2011年5月31日火曜日

東京 江戸城 東御苑 二の丸庭園 ハナショウブ(花菖蒲)が咲き始める

今日は5月最後の日(5月31日)
午前中は青空が見えていましたが、昼頃より曇り空。

江戸城二の丸庭園のハナショウブ(花菖蒲)が咲き始めました。
まだほんの咲き始めで、今日は、花よりもヒトの方が多いほどでした。

6月に入ってからの花の状況はコチラ。

▼藤娘

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▼日出鶴
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▼波乗舟

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2011年5月30日月曜日

東京 北の丸公園 母鴨の教え

今日(5月30日)は、台風2号の影響で朝から雨。
ところが、昼頃には青空が出てきた。

北の丸公園を散歩していて、鴨の親子に遭遇した。
親は多分母親か? そして子鴨が五羽

母親が潜水して見せるのだが、子鴨は顔を浸けるのがやっと。
そして、母親が潜水すると、ピーピーとあちこち母親を探し始め、右往左往する始末。

それでも母親はひたすら潜りを繰り返し、続ける。




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子鴨たちの「自立篇」はこちら(6月11日)
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福島がフクシマとなり夏来る   前九疑  (5月30日「朝日俳壇」より)

今日(5月30日)の「朝日俳壇」より数首、無断掲載させて戴きます。

福島がフクシマとなり夏来る         (金沢市)前 九疑

春愁や原発五キロ圏に住む         (御前崎市)岡村 福彦

春の牛空気を食べて被爆した        (福島市)中村 晋

放射能田植を奪い牛を奪い         (高崎市)山本 春樹 

青岬へ原発見ゆる砂丘踏み         (静岡市)西川 裕通

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同じ5月30日「朝日」の連載「神話の陰に(6)」では、渡部恒三(79)の反省

安全神話にどっぷり浸って生きてきたんだな、情けねえ、恥ずかしい・・・。

と言ったという。


5月29日の「朝日」では、小泉元首相が横須賀での日本食育学会・学術大会の特別講演で、

「日本が原発の安全性を信じて発信してきたのは過ちだった」

と、語ったと云う。

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2011年5月29日日曜日

もう梅雨入り(2) アジサイが咲いた

例年に比べて格段に早く、もう梅雨入りした。
今日は台風(2号)の影響もあり朝からずっと雨。
明日にかけて豪雨になるらしい。

今日(5月29日)気がついたのだが、自宅のすぐ近くのところにアジサイが咲いていた。
このアジサイもかなり早い。


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2011年5月28日土曜日

もう梅雨入り しばらく見収めの夕焼け(5月24日)

先週火曜日(5月24日)、帰宅時(午後7時少し前)、久しぶりに夕焼けを見た。
もう少し経つと、もっと明るい夕焼けが観れると思っていたが、以来、ずっと曇りや雨が続き、遂に昨日(5月27日)、関東地方も梅雨入りとなったようだ。
従ってこの日の夕焼けが、暫しの見収めの夕焼けとなった。

永禄4年(1561)5月1日~7月29日 信長の美濃攻め 森部の戦い 十四条・軽海の戦い [信長28歳]

