2010年11月29日月曜日

東京 北の丸公園 もみじの紅葉 深紅に燃える

今日(11月29日)のお昼の北の丸公園。
ついに、もみじの本格的紅葉のピークを迎えつつあります。
この一週間が見頃かと思います。
「★四季のうつろいインデックス」には、昨年の状況もレポートされてます。





















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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2010年11月28日日曜日

横浜 東戸塚駅前のイチョウ並木(2010)

一昨年は12月2日(コチラ)
昨年は11月28日(コチラ)に、
私の住む東戸塚駅前のイチョウ並木の様子を掲載してます。
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今年は、オフの時の剪定をやり過ぎたのか、それとも夏の間の異常気象のためか、銀杏の枝ぶり、葉ぶりが貧弱です。
一番上の写真は、駅前のショッピングセンタからの写真で、これだとまだよく見えます。
いわゆる「夜目遠目傘の内」という・・・。





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信号で止まった際に、車のバックミラーに映ったもの
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銀杏とは全く関係ありませんが、晩秋の感じがよく出ている近所の風景です。
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「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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昭和15年(1940)11月25日 「八紘一宇などいふ言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

以前に、
昭和15年9月27日の日独伊三国軍事同盟締結に関しての、永井荷風「断腸亭日乗」をご紹介し、
続いて、翌月10月の数条をご紹介しました。
今回は、11月の数条をご紹介します。当時の世相の一端が見えます。
(読みやすくするために改行を施します)
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昭和15年(1940)11月1日
十一月初一 舊十月初二 晴。
正午ちかく久保藤子といふ女たづね來る。去月中かきがら町なる怪しき周旋屋野口といふものゝ一室にて知り合になりしなり。
その語るところを聞くに年は三十にて三つにる娘あり。
三年ほど前良人に死別れ、深川三好町に材木屋を営める叔父の厄介になり、丸の内鐡道省文書課の雇となり毎月四拾圓の給料を貰ひ居るなり。
されど生活費もおひおひ高くなり娘の将來も心配になりたれば二三月前より同じ省内の女事務員にて心やすきものゝ秘密をきゝ、且つまた其の勧告によりで日蔭の商賣をなすやうになりぬ。
・・・藤子半日わが家に在り台所の掃除をなし夜具寐巻の破れをつくろひくれたり。
・・・(外食をして)・・・藤子この次の日曜日ごろに前以て電話をお掛けしてまた遊びに参りますとて歸り行きぬ。
彼女の處世談は親獨新政治の世のかくれたる一面を窺ふに足るべきものなるぺし。・・・
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11月4日
十一月初四。晴れて風なし。早朝深夜ともに火鉢の用なし。昨今の暖気は天も亦窮民を哀れむがためならむ歟。
午後丸の内より土州橋に至り日本橋を過りて浅草に徃く。オペラ館芸人踊子等と森永に飰す。
