会議。3日朝のヴェルサイユ進撃開始を決定。午後5時、デュヴァル軍、シャンティオンに向う。
* 
・マルセイユ。
臨時県委員会、市会を解散し、マルセイユの革命的コミューン選挙4月5日実施とする法令(法令は、「パリとヴェルサイユとの選択にあたって、マルセイユはパリを支持した」と述べる)。
家賃滞納分の部分的免除の法令。
反動勢力は攻勢に転じ、政府軍指揮官エスピヴァン将軍はマルセイユ市とブーシュ・デュ・ローヌ県を戒厳状態におき、国民軍兵士が武器をもって集会をすることを禁じる。
* 
4月2日
・ロンドン。K・マルクス、コミューンの社会改革実行こ賛成を求めたL・フランケルの手紙を受取る。
to be continued

2009年3月18日水曜日

京都のいしぶみ 西陣とその周辺 「西陣舟橋」





西陣は、ご存知「応仁の乱」の際に山名宗全方の「西軍」陣が置かれた地域です。
先に掲載しましたように、山名宗全邸宅跡は堀川通今出川上るの「山名町」にあり、①は同下るところ(西陣会館前)に、②は同西入るところにあります。
(「応仁の乱」の詳細は前回掲載しましたので省略します)
*
③は、「西陣舟橋」(高師直邸跡付近)で、同じく堀川通今出川西入るにあります。
この地は古くから舟橋と呼ばれ、昔、堀川が氾濫した時、ここに舟を繋いで橋を懸けたことから起こった名前と言われている。「京町鑑(キョウマチカガミ)」によれば、この地に高師直の邸宅があり、泉殿の下に舟橋を浮かべて結構を尽くしたと、看板に書かれていました。
*
足利(尊氏)将軍家の執事にして幕政の実力者、多分、尊氏に利用されてその尊氏の弟直義を追い落とすが、かつて討った上杉重能の子能憲に捕縛され処刑される。
また、「仮名手本忠臣蔵」は、「忠臣蔵」の吉良上野介に擬せて、師直の塩冶判官の妻への横恋慕を発端として物語が展開する。
「極悪非道」の標本みたいにされている、誠に気の毒な人物です。
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昨日、近所で見かけた桜。
ここの桜は、早めに咲き始め、他の桜が満開になる頃に同じように満開になります。
ちなみに、他の桜は、昨日時点では、まだ咲き始める気配もありませんでした。
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米議会では、「時価会計」凍結の議論が盛んとか。
時価が高い時はその高い「時価」で、低下すれば「時価」基準見直し、こりゃいささかムシがよすぎないか。
悪いものを悪く見せない工夫は、かえって米国の為にはならないんじゃないかな。
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さてさて、米国スタンダードは国際スタンダードとかで、これが決まれば日本も追随?

治承4(1180)年記(6) 高階栄子 平頼盛

治承4(1180)年3月17日
・この頃、藤原定家姉京極局と高階栄子(タカシナエイシ、丹後局、平業房の妻、35前後)が、幽閉中の後白河院(53)に祇候を聴される。
* 
○京極局:
藤原俊成の先妻為忠女との間に生まれた定家の異母姉。大納言藤原成親の妻となり、平維盛に嫁した女を生む。離別後、後白河法皇皇女で以仁王の同腹の姉である前斎宮亮子内親王に仕える。
* 
○高階栄子(?~建保1216):
御白河上皇の寵妃。丹後局と称されるが、晩年従二位に昇り、丹二品(タンニホン)とも云われる。父は阿波守高階章行の孫、延暦寺執行法印澄雲。
初め後白河近臣の相模守平業房に嫁して2男3女を生む(平業兼、藤原教成(藤原実数猶子)ら)。1179年(治承3)、清盛がクーデタにより後白河を鳥羽殿に幽閉した際、「院の近習、御寵人」の業房は、伊豆に配流される途中殺害される(「山塊記」)。
しかし栄子は上皇の幽居に侍することを許される僅かな人数の内の一人として上皇の寵愛を得て、81年(養和元)10月、上皇との間に皇女覲子(キンシ)内親王(後の宣陽門院)をもうける。
* 
高階は、天武天皇の皇子高市皇子より出た名門氏族で、平安中期、高階成忠の女貴子(キシ)が関白藤原道隆に嫁し、内大臣伊周(コレチカ)、一条帝皇后定子(テイシ)を生み、後には、後白河院の近臣泰経らの権勢家を輩出。
また、鳥羽上皇に近侍した信西(藤原通憲)は、一時、高階氏を称し、系図上では栄子の叔父に当る。幽閉中の後白河に従う成範・修範・静賢は信西の子であり、更に信西の室の朝子(チョウシ)が、法皇の乳母の紀伊の二位である。要するに、幽閉中の後白河は、ほぼ栄子一族が侍している事になる。
* 
政務に深く関与。
建久2年(1191)覲子は宣陽門院となり、従二位に叙任。
建久3年(1192)3月、法皇没に際し、長講堂領は宣陽門院に伝領。同月、落飾。土御門通親と結び、鎌倉幕府と結ぶ関白九条兼実に対抗。
建久6年(1195)、頼朝と政子が娘大姫入内を策し急接近、この機に乗じて九条兼実を追い落とす。
しかし、建仁2年(1202)、通親没し、更に後鳥羽院政が始まると権勢は衰える。晩年は東山浄土寺に隠棲、浄土寺二位と呼ばれる。
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3月27日
・藤原定家(19)、父俊成の命により八条院暲子内親王に参る。八条院には、姉の八条院坊門局が仕えている。30日、法性寺で藤の花を観る。
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4月(日付なし)
・出仕を許された平頼盛、安徳即位に伴う叙位で従二位に叙任。
言仁親王即位に向けて平氏一門の結束が図るため。この時、平氏一門で叙位されたのは頼盛だけ。政権内部で頼盛の存在が重みを増す。
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○平頼盛(長承元年1132~文治2年1186):池殿・池大納言。
父は忠盛。母は修理大夫藤原宗兼の女宗子(池禅尼)。家盛の同母弟(忠盛2男)。清盛・経盛・教盛らの異母弟。妻は俊寛の姉妹大納言局(八条院女房)。子は保盛・光盛ら。六波羅池殿に住み、池殿・池大納言と呼ばれる。
久安2年(1146)皇后宮権少進、以後、右兵衛佐・中務権大輔・太皇太后宮亮・修理大夫等を歴任、常陸介・安芸守・三河守・尾張守・太宰大弐にも任じられる。
仁安元年(1166)従三位。左右兵衛督・中納言等を経て、寿永2年(1183)、正二位権大納言となる。
途中、仁安3年(1168)と治承3年(1179)の政変で解官される。清盛との間には早くから忠盛後継を巡る対抗関係がある。
寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちに際し都に留まり、10月、鎌倉に下向。翌年4月に頼朝から没官領を返還され、6月に帰洛。文治元年(1185)5月、病により出家。翌年6月2日没。
* 
□「平家物語」の中の頼盛。
二心ある存在として描かれるが、諸本間では若干ニュアンスは異なる。また、頼朝の情けを浮かび上がらせる材料としても使われる。
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頼盛邸(六波羅池殿)は徳子の産所とされここで皇子(後の安徳天皇)が誕生(「御産」)。頼盛はそこに参列した公卿33人の中に入っている(「公卿揃」)。福原遷都では頼盛宿所が皇居となり、また高倉上皇が六波羅池殿で没する(「新院崩御」)等、頼盛邸は平家一門と天皇・上皇とを結ぶ重要事件の舞台となっている。
頼盛は、妻が八条院女房である事から、以仁王の若宮を八条院の許から連行する役も担う(「若宮出家」)。
しかし、都落ちに際しては、一門を見限り、池殿を焼き一門と共に出発しながら、引き返して八条院の許に身を寄せる。宗盛は、これを「年来の重恩」を忘れた「不当人」と評し、心変わりと看做し(「一門都落」)、「物語」ではこの後、二心ある者の象徴とされていく(「高野巻」「三日平氏」)。延慶本などでは、平家重代の太刀「抜丸」の相伝を契機とする清盛・宗盛と頼盛との長い一門内対立が記され、都残留もそれ故の行動とされている。
その後の鎌倉下向と、頼朝から恩賞を受けての上洛では、都残留が命惜しさ故の行動とされている(「三日平氏」)。この辺りは、彼を厚遇する頼朝の姿が際だち、平治の乱以来の恩義を弁えた頼朝の情けある姿を浮上させる頼盛像が作られている。
尚、「保元物語」「平治物語」では、保元の乱で清盛軍に属する様子(保元物語)、平治の乱で大内裏郁芳門を攻める奮戦ぶりが描かれている。
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4月1日
・火事。八条坊門から六条辺まで延焼。
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4月5日
・平清盛、厳島参詣から福原到着。9日、高倉上皇、西八条邸に帰京。
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4月9日
・【以仁王の令旨(りょうじ)】似仁王(30、後白河法王第2皇子)、最勝親王と称し平家追討を諸国源氏に下す。源頼政、以仁王を奉じ平家追討の宣旨を諸国の源氏に伝える。
治承・寿永の内乱の始り
to be continued
 