永禄4年(1561)
5月
上旬
・武田信玄、海津城入り。上杉方に走った仁科・海野・高坂ら信濃先方衆討伐。
5月7日
・武田信玄、信州安曇の森城(仁科盛政)攻略。盛政は自害。
5男の五郎晴清を仁科姓を継がせる。仁科五郎盛信。
仁科氏は清和源氏末流の名家。仁科氏が代々「盛」を世襲しているため、名を仁科五郎盛信と改名させて森城主とし親族衆100騎持となる。
仁科家旧臣・領民の感情を慰留するための政策。
かつて諏訪氏を滅ぼした時も、諏訪頼重娘の湖衣姫を側室にし、その間に生まれた四郎勝頼を永録5(1562)年高遠城城主とし諏訪家後継としたのと同様の政策。
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5月1日
・関東管領となった上杉政虎(上杉謙信)、鎌倉で猿楽を行う。
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5月6日
・三好長慶と細川晴元が和睦。晴元は摂津富田普門寺に入る。 三好長慶、細川晴元を普門寺に迎え軟禁。
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5月11日
・稲葉山城主斎藤義龍(35)、急死。子の龍興が跡を継ぐ。
今川義元を討ち、松平元康と和平することで東方の憂いは無く、更に斎藤義龍急死により、信長は本格的に美濃侵攻作戦に着手。
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5月13日
信長、美濃国内の動揺につけ込み西美濃に侵攻、木曽川を越え勝村(海津郡平田町勝賀)に着陣。信長1,500、3度目の州俣出撃。
信長の美濃攻め以降、永禄10(1567)年8月迄、7年間続く
(①丹羽長秀・木下秀吉・森可成・坂井政尚ら部将が育つ。
②美濃衆が織田軍団に編成される)。
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5月14日
森部の戦い
長井甲斐守・日比野下野守・義龍嫡男龍興(14)6千余、墨俣南方の森部(安八町)出撃。
信長(28)1,500、洲俣川を渡河し敵へ殺到。
信長健闘。斎藤勢大敗。長井甲斐守・日比野下野守ら有力武将他170余戦死。
前田利家、大功たてる(永禄2年信長同朋衆を殺害、信長の勘気をこうむり、出仕停止処分を受けていたが、赦免)。
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5月15日
・シャルル9世、ランスで戴冠式、国王に聖別される。
聖別したランス大司教ロレーヌ枢機卿シャルル、フランス王政が厳守すべき絶対的な政治原理を宣言。
「フランスは、カトリックを奉じる 王以外の王は戴かない」。
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5月23日
十四条・軽海の戦い
森部の戦い後、信長は墨俣を奪い要害として滞陣。
23日、斎藤勢が北方の十四条に進出。墨俣から出た織田信長と稲葉山から出た斎藤龍興との十四条村(本巣郡真正町)での戦い。
劣勢の信長、退却。
追撃の美濃勢と軽海で戦い。信長が勝利。
織田方では先鋒の信益(信清の弟)、斎藤方では稲葉又左衛門が戦死(佐々成政・池田恒興が討ち取る)。
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5月27日
・三好長慶、河内飯盛城で千句連歌。
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6月
この月
・信長、再び美濃に侵入、稲葉山城下の民家に放火(同族の織田越中守が戦死)。
ついで安八郡の平野荘神戸市場に全3ヶ条の「禁制」を下す。この禁制により、信長軍が大垣北方にまで侵入したことが確認できる。
下旬には、信長、斎藤龍興と結んだ織田信清の於久地(愛知県丹羽郡大口町小口)を攻撃。
信長御小姓衆の岩室長門守、戦死(桶狭間出撃の際、信長にいち早く随従した人物。信長はその死を惜しむ)。(「信長公記」では永禄5(1562)年)
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・宇喜多直家、金川城主松田元賢属将の備前上道郡龍の口城(城主穝所治部元常)を討つ。
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・フランス、アントワーヌ・ド・ブルボン(43、1518~1562)、新教を棄教、カトリックに転向。
カトリーヌ・ド・メディシス、女官をアンリ2世時代の80人を300人に増員、女官集団を「遊撃騎兵隊」と呼ぶ(マントヴァのイザベッラ・デステと同じ戦術)。
アントワーヌ・ド・ブルボンに女官ラ・ベル・ルーエ(ルイーズ・ド・ラ・ベロディエール)を派遣、アントワーヌを「ヴィーナスの虜」にする。
アントワーヌは   、ラ・ベル・ルーエの依頼でカトリックに転向。宮廷・カトリーヌ一派に加わる。
1562年、ルーアン攻囲戦で国王軍に参加して戦死。
アントワーヌとラ・ベル・ ルーエの息子、シャルル・ド・ブルボン(ピレネー山中コマンジュ大司教)。
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上旬
・武田信玄1万、信濃上水内郡野尻湖畔割ヶ城攻撃。
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6月10日
・上杉謙信、北条氏康軍と再び対陣。
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6月15日
・フランス、パリ高等法院、ルイ・ド・コンデを再審(1560年(前年)オルレアンで死刑判決)。
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6月19日
・若狭守護武田義統の臣・逸見昌経ら、丹波の松永長頼と謀り反乱、義統を攻める(1月、朝倉義景、朝倉景紀を派遣し義統を援ける)。
この日、義統は朝倉氏の援軍1万1千と共に砕導山に篭もる逸見らの軍8千を陥落。
しかし、逸見氏・粟屋氏を討伐するには至らず。
三方郡佐柿の粟屋勝久ら同郡の武士たちは、病気・所用を理由に惣領家へ「出頭」しなくなる。
家臣の分裂は、若狭三郡の地域の分裂となって現われる。
三方郡で粟屋勝久を中心とする自立的秩序が形成されたように、郡毎の新しい秩序形成の動きでもある。
義統は、縁者である朝倉義景の合力を得て大飯郡の逸見氏の反乱を鎮め支配回復するものの、三方郡の粟屋氏らに対しては、義景の合力を得つつ永禄6年~11年まで毎年攻撃を繰り返さなければならず、丹後加佐郡に続いて三方郡も、武田氏支配から分離していく。
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6月21日
・上杉政虎(32、謙信)厩橋城を出発、28日、春日山城に帰還。(小田原攻め)
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6月25日
・松永久秀、多聞山城の塀に使用する柱の用木として、花山の杉を70本余り切る。
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7月

・六角義賢、洛中洛外寺社へ禁制を下す(「大徳寺文書」)。
・松永久秀、京都大徳寺・清水寺へ全3ヶ条の禁制を下す。
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・フランス、サン・ジェルマン・アレー勅令。新旧両派の和合を説く。
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7月7日
・イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラ、堺の商人日比屋了珪に招かれて堺に赴く。
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7月13日
・フランス、国務会議、改革派の集合と宣教を禁止。
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7月21日
・朝廷、賀茂社へ警固人数を徴集。
22日、禁裏六町衆へ東堀を開削させる。(「御湯殿上日記」)
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7月23日
・畠山高政(紀伊に逼塞中)、近江観音寺城主六角義賢と共謀し、河内を追われた前守護代安見直政らの残党と共に三好長慶打倒挙兵。先手根鉄砲来衆、岸和田着陣。
28日、六角義賢・六角義治軍(永原重隆指揮)3千、晴元党の三好政勝・柳本賢成のゲリラ隊を集め、京都東北部の慈照寺北方勝軍地蔵山城(左京区、京都造形芸術大学の裏山)に進駐。
義賢は翌永禄5年3月まで約8ヶ月在j城。坂本・大津には2万の大軍。
29日、粟田口を焼く。
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7月29日
・三好長慶、兵力を2分し、
①松永久秀7千を京都西院小泉城(右京区)に、他の7千を梅津に進駐させ、
②高屋城三好実休(長慶の弟)7千を南方の押さえとして岸和田へ急行させる。

六角義賢3千は寡兵ながら神楽岡(京都大学東方)に布陣し連日松永軍を攻撃。
長慶は本城河内飯盛城(四条畷市)で指揮。岸和田戦線は激しい撃合いが続く。
翌永禄5年3月、和泉久米田の戦いで三好実休戦死し均衡破れる。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校創設 病死者続出の台湾遠征軍「・・・目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」[一葉2歳]

明治7年(1874)6月
この月
鹿児島に私学校創設。篠原国幹の銃隊学校・村田新八の砲隊学校附属。
236の分校。県政が全て指導。
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・神奈川県令中島信行、石阪昌孝を県の権少属に抜擢。
第8区長を辞職し県庁の官員に任命された石阪昌孝、番組の戸長副による区長副の選挙を実施。区長に橋本政直、副に中溝昌弘を選出。