世の噂をきくに二月廿六日叛乱の賊徒及浜口首相暗殺犯人悉出獄放免せられしと云ふ。
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11月5日
十一月初五。晴。
・・・此夜町の噂をきくに市中銀行預金引出しは最大額一口壹萬圓をかぎりとなし、且その用途を申告するなりと云ふ。預入の場合は三萬圓以上は同じく其収納の理由を明にするなりと云ふ。
国家破産の時期いよいよ切迫し来れるが如し
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11月7日
十一月初七。・・・。
人の語るところをきくに、芝居の狂言なども少しは軟きものを演じても差支なし。時間も夜十時を少し位過ぎてもよし。
自粛々々といひて餘り窮屈にせずともよしと軍部より内々のお許ありしと云ふ。
されど一説にはこの御許しは年末にかけて窮民の暴動を起さんことを恐れしが薦めにて、來春に至らば政府の専横いよいよ甚しくなるぺし。
内閣はまたまた變るぺし。園外へ追放せらるべき名士数十名に及ぶべしと云ふ。
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11月8日
十一月初八。空くもりて風俄に冬めきたり。今日立冬の節なればなるぺし。
・・・日暮れて後共に土州橋日本橋を過りて池之端の揚出しに至りて夕飯を喫す。また相携へて淺草公園に至る。
歸途街上に再び酔漢の多きを見る。田原町地下鐡入口にて挌闘するものあり。車中にて大聲に口論するものあり。虎之門にてカフェー歸りとおぼしき者の酔ひて爭へるあり。
禁令すこしくゆるむと見るや忽かくの如き光景をなす。呆れ果てたる國民なりと謂ふぺし。
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11月10日
・十一月十日 日曜日 晴。
炭火を節せんがため正午まで蓐中に在りて讀書す。
哺下かきがら町アパート秀明閣に野口老婆を訪ふ。私娼二人居合せ赤飯をくらへり。、やがて打連れていづこにか出で去りぬ。老婆茶を入替へ赤飯をすゝむ。
・・・。九時過出でゝ電車に乗る。・・・。
このごろ専ら人の云傳ふる巷説をきくに、
新政治家の中にて末信中野橋本其他の一味は過激なる共産主義者なり。
軍人中この一味に加はるもの亦尠からず。
而して近衛公は過激なる革命運動を防止せむと苦心しゝあり。
近衛の運動費は久原小林などより寄附せしもの合して三千萬圓餘に上れり。
新体制の一味徒黨の中には以上の二波ありて両者の葛藤遠からず社會の表面に顕れ出づぺしとの事なり。
又近衛公には妾あり。新橋の藝者にて俳優羽左衛門が狸妓とは大の仲よしなりと云ふ。
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11月12日
十一月十二日。昨夜ふりつゞきし雨午後に至りて晴れたり。
・・・再び銀座食堂に至り晩食を喫す。
恰花電車数輌銀座通を過るに合ふ。
街上の群集歓呼狂するが如し。房山子と共に淺草に至り歌手踊子等と森永喫茶店に入りで笑語す。踊子の中にはいまだ一度も花電車を見たることなしと言ふものもあり。これによりて回顧するに花電車は昭和十一年の秋が最後にて其後は無かりしが如し。
地下鐡の階段また車内に泥酔者の嘔吐せしもの其儘仕末をなさずに打捨られたり。
啻(タダ)にこの事だけにでも現代の日本はまことに住み心地よからぬ處なりと謂ふぺし。
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11月14日
十一月十四日。くもりて暗し。正午(ひる)ちかく寒雨降り初めしころ炭屋の主人来り 
炭品切れになる虞れあり。(中略)
戦争の禍害いよいよ身辺に迫り来れり
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11月16日
