2012年7月31日火曜日

東京 江戸城(皇居)東御苑 二の丸庭園のサルスベリ、炎天下に咲く

熱暑の日々が続く。
今日(7月31日)はサルスベリ(百日紅)を観るため、
意を決して、江戸城(皇居)東御苑へ。

さすがに、昼休みお散歩サラリーマンは一人二人数えるほど。
江戸城の来客は外国人観光客が主流だ。
広大な本丸広場の芝生には誰もいない。

とにかく木陰を渡り歩き二の丸庭園に行く。

▼サルスベリは炎天下に咲く
二の丸庭園全体のサルスベリからするとまだまだ序の口だ。

ピークには、
赤色がどっと咲き
高木に白色がいっぱいに咲く。
まだあと二週間くらいか?




▼左側に外国人観光客の団体
引率のオバサン(失礼!)の怪しげなカタカナ英語(またも失礼!)がとても愉快
▼なんだか午睡のような情景
白鳥濠である。

昭和17年(1942)7月21日 「區役所の入口に日本皇道會とかきし高張提灯を出し赤尾敏の名をかゝげたり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-18
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昭和17年(1942)
7月20日
・七月二十日。暮方の空に五日頃の月浮び溽暑甚し。金兵衛に夕餉を喫し淺草より玉の井を歩む。
とある路地の入口に人だかりのするを何かと立寄りて見るに、白しやつ一枚にズボンはきたる職工風の若き男をとらへ、アバツパ着たる老婆の何やら頻に言ひ罵れるなり。能くはわからねどかの若き男は息子にて嫁か情婦かを連れ老母を置去りに跡をくらませしため、老母は銘酒屋に飯焚婆となり居たりしところ今宵はからず不孝の倅に出會ひしものゝ如し。色町夏の夜の一悲劇と謂ふべし。
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7月21日
七月廿一日。晴。夕飯の後物男はむとて淺草に行く。公園に入るに盆過ぎにて人出少し。
區役所の入口に日本皇道會とかきし高張提灯を出し赤尾敏の名をかゝげたり。入場料二十銭拂ひて入る者少からず。
淺草はいかなる世にも面白をかしき所なり。
オペラ館楽屋に少憩して後地下鐡にてかへる。乗客中避暑地より野菜果實を風呂敷につゝみ携へ歸る者多し。
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7月22日
・七月廿二日。晴。山丹の花ひらく。夜初更過雨ふり來りしが須臾にして歇む。数日來巻烟草品切。またちり紙もなくなりし由。毎夜枕上に鴎外全集をよむ。
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7月23日
七月廿三日。晴。酷暑華氏九十二度に昇ると云。午後中河與一氏來り野菜一籃を贈らる。晡下土州橋病院に行き歸途金兵衛に飯す。銀座尾張町乾物問屋大黒屋閉店せし由。
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7月24日
七月廿四日。炎暑昨日の如し。
夜に入るも風なければ電車にて深川より亀井戸に至る。十間川の臭気甚しきを物ともせず天神橋の欄干による倚りてかこむ團扇つかふ人多し。栗原橋をわたるにこゝにも人多く涼む。工場の烟突幾本となく聳る間に狭霧に蔽はれし半輪の月浮び工場内の寄宿舎よりラヂオの軍歌ひゞき來るさま物哀れに聞ゆ。工場の裏手は太平町の陋巷なり。長屋の嚊裸体の亭主道端にしやがみて語りあへり。寒き冬の夜よりも今夜の如き蒸暑き晩このあたりの生活殊にいぶせく哀れに見ゆ
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7月25日
・七月廿五日。暑さいよいよ激しくなりぬ。されど深夜庭樹にそよぐ風の青に耳をすませば早くも秋めきし心地せらるゝなり。
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7月26日
七月廿六日 日曜日 風ありてやや稍涼し。夜金兵衛に飰す。おかみさんこのころ心やすくせし客の中慶應義塾出身の歸還軍人某といふ者に欺かれ四五百圓損せし由。洋酒ウヰスキーの闇取引を種にせし詐欺なりと云。
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7月27日
七月廿七日。満月鏡の如し。舊暦の六月望ならむ歟。夕飯の後永代橋に月を看る。涼風水のごとし。
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7月28日
七月廿八日。今宵も月よし。向嶋より寺嶋町を歩む。今年の夏の暑さ昭和十一二年のころに似たり。毎夜江東の裏町を歩み偶然濹東綺譚の一篇をつくりしも思へば早くも六年のむかしとなりぬ。
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7月29日
・七月廿九日。今日は晝の中より永なしとて人々難澁の由。
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7月30日
七月三十日。晴また陰。午後入院料を支拂ら(ママ)むとて土州橋に徃く。華氏九十四度の暑なりと云。夜ふけて雨すこし降る。風やゝ涼しくなりて始めて安眠することを得たり。
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7月31日
七月卅一日。晴。涼風颯ゝ人皆蘇生の思をなす。晩食後深川散策。今宵は氷ありと見えいづこの氷屋にも人むらがりたり。氷水一杯十銭にて其量むかしの年分よりも少し。
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7月23日、華氏92度という。摂氏では33.3度らしい。今ころとそんなに変らないか?


7月24日、陋巷の熱暑の夜。庶民の過ごし方の描写。この巧みさがたまらない。


7月25日、いつの時代にも「儲け話」に引っかかる人はいるもんだ。勿論、引っ掛ける人も。
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米GE最高経営責任者(CEO)、原発は相対的にコスト高、「正当化するのが非常に難しい」と語る

MSN産経ニュース
原発「正当化難しい」 米GEトップが英紙に
2012.7.31 08:31
 米電機・金融大手ゼネラル・エレクトリック(GE)のジェフ・イメルト最高経営責任者(CEO)は、30日付の英紙フィナンシャル・タイムズのインタビューで、原子力発電が他のエネルギーと比較して相対的にコスト高になっていると指摘し「(経済的に)正当化するのが非常に難しい」と語った。
 発言の背景には、東日本大震災の影響で原発に関わるコストの上昇が見込まれる一方、技術の進歩で地中深くの岩盤から採取される「シェールガス」の増産が進んで、天然ガスの価格が10年来の安値水準を続けていることがある。
 イメルト氏は「天然ガスが非常に安くなり、いずれかの時点で経済原則が効いてくる」と述べて、原発が経済的に見合わなくなる可能性を示唆。「世界の多くの国が(天然)ガスと、風力か太陽光の組み合わせに向かっている」と述べた。(共同)

安和2年(969)3月25日 安和の変(1) 左大臣源高明失脚 「禁中の騒動、殆ど天慶の大乱の如し」

東京 北の丸公園 2012-07-27
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康保5年/安和1(968)
この年
・丁部領がベトナムを統一し、大瞿越を建国する。
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8月
・安和に改元。
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10月
・大嘗祭を行なう。
例年新穀を祖神に奉る新嘗祭の大規模なもので、天皇即位後は必ず行なわなければならない儀式。
天皇は、祭の前の禊のために行列を組んで内裏から鴨川まで往復しなければならない。途中で例の発作が起きないかが人々の心配の種であったが、実際の御禊の際には、冷泉天皇は終始正常で端然としていた。人々は安心し、これは目に見えぬ師輔の霊が、輿の中で天皇をうしろからしっかりと抱いて守護していたに違いない、と評判した。
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10月24日
・御禊が無事終わったこの日、伊尹が女御として進めた懐子に、天皇の第2皇子(師貞親王、のちの花山天皇)が誕生。
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安和2年(969)
1月2日
・この日、関白太政大臣実頼邸で新年宴会
左大臣源高明、右大臣藤原師尹以下の公卿が集まる。
数献ののち、祝宴の常として催馬楽が始まる。古い民謡などを雅楽の曲に編曲したもので、音曲の上手と言われた参議源雅信・重信兄弟が笏(しやく)を持って拍子をとり、蓆田(むしろだ)という曲が歌われた。

蓆田の 蓆田の 伊津貫川に や
住む鶴の 住む鶴の
千歳を予(か)ねてぞ 遊びあへる
千歳を予ねてぞ 遊びあへる
(美濃国蓆田郡の伊津貫川(糸貫川)に、鶴が、あなたの寿命は千年もと予言するかのように舞い遊んでいる、という意味のおめでたい歌で、祝賀の宴席などでよく歌われたもの)

この日、この歌を歌い始めるや、人々は、音楽を好み、優雅な宮廷の中心であった故村上天皇のおもかげがを思い起こした
一同、「あはれ、先帝のおはしまさましかば(ああ、先帝がおいでになったならばなあ)」と、万感胸に迫り、拍子を取る笏を捨て、正月のめでたさも忘れて満座ひとしきり涙を流した。
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2月
・従三位蔵人頭兼家(師輔の三男)、参議を経ず中納言に進み春宮大夫(とうぐうだいぶ)を兼ねる。
蔵人頭・左近衛中将という地位で冷泉天皇の側近を掌握していたが、安和元年(968)、従三位に昇っても蔵人頭のままであり、更に翌年(この年)2月に参議を経ずに中納言に進み、しかも春宮大夫を兼ねるという例のない昇進を行ない、また中納言でなお蔵人頭を兼ねているという異例ずくめ(公卿の一員になれば蔵人頭は解かれるのが通例。また、議政官の一員でありながら、天皇と東宮(守平親王)の身辺も固めた)。
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2月7日
・右大臣藤原師尹の従者が中納言藤原兼家の従者に殺されたことで、師尹の従者たち数百人が兼家の邸宅を襲った(「日本紀略」)。
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3月25日
安和の変
左馬助源満仲(源経基の子)・前武蔵介藤原善時が、中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連(つらね)の為平親王擁立の謀反を密告。
この報を受けて右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内し、宮中の諸門を閉じて会議に入った。
そして、密告文を関白実頼に送り、検非違使を督励して、橘繁延、僧侶蓮茂(れんも)、前相模介藤原千晴(ちはる、藤原秀郷の子)・その子久頼など一味を捕えて訊問に入る。
非常の処置として東国へ通じる三関を閉める固関使も出発し、「禁中の騒動、殆ど天慶の大乱の如し」(宮中の騒動は将門の乱と純友の乱の時のようであった)という(『日本紀略』)。

検非違使が源連と橘繁延らを捕らえ、左衛門府で参議藤原文範・源保光の両大弁が尋問したところ、罪を認めた。
累は左大臣源高明に及び、菅原道真の例にならってこれを大宰権帥に左遷することが決定した。

高明の占めていた左大臣は右大臣藤原師尹がこれに代わり、右大臣には大納言藤原在衡(ありひら)が昇任した。
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3月26日
・源高明は、決定が下される直前、長男と共に出家入道して京に留まることを願ったが、決定は変更されず、この日、高明の邸は検非違使に包囲され、天皇を廃しようとした罪により大事権帥に左遷するという命令が読みあげられ、高明は粗末な網代車で連行された。妻子の悲嘆、世人の同情はいうまでもない。
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3月27日
・密告を賞して満仲・善時は位を進められた。
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茨城県、年間積算被曝線量の目安(1ミリシーベルト)を4ヶ所で上回る

MSN産経ニュース
年間積算被曝 4地点で1ミリシーベルト超える 茨城
2012.7.31 02:33
 県は30日、東日本大震災に伴う福島第1原発事故の影響による県内61カ所の年間積算線量は0・24~2・4ミリシーベルトで、年間積算被曝(ひばく)線量の目安である1ミリシーベルトを数カ所で上回ったと発表した。1日のうち屋外に8時間いた場合の年間積算被曝線量は0・14~1・4ミリシーベルトで、法令値の1ミリシーベルトを上回ったのは、ひたちなか市や鉾田市、大洗町の小中学校など3市町4地点となる。
 県が同日、水戸市内で開いた県東海地区環境放射線監視委員会で報告。同委員会は、原子力施設がある東海村や大洗町を周辺市町村を含めて東海・大洗地区として定期的に監視している。
 昨年4月~今年3月に県内61カ所で測定した年間積算線量から、事故前の平成17~21年度の5年間の平均値を減算。もともと自然界に存在する放射線量を差し引き、事故による追加の影響を推定した。
 ただ、測定値は周辺に樹木が多い場所で高くなるなど環境条件により変化するといい、県は「地区全体を代表する値ではない」としている。

静岡県の川勝知事、原子力発電関係団体協議会(14道県)を脱退の意向

MSN産経ニュース

静岡県が原発協から脱退意向 再稼働推進の要請書に反発
2012.7.30 22:54
 静岡県の川勝平太知事は30日、原発が立地するか立地予定の14道県でつくる原子力発電関係団体協議会(会長・三村申吾青森県知事)を脱退する意向を示した。静岡県によると、協議会が8月にも国に提出するエネルギー政策に関する要請書に、原発再稼働を推進するような文言が盛り込まれているため
 県によると、要請書の文案に「前のめりで原発再稼働を進めようというような表現」や「再稼働ありきの内容」があるといい、静岡県は意見を集約している青森県に内容の修正や提出の撤回を求めている。
 川勝知事は県庁内で記者団の取材に応じ「ある県は再稼働させたい、ある県は廃炉にしたいと主張し、玉虫色の文書になっている。脱退して、そこに加わらない」と説明。「原発に依存する割合は地域で違い、静岡は依存度が低い。原発に依存しないといけない電力会社の管内とは事情が違う」と強調した。

オリンピック開会式・・・ 日本選手団退場の謎!

