2014年12月31日水曜日

雪の会津若松鶴ヶ城 (ツイッター写真)


野口冨士男『わが荷風』を読む(7) 「4 深川と深川の間」 (その1) 「四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。」(『深川の唄』)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-12-24
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4 深川と深川の間

深川、洲崎、『夢の女』
 「荷風の好きな土地といえば、晩年の彼から浅草を想いうかべる人がすくなくあるまい。・・・が、その生涯を通じて彼がパリの次に最も愛したのは、深川といっていけなければ隅田川以東 - げんざいの墨田区から江東区の一円にかけてではなかったろうか。」

 「『日和下駄』に《市中の散歩は子供の時から好きであった。》とのべられている一節があるように、荷風の散策には趣味の域を越えて、生来彼の嗜好にかなったものがあったことを看(み)のがしてはなるまい。」

 「ついに人間を愛することのできなかった彼も、市中の景況 ー 人間が住むことによって成立する陋巷のたたずまいは愛してやまなかった。町々もたえず変貌して、彼を裏切りつづけたことでは女性とえらぶところがなかったのにもかかわらず、次々と女性を棄てたのに反して、好きな町々はけっして見棄てなかった。それが、パリであり、浅草であり、吉原や玉の井であった。」

 「文末に、《甲戊》すなわち昭和九年《十二月記》と書きとめられてある散策記『元八まん』には、《三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ》後年の東陽公園のあたりまであるいたことを記した一節がある。」

 「・・・まだ部屋住みの身であった彼が《遊里に留連》できるほどの金を所持していた時といえば、金港堂から創刊された直後の「文芸界」の懸賞に応募した『地獄の花』が入選とはならなかったものの、三十五年九月に同社から出版されて七十五円の稿料を入手した折と考えるのが妥当だろう。白米一升が十五銭弱の時代の七十五円である。翌三十六年五月に新声社(のちの新潮社)から書きおろし出版された『夢の女』の主要部分は、その《留連》の間に獲た見聞の所産にちがいない。」

洲崎の暴風雨や海嘯
 「荷風は前掲の引用につづいて『濹東綺譚』のなかで、『夢の女』に言及している。
《曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくつた事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(つなみ)のことを写さないのは杜撰(づさん)の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子(きのえね)楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」と言はれた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。》」

 「広津柳浪に接近し、さらに清国人羅臥雲の紹介で巌谷小波の木曜会員となったのは明治三十二年初冬のことである。そして、木曜会月のなかでは押川春浪、生田葵山(きざん)、西村渚山(しよざん)と親交をもったから、『夢の女』に評言をくわえた《友人》というのは、荷風のかよった青楼の屋号まで知っていたところから考えて、井上唖々でなければ、右の三人のうちの誰かだったろう。」

 「洲崎遊廓は、本郷根津にあった遊廓が深川区弁天町 - げんざいの東陽一丁目の埋立地へ明治二十一年に移転したものだから、『夢の女』が書かれたころまでにはまだ十五年しか経過していない。その間に《甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか》ったとすれば、どんな立地条件であったか、およその見当はつくはずである。『夢の女』執筆の時期と時間的な至近距離にある明治三十七年版の『深川区全図』をみると、弁天町の南は海、東は弁天町より若干せまい洲崎養魚所、西は埋立地という荒涼たる環境だから、その埋立地をげんざいの夢の島の小規模なものだと想像しても、《暴風雨や海嘯》のすさまじさがしのばれる。」

 「売春防止法が実施されて、中央通りをバスが走るようになったげんざいの東陽一丁目という一廓と、明治三十七年 - 荷風が 『夢の女』を書いたのとほぼ同時期の洲崎遊廓とは、その面積、地形、ならびに道路区割に関するかぎり、正確に符合するといっても決して過言とはならぬほど一敦している。」

渡米以前の作品は習作期の延長にすぎない
 「明治三十五年四月の『野心』、六月の『闇の叫び』、九月の『地獄の花』、十月の『新任知事』、翌三十六年五月の『夢の女』、七月の翻案『恋と刃』、九月の『女優ナゝ』などがゾラの影響下に書かれた系列の作品だが、私は一応という但し書きをつけた上で、この時期をまだ荷風の習作期の延長、すくなくとも後年の荷風がなかったら、全集に収録されたり、後世の論者に取り上げられたりするほどのものであるかを疑う。」

 「それが一転して、確乎たる個性が確立されるのは、『あめりか物語』、『ふらんす物語』の年代 - すなわち明治三十六年九月の渡米以後である。

《明治以来、我国の文人で海外を旅行したものは数へ切れぬほどである。しかし、芸術家としての生涯の決定的な時期に外国にゐた作家は恐らく永井氏一人なのではなからうか。》

昭和初年代に書かれた中村光夫のことばだが、たしかにこの外遊は荷風の文人としての性格を決定づけている。」

 「こんど眼をとおした小門勝二の『永井荷風の生涯』には在米時代の荷風の恋人であったイデス Edyth Girard の実在を否定するかのような文辞が四五、六七、八三ページの三ヵ所にみられる。」

 「『ふらんす物語』におさめられている『雲』(『放蕩』の改題)・・・。イデスが実在の人物であれば、『雲』のなかでイデスに擬せられているアアマがあれほど理想化されることはあるまいというのが、私の考え方の第一の薄弱な根拠である。・・・荷風は愛に燃え、恋におぼれるといったタイプの人間だとは考えられないので、イデスとの交情にはどこか彼らしからぬものが感じられる。ひょっとすると、渡米に八ヵ月先立って辱知を得た森鴎外の『舞姫』を読んだはての妄想ではなかったのか。それが、第一の場合よりさらに薄弱な私の第二の根拠である。」

 「イデスの実在を肯定している太田三郎も『永井荷風』(『近代日本の文豪2』所収)のなかで、《東洋の男は娼婦の世界でも低くみられる。白人の女の愛をうることは、たとえ相手が娼婦であろうと、当時日本人としては到底考えられないものである。》といっている。荷風は巨漢といっていい身長の持ち主であったにしろ、ジャップとさげすまれた日本人が、まして日露戦争前後という時代背景を考慮に入れるとき、『西遊日誌抄』に書かれているほどモテたのだろうかというゲスな考え方も私にはあって、・・・」

アメリカ、フランスでの海外生活をはさんだ二つの深川の間には、どれほど大きな相違があったろうか
 「明治四十一年七月に帰国した荷風は、その年から翌年はじめにかけて『ふらんす物語』におさめられた諸篇を書きついで、その間に『狐』を発表しているが、当時の性急で浅薄な西洋模倣にあけくれていた日本文化を痛烈に批判した一連の諸作をかりに「新帰朝者もの」と呼ぶとすれば、その第一作が二月号の「趣味」に掲載された『深川の唄』にほかならない。すなわち、《深川遊廓の娼妓を主題にし》たとみずからいう『夢の女』をのこして外遊の途についた彼は、帰朝後の新生面を『深川の唄』によってきりひらいたのである。深川と深川の間 - アメリカ、フランスでの海外生活をはさんだ二つの深川の間には、どれほど大きな相違があったろうか。そこに、永井壮吉としてではなく、永井荷風としての外遊のほんとうの意味があった。ここでは、その意味を追ってみたい。」

 「『深川の唄』発表までには、帰国後すでに半歳のときが経過していたのにもかかわらず、荷風はまだ外遊中の生理状態から完全には離脱しきっていなかった模様である。

《四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。》

『深川の唄』は、こんなふうに書き出されている。海外生活の延長であることが、あきらかに意識されている文章である。同時に読者に対しても、当時としては自身がかなり特異な体験をもつ人物だという注意を喚起している。・・・」
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(youtube) ちあきなおみ『ラ・ボエーム』 Naomi Chiaki sings Charles Aznavour - La Bohème (Japanese cover)


Naomi Chiaki sings Charles Aznavour - La Bohème (Japanese cover)




京都で呑(や)ってます グービグビ 2014-12-30




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お昼に富山市から撮影した立山連峰。山頂の上には笠雲もあり雄大です。 — masaKi


渋谷区公式ツイッターが炎上 #渋谷区桑原区長は即座に区内の公園を解放しろ (NAVERまとめ)

NAVERまとめ
渋谷区公式ツイッターが炎上 #渋谷区桑原区長は即座に区内の公園を解放しろ
東京都渋谷区の公式ツイッターが炎上している。
「寒い日が続きますが、健康に気をつけて年末年始をお過ごしください」との投稿に対し、ホームレスを公園から封鎖している問題をどうにかするよう求めるリプライが殺到。
独自のハッシュタグも作られている
更新日: 2014年12月29日

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12月29日 渋谷区は「野宿者への炊き出しをさせないため」3つの公園(宮下公園、神宮通公園、美竹公園)を閉鎖したため、宮下公園階段下で炊き出し行動を始めた。 初日の今日はなんとか夕食を済ませた。 (ツイッター写真)







秘密を増やしたり、一般国民への規制を強化するものではありません。新聞は大分理解しておとなしくなったのですが、一部のテレビ局ではなお異常な報道が続いています。(礒崎陽輔)         



2014年12月30日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(54)「宮廷画家・ゴヤ」(1) : 「カルロス四世は立派な男だ。彼は率直で善良な家長の風格をもっているが、これは彼の地位のせいかそれとも状況がそうあらしめているのか、私にはわからない。」(ナポレオン)  

スイセンとカンツバキ 2014-12-26 清水門周辺
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『ゴヤ』(54)「宮廷画家・ゴヤ」(1)
1789年1月17日、カルロス4世及び王妃マリア・ルイーサの戴冠式
 「カルロス四世及び王妃マリア・ルイーサの戴冠式は一七八九年一月一七日、トレドの大聖堂で行われた。・・・王は四一歳、王妃は三八歳である。成婚後二五年日である。彼らは生涯に一四人の子をもったが、育ったのは六人だけであった。そのなかに、生涯にわたって父母を憎み通し、一八〇八年には父に退位をせまって大混乱のうちに、後にフェルナンド七世となる皇太子がいた。
一月一七日は厳寒時にもかかわらず、朝からマドリードの町は沸きかえっていた。新王とその王妃が午後遅く、夕刻に近い時間にマドリード入りをするからである。」

 「この夜は、王宮はもとより、あらゆる貴族、大ブルジョアジーの邸館は光耀まばゆいばかりに内外ともに火が入り、花火が打ち上げられた。花火師はイタリアから呼ばれた。音楽家も足りなかったのでイタリアとフランスから呼び寄せられた。
一般民衆もまた負けじとばかり、広場で街頭で踊りまくった。
人々は朝日が昇ってもまだまだ踊りつづける。
明る日は、この一大祝典の余興に、闘牛大会がひらかれ、プエルタ・デル・ソル(太陽門)の広場では絞首刑が行われた。死刑は大きな祝典にはつきものであった。」

ゴヤはかせぎにかせいだ
 「ゴヤは、その名で三点ずつの王と王妃の像を描かされた・・・。合計で六点。・・・
注文は、例によってオスーナ公爵家、それからこれも大貴族の一人であるカンポマネス伯爵家、国防省の三つからうけていた。おそらくこれ以上のものは断ったものであろう。画料は・・・、この際の収入合計で、一万七〇〇〇レアール。今日の国際通貨であるドルになおして、大体のところで四五〇〇ドル。ゴヤの宮廷の仕事のための年収は一万五〇〇〇レアール。三七五〇ドル。
この頃のマドリードで中流の上くらいの生活をするとして、年収一万二〇〇〇レアールくらいあれば充分だったのであるから、かせぎにかせいだというわけである。「ぼくの金貨にカビが生えているという噂」がたつのも無理からぬ次第である。」

ゴヤ『カルロス四世像』
 「ところで、これらの王と王妃の肖像画である。王は金糸銀糸で刺繍をされたまばゆいばかりのものを着て、靴のバックルにはダイヤモンドが光り、右手には王杖を握り、左の腰に剣をさげている。
四一歳の青年王としてはいささか老けすぎているかに思われるが、さすがに王者としての満々たる自信を秘めてにこやかに微笑を浮べている。少々肥りすぎているとしても、それは王の威をそこなうほどではない。」