 十一月十六日。陰。町會のもの來たりて炭配給券を渡しくれたれば早速出入りの炭屋に行く。
程なく炭一俵持來たりしが以前の如く親切に炭は切りなどせず俵のまゝ門口に置き認印を請ひて去れり。
今年は炭團煉炭も思ふやうには売られぬ由なり。
灯ともしごろ土州橋の病院に行く。{ホルモン注視や三度目}
水天宮門前に花電車數輛置きならべあり。見物人雑沓す。一輛三千圓かゝりしなど語り合へり。
余病院薬局の女の語るところをきくに病院内にて花電車を見たることなしと云ふもの三分の二以上にて、之を知るものは四十あまりのものばかりなりとの事より推測して、現在東京に居住するものゝ大半は昭和十年以後地方より移り来りしものなることを知れ
浅草公園の藝人に東京生れのもの少きも今は怪しむに足らざるなり。
時代の趣味の低落せしも故なきに非ず。浪花節の國粋藝術といはるゝも尤至極なり。
今回の新政治も田舎漢のつくり出せしものと思へばさして驚くにも及ばず。仏蘭西革命また明治維新の変などゝは全く性質と品数とを異にするものなり。
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11月20
十一月二十日。くもりて庭小暗し。八つ手と枇杷の花の白きが目立ちて見ゆ。灯ともしごろ雨降り出せしが姑くにして歇む。
食事せんとて銀座に行く。亀屋の前にて西銀座の或商店の主人に逢ふ。
其人曰く銀座西側だけにて徴兵に出るもの今年は百七拾人あり。程なく南京あたりへ送らるゝ由。
丁年者の体格今年は著しく悪しくなりたりとて検査の軍人ども眉をひそめ居たりと。
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11月21
・十一月廿一日。南風はげしく落葉雨のごとし。
午後佐藤観中央公論社員來話。来春より定期刊行物の紙形小さくなる由。追て書籍も同じく小さき形になると云ふ。晩食後土州橋より淺草を過ぎりてかへる。
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11月23
十一月廿三日。天気よし。
暮方米屋の男米を持来りて言ふ。麻布区内にて米穀配給所といふ事にて纔に閉店失業の悲運を免れし店五軒なり。其他数十軒の米屋は皆店を閉ぢ雇人は満洲に行きて百姓になるべき訓練を受け居れりと。
又米穀は警察署の印判を押して貰はざるかぎり店へ運搬する事を得ず、日曜祭日などつゞく時は警官役人ともに休みとなり店に米なき時あり。不便一方ならずといふ。
此度の改革にて最悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至なりと。右米屋の述懐なり。
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11月25
・十一月廿五日。陰後に晴。
午後谷中氏来話。珈琲及アスパラガスを饋らる。薄暮土州橋に至りかきがら町野口を訪うて歸る。此日暖気小春の如し{華氏八十五度}
▼〔欄外朱書〕西園寺老公薨去
町の噂
熱海温泉宿より歸り來来りし人のはなしに、二二六民間側犯人の中、過日大赦出獄せしものゝ一人某、熱海のスターホテルに二週間あまり宿泊し居りたるが、毎夜土地の藝者十餘名を招ぎ大盡遊びをなせども、警察署にては見て見ぬ振をなし居たり。
宿賃は食事附一日七圓のところそれでは安過るとて間代だけ七圓食膳は別に払ふと言ひてきかぬ故宿屋にては其言ふまゝに為し置きし處、帰り際には女中一人に百円づゝの祝儀を出し、勘定も滞りなく払ひし由。
毎日諸方の名士及同類の者に電報を打つ。其金高も夥しき由。また手紙をかくに書簡箋を用ず。四銭の端書に大字にて五六字かくのみなれば一の用件をかくに端書五六枚を費し得意満々の体なりしといふ。
此の如き濫費の金はいづこより持來りしものか。其源は良民の税より出でたるものと思へば世の中は闇なりと、この話の主は嘆息して又次の如き奇談をなしぬ。