○中島信行:
神奈川県下の政治勢力結集のシンボル的な存在として、明治23(1890)年の国会開設の頃まで大きな影響力を持ち続ける。


○石阪昌孝:
第30戸籍区戸長(明治5年1月)、第8区長(明治6年4月、一時期第11区長を兼務)を経て、神奈川県権少属(明治7年5月)となる。第8大区・第10大区学区取締(明治10年12月)などに就くことにより県内の地域指導層との交流を深める。
*
・島本仲道(北洲)、大阪船場(北浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を設立。
多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派として活躍。

○島本仲道:
天保4(1833)年生れ。土佐藩士。
若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武市瑞山の土佐勤王党に血盟。
文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放免される。
十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改革に協力する。
明治5~6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が多数にのぼる事故発生。
江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按させる。
児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇するが、島本はこれを拘引する。
明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、その法律研究所長となる。

北洲社には、
寺村富栄(奈良県を辞任して参加、のち大阪組合代言人会初代会長、府会議員)、
岩神昂(古沢滋の兄、大阪鎮台・京都裁判所をやめて参加、西南戦争時には、林有造・大江卓・陸奥宗光らと峰起を計画したといわれる)、
都志春暉(大阪裁判所を辞任し参加)、
岩成濤雄(奉頂宮勘定方をやめて参加)、
菊池侃二(のち府会議員、国会議員、大阪府知事)らも参加。

7月、島田組(高麗橋1丁目)の番頭田部密から2千円を借入れ、今橋1丁目5番地の平野屋(高木五兵衛)の家屋に北洲社を移す。
9月、小島忠里(18)らが入舎、明治13(1880)年5月解散まで民権派代言人育成と民衆権利擁護の戦いを続ける。
翌8年にかけて、東京(日本橋北鞘町5番地)、広島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などにも北洲舎を設立(後、新潟・名古屋・大津にも支舎設立)。
明治8、9年の頃最も好況を呈す。
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・マルクスとエンゲルス、ドイツ社会民主党における「デューリング主義」の危険性をリープクネヒト、ブロスおよびヘプネルへの手紙で繰返し指摘。
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6月1日
・台湾遠征軍1300、3方面から牡丹社の本拠を攻撃、これを降伏させる。~5日。
戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)
政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送にあたらせる。
5日、牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。


台湾出兵による戦闘は3週間程度(西郷到着後してからは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
現地ではマラリアが流行し戦闘可能状態ではない。
「・・・尚ほ出征の兵数は三千六百五十八人にして、下士官以上七百八十一人、軍人二千六百四十三人、軍属百七十二人、従僕六十二人、戦死者十二人、病死者五百六十一人、負傷者十七人、・・・」(徳富蘇峰「近世日本国民史」第90巻)。

「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者として現地からの報道に活躍して評判をとるが、病気により7月に帰国。
25日の同紙上に体験談を載せる。

「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり訪う。
皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしなり、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
・・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりしことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。

10月7日付け、谷参軍の大隈参議・山県陸軍卿宛て書簡:
「当地近来にいたりマラリア大流行、各舎ことごとく病院同様、去月最初よりは死者数多これあり、兵卒従者にいたるまで力役に勝る者ほとんど一人もこれなく、薪水の労みなこれを土人にあおぐ。
まことに意外の天災何とも申しようこれなく、医者もことごとく病み候ゆえ、諸事薬用も行き届かず、不養生より死者甚だ多く、実に愍然(ビンゼン)のいたり、目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」
と病魔による窮状を訴え、「此のごとき難儀に遇うこと未曾有未曾聞(モン)なり」と慨嘆。  
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6月1日
・イギリス、東インド会社正式解散。  
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6月2日
・神奈川県、区番組制を廃し、大区小区制へ移行。
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6月4日
・清国総署雇人の英人ケーン、総署大臣恭親王の抗議照会を外務省に持参。  
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6月7日
・西郷従道、参軍谷干城と陸軍少佐樺山資紀を東京派遣し、終了を報告。
併せて植民地化を建言。
「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を開かんとす・・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾(ヒラ)き以てその良報を得べし」
と、「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
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6月9日
中江兆民、2年4ヶ月間のフランス留学より帰国。この日、横浜に到着。
8月、仏学塾「開業願」を提出。
仏学塾の場所はコチラ
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月26日木曜日

東京 北の丸公園 巨大なタイザンボク(泰山木)の花が咲いた 

今日(5月26日)のニュースによると、はやくも関西地方は梅雨入りとか。
今日は、朝の間、少し晴れ間が見えたが、あとはずっと曇り。夜は雨。
先行きの予報でも当分「晴れ」はなし。

昼休み、比較的気温は低く、散歩する人が多い。
お弁当を食べている人も。

吉田茂像のうしろ辺りに泰山木の花が咲いていた。
巨木の高いところに、巨大な花が、ぽつりぽつりと咲いている。
よほど目を凝らさないと見逃してしまうほど。



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▼明日(5月27日)、武道館でZARDのコンサートがあるようだ。
今日の昼、すでにグッズ販売のテントが出来ていた。
明日は、坂井泉水さんのご命日とのこと。
「負けないで」は名曲だ。
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2011年5月25日水曜日

東京 九段会館(旧軍人会館 昭和9年) 帝冠様式

九段会館
閉鎖になるそうだ(コチラ)。

昭和9年(1934)築
ビルの上に屋根を付けたこの「様式」を「帝冠様式」という。
あまり「品」のいい様式とは思えない。

なるほど、「顔」からして、私は植民地主義の象徴と自ら主張している。
「満洲国」の庁舎はこれ式が多く、今も使用されているらしい(吉林大学など)。

それから、ここは二・二六の戒厳司令部になったことでも有名。

一度だけ中で食事をしたことがある。
この古さはなかなか他では味わえない良さがあります。
是非保存して欲しい。





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東京 北の丸公園 ブラシノキが咲いた

久しぶりに雲が晴れた。
5月25日の北の丸公園。
ブラシノキの花が咲いた。
ヘンな名前だけれども、「ウン」と納得できる名前でもある。
赤が鮮やかだ。
まだ咲き始めで、これからどんどん花が増えてくるハズ。


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2011年5月24日火曜日

いたずらに不安を煽らないため? 過小評価が横行

今年の流行語大賞に是非推薦したいと考えている言葉に
「直ちに健康への(悪)影響はありません」
というのがあります。

いたずらに不安を煽らないという配慮なのか?
かなり真意不明。
(「そのうちに影響がでてきます」とは言えないからか?)