ゴヤ『マリア・ルイーサ像』
 「しかし、そういう円満な王の像と並べて掲げねばならぬ王妃マリア・ルイーサは、と言えば、これはもう、どうにも、困る。
その顔は - と書いて行くべきところなのだが、それは顔などというものではない、この王妃の内面の、譎詐、強慾、嫉妬、あくなき性慾などがまるで一枚の布を裏返したかのようにして出ていて、ちょっと正視に耐えない代物である。
このゴヤの見た地獄女と、二〇年前にメングスによって描かれた、一八歳のときの彼女とを比べてみれば、この女性の内と外とに、如何なる頽廃が起ったものであるかは一目瞭然である。彼女は一三歳のときにカルロスと結婚したものであったが、いかにメングスが宮廷人にへつらうことがうまかったにしても、まったく似ても似つかぬものを描くわけがない。
おまけに彼女のまといつけている衣裳とくれば、まず帽子であるが、これはもう高さ半メートルはあるであろう。マドリード滞在のフランス大使の主要な任務の一つは、事あるごとに王妃から法外な金をとってパリから流行のモード、香水から靴、下着・・・、要するに何から何まで全部を、外交用行李で急送することであった。そういうふうにして送られて来た豪華な衣裳を着てある舞踏会に出て来た王妃と、つねに張り合い、敵対関係にさえあったアルバ公爵夫人が、あるときの舞踏会の翌日に、同じ衣裳を二〇着もつくらせてこれをアルバ家の衣裳係や女中などに着せて町中をねり歩かせたなどという莫迦げた話まであった。」

 「ところでこの王妃肖像のうち一つは、誰が見てもベラスケスの、あの極美な王女マルガリータの、横ひろがりのフープ(腰枠)に支えられた、銀とピンク、それに銀の色に下から映えているブルーのドレスの、それの首から上だけをすげかえたものである。違うところは、相も変らずマリー・アントアネット風の半メートル帽子をかぶり放しにしているだけである。この帽子は、エデンの花園を表現したものだそうで、蜜蜂籠までがくっついているという。頭の上で”蜜と乳が流れ”ているという次第。
ベラスケスの王女は、描かれたときはわずかに六歳の少女なのである。六歳の少女に似合うものが、三八歳の色気狂いの大年増に似合うわけがない。首から下はベラスケスのマルガリータで、頭の上はマリー・アントアネットである。それに、見る人の誰もが、必ずベラスケスの画面を連想しながら見るにきまっているのである。それは、ゴヤにとって、おれにもベラスケス程度のことは出来るのだぞ、ということを誇示するによい機会であったかもしれないが、描かれた王妃には、まことに災難であった、と言うべきか。王妃がもしこの肖像を見たならば、ベラスケスのドレスに突っ込まれた自分の首を見てなんと言ったものか……。
傍若無人なことをしたものである。
やり方が、この王妃と同じくらいに野卑である。」

「カルロス四世は立派な男だ」(ナポレオン)
「人としてのカルロス四世は、善良で、信心深く、かつ愚鈍な男であった。
「カルロス四世は立派な男だ。彼は率直で善良な家長の風格をもっているが、これは彼の地位のせいかそれとも状況がそうあらしめているのか、私にはわからない。」
という、何を言っているのかよくわからぬ、歯切れのわるい反応はナポレオンのものである。・・・
・・・一八〇八年五月に皇帝ナポレオンの命によって、王妃、ゴドイ、息子のフェルナンドともどもにバイヨンヌヘ呼びつけられ、スペイン王国とその王冠の運命が危殆に瀕しているのに、ナポレオンに問われるままに、王はのんびりと、しかもまことに「率直に」、いや悲劇的なまでに率直に、彼のスペイン王国統治法を次のように語ったものである。
「毎朝、天候がどうあろうが、冬でも夏でも、私は朝飯を食べてからベッドを出て、ミサを聞き、それから午後一時まで狩猟に行きます。昼食後、もう一ペん猟場に戻って日の暮れまで鉄砲打ちです。夜になると、マヌエル(ゴドイ)がやって来て、政務がうまく行っているかどうかを告げてくれます。それから床に入って、朝になれば、また狩りに行きます。何か重要な儀典でもあって王宮にとどまっていなければならぬ日は別ですが……。」
これでは ー これが王のスペイン王国統治法だとすれば、ナポレオンにしても「率直で善良な家長」とでも言わなければ他に言い様もなかったであろう。
・・・ナポレオンは、あいた口がふさがらなかったであろう。」

 「またナポレオンの「カルロス王は立派な男だ(Le roi est un brave homme.)」という言い方も、これはおそらく日本語で言っての〝押し出しの立派な〞というほどの、王の身体つきのことではなかったか。
この王は、まことに押し出しの立派な男で、その膂力は万人に立ちまさっていた。体力の強いことが自慢の種で、・・・」

 「一七九四年に王と王妃が正式にアカデミイを訪問したとき、この王と王妃は、自分たちが描いた絵を手土産に持って行き、
「これらの作品は余と王妃の閑暇の所産である。何等の価値もないものではあるが、余等が美術を敬愛していることを示す、一つの頒詞を意味するものである。これらのものが、(王としての)余を尊敬する者たちをはげまし、またよりすぐれたる、より完壁な作品を諸子が描くための霊感を与うるものとならんことを望む。」
と、仰せられる。
・・・
この王の底抜けの善良さと、本当に莫迦げたというところまで達した自惚をさらけ出しているものであろう。・・・」

 「こういう人は、治者の側にいてはならないのである。・・・
王はしかし、少くとも、善良で、信心深かった。・・・」
*
*

「生まれたときから、戦争のなかに紛れ込んでいた感じ。やっと平和になったと思ったら、いままたややこしいじゃないですか。わすれちゃいけないんです。それは声を大にしていいたい。どんな理由があっても戦争はいけない。絶対に。」(有馬稲子)

『朝日新聞』2014-12-26


話題のアンジー監督「アンブロークン」を見た。日本の一部事前報道から、日本兵による虐殺場面がどんなに繰り返されるのかと身構えて臨んだら、言われていた人肉食場面などなかったうえ、捕虜の取り扱いこそ酷いけど殺害はなく、逆に日米戦争を乗り越えて未来へ踏み出そうとのメッセージも感じられた。 ← 「誰か」が「意図的に」流したんじゃないか?

「今週の本棚・本と人:『帝国の慰安婦−−植民地支配と記憶の闘い』 著者・朴裕河さん」『毎日新聞』2014年12月28日付  「帝国」をキーワードに見落としてしまう慰安婦問題を捉え直す労作。




 「孤独な本 記憶の主人になるために」 高橋源一郎(『朝日新聞』論壇時評2014-11-27) : 朴裕河『帝国の慰安婦』 : 「遥か昔に、植民地支配と戦争は終わった。だが、それは、ほんとうに、遠い「過去」の話だろうか。違う。戦争を招いた、偏見や頑迷さが、いまもわたしたちの中で生きているのなら、その「過去」もまた生きているのである。」


朴裕河さんの『帝国の慰安婦』は、あだやおろそかに読んではいけない本だ。そう思い、熟読を続ける。今朝の朝日新聞では高橋源一郎さんが論壇時評で取り上げていた。 歴史の襞に入り込むすごい本だ。— 有田芳生 / 朴裕河は「同胞の罪」を問うたために、韓国内では激しく批判されました。ちょうど、ハンナ・アーレントが「イェルサレムのアイヒマン」で、ナチスがユダヤ人を強制収容所に連行する際、ユダヤ人社会が協力したことの罪を問い、ユダヤ人社会の激烈な反発を招いたように、です。 — 高橋源一郎


朴裕河『帝国の慰安婦』(評・杉田敦) / 木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』(評・荻上チキ)

何の進展もないまま二度目のお正月を迎える浅草中映・名画座・新劇・世界館跡地。今年の年末に完成予定だった松竹六区タワーとやらは一体どうしたのかね。マルハンパチンコ建築予定地の表記を見るたびにムカッ腹が立ってきますよ。— 墨東キネマ

【京都の商い】「MBAでは、八ッ橋は売れません」320年つづく老舗和菓子店が教えてくれたこと — ハフィントンポスト日本版

朝焼けの御嶽山~2014.12.28開田高原— shinsyu_photo

ワシントン報告 島袋 良太 琉球新報特派員 米タクシーでの会話 沖縄の声 小さくない 琉球新報 2014.12.28

「開かずの図書館」大阪府立高校の約2割 橋下知事時代の行革が原因 @HuffPostJapanさんから — Bard

ロイター : スライドショー:2014年を振り返る・総集編 / 2014年のトップニュースを飾った出来事の現場で、ロイターが撮影した映像・写真を60秒間にまとめた / スライドショー:2014年を振り返る・世界のこぼれ話編 / スライドショー:2014年を振り返る・コンサート編  




2014年12月29日月曜日

また大阪市の公募区長がやらかしてしもた : <大阪・住之江区長>やゆするメール、本人に送っちゃった (毎日新聞) ← 首つながるの?

YAHOOニュース
<大阪・住之江区長>やゆするメール、本人に送っちゃった
毎日新聞 12月29日(月)14時8分配信

 大阪市住之江区の区長(53)が、市民団体役員の女性をやゆする内容の報告のメールを上司に送るつもりが、誤って女性本人に送信していたことが分かった。区長は近く女性に会って直接謝罪するといい、毎日新聞の取材に「女性の気持ちを害し、大変申し訳ない」と話した。

 女性は今月26日午前、地域の課題の相談のため、旧知の市幹部にメールを送信。市幹部はメールを部下の区長に転送し、対応するよう指示したが、区長は同日午後、市幹部へメールで報告しようとしたところ、誤って女性に送ったという。

 報告は「ご近所さん同士のケンカに、市役所と区役所が巻き込まれているというのが実感」「(女性は)地域で孤立しているとよく聞きます」などと書いていた。

 区長は市職員から登用された公募区長で「伝聞や想像で書いた部分があった」と話している。女性は「私は地域で浮いていない。こんなことを書くなんて、あきれる」と話した。【山下貴史】

Audrey Hepburn & George Peppard in Breakfast at Tiffany’s 1961. — ClassicPics

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(113) 「第17章 因果応報-資本主義が引き起こしたイラクの惨状-」(その2) : 外国勢力が関与するイラクでの事業のあらゆる局面に、「民間にできることは民間に任せる」というブッシュお得意のモットーが浸透した

シソンロウバイ 2014-12-24 江戸城(皇居)東御苑
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新通貨の導入
 ホワイトハウスは輝かしい新生イラク経済の誕生を印象づけようと躍起になるあまり、占領の初期段階で新通貨の導入を早々に決定した。
これには大規模な輸送業務が伴った。紙幣の印刷はイギリスのデ・ラ・ルー社が行ない、新通貨は航空貨物機でイラクへ運び込まれたのち装甲車やトラックに積み込まれて国内各地へと送り届けられた。
いまだ国民の半分が飲み水にも事欠き、信号機は壊れたままで、犯罪も頻発するなか、新通貨をイラク全土へ配送するために少なくとも一〇〇〇回の走行指令が下された。

「自由世界でも有数の賢明かつ魅力ある税法および投資法」が誕生した
 「プレマーの抜本的な改革によって自由世界でも有数の賢明かつ魅力ある税法および投資法が誕生した」(ラムズフェルド国防長官)
ラムズフェルド国防長官は上院の委員会で、プレマーの「抜本的な改革」によって「自由世界でも有数の賢明かつ魅力ある税法および投資法」が誕生したと証言した。

 当初は投資家たちもこうした動きを評価していた様子で、数ヵ月も経たないうちに、バグダッドの繁華街にマクドナルド ー イラクのグローバル経済参入の究極のシンポル ー が開店する噂が取り沙汰され、大型ホテルチェーン、スターウッド社は高級ホテルの建設資金をほぼ調達し、GMは自動車工場の建設を計画した。
金融面では、ロンドンに本社を置く国際銀行HSBCがイラク全土に支店を開設する契約を取りつけ、シティ・グループはイラクの将来の石油の売り上げを担保にして多額の融資を行なう計画を発表した。
また、イラクに乗り込む日は近いと確信したシェル、BP、エクソン・モービル、シェブロン、ロシアのルクオイルなどの石油メジャーは、イラク人公務員に最新の抽出技術や経営モデルについての研修を行なう契約を結び、準備態勢を整えた。

