2020年6月30日火曜日

「客観的な数値基準は、時の政権の思惑や政治イベントにかかわらず国民の命を守るために必要」 / 現行基準だと既に2つの指標で「(自粛)要請」レベルの数値だからネ → 東京都「新モニタリング指標」発表へ 数値の基準は設けない(TBS) / 東京都 新たなモニタリング7項目設定 数値基準設けず コロナ(NHK) ← 数値基準の無い「指標」? 



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慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)2月1日~5日 韓国との間に「皇」「勅」問題 慶喜、絶対恭順(降伏)決意 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず...」(西郷の大久保宛書簡) 親政の詔(「征討の大号令」)宣布 

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)1月27日~29日 正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う 政府軍、桑名城接収 相楽総三、「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る 赤報隊四日市事件(赤報隊最初の犠牲者) 綾小路侍従と赤報隊2番隊・3番隊は京都に戻り解隊、徴兵7番隊として戊辰戦争に従軍
より続く

慶応4年(1868)
2月
・この月、対島藩家老樋口鉄四郎、釜山着。持参文書に「皇」「勅」文字あり。日本に朝鮮隷属野望ありと判断。交渉1年余。書契受領拒否。国内での征韓熱かきたてる口実となる。
・2月~3月中旬の箱館の状況。
2月4日、1月9日付の織田信重(勘定奉行兼帯の箱館奉行)・新藤蔵(前年10月まで箱館奉行並)から京坂の状況を伝える「戦争ノ顛末は分り兼候」との注が付いた内状が届き、同日、箱館奉行の江戸詰組頭富田類右衛門らから鳥羽伏見の戦いで徳川方勝利の急報も入り混乱。6日、イギリス商船カンカイ号が入港し、神奈川奉行支配組頭宮本小一郎らからの内状が届き、鳥羽伏見の敗戦、慶喜の江戸帰府などの詳報を知る。11日、庄内藩箱館留守居所に国元から急使が到着、人員総引き上げ命令を支配所(浜益・留萌)へ飛ばし、箱館市街は浮説紛紜、騒然となる。13日、人心の動揺を静めるべく町会所を通して、市中が動揺し、乱暴を働く者が出現することもあると思うが、役人の指示に従って取り押さえる様、仕事には励む様にとの町触が出される。また、同日、杉浦奉行は、幕府による秩序維持に不安と困難を感じ、血判を押した緊急処置対策上申書を定役元〆坪内幾之進に持たせて幕閣へ上申すると同時に、組頭以下の属僚ヘも趣意徹底を図る。①賊船等の襲撃には徹底抗戦、②朝命を奉じた軍艦が平穏に引き渡しを要求した場合は従う予定であるが、幕閣の指示を待って実行する。
しかし、指示を待つ間にも情勢は緊迫度を増す(蝦夷地警衛諸藩の不穏な動き、商人は官吏を軽侮し、火付盗賊は横行、入港船激減で生活物資入荷が絶え物価急騰、人心不安)。
19日、杉浦奉行は、組頭4人(荒木済三郎、高木与惣左衛門、山村惣三郎、中沢善司)と議論。杉浦奉行は、箱館に留まり朝廷の派遣者に無事引き継ぐことを主張、高木はこの意見に同調、しかし、他の3人は諸事を警衛諸藩に預け引き上げを主張。その後、荒木は杉浦に同調。21日、治安維持保障と家業継続を推進する触書を出すと共に、杉浦奉行の決断並びに現況説明と蝦夷地経営の展望に関する上申書(2月27日付)を作成。山村・中沢両組頭は帰府懇願を変えず。28日、御雇英船カンカイ号で、支配組頭荒木済三郎は杉浦奉行の建白書を持参して江戸に向かう。この時、有合せの1万両と奉行所の米も、定役木下官一郎・足軽好本保右衛門を添えて江戸に送る。
一方、老中稲葉美濃守は2月12日、元箱館奉行支配組頭で一橋家郡奉行橋本悌蔵を箱館奉行並に任じ、箱館の現況視察と運上金の増徴(慶応4年は7ヶ年季の場所請負運上金の年季切り替え年)などのため、箱館出張を命じる。箱館奉行所の慶応年間の年々の会計は約10万両で、内9万両程を場所請負運上金等の蝦夷地収納物で賄い、慶応3年からは江戸からの差下金をも断る程。3月2日、出発準備中の橋本悌蔵のもとに、杉浦兵庫頭からの上申書(2月12日付)が到着。橋本はこの上申書を幕閣に提出し、朝命遵奉と恭順、役人の江戸引き上げ指令を受け、6日、品川発で箱館へ赴く。3月16日、橋本悌蔵は支配組頭宮田文吉・御勘定阿久沢銈銈次郎らと蒸気船奇捷丸で箱館に入港。しかし、2月29日、人心動揺鎮静に心を砕く杉浦兵庫頭は、請負人の度々の歎願に押され、自己の責任をもって運上金増徴を見送り年季切替を行っていた。
・ドイツ関税議会選挙。
・ボロディン、ロシア音楽協会の内輪で第1交響曲の試演会をする。
2月1日
・新政府、大赦執行。
・木戸準一郎(桂小五郎)、外国事務掛を兼任。
・東山道鎮撫軍(総督岩倉具定)、大垣藩兵を先鋒とし美濃大垣(東海・東山の分岐点)に到着。土佐藩を含む先鋒は既に集結済み。15日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする本陣は2月15日、京を出発予定。
・英国人医師ウィリアム・ウィリス、アーネスト・サトウらと共に大阪湾安治川河口の天保山堡塁に行き、京都から送還されてきた会津藩傷兵の治療にあたる。
2月2日
・慶喜、絶対恭順(降伏)決定。慶喜、恭順決定のため鳴物・月代剃の停止命ず。
慶喜は、江戸に帰って以来、恭順するでもなく主戦論をとるでもなく曖昧な態度をとってきた。尾張の徳川慶勝や越前の松平慶永が新政府内で慶喜追討に反対し、救解運動を続けており、慶喜はその成果に期待し、諸侯の力による復権を願っていた。しかし、1月下旬、近畿以西の諸大名はほぼ新政府に跪き、25日には尾張徳川家でさえ重臣14名を処刑し、新政権への忠誠うに至る。ここに至り、慶喜は絶対恭順を決意し、事後処理は勝海舟・大久保一翁に任せる。
・西郷の大久保宛手紙。「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず、・・・」
「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは相済まず、必ず越土などよりも寛諭起り侯わんか。然れば静寛院と申しても、矢張り賊の一味となりて、退隠位にて相済み候事と思召され候わば、致し方なく候に付き、断然追討在らせられたき事と存じ奉り侯。かく迄押し詰め侯処を、寛(ユル)やかに流し候ては、再びほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」(大久保利通宛書簡、2月2日付)。更に、「何卒御持ち合わせの御英断を以て御責め付け置き下されたく」と大久保に要請。尚、静寛院(前将軍家茂の妻、和宮)は、慶喜の周旋依頼をうけ寛大な処置を求めていた。
・政府、郡上藩に飛騨地方取締りを正式に命令。4日、竹沢寛三郎、飛騨陣屋入り。7日、陣屋門前に「天朝御用所」の高札を掲げ、年貢半減・諸運上軽減を布告。
先(1月18日)に郡上藩より飛騨警守の申し出あるが、安永2年の農民蜂起での郡上藩の鎮圧・虐殺の記憶から、飛騨に不穏な空気が流れ、別に岩倉から竹沢寛三郎への口達となる。しかし、1月下旬より相楽総三のような草莽排除・年貢半減令廃止方針を決めた政府は、改めて郡上藩へ命令。従って、竹沢と郡上藩は交錯。郡上藩は、竹沢の年貢半減令が戦費調達に支障をきたすと東山道総督府に訴える。
2月3日
・親政の詔(「征討の大号令」)、宣布。9日、征討軍編制。
・官制を「3職7科制」から「3職8科制」に改める。
同時に徴士は、「徴士無定員、諸藩士及都鄙有才ノ者公議ニ執り抜擢セラル、則徴士卜命ス、参与職各局ノ判事ニ任ス・・・」と新しい規定がなされる。徴士と参与と判事との職制上の関係を、明確に定める。2月20日の広沢日記にも「徴士参与職内国事務局判事被仰付」とあり、まず徴士となり、その上で参与職につき、内国事務局判事の仕事をするという仕組になる。
・外国事務掛を外国事務局と改める(外国事務局督・晃親王)
・稲葉正巳(老中格)、その職を退かれる。
2月4日
・渋沢成一郎(喜作)、鳥羽伏見の敗戦処理を終え江戸に戻る。
・伝習隊兵卒400、脱走し八王子方面に向かう。
・松平容保、慶喜に会い、養子喜徳に家督を譲ることを申し出、輪王寺宮に謝罪嘆願依頼、慶喜に従って恭順の姿勢を示す。しかし、明確に抗戦準備を進める。
・小泉八雲の妻となる小泉セツ、島根に誕生。
2月5日
・綾小路一行、京都着。鈴木ら、投獄後釈放。一部の者は、徴兵7番隊として採用。綾小路は海軍先鋒総督(後、伯爵)。
・ロッシュ、兵庫に戻る。
・徳川慶喜、松平慶永に書簡。恭順の態度を表明。
・赤報隊の大木四郎ら6人、下諏訪発。7日、遊撃隊大砲隊、出発。11日、金原忠蔵らが佐久へ出発。15日、先頭が軽井沢辺まで行っていて、不慮の衝突を避けるため、和田峠以降に引返す指示をだす。
・歩兵第11・12連隊の兵千余、野州方面に脱走。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、小浜・広島藩兵を率い小浜発、7日、敦賀の陣屋入り。9日、敦賀沿岸の砲台を巡検、気比社に参詣、11日、北陸道諸藩に命じ、勅使一行への軍需物資供給、運搬の為の人馬準備を行わせる。13日、敦賀発。
・開成館(藩直営商館)、高知に設立。

つづく




米大手SNSのRedditは月曜日、79万人のユーザーを抱えるトランプ支持者最大コミュニティ「The_Donald」がヘイトスピーチによるハラスメントの温床になっているとして凍結すると発表

小学校教師が相次ぎ感染 校内を消毒し臨時休校に(テレ朝) / 相次ぐ教師の陽性…小池知事は市中感染拡大も見て見ぬふり / 小池都知事のご都合主義「悪いのは私じゃなくて夜の街」(日刊ゲンダイ) ← 「ウィズコロナ」とか「自衛」とか。自己責任でやってね、ということか! 