それはそうと、東電はようやく原子炉計3基の炉心溶融を正式発表したらしい。

かなり以前のことで忘れそうになっていたけど、4月24日付け「朝日」朝刊によると、3月15日には既に「レベル7」相当になっていたと安全委員会が試算していたそうだ。
(レベル7への見直しは4月12日)

従って、当たり前のことだが、3基の炉心が溶融した時期とレベル7相当になった時期が、ここでようやく符合した訳だ。
もう5月も末なのにね。

いつもいつも「過小評価」。
間違って一つくらい「過大」があってもよさそうだが、全て「過小」。

いたずらに不安を煽らないため?

5月23日付け「朝日」によると、
23日から始まった日本気球惑星科学連合大会に、東電が発表を申し込んでいたそうで、
その発表の内容は、
今回の大震災の前例とされ規模も似ているとされる869年の「貞観の大津波」は、「最大で4メートル未満」だったと結論づけている、
ということらしい。

「朝日」は、
「東電、貞観津波過小評価していた」と見出しを付けている。
」である。

そして、福島第一原発の津波の高さの「想定」が5.7メートルで、
「東電による貞観の大津波の調査結果は、想定を追認する内容だった。」
という。

自分の都合のいいように「想定」レベルを設定しておいて、
「想定外」だから免罪、
の理屈は成り立たないでしょ。

もっとも、安全委員会・保安院は、電源喪失そのものが「想定外」だったから、もっと性質(たち)が悪い(3月26日付け「朝日」)。
しかも国会の委員会での答弁発言です。
さすがに、「原発電源喪失 認識甘かった 保安院トップら陳謝」(4月7日「朝日」)とある。

事故調の委員長に失敗学の畑村洋太郎氏が就任するという。
「事実」に基づく検証を是非お願したい。
1.地震、津波の本当の規模
2.何が原発に致命的ダメージを与えたのか
3.「想定」レベルの根拠は妥当だったのか
4.レベルが妥当だとして、その「想定」通りの具体的施策がうたれていたのか
などなど

2011年5月22日日曜日

東京 北の丸公園 ピラカンサ カラタネオガタマ タニウツギ ハナゾノツクバネウツギ トベラ 

5月20日の北の丸公園
時には初夏の雰囲気も漂う、そんな季節になりました。

▼ピラカンサ

▼カラタネオガタマ
近くを通ると、かすかにバナナに似たの香りがします。

▼名前不詳
アゲハがいたので撮りました。
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▼タニウツギ
ここには大きなハチが飛んできました。


▼ハナゾノツクバネウツギ
他にハコネウツギとか、この時期は、ナントカ「ウツギ」という花が多い。

▼トベラ

▼名前不詳
ホタルブクロかと思いましたが、どうやら違うようで、よくわかりません。

▼公園風景

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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をほ参照下さい。
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2011年5月21日土曜日

明治7年(1874)5月1日~23日 西郷従道の台湾征討軍、台湾に上陸  植木枝盛(17歳)、土佐で活動開始 [一葉2歳]