イラクでの実験は新たな領域へ突入
 侵攻、占領、復興を完全に民営事業化したエキサイティングな新市場へと転換することで、イラクでの実験は新たな領域へと突入することになった。
アメリカ国内のセキュリティー産業複合体と同じく、この市場も巨額の公的資金を投入することによって創出された。復興事業だけでも、米議会はブームに火をつけるための資金として三八〇億ドルの予算を計上し、その他諸外国から一五〇億ドル、イラクの石油収益からも二〇〇億ドルが拠出された。

イラク復興事業、マーシャル・プランと並び称される
 ブッシュがイラク復興事業を「経済支援策としてはマーシャル・プラン以降最大の貢献」と呼んだ・・・。さらに占領初期の時点で行なったテレビ演説でも、ブッシュはこう述べた。「わが国は以前にもこれに類する貢献を行なった。第二次大戦後、アメリカは敗戦国の日本とドイツの復興に手を貸し、民主主義政権の成立後もこれらの国を支持したのです」

実際はマーシャル・プランと正反対
 しかし、イラク復興資金として拠出された巨額の金がいったいどこへ行ったかについては、ブッシュが引き合いに出した歴史との共通点はいっさいない。
マーシャル・プランの時代にもアメリカ企業はヨーロッパ向けの機器や食料の輸出で利益を得たが、そこには戦争で疲弊した経済を回復させて自立した市場を生み出し、地元の雇用を創出して社会福祉制度を支える税制を確立させるという明確な目的があった。

 これに対してブッシュ政権がやろうとしたのは、実際のところ、考えうる限りはほすべての面でマーシャル・プランとは正反対のことだった。
疲弊したイラクの工業部門をさらに弱体化させ、失業率を急増させる結果を招くことは、初めから折り込みずみだった。
外国企業が敗戦国に投資することを禁じ、弱みに乗じるような印象を与えるのを回避しようとしたマーシャル・プランに対し、ブッシュ政権はアメリカ企業を誘い込むためにありとあらゆる手を尽くした(有志連合」に加わった国の企業にもいくらかのおこぼれは与えたが)。

イラク国民は蚊帳の外
 イラクの復興資金を当のイラク人から取り上げ、それを - 単に「腐敗」や「非効率性」といった一般的なマイナスイメージにとどまらず - アメリカは優れ、イラクは劣っているという頭からの人種差別的思い込みによって正当化していたのだから、ブッシュ構想の破綻は初めから決まっていたも同然だった。

 工場の操業を再開して持続可能な経済の基盤を作り、国内雇用を創出して社会保障費を確保できるように、復興資金がイラクの工場に投じられることもなかった。
イラク国民は事実上、計画の蚊帳の外に置かれていた。イラク人に金を渡す代わりに米政府はヴァージニア州やテキサス州の民間企業にイラク再建の設計を発注し(ほとんどは米国際開発庁(USAID)による)、あとは現地で組み立てるだけ、という形にした。占領当局がくり返し強調したように、それは「アメリカ人からイラク人への贈り物」であり、イラク人は渡されたプレゼントの包みを開けるだけでいいというわけだった。

 取り付け作業には、現地の低賃金労働者すら必要とされなかった。というのも、契約を受注したハリバートン、ベクテル、カリフォルニアに本社を置く巨大エンジニアリング企業パーソンズなどは、自分たちの管理しやすい外国人労働者を使うほうを好んだ。

完全なアウトソーシングによる政府の空洞化構想をイラク復興事業を利用して実施
 人口二五〇〇万人のイラクを統治するプレマー以下CPAスタッフは、たった一五〇〇人だった。これに対し、ハリバートンは五万人の社員をイラクへ送り込んでいたが、そのなかには長年政府に勤めながら高給につられて転職した元公務員が少なからず含まれていた。

 イラクには、政府機能の・・・聖域も存存せず、その契約は選挙戦中に共和党に大口献金を寄せたり、右派キリスト教徒を選挙運動員として動員したりした企業に優先的に回されることになる。こうして外国勢力が関与するイラクでの事業のあらゆる局面に、「民間にできることは民間に任せる」というブッシュお得意のモットーが浸透した。

 経済政策を立案し、運営したのは民間の会計監査法人だった(大手国際監査法人KPMGの子会社べリングポイントは、二億四〇〇〇万ドルでイラクにおける「市場主導型システム」の構築を受注した。一〇七ページにわたる契約書には「民営化」という言葉が五一回も使われているが、元講契約書の大半はべリングポイント社が作成した)。

複数のシンクタンクにも「考える」仕事が発注され(イラク国営企業の民営化促進事業を委託されたイギリスのアダム・スミス研究所など)、民間のセキュリティー会社や防衛企業は、イラクで新たに編成される軍や警察の訓練を委託された(ダインコープ、ヴィンネル、カーライル・グル-プ傘下のUSISなど)。

さらに、教育関連企業には新生イラクの教育カリキュラムや教科書の作成が発注された(ワシントンDCに本社を置く教育経営コンサルタント会社クリエイティブ・アソシエイツは一億ドルを超える大型契約を得た)。

ハリバートンの運営する一大都市国家が出現
 チェイニーの発案によりハリバートンがバルカン半島で確立した手法、つまり米軍基地を”ミニ・ハリバートン・シティー”に変貌させるという手法は、今回さらに大規模な形で適用された。イラク各地の米軍基地の建設と運営はもちろんのこと、グリーンゾーンが設置された時点から、同社は道路の維持管理から害虫駆除、映画館やディスコ・ナイトの実施まであらゆることを一手に引き受け、さながらハリバートンの運営する一大都市国家が出現した。

 請負業者をくまなく監視する(業務)さえも外注に回しても差し支えない周辺業務とみなした。コロラドに本社を置くエンジニアリング建設会社CH2Mヒルはパーソンズ社との合弁事業という形で、大手四社の契約事業の監督を二八五〇万ドルで受注。

それのみならずイラクに「民主主義を根づかせる」任務さえ民営化され、ノースカロライナ州に本社を置くリサーチ・トライアングル・インスティチュート(RTI)に四億六六〇〇万ドル相当の契約金で委託された。・・・同社のイラク事業部のトップは有力なモルモン教従が占めていたが、その一人ジェームズ・メイフィールドは・・・モルモン教の教えは預言者ムハンマドの教えと相通じるものであることをイスラム教徒に説得するつもりだ、と豪語した。また彼は家族宛てのEメールで、イラク人が「民主主義の父」として自分の銅像を建てるだろうとまで言っている。
*
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12月29日 渋谷区は「野宿者への炊き出しをさせないため」3つの公園(宮下公園、神宮通公園、美竹公園)を閉鎖したため、宮下公園階段下で炊き出し行動を始めた。 初日の今日はなんとか夕食を済ませた。 (ツイッター写真)    










「獺祭が一合3000円ってボッタクリ!」から始まる、日本酒事情と飲食業の経営事情の話 (togetter)

togetter
「獺祭が一合3000円ってボッタクリ!」から始まる、日本酒事情と飲食業の経営事情の話
ジャーナリストの伊藤隼也(@itoshunya)氏が、居酒屋で飲んだ「獺祭23」が一合3000円ってのをボッタクリ!と呟いたところ、タクラミックス氏(@takuramix)から「一升瓶で2万円超える酒なんだから居酒屋で飲むのにそれくらいするのは当然でしょ」という話へ、更に人気や需要で現場が右往左往したりする日本酒醸造の現場をめぐる羊氏(@sake_hisuji)との話に。

一方、年内にもブックカフェ開店準備中の涼風紫音氏(@sionsuzukaze)も、タクラ氏の呟きをRTした上 で飲食業の経営事情がどんなもので実に大変かを説明することに。






【データ】女性の年収、低すぎ? 日本はこの30年、男女の格差が埋まっていない — ハフィントンポスト日本版

【画像】2014年を飾った美女たち 長澤まさみから北朝鮮まで — ハフィントンポスト日本版

【紅白】 サザン、白組トリの嵐の前に出演 :関係者によると、歌唱は昨年発売の「ピースとハイライト」と今年発売の「東京VICTORY」の2曲。当日は横浜アリーナからの中継出演となる。 — ライブドアニュース

【有馬記念】“史上最強牝馬”ジェンティルドンナ、有終の美で7冠 - スポーツ報知 / (youtube)引退レースの有馬記念を勝利して、ドバイシーマクラシックの時の馬装で現れたジェンテ­ィルドンナの引退式






引退レースの有馬記念を勝利して、ドバイシーマクラシックの時の馬装で現れたジェンテ­ィルドンナの引退式です。


桑田さん「解散はむちゃ」=安倍首相、替え歌にびっくり (時事) : 「庶民を貧困層に突き落とす政策をしてるくせに、庶民派アピールのためにサザンを政治利用しようとしたクズ首相が返り討ちか。そんなのをただ受け入れてたらロックの自殺行為。桑田佳祐さすがだ。」 / 安倍、翁長知事からは逃げ回ってサザンオールスターズは観に行くわけか。 

YAHOOニュース
桑田さん「解散はむちゃ」=安倍首相、替え歌にびっくり
時事通信 12月28日(日)22時34分配信

安倍晋三首相は28日夜、横浜市で開かれたサザンオールスターズのコンサートを昭恵夫人とともに楽しんだ。ボーカルの桑田佳祐さんは曲目「爆笑アイランド」の中で、客席の首相を意識したのか、歌詞の一部を替えて「衆院解散なんですとむちゃを言う」とアドリブの「風刺」を披露。これには首相も身をのけぞらせて驚いていた。

首相はリズムに合わせて体を揺らし、桑田さんの軽妙なトークにも時折身を乗り出して聞き入った。終了後、記者団から感想を問われた首相は「楽しみましたよ」と満足した様子だった。 



米メディア、安倍晋三の「憲法改定意欲増進中」報道 (沖縄タイムス 12月29日) 中谷氏起用も分析 ニューヨークタイムズ ブルームバーグ

2014年12月28日日曜日

【New!】「2014年の最も美しい顔100人」が発表 日本からランクインしたのは……(画像集) — ハフィントンポスト日本版

東京 江戸城(皇居)のお濠 牛ヶ淵 千鳥ヶ淵 半蔵濠 2014-12-26

12月26日の仕事納めの日、
すごくいいお天気なので、空と水の青を意識して、
千鳥ヶ淵周辺を歩いた。

以下、三つのお濠の風景。

▼牛ヶ淵
(一枚目だけはこの日の朝のもの)

▼正面にあるのは九段会館
(2.26事件の時の戒厳司令部)

▼千鳥ヶ淵



▼半蔵濠
▼ずっと向こうに国会議事堂が見える

昭和18年(1943)7月1日~4日 東京都制実施 昭和塾生大量検挙始る 東條首相タイ、シンガポール、ジャカルタ訪問 クラ湾夜戦 米軍、ニュージョージア島ムンダに敵前上陸 インド国民軍編成(チャンドラ・ボース)