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【何を隠したいのか⁉️】 学歴に関して聞かれると自身の卒業は《大昔の前世紀のお話》 と、古い話へ押しやった上でイメージ操作をする小池百合子



【読書感想】女帝 小池百合子(fujipon) - BLOGOS ;「この人が都知事で、次の選挙も当選濃厚なんて、むしろ、フィクションであってくれないか……」 





2020年6月29日月曜日

江ノ島 片瀬西浜~鵠沼海岸、片瀬東浜を散歩 2020-06-29

6月29日、晴れ
梅雨の晴れ間、久しぶりに、江の島に行って、片瀬西浜~鵠沼海岸、片瀬東浜を歩いた。
さほど極端に暑くもなく、浜辺の散歩、なかなかグゥでしたよ。
波が良かったのかな、サーファーさんも多かった。
今年は海の家の無い海岸なんだね。

今日の歩数は1万3千歩。ボケっと海を見てただけなので、歩数は少ない。

▼片瀬西浜



▼片瀬東浜


小池百合子が何も言わないので → 埼玉県知事「東京都への不要不急の外出控えて」(20/06/29) / 埼玉県知事「都内での会食ぜひ避けて」 ← 自粛要請は補償とペアが原則 知事間できっちり打ち合わせて下さい!







ヤマザキマリ×内田樹対談 オリンピックについて(高知新聞)

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)1月27日~29日 正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う 政府軍、桑名城接収 相楽総三、「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る 赤報隊四日市事件(赤報隊最初の犠牲者) 綾小路侍従と赤報隊2番隊・3番隊は京都に戻り解隊、徴兵7番隊として戊辰戦争に従軍

慶応4年/明治元年記(7) 慶応4年(1868)1月23日~26日 旧幕職制を徳川家「家職」に改編 小野・三井・島田組、新政府の基金11.5%を負担する 大久保利通、大坂遷都建議、否決される 各国(6ヶ国)が局外中立宣言 赤報隊相楽総三に帰洛命令(草莽隊の位置づけ、民衆慰撫策の変容) 丹波山国隊組織
より続く

慶応4年(1868)
1月27日
・太政官代を二条城に移す。
・深尾左馬之助が率いる土佐藩兵2ヶ小隊、松山藩入城。翌28日、四条隆謌命による長州藩兵2ヶ大隊、三津浜上陸。四国地方はさしたる争闘なく鎮定。大体において、正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う。
これより先、宇和島藩主伊達宗城が藩兵を派遣、13日松山城を接収。
軍事参謀兼中国四国征討総督四条前侍従は、21日、明石城で長州軍に伊予松山討伐の命を発す。第2次長幕戦で、松山藩は長州領大島を攻略しようとして撃退されるが、長州藩はこのことへの報復のため、四条に働きかけて松山討伐命令を出させる。
松山藩は、土佐・長州・宇和島3藩に狙われ、陸上は土佐(2月27日迄1ヶ月滞陣)、海上は長州に制せられる。宇和島は土佐を「応援」ということになっているが、何を得たか明らかでない。
・慶喜、フランス公使ロッシュと会見。ロッシュ、「建白書」提出。
・勝海舟、シャノワン少佐を訪問。薩長を撃つ事について議論。松本良順へ100両支払う
1月28日
・朝廷、東征の軍を起すと議決。諸藩は軍が集結するに従い出発。
・政府軍、桑名城接収。桑名藩留守家老酒井孫八郎が城を明け渡す。下級藩士の多くは江戸へ走り松平定敬の跡を追うように越後・会津・庄内と転戦、流浪の軍隊といわれた。
・土佐迅衛隊、京都着。乾(板垣退助)、東山道先鋒迅衛隊総督就任。
・サトウ、初めて大久保一蔵を訪問。
・相楽総三、美濃大久手宿で再び相楽隊に合流。翌日、中津川に進む。2月4日、信州飯田入り。この時、相楽は自ら「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る。東山道進軍、「官軍先鋒きょう導隊」の名乗りは、政府の許可なく相楽の独断。
・赤報隊四日市事件、赤報隊最初の犠牲者。
滋野井侍従を中心に綾小路隊に合流するべく松ノ尾山から出発した赤報隊、桑名城下で宿泊のところを捕縛され、四日市で8名が殺害される。滋野井は京都送りとなる。
28日、滋野井侍従の一行は桑名城下の南にある安永村の青雲寺に宿泊。この時、亀山藩の進藤百助が一隊を率い桑名城下外れに敗残兵に備えて進駐しており、偽公卿と強盗=赤報隊の宿泊を知る。岩倉具視から出たと思われる「赤報隊は偽官軍、公卿を擁しているが、それは偽物、見当りに討て」との命令に従い、青雲寺の滋野井侍従以下十数人を捕縛し四日市へ連行。滋野井を偽物と信じてはいたが、嘘でも公卿なので処置を差控え、数人の生掃りと共に大垣の東征軍本営に引渡し、京都へ送る。
捕縛の際に闘ったのは、赤木小太郎のみ。亀山藩士志方小弥太は腿に銃創をうけ死亡。亀山藩の隊長進藤百助は、捕縛した者の中に、川喜多真彦(国学に精しく、号は櫪国、庄村貞甫と「文苑名家紀年大成」を編む。進藤百助はその門人)がいるのを知り、助命運動にかかるが、藩の力ではどうにもならず、四日市を貫流する三滝川(御嶽川)河原で、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵3人を斬首。その他の者は、青雲寺を逃げ出したところを近所界隈の者が、棒や竹槍で追い廻して殺害。
・嘉彰親王、大坂から京都に移る。征討府は「大坂裁判所」となる。
1月29日
・新政府、京大坂の大商人百数十人を二条城に集め、戦費に充てる会計基立金300万両の募集を命じる。
三井・小野・島田の御為替方三組の33万両はじめ、京大阪の一般商人の応募が7割以上で、285万両余、ほぼ目標額に達する。
・板倉周防守勝静、老中を退く。
・綾小路侍従と2番隊(鈴木三樹三郎)・3番隊(武田文三)、名古屋発、午前11時、桑名着。ここで、滋野井侍従一行の悲報を知る。2月1日四日市、2日坂ノ下、3日水口、4日大津、5日京都着。
大原宰相重徳の家人北川大膳が名古屋に来て、綾小路・滋野井両卿とも至急帰洛せよとの命を伝える。綾小路名で先発の相楽隊に、「帰洛せよ」と使者を出し、京都引き返しの準備にかかる。
桑名で、山科能登ノ介は、大和十津川出身の前川鏡之進から、前日、四日市で「滋野井侍従と称するものを擁して、旗をたてて進んでゆく、それらの中の主なものが殺された」と聞く(松ノ尾山金剛輪寺から進軍した者が殺されている)。前川は、「本物でも構わん、附属のものの中で頭立ったものは斬れということになっています。さあ早く逃げてください」と促される。
山科能登ノ介は、武田文三らと相談し、東海道征討総督橋本少将実梁・副総督柳原前光綾小路を会わせ、問題は氷解、至急帰洛となる。入京後、新撰組脱退組の鈴木三樹三郎・新井陸之助・篠原泰之進は御親兵取締所に喚ばれ、拘禁され大津の元石原獄に入れられるが、1週間で放免となる。
京都で解隊した赤報隊は、「徴兵7番隊」として採用されることになる。山科能登ノ介は東伊佐男の変名を棄て、朝廷の医家に戻る。綾小路は、前に綾小路家から離別されており、実家に復し大原重実を名乗り、海軍先鋒総督となる。大原重実の子重朝と、滋野井公寿は、後に伯爵を授けられる。
「徴兵7番隊」は3小隊編制で、半隊長が阿部十郎・宮川次郎・児島一郎、監察は西本祐準・油井錬三郎(武田文三)・多賀啓蔵。のち宮川次郎が病死し、後任は速水湊、吉仲直吉も後に半隊長になる。5月18日京都発の甲州鎮撫総督四条少将隆謌に随行、6月1日遠州自須賀で甲州平穏を聞き東京へ向う。四条少将は奥州平潟ロ総督に任ぜられ、品川から万里九で、22日朝磐城小名浜に上陸。8月7日の大坪の戦闘、9日は相馬領目尻ロの戦闘、11日は菅谷ロの戦闘、その後、9月6日仙台入り、30日に仙台発、11月14日東京凱旋。この時、「7番隊」と行を共にした四条少将直属の小宮山勝蔵は、黒駒の勝蔵のこと(よって世間に伝わる次郎長対勝蔵の明治元年駿府一件なるものは誤謬である)。「徴兵7番隊」は、筑波、相馬、伊予、芸州の各藩兵と合同して戦い、戦死7名、負傷者は馬淵虎吉他17名を出す。

つづく


東京都知事選 情勢報道  6月29日の東京新聞を反映しました。— 三春充希(はる) ⭐みらい選挙プロジェクト






吉村知事に「現場を見に来て」…府下の現役教師が注文…新型コロナ下の混乱(デイリー);「吉村知事やその周辺はなぜ生徒への郵送方法やそれに含まれる代金も含めて立案しなかったのか疑問が残った。男性教諭は「本当に無計画だったとしか言いようがない」と振り返った。「吉村知事の人気取りのパフォーマンスだ」との批判もあったという」



▼維新流アレコレ








2020年6月28日日曜日

水無月を頂いた 2020-06-28

6月28日、あめ
今日は大好物の水無月(みなづき)を頂いた。
虎屋の水無月!