2009年3月16日月曜日

鎌倉 龍口寺 日蓮の法難 モンゴルの使者









江の島に行ったついでに、江ノ電「江の島」駅徒歩2~3分の龍口寺に行きました。折悪しくにわか雨に濡れながら。
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①は「龍之口刑場跡」の碑です。1271年(文永8年)9月12日の所謂「龍口の法難」のあったところです。
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②③④1337年、この法難の地に門弟の日法上人が一堂を建立し、日蓮像を安置したのが龍口寺の始まりとのこと。その後、慶長年間、天保年間に徐々にお寺としての構えを充実させてきたようです。
静かなたたずまいのいいお寺でした。
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⑤江ノ電「江の島」駅にあったミニチュア。あまりにうまくできているのでシャレで掲載。江ノ電には根強いファンがいるようです。
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「法難」のあった9月の「黙翁年表」を一部ご紹介。ざわざわした世相だったようです。
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1271年(文永8年)
9月2日
・関東使、高麗牒状(三別抄の牒状(「吉続記」では「高麗牒状」))を携帯して上洛。
3日、関東申次の西園寺兼実を通じて朝廷に高麗牒状を送る。関白以下、連日これを議定。
珍島に政権樹立した高麗の旧政権軍隊三別抄が日本に支援要請。この年5月に政権は既に陥落。
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「関東使高麗の牒状を随身し、西園寺大納言の許に向かう。亞相参院し申し入ると云々。」(「吉続記」9月2日条)。
「件の牒状の趣、蒙古兵日本に責め来るべし。また糶を乞い、この外救兵を乞うか。状に就いて了見区々分る。」(同4日)。
「藤翰林茂範祇候す。御前に召され、牒状二通を読らる。停滞無くこれを読み申す。」(同5日)。
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(高麗がモンゴルに攻められ、徹底抗戦派が義勇軍「三別抄」を組織し珍島に依り、日本に救援を要請したもの)
*
9月12日
・【日蓮、龍口の法難
幕府(侍所の所司・平頼綱)、武士数百人を指揮して日蓮を逮捕。
日蓮を竜口で斬ろうとするが落雷で失敗。この時、日蓮は平頼綱に向かい、日蓮を逮捕することは日本国の柱を倒すことであり、日本国内に内訌が起こり外国からの侵略があろう、建長寺をはじめ鎌倉の諸宗寺院を破却し、念仏者・禅僧等を斬首せよと言う。
10月10日、佐渡に配流。弟子日朗らを獄に下す。
*
9月13日
・幕府、鎮西将士に令し海防を厳重にさせる。異国警固番役の起源。
* 
関東御教書
「蒙古人襲来すべきの由、その聞こえ有るの間、御家人等を鎮西に差し遣わす所なり。早速自身肥後国の所領に下向し、守護人に相伴い、且つは異国の防戦を致さしめ、且つは領内の悪党を鎮むべし。てえれば、仰せに依って執達件の如し。」。
* 
鎮西にも所領を持ち東国の本領に居住する御家人に対し、自身もしくわ代官が鎮西に赴き、その国の守護の指揮下に入るよう命じる(東国御家人の西国移住始まる)。
豊後守護大友頼泰と筑前・肥前守護武藤資能に対しては、東国御家人の下向までの間、取敢えず九州在住御家人を動員して筑前・肥前の海岸線警備を命じる。
他方、九州下向の御家人には領内悪党(反抗者)鎮圧を命じる。
* 
妥協と抑圧を絡ませながら、得宗権力確立と協調体制確立を狙う路線は、得宗被官(御内人)と御家人(外様)の対立、幕府中枢部における御内人最高実力者平頼綱と最有力御家人安達泰盛との対立となって現れる。
*
9月19日
・モンゴルの使者趙良弼ら100余人、今津に来着。入京と国書上奉を要求するが太宰府(大宰少弐武藤資能)は許さず写しだけを幕府に送る。
* 
「筑前国今津に異国人趙良弼を始として百余人来朝の間、軍船と心得て宰府さはぎけれども、その儀はなくて是も牒状なり。但唐櫃に納て金鎖を指て王宮へ持参して帝王へ献れ。それ叶はずば時の将軍に伝へて参すべし。その儀もなくば持て帰べき由王勅を承たれば、手をはなつべからずとて、案を書て出したり。是も返牒に及ばず。」(「五代帝王物語」)。
* 
趙良弼は、「国書を京都に持参する」と強く返答を迫る。返事を待つ間、情報収集・諜報活動にあたる。太宰府付近の地理を観察し、国政や風俗について調査。1年以上日本に滞在。
趙良弼は日本の風土について報告を行い、遠征は国力の浪費とフビライに進言。フビライは、日本が期待したほど富強な国ではないことは確認したものの、派兵は思い止まらず。
*
9月21日
・朝廷、異国調伏の祈祷(同月21日付宣旨)。
*
亀山天皇宣旨(文永八年九月二十一日宣旨)
「近日上天示変、冲襟無聊、しかのみならず、西蕃の使介有り。北狄の陰謀を告ぐ。縡之希夷、怖畏是衆、永劫災難、宜しく泰平を致すべきの由、仁王会呪願文に載せしむべし。」。
* 
「仁王会呪願文の事、仰せ出さるる事等有り。蒙古北狄たる事不審の由これを申し出づ。作者の所存の如きは、高麗の書ニ蒙古を北朝とこれを書く。仍ってこれを載すと云々。高麗より北に当たり、日本より北に当たらざれば、道理に背くべきか。経史に不詳の上は、決し難きものなり。」(「吉続記」9月22日条)。
「呪願文草合の句、改め直すべきの由、仰せ下さると云々。北狄の事、先年の高麗状ニ蒙古を北朝皇帝とこれを書くの由、奉行職陳謝すと云々。猶然るべからざるか。」(同23日)。
*
龍口寺
*