ロンドン五輪の開会式(ちょっとだけテレビで見たけれど)、
日本選手団だけ途中で全員退場したそうだ。
ギリシャのスタートの時点で、もう既に現地時間午後11時半だったとはネ・・・。

コチラ(↓)ロンドン在住の方のブログ
オリンピック開会式行ってきました!日本選手団退場の謎!
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2012年7月30日月曜日

今日の富士山 2012-07-30

今日(7月30日)もまた暑い日であったが、
湿度が低かったのか、
帰宅途中のJR東戸塚駅前から富士山が少し見えた。

帰路を急いで、早速自宅近くの富士山ビューポイントで写真を撮った。
ほぼ午後7時(5分前くらい)

横浜市戸塚区からの夏の富士山


東京 北の丸公園 武道館で熱闘 少年柔道・剣道練成大会

昭和館は月曜休館であったが、
偶然武道館の前を通ったところ、「少年柔道・剣道練成大会」が開催中であった。
エアコンも効いているだろうし・・・と、ちょっと立ち寄った。
少年たちが熱闘中であった。
主催:警視庁ネ。




東京 北の丸公園 牛ヶ淵の蓮の花 その2

九段下の昭和館で
特別企画展「帰還への想い ~銃後の願いと千人針~」
が始まっている。
早速出かけたところ、月曜は休館。
出直しだ。

ついでに、そばの牛ヶ淵を覗いて蓮の花を探した。
蓮の葉が大きくなってしまって、まだ少しある花に覆いかぶさっているようだ。
ようやく探し当てた一つ。

牛ヶ淵の蓮の花は二回目。

「ふくしまはめげずに生きるフクシマに背を向けないで目を見開いて」(福島市 伊藤緑) 「朝日歌壇」7月30日より

東京 北の丸公園 2012-07-24
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「朝日歌壇」7月30日より

原発というおごそかな機器を抱き滅びへ向かう青き球体       (名古屋市)南 真理子

あれしきの被曝で何を騒ぐかと言ってはならぬ我は被爆者    (アメリカ)大竹幾久子

原発の温排水に太りいし刈羽の海のメジナを思う          (中央市)前田良一

ふくしまはめげずに生きるフクシマに背を向けないで目を見開いて 
                                     (福島市)伊藤 緑

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放射能汚染 「不検出」はゼロのことだと思ってませんか? ゼロじゃないです。

東京新聞
不検出=ゼロじゃない 食品中のセシウム検査 
2012年7月30日

 食品中の放射性セシウムの検査結果で、「不検出」という言葉の使われ方があいまいだ。測定器で検出できる下限値を下回ったことを意味するだけで、ゼロベクレルを指すわけではない。農家らが運営する測定室は、下限値をゼロに近づける努力をしているが、自治体やスーパーなどによっては、一キログラム当たり二〇ベクレル前後のところもある。不検出の意味を知っておく必要がある。 (伊東治子)
 神奈川県座間市で二十年以上、農薬や化学肥料を使わずに野菜を育てている大木秀春さん(45)は、放射能測定器を購入し、五月に生産者向けの測定室を開いた。購入費用の百六十万円は車を売って捻出した。
 八~十時間かけて作物や土壌の検査をすることで、検出できるセシウムの下限値を二~三ベクレルに下げている。「ゼロベクレルであると、ほぼ確認できた野菜しか出荷しない」と大木さん。こだわるのには理由がある。
 農業を始めて二年目の秋、突然、目がかすんで、三日後には近くにいる人の顔を見分けられなくなった。大学病院で「原因は農薬。失明する可能性がある」と診断された。だが、原因とみられる三種類の農薬のうち、二種類は年一回しか使っていなかった。「少量で影響が出る人もいる。農業をやめた方がいい」と医師は勧めたが、あきらめきれず、作る側と食べる側にとって安全な農業を追求してきた。
 「農薬と同じように、わずかな放射能でも、人によっては健康被害が出るかもしれない。自己満足かもしれないが、しっかりと測定したい」と大木さんは話す。
 相模原市で有機食材などを販売する高岡章夫さん(56)は「孫に食べさせたくないものは売りたくない」との思いで、昨年八月に測定室を開設した。検査に十時間以上かけ、さらに二百キロの鉛で測定器を覆って環境放射線の影響を受けにくくすることで、一・五ベクレルまで測れるようにした。
 同県の農家の男性(40)は昨年秋、収穫した蜂蜜を独自に検査機関で測ったら六ベクレルだった。迷ったが、「自分だったら食べたくない」と考え、出荷しなかった。男性は「自治体の検査だったら、不検出になったかもしれない。消費者には不検出の意味をちゃんと知ってほしい」と話す。
◆自治体検査体制 国の支援が必要
 食品に含まれるわずかなセシウムに、厳しい目を向ける農家や市民。一方、厚生労働省は、自治体が簡易検査する際の下限値を二五ベクレル以下と定めている。このため、自治体やスーパーなど測定者によっては、二〇ベクレル前後の下限値を下回った食品については、下限値を示しながら「不検出」と表示している。
 ある自治体の担当者は「国の基準値の一〇〇ベクレルを下回っているかどうかの検査なので、下限値が二〇ベクレルでも一〇ベクレルでも変わりない。多くの食品を調べるには、一つの食品に三十分以上かけられず、下限値を二〇ベクレルより低くするのは難しい」と話す。
 これに対し、日本消費者連盟の古賀真子共同代表は「食品が放射能に何ベクレル汚染されているかを知るのは、消費者の権利。不検出という表示はおかしい。下限値が二五ベクレル以下では高すぎる。国は自治体の検査体制を支援して、もっと下限値を低くするとともに、消費者が持ち込んだ食品も測定できるように体制を整えるべきだ」と指摘している。

2012-07-29 「7.29脱原発国会大包囲」の写真(正しい報道ヘリの会など)

(最終更新7月31日)
「朝日新聞」7月30日朝刊は写真入りで一面トップの扱いであった。

徐々に情報や写真を集めて行くつもり。

正しい情報ヘリの会から戴いたもの  (←コチラ)


ブログ「日々雑感」さん
【映像】国会包囲デモ、歩道規制が決壊し車道に人が雪崩れ込む瞬間
(その他の写真も豊富)

AFP BB News (写真が豊富)
脱原発デモで国会を包囲、主催者発表で20万人参加

脱原発デモ、「人間の鎖」で国会包囲へ

時事ドットコム
脱原発デモ、国会包囲=「金より子どもの未来を」-ろうそくに灯ともし、訴え・東京
(記事中心)

田中龍作ジャーナル
再稼働反対叫び国会包囲 民主党議員に「帰れコール」
民主党の首藤信彦衆院議員( ← 消費税増税には賛成した人)
川内博史衆院議員( ← 彼は頑張ってる)

レイバーネット日本
写真速報 : 7.29脱原発国会包囲行動~正門前車道を埋める人々

▼「朝日新聞」の報道(7月30日朝刊)





開幕したばかりのロンドン五輪で空き席が目立っているらしい


AFP BB News
目立つ空席、五輪組織委に非難殺到 慌てて兵士で穴埋め
2012年07月30日 12:15 発信地:ロンドン/英国

【7月30日 AFP】前週末開幕したばかりのロンドン五輪の一部会場で空席が目立っていることから、大会組織委員会が非難の矢面に立たされている。ロンドン組織委員会五輪(LOCOG)のセバスチャン・コー(Sebastian Coe)会長は29日、ほとんどの会場は観客でいっぱいだと述べ、釈明した。
 大会前に行われた五輪観戦券の抽せん販売は競争率が非常に高く、多くの市民が入手できない状態だった。にもかかわらず、テニスや水泳、体操などの種目の会場で空席が目立っている。
 記者会見したコー会長は「広い視点で考えるべきだ。観客は入っている」と主張。五輪開幕直後の空席は異例なことではなく、大会が進行するにつれて問題ではなくなるだろうとの見方を示した。

■「関係者席」か、違法転売の疑いも
 テニス競技会場となったロンドン南部ウィンブルドン(Wimbledon)のセンターコートでは、28日の英国人選手の出場試合でも座席は半分ほどしか埋まらず、29日もまとまって200座席ほどが空席のままだった。一方、2日目の競泳会場アクアティクス・センター(Aquatics Centre)でも空席があった。
 LOCOGでは、これらの空席は各国の五輪委やスポーツ連盟の関係者、選手、報道陣、スポンサーなどいわゆる「オリンピックファミリー」のための予約席だったと釈明している。あるLOCOG関係者はAFPの取材に対し、予約席が空席となっていることに対しLOCOG内では「苛立ちが募っている」と明かした。
 英紙サンデー・タイムズ(Sunday Times)は、英警察当局が五輪公式チケットの違法転売をめぐる捜査を開始したと伝えた。同紙によると、五輪関係者らが額面価格の最大10倍の値段で数千枚のチケットを売っていたという。

■「穴埋め」に兵士や生徒を招待
 一方、国際五輪委員会(International Olympic Committee、IOC)のマーク・アダムス(Mark Adams)広報部長は、「スポンサーの大半は会場に来ている」と述べ、空席の原因がスポンサーにないことを強調している。
 LOCOGは、空席を埋める方策を急いでいる。29日午前の体操競技では、警備任務に携わる英軍兵士に座席が与えられた。また、他会場ではロンドン東部の学校の生徒たちや教員が招待された。(c)AFP/Guy Jackson
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空き席だらけの写真も豊富(↑)

康保4年(967) 村上大皇(42)没。冷泉天皇(18)即位。守平親王(9)立太子。実頼関白太政大臣、高明左大臣、師尹右大臣。

東京 北の丸公園 2012-07-26
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康保4年(967)
5月25日
村上大皇(42歳)、清涼殿で没
形式的に宮中警固の命が出て、固関使が発令された。
その夜、宝剣と神璽(曲玉)が、清涼殿から皇太子憲平親王(18歳)の部屋である襲芳舎(しほうしや)に移され、冷泉天皇の皇位継承が実現した。

奈良時代いらい、政変や天皇の代替りには、宮中警備に当たる六衛府に対し警固の命が下され、伊勢の鈴鹿・近江の逢坂・美濃の不破の3ヶ所には、関所を固める固関使が差し向けられるならわし。平安時代になって、3関のうちの越前の愛発関を近江の逢坂関に変えた。

皇后安子の没後、村上天皇は、皇位継承への憂いに付きまとわれた。
皇太子は生来虚弱であったが、この年2月に心身に異状をきたた。

村上親政は18年に亘ったが、彼の関心は王朝風の文雅の興隆にあった。
天皇は、詩賦を好み和歌を作り、書は小野道風に学び、管絃の道では箏・笙・琵琶をたしなんだ(箏は実頼について学んだ)。
皇后安子を中心とした生前の後宮生活も華美を極めた。
皇后(安子)のほか女御(徽子(きし)女王・荘子(しようし)女王・藤原述子(じゆつし)・同芳子(ほうし))・更衣(源計子(けいし)・藤原祐姫(ゆうひめ)・同正妃(しようひ)・同脩子(しゆうし)・同有序(ゆうじよ))がおり、その子女は19人であった。
また後宮には風流をわきまえる多数の女房が侍しており、この大集団が天皇の文雅への好尚を支える力のひとつであった。

村上天皇没後の右大臣源高明は不安の空気に包まれていた。
また、3関の固関使のうち固伊勢関使(こいせげんし)には、経基の子満仲と秀郷の子千晴が選ばれるが、これらは、内裏と権門を巡り対立を深めており、村上没後の親政から関白執政への転換に乗じて、一働きしようと目論んでいた。
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6月
左大臣実頼が関白となる。(関白の復活)
左大臣実頼は、台閣首班ではあったが、国政指導に関しては能力も熱意もなく、朝儀と風流に心を傾ける老貴神にすぎず、しかも村上の後継者との関係は、血縁的にさほど密ではなかった。
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7月
・「延喜式」を施行する。
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9月
兄為平親王(16)をさしおき、守平親王(9)が立太子する。

東宮決定の争い
実頼・高明・師尹の3大臣は立太子の問題に直面した。
冷泉天皇には既に朱雀天皇の皇女、昌子内親王が正妃に立っていたが、まだ皇子は生まれていないし、天皇の狂気を考えれば、早急に東宮を定めておく必要がある。
候補としては、生母の家柄から考えて、冷泉天皇の同母弟、為平親王と守平親王の2人しかない。2人は共に兄のような異常はなく、順序からすれば為平親王が東宮となるはずである。
為平親王(16歳)は、父村上天皇・母皇后安子にもひとかたならず愛せられ、間違いなくつぎの東宮と目されて希望に満ちた前途を持っていた。年頃の為平親王に自分の娘を入れようとする公卿は多かったが、その競争に勝利したのは源高明であり、しかもその結婚式は、妃の家で行なわれる慣例を破り、村上天皇のはからいで内裏の昭陽舎でおこなわれるという盛大なものであった。

しかし、為平親王と高明の娘との縁組は、藤原氏首脳部に不安を起こさせた。
もし為平親王が東宮となり、高明の娘に皇子が生まれると、高明が次期東宮の外祖父になる可能性が出てくる。
藤原氏としては、為平親王に藤原氏の女をどんどん入れて、生まれた皇子を強引に次の東宮に立てれば切り抜けられるのだが、もっと確実で賢明な策が採用される。
こうして、新東宮は人々の思惑を裏切って、為平親王の同母弟、守平親王(9歳)と決定した。

「栄花物語」によれば、村上天皇重体と知って実頼が次期東宮について伺いを立て、天皇から、今は守平親王を立てるほかはあるまいとの遺詔を得たという。
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10月
憲平親王が即位。冷泉天皇となる

狂気の天皇
皇太弟守平親王がきまった直後、東宮妃であった昌子内親王は皇后に昇り、新たに冷泉天皇の女御として、師輔の長男、伊尹の娘の懐子(かいし)が後宮に入ったが、どちらも冷泉天皇の異常性と、その原因と思われていた元方の崇りが気味悪くて、とかく自分の邸に下がりがちであった。

10月の即位式は、本来ならば大極殿で百官を集めて行なうべきところ、異例の処置として内裏のなかの紫宸殿で挙行された。御座所の清涼殿から離れた大極殿で挙式すれば、天皇に異常が起きたときに収拾がつかなくなるという実頼の判断によるもの。
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12月
実頼が太政大臣、源高明が左大臣となる。