今日は午前中、本降り。


以前、京都駅で撮ったもの。
「五建」はお菓子屋さんの屋号。
これによると、6月30日に食べるのが古来からの習わしだったということになる。







慶応4年/明治元年記(7) 慶応4年(1868)1月23日~26日 旧幕職制を徳川家「家職」に改編 小野・三井・島田組、新政府の基金11.5%を負担する 大久保利通、大坂遷都建議、否決される 各国(6ヶ国)が局外中立宣言 赤報隊相楽総三に帰洛命令(草莽隊の位置づけ、民衆慰撫策の変容) 丹波山国隊組織  

慶応4年/明治元年記(6) 慶応4年(1868)1月19日~22日 慶喜・ロッシュ会見 赤報隊、美濃・岩手宿着 土佐藩迅衛隊(参謀乾退助)、高松藩開城 青松葉事件(尾張藩の佐幕派粛清) 慶喜、退隠表明、在京列藩主に救解依頼
より続く

慶応4年(1868)
1月23日
・(新2/16)旧幕府の職制改め、徳川家の「家職」の組織とし、陸軍総裁勝海舟・会計総裁大久保一翁・外国事務総裁山口直毅・海軍総裁矢田堀鴻・海軍副総裁榎本武揚(旧海軍頭)ら登用。譜代大名の職を免じ、直参旗本を登用。幕府が日本を支配する政府であることを制度的に諦める。中島三郎助(48)、両番上席軍艦役となる。
総裁・副総裁:①陸軍:勝安房守(海舟)・藤沢志摩守(次謙、梅南)。②海軍:矢田掘讃岐守(鴻、景蔵)・榎本和泉守(武揚、釜次郎・梁川)。③会計:大久保越中守(忠覚、一翁)・成島大隅守(惟弘、柳北)。④外国:山口駿河守(直毅)・河津伊豆守(祐邦、三郎太郎)。
・新政府、由利公正建議により会計基金300万両決定。小野・三井・島田組、11.5%負担し、会計局付き御為替方として募債協力。
小野組:旧幕時代から禁裏出入りを許され、御所や仙洞(上皇の御所)の用達を勤める。「小野組の総理」西村勘六の隣家は、たまたま大納言家の雑草を兼ねた社家(神職)で、その縁により由利公正と知り合い、軍用金調達について相談をうける。早速、勘六は、三井三郎助と島田八郎左衛門に話し、夫々1千両ずつ持参。更に、鳥羽・伏見の戦が始ると3家で1万両を献金。
・新政府、各国代表に局外中立を要請。
・大久保利通、朝廷改革を目的として、岩倉・木戸の同意を得て、大阪遷都意見書を朝議に提出。太政官会議で否決、但し、天皇自ら兵を率い大坂親征することは28日の朝議可決。3月21日、大坂行幸。
17日、大久保は内国事務掛に任命され、同日、総裁有栖川宮熾仁の諮問に応じ、天皇の石清水八幡宮と大坂行幸を強く訴える。目的は、「朝廷の旧弊御一新、外国御所置(大坂の外国公使館との交渉に便利)」にあり、親王も趣旨を理解(「大久保利通日記」上)。翌18日、大久保は、同僚広沢真臣に遷都が内国事務掛の仕事で「当務の急」だと相談して同意を得、副総裁岩倉具視も賛意を表し、親王と副総裁三条実美にも提案するよう助言される。19日、親王・三条に提案すると、特に反対もなく、広沢・後藤象二郎と相談して、朝議に付すことに決める。23日、遷都の建白書を太政官代に提出、公卿・諸侯で構成される議事所で持論を展開。大久保は、「復古の鴻業(コウギョウ)はまだ道半ばである。朝廷が一時の勝利をたのんで永久の治安が実現すると思っているならば、北条という前姦(ゼンカン)の跡に足利という後姦(コウカン)が生じ、(建武の)覆轍(フクテツ)を踏むことは必然である」(「大久保利通文書」2)と主張、南北朝内乱にたとえて、天皇親政の崩壊の危機を訴える。大久保の危惧は京都の存在にある。京都は「数百年来、一塊したる因循の腐臭」を放っている。これを一新して、「一天の主(シュ)」(天皇)と「下蒼生(シモソウセイ)」(国民)の「国内同心合体」を実現すべきで、その為に「大英断を以て挙げ玉ふべきは遷都にあるべし」とする。人民の為の天皇(絶対君主)を核に、「万国に御対立」(=「万国対峙)」)を実現するには、天皇は京都の「玉簾(ギョウクレン)」の中に閉じ篭らず、国民の前に姿を現すべきだと言う。
大久保の大坂遷都論は保守的な公家には過激に映り、支持を得られず、この日は、「衆評決せず」(大久保日記)。26日、大久保は岩倉から遷都反対の中心人物は久我建通(タケミチ、前内大臣)と聞かされる。久我らの主張は「遷都の事、薩に奸謀(カンボウ)これあり、是を期にして薩長相合し、大いに私権を張り候」(「大久保日記」)という。
①戊辰戦争遂行上の戦略として天皇親政(征)をアピール、②大坂の富商からの資金調達、③王政復古を宣言しつつも、新しい政権を作るという宣言。寺社・公家などの伝統的旧勢力からの脱却、イメージ、薩長で天皇を囲い込む。
「朝廷上に於て一時の勝利を恃み、永久治安の思をなされ候ては、則ち北条の跡に足利を生じ、前姦去て後姦来るの覆轍を踏ませられ候は必然たるべし。これに依り深く皇国を注目し、触視する所の形跡に拘らず、広く宇内の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、国内同心合体、一天の主と申し奉るものは斯く迄に有難きもの、下蒼生といへるものは斯く迄に頼もしきもの、上下一貫、天下万民感動涕泣いたし候程の御実行挙り候事、今日急務の最も急なるべし。是迄の通、主上と申し奉るものは、玉簾の内に在し、人間に替らせ玉ふ様に、纔に御職掌には乖戻したる訳なれば、此の御根本道理適当の御職掌定りて、初て内国事務の法起る可し。右の根本推窮して大変革せらるべきは、遷都の典を挙げらるるにあるべし。如何んとなれば、弊習といへるは理にあらずして勢にあり、勢は触視する所の形跡に帰す可し。今其の形跡上の一二を論ぜんに、主上の在す所を雲上といひ、公卿方を雲上人と唱へ、竜顔は拝し難きものと思ひ、玉体は寸地を踏玉はざるものと、余りに推尊し奉りて、自ら分外に尊大高貴なるものの様に思食させられ、終に上下隔絶して、其の形今日の弊習となりしものなり。敬上愛下は人倫の大綱にして論なき事ながら、過れば君道を失はしめ臣道を失はしむるの害あるべし」(「大久保利通文書」)。
・新政府、理由の如何を問わず暗殺を禁止する触れを出す。
・アーネスト・サトウ、公使館付医官ウィリス、大坂着。25日、ウィリス、入京。相国寺養源院収用の100人の薩摩傷兵に外科手術。礼金500両は公使館付医官の義務として受取らず。ウィリスは2週間滞在。サトウは兵庫に呼び戻され26日、西郷と会見。
・相楽総三、再度太政官に建白(赤報隊への錦幟の下賜、東山道軍の附属とする)。意見上申というより東山道侵攻の決意表明。この頃、政府の征東政策は大きく転回。当初の兵力不足状況から、関東以西諸藩の帰順が決まり、動員された諸藩兵中心の組織原理に展開(=草莽隊不要、切捨て方向)。また、新政府は年貢半減令を民衆慰撫政策の前面に押し出すこともなくなる。
速やかに東征軍を進め、赤報隊に「錦幟」を下賜されたいと歎願。東山道筋は「兵威モ不張」、「好藩」も多く、是非とも東山道で朝廷の為に働きたい、その為にも東山道軍附属として欲しいと要望。同時に、信州、甲州、武蔵、相模、両毛、両総、奥羽に同志が居り、官軍出陣の時には決起することになっているとも述べる。相楽は、かつての関東地方での擾乱工作や同志糾合の実績を背景に、東山道進攻の決意表明ともいうべきもの。
しかし、政府の征東政策は大きく転回しつつある。当初は、兵力不足の為、相楽ら草莽も兵力として期待され動員される。しかし、1月末迄に、関東以西諸藩の新政府帰順という大勢が明らかになり、征討軍は動員された諸藩兵中心の組織編成原理となる。つまり、諸藩兵を正規軍とし、相楽ら草莽隊を切り捨てる方向をとるようになる。
次に、鳥羽・伏見戦争以降、民衆の政府支持をとりつける策として年貢半減令を一時採用していた。しかし、三井・島田・小野・鴻池ら京阪の大特権商人から軍事費献納を受ける代償に、彼らに対し、年貢米取扱を特権的に保証し、米相場を掌握することによる利潤確保を保障する必要に迫られ、新政府の年貢半減令がその障害となってくる。1月下旬以降、政府は年貢半減令を民衆慰撫政策の前面には押しださなくなる。三井らが、軍事費調達の代わりに、年貢半減令取消しを政府に迫ったと推測できる。
・赤報隊綾小路侍従隊、22日に岩井を発ち、この日、加納着、ここで赤報隊に関する悪い噂を聞く。参謀山科能登ノ介は阿部十郎を上京させ事実無根と陳弁させる。
江州松ノ尾村に滞在中の赤報隊士と称する強盗が附近の豪家を襲い、金を強奪したとの浮説。しかし、目的をもって作られた噂であり、弁明も効果なし。
29日、相楽は布達を発す。「此度滋野井殿綾小路殿御人数御下向被成侯挙動ニ乗ジ、宿々村々無賃ニ而人足ヲ申付、或ハ手当無之泊リ等イタシ候モノ有之趣、以之外之事ニ侯、右者偽リ者ニ付、右横ノモノ宿々村々竹槍等用意イタシ置、突殺侯様急度可致候、決而遠慮無之事ニ候、若差扣(ヒカエ)其儘致シ置候ハバ、其宿其村役人共不調法ニ候間、他日急度御沙汰有之事ニ侯以上。 辰正月 官軍一番隊 相楽 総三」。
・庄内藩の府内取締りが廃止。
・1/10の騒擾事件で備前藩家老日置帯刀家臣滝善三郎、米人の目の前で作法通りに切腹。
・鍛治橋大名小路の酒井飛騨守役宅を新選組屯所に当てられる。
・河井継之助ら、大坂を去る。長岡藩兵、江戸に帰着。
・細井半之助、幕臣戸川伊豆守から託された徳川慶喜より山内容堂宛の救解依頼書を京都に届ける。25日、山内容堂、徳川慶喜からの救解依頼書を朝廷に提出。
1月24日
・軍事参議兼中国四国征討総督四条隆謌、姫路着。27日、大坂に戻る。
1月25日
・各国(6ヶ国)代表、局外中立宣言。幕府と天皇政府を対等な交戦団体と認める。天皇政府には有利。幕府にとっては、正当政府が交戦団体に格下げされたことになる。
各国代表は連日会議を重ね、25日、局外中立を布告。各国は、鳥羽・伏見戦後の日本の国内情況を、幕府と天皇政府が国土を2分していると捉え、この戦争を幕府政権と天皇政権との間の戦争と規定、居留民の利益と安全、戦乱長期化に伴う国内市場荒廃を回避する為に、厳正中立を保つ事を決意。
これは、幕府と天皇政府が対等な交戦団体と認めた事を意味し、戦争は薩摩藩の反乱とする幕府の主張は退けられる。しかし、条約を対外諸国と結んでいる日本側当事者は幕府であり、列国側からすれば依然、日本を代表する「正当政府」は幕府の筈であるが、在日各国代表は本国政府の指令なしに、新政権(天皇政府)を幕府と対等な政治権力であると承認。天皇政府にとっては旧幕府と対等の国際的地位を承認される利点が、旧幕府にとっては正当政府から交戦団体に格下げされる不利がある。
・木戸準一郎(桂小五郎)、太政官の徴士、総裁局顧問となる。伊藤博文(28)、参与に抜擢。
・綾小路侍従、鵜沼で信州入りを断念、赤報隊先鋒相楽に戻るよう指示。相楽従わず。綾小路、2番隊(鈴木三樹三郎)・3番隊(武田文三)率いて引き返し、27日、名古屋着。
相楽は、「今、急に進軍して、一方は甲府を一方は碓氷峠を扼さないでは官軍の不利となります。譬え、後に軍令に反したといわれても、実利の要地を押えないでどう致しますか、相楽は名聞も栄達も考えていません、徳川氏が信州甲州の嶮を扼し、錦旗に抗したら日本はどうなりますか、今は区々たる一身のことを考慮するときではありません」といって引返しに応じず。
・赤報隊相楽総三に帰洛命令。相楽は潔白を弁明するために京都に戻る。詳細は不明であるが、相楽は28日、美濃大久手宿の相楽隊に合流。
・赤報隊(滋野井隊)を捕縛し鎮圧せよとの命令が下る。
・丹波山国隊組織。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、小浜入り、慶喜追討の「大号令」・「農商布告」・「制札」3件を小浜藩重役に示し、朝命に従う旨の請書を出させる。
・箱館の飛脚屋島屋方に「上方大変」で始まる書状届く。鳥羽伏見の戦い、4日の仁和寺宮出馬までの情報。28日、「大政復古の大号令」の詳細情報も届く(箱館奉行杉浦兵庫頭の日記「日次記」)。
1月26日
・ロッシュ、幕府新任の陸軍総裁勝麟太郎ら諸役と面接。慶喜、ロッシュに宗家当主を紀州藩茂承(前将軍家茂の子、17)に譲ると告げる。
・サトウ、兵庫で西郷吉之助と会談。開国和親布告条文について議論。条約改正議論。