熱海旅館の組合にては、内務省邊より秘密の通達ありしを奇貨となし、外国人には能ふかぎり物を高く賣りて外貨獲得の効果を収めんとしつゝあり
鮪のさしみ一皿十六円。林檎一個一圓づゝ取りし旅館ありしと云ふ。
現代日本人の愛國排外の行動はこの一小事を以て全班を推知するに難しとせず
八紘一宇などいふ言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり
*11月27
十一月念七。
昏暮門を出でむとする時改造といふ雑誌の記者來り、西園寺公及雨声会の事につき余の所感を聞きたしと言ふ。文筆商賣は数年前より廃業したれば今は口にすべき事もまた筆にすべきこともなしとて情(スゲ)なく断りて歸したり。
いつもの如く銀座に行かむとて箪笥町の陋巷を歩みながら不図思ふに、老公の雨声会には斎藤海軍大将も二度程出席したりき。
此人は二月内乱の時叛軍の為に惨穀せられし事は世の周知する所。老公も亦襲撃せらるべき人員の中に加へられ居たりしこと裁判記録にて今は明なり。
而して叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非らずや。
二月及五月の叛乱は今日に至りて之を見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり彼等は兇徒にあらずして義士なりしなり
然るに怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介拂ひとなざず却て哀悼の意を表し國葬の大礼を行はむとす人民を愚にすることもまた甚しと謂ふべし
余は雨声会招飲より以前に両度老公を見たることあり。
最初老公の初めて文部大臣に任ぜられ官立の諸學校を巡視せし時、恰も余は一ツ橋なる附属中学校に在り。公は随員と共に余が机の近くに立ちたり{余は其頃級中にて尤身長低き生徒なりし故机は一番前の方に在りしなり}色白にて髯なく役人らしく見えざる風采は余のみならず全校の生徒を驚かしたり{この事明治二十六七年なるべし}
次は余が亡父に従ひ上海に徃きし時なり。公は欧洲漫遊の途上上海に上陸し日本領事館に休憩せられたりき。余が亡父は老公の文部大臣たりし時其秘書官にて後会計課長となりしが、老公及伊藤春畒公の勧告にて明治三十年官海を去り實業界に入りしなり。亡父は官職とは関係なく両公とは詩文の交もありしなり。
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11月31
十一月卅一日。・・・、食後またオペラ館に行く。この夜土曜日にて淺草の興行町人出おびたゞしく飲食店殊に繁昌の様子なり。・・・
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以下は、「黙翁年表」昭和15年11月の項目のみの抜粋
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昭和15年11月
・海軍軍令部と連合艦隊の図上演習、蘭印作戦から対英米戦を検討。海軍は英米不可分論で統一される
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・東條陸相・武藤軍務局長、陸軍省戦備課長岡田菊三郎に日米戦力比の資料作成を指示。
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・サイパン商業報国会、設立。
翌月、パラオに南洋諸島大政翼賛会、発足。
国防献金・赤誠皇軍慰問金募金活動も活発化。
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・「大日本歌人協会」臨時総会、激論ののち発展的解消を認める。
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・黒部第3発電所完成。工期4年4ヶ月。300余人事故死。
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・築地小劇場、国民新劇場に改名。
依然としてそこを根城とする新劇小劇団の活動は続けられる。
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11月1日
・ダンスホール閉鎖
・切符制、全国で実施。砂糖は1人1ヶ月半斤、マッチは1日5本。
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11月2日
・大日本帝国国民服令公布。男子用国民服法制化。即日施行。
紀元2600年祝典にあわせるため。男子国民服は祭典・儀式にも着用可。
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11月3日
・厚生省、戦時下の人的資源増強のため10人以上の子を持つ家庭1万余を優良子宝部隊として表彰。
・全国水平社と中央融和事業協会の大和報国運動、発会式
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11月5日
・政府、「日満支経済建設要綱」を発表。
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11月5日
・米大統領選挙、民主党ルーズベルト大統領3選。副大統領ワーラス。
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11月8日
・政府、「勤労新体制確立要綱」決定。
・紡績連合会、紡績会社を10社に統合
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11月10日
・皇紀2600年式典。宮城前広場、~14日迄、4万9017人が参列。提灯行列・音楽行進、昼酒も許され赤飯用もち米も特配。
15日、大政翼賛会のポスター「祝い終った、さあ働こう」が貼り巡らされ「臣道実践」が呼び掛けられる。
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11月13日
・第4回御前会議、「日華基本条約案」(汪兆銘政権承認)・「支那事変処理要綱」(重慶打倒)決定。
・拓務省に拓北局・拓南局設置。外務省南洋局設置。
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11月14日
・雑穀配給統制規則公布
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11月15日
・山本五十六・吉田善吉・嶋田繁三郎、大将昇格。
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11月19日
・昭和研究会、解散。
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11月21日
・商業報国会、結成。
・政府、タイ・仏印国境紛争調停を決定。
日本の調停申入れにタイは応じるが、仏は難色を示し、陸海軍は日タイ同盟締結を主張。
26日、・大本営政府連絡会議、タイ・仏印国境紛争調停に関し、タイと政治軍事協定・経済協力協定交渉開始、仏印に対し日本の経済的・軍事的要求を提示し圧力を加えると決定。
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11月22日
・日本海運報国団、結成。
日本海員組合と海員協会、海運報国団の結成とそれへの積極的参加を前提にして解散。
・農機具配給統制規則公布
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11月23日
・大日本産業報国会、結成。
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11月24日
・西園寺公望(92)、没。
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11月27日
・駐米大使に野村吉三郎が任命。
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11月28日
・重慶工作打切り決定。
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11月29日
・来日中の米カトリック神父ドラウト、井川忠雄に会見を申し込む。初の日米私的交渉。
・第2回出版配給機構新体制準備委員会。
鈴木庫三「いまラジオと新聞があれば、書籍や雑誌など不要の時代だ」と発言。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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弘治2年(1556)5月~8月 稲生の戦い 織田信勝(信行)・林秀貞・林美作守(通勝)・柴田権六(勝家)謀反 [信長23歳]