1757,58年(宝暦7,8年) モーツアルト2,3歳

■1757,58年(宝暦7,8年) モーツアルト2,3歳
*
1757年7月23日
・伊(ナポリ生まれ)の作曲家ジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティ(71)、マドリッドで没
* 
7月26日
・讃岐で大洪水。堤防数10ヶ所が崩れ死者多数。
* 
8月(日付なし)
・米、フレンチ・インディアン戦争。フランス軍、ウイリアム・ヘンリー砦を奪取。
* 
・ルソー、デピネ夫人のラ・シュヴレット城館礼拝堂献堂式のためにモテット「エッチェ・セーデス・ヒック・トナンティス」作曲。演奏は9月15日。
*
9月(日付なし)
・勝山藩、「漆実・多葉粉・菜種牙人(スアイ)之定」を出す。
他所仲買商人が勝山町で産物を売買するのは原則として自由、但し、漆実は100匁につき1匁、煙草は同2分、菜種も同額を口銭として徴収とする。尚、漆実だけは売人からも1匁の口銭を取ることになっている。
3町商人108人連名で中止を求める。勝山町商人の多くが仲買も兼ね、資金の豊富な他所商人には到底勝てず、町方衰微となるという理由。
結果は不明(恐らく撤回されたものと思われる)。
煙草・菜種は特に勝山辺在方の特産として名声を得つつある産物で、藩はこの利益に着目。大野・福井・丸岡・今立郡粟田部などの商人、更に19世紀には近江商人なども入り込み、農村の商品産物を巡る勝山町商人と他所商人との関係はますます複雑になってくる。
* 
9月5日
・7月に続き、讃岐で再び大洪水。高松城が大破。
* 
9月6日
・仏、ラ・ファイエット候爵(後、将軍)、誕生。
* 
9月7日
・幕府、神田佐久間町の測量所(天文台)を廃止。
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9月8日
・7年戦争。ハノーヴァー防衛に派遣された英カンバーランド公、クロスターセヴン協定でフランス軍に降伏。
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10月5日
・仏、シャルル・ド・ラメット(三頭派政治家、5男)、パリで誕生。
* 
10月19日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間にアルトワ伯爵シャルル・フィリップ、誕生(後のシャルル10世)。
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10月21日
・仏、シャルル・ピエール・フランソワ・ オージュロー(後、ナポレオンの元帥)、パリ市フォブール・サン・マルソーで誕生。煉瓦工と果物露店商を営むドイツ系の貧しい家庭。
* 
10月26日
・郡上一揆、一揆参加者(立者)を巡り八幡城下で暴動。立者太平治の釈放の為に、気良村(明宝村)の甚助と寒水村(明宝村)の由蔵が活躍。
* 
11月5日
・7年戦争、ロスバハの戦い。コリンの戦いでオーストリア軍に大敗北のフリードリヒ大王率いるプロイセン軍、西からフランス軍が侵攻開始し苦境に陥るが、ライプチヒ西方ロスバハでフランス・ドイツ諸侯連合軍と戦い、勝利。ヴォルテールは「百年戦争中の数々の敗北も、これほど屈辱的では無かった」と嘆く。
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11月15日
・仏、ジャック・ルネ・エベール(サンキュロット主義者)、アランソンの金細工師の親方の息子として誕生。
* 
12月2日
・郡上一揆、気良村(明宝村)の甚助、逮捕。順当な裁判もなく同月18日夜、穀見の刑場で打ち首。このことは金森藩の落ち度として翌年の裁判でとりあげられる。
*
12月5日
・7年戦争、ロイテンの戦い。フリードリッヒ大王プロシア軍3万5千、ロスバハの戦いの余勢をかって200km以上を移動、シュレジエン占領のオーストリア軍7万を破る。斜隊(斜行)戦術の成果。敵の側面に集中攻撃。のちにナポレオンは、これを「模範的な動員と決断」と讃え、更に改良して縦隊戦術(一点突破作戦)を完成させる。
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12月16日
・福井藩巣鴨屋敷奉行柳下瀬兵衛の倅条右衛門(徒士勤め)、座頭からうけた融資の返済ができず、期日直前に逐電。
[定府武士の窮乏]
江戸住居藩士は、借知率は軽減されるが、給禄支給がしばしば遅延。
29日、藩主の秘蔵箱から内証金1千両を放出し、藩士の越年資金に充当。半知以後藩士の給禄は削減され、加えて元禄7年から借知が再開(この年の借知は、京都の両替善五郎への調達金返済に充当する為)。藩財政不足を補填する方法として給禄の借り上げは恒常化される(154年間で借知のない年は僅か3年)。
また、借知の極めて重い率の「半減」(給禄50%借り上げ)は、宝暦11年が最初で延べ32年もある。寛政5年には「半減」借知が7年間続く。借知率の最多は8歩(給禄8%が借知)で、正徳元年以降で延べ53年もある。但し、「半減」・8歩も、その年の最高の借知率で、給禄に応じて率は逓減する。
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1758年(宝暦8年)(日付なし)
・この年、松前・江差に進出の近江商人は30名前後。
松前交易は、一部は北海道~大坂・下関交易の発展もあるが、全体としては敦賀・小浜中心の交易。しかし、28年後の天明6(1786)年には11名に減少。
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北海道~本州諸港の商品流通は、松前藩の再生産構造の特殊性や流通担当商人の性格から、若越中心型として発展。
大きな役割を果たして近江商人は、慶長期頃から松前に進出、寛永期以降は10数名の近江商人(柳川・薩摩・八幡出身者)が松前に出店。
彼らは昆布・干鮭・干鱈・千貝・鰊などの松前物を上方市場で売り捌き、上方からは衣類など生活必需物資を仕入れ松前に持込む隔地間交易で莫大な利益を得る。
彼らの多くは渡道間もなく藩権力と結びつき、両浜組(ギルド組織)を作り共同行動をとり、また出店を設け運輸業・商業を兼ねた幅広い商業活動を行う事により、諸商品の売買仕込みを通じ集荷過程にまで商権を拡大してゆく。
恒常的交易を望む松前藩は、こうした活動が藩体制維持上は有利であり、彼らに移出入税等の特権を与えるなどの優遇措置をとったことなどにより、彼らは急速に松前交易の独占権を掌握してゆく。
元禄・享保期の鰊生産と需要増大のなかで、彼らは自己の手船だけでなく、共同雇用船団である荷所船(ニドコロブネ)を使用し、大量の物資を短期間に輸送し、彼らの流通独占体制はより一層強化される。
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2月(日付なし)
・郡上一揆、藩の足軽や寝者(一揆反対派)が帳元の歩岐島村(白鳥町)四郎左衛門宅に押し入り帳面・金銭などを奪う(駕籠訴の裁きがはっきりしないうちに、一揆推進派の組織分裂を目論む)。
2日後、近隣の立者(一揆推進派)たちが歩岐島村に集まり、足軽50余人と大乱闘。帳面の番人の万場村(大和町)善次郎は捕縛されるが逃亡。
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3月(日付なし)
・7年戦争、第3次ヴェルサイユ協定。フランス、対オーストリア軍事援助削減。
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3月16日
・酒田、豪商本間家の本間光丘(ミツオカ)、庄内藩から湊西浜に砂防林植林計画の許可を得る。
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3月20日
・郡上一揆、村預けの駕籠訴人の喜四郎・定次郎と夫々の同村の吉十郎・吉郎治が、密かに江戸へ向かい、この日、江戸北町奉行所依田和泉守へ再度嘆願書を提出、無視される。
ここに至り、喜四郎と定次郎は歩岐島騒動を契機に活動を再開した四郎左衛門を中心とする関の寄合所と連絡をとり、最後の手段として箱訴(江戸評定所門前に置かれた目安箱に訴状を入れる)の計画を進める。
* 
4月2日
・郡上農民6人、箱訴を決行