明治7年(1874)5月
この月
・森有礼「妻妾論」(「明六雑誌」)。一夫一婦制の内実、乱脈を指摘。
*
・5~6月頃、大久保利通、「殖産興業に関する建議書」作成。
大凡、国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル。
而テ物産ノ多寡ハ、人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ、政府政官ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ。
維新のときからみれば、「外交内治」「文物制度」はましにはなったが、
然レドモ勧業殖産ノ一事ニ至リテハ、未ダ全夕其効験アルヲ見ズシテ、民産国用、日ニ減縮スルニ似タリ
その訳は、民の知識が開けていないというより、むしろ政府の「注意」がたらず、「提携誘導」の力が足りないからだ。
イギリスも日本と同様、島国にすぎないが、貿易と工業によって盛大になった。イギリスが「君民一致」し、天然の利を生かし、財の用いかたを盛んにし、国家の基礎を確立したのは偉大である。
我国もこの重大事に、イギリスを「規範」とすべきである。
(明治政府のモデルは、明治10年代にプロシャに移ってゆくが、この時期の大久保は、政治・経済ともにイギリスを規範としている)  
*
「民産国用日ニ減縮スル」:
明治初年以来、対外貿易は大幅赤字を続け、明治3年の赤字は1,919万円超、4年は若干改善、5年914万円、6年647万円の赤字。輸出品は生糸と茶(輸出の70%以上)くらいしかない。
この年(明治7年)、前年の19世紀最大の恐慌の影響が、金銀価格差として日本に押し寄せ、明治7年だけで金貨流出は800万円、翌8年には1,000円に及ぶ。鋳造高の2割を超える額である。
数年前まで政府財政を一手に支えた両替為替商の小野組・島田組は、明治7年末に倒産。
内務省にとっては、輸出振興、輸入阻止、財政再建は最重要課題。
*
・ドイツ、ビスマルク、第2次「5月法」によりカトリック聖職者に対する弾圧強化。
*
・フランス、王政派分裂によりド・ブロイ内閣、辞職。
この月、審議優先権を巡り政府と共和派が対立し、正統王朝派が共和派支持に廻り、政府案は破れ、ド・ブロイ内閣は辞職。
これを機にオルレアン派の中から中道左派と組んで議会多数派を形成していこうというグループも生れ、更に補欠選挙の動向は王政派を一層弱小化へと導く。
*
5月1日
・昌平坂書画展開催。万世橋外聖堂(湯島聖堂)
*
5月2日
・大久保の西下を知り、参軍谷干城・赤松則良ら、西郷命により軍艦4隻で出港。
翌3日、大久保利通、長崎着、大隈重信・西郷従道と評議。台湾出兵の議を決す。
出兵を是認し激励
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「兵隊進退」の全権を帯びた大久保だが、これまで遠征計画を推進してきており、遠征軍の帰還を命令したり、西郷を命令達反で処罰する意思もない。
大久保は、「既に福州(閩浙)総督へ公告書を送りたる上は、止めるべからざるの実況ゆえ」出兵を是認し、「生蕃処分済みの上、兇暴の所業を止め、我が意を遵奉するまでは、防制のため相応の人数残しおくべきこと」と、「討蕃」終了後も現地占領を継続するとの積極方針までも「御委任の権内を以て裁定」。大久保は積極的な出兵推進者である。
大久保の長崎行きは、西郷の暴走を抑止するためではなく、逡巡する大隈に活をいれ西郷を激励するためであった。
大久保日記では、「大難の事ゆえ、心決いたし候」とし、予想される「難題を醸しだし候節は、大久保はじめその責めに任ずべきこと」を大隈・西郷三者で申し合わせたという。
*
政府は、各国外交団の干渉に対応するため長崎にいるリゼンドルの至急帰京を要請。西郷はやむなくこれを了承。
長崎を離れるにあたってリゼンドルは、西郷のために「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成。
現地で「熟蕃」懐柔に成功したら、「これを分ちて別伍となさず、日本人の内に編入するを要す」、そうすればかれらは日本軍の「配下に帰す」と教示。
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5月2日
・地方長官会議開催の詔書。議院憲法および規則を定める。
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5月3日
・厦門領事陸軍少佐福島九成、厦門着。李総督に出兵通知書伝達。
11日、出兵通知受けた李鶴年総督、琉球も台湾も清国に属している、台湾への出兵は領土相互不可越を約束した日清修好条規違反であり撤兵要求の回答を西郷都督に送る。
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5月3日
・上海仏租界の道路拡張案に中国人墓地の破壊が含まれていたため衝突、死傷者がでる。
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5月6日
・「有功丸」、台湾琅橋湾に到着、陣営作成。
7日、陸軍少佐樺山資紀、台湾出兵「日進」艦と合流。以下続々と艦船到着。
22日、「高砂丸」(西郷従道、18日出航)到着。
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5月11日
・清国総署大臣恭親王、台湾は「中国版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発す。
6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参。
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5月11日
・台湾の日本軍、牡丹社の酋長を招致、漂民殺害犯引渡しを求めるが酋長はこれを拒否。
12日以降数度衝突。
17日、偵察中の遠征軍1人、殺害される。
22日、佐久間参謀長の部隊200、激戦の末、四重渓にて牡丹社酋長阿禄親子を斃す。
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5月12日
・地価5年間据置。
地租改正条例第8章(耕地の地租は、改正後5年間は時価の高低にかかわらず新定価額によって徴収する)追加。
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5月12日
・立志社、一般大衆を加えた最初の集会。
*
5月15日
・大久保、帰京。
不在中、三条太政大臣・岩倉右大臣、島津左大臣(4月27日任命)に辞表提出。台湾出兵不手際(外国の干渉により中止騒ぎ)、大久保の強引さへの批判。
島津は2人の辞表を執奏せず握りつぶす。
*
5月15日
・土佐、帯屋町の立志社で初めての演説討論会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
*
○これ以降のこの年の植木枝盛
「自から国会論と称する一文章を作り、之を己れの同村各戸に回達して懇ろに其意を示し、更に又同区の区長と其の区内の人々とに謀りて一小区の民会を興し、或る時は其の議長に選挙せらるることもありて、之が為めに尽力せしこと一ならず」(「自伝」)とある。
*
「日記」には、
「五月十八月 民会に過る。」
「二十二日 民会に過る。」
「二十八日 民会に過る。会長を撰ぶ。」
「六月五日 民会に過る。学校取締等の議を発す。」
「十六日 民会に過る。」
「二十五日 民会へ過る。」
「七月二日 十二区衆会に過。」
「五日 民会に行。林氏会長となる。」
「六日 小民会創立に就て十二区集議所に過。」
「十四日 区会に行く。組合の事を議定す。」
「十五日 民会に行く。堕胎圧死の事を議す。」
「十六日 小民会に行く。」
「二十一日小民会へ過。」
「二十六日小民会へ行。」
「八月十一日小民会へ行 。」
「十三日夜十区民会に過る。」
「十四日区会に過る。」
「十五日民会に行。」
「十六日小民会へ行。」
「十九日民会へ行。」
「二十二日民会へ行。」
「二十六日小民会流会。」
「九月一日民会小へ行。」
「二日民会大へ行。」
「十日集議所に過。」
「十四日区会へ行。」
「十五日区会へ行。」
「二十一日小民会へ行。」
「十月一日中民会へ行。」
「三日集急所へ行。印を押す。」
「十一月一日中民会流れ。」
「五日区会流れ。」とある。
枝盛は、大民会・小民会等自分の居住する12区会ばかりでなく10区会にまで出かけて、熱心に地域的自治組織を作るのに奔走している。
*
民会:
「集議所」と呼ばれる。「戸長・副戸長以下各町村用係・世話係・肝煎(イモイリ)」によって構成されたという(「高知県史」)。
枝盛の父直枝は57歳なので、枝盛がその代理を務めたと思われる。
枝盛は、民会を「代議政体を促」すものと位置づけ、「国会論」と題する文章を書いて各戸に配る。
*
枝盛の稿本「国会ノ説」によると、国会開設は政体を変革するのではなくそれを確固たらしめるものであり、「皇統一系」のわが政体を「永久安泰」たらしめるには「上下同治ノ政治ヲナスニ如クハナシ」と主張している。(天皇制擁護の見地から国会の必要を説く)      
*
新知識を標榜する地方官が競って地方民会を開き、ことに明治6年11月兵庫県令神田孝平が制定した民会議事章程略の影響が著しい。
明治初年の地方民会は、概して開明官僚の上からの開化政策に基き、地方行政の「安全弁」として奨励された諮問機関に過ぎない。
明治7年の高知では町村会は設けられていないので、大小民会が他県の町村会の機能を代行したと考えられる。
*
この年、枝盛が読んだ書物は37部(「閲読書日記」)
福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之「真政大意」、津田真道「泰西国法論」、中村敬宇「西国立志編」など。
9月7日には「明六雑誌」を購読。
民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を借読。
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翌年以降の東京再遊学期における枝盛の思想動向が大体この年にすでに形づくられつつある。
*
5月17日
・西郷従道、台湾征討軍の残兵600を率い長崎出港。
19日、柳原前光駐清公使、赴任のため横浜発。
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5月19日
・政府、ようやく台湾出兵を国内に布達。
明治4年11月、琉球藩人民が台湾の「蕃地」に漂着したところ、54名が先住民に殺害された。明治6年3月、小田県の人民4名が漂着して、また先住民から暴行略奪をうけた。
そこで、加害先住民を懲罰し、かつ今後のわが人民の航海上の安全を確保する措置を講じるために出兵した。
*
5月22日
・西郷都督、台湾南部上陸。
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5月22日
・ヴェルディ「レクイエム」、ミラノ、サン・マルコ教会で初演。
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5月23日
・左大臣島津久光、「反動的内容」の意見書を三条に提出。
礼服・租税制度・兵制を旧に服す。併せて大隈免職要求、大久保も反対なら免職、と迫る。
大久保は、島津の復古論に同意できず免職してほしいと申し出て、居直って出仕を拒否。
6月6日、久光、三条・岩倉の説得により意見書撤回。大久保も2週間ぶりに出仕始める。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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永禄4年(1561)1月17日~4月21日 織田信長・松平元康和睦 上杉謙信の小田原(北条氏)包囲 カトリーヌ・ド・メディシスの融和政策 [信長28歳]