冷泉の母は、九条右大臣師輔の娘、皇后安子(あんし)であり、村上朝後半の政治の中心は師輔であった。
しかし冷泉即位時点では、師輔は没して7年、皇后安子も没して3年前であった。
冷泉即位時点での朝廷の有力者は、左大臣藤原実頼・右大臣源高明・大納言藤原師尹の3人。


冷泉は18歳なので、本来いならば摂政関白は不要であるが、天皇の異常性からその代行者が必要ということになり、師輔の兄の小野宮左大臣実頼が直ちに関白となり、半年後のこの月、後太政大臣に任ぜられ、高明・師尹がそれぞれ左右大臣に昇った。

実頼は関白にはなったが外戚ではない。天皇の外祖父の兄は外戚の資格に外れ、外戚としては、皇后安子の兄弟、つまり天皇の伯父・叔父に当たる伊尹・兼通・兼家などが資格がある。しかし、伊尹は権中納言に昇ったばかり、あとの2人は公卿にもなっていない。この3人がいずれ昇進するだろうが、さしあたりは最長老の実頼が関白となることは当然であった。

実頼は外戚でなかったため十分力がふるえず、「揚名(ようめい)の関白」(名ばかりの関白)と嘆いたが、忠平没後筆頭大臣であり続け政権を指導した。


天皇即位の2ヶ月後の7月22日の日記。
実頼は、天皇の狂気、関白の無力、公卿の無統制を嘆く。
「きょう源延光や藤原師氏(師輔の弟)がやってきての話に、天皇の例のご病気がこのところ連日起こっているとのこと、右兵衛佐藤原佐理や師氏の見たところでは、天皇は大声で歌を歌われ、そのお声は御所警衛の近衛の連中にも皆よく聞こえるという。明日は除目があるはずだがこのようなありさまで大切な除目ができるものだろうか。暴悪武断の君主というのは昔の話にも聞くことだが、狂気の君などとは聞いたこともない。しかもこのような天皇のありさまをよいことに、天皇の伯父にあたる外戚の連中が争って昇進をたくらんでいる。半年前に権中納言になったばかりの伊尹が、こんどは大納言になろうとねらっているようだが、もってのほかである。また、夜になって聞いた話では、明日の除目については、一昨日、大納言あたりの連中がお膳だてをきめてしまったといううわさだ。関白である自分に相談もなく話を進めるとはなにごとであるか。これも自分が天皇の外戚でないために軽んぜられるのである。もうこのような名ばかりの関白なぞ、やめてしまうべきだ」

日記の中で天皇の歌声を聞いたとされている右兵衛佐佐理(書道で名高い佐理とは別人)は、この直後に出家し比叡山に登り、その妻も続いて尼になった。
佐理は藤原時平の孫、権中納言敦忠(あつただ)の子。藤原北家の主流が時平の系統から弟の忠平の流に移り、将来を期待できなくなったことも一因かも知れない。
しかし、それと同時に、冷泉天皇の狂気の歌声を聞き、つい先ごろまでの華やかな村上朝の宮廷と思い比べて、それを悲しみ嘆き、世の無常を感じて出家に踏みきったと考えることもできる。

右大臣師尹(もろただ)
師輔の同母弟で48歳。同母兄師氏は7歳年長。天暦2年(948)、師尹は兄師氏を含めて先任者5人を飛びこして権中納言に昇任し、以後この差を守り続ける。躍進の理由は不詳であるが、才能も野心もあり、「腹悪シキ人」という後人の批評もある。
師尹も娘の芳子(ほうし)を村上天皇の後宮に入れた。これを宣耀殿の女御と言い、容貌すぐれて美しく、美人の絶対条件であった髪の長さは有名であった。縁側から車に乗ると、身体は車に入っても髪の先は廊下を越して内の柱の辺までと届くとか、髪一筋を抜いて大形の檀紙に置いてみると、紙の全面を覆い尽して白い所が見えなかったいう話も伝わっている。また、『古今集』20巻、1,100首を暗誦しているという特技があった。
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2012年7月29日日曜日

「日本の食糧自給率は農水省の大ウソ」「日本は世界5位の農業大国」という本

税と保険の情報サイト
干ばつで食糧危機? 日本の食糧自給率は農水省の大ウソだった
 2012年7月28日 22:00
 
異常気象で食糧事情が不安視されるが
世界各国で異常気象が続いており、中国や米国でも農作物が不作だという。こういった事態が起きると、かならず不安視されるのが日本の食糧自給率だが、先ごろこの自給率そのものが農水省のでっち上げ、とする本が出版され波紋を呼んでいる

日本は世界的な農業大国だった
もはや毎年発生している感があるが、今年も世界的な異常気象だという。北朝鮮では60年ぶりともいわれる大干ばつで穀倉地帯の黄海南道が壊滅的な被害を受け、2万人が餓死した、との情報がある。

中国では地方ごとに干ばつと豪雨被害に襲われ、農地が大きなダメージを受けた。米国でも1988年以来の大干ばつとなり、テキサス州やルイジアナ州では家畜の放牧ができない状態が続く。

トウモロコシや大豆も不作のため、穀物価格が上昇。飼料を輸入に依存している日本の牛肉や豚肉価格にも上昇の気配が出てきた。

44%ともいわれる日本の食糧自給率が心配されるところだが、実は日本の食糧自給率はもっと高く、農業生産高では世界5位、先進国では3位の実力があるらしい

これまですり込まれてきた「常識」を覆すこの情報を教えてくれるのは、『日本は世界5位の農業大国』(浅川芳裕著、講談社、838円、税別)だ。著者の浅川氏は農業専門雑誌、月刊「農業経営者」の副編集長である。

ウソを根拠に血税を無駄遣いする農水省
我が国では小学校でも「食糧自給率が低いため、いざというときには飢える危険性がある」と教わる。カロリーベースで産出された自給率44%という数字が根拠だが、これを生産高ベースで見ると、66%にはね上がるという。

世界的を見渡しても、カロリーベースで計算する国は他になく、66%という生産高ベースの自給率は「ごく普通」レベル。8兆円という農業生産高は、農業大国のものだ。

農水省があえて低い数字を出して危機感をあおるのは、あらゆる局面で自給率を人質に出し、予算などの要求を通すためらしい

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怪しげで危なげな常識はまだある。
財政破綻の危機、だとか

電力需給の危機とか・・・

東京 北の丸公園 羽を休めるトンボ

北の丸公園の芝生に
羽を休めるトンボ
7月26日、炎天下の昼下がり
羽を休めるというより、行者の雰囲気を漂わせるトンボではあった

脱原発のため、くだらぬ番組の時はTV消す(菅原文太)

ニコニコニュース
菅原文太 脱原発のためくだらぬ番組の時はTV消すことを提案
NEWSポストセブン:記事一覧
2012年7月28日(土)16時00分配信 
 被災地である宮城県出身で、震災後は積極的に支援活動を行なってきた俳優・菅原文太氏(78)。テレビなどに出演する傍ら、3年前から山梨県で農業を営む菅原氏に、原発再稼働と脱原発デモについて、聞いた。
 * * *
 大飯原発が再稼働した。このままなし崩し的に他の原発も再稼働することになってしまうのではないかという疑念があるが、このままだと実際にそうなるだろう。

 それに抗う手段は、今回の脱原発デモのように、それでもNOと言い続けることしかないが、既に再稼働をした以上、今後は強いリーダーというのかな、理論を持って主張することができる、強烈な向かい風にも逆らって市民を引っ張っていくことができるリーダーが必要だと思う。それはたぶん、政治家じゃないね。思いがけないところから、辺境から生まれてくる人間だと思うね。

 市民を散らさず、まとめあげていけるリーダーの登場が待たれるんだけど、いまはまだいない。先日、福島県浪江町の馬場有(たもつ)町長と対談したときに、「原発事故が風化しつつあることをひしひしと感じる」とおっしゃっていたのが印象に残っているが、強いリーダーが現われて、事故が風化する前になんとかしてくれることを望みますよ。

 ただ、そのためには、市民の側もいろいろと努力しないといけない。日本は高度経済成長時代以降、経済規模が大きくなること、そのために消費することを称賛してきた。テレビをつければ「あれを買え、これを買え」と欲望を煽り、誰も彼もがカネカネと言っている。資本主義というのは、まあ、そういうシステムでしょうが、その中で、もう、日本は壊れ始めている。溶け始めている。メルトダウンといってもいいのかもしれない。

 だから、ここで、「皆でちょっと、我慢する」ということをすればいいと思う。何十年も前の生活にまで戻る必要はない。子供部屋にそれぞれテレビがあるなら、それはやめにして一家に一台、居間のテレビだけにして皆で観るとか、くだらない番組のときはテレビを消すとか、夜中番組を放送し続けるのをやめるとか、電球はLEDに換えるとか……。

 日本中の電球をすべてLEDに換えればすごく大きな節電になるはず。0か100かではなく、みんなが10ずつ我慢すれば、大きく変わっていけると思う。
※SAPIO2012年8月1・8日号

前の記事
菅原文太氏 農繁期でなければ官邸前脱原発デモ行きたかった

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(29) 「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その1)

東京 北の丸公園 2012-07-27
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(29)
 「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その1)

荷風は「墓地探見」を愛した。
敬慕する亡き文人の墓を探ね歩き、その墓を掃う。探墓癖、展墓趣味である。
昭和10年1月2日
「行くところ無き身の春や墓詣」という句も作っている。


大正11年9月2日
尾崎紅葉の墓を訪ねる。

「曇りて風涼し。午後青山墓地を歩み紅葉山人の墓を展す。墓石の傍に三尺ばかりなる見影石の圓柱あり。死なば秋露のひぬ間ぞおもしろきといふ山人が辞世の句を刻したり」
紅葉については、「日乗」大正6年12月31日に、いま一度ゆっくりと味わいたい本として、森鴎外「即興詩人」、泉鏡花「照葉狂言」、成島柳北「柳橋新誌」、一葉全集などとともに、紅葉「三人妻」を挙げて敬意を表している。

大正11年9月15日
紅葉に続いて、鶴屋南北の墓を訪れる。
「松莚小山内の二子と車を與にして深川萬年町心行寺に赴き、鶴屋南北の墓を掃ふ。明治座出勤の俳優作者皆参集す」
市川左團次が南北の「謎帯一寸徳兵衛」を上演することになったのを受けての墓参。

大正11年9月17日
「午後雑司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ」


大正12年8月19日
「午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山の基を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る」

同年8月24日
「午後三田聖阪上薬王寺に赴き、枕山の父大沼竹渓及大沼氏累代の葛を展す。墓誌を写しゐる中驟雨濺来る」

大正13年2月11日
「電車にて牛込横寺町二十三番地長源寺に至り、館柳灣(タチリユウワン)の墓を展す」

昭和2年4月8日
「天気澄晴、風少しく冷なり、午後谷中三崎町瑞輪寺に赴き幕府侍医杉本樗園の墓を掃ひ其墓誌銘を写す、杉本氏の塋域には樗園の男及び孫の墓もあり、いづれも碑陰に墓誌を刻したれば悉く写し取らむと思ひしが、日既に傾きしかば他日を期して、同寺墓地の南隅に立ちたる大沼枕山の墓を拝して去りぬ」

昭和10年5月21日
「余丁町なる我が旧邸の門前を過ぎたれば富久町のばつれ(ママ)披(?)抜弁大の前なる専福寺を訪ふ」
「この寺には月岡芳年の墓あることを知りゐたれば、折好く井戸のほとりに物洗ひゐたる寺男に案内させて香華を手向けたり」
この日の日記には、月岡芳年の墓のスケッチが添えられている。
一日、展墓だけのために費やすときもある。

昭和12年2月18日
春の日が穏やかだった。午後から、写真機を持って、小石川白山に出かけ、蓮久寺に亡友井上唖々の墓を掃い、そのあと団子坂上に出て亡き鴎外の旧邸を撮影、足を谷中墓地へと延ばし、上田敏の墓を拝し、鷲津家の墓に詣で、さらに瑞輪寺の大沼枕山の墓に香花を供えている。

3日後の2月21日(日曜日)
快晴に恵まれ、午後、近くの笄町(コウガイチョウ)にある長谷寺の墓地を散歩。偶然”明治一代女”花井お梅の墓があることを知り香花を供える。さらに広尾に足を延ばし、光林寺にあるヒュースケンの墓を掃ふ。


昭和16年3月13日
「くもりて風なし。来客を避けんとて午後門を出でしがさし當り行くべきところも無ければ、ふと思出づるがまゝ三田台町の済(?)海寺を尋ね見たり。維新前仏蘭西公使の駐在せし寺なればなり。魚籃坂上の道を左に曲りたる右側に在り。石塀に石の門あり。堂字は新しさものにて門墻と同じく一顧の値もなけれど、墓地より裏手の崖には老樹欝蒼として茂りたるに、眼下には三田八幡かと思はるる朱塗の神社より、高輪の町を望み、猶品川湾をも眺め得るなり。墓地には久松松平家累世の墓石多く立ちたり。来路を歩むに妙庄山榮王寺の門前に来りたれば墓地に入りて大沼竹渓の墓を掃ひて香花を手向けたり。本堂の階前に一株の垂糸梅(シダレウメ)今を盛りと花咲きたり。魚籃坂を下り久しく行きて見ざりし物徂徠の墓を豊岡町の島松寺に尋ねたり」


随筆「礫川徜祥記」(大正13年)
「何事にも倦果てたりしわが身の、猶折節にいさゝかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でゝ、其庭に入り、古墳の苔を掃って、見ざりし世の人を憶ふ時なり」