つづく




小池都知事「都税流用選挙」の狡猾 公務と称して練り歩き(日刊ゲンダイ); 「告示後の動画配信は、都庁の広報を利用した自己宣伝と捉えられかねません」 「都の役人は『動画配信は絶対にやめて』と知事側に伝えていたそうです。しかし、結果的に知事側は忠告を無視。」    

10万円、混乱続く自治体 作業場の電力不足/書類開封に150人動員(朝日); 給付率が低い政令指定都市と東京23区 ①大阪 3.4%  ②千葉7.9  ③名古屋8.8  ④相模原10.4  ⑤世田谷12.4  ⑥静岡16.0  ⑦川崎16.5  ⑧浜松19.1  ⑨品川20.3 20.3







▼名古屋、8人くらいでやってたんか!(人口200万なのに)


▼大阪、名古屋、、、なるほど、アホ市長やわな 雨がっぱ集めとか愛知県知事リコール運動とか、、、、













都知事候補討論会(2020-06-27); 津田大介「関東大震災の朝鮮人虐殺犠牲者への追悼文送付をなぜやめた?」 小池百合子「震災・戦争犠牲者の慰霊の気持ちに変わりない」 津田「変わりがないなら歴代都知事は続けてきた追悼文をなぜやめた?」 小池「犠牲者に追悼の意を表するのが慰霊堂での式.....」 意味不明・・の信号無視話法 / 何がなんでも日本人による朝鮮人虐殺があった事実を取り上げたくない、その非常に強い意志が読み取れる。 「そして、何でしたかしら?」ですからね。この件を切って捨てても、票には影響しないと舐めている。(吉方べき) 



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2020年6月27日土曜日

ご近所散歩 そろそろ紫陽花も終わりかな ムクゲが咲き始めた 2020-06-27

6月27日、曇り
今日は自宅近くをユル散歩。
そろそろ紫陽花の季節も終わりかな。
夏の花、ムクゲが咲き始めた。

開店早々の紀伊国屋書店で1時間ほど過ごす。
7月の100分de名著は吉本隆明なので、これは難解、テキスト買わざるを得ないかと思ったが、これはテキスト読んだくらいではダメだわ、止めた。

今日の総歩数1万歩。






慶応4年/明治元年記(6) 慶応4年(1868)1月19日~22日 慶喜・ロッシュ会見 赤報隊、美濃・岩手宿着 土佐藩迅衛隊(参謀乾退助)、高松藩開城 青松葉事件(尾張藩の佐幕派粛清) 慶喜、退隠表明、在京列藩主に救解依頼 

慶応4年/明治元年記(5) 慶応4年(1868)1月15日~18日 新撰組、品川着 赤報隊進発(「年貢半減」の高札) 主戦派陸軍奉行並小栗上野介忠順罷免 九州地方、新政府へ帰順 大垣藩恭順 三職七科制 慶喜、箱根・碓氷に目付を配備 勝海舟海軍奉行並 仙台藩ほかに会津藩征討令 三井三郎助ほかに献金命令 草莽隊編成
より続く