永禄4年(1561)
この年
信長28歳、光秀34歳、秀吉26歳、家康20歳
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・スペイン国王フェリペ2世、宮廷をマドリードに移す。始めてスペインの首都が確定。
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1月
・長尾景虎(上杉謙信、32歳)、上州厩橋在陣。上杉憲政と共に。
*
・若狭で国吉城主栗屋勝久と砕導山城主逸見昌経勢の反乱。
6月19日、鎮圧。
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1月17日
・松永久秀、鉢屋紹佐の茶会に出席。客は松屋久政・堺宗可ら。
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1月22日
・フランシス・ベイコン、エリザベス治世の初期の国璽尚書ニコラス・ベイコンの次男として誕生。
母はウィリアム・セシルの妻ミルドレッド・クックの妹アン。
*
1月24日
・三好義長・松永久秀(52)、上洛、将軍足利義輝に参賀。将軍これを相伴衆とする。
28日、三好義興・松永久秀(52)、従四位下昇叙。
主君の三好長慶も従四位下修理大夫なので、主君と並ぶほどとなる。この日、一旦藤原姓として口宣案を得るが、2月1日、将軍家より桐紋の使用を許可された為、4日、改めて源氏姓として叙任。
*
1月24日
・藤原惺窩、冷泉為純の子として誕生。近世朱子学の祖
*
1月28日
・フランス、オルレアンの寛容王令。母后カトリーヌ・ド・メディシスの融和政策。
司法、警察及び教会制度に関する改革案。
31日、カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアンの「全国三部会」を解散させる。
三部会解散前、各地の高等法院に宗教上の理由で拘置されている人々を釈放させる。
新教徒指導部、この措置をカトリーヌの弱さの表れと解釈
(自分たちの信仰を挑戦的な方法で表明することを奨励していると受け取り各地で騒乱開始)。
特に南フランスでは深刻な経済不安がこれに輪をかける。
スペインを通してアメリカ大陸から大量の貴金属が流入、貨幣の購買能力が10年間で50~60%下落、貴族と農民を直撃。
ガスコーニュとラングドックの新教派貴族、計画的にカトリック貴族の領地を劫掠。
*
*
2月
織田信長・松平元康和睦
織田・松平両氏の老臣(織田方林通勝・滝川左近将監。松平方石川伯耆守、高橋与左衛門)、尾張の鳴海に会して尾・三両国の境などを取り決める。
元康の生母於大の方の兄水野信元の仲介。
元康は義元の弔い合戦の勧めに応じない今川氏真を見限り、これと断交した上で信長との和睦を決める。
これにより西方の心配はなくなり、三河から今川氏の支配力を排除するべく掃討作戦に着手。
9月、東条城を陥れて西三河の平定に成功。
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・上杉景虎、武蔵薬王院へ制札を下す(「薬王院文書」)。
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・浅井賢政(長政)、横山城築城(観音寺文書)。
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2月5日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、宮廷をフォンテーヌブローに設置。
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2月9日
・井伊直政、遠江井伊谷祝田村に誕生。徳川四天王の1人。
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2月11日
・上杉景虎、蔵田五郎左衛門に越後の府内警備を命ずる。
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2月12日
・武田信玄、1万3千余騎を率い甲州から砥沢砦に着陣。上州国峰城降伏。城主小幡景純(兄重貞を追い、城主となる)、自刃。
城を回復した重貞、国峰城を中心に甘楽一帯と和田城等を調略、箕輪城攻めにて安中城攻略等に参加、信玄の西上州攻略に大きく貢献し、武田24将に数えられる。
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2月23日
・上杉景虎(32)、総勢11万5千余騎を率い北条氏康の小田原城攻略のために上野赤石に進撃。
北条氏康は武蔵滝山城に入って防戦。
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*
3月
・毛利元就・隆元父子、隆景の居城雄高山を訪問。
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・武田晴信(謙信)、軽井沢に出陣。
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・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ4子・長男ジョヴァンニ・デ・メディチ(前年、新枢機卿就任)、ピサ大司教となりピサへ赴任。
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3月1日
・フランス、下獄中の新教徒釈放の勅令。
*
3月1日
・イエズス会宣教師ルイス・フロイス、古家を買い取り仮聖堂を建てる。
*
3月7日
・長尾景虎(謙信)、関東管領上杉憲政を奉じて北条氏康の籠もる小田原城を攻囲。ついで鎌倉へ行く。
11日、長尾景虎、越後上田荘・妻有荘・薮神の水損に対して徳政を行う。
13日、長尾輝虎中心とする関東諸侍10万、北条の小田原城包囲開始。上野国人をはじめ武蔵忍の成田氏、武蔵岩槻の太田氏、常陸小田の小田氏、常陸太田の佐竹氏、下野の宇都宮氏、海上からは安房の里見氏(義弘)が加わる。20日余で包囲を解く。
14日、景虎勢、大藤式部と相模大住郡大槻に戦う。
*
3月18日
・三好長慶弟で「鬼十河」の異名を持つ讃岐の猛将十河一存(30前後?)、病歿。4月23日の記述もあり。
*
3月30日
・将軍義輝、三好長慶に細川晴元を許し和睦するよう要請。この日、京都立売町の三好邸へ将軍の御成があり、松永久秀、太刀を献上し御伴衆の接待を務める。
*
3月
上旬
・越後勢、小田原城包囲解き、鎌倉へ後退。
武田晴信、信濃・上野国境笛吹峠に進出。加賀一向一揆蜂起。
*
16日、長尾景虎(32、関東管領と上杉姓を相続)、鎌倉八幡宮で関東管領就任を報告、拝賀式。
上杉憲政の一字とり藤原「政虎」と改名。
*
*
4月
・武田晴信、碓井峠を越えて、上野へ侵攻。
*
上旬
・信長、三河加茂郡の梅ヶ坪城・伊保城を攻撃。
翌5月、挙母城(愛知県豊田市)の中条氏を屈服させ、高橋荘一円(巴川以西の加茂郡西部一帯、のち高橋郡と称す)を自領とする。郡内の給人は「高橋衆」として織田家臣団に編成される。
*
・福屋隆兼、毛利氏に対して謀叛。
*
・浅井賢政、長政と改名。信長妹、お市と結婚。
*
4月6日
・朝倉義景、三里浜南部の坂井郡大窪ノ浜で、「御伴人衆一万余人、馬場の広さ八町、見物の貴賎その数を知らず」という大規模な犬追物を興行(「朝倉始末記」)。
*
4月6日
・フランス、カトリック「三頭政治」始まる 。
①ギーズ公フランソワ(42、1519~1563)、②アンヌ・ド・モンモランシー、③サン・タンドレ(アルボン元帥)。        
三頭政治のきっかけ。
カトリーヌ・ド・メディシス、四旬節の説教者にヴァランス司教モンリュックを選任
(モンリュックは司教にもかかわらず「新教派」と見なされた。カトリックのモンリュック元帥の弟)。
説教に激昂したモンモランシーが宮廷礼拝堂を飛び出し階下の厨房に行くと、ドミニコ派修道士の説教を聞いていたギーズ兄弟とアルボン元帥に出会う。
3人は、信仰で一致し互いに接近しその日の晩に「三頭政治の形態」を作り上げる。
*
4月8日
・北條氏政、畑彦十郎に河越籠城の戦功を賞する。
*
4月15日
・三河の菅沼一族、今川氏に背き松平元康の傘下に入る。
*
4月19日
・フランス、シャルル9世勅令。
「夫々の住居内で門を閉ざして自由に祈る自由」を付与。
三頭政治に抗して改革派政策をとる。
*
4月21日
・フェラーラ公アルフォンソ2世妻ルクレツィア大公妃(16、コジモ娘)、フェラーラで病死(砒素による毒殺?)。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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遂に出た 東電が裁判で免責を主張