「雨の夜のさびしさに書を讀みて、書中の人を思ひ、風静なる日其墳墓をたづねて更に其為人を憶ふ。此心何事にも喩へがたし」

文人の墓への関心は、荷風のなかに早くからある。
パリに遊学したときにはモーパッサンやゾラの墓を訪ねている。


明治41年、パリから、友人西村渚山に宛てた手紙。
「モーパッサンの墓は、書生町からは程遠からぬ巴里の南端、モンパルナツスの墓地にある。二三日前に参詣した。又其の記念碑は、巴里の貴族、富豪町の公園モンソーの池のほとりにある」
「巴里見物で一番趣味のあるのは墓地の散歩だ。モンマルトルの墓地に行った時には、其の邊のカツフエーで出合った女郎が、親切に案内して来れて、『椿姫』の墓に共々参詣した奇談を演じたよ。『椿姫』の墓と同じ墓地内には、其の著者なるヂューマフィースの墓があるし、ゾラのもあり、又ハイネのもある。ドーデとゴンクールの墓は西部の墓地(ラ、シヱーズの墓地)にあるのだ」

パリでの文人の墓への墓参は、「ふらんす物語」のなかの「墓詣」に結実する。
「賑ふ巴里の都にも、西東、北南の、淋しき四隅には、黒き杉の木繁りて冷たき石連りし死の国あり。この国は、世の常のさまとは異りて、富貴権門の人よりも、画伯詩人が名の前に、百花爛漫として、厳冬猶ほ陽春の色を絶さず」

「華やかな都市の表通りよりも、人の姿のほとんど見えない墓地の静けさを愛する。荷風の廃滅趣味は、すでにパリ時代にあらわれている。」(川本)

「こゝ (ラシェエズの墓地)に、我はミュツセが墳墓の石に、『親しき友よ。われ死なば、柳を植ゑよ。わが墓に。』と云ふ名高き其の詩を彫み、一本の柳をさへ植ゑたるを見て、フランスの国民が一代の詩人を愛する事の如何に深さかを思ひて泣きたり」

随筆「霊廟」(明治44年)
徳川家の墓所増上寺に心惹かれる。
「自分は次第に激しく、自分の生きつゝある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ」
寺の墓所こそ、文明ではなく文化という良き過去が静かに眠っている場所なのである

随筆「仮寝の夢」(昭和21年)
同じく過去が眠る場所でも神社にはほとんど興味を示さない。
「わたくしは仏寺の庭や墓地に対するほど神社の境内については興味を感じてゐない。神社は何やらわたくしには縁もゆかりもない処のやうな気がする。いづこの寺の門内にもよく在る地蔵尊を始め、迷信の可笑味を思ひ出させる淫祠も、又文人風の禅味を覚えさせる風致も、共に神社の境内には見られない故でもあらう」
神社には墓地という過去追墓の場所がなかったからではないだろうか。
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【(原発)ゼロの声が強くて(政府・財界は)困ってる1~5】(金子勝ツイッター)

金子勝さんのツイッターより

原発ゼロの声が強く、野田政権・財界は困り果てている、という事実

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【ゼロの声が強くて困ってる1】
脱原発の声が強く、意見聴取会でも圧倒的
そういう産経新聞が、民意依存は政策決定を歪める危険があると主張。
国民の意思に依存して政策を決めるのが悪い?
腐った守旧財界と腐った経済産業妨害省のいう通り決めればいい?
http://goo.gl/UN2Kd
(→原発比率決定に「討論型世論調査」 民意依存 政策ゆがむ恐れ

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【ゼロの声が強くて困ってる2】
無能・無責任の財界団体も原発ゼロの声の強さに焦って、政府にエネルギー政策の決定を先延ばしにしようと圧力
http://goo.gl/bTwMJ
(→経団連、原発比率政府案に「実現可能性に乏しく経済へ悪影響」
政府も決定を9月の代表選以降に引き延ばそうとしています。
http://goo.gl/ZBg0Y
(→原発比率の結論、9月以降にずれ込みも 国家戦略相示唆

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【ゼロの声が強くて困ってる3】
野田め首相の後見人=細川元首相が、拙速な再稼働を進め脱原発を決めなかったことが首相官邸前の抗議行動に繋がっていると批判。
http://goo.gl/hBX1b
(→後見人 細川元首相 弟子にカンカン
消費税増税後の解散も進言。見放している?
http://goo.gl/RaDl4
(→消費税法案成立後の解散進言 野田首相に細川氏

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【ゼロの声が強くて困ってる4】
官邸前の抗議行動や意見聴取会の大きな声が効いています。
富山の意見聴取会でも原発ゼロ%が半数以上
無視できないほどにたくさんの「ゼロの意見」を意見聴取会に集め、どんどんパブリックコメントを出しましょう。
http://goo.gl/BJ2wX
(→12人が持論繰り返す 富山で原発比率意見聴取会

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【ゼロの声が強くて困ってる5】
国会事故調の黒川委員長を国会に招致しようという動きも、過去の責任を問われる自民党が反対し、また再稼働に悪影響があるとして民主党も同調しています。
国会が設置した事故調査委員会なのに、その結果を国会が審議しないのは何?
事実が露見するのを恐れてている?
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「朝日新聞」7月29日によると
意見聴取会(過去6会場)での意見表明希望者数は、
0%        793人(71%)
15%       127人(11% 
20~25%    193人(17%)
以外         14人(1%)
とのこと。
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(21) 「第1章 ショック博士の拷問実験室」(その1)

東京 北の丸公園 2012-07-19
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第一部 ふたりのショック博士 - 研究と開発
空っぽになるまで君を絞り上げてやる、それからわれわれを、その跡に充填するのだ
- ジョージ・オーウェル 『一九八四年』(新庄哲夫訳)

産業革命は、かつての分離派教徒の心を燃え上がらせたのと同様に過激で柄端なす命の始まり にすぎなかった。だがそれは極度に唯物主義的であり(中略)際限のない最の物的商品があれ  ば、あらゆる人間の問題は解決できると信じるものであった。
- カール・ポラニー『大転換』

第1章 ショック博士の拷問実験室
- ユーイン・キヤメロン、CIA、そして人間の心を消去し、作り変えるための狂気じみた探究 -
彼らの脳は、何でも書き込むことのできる白紙の状態だと思われた。
- シリル・J・C・ケネディ博士とデイヴィツド・アンケル博士、電気ショック治療法の利点について (一九四八年)

私はいわゆる「電気屠殺」を見学するために食肉処理場を訪れた。一二五ボルトの電流を流した 金属製の大きなはさみが豚のこめかみに押しつけられると、豚は瞬時に意識を失って体を硬直さ せ、その数秒後に実験用の犬に見られるのと同じけいれんが起きる。このてんかん性昏睡の間 に、作業員が難なく包丁で豚の首を切り裂き、血抜きをする。
- 精神科医ウーゴ・ツェルレッティ、電気ショック療法(電気けいれん療法)を「発明」した経緯に ついて(一九五四年)

ゲイル・カストナー(に面会する本当の理由)
「私はショックに関する本を書いています。戦争やテロ攻撃やクーデターや自然災害などが、いかに国家にショックを与えるかについてです。
そしてこの第一のショックが引き起こす恐怖や混乱に乗じた企業や政治家が、今度は経済的ショック療法によって国家に二度目のショックを与え、さらにこうしたショック政治に果敢に抵抗しようとした人々が、警察や軍、刑務所の尋問官などによって三度目のショックを与えられるという、そのメカニズムを探っているのです。
私があなたの話を聞きたいのは、私の推測する限り、あなたはもっとも大きなショックを与えられた一人だからです。電気ショック療法(ECT)をはじめとする”特殊な尋問方法”を使った米中央情報局(CIA)の秘密実験を生き延びた、数少ない生存者の一人だからです。そして一九五〇年代にマギル大学であなたに対して行なわれた研究が、現在ではグアンタナモ・ベイの米軍基地やアブグレイプの刑務所で応用されていると考えられる理由が十分あるのです」

・・・モントリオールの陰うつな老人ホームにゲイル・カストナーを訪ねた。・・・

・・・もう半世紀近く前にカストナーに電気ショックをはじめとするさまざまな拷問を与え、すでに他界して数十年も経つ精神科医、ユーイン・キャメロン博士その人である。「昨晩はあの”化け物”が二回も出てきたんです」と、彼女は私が部屋に入るとすぐに言った。・・・

成人してからの人生を通じて、カストナーの頭脳は機能不全の状態だった。・・・
・・・二〇代から三〇代にかけて、彼女はうつ病と薬物依存症に悩まされ、時にそれが重症化して入院し、昏睡状態が続くこともあった。こうしたことがたび重なるにつれて彼女は家族にも見放され、孤独に身をやつす。ついには、スーパーのゴミ捨て場から食べ物をあさって生きるしかない状況に追い込まれた。
・・・カストナーは双子の妹ゼラとよく言い合いになった。ゼラによれば、ゲイル〔カストナー〕は以前、もっと病が重く、ゼラが面倒を見なければならなかったという。「あんたのおかげで、どんなひどい目に遭ったことか」とゼラは言う。「居間の床でおしっこはするわ、指しゃぶりをして赤ちゃん言葉で話すわ、私の赤ん坊の哺乳瓶を欲しがるわ、とんでもないことばかりしてた。私はそれを全部、耐えなきゃならなかったんだから!」。・・・

四〇代の後半、カストナーはジェイコブという男性と恋愛関係になった。彼女はジェイコブを「運命の人」と呼ぶ。ジェイコブはホロコーストの生存者で、やはり記憶とその喪失という問題に強い関心を持っていた。ジェイコブが死んでもう一〇年以上経つが、彼はカストナーの記憶に説明のつかない欠落があることにひどくこだわった。「何か理由があるはずだ」と彼は言った。「きっと何か理由がある」

一九九二年のこと、街を歩いていた二人が新聞スタンドの前を通りかかったとき、大きな見出しが目に入った。「洗脳実験 犠牲者補償へ」という文字に惹かれてカストナーが記事に目を走らせると、「赤ちゃん言葉」「記憶障害」「失禁」などという言葉がすぐに目に飛び込んできた。
「ジェイコブに「この新聞買って」と言いました」。近くのコーヒーショップに入って記事を読むと、そこには驚愕すべき事実が書かれていた。

CIAの依頼による人体実験
一九五〇年代にCIAの依頼を受けたカナダ、モントリオールの精神科医が、患者を実験台にして常軌を逸した実験を行なったというのだ。
患者は何週間も眠らされて隔離されたのち、強力な電気ショックを何度も与えられたうえ、LSDやPCP(通称エンジェルダスト)などの幻覚剤を混合した実験的薬物を大量に授与された。これによって患者は言語習得前の幼児のような状態に退行したという。
この実験はマギル大学付属アラン記念研究所で、所長であるユーイン・キャメロン博士の指揮のもとに行なわれた。

七〇年代後半、CIAがこの実験に資金を出していたことが情報公開法に基づく請求によって明るみに出て、アメリカ上院の公聴会が何度も開催された。
キャメロンの元患者ら九人が団結し、CIAと、同じくキャメロンに研究費を提供したカナダ政府を相手取って訴訟を起こした。
裁判は長引いたが、患者側の弁護団は実験があらゆる医療倫理基準に違反すると主張し続けた。彼らはもともと軽い精神症状(産後うつや不安神経症、なかには夫婦間の問題の相談という人までいた)を訴えてキャメロン医師のもとを訪れたのだったが、本人には何も知らされず、承諾もなしに、人間の心をいかにコントロールするかに関するCIAの研究のモルモットにされてしまったのだ。
一九八八年、CIAは和解に応じ、九人の原告に対して総額七五万ドルの賠償金を支払うことに同意した。これは当時のCIAにとって、過去に類を見ない巨額の和解金だった。
四年後、カナダ政府は実験に関わった患者一人ひとりに対して一〇万ドルを支払うことに同意した。

ショック療法の共通点
キャメロンは今日のアメリカの持つ拷問技術の開発に中心的役割を果たしただけではない。
彼の行なった実験は、惨事便乗型資本主義の根底にある論理もユニークな形で浮き彫りにしている。
大規模な災害 - 巨大な破壊 - だけが「改革」のための下地を作るとの考えに立つ自由市場経済学者たちと同様キャメロンは人間の脳に一連のショックを与えることによって、欠陥のある心を消去し、白紙状態になったところに新しい人格を再形成できると考えたのである。

カストナーはそれまで、CIAとマギル大学との関係が問題になっていることについてぼんやりとは知っていたが、気にかけていなかった。自分はアラン記念研究所となんの関係もないと思っていたからだ。けれども今、ジェイコブと二人で新聞を読みながら、彼女は元患者たちが記憶障害や退行現象を訴えていることに強く関心を惹かれた。「この人たちは私と同じ経験をしたにちがいないって思ったんです。それでジェイコブに言いました - 「原因はこれだったんだわ」と」
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応和4年/康保1年(964)~康保3年(966) 源高明「西宮記」 藤原道長誕生 叡山中興の祖良源が天台座主となる

東京 北の丸公園 2012-07-26
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応和4年/康保元年(964)
この頃、源高明「西宮記」が成立する。
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・この年、毎年一定額の不動穀貯蓄を命じる。
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・この頃、『池亭記』の作者慶滋保胤、空也の布教とその事業を支持して勧学会という小集団をつくった。
慶滋保胤は空也に敬慕の情を寄せた一人。本姓は賀茂(かも)氏。年少の頃に文章博士菅原文時を師として学び、文章をもって頭角を現した。官途について大内記になったが、厭世の情がつのり、隠遁を思うこと切実であった。
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4月29日
・皇后藤原安子(38)、選子(せんし)内親王を出産後間もなく主殿寮にて没。
村上天皇は、皇后没後は同母妹の登子(とうし、天皇の兄重明親王の妃、重明は957年に没)を宮中に入れ、登華殿を局としてこれを寵愛した。
天皇は安子の猛烈なヒステリーに悩まされたが、その死は彼にとって大きな傷手。
安子は天皇のそば近くにあって、常に彼を助けていた。
安子の子の冷泉・円融天皇の即位が九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。
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7月10日
・康保に改元。
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保2年(965)
4月
右大臣藤原顕忠、没。
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康保3年(966)
・この年、藤原道長が誕生
父藤原兼家(38歳、従四位下左京大夫)、母摂津守藤原中正(なかまさ)娘の3男。
母同兄姉に、道隆、道兼、超子(ちようし、冷泉天皇女御、三条天皇母)、詮子(せんし、円融天皇女御、一条天皇母)、異母兄に『蜻蛉日記』の作者である藤原倫寧(ともやす)娘を母とする道綱ら。