慶応4年(1868)
1月19日
・慶喜、諸藩老臣を江戸城西丸に召集、3日以降の事態を説明し自己の心境を述べる。会津容保・桑名定敬は再起を進めるが、「慶喜従はず」(「復古記」)。
・慶喜・ロッシュ会見。慶喜、江戸城でフランス公使ロッシュと会見。
慶喜:徳川家の領地を守るためには、場合によっては戦う。ロッシュ:軍艦・武器・資金援助するので抗戦せよ。26、27日と計3回。
「徳川慶喜公伝」その他で、慶喜の恭順の意は東帰後一貫して不変となっているが、ロッシュがアメリカ公使ファン・ファルケシバークに語ったところによると、第1回会見の際の慶喜の態度は抗戦の意志を秘めたものであった。「第一回の謁見のさい、大君(タイクン)は御門(ミカド)の意志に従う意向を表明したが、同時に徳川家の家長として大君が所有している領地に侵入したり、その領地を剥奪したりする権利は御門にないことをはっきり述べた。大君はこの領地をあくまでも防衛すると主張した。大君はこの戦いが起こったいきさつをくりかえし説明し、・・・御門は監禁状態にあり、決して自分のの自由な意志で行動しているのではないと断言した」(ファルケンバーグよりシェアード国務長官への報告、陽暦3月1日付)。
26日の第2回目の会見で、慶喜は、隠居の身分になって領地防衛に専念する為、徳川宗家の当主の地位を紀伊藩主茂承(17、前将軍家茂の子)に譲ると告げる(同、3月1日付ファルケンパーグ報告)。第3回会見の様子は米公使に話さなかったのか、報告にはない。ロッシュは、「隠居は大政奉還に続く戦略的撤退であり、その地位は日本の歴史に例があるように、その権威を奪うものではなく、むしろ一層自由に影響力を行使し得る。彼は依然として強力な実力者である」とムスティエ外相に報告(陽暦2月24日(陰暦2月2日)付報告)。
この日、ロッシュはオイエ提督と登城し、「建白書」を提出(彼に好意的でないフランス軍事顧問団長シャノアーヌ大尉の本国陸軍省宛報告にも提出したとの記述あり)。
[見解1]この時点で、慶喜は、徳川家の領地を守るため、場合によっては戦うと言い、あわよくば薩長を打倒し、王政復古の時点まで失地を回復しようとの野望が秘められていると考えられる。
[見解2]ロッシュとの会見で抗戦意欲を見せたのは、外国人相手に気張って見せたか、ロッシュの誇張かもしれない。ロッシュの報告には都合のよいことをならべたてる不正確なものが多いという(萩原延寿「遠い崖」)。
・大久保利通、有栖川宮・三条実美(議定)に大阪遷都進言。天皇の在り方の一新狙う。
・乾退助率いる土佐藩兵1,100、高松城接収のため丸亀に到着。京都から樋口真吉が錦旗をもたらす。
「十九日暁、樋口真吉、錦旗ヲ護シ姫(路)駅ニ著ス、昼二字(時)、全軍丸亀ニ達ストアリ」(「高知県史料」)。樋口は幡多郡中村出身、慶応3年5月、容堂ともえ扈従隊目付として高知を出発。錦旗伝達の役目を果した後は、東征軍に加わり、江戸、会津に転戦、翌明治元年11月帰国。
土佐藩兵:大監察小南五郎右衛門、迅衝隊大隊司令乾退助を含む戦闘部隊で、後の江戸、日光、会津攻めの主力。郷士にも元込銃を持たせたので有名。実数600名で、あとは弾薬方、輜重など補給の為の人数。
・赤報隊、美濃・岩手宿(岐阜県不破郡岩手村)着。22日、相楽総三隊、出発。
岩手には竹中丹後守重固の陣屋があるが(竹中は、鳥羽伏見の戦いでは徳川家本軍別軍2つの総指揮者で、若年寄並・陸軍奉行)、丹後守家老児玉周左衛門が苦心して、丹後守の老父竹中図書を同処の香華院へ謹慎させ、家人家士の妄動を抑え、流血騒ぎはなし。また、児玉周左衛門は、有志を募って赤報隊に加入させる(その数は20余とも12ともいう)。
この内、北村与六郎は慶応2年6月、藩主竹中丹後守の命を受け、同僚柵橋新次郎と共に、周防岩国藩吉川家に使いしたことがある程の人物。これは幕府の長州再度目の攻撃の際で、談判は周防玖珂郡新湊で行われ、吉川家と手切れの談判となる。北村は、主家のため身を棄てて赤報隊に入り、後に脱走者が出るが、最後まで赤報隊に踏止まり戦死。
赤報隊は諸所に出張し、会津・桑名その他、徳川家従軍の藩兵が落ちて行くのを訊問し、輜重を没収し、一方では糧米などを窮民に与えるなどする。
桑名藩主松平越中守定敬は、慶喜に従い12日に江戸入り、深川霊岸寺に蟄居謹慎しており、藩士の間に主戦非戦両論があるものの、桑名城は総攻撃をかけないでも、官軍の手に入ることが明らかになっている。そこで、赤報隊は東海道を進むを喜ばず、信州へ入り、甲州を鎮め、東征軍の江戸討入りに協力すべしと決す。相楽総三はその先鋒隊を志願して承諾を得て、22日岩手を出発。2番隊鈴木三樹三郎は遂に出立せず。
1月20日
・土佐藩迅衛隊(総督土佐藩家老深尾丹波・参謀乾退助)ら、丸亀藩・多度津藩と協力して高松藩開城、家老2名切腹。27日、伊予松山藩開城。
・(尾張藩)青松葉事件。尾張藩の佐幕派粛清。
尾張藩(藩主徳川慶勝)、藩内佐幕派の渡辺新左衛門(年寄列、2,500石)・榊原勘解由(城代格、1,500石)・石川内蔵允(クラノスケ、大番頭、1千石)ら3名を斬罪。「年来姦曲の所置」があり「朝命により死を賜う者なり」と言い渡し。~25日に計14名処刑、家老3名含む17名蟄居その他処分。
・徳川慶喜、松本・高崎藩に碓氷関警備命ず。この日、慶喜、鳥羽伏見の負傷者を収容する三田会津藩下屋敷を見舞う。家老梶原平馬(26)が出迎え。
・この頃から、京都で赤報隊に関する「悪い評判」(無頼の徒と如く農商人から金穀を奪う)が広まる。政府が意図的に流す。
・新選組屯所として、鍛冶橋大名小路の元秋月右京亮種樹の屋敷を与えられる。
・小坂騒動(塩飽島)。
・政府、幕府締結の条約遵守確認を各国に通告。
・夜、岩倉の放つ間諜塩川広平、京都からの同行者である中御門家の藤井弥三郎と共に江戸着。
堀江無名子(克之助)、中島蔵人、宮太柱、小倉但馬、川村壱岐守、遠山備後守、宅間朔之助、山岡鉄太郎、中条金之助、松岡万、老中小笠原壱岐守(長行)、松平大和守(直克)、石川熊武、小暮藤太郎、三木七郎、桑名廉助、小津小太郎、小倉庫之丞などと往来し、「関東謀政策」を行う。
1月21日
・外国事務総督東久世通禧、6ヶ国公使に兵器船舶の慶喜とその属臣に販売貸与を禁ずるよう申入れ(局外中立を要請)。具体的には、幕府がアメリカより購入して、現在太平洋を航行中の甲鉄艦を引渡されないようにするのが目的。パークス、サトウの示唆による。
これより先、鳥羽・伏見で戦端が開かれた3日、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、プロシアの各国代表に、薩摩藩の暴徒を嶺圧するために「日本政府」(=幕府)以外には武器・軍艦等を売らないよう要求。
・慶喜、退隠表明。慶喜、再度、在京の徳川慶勝・松平春嶽・浅野茂勲(芸州世子)・細川護久(肥後藩主弟)に書を送り救解依頼。
慶喜は、病気の為隠居を考えていること、鳥羽・伏見のことは素志に反し、朝敵の悪名を負ったが、これまでの厚誼により、朝廷をはじめ列藩へも説諭して、汚名をすすぐよう尽力されたいと、一歩後退した姿勢を示す。
・軍事参議兼中国四国征討総督四条隆謌、明石城で長州軍に伊予松山藩討伐命令出す。長州が報復のため命令を出させる(第2次征長戦の際、松山藩は長州領大島を攻略しようとして撃退されている)。
・東山道鎮撫総督(岩倉具定)の軍、京都発。その日に大津着。軍資金無く3日間滞在。東山道軍には京都三井家番頭堀江清六が従軍しており、堀江が京都に戻り、三井家が工面した3千両を24日、守山で軍幹部に渡す。しかし、この3千両も美濃大垣で無くなり、軍はここで10日間足踏み。沿道で金穀を募るが、相楽の年貢半減布達のため、思うに任せず。
・木戸孝允、上京。
・土佐藩別軍(総督深尾左馬之助)、高知発。仁淀川上流で先鋒と合流し1600となる(迅衛隊より多い)。26日、伊予松山領入り。27日、伊予松山城を包囲・開城。これより先、大監察小笠原唯八が松山に赴き、藩主久松定昭は恭順の意を表している。
・土佐藩士吉井源馬・山本復輔ら、天草諸島で乱暴を働いた花山院隊を鎮撫。
1月22日
・相楽総三隊、1番隊を率い美濃・岩手宿発。2番隊(鈴木三樹三郎)、後続せず。
・神戸事件下手人処罰は国辱とする備前藩藩論を背景に嘆願書提出される。
・東久世通禧、兵庫鎮台総督に就任。

つづく




犬や猫、150匹処分したのに「殺処分ゼロ」?その訳は(朝日2019年4月23日);「小池百合子知事が今月、昨年度の犬や猫の「殺処分ゼロ」を達成したと明らかにした。だが、実際には処分した犬や猫が約150匹いたという。「ゼロ」の裏に何があるのか。」      





2020年6月26日金曜日

横浜散歩 関内~横浜公園(スタジアム)~山下公園~フランス山~港の見える丘公園~アメリカ山~元町中華街 2020-06-26

6月26日、曇りのち晴れ
今日は一日中曇りの予報だったが、午後からは梅雨の晴れ間。
気温、湿度共に高い。
今日は横浜を歩いた。
JR関内駅~横浜公園(スタジアム)~山下公園~フランス山~港の見える丘公園~アメリカ山~元町中華街駅
総歩数は1万6千歩。
暑くてヘロヘロ!でした。

大桟橋では飛鳥Ⅱが4月からずっと係留中。先日、あろうことかボヤ騒ぎが起きた。溶接工事かなにかの火の粉によるものらしい。弱り目に祟り目、お気の毒。








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2020-06-26 #アーティチョーク #横浜 #港の見える丘公園

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慶応4年/明治元年記(5) 慶応4年(1868)1月15日~18日 新撰組、品川着 赤報隊進発(「年貢半減」の高札) 主戦派陸軍奉行並小栗上野介忠順罷免 九州地方、新政府へ帰順 大垣藩恭順 三職七科制 慶喜、箱根・碓氷に目付を配備 勝海舟海軍奉行並 仙台藩ほかに会津藩征討令 三井三郎助ほかに献金命令 草莽隊編成   