5月19日「朝日新聞」夕刊記事に、以前からじわじわと広がりつつある「東電免責」論が初めて裁判で主張された、とある。
以下、記事を引用する(改行を施す)。
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(見出し)
震災対策の義務 東電「なかった」
慰謝料請求訴訟で答弁
(記事)
福島第一原発の事故で精神的苦痛を受けたとして、東京電力に慰謝料を求める訴訟が東京簡裁に起こされていたことが分かった。
19日に第1回口頭弁論があり、東電側は事故について
「今回の震災は異常で巨大な天災地変で、対策を講じる義務があったとはいえない」
と反論した。
今回の原発事故をめぐり公開の裁判で東電に慰謝料を求める動きと、それに対する反論が明らかになるのは初めて。

東京都内に住む臨床心理士の男性(46)が、「事故により極度の不安感、恐怖感を受けた」として、10万円の慰謝料を求めて3月末に提訴した。

東電側は答弁書の中で、
「これまでの想像をはるかに超えた、巨大でとてつもない破壊力を持った地震と津波が事故の原因で、対策を講じる義務があったとまではいえない」
と争う姿勢を示した。
そのうえで東電側は、
「都内で人体に被害が生じるレベルの危険性はなく、住民が極度の恐怖感を持つ状況には至っていない」
と請求の棄却を求めた。
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コチラにも同じニュースがあります
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今回の災害が、「対策を講じる義務」がないほどの「想像をはるかに超えた、巨大でとてつもない破壊力を持った地震と津波」だったのかどうか?