『大鏡』にある逸話:
兼家が息子たちを集め、従兄弟にあたる藤原公任(きんとう)を誉めて「わが息子たちは公任の影もふむことができそうもないな」と言ったところ、道長だけが「影ではなく、面をふんでやる」と言ったとある。
また、花山天皇が5月の雨の降る夜に、殿上の間で管弦の遊びを行い、その後肝試しを行うことになり、道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠(ぬりごめ)、道長は大極殿に行くことになった。道隆、道兼は途中で帰って来てしまったが、道長だけは大極殿に行き、高御座の南の柱下を削って証拠として持って帰って来たという。
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1月
・大納言源高明、右大臣となる。
村上天皇の信頼厚く、実頼との関係も良かった。源氏の最大のホープ。
しかし、故師輔の同母弟権大納言師尹・中納言師氏、長子の参議伊尹らはこの人事に不満。
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4月
・これ以後「新儀式」が成立する。
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8月
良源が天台座主となる。

叡山中興の祖といわれる慈恵(じえ)大師良源
近江国浅井郡の生まれ。早い時期に比叡山に登って出家。
承平7年(937)興福寺維摩会で南都と北嶺の非公式の論義が行なわれ、そこで興福寺の義昭と対諭して名声をあげた。この緑で藤原忠平の知遇をえ、さらに師輔に認められ、師輔の娘安子の皇子誕生の祈祷を良源が行ない、摂関家の帰依をえた。

天暦3年(949)、横川に隠棲したが、天暦8年、師輔は横川に法華三昧堂を建立し、その長明灯の点火式に、伊尹とともに横川に登った。
「この三昧のカで一家が栄え、国王以下三公九卿が栄えるように。この願が叶えば火打石を三度打つ間に火がつくように」と誓って師輔が火を打つと一度で発火したという。
これがきっかけで、貴族の援助で山上に建物が次々と建てられるようになり、また師輔は自分の息子の尋禅を僧として良源の弟子とし、尋禅を通して荘園を寄進した。

康保元年(964)、内供奉十禅師(ないぐぶじゆぜんじ)となり、同3年、55歳にして第18代天台座主となる。
その直後に叡山は大火にあうが、焼失した東塔の復興をはじめ、西塔や横川も整備したのは、師輔の荘園など公家の経済力によるところが大きかった。
比叡山の貴族化と呼ばれる現象は良源によってもたらされた。

良源は応和の宗論で有名になったように学僧であり、論義にすぐれていた。
叡山では毎年6月4日の最澄の忌日中心に法華会、6月会(法華八講の一)が行なわれていたが、ここに広学竪義(こうがくりゆうぎ)1名をおくことを求め、康保3年末に朝廷から裁可された。広学は、天台教理を極めるために広く内外の典籍にわたって勉学することであり、竪義とは、その蘊蓄を傾けて設問に対して義を立てる役である。


良源の弟子には、四哲といわれる尋禅・源信・覚運・覚超という学僧が出て、良源が開いた横川は、源信はじめ弟子たちの本拠地となり、天台浄土教の聖地となった。
寛和元年(985)正月3日、74四歳で没。
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9月9日
・京、畿内の人民に賑給を行う。被害の大きいものには、当年の調庸を停止する。(『日本紀略』)
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2012年7月28日土曜日

恒例の町内会なつまつり2012

恒例の町内会なつまつり2012
今日は第一日目

▼子どもたちのポスター
▼開始時間すぐ
各屋台に長蛇の列
▼ドラえもん音頭というのがあるらしい
▼金魚すくい
▼最後まで列が途切れない大繁盛の焼き鳥
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井上陽水「夏まつり」

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元亀2年(1571)1月~2月 木下藤吉郎、小谷城の支城佐和山城磯野員昌を調略、開城 [信長38歳]

東京 北の丸公園 2012-07-24
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元亀2年(1571)
この年
信長38歳、光秀44歳、秀吉36歳、家30歳
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・光秀、義昭に暇を乞う。坂本城築城に着手。
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・毛利氏の意を受けた小早川水軍(来島村上水軍も加わる)、村上武吉の居城能島を攻撃。
説得により、武吉は以後毛利氏(小早川隆景)に忠節を尽くすようになる。
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・朝倉義景、獺谷道(柳ヶ瀬~刀根・池河内・獺河内を経由する山間交通路)により敦賀郡東浦へ塩を買付けに来る近江商人達に活動を許可。
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・初頭、クリミアのタタール人10万、南ロシアに侵入。イヴァン4世(雷帝)は後退。
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・第7回フランス改革派教会会議、「ラ・ロシェルの信仰告白」採択。
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・スペイン、モリスコの反乱、鎮圧。
改宗イスラム教徒(モリスコ)に対する実質的なキリスト教徒化を目指したアラビア語やイスラム的風俗・習慣を禁圧する措置に反発したもの。
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・スペイン、メキシコ市南方のアカプルコ港とマニラ港を結ぶ貿易が始まる(と伝えられる)。
マニラからメキシコのアカプルコへ金銀財宝や香料、絹織物、陶磁器などを積んでの直線の航路を開き、直行で貨物運搬用帆船(スパニッシュ・ガレオン船)を東風に乗せ約4ヶ月で完走。
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・ポルトガル、ダミアン・デ・ゴイス、異端審問所の告発を受け処刑。
欧州各地を遍歴してルターやエラスムスと親交を結び、帰国後はジョアン3世に仕えて国益擁護に尽力。
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・エリザベス1世、39ヶ条を制定。1563年~布告まで8年。英国国教会確立。
宗教論争による対立を避ける為、女王の名の下に全聖職者が従うよう命ぜられる。
人は信仰によってのみ義とされると説き、聖書を唯一の根拠としている点でカルヴァン派に近いものがあるが、白い制服の着用や祈祷の時跪くなどカトリック的な要素も多い。
これにより英国国教会は国王を頂点に、ルター派の構造に似た大主教・主教・副主教・司祭長・司祭というヒエラルキーを確立。議会での激しい反対、布告迄8年を要す。
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1月
この月
・家康(30)、従五位下侍従に叙任。
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1月1日
・武田信玄3万7千、三島集結。駿河興国寺を奇襲、失敗。
3日、駿河深沢城(御殿場市)攻略も失敗、帰陣。
10日、北條氏政、小田原を出陣し深沢城を後詰め。
16日、深沢城攻略。信玄、矢文をもって開城を促し、北條綱成、深沢城を開城。信玄は、金堀衆を動員して城内への坑道を掘り進める。
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1月2日
・信長、北国と大坂との交通途絶(姉川封鎖)を横山城木下藤吉郎に指示。北陸の朝倉義景や越前・加賀一向一揆と本願寺との連絡を断つ。


「北国より大坂へ通路の諸商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻までの間、海陸共堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの件、件の如し。正月二日 信長(朱印) 木下藤吉郎とのへ」(神田氏所蔵文書・「顕如上人伝」)。


北国から大坂に往還する商人などを、北近江の姉川と朝妻の間で止め、尋問して不審な者は、「成敗」(殺害)せよ、と命じる。書状で「商人」とあるが、商人に扮して大坂に向かう門徒が多くいたことがわかる。
この通行封鎖はかなり厳重で、奈良の大乗院門跡の尋憲の使者も止められたので、やむなく引き返したことが『尋憲記』に記されている。
また、朝倉義景から三好義継の使者になった僧侶が捕らえられ、京都の一条戻橋で火炙りに処されたという(『年代記抄節』)。
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1月4日
・松永久秀(62)、大和多聞山城へ帰還。
5日多聞山城に於いて大和国衆の礼を受ける。
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2月
・宇喜多直家6千、浅口郡鴨方の毛利方杉山城(備中守護10代、細川下野通菫)を攻撃。
細川は幸山城を頼り落ちる。次に、酒津城(倉敷市酒津)攻撃。幸山城攻撃、降伏。
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2月1日
・信長、秀吉に小谷城に対峙する砦普請の資材を与える(織田文書)。
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2月2日
・フランス、オランジュで2週間にわたりユグノー虐殺。
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2月4日
・シャティヨン枢機卿(コリニー提督兄)、亡命先ロンドンで客死(毒殺)。
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2月5日
・細川幽斎、千句連歌会を勝持寺で催す(大原野千句)。
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2月16日
・信玄、府中を出立。
24日、武田勢、遠江乱入。大井川を渡り小内能満寺に城塞構築。
この頃、勝頼は信玄後継者として、信濃高遠城から甲斐躑躅ヶ崎館に入る。

信玄の遠江・三河侵攻作戦
駿河深沢城後詰めの北条勢と深沢城を攻略した武田勢、駿河三枚橋(沼津市)で衝突。
駿河の支配圏は武田氏に移ってゆくが、以降、遠江徳川領に向う。
信長の攻勢に苦戦する本願寺や長島一向一揆の援軍要請もある。
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2月24日
・フランス、コリニー、アントルモン夫人(ドーフィネ地方の貴婦人)と2度目の結婚。
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2月24日
・木下藤吉郎、小谷城の支城佐和山城磯野員昌(かずまさ)、調略、開城、高島郡へ退去。
丹羽長秀、佐和山城入り。
前後して浅井方太屋城・朝妻城、降伏。

丹羽長秀、この時より犬上郡辺りの在地領主(高宮右京亮・大岩重政ら)を与力として摩下に置く。
建部寿徳も、元亀3年8月と思われる中川重政追放後、長秀に属す。また、石崎高俊は、坂田郡の在ながら長秀に付属(「中川文書」)。尚、この年9月19日、高宮右京亮は丹羽長秀・河尻秀隆に佐和山で誘殺。一揆扇動の咎による。

■この時点での織田軍の近江守備態勢:
①宇佐山城(のち坂本城):明智光秀、
②永原城:佐久間信盛、
③安土城:中川重政、
④長光寺城:柴田勝家、
⑤佐和山城:丹羽長秀、
⑥横山城:木下秀吉

■信長を取り巻く諸勢力の状況
(a)信長の美濃・近江進出により、そこに多くの所領を持つ山門(延暦寺)は経済的な圧迫を受け、山門領の回復と信長の近江支配とは両立しえないことが明白となる。
(b)朝倉氏は義景の父の孝景の代から比叡山に仏堂を建立するなど山門・日吉社との結びつきが強く、義景もこれを重んじる。
(c)江北の浅井氏は、一旦は信長と連盟するが、信長の江南制圧・六角氏追放を見て、信長の越前侵攻に及び態度を翻す。
(d)江南各地の一揆や、坂田・浅井・伊香三郡の本願寺派の中心寺院の江北10ヶ寺を代表とする一向一揆は、信長の支配に大きな危機感を抱き鋭く反抗。
これら近江の諸勢力と朝倉氏との間に反信長連合関係が形成され、信長との対立が続き、石山本願寺・三好三人衆・武田信玄などによる大きな反信長連合の環へと拡がっていく。

磯野員昌は、のちに信長に仕えるが、天正6年(1578)2月、人質に出した母親を見殺しにして逐電。
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2月25日
・信長、樋口直房・秀吉へ、佐和山城「おさへ」砦を解体した資材を小谷城攻囲砦普請の資材とすること、この旨を佐和山守将丹羽長秀に通達したので樋口直房・秀吉が徹底した管理をするよう命令(「織田文書」)。
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2月28日
・信長、小早川隆景と大友義鎮へ「芸豊間無事」は義昭「上意」の望むところで、久我晴通が豊後へ下向、聖護院道澄が安芸へ下向すると通知、馳走を促す。
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応和3年(963)8月 応和の宗論 空也の金字の大般若経1部600巻の書写が終る