弘治2年(1556)5月
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この月
・松平元信(15、家康)、岡崎へ一時帰省し、亡父広忠の法要を営む。
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・久我通興家臣の山国庄入部に際し、松永長頼が警護のため随行。
この月、長頼は、宇津氏討伐のため丹波入り。  
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5月2日
・この日付、三好長慶の裁許状。
幕府の裁許状と異なっているが、「状件の如し」の書止文言のように直状形式で、長慶自ら最高権力者として発給している文書。
将軍を追放し、武力で幕府機構を破壊し、幕府権力を前提としない新権力体系の頂点に立つ長慶の自負がよく現れている。
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「禁裏御料所主殿寮(トノモンリョウ)領一(市)原野・二瀬・野中三ケ村の事、往古以来異儀なきの処、定使瑞範の手より買得すと号し近年黒瀬与介入道押領の条、種々調略を廻らし彼の瑞範入道を搦め捕へ置かる。
御訴訟により黒瀬を召出し、糺明の上を以て瑞範の儀考(拷)問せしむるの刻(キザミ)、彼売券を認め謀判を加へ沽却せしむるの旨白状紛れなし。
但し入れ置く借物は何時たりと雖も本銭返弁次第在所返し渡すの趣、所持の一札これを出し訖んぬ。
所詮、瑞範に於いてはこれを討たれ、黒瀬に至っては帰状の是非に及ばず所々永領の造意其の咎遁れ難きの間、科銭を出さしめ競望を退けらるゝの上は、三ケ村の事元の如く全く仰せ付けらるべき事肝要候なり。
仍て状件の如し 
弘治弐 五月二日 (三好)長慶(花押) 壬生官務殿」(「壬生家文書」)
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弘治年間(1555~58)頃の三好長慶の勢力範囲:
山城・摂津・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐7ヶ国と播磨東2郡・伊予の東2郡。
長慶自身は山城・摂津・丹波3ヶ国の要の位置にる芥川城を本拠とする。
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武将の配置
山城:細川氏綱(淀城)。摂津:三好長慶(芥川城)。西摂津・東播磨:松永久秀(滝山城)。丹波:松永長頼(八木城)。和泉:(不明)。淡路:安宅冬康(洲本炬口タケノクチ城)。阿波・伊予東2郡:三好義賢(勝瑞城)。讃岐:十河一存(十川城)。
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この頃、同等の版図を持つのは、南関東の北条氏と、天文21年(1552)4月に足利義輝から因幡・伯耆・備前・美作・備中・備後・出雲・隠岐8ヶ国守護職を補任された尼子晴久くらい。
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5月26日
・信長、信行を擁立して「逆心に及ぶ」との風説が高まった「信長公の一のおとな」林兄弟(林佐渡守秀貞・林美作守)の居城那古野城を訪問。
林美作守は信長に自害を強要しようと企てるが、秀貞が反対し信長は事なきを得る。
一両日後、林兄弟は改めて敵対を表明。
これに応じて林を寄親とする荒子城・米野城・大脇城が信長に敵対。(「信長公記」首巻)
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この間、守山城の安房守秀俊(信長弟)が若衆を重用したことで家老角田新五と不和になり、角田により暗殺される。
角田は、罪を問われることもなく、信長の家老林秀貞の保護を受ける。
信長は浪人している叔父の孫十郎信次を赦免し守山城主とする(後、信次は伊勢長島で戦死)。
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これより先、信次家臣が守山城に立籠り、信長は飯尾近江守らに包囲させ、信行方からは柴田勝家らが木が崎口を固める。
この中で、佐久間信盛が城衆を説得、信長弟の安房守秀俊を城主に迎えることで開城が成立。
佐久間はこの功により守山領内で100石を与えられる。(「信長公記」首巻)
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6月
・長尾景虎(27)、出家を決意し、高野山に向かう。
この機に乗じて箕冠城(中頸城郡板倉町山部)城主大熊朝秀が武田晴信に内通し謀反。
長尾政景の説得と、大熊の謀反を聞いた景虎は一転出家を断念、春日山城に戻り、大熊を駒帰(西頸城郡青海町)に破る。(駒帰の戦い)
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・三好長慶、堺の顕本寺で亡父元長の盛大な25回忌を行なう。
帰途、兵庫へ船を回し滝山城(神戸市葺合区布引滝の南側)に松永久秀を訪れる。
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6月5日
・吉川軍(毛利)傘下となった福屋隆兼、先鋒隊として益田領へ進軍。