訴状に、「御大切之田地奉預候惣百姓共」(宝暦八年四月郡上藩一揆箱訴状)と記される。
一揆は、領主的土地所有存続を前提に、「御百姓」意識に対応する百姓土地所持観念を基礎にして闘われたことを示す。
* 
4月11日
・7年戦争、ロンドン協約。イギリス、プロイセン・フリードリッヒ2世への援助金支給約束。
to be continued

2009年3月14日土曜日

江の島












江の島に行ってきました。珍しく全行程を往復とも徒歩で。
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①江島神社は3つの宮(辺津宮、中津宮、奥津宮)からなるそうです。これは一番下にある本社である辺津宮で、建永元年(1206)に遷宮したものだそうです。現在の社殿は昭和51年の改築のもの。
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②江の島弁財天の奉安殿。
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③ヨットハーバー。私にしてはうまく撮れた。
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④奥津宮にある「八方睨みの亀」。もとは江戸時代の酒井抱一という画家が描いたそうですが、これは片岡華陽という人の復元図。
(八方睨み過ぎて身動きとれず、のようにも見える)
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⑤稚児ヶ淵から岩屋方向を見たもの。岩屋は入洞できます(500円)。
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先回、小林多喜二と田口タキのことを書きましたが、後で思い出したことがありました。
最近、岩波新書でノーマ・フィールドという女性の「小林多喜二」というのが出版されてます。人気便乗臭さが嫌で、私は読んでませんが、先週日曜日(3月8日)の「朝日」朝刊に短い書評と、「日経」朝刊には著者のインタビューが掲載されてました。
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インタビューの見出しには「恋人への真剣さに驚き」とあり、多喜二が田口タキへの手紙で、「決して、今後絶対に自分をつまらないものだとか教育がないものだとか、と思って卑下しない事」と書き励ましている真剣さに驚いたと、著者は言っています。
また、多喜二の作品には、それぞれの登場人物を大切にし、「様々な価値観を大事にして、誰も排除していない、・・・」とも言っています。
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以下、よく知られる手紙の一節。
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「「闇があるから光がある」
 そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、僕たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味わってみなければならない。」(1925年3月2日 田口タキ(瀧子)宛書簡)。

天文5(1536)年(2) [信長3歳]