東京 北の丸公園 2012-07-26
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応和3年(963)
2月
・この月、皇太子憲平親王(14歳)は紫宸殿で元服式をあげた。
その夜、かねてから選ばれていた故朱雀天皇の皇女三品昌子(しようし)内親王が妃にたてられた。母は保明(やすあきら)親王(醍醐の皇太子、923年に没)の女。
村上が、皇太子の正妃に近親の内親王を選んだところに、どうにか親政を通してきた天皇の意向が示されている。次代のために、藤原氏を第一とせず、内親王に重点をおいた。
皇后安子、実頼・師尹、故師輔の息伊尹・兼通らは、おそちくこの措置を歓迎しなかったであろう。
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4月
斎院禊祭料を別納させる。
賀茂祭・御禊(ごけい)の斎院の料物を調庸など諸国から直納させ、受領功過定に禊祭料勘文が提出され審議の対象となった。
10世紀後半、きらびやかな賀茂祭や御禊行列が行なわれるのは、上卿の実資などの努力もあったが、こうした財政上の裏付けがあって可能になった。
また11世紀初頭までに、大炊寮・修理職・穀倉院などでも料物が納入され、功過定で審査されるようになった。
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8月21日
応和の宗論(しゆうろん)が行われる。
この頃、宮中で追善供養として盛んになった法華八講でも、法華経についての論義が行なわれた。
この日、清涼殿において法華経8巻に開巻・結巻を加えた10巻を、朝夕2座5日間に分けて講ずる法華十講を行なった。
この時、天台と南都の僧各10が選抜され、入れ替わり導師(経典を解釈する)と問者になって十番の論義を行なった。
この 宗論で、2日夕座、3日朝座と5日夕座とに大活躍したのが、のちに天台座主となる良源である。
この宗論は、良源が根回しして、法相宗が諸宗の長者であることを不満として諸宗の深浅を決しようと開催に至った。勝敗はつかなかったようだが、論義の場を僧侶の側も利用している。
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8月23日
・この月、空也の金字の大般若経1部600巻の書写が完了
そして8月23日、空也は、鴨河東岸の洪水で荒らされた川原で、それの供養会を行なった。
人々は貴賤を問わず参集し、列席した僧は600人に及び、八坂寺浄蔵(じようぞう、三善清行の息)も姿を見せた。
朝廷はこの日のために銭10貫文を与えた。
左大臣実頼以下の当代一流の貴神をはじめ、天下諸人の結縁(けちえん)する者が多かった。
昼は経(大般若経)を講じ、夜に入ると万灯を点じて衆人の罪を懺悔し、洪水と疫病、飢えに斃れた幾万の亡魂を弔った。
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昭和17年(1942)7月16日 「戦争の被害いよいよ甚しくなれり。・・・江戸時代よりの舊家いづれも税金の負擔に堪えず閉店せし由。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園 2012-07-27
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昭和17年(1942)
7月12日
・七月十二日 日曜日 夜深川を歩す。門前仲町邊森下町邊いづこも草市立ちで賑なり。稲妻頻に閃き雷雨來らむとせしが遂に來らず。電車停電すること再三なり。金兵衛に立寄るに清潭子ひとり盃を傾くるを見る。高濱虚子播磨屋のために脚本北條時宗を執筆せしと云。
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7月13日
七月十三日。晴れて涼し。中河與一その著香妃を贈らる。
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7月14日
七月十四日。晴。木村富子木綿たほるを贈らる。いつぞや拙句を書送りし返禮なるぺし。熱海木戸氏小星來訪。牛酪を贈らる。共に金兵衛に至りて飰す。
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7月15日
七月十五日。半晴。町會の役員來り防空用古樽金七圓、莚一枚四圓ヅゝを取りに來る。高価驚くぺし。晩間金兵衛にて高橋邦氏に逢ふ。歸途烏森の妓家既に送火を焚くを見る。
     送火や日のちゞまるもこの夜から
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7月16日
・七月十六日。晴れて風甚冷なり。暑中不順の冷気今年もまた去年の如くならん歟。夕飯の後淺草公園を歩む。盆の人出おびたゞし。
此日税務署の通知を見るに本年はまた去年よりも多く一回分六百二十三圓四拾銭、一年分にて金弐千四百九拾参圓六拾銭となるなり。余が實収の三分の一は税金として取上げらるるなり。
戦争の被害いよいよ甚しくなれり。世の噂をきくに日本橋通の山形屋淺草堀田原の池田園等江戸時代よりの舊家いづれも税金の負擔に堪えず閉店せし由
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7月17日
七月十七日。陰後に晴。午後土州橋に行く。
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7月18日
七月十八日。晴。蝉聲漸く多し。
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7月19日
七月十九日 日曜日 晴。暑甚しからず。鴎外全集評論の部をよむ。
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消費増税が生む「放漫財政」(日経ビジネス7/30)

消費増税の目的の大きな懸念が広がっている。
それは、「残った財源」を「財政健全化」に充てるのではなく、「大幅な公共投資」に振り向けようとするもの。
シロアリどころか、ハイエナだ。
逆に、財務省がけしかけた財政破綻は、純真な国民を騙す脅迫に過ぎなかったことが露呈したことにもなる。

消費増税:
(1)元来、これは民主党の公約違反。
(2)格差が拡大している状況下での大衆増税。
(3)そして、ここにきての増税目的のインチキ。

「日経ビジネス」7月30日が報じる問題点。

<転載>
消費増税が生む「放漫財政」


社会保障と税の一体改革法案審議が終盤にきた。
消費税収の一部を公共事業に”流用”する動きが広がる。
消費増税が放漫財政につながっていく恐れが出てきた。

17年ぶりの消費税率引き上げが実現に向けて動く中、増税後の税収の使い道を巡って早くも懸念が広がり始めている。
消費税自体は、社会保障のための目的税とするが、税収増によって社会保障費でこれまで借金に頼っていた部分が減るのを当て込み、ほかの予算に使おうという動きに対してだ。


社会保障目的税としての建前は保つものの、社会保障機能の維持のために国債発行を減らし、財政再建に充てるとしていた部分を”流用”することになるとも言えるもの。


社会保障と税の一体改革を動かした民主、自民、公明の3党合意の底流に潜んでいた、3党それぞれの思惑が徐々に表に出てきた格好であり、今後、消費税引き上げなど一体改革関連法案の審議や議論に相当な影響を及ぼすと見られる。


中でも最も大きいのは、防災や減災をテーマにした公共工事の支出の動きだ。
自民党は既に「国土強靭化基本法」案を国会に提出し、公明党も同様の法案を準備。防災・減災目的を理由に両党とも歳出増が党内の大きな流れになっている。


(国土強靭化法を)次の総選挙で勝つための種にしようとしているかのよう」。
自民党のある若手議員はこう言って強く反発するが、それも「党内ではごく少数。異端扱いされている」と嘆く。


しかも、その額は10年間で200兆円とさえ言われる。
自民党自身は「党では決めていない」(林芳正・党政調会長代理)と否定するが、強靭化法案では「当初3年間で計15兆円を投じる」としており、1年当たりではこれだけでも消費税約2%に相当する巨費となる。


公明党の案も同様に10年間で100兆円の防災・減災投資を検討しているとされるが、「放漫財政」の現実味が増している理由はそれだけではない。
民主党幹部も自公両党と、意を同じくし始めてきたためだ。


「公共事業は減らしすぎた」と自民
「消費税引き上げで(従来国債で賄っていた部分に)少し余裕ができる。それは成長に使ってもいいのでは」。
参院で一体改革関連法案の審議が本格化した7月半ば、ある民主党税制調査会幹部はこう漏らした。この民主党幹部は一体改革関連法案策定まで長く、消費税上げによる財政再建を唱えてきたが、6月の3党合意を経て「余裕ができた」と考え始めたようだ。


仮に200兆円としても年間で20兆円。これは総事業費だから、「(国費として支出する)真水は概算で10兆円程度」(ある財務官僚)になると見られるが、それがすべて新たな予算になるのか、従来の公共事業を含むものになるかによっても歳出額は全く変わる。


例えば、2012年度当初予算の公共事業費は約5兆3000億円。これに上乗せするとしても、やはり消費税で約2%分(約5兆円)を回すことになる。


自民党内では1997年度に当初予算で約9兆7000億円あった公共事業費が5兆円へほぼ半減したのを「減らしすぎた」とする声が強く、公明党内にも低年金者への加算などを自党のリードで進めたい思惑がある。


防災や減災は、「国民の反対が出にくい分野」(冒頭の自民党若手議員)であることも影響している。
民主党はそうした自公両党への配慮から消費税引き上げによる税収増の一部を実質的に公共事業に使う方向に転じつつあるのだろう


政府は財政再建の目安となるプライマリーバランス(財政の基礎的収支)の赤字を2015年度に半減、2020年度に黒字化させることを公約としてきた。だが、消費増税分の事実上の流用が拡大すれば、その大幅先送りの可能性が出てくる。(編集委員 田村賢司)
<転載終り>

【関連記事】
安住財務相の盾に使われた増税賛成「朝日」社説。「天声人語」は増税目的を疑問視(大幅な公共投資)。

消費増税(大衆増税)に群がるシロアリ「国土強靭化」


2012年7月27日金曜日

東京 北の丸公園 夏の陽射しに燃えるやまもみじ

今日は多分今年最高の暑さだったと思う。

北の丸公園のもみじ林
夏の強烈な陽射しに照らされて、やまもみじが燃えている。
写真は7月27日お昼のもの。



東北電力社長 「感覚のずれ反省」

NHKニュース2012年(平成24年)7月27日[金曜日]
東北電力社長 “感覚のずれ反省”
7月27日 20時32分
東北電力の海輪誠社長は、将来の原発の比率などの意見を聞く政府の聴取会で幹部社員が発表者として意見を述べていたことについて、「感覚のずれがあったことは、真摯(しんし)に反省しなければならない」と陳謝しました。
今月、仙台市で開かれた政府の聴取会では、東北電力の幹部社員が「会社の考え方を述べます」としたうえで、2030年時点での原発の比率について20%から25%程度にするとの選択肢を選び、「東北の復興には安い電気が必要だ」などと述べました。
この幹部社員は意見聴取会に参加することを事前に会社に相談していましたが、東北電力の海輪社長は27日の記者会見で、この幹部社員が聴取会の場で発言することを直前、聞いていたことを初めて明らかにしました。
海輪社長は「個人として参加しながら、会社として組織的な対応をしているのではないかという疑念を抱かせたことは配慮が足りなかったと受け止めている」と述べました。
そのうえで海輪社長は、「幹部社員の発言をきっかけに聴取会の運営方法の見直しなどに至った。世の中が電力会社の社員の参加をどう見るかについて感覚のずれがあったことは、真摯(しんし)に反省しなければならない」と陳謝しました。
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【関連記事】
中部電力課長、本音を発言して「不適切」「配慮を欠く」と会社から注意され、更に会社はこれを謝罪。でも、事実認識誤りの謝罪ではない。

次は高浜原発再稼動とブチ上げた関電八木社長、一転謝罪。「発言が不十分だった」


天徳5年/応和元年(961)~応和2年(962) 「東西の二京を歴く見るに、西京は人家漸くに稀にして、殆んど幽墟に幾し。」(慶滋保胤『池亭記』)

東京 北の丸公園 2012-07-09
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天徳5年/応和元年(961)
2月16日
・「皇居火灾並に辛酉革命の御慎」によって、応和に改元。
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11月
・村上天皇は、冷泉院(冷然院を改称、然の字は火に関係があり、それをさけた)から新造の内裏に移った。
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応和2年(962)
この頃
度重なる洪水によって西京(右京)の大半の地域は年ごとにさびれていった


慶滋保胤(よししげのやすたね)は、天元5年(982)に執筆した『池亭記』冒頭で、
「予二十余年(この年の頃)以来、東西の二京を歴(あまね)く見るに、西京は人家漸くに稀にして、殆んど幽墟に幾(ちか)し。人は去ることありて来ることなく、屋は壊(やぶ)るることありて造ることなし、その移徒(いし)するに処なく、賤貧に憚ることなき者はこれをれり。・・・」
と述べている。

これは、この年頃(10世紀後半)の西京の実状を忠実に描いたものと考えられる。
梅雨期の出水は西京の低湿地に長く汚水を溜め、そこにさまざまの疫病が発生し、蔓延した。
官人あるいは地方民の都への出入りが激しく、流行病は京に運ばれて来て、またここから諸国に伝播もした。悪疫の淵源は、平安京であった。

「東京(ひがしのきよう)四条以北、乾・艮の二方(北西・東北)は、人々貴賤となく、多く群聚する所なり(水難がないので)。高き家は門を比(なら)べ堂を連ね、少さき屋は壁を隔て簷(のき)を接す。東隣に火災有れば、西隣余炎(よえん)を免れず。南宅に盗賊有れば、北宅流矢を避け難し。南阮(なんげん、院)は貧しく北阮は富めり。富める者は未だ必ずしも徳あらず、貧しき者は亦猶恥あり。又勢家(せいか)に近づき微身(びしん)を容(い)るる者は、屋破れたりと雖も葺(ふ)くことを得ず、垣壊れたりと雖も築くことを得ず。楽あれど大きにロを開きて咲(わら)うこと能わず、(かなしび)哀あれど高く声を揚げて哭くこと能わず。進退懼あり(勢家をおそれはばかる)、心神安からず。・・・」


東京の東北・北西には富貴と貧賤が雑居していた
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次は高浜原発再稼動とブチ上げた関電八木社長、一転謝罪。「発言が不十分だった」

■関電八木社長、次は高浜原発を稼動、「電力需給ではなく・・・」
産経新聞
大飯4号機フル稼働 関電社長「次は高浜」
2012年7月25日(水)15:17
関西電力大飯原子力発電所4号機(福井県おおい町)が25日午前1時にフル稼働したのを受けて、関電の八木誠社長は同日、おおい町で記者団に対し、「次は高浜3、4号機を最優先で再稼働させてもらいたい」とし、高浜原発3、4号機(同県高浜町)の再稼働に意欲を示した。
また、「高浜3、4号機は出力(いずれも87万キロワット)が大きく、大飯3、4号機と同じツインプラントだ。安全性を確保されたプラントは動かせてもらいたい」と語った。
一方、大飯4号機のフル稼働で、牧野聖修経済産業副大臣は「関西圏へ安定した電力を送れるようになり、ほっとしている」と語った。
また、特別監視態勢メンバー約50人に訓示し、「監視態勢の経験は、情報共有で問題のあった福島第1原発事故への処方箋になりえる」と振り返った。

東京新聞
「次は高浜3、4号機」 再稼働で関電社長    
2012年7月25日 夕刊 
 関西電力大飯原発4号機(福井県おおい町)がフル稼働に達したのに伴い、関西電力の八木誠社長は二十五日、次に再稼働させる原発について「高浜3、4号機が最有力」と発言した。時期は明言しないものの「(国には)できるだけ審査を早くしてもらいたい」とも口にし、電力会社トップの前のめりな姿勢を見せた。関電は、大飯原発3、4号機を含め八つの原発の安全評価(ストレステスト)の一次評価結果を経済産業省原子力安全・保安院に提出している。
 おおい町で取材に応じた八木社長は「電力需給ではなく、わが国のエネルギーセキュリティーを考え、安全性を確認できたプラントはできるだけ早く動かしていきたい」と強調。出力規模などから次の再稼働は、高浜3、4号機が有力と判断したとみられる。
 再稼働に慎重な立場を取ってきた、おおい町の旅館業の五十代の男性は「このまま福井県内の原発は、なし崩し的に再稼働していくのではないか」と心配そうに話した。