牛ヶ淵 2014-12-26
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昭和18年(1943)
7月
・毛沢東「国民党にただす」発表。
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・十八夏太行作戦(「シ」号作戦)を実施(7月10日~31日)。
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・学徒の「戦時動員体制確立要綱」発表。
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・角田覚治中将、第1航空艦隊司令長官。
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・第31師団師団長佐藤幸徳中将、第15軍牟田口軍司令官に状況報告。
牟田口は佐藤師団長が連れた後方参謀小口徳治少佐に対し、インド侵攻に関連する指示を与える。
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・文部省、大学・専門学校の映画研究会に解散を指示。
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・大日本出版報国団、結成。
*
・小林秀雄(41)、「知的協力会議 近代の超克」(創元社)。中島敦「李陵」(遺稿)
*
・西インド諸島のフランス植民地の島々、ヴィシー政府離脱・自由フランス参加表明。
日本軍が占領しているインドシナを除く全フランス海外植民地がドイツとの戦いに参加するに至る。
*
・フランス、「深夜叢書」第4冊目・エリュアール編集「詩人たちの名誉」出版。
*
・フランス、ナチ武装親衛隊フランス隊、創設。
*
・英米軍、ハンブルク市を連続集中夜間空襲。市街地壊滅。死者3万余。
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・アルゼンチン、CGT No2に解散命令。
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7月1日
・朝より、米軍、レンドバ島よりムンダ飛行場へ連続砲撃
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7月1日
・府・市の二重行政を一本化、東京都制が実施。初代都長官に昭南(シンガポール)市長だった大達茂雄。
*
7月1日
・アジア協会の新井義夫、検挙。
神奈川県特高は、満鉄グループと泊事件関係者を追及し「細川グループ」を作り上げ、このグループの人的繋がりを辿り、昭和塾(昭和研究会の外郭)に辿りつき、昭和塾生大量検挙が始る。
新井は、細川の「植民史」著述を手伝ったことがあり、昭和塾生で、そこには泊事件関係者の友人らしい者も何人かいる。
昭和研究会と、外郭組織として多くの青年を組織する昭和塾には、近衛文麿のブレーンで大政翼賛運動「左派」を代表する主宰者後藤隆之助のほか、風見章、蝋山政道、尾崎秀実、平貞蔵、佐々弘堆、笠信太郎、三木清らが名を連ね、細川嘉六もそれらの人々と交友関係があり、昭和塾講師を勤める間柄で、個人的に近衛とも知り合いの関係にある。
こうなってくると、近衛を頂点として広がるこのような人的構成は、「聖戦完遂」とその為の大政翼賛組織「粛清」を志す軍部ファシズムにとっては、邪魔物であり、その意を体する司法・検察官僚は、折あらば近衛勢力に一撃を加えようと待ちかまえていた。
この狙いの下に、昭和塾生大量検挙が始まる。
7月31日浅石晴世、9月9日、高木健次郎、板井庄作、由田浩、森数男、勝部元、白石芳夫、小川修ら、18日、山口謙三、10月には和田喜太郎、渡辺公平、と計12名が検挙。
塾生数名の足尾ハイキングは、共産主義グループ結成を企らんだ「足尾会議」となり、塾生たちの政治経済研究会・ファシズム研究会、細川との会食、浅石宅での新年会まで、共産主義の協議活動とされ、近衛文麿をかつぐ昭和研究会-昭和塾の全てが「擬装共産主義」集団として暴力的に染めかえられてゆく。
*
7月1日
・地方行政協議会令、朝鮮証券取引所令公布
*
7月1日
・国鉄、急行列車の自由乗車制廃止、指定制とする
*
7月2日
・南海支隊(佐々木登少将)、ニュージョージア島ムンダ進出。
第6師団(神田正種中将)第13連隊第3大隊、コロンバンガラ島上陸。
*
7月2日
・ラバウルの日本陸軍第20飛行団、レンドバ島攻撃。
4日、レンドバ島爆撃。重爆7・戦闘機1失う。以降、陸軍はソロモンに出動せず。
7日、草鹿第11航空艦隊司令長官は、今村第8方面軍司令官にニュージョージアへの1個師団増派を要請するが、今村軍司令官は「中央協定」により拒否。

米軍機、質量両面で優位。
零戦の運動性・重装備は依然米軍機の脅威ではあるが、零戦の及ばない高度を飛ぶP38、急降下速度で優れるP40、全ての点で零戦と優劣を競いうるグラマンF6F、F4Uコルセアが現われる。また、これまで日本機が優勢を誇りえたのは、13、20mm機銃弾が破壊力の大きい榴弾だったことにもよるが、操縦士の背後に厚い防護板をつけ、燃料タンクに工夫が施されると、撃墜は困難になる。B17、B25など大型機のタンクは、天然ゴム、牛皮、人造ゴムを三重に貼り合わせた懸吊タンクで、ジュラルミンの機体に大穴をあけても、三重の壁を突き破るのは難しい。徹甲弾では、貫通しても弾丸は冷却され、ガソリンを引火させる力はない。
一方、日本機は防御面は殆ど考慮されず、一撃で火を吹く場合が多い。また、搭乗員不足の為、1日に数回の出撃もしばしばあり、疲労が損害を増加させることにもなる。
こうした状況から、海軍としては中部ソロモンを米反攻阻止の要地と看做したにもかかわらず、航空攻撃は効果をあがらず、又も消耗戦の様相を帯びる。
*
7月2日
・「上海共同租界を支那に還す。在支日本人はおそらく不平をいうだろうし、国内の右翼も憤慨するだろう。領土占領以外に、実際問題として何の支那問題ありや。領土拡張を目がけて、ここに至れるを彼らは心外に思うならん、そして東条首相に不平が集まらん。彼らは、
一、東条という軍部代表者を以てして、上海租界、治外法権を還附せざるを得ない事情を反省することはできないであろう。
二、武力政策が結局大損をすることも反省し得ないであろう。
三、世界および支那は、この日本の譲歩を、必ずサイン・オヴ・ウィーキネスと息うだろう。
四、形式的なことに重要性を置く現代日本の思潮がここにも現れている。すなわち形式問題を形付ければ(治外法権その他の還附)それで支那人は喜ぶだろうと思うことこれだ。彼らの欲するものはパンだ。法律ではない。
五、しかし一度、これを還附すれば、もはや永遠に権利は去ったのだ。これが果して支那と、世界のためだろうか。治外法権は別として、租界は支那に害悪を与えたりや。
六、共同租界を還附したことは、支那人の内争問題からみても、謬りであったと予は思う。ただし、どうせいつか還さねばならぬ。今還すことは結局いいだろう。この政治をやっている以上は。
昨夜のラジオで五大地方長官出現を知る。府県ブロックを破るために地方区域を作るのだ。これは間接には、政府が府県ブロックを破り得ず、その解決策としてここに出でた告白である。思想が封建主義となれば、国内と地方の事情も封建主義的となる。思想は孤ならず。」
(清沢『暗黒日記』)
*
7月2日
・米政治調査部のJ・W・マスランド(スタンフォード大学教授)、領土問題小委員会に対して琉球戦後処理に関する3つの選択肢を提示。
(1)日本の非軍事化を条件として日本による琉球保有を認める
(2)上の理由から琉球を国際的管理下に置く
(3)琉球を中国に移譲。
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7月2日
・ドイツ『ギュンター』作戦(スモレンスクにおけるソ連パルチザン掃討作戦)
*
7月4日
・東条首相兼陸相、タイのブビン首相訪問。
5日、シンガポール到着。
7日、ジャカルタ訪問。

訪問に先立ち、タイのピブン首相に英国に取上げられていたマライの北部4州・東部2州をタイに返し、その上で大東亜会議出席を呼び掛けようと画策、東條は南方軍総司令官寺内寿一に打診するが、寺内は、「タイの協力態度は怪しい。日本側の勝利にも疑念をもっている。そうしたタイに、旧英国領を与えても有難迷惑だろう」と、東條の案を一蹴。
東條は、バンコクでビプンの儀礼的な歓迎を受け、日泰共同声明が発するだけで、シンガポールに向かう。

シンガポール市民の空気は冷たく、南方軍総司令官官邸での東條の訓示は、寺内や幕僚たちから嘲笑される。寺内は東條を嫌い、幕僚も東條を中傷する者が多い。
幕僚稲田正純の日記、
「東亜民族大同団結をするという一入合点の、冷かせば悪足様きの弁」と大東亜会議を酷評。

東條は、シンガポールにビルマのバーモ首相を呼び、独立準備を確かめ、新しく英国領だった2州をビルマ領にすると約束。バーモは東條の言を受け入れ、大東亜会議出席を約束。
更に、チャンドラ・ボースとも会う。ポースは、「自由インド国民軍にぞくぞく入隊志願者が殺到している」と東條に感謝を伝え、強力支援の継続を要望。

独立運動を続けるスカルノとハッタが日本の占領地行政に不満を洩らしている事が、東條の耳に入り、それを確認する為、ジャカルタ訪問は突然決まる。
独立運動の闘士たちは、東條の、緩やかに独立を認めるとの議会演説に失望し、しかも民族の誇り無視する日本軍の統治は、国民の日本への期待を急速に萎ませている。

独立運動を支える陸海軍将校や民間人は、東條にこの苦境を伝えられないか考えていたが、そんな折り、青木一男大東亜相がインドネシア視察に来たので、独立運動指導者4人(スカルノ、ハッタ、デハントロ、マンスール)は、日本軍将校と民間人の助言で、東條宛ての要求書を作る。
①戦後のインドネシアの地位の明確化。当面の日本陸海軍政の一本化。
②民族旗掲揚、独立歌高唱許可。
③日本人の粗暴な態度を改める。
日本側将校は、これを「海軍」の便箋にタイプを打ち、青木に渡し、青木はこれを東條に渡す。東條は、この運動の背後に海軍が糸を引いていないか調べ、結局、海軍の若い士官や民間人が、独立運動を熱心に応援しているだけとわかり、東條は、憲兵に彼らの動きの監視を命じる。
東條は、陸軍将校に要求書の事実を確かめ、独立運動が行き過ぎて反日運動に転化しないように、厳重に釘をさす。
*
7月4日
・クラ湾夜戦。
~6日、コロンバンガラ島増援部隊と米艦隊の遭遇戦。第3水雷戦隊全滅。日本駆逐艦2、米軽巡1。

秋山輝男少将は、コロンバカラ島・ニュージョージア島への陸軍増援部隊輸送の為に、麾下の艦隊を支援隊、第1次輸送隊、第2次輸送隊の3個部隊に編成し出撃させる。
5日午後11時5分、コロンバカラ島・ニュージョージア島間にあるクラ湾を航行中、「新月」が米艦隊を探知、午後11時36分、ウォーデン・エインスワース少将率いる第18任務部隊軽巡「ヘレナ」のレーダーが日本艦隊を捕捉。
米艦隊のレーダー射撃は「新月」に集中、艦橋を直撃され秋山少将以下第3水雷戦隊幕僚全員が戦死。「新月」被弾直後、「涼風」「谷風」が砲雷撃を開始、「ヘレナ」沈没。その後、米艦隊は反転再攻撃しようとするが見失い戦闘終了。
*
7月4日
・米軍、ニュージョージア島ムンダ東方海岸と裏ムンダのライス湾に敵前上陸。
*
7月4日
・インド独立連盟大会、シンガポール、ビハリ・ボース引退(最高顧問に)。新総裁チャンドラ・ボース。
5日、.正式にインド国民軍編成発表。
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7月4日
・ポーランド亡命政府首相兼最高司令官シコルスキ将軍、ジブラルタル海岸沖で飛行機事故・死亡。
13日 後任にミコワイチェク、就任。
*
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A makeup-free Marilyn — ClassicPics

【必見番組】★「裂かれる海~辺野古 動き出した基地建設』(1)~(2) QAB・琉球朝日放送



社説 日本政府は沖縄の声を聞け 「お会いするつもりはない」(菅官房長官) 「敵になった側に協力する必要なし」(自民・国会議員) *日本政府が沖縄にどのように向き合おうとしているか分かったね (沖縄タイムス 12月27日-10)

本日は京都タワー開業50周年。それを記念して本日は終日50円で入場できます。 / 筒状の塔体が特徴的ですが、実は鉄骨が入っていないんです。かわって、厚さ12~22mmの特殊鋼板シリンダーを溶接でつなぎ合わせることでできているんですよ!