慶応4年/明治元年記(4) 慶応4年(1868)1月12日~14日 慶喜、江戸城入り、歩兵頭に駿府警を、古河藩主に神奈川警備増員を命ずる 相楽総三、「(幕領での)年貢半減」「勅諚書」を受取る 桑名藩、藩主(松平定敬、会津藩主容保の弟)不在で恭順決定
より続く

慶応4年(1868)
1月15日
・この日未明、新撰組の乗った富士山艦、品川着。土方ら隊士39名・仮隊士24名、下船し品川の釜谷へ投宿。近藤・沖田は神田和泉橋の医学所(幕府典医頭松本良順)へ直行。
・赤報隊進発
赤報隊、松ノ尾山発。1番隊相楽総三・2番隊鈴木三樹三郎・3番隊武田文三(油川錬三郎)。16日、番場泊り。17日、柏原泊り。18日、関が原泊り。19日、岩手(岐阜県不破村岩手)へ向かう。この間、宿泊地の本陣には「年貢半減」の高札を掲げる。
「徳川慶喜儀、朝敵となり官位召しあげられ、且つ従来御預の土地残らず御召しあげに相成り、以後は、天朝御領と相成り候。これまで慶喜の不仁により、百姓どもの難儀少なからざる儀と思し召されられ、当年半減の年貢下せられ候あいだ、天朝の御仁徳を厚く相心え申すべき、且つ諸藩の領地たりとも困窮の村方は、申し立て次第、天朝により御救いに相成るべく候事」。
・新政府、王政復古を告げる国書を在日諸外国代表に呈する。
・新外国事務総督東久世通禧、副使岩下佐次右衛門、外国事務掛寺島陶蔵(宗則)、陸奥陽之助(宗光)、伊藤俊輔、吉井幸輔、片野十郎、運上所で英外務事務官アーネスト・サトウと対談。神戸事件の後始末の件。
・勅使東久世通禧、各国代表と会見。王政復古を報じ国書を交付。新政府、最初の公式外交会談。外国交際を万国公法によりおこなう旨を布告。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、若越7藩主を含めた北陸7ヶ国21の諸藩主に対し、朝廷の命に帰順するよう勅書を出す。
・慶喜、江戸城大広間で抗戦論を主張した主戦派陸軍奉行並小栗上野介忠順罷免。天璋院のとりなしで初めて和宮と面会。
・備前藩、備中松山藩に兵400を派遣、降伏させる。17日、池田隼人指揮赤穂藩兵150と共に姫路城(譜代藩主酒井忠惇が慶喜に従い東帰)を開城させる。
・筑前藩士藤林六郎(平野四郎)・長州浪人若月隼人等30人、豊前四日市乱入。放火・略奪し、宇佐八幡宮裏御許山に布陣。討幕宣伝。/24.野村右仲指揮長州兵、御許山攻撃。浪士壊滅。
・沢村惣之丞、薩摩藩士川端平助を暴漢とみて射殺した責を負い長崎に自刃。
1月16日
・朝廷、秋田藩に対して、慶喜追討のため「官軍」が進発するため、奥羽諸藩を糾合して東征軍を応援するよう命じる。また、東北諸藩は率兵・上京に及ばずとする。
・フランス公使レオン・ロッシュ、レオン・ブランを代理公使として兵庫に残しラブラス号(新任極東艦隊司令長官オイエ提督坐乗)で出港。17日、横浜着。18日、砲艦キャンシャン号で江戸湾に入り、書簡で慶喜に謁見申入れ。
・赤報隊(相楽隊)、彦根の側を通り番場駅に進む。
・西国郡代(九州郡代、日田郡代)窪田鎮勝、日田陣屋を放棄。九州地方の新政府への帰順は混乱無く実現。
・大垣藩主戸田氏共、上京して恭順の態度をとり東征先鋒願いを出し許される。後、大垣藩は政府軍の一翼を担う戦力となる。
1月17日
・姫路藩主酒井忠惇、討伐命令に従う備前藩に降伏。但し、家臣には従わぬ者あり。17日、「・・・姫路城ヲ距タルコト一里許り、炮声響キ、其因ヲ探シテ進ム、家中騒然、雑具ヲ齎シ城ヲ去ル、備前家老毛利図書城ヲ乗トリ、皆甲胃ヲ着、火縄銃ヲ用フ、東西城門皆傭兵コレヲ固ム」(土佐藩士樋口真吉「日新録」)。
・政府、三職七科制採用。
三職(前年12月9日に制定)、「総裁」:有栖川宮熾仁親王。「議定」:仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、徳川慶勝、松平慶永、浅野茂勲、山内容堂、島津忠義。「参与」:大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、岩倉具視、薩・土・芸・尾・越5藩から3人ずつ。
「神祇事務科」を筆頭に、以下「内国事務科」「外国事務科」「海陸軍務科」「会計事務科」「刑法事務科」「制度事務科」と続く七科をおき、各科に事務総督(議定から任命)と事務掛(参与から任命)を置く。外国事務総督は山階宮晃親王・三条実美・東久世通禧・伊達宗城、外国事務掛は後藤象二郎・岩下佐次右衛門。内国事務総督は松平慶永。
徴士・貢士の制。
「朝臣」としての徴士:規定「諸藩士および都鄙有材の者を撰挙抜擢して参与職に任ず。下の議事所に在り、則(スナワチ)議事官たり。又分課によって其の課の掛となる者、其の事を専務す」。定員なく、在職4年(必要により4年延長)。
頁士:各藩主が藩士(大藩3人、中藩2人、小藩1人)を選んで「下の議事所」に出仕させる。貢土は、各藩主が藩論や自藩の利害を代表するものとして政府に送り出す者。
徴士=官吏として登用された者は、殆ど幕末以来尊攘討幕運動を行なってきた者を政府が一本釣りで選任したもの。選任された徴士は、藩との関係を絶ち、朝廷直属の「朝臣」たることが求められる。「各藩より徴士仰せ付けられ候ものは、命を奉じ、即日より朝臣と相心得、勿論旧藩に全く関係混合これ無き御趣意に候間、此の旨厚く相心得申すべきこと。」(2月11日付け達し)。
藩と絶縁することの難しさ:長州の木戸孝允・広沢真臣は連署して、我々は主人(毛利敬親)のいいつけで上京した、それがそのまま徴士として「滞京仕り候に付ては、総て主人より承り居り候用筋の儀瓦解に至り候廉少からず」、「臣子の至情、これまた止むを得ざるの次第、恐れながら御垂憐」下され、徴士罷免を許されたいと嘆願。元来、藩主の命で上京し、国事に奔走してきた、ことが成就したのに帰藩せずそのまま新政府の官吏になるのは藩主への不忠であり、臣下としできない、と素直に述べる。武力討幕派の中心人物にして然りである。
海陸軍総督には岩倉実美・仁和寺宮嘉彰親王・島津忠義(薩摩藩主)が選任。西郷(参与・海陸軍掛)が忠義の選任に反対、翌日に辞任させる。
広沢真臣の場合:先に参与に任ぜられ、1月17日「徴士」に任ぜられるとともに、同日、役職「海陸軍務掛」となり、翌々19日「内国事務掛」にもなる。
参与就任日付は、岩倉具視の慶応3年12月9日を筆頭に、大久保利通は12月12日、由利公正は12月18日、西園寺公望は12月20日、東久世通禧(ミチトミ)は12月27日等々で、正月3日迄に、総裁・議定・参与三職に、全部で延べ人数53名の宮5・公卿17・諸侯9・諸藩士22が任命される。広沢真臣・井上馨が長州藩では最初に朝臣となり、このあと伊藤博文が1月25日に、木戸孝允は2月20日に参与就任。
・新政府、外国との和親を布告。
・慶喜、松平慶永・山内容堂に書簡送付。朝廷との周旋依頼。鳥羽・伏見戦争は「先兵の者が争闘」したことで、追討令が出されたのは心外のいたりと述べる。
・慶喜、目付を箱根・碓氷関所に配備。
・勝海舟、海軍奉行並を命ぜられる。
・和宮、徳川慶喜のしたためた嘆願書を内見して訂正を命ずる。
・会津征討令出る。朝廷、仙台藩主伊達慶邦に対して独力で会津藩征討命ず(京都御所内の仮政庁で、仙台藩家老但木土佐が命令を受ける)。同日、秋田・盛岡・米沢藩にも応援命ず(秋田藩へは岩倉具視自ら内勅を藩士に手渡し。秋田藩は正念場の7月初めに同盟諸藩を裏切り薩長政府軍の拠点になる。秋田藩家老真崎兵庫は、趣旨に叛かぬよう精励すると請書を返す。
「その藩(仙台)一手を以て本城(会津若松城)を襲撃すべきの趣出願、武道を失わず憤発の条神妙の至り、御満足に思し召され候・・・顧いの通仰せ付られ侯間、速かに追討の功を奏すべき旨、御沙汰の事」。翌日、仙台藩が、誰が「出願」したか伺いを出すと、20日付け政府沙汰から「出願」の文字は消される。
西郷隆盛は、「会津は上杉、佐竹、南部へ命ぜられ追討の賦に御座候、上杉、佐竹等は内々相願候向に御座候」(1月16日、蓑田伝兵衛宛手紙)というように、上杉米沢藩・佐竹秋田藩には、会津征討を申し出る勤王藩士がいた模様。
秋田藩には、秋田藩は東北の雄藩かつ代々名家であり、深く尊王の大義を知っていると誉め、秋田藩士に岩倉具視自ら手渡し、「賊徒」追討の応援を頼む。秋田藩家老真崎兵庫は、内勅への請書で、出羽国内勤王諸藩と連絡をとって、趣旨に背かぬよう精励し、「王化」の及ばない藩には教諭鎮撫を加えると述べる。
・政府、京都の三井三郎助、島田八郎左徳門、小野善助に献金を命ず。19日、彼らは金1万両を差し出す。
この後、大坂、江戸の3都の特権大商人も新政府の側につき、関東、北陸、東北と続く戦争の経費の一部を負担し、極めて基礎の弱体な政府財政を支える。
・美濃国郡上藩青山氏4万8千石国家老鈴木鈴木兵左衛門、京都の太政官に対して天領飛騨の警護を申し出。東山道先鋒総督の了承を取り付け、藩兵300余を飛騨和良郷と高山に送り込む。
・尾張の博徒北熊一家・近藤実左衛門、大目付から呼出され、草莽隊(「集義隊」として編成)への人の差出命令うける。三河の博徒雲風へも同様命令。今後の展開が予測できないため、正規藩兵を温存するため。3月上旬、編成。
尾張藩の草莽隊(7隊)。
集義隊(博徒部隊)、磅礴隊、正気隊、帰順正気隊、精鋭隊、草薙隊、愛知隊。磅礴隊は庄屋級豪農子弟20名が連名で藩庁に嘆願、結成。草莽隊有志は隊の幹部、一般隊員は藩庁による公募。一般隊員は約150名、小商人・細民・下層武士・武家奉公人など。後の海軍大将八代六郎は隊員(実兄が草莽有志)。この隊員からも明治17年の3人の名古屋事件処罰者を出す。
1月18日
・内国事務総督山内容堂、征討の命、一途に出んことを上申。
・三井組、岩倉東山道先鋒総督府金穀方を勤めるよう依頼される。
・山国西軍、上京。議定岩倉具視より因幡藩付山国隊と称し、中立売門警護申付け。
・結城下総介(児太郎)ら、天草島乱入。/19.長崎会議所宛声明書。/21.会議所派遣隊、発。/23.一味説得、退散。