■関電森会長、社長を擁護
朝日新聞
「再稼働、次は高浜」発言、関電・森会長が擁護
2012年7月27日(金)00:03
枝野幸男経済産業相と関西電力の間で、原発の再稼働を巡る「舌戦」が激しくなっている。発端は25日、八木誠社長が関電の次の再稼働候補として高浜原発3、4号機(福井県高浜町)を挙げたのに対し、枝野経産相が反発。26日には森詳介会長が「社長の発言は真っ当だ」と擁護した。
森会長はこの日、東京都内で会合に出席した後、報道陣に「社長は何もおかしなことは言っていない。安全が確認されたら高浜3、4号を運転したいのは当たり前の話だ」と述べ、関電としては次の再稼働候補になるとの考えを強調した。
枝野経産相が不快感を示したことについて、森会長は「安全が確認された上で、と社長は発言したが、これ抜きの情報がいろいろな人に入り、反応が出た。国が定めた安全確認のルールを踏むのは当然だ」と説明した。


■枝野経産相、キレる
枝野経産相、改めて苦言=高浜原発「最有力」発言で
2012年7月27日(金)10:34
枝野幸男経済産業相は27日の閣議後会見で、八木誠関西電力社長が大飯原発3、4号機(福井県おおい町)に続く再稼働で高浜原発3、4号機(同県高浜町)が「最有力」と発言したことについて「原子力に対する国民の不信を認識して行動することがより重要だ。どう受け取られるのかをもう少し考えてほしい」と改めて苦言を呈した。
枝野経産相は「安全性の確認が明らかになる前に、次の再稼働を議論できないことは当然」と強調した。同相は25日にも八木社長の発言を「大変不快だ」と批判したが、その後、関電の森詳介会長が「安全が確認されたら高浜を運転したいというのは当たり前」と擁護していた。 
[時事通信社]


■関電八木社長、謝罪。「発言が不十分だった」
関電の高浜再稼働発言で社長謝罪
誤解招いたこと陳謝=高浜原発「最有力」発言で―八木関電社長
(時事通信) 2012年07月27日 18時06分
関西電力の八木誠社長は27日、大飯原発3、4号機(福井県おおい町)に続く原発の再稼働で「高浜原発3、4号機(同県高浜町)が最有力」と発言したことについて「思いが十分伝わらず、誤解を招いたことは申し訳ない」と述べ、自身の発言を発端とする混乱を陳謝した。福井県の西川一誠知事と県庁で会談した後、記者団に語った。
八木社長は「最有力」発言に関し、「ストレステスト(耐性評価)を提出した原発の中で、(高浜3、4号機の)審査が最も進んでいるという背景を踏まえた発言だった」と釈明。その上で「安全性の確認があくまで前提。審査には真摯(しんし)に対応したい」として、安全対策に努め、新たに発足する原子力規制委員会の判断に従う姿勢を強調した。 
[時事通信社]

毎日新聞
関電社長:高浜再稼働発言を陳謝 「誤解招いた」
毎日新聞 2012年07月27日 19時30分(最終更新 07月27日 19時55分)
関西電力の八木誠社長が今月25日、原発再稼働に関し「高浜3、4号が最有力」などと発言し、枝野幸男経済産業相が不快感を示していた問題で、八木社長は27日、福井市で報道陣に対し「思いが十分お伝えできず誤解を招き、誠に申し訳なく思う」と陳謝した。
八木社長の発言については枝野経産相が「大変不快な発言だ。原子力規制委員会がどういう手順で判断するかが重要で、事業者としては見守るのが姿勢だ」と批判していた。同日、陳謝した八木社長は「プラントの安全性評価が前提で、安全性確認については保安院、新規制庁に真摯(しんし)に対応していく。私の発言が不十分だった」と釈明した。【横山三加子、佐藤慶】
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考え方が間違っていたと謝罪するのではなく、発言が不十分だったと。
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ひと昔前ならば、関電社長の言うことに異を唱える者などなかった。
関電サマが現れるところ、空気は全て関電サマの空気となった。

枝野は言う。
「どう受け取られるのかをもう少し考えてほしい。」
(要は、空気を読めよ、と) ← 認識を改めよ、とは言わない。

そんな訓練したことないヨネ。
だから、「値上げは権利である」なんて胸張って言ってしまう某大社長も出てくる。
先日、ハチャメチャな論理展開を得意げに披露した中電の課長さんも、そんなとこだ。

なにしろ、今まで電力サンに異を唱える者などいなかったンダ。
ひとえに、これ原発マネーのチカラなり。
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2012年7月26日木曜日

消費増税(大衆増税)に群がるシロアリ「国土強靭化」

「朝日新聞」7月26日

4面「発言録」
◆山谷えり子・自民党参院議員
消費増税法案の景気条項で、防災、減災で施策を検討すると。
政府の成長戦略は頼りない。
自民党は「国土強靭化」をまとめた。
橋や道路や港や下水道、さまざまなインフラが更新期を迎えている。
いや、ばらまきではありませんよ。
必要なものを造って技術革新も進む。
そうしたインフラをセットで輸出し、新たな富を生む。
(参院消費増税関連特別委員会で)
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シロアリかハイエナか。
時計の針を逆戻りさせる者たちよ。
社会保障との一体改革とか財政再建が聞いてあきれる。
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同じ4面
■「強靭化」前原氏が批判
民主党の前原誠司政調会長は25日、東京都内のホテルで講演し、
自民党が今国会に提出した国土強靭化基本法案について、
「また昔の政治に逆戻りするのか。
公共事業をばらまく先祖返りだけは絶対に認めてはならない」
と強く批判した。
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アナタは、八ッ場ダムの時も、初めはそう言ってましたね。
もう化けの皮はとっくに剥がれた。
ポーズだけ批判は枚挙にいとまなし。


そもそも、増税は公約違反で、
かつ、弱者にムチ打つ大衆増税。
おまけに社会保障は置き去り(後期高齢者医療、年金・・・)。
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東京 内堀通りのエンジュ(槐)の花が咲き始めた

暑い熱い日が続く。

そろそろ内堀通りのエンジュの花が咲いてきた。
千代田区役所の辺りが一番見事だと思う。


「槐」と書いてエンジュ。
中国では尊貴の木とされ、学問と権威のシンボル。
中国の官位の最高は「槐位(かいい)」と呼ばれる。

日本史の一級資料である内大臣中山忠親の日記は「山槐記」と名付けられている。
「中山」の「山」と、大臣の唐名「槐門」から取ったそうだ。

▼写真は今日(7月26日)のもの
朝の8時45分頃





▼もうこの内堀通りを歩くだけで、暑さでヘトヘトになる。
向こうに九段会館


放射能汚染 宮城県 伊豆沼・内沼のオオクチバス セシウム基準値超

毎日JP
東日本大震災:オオクチバスからセシウム検出−−伊豆沼 /宮城
毎日新聞 2012年07月26日 地方版
 県伊豆沼・内沼環境保全財団は、東京電力福島第1原発事故による両沼の動植物などの放射性物質濃度の測定結果を、「伊豆沼・内沼研究報告第6号」で発表した。
 測定対象物は主に今年3月採取。
 魚ではオオクチバス成魚の放射性セシウムが1キログラム当たり平均109・5ベクレルで、ギンブナの同63・5ベクレルを上回り、食物連鎖で肉食性のオオクチバスで生物濃縮が進んだことをうかがわせた。原発事故以前に捕まえた魚からは放射性物質は検出されなかった。
 岸辺のヨシでは同67・5ベクレルだったが、ヨシを燃やした焼却灰では同1050ベクレルだった。
 同財団はこの結果を両沼の環境保全活動に生かすという。【小原博人】

天徳4年(960)9月23日 平安遷都以来初めて内裏が焼亡、神鏡が焼損

東京 北の丸公園 2012-07-09
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天徳4年(960)
9月23日
・平安遷都以来初めて内裏が焼亡し、神鏡が焼損する。
村上天皇は後院(離宮)である冷泉院に移る。

23日夜、村上天皇は、侍臣らの走り叫ぶ声に驚いて起き、その理由を問う。
少納言兼家(故師輔の3男)が駆けつけて、火は左兵衛陣を焼いているが、勢いが激しく消し止めることができない旨を奏上した。
天皇は、急ぎ衣冠をつけて南殿の庭にでた。
左近衛中将源重光(醍醐天皇の孫。代明(しろあきら)親王の長子、母は醍醐朝未年の右大臣定方の女)は、天皇の剣・璽の筥を持って村上に従った。
彼は侍臣に命じて内侍所の太刀を取りに行かせたが、猛火は温明殿(うんめいでん)に燃え移り、それは不可能で、神鏡や大刀契(だいとけい)などの皇位に関わる重宝は燃えてしまった。
天皇は読経僧らに鎮火の修法を仰せつけたりもした。

火勢はいよいよ盛んで、延政門以南の廓を焼き、承明門の東辺は煙に包まれていた。
天皇は清涼殿に引き返し、後涼殿を通って陰明門にで、中院に着き、神嘉殿にとどまって火を避けた。そこへ、病弱な皇太子(10歳)が侍臣に抱かれて現われた。


間もなく左衛門督師氏が参入したので消火の指揮をとらせ、また右大将師尹(もろただ)には鈴・印鎰を取り出させた。
その後に、右大臣顕忠以下の公卿が駆けつけてきた。
火勢が避難所に及び、天皇は腰與(ようよ)に乗せられて太政官に向った。
師尹はここは方角が悪いといって天皇・皇太子を別の場所に導いた。
天皇は右大臣を身近に呼びよせて、「朕不徳をもって久しく尊位(皇位)に居り、この灾殃(わざわい)に遭う、歎憂極まりなし」と述べた。

火は亥の刻(午後10時頃)に起こり、丑の刻(午前2時頃)に及んだ。
宜陽殿の累代の宝物、温明殿の神璽鏡・太刀・節刀・契(印の一種)、春興・安福両殿の武具、内記所の文書、また仁寿殿の由緒ある器物はみな灰塵となった。
内裏の全て建物が焼失した。
平安京遷都後初めての内裏焼亡であった。

『扶桑略記』に引用されている村上「御日記」には、「人代以後、内裏の焼亡は三度なり。難波宮、藤原宮、今平安宮なり。遷都の後、すでに百七十年を歴て、始めてこの災あり」とある。
貞観8年(866)、応天門は放火によって焼失し、貞観18年(876)には大極殿が炎上して清和天皇をうろたえさせ退位の一要因をなした。
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9月28日
・造宮担当が定められた。
紫宸殿・仁寿殿等が修理職、清涼殿と常寧殿は木工寮(もくりよう)が担当し、綾綺殿(りようきでん)と淑景舎(しげいしや)南一宇を近江、宣耀殿(せんようでん)を安芸、宣陽門を尾張など、内裏の殿・舎・門・廓を全国27ヶ国に賦課している。


この後も天元5年(982)、長保元年(999)など内裏は火災にあい、その後は数年おきに焼失する。

このことは治安悪化を物語るが、そのたびに再建されたことは、受領の徴税強化を背景に全国に内裏造営を賦課することが可能になったことを前提にする。

内裏の正殿紫宸殿は修理職が造り、天皇の居所清涼殿は木工寮が造営し、他を全国に割り当てて造営させる方式は、以後も踏襲され、造内裏役が一国平均役になることもあり、院政期の保元2年(1157)でも同様に再建されている。
内裏造営を全国に賦課することには、朝廷が全国の国土を統治することをイデオロギー的に浸透させる意味があったと考える説もある。
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10月
・この月、源満仲(経基の嫡男)、平将門の息子が入京したとの噂を受けて、村上天皇から蔵人頭を通じ、大蔵春実らと官職と無関係に直接動員される。
満仲は、この頃、京における有力な武士と認定されていた。
以後、天皇・院によって、官職と無関係に武士は動員されることになる。
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2012年7月25日水曜日

産経新聞を巡る話題アレコレ

このところヒジョーにむかつく産経の記事は、
■MY BLOG LISTの皆さんとも同じく、
坂本龍一さんと鳩山元首相をおちょくった例の記事である。

「人の心を持った日本国民のみなさんへ」読んでみて下さい。そして、この記事を書いた新聞社を忘れないように心に刻み込んで下さい。

ごみ新聞とまとも新聞

ところが、今日
同じく■MY BLOG LISTの中の方が、こういうのを書かれている(↓)。

ここ数日の産経の気になる報道

まあ、こういう新聞なんで、社説や社論に対して、いちいち頭にきてては身体に悪いということか。

北の丸公園 林立するヤブミョウガ

熱い
お昼の散歩も、昨日、今日は頑張って30分。
これが限界かな。

北の丸公園
林立するヤブミョウガ
お邪魔をするとチクリとやられそうな方が、ただいま食事中。


双葉町、4報告書に不満、独自に調査・検証する考え

毎日JP
東日本大震災:福島第1原発事故 双葉町が独自調査へ 4報告書に不満
毎日新聞 2012年07月25日 東京朝刊

 東京電力福島第1原発事故の政府や国会、東電など四つの事故調査報告書が出そろったことを受け、埼玉県加須市に役場機能ごと避難している福島県双葉町の井戸川克隆町長は24日、毎日新聞の取材に答え、町独自に事故を調査・検証して報告書をまとめる考えを示した。
 町長は政府の事故調の最終報告書について「何万人もが避難し、事故はまだ現在進行形なのに、なぜ『最終』報告書なのか」と疑問を呈した。原子炉建屋内の冷却装置が地震によって損傷した可能性を否定したことに関して「内部が十分に調査できないのに、なぜそう言い切れるのか。報告書を信頼できず、読む気が起きない」不満をあらわにした。さらに「なぜ、我々がこんな目に遭わなければならなかったのかを検証しなければ、双葉町の歴史は残らない。自分たちでやるのは当然のこと」と強調。
 今後、政府や東電の双葉町に対する対応、双葉町民の避難経緯などを調査する方針を示した。
 町長は東電の事故調が報告書を公表した6月20日にも、「自分たちが事故を起こした自覚がない」と非難していた。【大平明日香】
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7月25日付け「朝日新聞」に
「原発事故調の報告書を読んで」と題して加藤陽子氏が書かれているが、そのラスト、