12月28日 レイシスト川東が京都(三条、四条)で街宣 街(害)宣はカウンターにかき消され川東は撤収。 / 2014/12/28 嫌がらせを予告した上で鶴橋に現れた川東大了ほかレイシスト集団に猛烈カウンター (togetter) / 【画像集】在特会の鶴橋「つくしんぼう」忘年会に有田芳生参議らが阻止活動  #12月28日鶴橋安寧 (NAVERまとめ)    









togetter
2014/12/28 嫌がらせを予告した上で鶴橋に現れた川東大了ほかレイシスト集団に猛烈カウンター

NAVERまとめ
【画像集】在特会の鶴橋「つくしんぼう」忘年会に有田芳生参議らが阻止活動  #12月28日鶴橋安寧
西日本最大のコリアタウンである大阪・鶴橋で28日、街にやってくる在特会メンバーとそれを阻止しようとする市民が対峙する騒動があった。
在特会メンバーは居酒屋「つくしんぼう」で忘年会のために訪れており、抗議活動に参加した民主党の有田芳生参議院議員らが警察の過剰警備を批判した
更新日: 2014年12月28日






山田美樹氏:運動員人身事故、近くで演説 秘書が身分隠す (毎日新聞) / 東京1区の自民党、山田美樹さん。これはちょっと…シャレになんないんじゃないかね…自民党の交通安全対策特別委員会の事務局次長さんだったんだね / togetter 人命より選挙の #山田美樹は辞職せよ

山田美樹氏:運動員人身事故、近くで演説 秘書が身分隠す
毎日新聞 2014年12月27日 15時00分(最終更新 12月27日 18時28分)

◇被害男性、一時意識不明 秘書「月曜まで待って」

衆院選公示期間中の12日、東京1区の自民党、山田美樹氏(40)の運動員が選挙区内で人身事故を起こし、被害者が救急搬送される近くで山田氏ら陣営が街頭演説を行っていたことが毎日新聞の取材で分かった。翌日に被害者の入院先を訪ねてきた秘書が、応対した親族に「(投開票後の)月曜まで待ってくれ」などと言って身分を明かさなかったことも判明。被害者側は「非常識だ」と批判しており、山田氏の事務所は取材に対し、山田氏本人に事故をすぐ報告すべきだったなどと釈明している。

警視庁神田署などによると、事故は12日午後1時半ごろ、東京都千代田区神田神保町2の神保町交差点そばで発生。道路左側に止めた車の右後部ドアを運動員の30代男性が開けたところ、後ろから来た都内の印刷関連会社に勤務する60代男性のバイクと接触した。男性は転倒して一時意識不明となり、搬送先で外傷性くも膜下出血と診断されて2週間以上入院した。半年間の通院が必要で運転もできない状態だという。

車に乗っていた山田氏事務所の吉沢昌樹政策秘書らによると、遊説支援で山田氏と合流するため神保町へ向かい、到着直後に事故が起きた。山田氏らは救急車が到着後に現場から約30メートルの場所で街頭演説を始め、事故処理中も続けた。終了後に選挙カーで移動し、山田氏本人に事故の報告をしたのは同日夕方だったという。

被害者の男性は勤務中で、勤め先の会社会長(68)は「運動員の事故も知らず、近くで演説するのはおかしい」と指摘。「吉沢秘書らが親族を訪ねたのは事故翌日で、名刺を渡すことや身分を明かすことを『月曜(投開票翌日)まで待ってほしい』と言って拒んだと親族から聞いた。不誠実だ」と批判する。

取材に対し、山田氏の事務所は「候補者(山田氏)への事故発生の連絡が遅くなった点については厳重に注意した」と文書で回答。被害者側への対応については「捜査中で詳細について説明できないが、誠意を持って対応している。山田もお見舞いに伺った」としている。

しかし、山田氏が病院を訪れたのは、毎日新聞が取材を申し込んだ翌日(20日)だったという。事故当日の経緯や事故後の対応について、国会周辺で山田氏本人に直接聞いたところ「イレギュラーな取材は勘弁してほしい」とだけ述べた。

togetter
人命より選挙の #山田美樹は辞職せよ












2014年12月27日土曜日

東京 北の丸公園 清水門周辺のスイセン カンツバキとツーショット 2014-12-26



明治38年(1905)2月 平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」「昨年の文芸界」(「明星」2月号) 夏目漱石「吾輩は猫である」(続編)(「ホトトギス」):漱石は日露戦争をどう見ていたか? トロツキー(25歳)密かにキエフに滞在

半蔵濠 2014-12-26
*
明治38年(1905)
2月
・谷中村民、自費で破堤所の復旧工事開始。遊水池化を阻止した利島・川辺両村は義捐人夫を送る。完成まもなく、8月の出水で決壊。
*
・平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」(「明星」2月号)
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を巡り大町桂月との論争になり、鉄幹と共に新詩社を代表して桂月を訪れ、1時間半にわたる論談の結果、桂月の論理の矛盾を指摘し論破。(「1月」の項に既述)
*
・平出修「昨年の文芸界」(「明星」2月号)
尚、平出修は、「明星」3月号から「明星」への寄稿で平出露花から本名の平出修に変える。

平出は昨年の文芸界を、
「国家侵略史上より観察すれば、明治三十七年は実に光彩ある一年なりき。而して之を文芸発達史上より観察すれば果して如何」(『定本平出修集』一巻)
と書き出し、劇界における小維新、小活動、小希望を認めたほか、「三十七年の文壇は実に萎靡沈衰を極めしと云ふに就いて誰しも異論なき所ならむ」と観察し、その理由として日露戦争をあげ、
「一国の気勢悉く戦争に趁(はし)り、戦争より云へば閑事業たる文芸の如きは漸く度外視され、加ふるに財界の緊縮論は心霊上の作物を冷遇するの状況を呈し、陸に海に、戦は連勝連勝の好果を収めたれども、文芸上の産物は絶無とも云ふべき姿にて又一年を終りぬ。」
と、総論的、また結論的に述べている。

そして「三十七年の文壇は悪傾向を以て充たされぬ」の内容として次のように分析する。
「第一は戦争文学の鼓吹(際物文学の鼓吹)
第二は国民文学鼓吹の声
第三は家庭小説と名づけるものの流行
第四は脚本化した小説の流行(唯一の主観小説『水彩画家』(島崎藤村作)を抱き得るのみ)
第五は評論の蕪雑なる事
第六は翻訳文学の堕落」
などを分類して論証し、その最後に、
「若し夫れ昨年の文界に於て喜ぶべき現象を求めば、僅に一部泣菫(薄田)、有明(蒲原)二氏等少数者の新体詩と、新詩社一派の短歌及新体詩との益々好発展を為し来れるにあり。而して是等は今の評論家と多数の韻文作家との知らざる所、吾人は別に稿を改めて論ずるの機会あるべし。」
と結ぶ。
*
・夏目漱石「吾輩は猫である」(続編、実質的には(二))(「ホトトギス」)
漱石は日露戦争をどう見ていたか?

〇主人の中学校教師狆野苦沙弥(ちんのくしやみ)を訪れた教え子の水島寒月が「御閑なら御一所に散歩でもしませう。旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と誘うが、主人は旅順陥落よりも、寒月の話の中に出て来た「女連(おんなづれ)の身元を聞きたいと云ふ顔で」ためらっている。
その後、ようやく決心して立ち上がるが、あまり乗り気ではない。

〇翌日の日記でも、

「寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついて居た。衣装は美しいが顔は頗(すこぶ)るまづい。何となくうちの猫に似てた。」

と書くだけで、日露戦争には触れていない。

〇主人に宛てた迷亭の年始状
古代のローマ人は日に二度も三度も宴会を開いたが、食後には必ず入浴し、そのあと食べたものをすべて嘔吐して「贅沢と衛生とを両立」させる秘法を案出していたと述べ、次のように主張する。

廿世紀(にじつせいき)の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく。軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非羅馬人に倣って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛罷りあり候

日本人が戦勝に浮かれ、「贅沢」な宴会を重ねていることを諷刺している。

〇迷亭の母からの手紙
主人の家を訪れた迷亭が、静岡から来た母の手紙のことを話す。

御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人達が大変な辛苦をして御国の為に働らいて居るのに節季師走でもお正月の様に気楽に遊んで居ると書いてある。
- 僕はこれでも母の思ってる様に遊んぢや居ないやね - 其あとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものゝ名前が列挙してあるのさ。其名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云ふ気が起ったよ。

〇迷亭は、その手紙を読んで人間の無常をしみじみと感じ、散歩に出たとき「首懸の松」を見て死のうと決心しするが、用事を思い出していったん帰宅し、再びやってくると、すでに首をくくっている人がいて、自分はくくりそこなったと語る。
日露戦争の死傷者の増加を知る漱石の暗い感慨がにじんでいる。
*
・延岡為子、平民社賄方として入社。
彼女の常太郎が堺利彦のファンで、『萬朝報』の頃から彼の文章を愛読していたという。
その後、常太郎が購読する『平民新聞』を読み始めた為子は、平民社の温かい雰囲気に惹かれて、裏方募集の広告を見ると居でも立ってもいられず、2月上旬に上京(『中央公論』1933年3月号)。以後、文子と為子は平民社に住みこんで社員の世話をすることになった。当時、為子は最初の夫とは離婚していて、文子より10歳年上だった。
*
・田岡嶺雲ら「天鼓」創刊。
*
・法隆寺再建論争開始。
*
・トロツキー(25)、ウィーンから密かにロシアに戻りキエフに滞在。
3,4月、ペテルブルク滞在。
5月、フィンランドに身を隠し、その地で永続革命論を仕上げる。

ウィーン、ロシア人亡命者の波がロシア帰国へと逆流し、オーストリア社会民主党ヴィクトル・アドラーは金・パスポート・隠れ家手配で多忙。トロツキーの妻は先に帰国し、キエフでアパートを探す。
キエフ、トロツキー、ボルシェヴィキ中央委員クラーシンの協力で一連のビラを印刷。クラーシンよりペテルブルクの隠れ家を教わり、ペテルブルクに向う。
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・ドイツ領東アフリカ(現タンザニア本土部)、中央鉄道建設開始(1914完成)。
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現金給与総額は9か月ぶり減、実質賃金も17か月連続減(TBS) ← 実質賃金だけでなく、名目賃金も減少し始めた!

TBS
現金給与総額は9か月ぶり減、実質賃金も17か月連続減

 1人あたりの平均賃金を示す11月の「現金給与総額」は、前の年の同じ月と比べて1.5%減ったことが、厚生労働省の調査でわかりました。現金給与総額の減少は9か月ぶりです。

 また、物価の上昇を考慮した実質賃金も、17か月連続の減少となりました。前の年の同じ月と比べ4.3%減少していて、リーマンショック後の2009年12月以来、およそ5年ぶりの大きな減少幅となっています。(26日11:18)

消費支出、2.5%減=8カ月連続マイナス-11月家計調査(時事) : 総務省は「全体として減少幅は縮小方向にある」(消費統計課)と判断。基調判断は「このところ持ち直している」に据え置いた。 ← アヤシイ判断

時事ドットコム
消費支出、2.5%減=8カ月連続マイナス-11月家計調査

 総務省が26日発表した11月の家計調査によると、1世帯(2人以上)当たりの消費支出は28万271円となり、物価変動の影響を除いた実質で前年同月比2.5%減少した。マイナス幅は10月(4.0%減)から縮小したものの、消費税率が引き上げられた4月以降、8カ月連続のマイナスとなった。

 主な項目を見ると、住居や家具・家事用品など6項目がマイナス。品目別では、消費税増税に伴う駆け込み需要の反動減の影響で住宅リフォーム代(34.8%減)の落ち込みが目立った。炊飯器やオーブンレンジなどの家庭用耐久財(6.8%減)、ゴルフプレー代や国内パック旅行費といった教養娯楽サービス(3.1%減)への支出も減少し、家計の節約志向が続いている。

 ただ、総務省は「全体として減少幅は縮小方向にある」(消費統計課)と判断。基調判断は「このところ持ち直している」に据え置いた。(2014/12/26-12:21)

11月の鉱工業生産、0.6%低下=基調判断は一進一退-経産省(時事) : 経産省は「9月にV字回復(前月比2.9%上昇)した後、好調を維持した10月の反動が出た」(調査統計グループ)と指摘した。 / 11月の鉱工業指数生産・出荷が低下、在庫・在庫率は上昇(LOGISTICS TODAY) ← なんだ、9月、10月の好調は在庫を作り込んだだけのことか  

時事ドットコム
11月の鉱工業生産、0.6%低下=基調判断は一進一退-経産省

 経済産業省が26日発表した11月の鉱工業生産指数速報値(2010年=100、季節調整済み)は97.8と前月比0.6%低下した。低下は3カ月ぶり。韓国や米国向けの半導体製造装置に加え、発電施設用のボイラーやタービン、太陽光パネルの落ち込みが響いた。

 経産省は「9月にV字回復(前月比2.9%上昇)した後、好調を維持した10月の反動が出た」(調査統計グループ)と指摘した。携帯情報端末用の電子部品などに底堅い動きもあるため、生産の基調判断は3カ月連続で「一進一退」に据え置いた。市場予想(時事通信社調べ)は、0.8%上昇だった。(2014/12/26-11:24)

LOGISTICS TODAY
11月の鉱工業指数生産・出荷が低下、在庫・在庫率は上昇
2014年12月26日 (金)

調査・データ経済産業省が26日に発表した11月の鉱工業指数(速報)は、生産指数が97.8で前月から0.6%のマイナス、出荷指数は97.2で1.4%のマイナス、在庫指数は112.4で1%のプラス、在庫率は116.8で4%のプラスだった。今月は生産・出荷は低下、在庫・在庫率は上昇だった。