つづく



「震える少女」沖縄戦証言に圧力 見知らぬ男性、女性宅押しかけ非難 - 琉球新報



【トランプ大統領タルサ集会演説(2020-06-20)】 トランプ米大統領が最初の支持者集会に選んだオクラホマ州タルサ。1921年、白人暴徒による黒人虐殺が行われたこの地で、当初の予想を大きく下回る約6000人の支持者を前に行われたトランプ大統領の演説をまとめた — Brut Japan; トランプの演説テクニック7選①エリート批判②愛国心アピール③モノマネ披露④観衆を指差す⑤敵にあだ名をつける⑥メディア批判⑦逸話を披露 / 久しぶりのトランプ選挙「醜会」で分かったこと — ニューズウィーク日本版






・・・・・一番やってはいけないことを一番やってはいけないところで、一番やってはいけないタイミングでやることにしたから。結局、集会予定の発表後に反発が来て、「黒人の友達からアドバイスを受けて」という口実で開催日を1日後ろにずらしたけど。・・・・・


・演説で、新型コロナに殺された国民にも、警察に殺された黒人にも全く触れない!
・たとえ話で、夫が出張中の深夜、女性の部屋の窓を割る侵入者を、さすがに黒人には設定しないで......メキシコ人にする!
・ついでに、カンフーにかけて、新型コロナを「カンフル」と呼び中国への敵対心を煽る!
・感染者数の増加を受け、大統領のおすすめ対策として「検査をやめること!」を発表する!

冗談ではない。本当にこんな演説内容だった。ほかにも、数々の嘘と個人攻撃と、現実からほど遠い自慢話三昧だった。つまり、非常時にも通常のトランプ集会だった。






ここまでヒドイとは思いたくない。けど、経緯は説明して貰いたい → 東京のコロナ感染者100人超は7日1日から 発表67人を139人に修正! アラート解除前後にも感染者数操作の新証拠(リテラ) 「ひるおび」でも放送(発表67人が125人に修正され更に139人に)  / 131人(7/4)←125人(7/3)←107人(7/2)←67人(7/1) / 東京 107人感染「都は検査の全体像など公表を」日商 三村会頭(NHK)←正論! / 東京107人の感染確認(7月2日); 小池都知事が要注意を呼びかける緊急記者会見。選挙戦術という視点からは上手い...特定業界に休業再要請もしないのは、9500億円の貯金も使い切ったからだ。 感染拡大要警戒と言うだけで具体策なし。皆さん、自己責任でやって下さい、ということ? / 東京67人の感染確認(7月1日);小池百合子「まだ最終確認ではありませんが、60人台に乗せると聞いています」 / 感染高止まり / 休業再要請の基準超える / 東京都の「モニタリング指標(2)」は再要請レベル(50%超=52.1 %) / 6月に入ってからの感染者は826人、そのうち感染経路が不明な人の割合は45.76% / 解除後に増え続ける感染者、その感染時期は…「東京アラート」効果に疑問の声(東京) / 緊急事態宣言解除1カ月、東京都の感染高止まり 全国の過半数(産経) / 小池知事「コロナ対策一段落」の虚勢 東京55人感染に焦り(日刊ゲンダイ) / 東京アラートって、いったい何? 再び感染増でも発令せず “旧”基準2指標上回る - 毎日新聞 ← やっぱり小池百合子の再選のための「やってる感」パフォーマンスだった   



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東京都民に知ってほしい 小池百合子の「通信簿」 職員の評価は歴代最低、あの舛添さんより低かった! (山口一臣);「東京都の自治体専門紙「都政新報」(二〇二〇年一月七日)が発表した都庁職員の小池に対する評価は厳しく、平均46.4点(100点が満点)であった。石原が新銀行東京で失敗し、責任を問われた時の48点よりも、さらに低い数字である。」 「職員たちは理由として「都知事による粛清人事の横行」、「深い考えがなく思いつきで行動する」等を挙げている」(本田由紀) / 出馬賛成は2割だけ…都庁職員が小池百合子に「再選NO!」(SmartFLASH) / 都政取材25年の葉上氏「小池知事と職員の乖離は史上最悪」(日刊ゲンダイ)           











大阪市が医療機関への新型コロナウイルス対策として寄付を募った「雨がっぱ」について、集まった約33万枚を市役所本庁舎の玄関ホールで保管した方法が、市火災予防条例に違反している疑いがあることが市消防局への取材で判明しました。写真特集で — 毎日新聞写真部






2020年6月25日木曜日

鎌倉坂ノ下 鎌倉パークホテルでランチ 2020-06-25

6月25日、はれ
あいにくの梅雨空の下、鎌倉坂ノ下の鎌倉パークホテルでランチ。
このところ寿司ランチが続いたので、今回は趣を変えて、、、

葉山牛ランチと銘打ったお料理だった。
サラダもお肉もデザートも非常に満足レベルだった。

雨は朝のうちに傘が必要かどうかくらいの小雨、午後は雨は上がって時折薄日がさすようなお天気。
往路は長谷まで江ノ電、帰りは鎌倉駅まで歩き、鶴岡八幡宮前まで小町通~若宮大路を歩いた。
今日の総歩数は1万4千歩。








入国制限が遅れた代償は 五輪開くため聖火到着待ち、ウイルス拡散(西日本新聞);「政府が欧州からの入国拒否に踏み切ったのはその3日後だった。既に欧州各国から帰国した旅行者らを通じてウイルスは都市から地方へ拡散、感染経路をたどれない状況が水面下で進行していた」    

慶応4年/明治元年記(4) 慶応4年(1868)1月12日~14日 慶喜、江戸城入り、歩兵頭に駿府警を、古河藩主に神奈川警備増員を命ずる 相楽総三、「(幕領での)年貢半減」「勅諚書」を受取る 桑名藩、藩主(松平定敬、会津藩主容保の弟)不在で恭順決定

慶応4年/明治元年記(3) 慶応4年(1868)1月9日~11日 東征先鋒隊(赤報隊)編成 大阪城爆破炎上 朝敵処分 山国隊進発 王政復古の通告 神戸事件 慶喜、品川沖着
より続く