益田藤兼、宇津河要害(宇津川城)で対戦。
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6月5日
・ヴォーセル休戦条約
アンリ2世とカール5世、5年間休戦協定。交渉はマルシュで始まりヴォーセルで取りまとめ。
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6月24日
・松平元信、三河大仙寺に寺領を寄進(家康の文書の初見)。
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6月24日
・アントワープの城門「生け垣の説教」(野外説教)に5千人が集まる。7月には2万人に膨れ上がる。
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7月
・この頃、倭寇が盛んに明国沿岸を侵略。
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7月10日
・松永久秀、居城摂津滝山城へ三好長慶を招待。
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7月31日
・イグナティウス・デ・ロヨラ(65)、没(1491~1556)。イエズス会会員1千人。
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8月
・武田方の真田幸隆、村上氏の残党が立て籠もる埴科郡雨飾城を苦戦のうえ攻略。
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・ネーデルランドのカルヴァン派、運動が高揚し、聖像破壊を叫ぶ者が各地の教会を襲い略奪行為を繰り返す。
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夏頃
・夏、木下藤吉郎、信長の草鞋取りとなる
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夏頃
・夏、信長、濃姫を離縁。
濃姫は、母方の明智城に身を寄せるが、9月、義龍に攻められ城主光安自害し、濃姫も没す
(但し、諸説あり)。
8月初旬、
・斎藤義龍の兵3千、明智城主の明智光安を攻撃。
8月26日、光安討死。濃姫死亡。
明智光秀(29)、明智城を追われて諸国遍歴する。
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8月21日
・三条西公条ら、大覚寺にて和漢千句。
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8月22日
織田信勝(信行)・林秀貞・林美作守(通勝)・柴田権六(勝家)、謀反
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尾張末盛城の織田信勝(信行、信長次弟)、斎藤義龍に扇動され謀反。
那古野城を預かる信長宿老林秀貞・弟美作守・柴田権六が、これに呼応。
美作守(通勝)500、信長直轄地の篠木3郷(春日井戸市)を押領。
22日、信長勢佐久間盛重(大學)500余、名塚(西区)に砦を築く。
23日、信勝の名代柴田勝家1千が末盛城より、林美作守(通勝=秀貞の弟)700が那古野城より、出陣。名塚砦に迫る。
24日、稲生の戦い
信長700、名塚砦救援。
両軍は、清須の東5Kmの稲生原で衝突。
柴田隊は東から、林隊は南から、信長軍に向かう。
信長はわざと70mほど退き、まず柴田隊に突進。
白兵戦の中で、佐々孫介(成政の兄)たちが討死。
「爰(ココ)にて、上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立とゞまり、終に逸れ候キ」(「信長公記」)。
柴田の兵は総崩れになる。
次に、信長は林隊に向かい、信長自身が槍を取って主将林美作を討ち、勝敗は決す。
前田犬千代(16)奮戦。信長、大勝。信行側戦死450。
信長、その日のうちに清洲に帰陣。
信行勢は末盛・那古野に籠城、信長は両城の城下を焼き払う。
25日、信長、母土田御前(信勝と同居)の助命嘆願によって信勝・林(秀貞)・柴田の謀反許す。
翌弘治3(1557)年11月2日、信勝誅殺。
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林秀貞:
信長の筆頭家老、西春(西春日井郡西春町)近辺に領地を持ち、荒子(中川区)の前田氏など大勢の与力を従える実力者。信光没後、信長から那古野城を預けられる。
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佐久間盛重:
信秀没後、信行に随従。この頃は信長配下として重用される。後、桶狭間で戦死。
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8月23日
・長尾景虎、武田氏に寝返り叛いた重臣大熊朝秀を討伐。朝秀、甲斐に逃亡、晴信家臣となる。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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2010年11月27日土曜日