東京 北の丸公園 清水濠 センダンの実と清水門 2014-12-26

12月26日朝の清水濠。
センダンの実と清水門。



「今日、永田町で山本太郎、と言う野良犬が保護されました」 / 山本太郎議員が絶滅寸前の生活の党を救った。生活の党に入党し政党交付金要件を守った。保身のために大政党にくら替えするのとは違う。社民党が困った時も東京比例の石川大我さんを支援した。太郎議員の一連の行動を熱烈支持。 — ジャーナリスト 田中稔






日本列島で火山活動が活発化 「どこかで噴火の可能性」 (共同) : 吾妻山 十勝岳 御嶽山 草津白根山 阿蘇山

47ニュース
日本列島で火山活動が活発化 「どこかで噴火の可能性」 

2014年の日本列島は各地で火山活動が活発化した。27日は戦後最悪の火山災害となった御嶽山(長野、岐阜)の噴火から3カ月。吾妻山(福島)なども噴火警戒レベルが上がり、専門家は「今後も、どこかで大きな噴火が起きる可能性はある」と指摘する。

気象庁は12月、吾妻山と十勝岳(北海道)で5段階ある警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)へ引き上げた。火山性地震の増加などから「小規模噴火の恐れがある」と判断した。

9月に噴火した御嶽山は警戒レベルを1から3(入山規制)に。草津白根山(群馬、長野)は6月、阿蘇山(熊本)は8月に2へ上げた。

2014/12/26 16:39   【共同通信】

生活保護支給をプリペイド化?こんなの許したらあかん - Togetterまとめ : 「抑圧的救済の復活に異ならない。」「経済学的に言うと今回の特定企業発行のプリペイドカードは、競争すらも行われていない、極めて不透明なものです。」 — 本田由紀





BS日テレ 「戦争をするにあたって‥ いや、失礼、集団的自衛権を行使するにあたって‥」 て言い直しちゃった石破




詳細はコチラがいい ↓
ブログ「みんな楽しくHAPPY♡がいい」
自民党石破「戦争をするにあたって、し、失礼。集団的自衛権を行使するにあたって」12/26深層ニュース(動画&文字起こし)



渋谷の3公園 年末年始閉鎖 「炊き出し妨害」計画の団体反発 (東京新聞) : 「野宿者を排除する動きは他の地域でもあるが、ここまで露骨なのは異様だ。年末年始は行政の福祉が機能せず、補う形で民間団体が支援している。それを妨害するのは言語道断」

東京新聞
渋谷の3公園 年末年始閉鎖 「炊き出し妨害」計画の団体反発    
2014年12月27日 朝刊

 東京都渋谷区は二十六日、宮下公園など三つの区立公園を来年一月三日まで閉鎖した。宮下公園では年末年始にホームレスの人たちの支援団体が炊き出しを計画していた。区の担当者は「公園のルールとして火気厳禁。炊き出しをするなら利用は認められない」としている。

 緑と水・公園課によると、閉鎖したのは宮下公園と、その近くの神宮通公園、美竹公園。吉武成寛課長は「炊き出し場所の移動が想定されるため」と話す。いずれも敷地はフェンスで囲まれ、通常は午後十時半に閉門し、翌朝午前八時半に開く。二十六日朝は閉鎖の掲示が掛かり、定時になっても開門しなかった。

 宮下公園では「渋谷越年・越冬闘争実行委員会」が炊き出しを計画。昨年は公園内に宿泊用テントを設置して区から強制的に閉め出されたため、今年はガスコンロ二台で炊き出しのみを行う予定だった。メンバー約十人は二十六日、区役所を訪れ「命の危険に関わるから炊き出しをしている」と抗議したが、吉武課長は「違う場所を探してほしい」と拒否した。

 夏祭りの屋台では火気が使われるが、吉武課長は取材に「それは許可申請が出ている」とした。

 貧困支援のNPO法人もやいの稲葉剛理事は「野宿者を排除する動きは他の地域でもあるが、ここまで露骨なのは異様だ。年末年始は行政の福祉が機能せず、補う形で民間団体が支援している。それを妨害するのは言語道断」と話した。

昨日保釈されたろくでなし子さんは、北原みのりさんら数人と接触禁止の条件がついている、とのこと。連絡手段の多い今のご時世、接触禁止となると、単に会わないとか電話しないとかだけでなく、ツイッターなどのフォローを外し、かつブロックまでしなければならないらしい。 — Shoko Egawa

中国で拘束後に帰国、父の半生 本に 戦後スパイも 戦争の犠牲者 (東京新聞) : 深谷敏雄 『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社)

東京新聞
中国で拘束後に帰国、父の半生 本に 戦後スパイも 戦争の犠牲者    
2014年12月27日 夕刊

戦時中、日本軍のスパイとして中国で暗躍し、戦後も十三年間任務を続けた男性がいる。深谷(ふかたに)義治さん(99)。一九五八年、中国当局に逮捕され、拘束は二十年に及んだ。今月、その半生をまとめた本が出版された。執筆したのは次男の敏雄さん(66)。それは家族にとっても重く長い日々だった。 (森本智之)

『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社)。陸軍憲兵だった義治さんは四〇年、極秘任務を命じられ中国人商人に成り済ました。現地女性と結婚して上海を拠点に活動。ニセ札を大量に製造して敵に打撃を与え、二十七歳の若さで叙勲を受けた。

人生を変えたのは「戦後も任務を続行せよ」との命令だった。戦後スパイは国際法違反。逮捕後、戦時中のスパイは認めたが、戦後のことは「国に汚名を着せてしまう」と否認した。獄中の苛酷な生活で背骨が折れ、身長は十センチ縮んだ。左目も失明したが、罪は認めなかった。情報をやりとりした相手が誰なのか、いまだに不明だ。逮捕当時、次男の敏雄さんは十歳。父が日本人であることすら知らなかった。妻と四人の子は、国を裏切ったスパイの家族として徹底的な差別と貧困を味わった。

七八年、日中平和友好条約締結を機にようやく釈放され、一家は父の故郷・島根県大田市へ。だが、満足な恩給もなく、父は体が不自由なまま。帰国の一週間後には子どもたちは働き始めた。三十歳になっていた敏雄さんは勉強のため作業着の袖に日本語を書き込み、工場に通った。

島根、京都、広島で、タクシーの運転手や自動車工場の作業員として働いてきた敏雄さんが執筆を思い立ったのは十年前。父が倒れたことがきっかけだった。

帰国の十カ月前に亡くなった母と再会できなかったことを義治さんは悔い、「岸壁の母」をよく口ずさんでいた。いま、故郷を離れて広島市内で入院し、家族の呼び掛けにもほとんど反応はない。日本のために命を懸けながら報われない父の人生を形に残してあげたい、と思った。

郊外の市営アパートで、拘束中の日記などを基に書き始めた。だが、言葉の壁は厚い。市内の公民館の日本語教室を順に訪ねボランティアの先生に添削を頼みこんだ。作業の途中で断られることも多く「広島じゅうの公民館に行った」。

一文字ずつ刻み付けるような作業は六年続いた。広島生まれの一人娘の富美子さん(24)は「最初は文法や単語に間違いがあって、ほとんど理解できなかった。こんな日が来るとは思わなかった」と涙ぐんだ。

開高健ノンフィクション賞の事務局に規定の三倍もの分量の作品が届いたのは今年二月だった。原稿用紙約九百枚。選考に漏れたが、担当者は「世に出すべき内容」と直感した。それが、この作品だった。

敏雄さんは「父を恨んだことはない。だって父は戦争の犠牲者だから」と、たどたどしい日本語で話した。来年は戦後七十年。そのことを問うと「父は日本に戻ってから、お母さんに会えないと泣いた。そんなお母さんがいっぱい出るのが戦争。父のような悲惨な運命をつくり出す戦争は、二度といけない」と言った。
日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族
日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族


年俸15億円減で黒田が電撃復帰 広島オーナー「驚き」 — 朝日新聞

ピケティと同じ手法で「日本の富」を分析してみた! (1)(2)(3) (日経BP)

ピケティと同じ手法で「日本の富」を分析してみた! (日経BP)

2014年12月26日
日本の所得格差の転換点は1997年

2014年12月19日
日本でも納税者の0.1%に富が集中する傾向が顕著

2014年12月12日
格差大国・アメリカの後を追う日本


<社説> 原発維持政策 目を疑う非論理的記述 (琉球新報) : 「原子力の将来像が明らかでなければ(廃炉の)判断がしにくい」  何かの間違いであろう。論理的には「放射性廃棄物の最終処分方法が明らかでなければ、原発存続を判断するのは困難」と書かねばならない。

琉球新報
<社説>原発維持政策 目を疑う非論理的記述
2014年12月26日

 一読、目を疑った。経済産業省の総合資源エネルギー調査会原子力小委員会がまとめた「中間整理」のことだ。そこにはこうある。

 「原子力の将来像が明らかでなければ(廃炉の)判断がしにくい」

 何かの間違いであろう。論理的には「放射性廃棄物の最終処分方法が明らかでなければ、原発存続を判断するのは困難」と書かねばならない。

 使用済み核燃料を再処理して新たな燃料とする核燃料サイクルは既に破綻している。地底に埋めるといった高レベル放射性廃棄物の最終処分も、数万~数十万年を要する途方もない計画であり、許容する地域はまずあるまい。中間貯蔵ですら見通しが立ったとは言い難い。八方ふさがりだ。こんな状態でなぜ廃炉が困難なのか。むしろ維持が困難なはずだ。

 安倍政権は原発の再稼働に意欲を示し、世論の反発を受けている。それなのに中間整理は、廃炉後に敷地内に新しい原子炉を設置する建て替え(リプレース)に言及している。再稼働どころか新規建設をしたいということだ。「原発依存度を可能な限り低減させる」とする政府のエネルギー基本計画と矛盾するのは明らかだ。

 「原発が果たす役割は再生可能エネルギーと同様、非常に大きい」とも記すなど、原発維持への願望が随所ににじむ。原発依存度を低減すると人材が不足し、安全確保ができないとする本末転倒の論理も散見される。原発維持ありきに偏した議論と言わざるを得ない。

 現存する原発は原則として運転開始から40年で順次、廃炉になる。新規建設が途絶えればいずれなくなるのは理の当然だ。原発の建設・維持から莫大(ばくだい)な利益を得てきた「原子力ムラ」の住人たちがそんな現状に危機感を募らせていたのは想像に難くない。

 小委員会の人選は原発利用に前向きな人物が大半を占めた。しかも経産省は検討過程の公開にも消極的で、ネット中継は拒否した。

 「将来の脱原発依存」の方針は原発事故後、国民が参加する各地の会合を経て決まったはずだ。今も世論調査では国民の過半が脱原発を求めている。それなのに、透明性を欠いたまま、脱原発をかなぐり捨てる論理が説得力を持つはずがない。

 総選挙で原発はほとんど論戦がなされなかった。安倍政権が白紙委任を受けたわけではない。原発の是非を公明正大に論議すべきだ。

【ついに出た!】山本太郎参議院議員『安倍首相の「会食」に関する質問主意書』この追及を誤魔化すなら安倍首相@AbeShinzoへの国民的反感の急増は必至だ。— きむらとも     

東京 東京駅ミチテラス2014 再訪 ひたすら、ひと、人、ヒトであった 2014-12-26

12月26日、仕事納め。
定時間後、食堂で立食形式の納会。
シャンパン、ビール、ワイン、ウィスキーを少しづつ戴いた。
食い物はサラダ以外、失礼ながら全部マズイ。
BINGOは外れ。

帰りに、東京駅の「ミチテラス2014」を見に行った。
クリスマスも終わったので、すいているかと思ったが、なんのなんの、ひと、人、ヒト。
おまけに、あっち行っちゃダメ、こっちもダメ、立ち止まるな、などと監視誘導のお兄さんのうるさいこと、うるさいこと。
群れから離れたところから、遠巻きに写真を少し。

ここは早々に引き上げたのに、帰宅は御前サマって、どうゆうこと?