慶応4年(1868)
1月12日
・相楽総三、太政官に歎願書・建白書を提出。赤報隊の正式官軍としての認可と正規の官軍先鋒命令、すみやかなる関東への進出、幕領への租税軽減布告。13日、官軍の関東進出時に官軍の印を授ける、それまでは東海道鎮撫使に従うこと、幕領への「租税半減」を回答。
総三の建白に答える形で、坊城大納言から「勅諚書」として受け取る。「是迄幕領之分、総テ当年租税半減仰せ付けられ候。昨年未納之分も同様たるぺし。来巳年以後之処ハ御取調ノ上御沙汰あらせらるぺく候・・・」。)
・慶喜、江戸城入り
昼近く。4年2ヶ月ぶり。13日、歩兵頭に駿府警備命ず。14日、古河藩主に神奈川警備増員命ず。17日、目付を箱根・碓氷関所に配備。17日、松平慶永・山内豊信に周旋依頼。19日、ロッシュと会見。20日、松本・高崎藩に碓氷関警備命ず。21日、再び慶永らに手紙。23日、幕府の職制を改め「家職」の組織とする。
軍艦奉行勝海舟は浜御殿まで出迎え。ここで初めて鳥羽・伏見戦の顛末を聞く(幕府最高責任者の慶喜は開戦に伴う対策、戦況などを留守政府に送っていない)。
勝は、会津侯(松平容保)・桑名侯(松平定敬)にその「詳説を間わんとすれども、顔色土のごとく、互いに目を以てするのみにて、ロを開く者」はなく、ようやく老中板倉勝静から戦争のあらましを聞くことができた。
主戦派は勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介や会津・桑名藩士。敵を箱根以東に誘い込み、海軍は駿河湾から敵の退路を絶ち、陸軍フランス式歩騎砲隊で敵を粉砕する作戦。小栗は15日に罷免。
主戦論。
「鳥羽・伏見の戦況を聞き、目のあたり公の東帰を拝し、又負傷兵の続々送還せらるゝる見ては、弥切歯に堪へず。皆日く、『大坂の事、固より毫末も朝廷に敵するの意あるにあらず、君側の奸を掃はんと欲するのみ、不幸にして軍破るといへども、其の誠心は天地に質して疑なし、誓って挽回の策を立て、日月をして、光明ならしめざるべからず』と。又日く、『彼れ官軍といふとも、錦旗の蔭に隠れたる薩長勢のみ、いかでか頚さし延べて打たすべき』と。宣言・檄文・投文など、府の内外に旁午たり。其の一に日く、『内府天朝に対して二心なきは、天下万民の知る所なるに、内府の弟なる因備二侯、さては井伊家を始め、譜代の諸大名をして東征軍に加はらしむるは、名分の廃滅之より甚しきはなし。今天下幼冲にましまして、奸臣権を窃み、詔を矯めて追討の令を下す、苟も人心ある者は、決死して百諌千争するこそ、皇国の大綱・人臣の大義なれ。然るを狗鼠の輩此の大義を知らず、甘んじて姦徒の駆使を受け、東に向ひて旗を翻さんとす、我等は速に義兵を挙げて、君側の奸を誅し名分を正すこと、人臣の大節何者か之に過ぎん。若し然らずして賊徒に駆使せられなば、己不義に陥るのみならず、又天朝を不明に陥らしむるものなり。庶幾くは気節の士之を四方へ伝へ、天下の義心を鼓舞作興して、綱常を護持せよ』と。・・・陸海軍、殊に海軍副総裁榎本和泉守陸軍奉行並小栗上野介歩兵奉行大鳥圭介及び新選組の人々などは、概ね戦を主とし、兵を箱根・笛吹に出して官軍を待たんといふもあれば、軍艦の新組織法を建白し、或はは輪王寺宮を奉じて兵を挙げんといふもあり。」(「徳川慶喜公伝」)。
恭順論。
「徳川氏の領国邦内四方に散在し、その総高おゝよそ四百万石、此の内、蔵入を以て養ふ所の旗下数千におゝよそ二百万石を給す。所謂蔵米取なり。残り二百万石、此の他諸税金おゝよそ百万両計り。その領地半ば関西に在り。若し一朝戦争に及ばば、此の分敵の有とならむ。関東・奥羽に在るは、関西の如く豊ならず。此の区々たる関東を守て何をか成さん。其の結局土地を割きて抵当とし、西洋人に借らざるを得ず。其の抵当として出すべきは、唯横浜・箱館のみ。若し誤て此の事に及ばば如何ぞや。同胞憤争して、他人の為に邦地を失う。豈恐れざるべけんや」(「海舟全集」)。
・桑名藩、藩主(松平定敬)不在で恭順決定、老臣連名で朝廷に歎願書提出。27日、藩士一同771人が寺に入って謹慎。28日、政府軍に城を引渡す。政府軍は本丸3層の楼に放火。
桑名藩主松平定敬は、元治元年(1864)京都所司代に就任して以来、兄の会津藩主・京都守護職松平容保(兄弟は美濃高須藩生まれ、養子となって入封)と共に、京都政局に睨みをきかせ反幕運動の矢面にたち、鳥羽・伏見戦争でも幕府軍主力となる。敗戦、藩主定敬の東帰行、兵士逃走の報に接した留守を預かる桑名藩城中では、強硬派・恭順謹慎派に藩論が二分。そこで藩祖の神前で神籤をひき、いずれかに決することにしたところ、正月10日の抽籤では藩士一堂東下ということになる。しかし翌日、恭順派が強く異論、江戸に行っても、慶喜や藩主定敬が恭順を表明すれば藩士一同の東行は無駄になる、それよりは従来王事に勤めてきた功を失わない為にも、定敬の代りに先代遺子万之助をたて、朝廷に対し恭順謝罪の意志を明らかにすべきと主張。
12日には、討議のすえ、藩論は転換し恭順に定まる。定敬が江戸で恭順謹慎した場合、全藩あげて恭順に一致したことになり問題ない。定敬があくまで抗戦に出た場合、主戦派は脱藩して定敬の許に走るのは妨げられないし、幕府側に勝機が見えれば、再び薩長軍に抗戦すればよいし、その場合恭順に決めた首謀者が責任をとれば藩内部の問題として片がつく。また万一、定敬が抗戦し再び敗れても、それは定敬や一部主戦派の勝手な行動の結果であり、桑名藩は一貫して恭順に変りはいと釈明できる。爾後いかなる事態となっても、桑名藩の滅亡を避けられる、朝廷・政府と幕府の双方に顔を向け、いずれからも逃げ道を用意する策。それ故に、主戦派も恭順論に同調できる。
12日、桑名藩老職一同は、尾張藩に寛大な処置を朝廷に周旋してもらいたいとする欺願書を差し出し、藩主定敬の身代りとして万之助が隣藩亀山藩に抑留となり、27日、藩士一同771人が寺に入って謹慎。家族は町在へ立ち退かせ、身分幼老男女の別なく1人に2両2分を与える。28日、政府軍が城を接収、正午頃、城受渡しを終えた政府軍は、本丸にある3層の楼に放火して、祝砲21発を放つ。
・新政府参与岩倉具視、尾張藩家老成瀬正肥ら重臣を招集、「尾藩士中には慶喜に内通している者がある。かかる次第では、東征軍はまず尾張で砲火を開かざるを得ない。早急に善処せよ」と厳重に申し渡し。13日、「早々に帰国の上、姦徒を誅戮」せよと沙汰。14日、重臣協議。15日、藩主慶勝、重臣ら300率い名古屋に向う。20日、名古屋着。佐幕派粛清「青松葉事件」となる。
・小浜藩主酒井忠禄、当初、旧幕側に加担した弁明・謝罪の為上京。朝廷、北陸道先鋒を命じ、15日、請書提出。
・新撰組残り40名、軍艦富士山丸で江戸に向かう。
1月13日
・慶喜、歩兵頭に駿府警備を命じ、翌14日、土井利与古河藩主に神奈川警備増員を命じる。
・新撰組山崎烝、大坂八軒屋の京屋で没(或いは、富士山艦に乗り込み、出航後間もなく没、とも)
・前侍従錦旗奉行四条隆謌、大坂征討府より軍事参議兼中国四国征討総督に任命され、下坂。
・朝廷、太政官代を九条道孝邸に設置。
・迅衛隊進発。乾退助率いる迅衛隊600・弾薬隊等千余(将来の東征軍主力)、高知発。/19.丸亀着。
・(新2/6)パークス、木梨精一郎に江戸攻撃反対を表明。
・伊達宗城、伊予松山藩追討願いを新政府に提出。
・この頃、相楽総三、自分の建白に答える形で、坊城大納言から「(幕領での)年貢半減」を「勅諚書」として受取る。
1月14日
・新政府、神戸で外交団と会談。条約引継約束(2/14も)。
・新政府、大坂の惣年寄に対し、「早々立帰り、市中取締致スべキ事」と布告。
大坂は「官軍」突入とともに、城は炎上、大坂城代・町奉行は脱走、町役人は姿を隠す。新政府は、更に1月21日、「当分ノ内、惣年寄ニテ取締仕り置キ候事」と旧状維持の指令を発す。
京都は、京都所司代・町奉行が去り権力の空白が生れたため、「京都御取締」に近江膳所6万石、丹波篠山6万石、亀山5万石があたり、見廻りには石見津和野4万3千石以下が参加し、その「加勢」に島津、毛利、山内、前田ら7藩が加わる。
江戸(東京)は、旧江戸市中(武家地60%、社寺地20%、町地20%)の武家地が、旧大名引きあげ、旗本・御家人の徳川家静岡移転に伴う離散によって、一気に荒廃地と化し、人口100万以上が、明治2年には50万に落ち込む。新政府は、ここでも旧名主を、新しく作った番組支配の中年寄・添年寄に横すべりに採用すかことによってしか、町を維持することができなかった。東京府知事には薩長出身者を避け、初め由利公正(越前)、更に大久保一翁(旧幕若年寄)を任命。明治2年以来、東京府の政策は開墾となり、東京の武家地は、桑畑と茶畑に化す。
・山内容堂、朝廷より内国事務総裁に任ぜられる。
・山内豊福、本藩と幕府との板挟みに悩み江戸麻布邸に自刃。
・長崎奉行河津伊豆守祐邦、ロシア船へ逃亡。土佐佐々木三四郎・薩摩松方助左衛門筆頭に在留諸藩代表合議体長崎会議所と改称。
・この日夕刻、新選組搭乗の富士山艦ら、横浜港に投錨。島田魁を添人として戦傷者は上陸、医学所に入る。

つづく



森友学園 交渉記録の不開示は違法 国に賠償命じる 大阪地裁(NHK);「大阪地方裁判所の松永栄治裁判長は「財務省は国民主権の理念に反する極めて不適切な動機で記録を廃棄し、残っていた文書も意図的に不開示にした。違法行為は明らかで、相当に悪質だといわざるをえない」と批判し、33万円の賠償を国に命じました。」