東京 伝通院(でんずういん) 永井荷風育成地 富坂 東京都戦没者霊苑 礫川公園 春日局の像

安藤坂~伝通院~富坂~後楽園のルートで、樋口一葉と永井荷風に関係する旧跡を巡る小散歩の後半です。
前半はコチラ。
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伝通院
家康の生母お大の方の菩提寺
清河八郎が関東で有志を集めた新撰組旗揚げの地でもあります。
「滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院・・・」(永井荷風「伝通院」)
荷風は、「でんつういん」と呼ばないで、「でんずういん」とルビをふってます。

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残念ながら山門は修復工事中
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清河八郎の名も勿論あります。
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安藤坂から上ってくる伝通院前の道
荷風は、伝通院は「小石川という高台の絶頂」にあるといってます。
但し、安藤坂は市電を走らせるために、荷風の言う様に「地ならし」されたそうです。
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伝通院から永井荷風の生育地跡に行く途中に、川口アパートメント
川口松太郎さんが建てた昭和40年代当時の高級マンション
有名スターなどがお住まいだったようです。
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その少し先に永井荷風生育地跡の説明板
下の写真の左側の坂を上がったところ辺りとのことです。

荷風の生家は父久一郎が、没落階級(旧幕の御家人や旗本)の空屋敷が売物になっていたのを3軒ほどまとめて買い取り、広い邸宅を新築したもの。
邸内には古井戸が二つあり、一つは埋められ、残る一つとその傍の柳の老木は、幼い日の荷風の恐怖の対象であったという。

下段に、この土地に関する荷風の文章を掲載してあります。
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富坂を下りたところに東京都戦没者霊苑
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礫川公園と春日局の像
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「★東京インデックス」  「★寺社巡りインデックス」 をご参照下さい。
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■荷風の文章(改行を施す)
(「狐」、「伝通院」より)
「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、その頃私の父は三軒ほどを一まとめに買い占め古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。
私の生れた時にはその新しい家の床柱にもつやぶきんの色のややさびて来た頃で、昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の蔭はいよいよ暗くなっていた。
その最も暗い木立の奥深いところに昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。
その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年手入する松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵芥を投げ込み、私が生れぬ前から五、六年もかかって漸くに埋め得たという事で。・・・

・・・井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立っている杉の茂りが一層その辺を気味わるくしていた。
杉木立の後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人道のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになってくれればと父が絶えず憎んでいる貧民窟になっていた。
もともと分れ分れの中屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内(カマエウチ)にはなっているが、古井戸のある一隅は住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり家人からは全く忘れられた崖下の空地である。
母はなぜ用もないあんな地面を買ったのかと、よく父に話をしておられた事がある。
すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよいといっておられた。・・・

・・・年の暮れが近づいて、崖下の貧民窟で提灯の骨けずりをしていた御維新前の御駕籠同心が首をくくった。
遠からぬ安藤坂上の質屋へ五人組の強盗が押入って十六になる娘を殺して行った。
伝通院境内の末寺へ放火をした者があった。
水戸様時分に繁昌した富坂上の辰巳屋という料理屋がいよいよ身代限りをした。
こんな事をば出入の按摩の久斎だの、魚屋の吉だの、鳶の清五郎だのが、台所へ来て、交る交る話をして行ったが、しかし私には殆ど何らの感想をも与えなかった。・・・」(「狐」明治41年11月稿)
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「十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。
その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。
今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。・・・


「寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。
それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。
滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である
伝通院の古刺は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。
小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。
東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。
この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刺を中心として、常にその周囲を離れぬのである。・・・

安藤坂は平かに地ならしされた。
富坂の火避地(ヒヨケチ)には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀(ネリベイ)は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない。・・・

「夕碁よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の囁き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(キザハシ)に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者(ビンズルソンジャ)の像を撫ぜ、幼い頃この小石川の故里(フルサト)で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。・・・」(「伝通院」明治43年7月)
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「砲兵工廠」は、今の東京ドーム

2010年11月26日金曜日

東京 北の丸公園 もみじの紅葉はじまる

今日(11月26日)の北の丸公園。
朝のうちに少し雨となり、昼前にようやく薄日がさしてきた。
もみじが鮮やかな紅色に変わり始めました。




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今日は、「商工会法施行50周年記念大会 商工会全国大会」とて、全国からバス180台で武道館へ人々が集合。天皇夫妻も出席とのことで、朝から警官やらイヤホンをしたスーツ姿やらが公園内に充満。
下の写真の中央にある歩道は写真を撮る絶好ポイントなんですが、今日はバス専用道路となり、歩行者は締め出されてしまいました。
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もみじは以上までで、以下からは公園内の秋景色を。
池周辺はこんな感じになってます。
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銀杏の中でも早いものは、ここまで落葉してます。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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