▼これが照明


2014年12月26日金曜日

実質賃金が17カ月連続でマイナスになるとともに、11月は前年比4.3%減と大幅に落ち込みました。(厚労省・毎月勤労統計)— 社民党OfficialTweet

TBSひるおび 田崎史郎 長期政権のメリットは外交で顔が利く、最近ではオバマの代わりに安倍総理が国際会議を仕切ってたりする。 笑、ほんとかよ?APECでも終始ボッチだったじゃねえ!  お昼時の主婦層・お年寄り層をこの方が洗脳する。

迷走するブラック批判「ワタミ」…再び「値下げ」断行、後手後手の悪循環 (産経新聞) / 居酒屋低迷に人材不足が追い打ち 出口見えぬワタミ (Business Media)

YAHOOニュース
迷走するブラック批判「ワタミ」…再び「値下げ」断行、後手後手の悪循環
産経新聞 12月25日(木)11時5分配信

 居酒屋チェーン大手のワタミの迷走が止まらない。20億円の最終黒字だった平成27年3月期決算の連結業績見通しを下方修正し、30億円の赤字に転落するとしたのだ。過酷な労働を従業員やアルバイトに強いる“ブラック企業”との批判を受け、人手不足解消に向け店舗数を削減したが、客足は減る一方で危機的な状況を迎えている。業績改善に向けた施策は二転三転し、打つ手が裏目に出る悪循環の出口は見えないままだ。

■役員総替え、前任否定の荒療治

 ワタミは7月、居酒屋などを展開するワタミフードサービス▽介護事業のワタミの介護▽弁当宅配のワタミタクショク-など、主要グループ子会社の社長を入れ替える人事を発表した。ワタミの桑原豊社長が兼務してきたワタミフードサービス社長に、「ワタミの介護」社長だった清水邦晃氏が就き、ワタミの介護の後任にはワタミタクショクの社長だった吉田光宏氏が就く、という玉突き人事だ。下期の“復活”に向けて、体制を一新するという荒治療だ。

 しかし、11月初めの中間決算説明会の内容に、出席したアナリストや記者はあぜんとせざるを得なかった。各グループ子会社の新社長が、上期の取り組みに対する振り返り評価と、下期の方針を説明したのだが、その内容は前任者に対する批判の嵐だった。

 各子会社とも3~4項目の施策に対し、「○」「△」「×」で評価したのだが、そのほとんどが「×」だった。「○」は極めて少なく、理由についても「戦略の誤り」「消費者ニーズとの乖離(かいり)」など、否定的な評価しか見当たらない。前体制の批判が飛び交う、前代未聞の内容だった。

■値上げから一転、デフレ経営に逆戻り

 特に注目された居酒屋運営のワタミフードサービスは、年度前半に前任者が実施した「高付加価値・高単価」の路線を一転、かつてと同じ低価格戦略に先祖返りした。

 年初から進めてきた高付加価値戦略は、単純な価格改定ではない。有名食品メーカーとのコラボレーションによる乳製品の活用や、国産にこだわった素材でのメニュー開発など、「こだわり」を前面に、消費税率8%への対応やデフレ脱却に向けた取り組みだった。実際に、年度前半では1メニューあたりの価格は、約20%上がったという。

 しかし、ワタミフードサービスの清水社長はこれを、「完全な失敗」と厳しく評価した。既存店ベースで見た客単価は前年同月比プラスだが、客数は大幅なマイナスとなり、結果的に売上高は減少しているからだ。清水社長は「消費者はチェーンストアに安さを求める」として、11月からメニューを値上げ前の価格帯に戻す緊急対策に乗り出すという。

 「和民」では380円のお通しを300円に、450円のサワー・ハイボールを390円に下げる。また、「わたみん家」では、450円の生ビールを399円とするほか、焼き鳥なども値下げする。特別なメニューの追加ではなく、定番のコロッケやアジフライなどを割安な価格で提供し、「おいしさと価格にこだわる」(清水社長)という。

 だが、値下げはしても「客単価は下げない」(清水社長)という。商品価格は下げるが、これまでより1~2皿多く注文してもらえば、客単価は維持できる、との戦略だ。結局、デフレ脱却に向けたワタミの戦略は、わずか半年でついえた形となった。

■場当たり対応、高まる不信

 ワタミの方針転換は成功するのか? 周囲の見方は懐疑的だ。

 「女性客や家族客を増やして、今までの居酒屋からイメージチェンジするタイミングだったのに、また。元に戻ることを選び、不安に感じる」(証券アナリスト)、「今回の方針転換は、消費者の値ごろ感を把握した値下げというよりは、価格帯を上げたけど成果がすぐに出ないので、今度は下げてみようという場当たり感が強い。食品の値上げ表明が相次いでいる中、時代の流れに逆行している」(外食産業首脳)と、業界からは厳しい意見が相次ぐ。

 11月の売上高速報をみると既存店の客単価は1%増にとどまり、客数は6.3%減と振るわない。売上高も5.3%減で10月(3.2%減)よりも悪化した。場当たり策の効果はまだ出ていない。

 ある証券アナリストは「今回の方針転換は『子会社の社長をすべて替える』という、通常の企業では考えられない人事がきっかけだ。方針の転換の早さも重要だが、年度上期の値上げが効果を発揮するとすれば、年末から年始にかけてだったはず。戦略の継続性がなく、消費者が求める質と価格のバランスを探る作業が、一からやりなおしになった。回復には時間が必要だ」と分析した。

 ワタミは業績不振で40店舗の撤退を追加した。この値下げ戦略がうまくいかなければ、さらに撤退店舗を増やすこともあり得る。迷走するワタミの正念場はこれからだ。


居酒屋低迷に人材不足が追い打ち 出口見えぬワタミ
Business Media 誠 11月12日(水)17時43分配信

 中間期の最終赤字は41億円、100店舗以上を閉鎖――。

 居酒屋チェーン「和民」などを展開するワタミが11月11日に発表した2014年度の上期決算は厳しい数字が並んだ。グループ全体の営業利益は10億3000万円の赤字(前年同期は24億7000万円の黒字)、経常利益は17億4000万円の赤字(同18億8000万円の黒字)、当期利益で41億1000万円の赤字(同5億5000万円の黒字)に転落。特に同社の主力である国内外食事業の営業利益が23億5000万円の赤字と大きく足を引っ張った。

【グラフ:ワタミの客単価と客数の推移】

 こうした緊急事態を受けて、和民や「わたみん家」などを新たに42店舗撤退する修正計画を発表した。これで2014年度の撤退店舗数は計102店舗に上る。わずか1年で全体の約15%に当たる店舗数を減らす格好となった。

 2005年度から2012年度まで7期連続で増収増益し、中国や香港を中心とした海外展開を積極的に進めるなど、日本の居酒屋ビジネスをけん引していたかつてのワタミの姿はかすみつつある。

●居酒屋業界全体が低迷

 同社がここまで落ち込んだ原因は何か。実際にはワタミだけに限らず、居酒屋業界そのものが低迷している。戦略コンサルティング会社のローランド・ベルガーの試算によると、2008年から2014年にかけて市場規模は年率で4.6%マイナス成長という状況だ。「人口減少や少子高齢化、可処分所得の減少、コンビニ弁当などの品質向上による中食ニーズの高まりといった外食産業全体の課題に加えて、若者のお酒離れ、他業態の台頭などが居酒屋業界に大打撃を与えている」と、ローランド・ベルガー 日本共同代表 シニアパートナーの岡村暁生氏は説明する。

 近年はファミリーレストランやカフェなど居酒屋以外の業態でもアルコール類を提供するようになったことや、自宅に友人などを集めて開く飲み会、いわゆる“宅飲み”が若者の間で人気になるなど、お酒を飲むシーンやスタイルが多様化したことも居酒屋に客足が遠のく理由だとする。

 ワタミは今後、国内外食事業については、2014年3月から取り組んできた和民およびわたみん家でのリブランディング失敗の反省を踏まえ、商品単価の見直しを断行。例えば、生ビールを450円から399円に、お通しを360円から299円に変更して“お値打ち感”を出し、来客数の回復を図る。さらに、スタッフの労働環境問題に伴う人材不足への対応も急ぐ。まさに今が正念場と言えるだろう。

[伏見学,Business Media 誠]


津波対策「関わるとクビ」 10年 保安院内部で圧力 (東京新聞) : 「小林室長らは貞観津波の再来リスクを検討するよう保安院幹部に提案したが、複数の幹部から一〇年に「あまり関わるとクビになるよ」「その件は原子力安全委員会と手を握っているから、余計なことを言うな」とくぎを刺されたという。」

東京新聞
津波対策「関わるとクビ」 10年 保安院内部で圧力
2014年12月26日 07時00分

 政府は二十五日、東京電力福島第一原発事故で政府事故調査・検証委員会が政治家や東電関係者らに聴取した記録(調書)のうち、新たに百二十七人分を公開した。当時の規制機関だった経済産業省原子力安全・保安院は、大津波が襲う可能性を認識しながら、組織内の原発推進圧力の影響で、電力会社にきちんと指導しなかった実態が浮かんだ。 

 保安院の小林勝・耐震安全審査室長の調書によると、二〇〇九年ごろから、東日本大震災と同じクラスの貞観(じょうがん)地震(八六九年)の危険性が保安院内でも問題になっていた。独立行政法人「産業技術総合研究所」の岡村行信活断層・地震研究センター長は、貞観地震が福島第一周辺を襲った痕跡を指摘。自らの調書では「四百~八百年周期で反復していると考えている」と述べた。

 岡村氏らの指摘を受け、小林室長らは貞観津波の再来リスクを検討するよう保安院幹部に提案したが、複数の幹部から一〇年に「あまり関わるとクビになるよ」「その件は原子力安全委員会と手を握っているから、余計なことを言うな」とくぎを刺されたという。

 当時、国策で使用済み核燃料を再処理した混合酸化物(MOX)燃料の利用が推進されており、保安院の幹部の中には、地震・津波対策より国策の推進を重視する体質があった。

 これまでの本紙の取材で、プルサーマル関連のシンポジウムでは賛成派の動員要請などの「やらせ」に加わった。〇六年には、事故に備えた防災重点区域を検討しようとした原子力安全委員に、院長自らが「寝た子を起こすな」と圧力をかけたことも判明している。

 小林室長は、保安院内の雰囲気について「貞観地震に懸念を示す人もいれば、福島第一のプルサーマルを推進したいという東電側の事情に理解を示す人もいた」と打ち明けた。

 電力会社の姿勢について、保安院の山形浩史・原子力安全基準統括管理官は調書で「(電力会社は)ありとあらゆる場面で、嫌だ嫌だというような話だったし、指針の見直しだといった時も、ありとあらゆるところからプレッシャーを受けた」と吐露した。

 一方、東電の地震・津波対策を担当する吉田昌郎(まさお)原子力設備管理部長(後の福島第一所長)らは、一〇年三月ごろの朝会合で、保安院の担当者から「貞観地震の津波が大きかった」と指摘された。しかし、東電側は具体的な検討を先送りした。 (肩書はいずれも当時)

<政府事故調> 2012年7月に最終報告書をまとめるにあたり、福島第一の吉田昌郎(まさお)所長(故人)や菅直人首相ら計772人を聴取。調書は、承諾が得られた関係者から順次、公開されている。公開は3回目で、計202人分になる。

 今回が最後の公開とみられる。
(東京新聞)

知事選と総選挙で明確に示された辺野古新基地反対の民意を直接政府に伝える。これからの翁長知事の行動の一つひとつが、日本政府に「民主主義国家としての品格」を問いかけるだろう。 翁長知事、閣僚面談日程取れず - 琉球新報 — 布施 祐仁

家計貯蓄率、初のマイナス 貯金崩し所得上回る消費 13年度、内閣府調査 (日経新聞) ← 2013年度で既に貯金を取り崩さないと生活できない事態が出始めている! 消費増税などありえない!