■天文5(1536)年(2) [信長3歳]
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4月(日付なし)
・弁護士ヒメネス・ド・ケサーダ、900人率いサンタ・マルタ(コロンビアのマラカイボ)を出発、コロンビアの内陸部、ボゴダ征服に向かう。
小型帆船でマグダレナ河を遡上、難破・インディオの襲撃などによりサンタ・マルタに戻る。
陸路部隊は8ヶ月後、トーラに到着。出発して1年後にはベレスに到着。部隊はスペイン166人のみとなる。
ケサーダは現地のインディオを破り、1537年サンタ・フェを建設、大量の黄金とエメラルドを入手。
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・フランソワ1世、ピエモント公国首都トリノに達する。ピエモンテ攻略に手間取ったブリヨン元帥(エタンプ公爵夫人派)を更迭、モンモランシー元帥(ディアンヌ・ド・ポワチエ派)を任命。サヴォワ、ピエモンテを占領。
* 
・ジャン・カルヴァン、フェラーラに赴き、エルコーレ・デステ妃ルネ・ド・フランスの庇護をうける。
下旬、フェラーラを去り、7月ジュネーヴ着。
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4月4日
・ヘンリ8世、ウェールズ併合法制定。
「ウェールズの悪しき慣習」廃止。司法・行政を完全にイングランド化(分割相続制廃止、法廷でのウェールズ語の使用禁止、ウェールズに対する国会議員選出権付与、1543年大巡回裁判制度設置)。
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4月14日
・陸奥守護伊達稙宗、「塵芥集」を制定。
「御成敗式目」の方式に倣いながら奥州守護法の性格を濃厚にもつ。地頭・百姓間に家父長的関係を残す筈の奥羽においても、両者間に厳しい緊張敵対関係が生まれる。
地頭=国人の利害を代表して農民支配体制を強化するに至る伊達氏の立場・存立意義をその条文(76~82条)に示す。
更に1538年、稙宗は信夫・伊達・長井など7郡その他をあわせる伊達領国の段銭帳を作製する。それは、国人領主=地頭の分限調査を前提とするもので、伊達氏が国人領に対する検地を実施したと云える。国人領主層が、その分限=知行に基づき軍役・棟別段銭等の諸役を伊達に勤仕する態勢が整備される。但し、この段階では、伊達氏は、検地増分=出目を直轄地に編入する方式を採るには至っていない。
* 
稙宗は、これと前後して棟別段銭制度を整備するが、子の実元の越後入嗣を契機に、晴宗(実元の兄)らの叛乱に悩まされる。国人に対する棟別段銭賦課強化への反発とみられるこの乱は、近隣の大名・国人ー蘆名・岩城・相馬・田村・畠山などをまきこみ、1542~47年に及ぶ大乱となり、奥羽の戦国争乱展開の一画期をなす。
* 
4月17日
・神聖ローマ皇帝カール5世、ローマ教皇パウルス3世の前で1時間にわたる大演説。フランソワ1世の侵攻に対し、教皇パウル3世に神聖同盟結成を要求。
教皇パウル3世、神聖同盟で皇帝カール5世の威信向上を恐れ、中立を決め込む。
カール5世、教皇・枢機卿・各国代表の前でフランソワ1世非難演説。
* 
4月18日
・スペイン人の傀儡インカ帝王マンコ2世、再びクスコ脱出、クスコ北西のウルカバンバの谷のラレスで挙兵。兵力10~20万。クスコのスペイン人は190人。
インカ軍は5月6日にクスコ包囲攻撃を開始、サクサワン砦でスペイン軍を脅かすがクスコ陥落には至らず、1539年クスコ北のビルカバンバに退く。
* 
4月24日
・英、アン・ブーリン(ヘンリ8世の2番目の妻、エリザベス1世の母)の不貞の真相を調査する特別委員会を組織。ヘンリー8世がアンを不貞の罪で陥れる罠をかける。
* 
5月2日
・英、ヘンリ8世王妃アン・ブーリン兄ジョージ・ブーリンと4人の宮廷関係者、突然逮捕。内1人が、拷問に耐えかねてアンとの密通を自白。
3日、アン・ブーリン(29)逮捕、ロンドン搭に送られる。
15日、5人の男と姦通したという理由で死刑を宣告。
17日、ロンドン搭広場の処刑台で斬首。処刑前、先妻キャサリン娘メアリー(後のメアリー1世)に詫び状をしたためる。
* 
5月16日
大内義隆、大宰少貮に任ぜられ、同時に義隆の昇殿も決定。
* 
5月21日
・ジュネーブ、市民総会。宗教改革宣言を採択
* 
5月23日
・法華宗徒、比叡山徒と争い相国寺に布陣(「鹿苑日録」)。
* 
5月29日
・英、アン・ブーリンを処刑したばかりのヘンリ8世、新しい愛人ジェーン・シーモア(27)と正式に(3度目の)結婚。
* 
6月(日付なし)
・後奈良天皇、勅使広橋兼秀を山口へ下向させ、大内義隆の即位費献上を賞し剣を下賜。
大内義隆の太宰少弐就任は、律令官制上は資元の大内氏への臣従を意味する。直ちに、陶興房が肥前に出兵、多久城(佐賀県多久市)に資元を包囲。9月陥落。
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6月1日
・比叡山山門三院集会議、江州米などの京都への運送停止。京都七口の関所押える。この日、比叡山延暦寺・東寺ら、法華宗徒追討を奏す。
* 
6月2日
・ローマ教皇パウルス3世、公会議開催教勅発布。カール5世とフランソワ1世との戦争で3回延期していた。
* 
6月8日
・今川氏家督争い(「花倉の乱」)。
武田信虎、玄広恵探(義元異母兄)に味方した甲斐前島一族を成敗。奉行衆、ことごとく国外退去。
* 
6月19日
・オーストリア公女マルガレーテ(カール5世庶出娘)、フィレンツェ入り。
* 
6月29日
・クロムウェル、玉爾尚書
に就任。
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7月(日付なし)
・武田信虎、今川義元の斡旋により、公家三条公頼の次女を嫡男晴信(16、信玄)の正妻に迎える(「甲陽軍鑑」)。信虎の貴種志向による。これを契機に中央貴族・京都大寺院との交流が活発になる。
* 
[信玄の妻妾]
①最初の妻は、武蔵川越城主上杉朝興(トモオキ)の娘。信虎が北条氏綱に対抗している扇谷上杉氏を支援する過程で、政略結婚を取り付ける。信玄は元服前の13歳。天文3(1534)11月、この上杉氏娘は懐胎し没したとの記録あり(「勝山記」)。
②三条公頼の次女は信玄と同年齢。天文7年に嫡男義信を生み、他に2男竜芳(リュウホウ)・長女(後の北条氏政夫人)・3男信之・次女(後の穴山信君夫人)を生む。夫人の姉は管領細川晴元夫人、妹は本願寺法主顕如夫人。
天文19年(1550)、勝沼の大善寺本堂修築に際し、当主晴信・御北様(大井夫人、晴信の母)に次いで「御前様 百疋」を奉加。
弘治4年(1558)3月の有野郷免許状に郷役免許(免除)対象者に「御方様御小者」助八の名がみえ、こうした独自の小者を抱え、表向きの職制としても「御料人様衆」として五味新右衛門ほか家臣10名を付与される。
永禄9年(1566)11月、武田家公文書(竜朱印状)で「御前様より御祈祷」として具足1両が二宮神主に奉納、同10年10月16日、信濃の飯縄神社と松原神社に長刀を奉納。
永禄11年(1568)6月、「上様御奉公を相勤めるについて」として、国内の番匠(大工)宛てに家1間分の普請役を免除。同文のものが6通あり、武田館内での大規模普請のため夫人の要請で職人が集められている。
元亀元年(1570)病没(50歳)。
③「諏訪御料人」:最初の側室で諏訪頼重の娘、母は頼重の先妻麻績(オミ)氏。天文11年(1542)7月、諏訪頼重を滅ぼし、12月、その娘(13~14)を側室に迎える。
信玄の家臣らは反対するが、「甲陽軍鑑」の説では、山本勘助は賛成したとする。天文15年、4男勝頼を出生、その後1年余を甲府で過ごし、弘治元年(1555)11月6日病没。
④油川(アブラカワ)氏の娘:側室としては、ほかに5男盛信・6男信貞・3女(後の木曾義昌夫人)・5女於松・6女於菊らの母で、武田一族。
⑤禰津神平の娘:天文18年(1549)頃、信濃小県郡の地侍禰津氏が、信玄に帰属、その娘が側室になる。永禄6年(1563)、7男信清を出生。
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・土岐頼芸、美濃守となる。
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・ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ着。ジュネーヴでギョーム・ファレルの改革事業に協力開始。たまたま立ち寄ったジュネーヴで、ギョーム・ファレル(52)に強引に説得される。
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7月4日
・「番匠を入れて、南の釘貫を修補する矣。」(「鹿苑日録」同日条)。相国寺の釘貫は、この時点でも本所側が管理。
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7月10日
・足利義明に小弓城を奪われ遁世していた原胤隆、下総相馬の府河(茨城県北相馬郡利根町布川)没。
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7月12日
・エラスムス(71)、バーゼルで没(1469~1536)。
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7月17日
・本願寺、山門三院へ銭300貫文を寄せる。
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7月20日
・近江の六角宗頼・義賢父子、三雲資胤、蒲生定秀ら3万は、東山一帯に布陣。比叡山山門5万は、東山山麓に展開。
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7月22日
・法華宗徒、松崎城を攻撃(「後奈良院宸記」)。山門宗徒、洛北松ヶ崎構および田中構を攻略(「策彦入明記」)。
* 
7月25日
・神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世軍、アルプスを越えプロヴァンス地方に侵入。フランスのモンモランシーは焦土戦術をとる。9月23日、再びヴァール河を渡りイタリアへ敗走。
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7月27日
天文法華の乱
比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、早朝、四条口から京へ乱入、各所に放火。
洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上。あおりを受けて、上京一帯が焼け、革堂行願寺、百万遍知恩院、誓願寺(浄土宗)も炎上(「御湯殿上日記」同日条)。
この頃、誓願寺近辺には、千本釈迦堂末寺の末寺の栢尾閻魔堂引接寺(浄土宗)再興のための勧進所(募金集め場所)があり、これも類焼。
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京都の町衆に日蓮宗が流行し、3月の宗論では洛中で叡山の天台僧が日蓮僧に説破され、叡山など旧仏教側の日蓮宗への反撥強まる。
一方、この前後、町衆は大規模な地子不払い運動を展開。
茨木長隆らは、山門衆徒・近江六角軍に檄を飛ばし、山僧は諸権門に働きかけ、権力側による日蓮衆徒包囲戦線を結成。
* 
京都の都市住民は、一方で細川晴元政権に妥協しつつも洛中から荘園領主権力を排除し、新たな都市共和制とでもいうべき自治体制を模索。
しかし、度重なる一向一揆殺戮・郷村焼打ちによって周辺農村から全く孤立し、洛外代官請・洛中地子末進等により諸荘園領主、ひいては晴元政権の猜疑を受け、遂に天文5年の宗論によって旧勢力挙げての大弾圧を受ける。
* 
以降、町組・町衆による自検断・在地裁判権行使はなくなる。
晴元政権崩壊の天文18年までは、茨木長隆ら晴元の奉行人や山城守護代木沢長政、山城下5郡郡代高畠長信・同甚九即、幕府侍所開闔松田頼康・同盛秀らが洛中の検察にあたる。
* 
「四(ヨツ)の時分に、三条のきぬ屋(ヤ)破れて下京悉く焼く。東よりも出で、声聞師村焼きて、報恩寺に陣取る衆逃げうせて皆討たるゝ。悉く落居してめでたしめでたし。武家より・・・日蓮退治めでたきよし申さるゝ。」(『御湯殿上日記」この日条)。
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天文法華一揆に至る経緯については、次回掲載とします。
to be continued