まずは事実の検証が必要であろう。
この日(19日)、東電は福島第一原発に津波が押し寄せる写真を11枚公開した。
絶妙のタイミングである。

20日の「朝日」朝刊によると、
東電は、「情報を収集、整理するなかで、こういう写真があることが分かった」と釈明。
細野補佐官も、(またも)「初めてみた。」という。

それにしても、何故11枚だけ公開なのか?

「朝日」の同じ記事によると、この地域に押し寄せた津波は、防波堤をわずかに超える程度で、専門家は10m級と指摘する一方、東電は建屋付近では浸水の跡から見て、14~15m級であったと主張しているらしい。

そう言えば、震度にしても、当初発表のM7.6が、後になってM9.0に訂正されている。

次に、その規模が「想像をはるかに超えた」ものであったかどうか?、をきちんと判断する必要がある。
何故、「想像」できなかったのかという東電の反省説明もまた、免責を原発事業者のモラル・ハザードに繋げないためにも、絶対に必要だ。
東電経営者は、企業家として、技術者として、国民や環境への影響と真摯に向き合わなければ、その組織の再生はありえない、ということを認識すべきである。

裁判の行方に注目したい。

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の4) 「大和魂はそれ天狗の類(たぐひ)か」

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の4)
*
この時、苦沙弥先生は突然、書斎から一枚の半紙を持ってきて、皆に読んで聞かせる。

「大和魂(やまとだましひ)! と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」
「起し得て突兀(とつこつ)ですね」と寒月君がほめる。

「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。
大和魂が一躍して海を渡つた。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「成程こりや天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。

「東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を持つて居る」
「先生そこへ寒月も有つて居るとつけて下さい」

「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行つてからエへンと云ふ声が聞こえ」
「その一句は大出来だ。君は中々文才があるね。それから次の句は」

「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。
大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」
「先生大分面白う御座いますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。
「賛成」と云つたのは無論迷亭である。

「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。
誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない。
大和魂はそれ天狗の類(たぐひ)か

主人は一結杳然(いつけつえうぜん)と云ふ積りで読み終つたが、流石(さすが)の名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はまだあとがある事と思って待って居る。
・・・
とこんな様子の空振りに終わった。
*
*
この(六)は、日本がロシアに「勝って」、講和条約が結ばれた頃(明治38年9月)の執筆、発表になるもの。
鼓吹されている「大和魂」とはどういうものか、漱石は苦沙弥先生に託して揶揄する。
東郷大将以下誰でもそれを持っていて、誰でもそれを口にするが、誰もそれを説明できない。
「天狗」のような架空の存在だ、と喝破する。
*
*
その(七)に続く

2011年5月19日木曜日

東京 北の丸公園 清水門前のセンダンが淡い紫色の花を付け始めた

今日(5月19日)の清水門前
センダンが淡い紫色の花をつけ初めてます。
(場所は、厳密には内堀通りの脇なので公園の外側です)
冬になると、団子のような実を付けるので、千団子 → 「センダン」 となったとか?


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▼公園内の池の畔
イチョウ、サクラ、シイなどの緑が濃くなってきています。
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2011年5月18日水曜日

東京 北町奉行所跡

以前に「南町奉行所跡」(JR有楽町駅前)をご紹介してますが、
今回は「遠山の金さん」でおなじみの「北町奉行所跡」です。
JR東京駅日本橋口をでてすぐのところ、シャングリラ・ホテルの脇にあります。
しかし・・・、下の説明板にも記載されてますが、この場所は、北町奉行所跡というには少し離れています。
実際の奉行所跡は、多分現在の東京駅辺ではないでしょうか。



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▼近くには、江戸城石垣の遺構もあります。
常盤橋辺の遺構を再生したとのこと。
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月17日火曜日

東京 江戸城 二の丸雑木林 ガマズミ エゴノキ ノイバラ 梅林坂の梅の実

今日(5月17日)は曇天(午後3時頃から雨)でしたが、昼休みに江戸城東御苑へ。
二の丸庭園のショウブ(菖蒲)はまだ一輪も咲いていません。
菖蒲田に水も引かれていない。
6月にならないとダメですね。
・・・ということで、二の丸雑木林をぶらり。
花々は、さりげなく咲いているように見えて、実にうまく管理されていると思います。
北の丸公園に比べて、花の多さ、規模が段違い。
*
▼ガマズミ
これほどデカイかたまりをみたのは初めて
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▼エゴノキ
7月の終りには鈴なりに実がつきます。

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▼ノイバラ
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▼梅林坂の梅の実
この実の処分はどうゆうふうにされているのか? 気になる。
確か、昨年、収穫どきにはオマワリさんがそれとなく見張っていたような・・・。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*
ところで、今日の「朝日」夕刊の素粒子は面白い。
「原子力村用語辞典」として、

「安全=危険が発覚しないこと
・・・・(略)
損傷=溶けて崩れ落ちること
・・・・(略)
爆発的事象=ようするに爆発
・・・・(略)
保安院=広報担当の協力会社
・・・・(略)・・・・・」

そう言えば、
「水素爆発らしきもの」というエダノ広報担当の記者会見もありました。
・・・・・

2011年5月15日日曜日

東京 北の丸公園 ロウバイの実 コアジサイ ニシキギにアゲハ 新緑の散歩道

先週金曜日(5月13日)の北の丸公園
*
▼武道館前駐車場の脇にロウバイの実が鈴なり
花の頃はこんな感じでした(コチラ)
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▼コアジサイ
*
▼ニシキギにアゲハ
ニシキギがきれいな色を出しているんですが、私のカメラではそれがなかなか伝わらない。
偶然、アゲハが来たので、それと併せてご紹介。
*
▼新緑の散歩道
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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