日経新聞
家計貯蓄率、初のマイナス 貯金崩し所得上回る消費 
13年度、内閣府調査
2014/12/25 23:25

 内閣府が25日に発表した2013年度の国民経済計算確報で、所得のうちどれだけ貯金に回したかを示す家計貯蓄率がマイナス1.3%となった。国民全体で見ると、高齢者を中心に貯蓄を取り崩して所得を上回る消費をしたことになる。増税前の駆け込み消費も響いた。貯蓄率がマイナスになるのはほぼ同じ条件で統計を比べられる1955年度以降初めてだ。

 13年度に家計は会社からの給料や利子・配当などで、285兆5千億円の所得を得た。一方で個人消費に289兆2千億円を使った。この結果、差し引きとなる家計貯蓄はマイナス3兆7千億円となった。

 家計がためたお金は企業で余ったお金とともに政府が抱える巨額の借金を支える役割をこれまで果たしてきた。ゴールドマン・サックス証券の西川昌宏金融商品開発部部長は「国債の買い手が縮小すれば、潜在的に長期金利の上昇リスクになる」と指摘している。

 同時に発表した13年の1人当たり国内総生産(GDP)は3万8644ドルとなり、経済協力開発機構(OECD)加盟国では19位になった。円安の影響で、前年(13位)から順位を落とした。


読売新聞「大阪都構想 公明 住民投票賛成へ 法定協再開条件に 党本部意向で転換」



非正規労働者数が初の2千万人突破…女性の派遣社員が急増 (産経)

YAHOOニュース
非正規労働者数が初の2千万人突破…女性の派遣社員が急増
産経新聞 12月26日(金)9時29分配信

 総務省が26日発表した11月の労働力調査によると、非正規労働者数が前年同月に比べ48万人増えて2012万人になった。この調査で2千万人を超えるのは初めて。

 役員を除く雇用者全体に占める非正規労働者数の割合は38.0%に達する。

 内訳はパートが11万人増の967万人、アルバイトが10万人減の414万人、派遣社員が19万人増の135万人、契約社員が11万人増の289万人、嘱託が12万人増の124万人となった。その他は6万人増の84万人。

 増加数、増加率とも派遣社員が最大となっている。男女別にみると、男性が6万人増の56万人、女性が13万人増の79万人となっており、女性の派遣社員が増えていることがわかる。

 ただ、総務省が5年ごとに実施する別の調査の就業構造基本調査では、2012年時点で2042万人となっていたことがある。


2014年12月25日木曜日

1786年(天明6年)1月~5月 モーツアルト、一幕の音楽付き喜劇「劇場支配人」(K486) ピアノ協奏曲第23番(K488)・24番(K491) オペラ「フィガロの結婚」(K492)完成 『おれたちの時代にゃ、喋っちゃいけないことは歌えばいいさ。』 【モーツアルト30歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-12-24
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1786年(天明6年)
1月4日
・モーゼス・メンデルスゾーン(56)、没。作曲家フェリックス・メンデルスゾーン祖父。
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1月10日
・モーツアルト(30)、クラヴィーアのためのロンドニ長調(K.485)作曲。
ヨーゼフ2世からオランダ総督アルバート公の来訪を祝してオペラ「劇場支配人」(K.486)の作曲を依頼される。
18日、作曲着手。
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1月14日
・ヨーゼフ2世、ウィーンの8つのフリーメーソンのロッジ(支部)を3つに再編成、その中に新しく「冠された希望に」というロッジを作る(このとき、多くの会員が退会、ハイドンもその一人)。
モーツァルト、新しいロッジを讃えるために、結社員のための合唱曲、K.483 「今日こそ、狂気し歓喜の歌を歌おう」(変ロ長調)、K.484 「汝はわれらが新しき指導者」(ト長調)演奏。
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1月16日
・ヴァージニア、信教自由法が制定。
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2月
・マニュファクチュア。
「往古は、百姓農業の片手間、女の方娘等蚕飼いたし、糸にとり織物渡世仕り候処、近年次第に繁昌仕り候に随ひ、蚕飼等は相止め、近辺は申すに及ばす、他国よりも糸買入、糸問屋多分出来致し、機屋共は銘々機織女並糸繰・紋引等大勢召抱へ渡世仕り、尚又、追々他国の者共数多入込、(中略)唯々商ひ糸機等の渡世のみ専一に心懸候」(「桐生織物史」)。
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2月3日
・モーツアルト、一幕の音楽付き喜劇「劇場支配人」(K486)(序曲と1幕4曲) 完成。ゴットリープ・シュテファニー台本。オランダ総督(ザクセン・テッシェン大公アルベルト夫妻)がウィーンへ来るので、ヨーゼフ2世は祝典を催すことになり、その余興としてモーツァルトとサリエリの競演が企画された。モーツアルトは『フィガロ』作曲を中断してこの作品にかかる。
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2月7日
・シェーンブルン宮殿のオランジェリー(果樹園、大温室で芝居・音楽会の会場ともなった)でオランダ総督を迎えた演奏会。モーツアルト「劇場支配人」(K.486)とアントニオ・サリエリのオペラ・ブッファ「まずは音楽、お次がせりふ」が初演。
「支配人」にはアロイージア・ランゲ、カヴァリエーリ、アーダムベルガーらが出演。しかし、サリエリの作品の台本は非常に機知に富んで面白く、「支配人」に人気は集まらなかった。謝礼はモーツアルト50グルデン、サリエリ100グルデン。
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2月11日
・~3月4日、モーツアルト父レオポルト、ミュンヘンのマルシャンのもとに滞在。
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2月19日
・モーツアルト、宮廷の仮面舞踏会にインド人の哲学者に扮して出て、自作の8つの謎と14の「ゾロアスター断章」が書かれたビラを配る。
モーツァルトの自由なコスモポリタンぶりは貴族たちに警戒心を抱かせ、うとましい人物として見なされる(?)。それに乗じてサリエリがうまく自分を売り込む(?)。
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2月24日
・コーンウォリス、インド総督に任命。
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2月26日
・フランス、天文学者・物理学者アラゴー、誕生。
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3月2日
・モーツアルト、ピアノ・コンチェルト イ長調 (第23番) (K488)完成。
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3月3日
・北米、ニューオハイオ会社設立。西部の土地購入目的。
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3月3日
・モーツアルト父レオポルト(67)、ハインリヒ・マルシャンと共にミュンヘン発。4日、ザルツブルク着。
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3月8日
・ウィーン公営質屋の経営状態をみるため、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世、お忍びで質屋に入り自分の帽子を質入れしようとする
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3月10日
・モーツアルト、1781年ミュンヘン初演のオペラ「イドメネオ」が3月13日にウィーンでアマチュア貴族たちによって、アウエルスベルク侯爵邸で演じられることになり、技量に合わせて書き直し、シェーナとロンド「もう言わないで、すっかりわかりました/おそれないで、愛する人よ」 (K490)、二重唱「私には言葉では言えません」(K.489)作曲。
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3月11日
・画家の宋紫石(72)、没。
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3月中旬
・ザルツブルクからドゥシェク夫妻がウィーンを訪れ、ブルク劇場でコンサートを開く。ピアノ伴奏モーツァルト。夫妻は4月12日帰郷、後、別荘ベルトラムカのあるプラハに向う。 *
3月24日
・モーツアルト、ピアノ・コンチェルト ハ短調 (第24番) (K491)完成。モーツアルトのピアノコンチェルトの頂点をなす傑作
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3月29日
・イギリス、小ピット首相、減債基金制度を議会で可決。
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4月7日
・ブルク劇場で大音楽会開催。モーツァルト、クラヴィーア協奏曲(第24番)ハ短調(K.491)を演奏。
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4月29日
・モーツアルト、オペラ・ブッファ「フィガロの結婚」(K492)完成。
'85/10/末より作曲開始。ピエール・オーギュスタン・ド・ポーマルシェ原作、ロレンツォ・ダ・ポンテ台本(原作ボーマルシェの喜劇はパリを始めヨーロッパ各地で人気があるが、ウィーンでは上演禁止。 ダ・ポンテは原作から政治色を除きオーストリア皇帝から上演許可を貰う)。
『全自作品目録』に、序曲冒頭の楽譜とともに「フィガロの結婚。オペラ・ブッファ。四幕。曲数三十四。役者。女性はストレース、ラスキ、マンディーニ、ブッサーニ、それにナンニーナ・ゴットリープ、 - 男性はベヌッチ、マンディーニ、オケリー それにブッサーニ」と書き入れた。

レオポルトのナンネルル宛て手紙(モーツァルトは『フィガロ』初演を4月28日と伝えていたようだ)
「今日二十八日、お前の弟のオペラ『フィガロの結婚』が初めて舞台にかけられる。もし成功したらたいしたものだ。だって、あの子はびっくりするほど激しい陰謀に直面しなければならないからだ。サリエーリとその一党が死にものぐるいであらゆる努力をすることだろう。ドゥーシェク夫妻が私に話してくれたことだが、お前の弟は特別の才能と技価で大いに注目を集めているだけに、とてもたくさんの陰謀に立ち向かわなければならないとね。」
(レオボルトは幼いモーツァルトが巻き込まれた『ラ・フィンタ・センプリチェ』の事件を思い起こしたようだ)
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5月
・幕府、勘定方役人を派遣。手賀沼・印幡沼開墾工事督励。
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5月1日
・モーツアルト歌劇「フィガロの結婚」、ブルク劇場で初演。モーツアルトの指揮。9回で打切り

5月3日に再演されたこのオペラに対し、モーツァルトは450フロリーンの報酬を受けた、台本作者ダ・ボンテは200フロリーンを得た。彼はこのシーズンに上演された他の二つのオペラに対しても同額ずつの台本料を得ている。
上演に立ち会ったツィンツェンドルフの日誌には「晩の七時に、オペラ『フィガロの結婚』に行く。台本はダ・ボンテ、音楽はモーツハルト(ママ)。・・・オペラは退屈であった・・・」とある。
初演歌手の一人マイケル・ケリー(またはオケリー、バジーリオとドン・クルーツィオ役)の回想では、劇場は観衆でいっぱいとなり、アンコールされるアリアが多く、拍手もしばしば鳴りやまず、そのため上演に要する時間はものすごく長くなった、という。
事実、ヨーゼフ2世は、長官オルシーニ・ローゼンベルク伯爵に対して、上演時間の制限を指示している(5月9日付)

7月11日付『ヴィーナー・レアールツァイトゥング』紙は、この初演の成功を伝えている。
「5月1日月曜日、皇王室国立宮廷劇場において(初めて)フィガロの結婚が上演された。四幕のイタリア語ジングシュピールである。音楽は楽長モーツァルト氏のものである。『おれたちの時代にゃ、喋っちゃいけないことは歌えばいいさ。』 フィガロに倣ってこう言うことができよう。パリでは禁止されたこの作品は、当地では翻訳の良し悪しにかかわらず芝居としては上演を許されていなかったものであるが、ついにオペラとして上演されるのを観る幸運をえた。われわれがフランス人よりもこの点で恵まれているのがお分かりいただけよう。モーツアルト氏の音楽ははやくも初演のさいに識者によってひろく讃嘆をえたものであったが、私はただ、自愛心ならびに尊大さが自らの作品ではないものを佳しと認めぬ人たちはこれに加えないのである。一般の観客は確かに(これは彼らにしばしばみられることであるが)初日にはその真価を捉えることができなかった。党派に属さぬ識者たちの数々のブラヴォーが聞こえたが、しかし、上階の粗野な若者たちは声をかぎりに大声でがなりたて、彼らのウーッ!という声で歌手たちや聴衆たちの耳を聾したものであり、したがって作品が終るとともに、意見は二分したのであった。加えるに、曲がまことにむずかしかったため、初演は最良の出来ではなかったので、これも当然のことであった。しかしながら上演がくりかえされた現在、モーツァルト氏の音楽がこの芸術の傑作であるとするより以外の意見を主張しようとすれば、陰謀に加担しているか、それとも無趣味であるかを公言することになろう。この音楽は、生来の才能の源泉からのみ汲むことのできる無数の美ならびにまことに豊かな楽想を含んでいるのである。」

ピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェ(1732~99)の劇作『フィガロの結婚または狂おしい一日』は、1784年、紆余曲折ののちパリで上演された。成功を博したが、社会風刺・貴族批判の内容のため、その後上演が禁止された。
翌1785年、ウィーンでシカネーダー=クンプフ一座が、これをドイツ語で舞台にかけようとした際にもヨーゼフ二世がこれを禁止した。
台本作家ダ・ボンテは、これをオペラのかたちに変え内容を柔らげて、皇帝の承認をを得た。
『ヴィーナー・レアールツァイトゥング』の記事は、オペラにつきものの陰謀もモーツァルトの音楽に勝つことができないことを認めている。
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5月21日
・スウェーデン、化学者カール・シェーレ(44)、没。
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5月31日
・フランス、 「首飾り事件」最終判決。ド・ロアン枢機卿無罪となる。
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