2009年3月12日木曜日

美濃太田 坪内逍遥生誕の地





坪内逍遥(安政6年(1859)年5月22日~昭和10年(1935)2月28日)、は尾張藩領地の美濃国加茂郡太田宿に尾張藩士の子として誕生。のち、愛知洋学校、東京大学予備門、東京大学を卒業、早稲田大学教授となります。
*
写真の上二つは美濃加茂市の太田小学校脇の公園に、一番下はJR美濃太田駅前にあります。
*
「坪内逍遥は日本に朗読術という一つの新しいジャンルを創り出した功労者でもある。・・・
慧眼な彼はここにヨーロッパのエロキューションに目をつけ、それを骨子として日本の伝統的な語りやセりフ廻しを取り入れた朗読術を考えたのであった。」と松本克平「日本新劇史」にあります。
*
エロキューション【elocution】とは、
「演説・朗読や俳優の台詞(せりふ)などで、その効果を高めるための発声技術。話術。雄弁術。発声法。朗読法。台詞回し。」
のことだそうです。
*
逍遥は、17歳(明治8年)の頃、愛知英語学校で外国人教師から「ハムレット」の抄文を教わって、外国にはそういう技術があることを初めて知りました。
その後、明治9年8月、愛知英語学校を卒業、選抜生となり開成学校(後の東京大学)に入学。開成学校の寄宿舎時代に、円朝の人情話や名優の声色の巧みな赤井雄等に影響され(河竹繁俊著「新劇運動の黎明期」より)、翌10年、九代目団十郎の舞台を見るに及んで驚嘆する、という過程を経て、彼自身の朗読術を確立させたとのことです。
*
松本克平さん自身も、早稲田第二高等学校時代に学部の授業にまぎれこんで逍遥の講義を聞いたそうです。
「また、『ハムレット』『リヤ王』『ヴェニスの商人』の一部を課外の朗読会できくことができた。大隈講堂の、逍遥には大きすぎる演壇に向かい、うぐいす色の縮緬の風呂敷からテキストと扇子を取り出し、斜に構えて顎を引いて読みはじめるのだった。演壇の後方には吉江孤雁、会津八一、中桐確太郎といった教授連が二列に腰かけて耳を傾けていた」と、あります。
*
よく知られるように、逍遥は弟子の島村抱月らと文芸協会を創立します。実際は第1次(明治39年)と第2次(明治42年)とがありますが、その辺は省略します。
第2次出発の際、逍遥は文芸協会の研究所のために自分の土地を無償で提供します。
鴎外は、こう言って拍手を送ったそうです。
「坪内君が住宅に舞台を構へて、舞や劇を興行せられると聞いた時、僕はヲルテエル(ボルテール)のやうだと思った。それから劇場を興されると聞いた時、僕はワグネルのやうだと思った。但し坪内君は王侯の助力を籍らずに遣られるから、えらい」(「中央公論」明治45年4月号)。
*
やがて、愛弟子の抱月と研究生の松井須磨子と恋愛問題がおこり、須磨子を主軸に協会が回転し始め、大正2年に協会は解散となります。
その頃は、新劇が商売(興行)的にも成立する時代となり、新劇で食おうとなど思っていなかった研究生たちも帝劇や有楽座で人気を呼ぶようになっていました。
*
逍遥は、自分の土地を売って協会の欠損を補填し、結局、700坪の土地の3/4を失ったそうです。
「かくて文芸協会は始めから終わりまで全的に逍遥の私財に依存したのであった。その仕事の偉大さ、逍遥の心中の悲痛さ、財政的犠牲の大きさを忘れることは出来ない。」。
*
逍遥の奥さんについて、
「逍遥の妻センは以前根津権現裏大八幡楼の、源氏名を花紫という遊女だったからである。明治十七年、すなわち『小説神髄』を発表する前年、逍遥は十九歳の花紫と知り、その人柄と美貌とを愛して明治十九年、一度知人の士族の養女としてかたちをととのえ、センと結婚した。このとき逍遥二十七歳だった」(関川夏央「二葉亭四迷の明治四十一年」)。
*
人を色眼鏡(差別の眼)で見ない人だったようです。
*
「蟹工船」人気で昨年来脚光を浴びている小林多喜二も、酌婦だった女性を苦界から救い、お母さんと協力して自分の家に住まわせています。
ただ、逍遥は一生添い遂げましたが、多喜二の場合、女性(田口タキ)が多喜二の出世に関わるとして身を引き、添い遂げることにはなりませんでした。
しかし、多喜二虐殺の前まで連絡はあったらしく、遺骸が引き取られた時には駆けつけていますし、葬儀の際の香典は志賀直哉と同額であったとのことです。
*
田口タキのその後は、澤地久枝さんが著書「わが人生の案内人」に書かれています。
*
また、澤地さんは、多喜二が実質的に結婚生活をおくった伊藤ふじ子さんのことについても「昭和史のおんな」に一章を割いておられます。
田口タキ、伊藤ふじ子のお二人とも、その後幸せな人生をおくられたようです。

明治17(1884)年10月29~31日 秩父(15)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 風布組決起す

■明治17(1884)年秩父(15)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月29日
・自由党臨時大会。大阪太融寺。自由党解党決議。代表者100余の圧倒的多数の賛成。
太井憲太郎(自由党左派、関東派領袖)が右派の板垣ら土佐派と妥協し解党に合意。
党内分裂・地方党員激化が原因。
民権陣営は総崩れ、少数急進派をますます孤立した激しい抵抗に駆り立て、困民党人民と提携しつつある一部農民党員を全国的指導体から切り離し、その力を削ぐ結果となる。
ついで、立憲改進党も同様に解党同様となる(12月17日、大隈重信・河野敏鎌・前島密、脱党)。
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神奈川県からは幹事佐藤貞幹(都筑郡、解党大意を読み上げる)・平野友輔・山本与七・石坂昌孝ら出席。佐藤貞幹、残務委員に選ばれる。
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①困民党・借金党の動きと連携する農民党員、
②福島・群馬・加波山事件を起す急進派などの下部党員の動きと、
③言論制限など弾圧を強める政府の圧力の前に、党として統一した方針を出せなくなった幹部の日和見から出た対策。
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「先ず大井憲太郎の所に至れば、其部下事を挙げんとして来り迫りつつあり。名古屋、静岡の各地に於ける同志も亦勃発せんとして、勢極めて険悪なり」(「自由党史」)。
激化事件続発によって世論の批判を浴びることを恐れた緊急措置。
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板垣の土佐派に属する植木枝盛は、直前まで全国遊説を行っており、彼のスタンスは理解できない(黙翁のヒトリゴト)。
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10月30日
・朝鮮、弁理公使竹添進一郎、日本より漢城に帰任。
井上外務卿の指示で軍乱賠償金50万円のうち未払分40万円返上。国王の歓心をかい、金玉均ら開化派援助のポーズ。
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10月30日
・秩父困民党、夜、上日野沢小前耕地で最後の幹部会議。田代栄助・井上伝蔵・加藤織平・高岸善吉・小柏常次郎・坂本宗作・新井周三郎・柏木太郎吉。多くの農民が傍聴。
栄助は再度延期を主張し、井上伝蔵がこれを支持するが、否決される。
深夜、柴岡熊吉・柏木太郎吉ら4名は、栄助殺害を企てるが、栄助が11月1日蜂起を約束したため翻意。
夜明け前、上州勢の組織遅れの自己批判を迫られた小柏常次郎(42)、オルグのため上州へ出発。
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□栄助尋問調書。
「大勢屯集したるにつき、自分および井上伝蔵の両人にて右屯集の人数に対し、三十日間の猶予を請いたるに聴かず。十五日間の延期を請いたるも聴き入れず。一週間も聴き入れざりし。
右屯集人に対し猶予を請いたるに聴き入れざるより紛議を生じ、自分および井上伝蔵の両人・・・小柏常次郎が詰(なじ)りたるは常次郎は他管下にきたりすでに六十日の滞在前途の目的も定らざるに頻り村民を煽動したるより、軍装も整わざる前不時多人数集合するの不幸にあえり、哀れ常次郎の首を斬り屯集の大勢に猶予を請わんと申しのべたるところ小柏いわく全く自分の不行届より引起したるなれば自分を衆に謝し一週間の猶予を請わんと同所を立ちでて屯集の村民に請いたれども聴き入れざるより、この上は是非なき次第につきひとまず帰県、さらに同意者を募りきたらんと翌三十一日払暁同所を出発せり。」。
常次郎は蜂起には「小荷駄方」の役割で参加、活躍にもみるべきものなし。
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□堺利彦著書。
「それから田代がその夜、坂本方の隣家で「将に寝ねんとする時、柴岡熊吉、柏木太郎吉、外二人、抜刀を携へて押来り、活かして置いては外聞悪しき故、切り殺すと申し」云云。
そこで田代は、「お前方は心得違なり、拙者固より生命を惜むにあらず、只小柏が心なく煽動したるにつき、数多のものが此事に加はり、後にて一層困難するを患ひ、延期を乞ひたるなり、然れども斯る場合に至りし上は、来月一日相違なく着手す」と答えたので「右四名は立去りたり」という、田代の申立がある。」
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10月30日
・秩父困民党、上吉田村柳原正男(27)、風布村に白の鉢巻き・襷を配る。
風布村80戸中で蜂起不参加は3、4戸のみ。
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10月30日
・「自由新聞」論説。「地方の困窮」こそ一大国難とする。
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10月31日
・午前0時、上州より秩父応援第1陣遠田宇市ら9名、坂原村出発。
この日、新井貞吉(小板橋禎吉)は、恩田宇市・坂本宗作・宇市と同村の者という3人の訪問を受け、人集めに来たと聞かされるが、貞吉は「風気ニテ天意モ上ラズ」寝込んでおり、昼過ぎに山仕事から帰ってきていた親父の寅吉がまず第1陣として秩父に向う。
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午前11時、秩父困民党、風布組の決起
風布村の大野福次郎・大野苗吉ら抜刀して「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シナケレバ斬ル」と出動強要。
隣村金尾村にも出かける。金尾村惣代花輪治左衛門は50人程を集合場所金毘羅山に向わせる。
風布の宮下沢五郎(31、学務委員、重禁固2年)は花火師でもあり花火を仕掛ける。
宮下茂十郎(32、炭焼き、重禁固3年)は下吉田椋神社前で青木巡査を捕虜にする功績によりそのサーベルを佩くことを許される。
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・午後1時、大宮郷警察署長斎藤警部、巡査10名率い大宮郷出発、井戸村に向う。途中、風布村大野福次郎隊を武装解除・連行。
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・午後2時5分、寄居警察署、秩父郡風布村・金尾村蜂起の状況を埼玉県警本部に打電(第1報)。この日は三条一行が佐野~館林~行田を経て帰京する日。
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「十月三十一日午後二時五分寄居警察署ヨリ本県警察本署へ電報アリ、・・・秩父郡風布村金尾村ノ困民等飛道具ヲ携へ小鹿野地方へ暴発スルノ景況ナリ。因テ速ニ警部巡査派出アレトアリ」(「「秩父暴動始末」に収められた秩父事件の第1報)。
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・午後3時、風布村金毘羅山(130余人集結)より大野福次郎は19人率い先発、荒川右岸を進む。
下田野村・皆野村境で大宮郷警察署長率いる警察隊10名と遭遇。大野福次郎以下12人拘留(福次郎は12月9日の予審終結後ようやく供述を始める)。
福次郎逮捕により、大野苗吉が甲大隊副大隊長、風布小隊長には石田酒造八が据えられる。
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「皆野村派出ノ斎藤警部坪山警部補ハ巡査七八名ヲ率ヒ該村ヲ発シ井戸村ニ至ル途中薄暮ニ及ヒ暴徒十七八名各銃器其他刀剣竹槍等ヲ携へ出ツルニ会シ訊問数時ニシテ終ニ其携帯セル兇券ヲ脱セシム。因テ之ヲ収メ暴徒ヲ皆野村へ拘引訊問スルニ至ルトナリ・・・」(寄居警察署から県警本部へ電報)。
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大野福次郎は警察の取調べに対し、卑屈になることなく、堂々と蜂起準備の過程を陳述。
「答(福次郎) 承知仕供、有リシ事ハ本日ナラヌ昔ヨリ真正ニ陳スル積ニテアリキ」と述べ、夏以来の風布の組織過程を述べる。
逮捕当時、懐中に風布及び近隣の人々の入党証を携えていたが、留置された皆野村戸長小池槌蔵宅の畳の下に隠す。のち密告によって警察の手に渡り、これにより風布村組織工作の全貌が後世に伝わることになる。
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・午後6時、寄居警察署、埼玉県警本部に電報。
「秩父郡村民等各兵器ヲ携へ嘯合スル実況ヲ知ラント欲シ巡査ヲ派遣シ視察セシムルニ風布村山中ニアリテ各自銃砲或ハ刀剣ヲ携へ白布ノ鉢巻ヲナシ同ジク襷ヲ掛ケ、几ソ八九十名屯集シ該巡査ニ向ヒ発砲セリ。為メニ退キ松山小川ノ両署ニ巡査ヲ要求セシニ警部某等巡査十名ヲ率ヒスデニ派出スルニ会シ是ヨリ大宮郷、本野上ノ両署卜協議シ所措セントス。」
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・午後8時、先発大野福次郎ら捕縛の報に、大野苗吉ら金毘羅山集合本隊130余、福次郎隊と反対方向へ出陣、荒川左岸の末野から川沿いの本道を進む。
途中大野苗吉らは金崎村高利貸会社「永保社」襲撃に加担。
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・午後8時半頃、風布から寄居の出る釜伏峠らしい方向と城峯方面でそれぞれ号砲。
「夜八時頃雷カ大砲ノ音スル」(柴崎谷蔵「木公堂日記」)。
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・午後10時、県警鎌田警部(国事担当)、三条太政大臣警護の出張の行田より急遽寄居警察署に到着。
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・午後11時30分、上日野沢の門平耕地にいた秩父困民党新井周三郎(20)・柴岡熊吉ら40名、金崎村金貸会社「永保社」襲撃。地券・証券1万円分焼却、隣家の戸長宅襲撃し10円奪う。帰途、宇国神の高利貸・下日野沢村の質屋襲撃。
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永保社:資本金2万円、出資者200名超。皆野を中心に広い地域に高利貸付の網を張っている。
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・夜、柏木太郎吉ら、田代栄助指示により矢納村城峯神社止宿の陸軍測量技師(城峰山に測量作業に入っていた参謀本部将校(陸軍御用掛)吉田耕作)拘引に向う。11月1日午前3時、拘引。阿熊村新井駒吉宅で田代栄助は軍事指揮要請、拒否。
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陸軍御用掛吉田耕作は、極めて丁寧な扱いを受け、総理田代栄助・会計長宮川津盛の前に連れ出される。
栄助は、「吾党ニハ軍事ニ馴レタル人物ニ乏シク、差向キ先生ヲ推シテ総指揮役ニ置キ万般ノ事大小トナク死ヲ取テ断決セラレタシ。」と請う。田代は軍事面には自信がなく、困民党内部にも総指揮をとれる人材が欠けている。
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・夜、小柏常次郎、上州の上・下日野村で18名集め第2陣として秩父へ出発。
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・この夜、小柏常次郎の妻ダイ、下日野沢の新井蒔蔵の家に泊まる。蒔蔵の妹チヨと共に武器調達を担当。
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小柏ダイの供述では、30日夜、群馬県日野村の自宅に夫常次郎の使者柏木太郎吉が現われ、城峯山にケットを持参するようにとの夫の伝言を伝えられる。
翌31日、ケットを背負って峠を越え、半納で折よく常次郎に会えたという。しかし、この頃常次郎は総代会で批判され、自村で同志狩りだしに励んでいる最中で、ダイの供述は偽り。ただ、ケットを背負って峠を越えたのは事実で、ダイは夫の意思ではなく、困民党指令によって物資調達に奔走していると見るべき。
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・深夜、県警本部長江夏警部長、行田で報告を聞き直ちに寄居に向う。
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・この日、田代栄助、石間村加藤織平方で、織平・新井周三郎・柴岡熊吉ら幹部に、自分の決意のほどを述べる。
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「今諸物価ハ日々下落シ、為ニ高利貸ハ益富シ、貧者ハ益零落シテ家族等ノ撫育モ覚束ナシ、此儘是レ黙シ置テハ、秩父郡中人民ハ餓死スルハ必然卜相考へ、因テ大宮警察署へ説諭方ヲ願出候テモ到底不行届、此上之ヲ黙シ居るレバ餓死スルノミ、因テ秩父郡中人民ニナリ替り、富者ヲ斃シ貧者ヲ救助、此望ヲ逮スルハ非常処置ナラザレパ行ハレズ、望成就スレパ刑罰ニ処セラルゝハ皆覚悟ナラン(「柴岡熊吉訊問調書」)。
蜂起後は、「現時ノ所ハ先ヅ秩父郡一円ヲ平均シ、応援ノ来着ヲ俟テ本県二迫り、事成ルノ日ハ純然タル立憲政体ヲモ設立セント欲ス(「陸軍省御用掛吉田耕作暴徒等ニ危難ヲ受ケタル顛末書」)。
 
・両神村間庭犀次(間庭部落で代々名主を勤める豪家の若い当主)、遁走。
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風布・日野沢村民の鯨波と狼煙に顔色を変え、蔵にあった現金を腹巻い入れて遁走。蜂起鎮圧後、相当の時間があってからに帰って来る。
そもそも両神での最高の知識人として、政治に関心を寄せ、自由党員と目されており、犀次もまた取り調べられるが、彼は村を出た夜からの行動を遂一説明できる旅宿の領収書を持参し、嫌疑を晴らせる。
間庭家はその後急速に没落。広大な邸宅の礎石さえ消え去る。
to be continued

2009年3月10日火曜日

岐阜 中山道太田宿







中山道太田宿。
数少ない写真スポットが早朝と云うのに、あいにくの道路工事中で一部しか撮れず。
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「円(まろ)」。
なかなかアジのあるお店です。
まだ営業されているらしき様子に感激しました。
一度だけですが、かなり酔っ払ってから連れて行って貰っておでんを食べた記憶が。
それからも行きたかったのですが、なかなかここへ一緒に行ってくれるお仲間がいなくてそのままになってしまいましたので、今回は表からだけですがゴアイサツ。
一度連れて行って戴いたその方、一昨年に亡くなられたとか聞きました。合掌。
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木曽川。
写真右手方向の小山のどれかが猿啄城のはずです。
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「日経ビジネス」(3月9日号)
表紙に「雇用騒乱 社員はコストか 人を切らない経営」。
内容見出しには、「遺棄される社員たち」。
ノーベル賞の益川さんの対談「金融工学を叱る」。
「敗軍の将、兵を語る」欄には、京品ホテル廃業に際してプアな経営者と断固闘った金本正道さん、登場。
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政治は混迷を極め、ボッチャン指導者は方向を見失う。
敵失と思ったら味方もエラー。
仕事中は酒を飲むなの原則さえ忘れてしまった大臣。
止めない側近(真実をあえて白日に晒そうとする側近の叛乱か?)
オフレコ報道と国民の知る権利。
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全世界注目の日本ではあろう。
ヒラリーさん、すごく心配していると思うよ、タロウくんのこと。