「・・・報告書の有効性をもってしても、被災者や避難を余儀なくされている人々の苦しみを軽くすることはできまい。
この事実の重みに私は今、茫然となっている。」

という文章で結ばれている。

つまるところ、被害者にとっては隔靴掻痒の報告書というこということだろう。
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7月16日意見聴取会における中部電力社員の意見全文。


7月16日意見聴取会における中部電力社員の意見全文。

記録的意味合いから
きっこさんのブログ「みんな楽しくHappyがいい」の当該記事(↓)をコピーさせて戴く。

エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会 7/16[名古屋会場]中部電力社員の意見全文書き出し(動画あり)

エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会 [名古屋会場]
2012年7月16日

それでは、意見番号3番の方は20~25シナリオについ意見表明と伺っております。
では3番の方、よろしくお願いいたします。

中電 原子力部 課長級の岡本道明さん(46):
はい、名古屋市在住の岡本と申します。
え、職業ですけれども、中部電力に勤める会社員でございます。
えー、ですが、本日は個人として意見を述べさせていただくために参りました。
え、よろしくお願いいたします。


えー、今ご紹介がありました通りわたくしは、え、20~25%シナリオを選択してございます。
え、今回のように原子力発電の必要性についての論議になりますと、
たいてい安全か経済かの、え、二個対立になることが多くございます。
ま、具体的には、え、「経済成長よりも安全や命の方が大事です」というような論調になります。

しかし私はこの二つを全く別のものだとは考えておりません。
え、世界では、え、貧困で亡くなっていられる方が多数いらっしゃいます。
えー、薬や医療技術があっても、えー、救えないと、
お金がないために救えない命というものが沢山あります。

え、以前、「おにぎりが食べたい」と言って亡くなった方がいらっしゃいました。
これも経済が回って、地域にお金が行きとどいていれば、救えた命ではないかと私は思っております。

え、昨年の、え、福島事故でもそうだというふうに考えています。
えーー、放射能の直接的な影響で亡くなった方というのは、え、一人もいらっしゃいません。
それが、今後、5年10年経っても、この状況は変わらないというふうに考えています。
・・・・
・・・・
あのー・・

いや、中部電力であることは事実です。
しかしこれは疫学のデータから見たらまぎれもない事実です。
それは5年10年経てば分かります!

えー、続けさせていただきます。

えー、じゃあ実質的な福島事故の被害ってなんでしょうか?というと、
これは警戒区域等を設定する事によって、
家ですとか、仕事を失ってしまったり、
あるいは、風評被害ですとか、過剰な食品基準値の設定によって、
せっかく作った作物が売れなくなってしまったりと、
こういう事によって、先行きを悲観して、
えー、自らの命を絶たれてしまったりですとか、
え、体調を崩してしまったりですとか、
えー、生活が立ちゆかないという事が発生しております。

これはまさに経済的な影響が、安全や命を犯してしまった例であるというふうに私は考えています。

私は経済的なリスクが、
命や環境の安全リスクに繋がることとして捉えられていないということを強く懸念しています。

経済が冷え込んで、消費が衰退して、企業の国際競争力が低下してしまえば、
福島事故と同じ事、あるいはそれ以上のことが日本全体で起こるというふうに考えています。

そういう視点で、
私たちは各シナリオのリスクが、どれだけ共有されているかという事を問いたいと思います。

え、放射能の影響に対する過剰反応で、脱原発の論調が席巻されております。
しかしながら、報道されている内容に偏りはないでしょうか?

えー、経済的なリスクを安全に無関係だというふうにして、最初から切り捨ててはいないでしょうか?

わたくしは各シナリオのリスクを全て理解したうえで、
国民がそのシナリオを選択するならば、それは仕方がないというふうに考えています。
でも、それで本当にやっていけるでしょうか?
私は無理だと思っています。

たとえば、再生可能エネルギーのリスク認識、これがどれだけ共有されているでしょうか?
一般的には天候に左右されるですとか、あるいは出力が低いですとか、
電力系統が不安定になるですとか、
こういった問題は、えー、共有されているように感じます。

しかし、もっと見逃せない問題がございます。
それは、お金の問題です。


たとえば太陽光発電になりますけれども、
えー、0%シナリオの場合、
先程の方もちょっとございましたけれども、
昭和55年以降に建築された一戸建て。
1200万戸すべてに太陽光パネルを設置しなければならない。
しかも、このうち200万戸は、えー、パネルを乗せたら潰れてしまうので、
改修が必要な住宅になってくる。
これは資料にあった通りです。
この設置や改修に必要な費用というのは、先程もございましたけれどもだれが負担するんでしょうか?

みなさんそれをご自分で負担するという覚悟はございますか?
もちろん払えない人もいるでしょう。
そういう方達は、国が補てんして下さるんでしょうか?

それは結局税金としてかえってきたりとか、
あるいは、900兆円を超えると言われている国債に、これにさらに上乗せをして、
結局将来の子供や孫たちのために、への、ツケとして残ってしまうという、
こういうことになってしまいます。

それとも電力会社に払わせるという事を考えるのでしょうか?
しかしそれは電気料金として、結局みなさんのところへ返ってくることになります。

そういう覚悟はあるでしょうか?

えー、設備は永遠に使われると思われているでしょうか?
太陽光パネルの寿命は、えー、20年というふうに言われています。
あるいは周辺機器の寿命は10年というふうに言われています。

ということは10年、20年のスパンでこれらを廃棄して、
あるいは再設置すると、こういう事をやっていかなければならないのです。

風力発電はどうか?と言っても、
同じように19兆円ものコストがかかります。
えー、経産省の試算では0%シナリオを選択した場合には、
家庭の電気料金が最大2.3倍になるというふうに言われています。

えー、10%値上げをするという事ですらあれだけの大きな反響があるのに、
それができるんでしょうか?

えー、企業はもっと大変です。
電気料金が1000万円とか1億円とかかかっている産業はざらにあります。
それで国際競争ができていくんでしょうか?

電気をこまめに消すとか、冷房を扇風機に変えるとかで、
えー、何とかなるというレベルではないという事を御認識いただいてですね、

もっと困ったことがあります。
それでは、お金では解決できないという問題です。

えー、太陽光発電の場合新宿の住戸にこれから全て太陽光パネルを付けることを強制したとしても、
2030年に付けられるのは600万戸程度です。
つまり目標の半分。
この差をどう埋めるんでしょうか?

風力の場合は、えー、東京都の2.2倍の敷地が必要と。
そんな広大な土地をどうやって買収するんでしょうか?
そういうメドは立っているんでしょうか?

地熱発電の場合は自然公園ですとか、温泉地の近郊に建てることになります。
これは自然公園を破壊したりとか、
温泉のお湯が出なくなってしまって、温泉を廃業しなければならないと、
そういうリスクがあることをみなさん認識を頂いているでしょうか?

水力はどうでしょうか?
もう開発の余地はありません。

つまり再生エネルギー35%というのは最初から破たんしたシナリオになっています。
結局頼っていくのは火力発電ということになります。

現在どうなっているかというと、
毎日100億円、年間3兆円の資本が火力発電の燃料費として
海外に流出していることをみなさんご存知でしょうか?

もちろん電力会社の経費を節減せよというご意見もあるでしょう。
しかし、火力発電のコストというのは、大半が燃料費なんです。
ですから、電力会社の人件費をゼロにしたところで、
事態はほとんど変わらないという事をご存じでしょうか?

もっと困るのはお金で解決ができない問題です。
今年の初めのようにイランとアメリカがもめて、ホルムズ海峡が封鎖されることが現実になったら、
LNGの2割とか、石油の9割がストップしてしまう。
そうなったらお金をもういくら積んでもダメだということです。

私はとても無理だと思います。
省エネで頑張るという意見もありますけれども、ストーブが販売禁止になるとか、
ガソリン自動車がサカイヤイキ?に乗り入れできないとかいったことを本当にやる気があるんでしょうか?

日本国民の全員にこれが徹底できるんでしょうか?
私は出来ないと思っています。

最後に、公平のために、20~25%シナリオにもリスクがあるという事を申し上げて
話を終わりたいと思います。

ただしそれは原子力のリスクではありません。

再生可能エネルギーを23~30%に引き上げるという、前提が入っているというリスクです。
これは15%シナリオにも言える事なんですけれども、
程度の差こそあれ、財政負担ですとか、せきす・・え、スケジュールが困難であるということ、
用地の買収が不可能であるとか、そういった抱えているものの問題は0%シナリオと同じなんです。
つまり、このシナリオも破たんしたシナリオなんです。
結局最後は火力発電に依存して、中東の情勢が不安なのを、えー、
ヒヤヒヤしながら高い電気料金を払い続ける。
こういう結末は変わらないんです。

わたくしは
35%シナリオがあれば、35%。
45%シナリオがあれば、45%を選択しておりました。
それは、
その方が安全だからです。

提示された選択肢というのは他のリスクに比べて原子力のリスクを過大に評価していると思います。
えー、このままでは日本は衰退の一途をたどると思います。
えー、国民の皆様の冷静なご判断を望みたいと思います。
以上です。
ーーーー
(きっこさんの感想)
全部書きだしてみて、
原子力に関してのリスクはないと彼がハッキリ言ったことに驚きました。
福島第一原発の事故は原発のリスクではなく、
自殺された方や避難されている方の苦しみも
その原因は、政府の避難区域の設定と風評被害、高すぎる食品の基準であり、
原子力発電所がばら撒いた放射能とは、全く関係ないようです。
非常にゆがんだ思考回路をじっくりと文字起こししてさらに実感することができました。

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(20) 「序章 ブランク・イズ・ビューティフル - 三〇年にわたる消去作業と世界の改変 -」(その9)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-18
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(20)
「序章 ブランク・イズ・ビューティフル - 三〇年にわたる消去作業と世界の改変 -」(その9)


現代の自由市場主義(コーポラティズム)の台頭とショック
本書は、こうした表向きの物語の中心をなし、もっとも重視されてきた考え方 - 規制なき資本主義の成功の源泉は自由にあり、歯止めのない自由市場主義と民主主義とは矛盾なく両立する - に真っ向から異を唱える。
そして資本原理主義とも言うべきこの形態がいかに残忍な弾圧によって育まれてきたか、それが政治団体および幾万の人間の身体を痛めつけてきたかを明らかにしていく。

現代の自由市場主義 - より適切にはコーポラティズムの台頭 - の歴史は、数々の「ショック」という文字で書かれているのだ。

莫大な利益を狙うコーポラティズム同盟は、今まさに最後に残された未開拓地を征服しつつある。ひとつはアラブ世界がかたくなに守ってきた石油経済、もうひとつはこれまで西側諸国では営利から切り離されてきた災害関連事業や兵力供給といった分野である。
国内であれ、国外であれ、こうした重要な事業を民営化するにあたっては、たとえうわべだけでも国民の同意を得ようという考えはない。
したがって目標到達のために暴力のレベルはますますエスカレートし、さらなる大惨事さえ求められている。
しかしショックと危機が果たしてきた決定的役割は、自由市場の隆盛の公式記録からは巧妙に排除されてきたため、イラクやニューオーリンズで取られた強硬手段にしても、ブッシュ政権の無能力や縁故主義のせいにする誤った解釈がしばしばなされてきた。
だがじつのところブッシュの行動は、完全な企業自由化を目指す過去半世紀にわたる運動の暴力性と創造性が、頂点に達した姿にほかならない。

・・・企業優遇の政治体制を導入し、維持するためにクーデターや戦争や虐殺が行なわれても、それが資本主義の犯罪として弾劾されたことはいまだかつて一度もない。
そうした犯罪的行為は独裁者の行き過ぎた熱意のなせるわざか、「冷戦」や今日の「テロとの戦い」の熱き前線での勇み足だと片づけられてきた。
七〇年代のアルゼンチン、あるいは今日のイラクで、コーポラティズム経済モデルに徹底して反対する者が組織的に排除されたとしても、そうした弾圧は共産主義やテロリズムとの断固たる戦いの一端だと説明され、純粋資本主義を推し進める戦いのためだと言われることはまずない。


このような暴力やイデオロギー的純粋性を持ち込まなくとも、市場経済は十分に成り立つはずである。
消費財の自由市場は、公的医療制度や公教育制度とも共存できるし、経済の大きな部分(国営の石油会社のように)を政府の手に委ねたとしても十分に共存できる。
同様に、民間企業に対して従業員に相応の賃金を支払い、労働者が組合を結成する権利を尊重するよう求めることも可能だし、政府が徴収した税を再分配してコーポラティズムが引き起こした格差の拡大に歯止めをかけることも可能である。
市場は原理主義的なものになる必要はないのだ。

ケインズが大恐慌後に提唱したのがまさにこうした混合経済であり、管理経済だった。
この公共政策における革命はニューディール政策へと結実し、世界各地で同様の政策転換が進められていった。
フリードマンの反革命的経済政策が世界各国で次々と組織的に解体していったのが、まさにこの折衷的な抑制と均衡のシステムだった。
その観点から見れば、シカゴ学派の説く資本主義には他の危険思想との共通点 - 極端なまでの純粋性と、理想社会を構築するための白紙状態への希求 - が認められる。


世界をゼロから創造する神のごとき力をわがものにしたいというこの欲望こそ、自由市場イデオロギーが危機や災害に心惹かれる理由にはかならない。
終末的規模の大災厄が起きないことは、彼らにとって不都合なのだ。
この三五年間、フリードマンの反革命運動を活気づけてきたのは、大変動が起きたときしか手にできない自由と可能性の持つ誘引力だった。
大変動が起きれば、うるさい要求を突きつける頑迷な国民が一掃され、民主主義を遂行するのはほとんど不可能になるからである。

ショック・ドクトリンの信奉者たちは、社会が破壊されるほどの大惨事 - 洪水、戦争、テロリストの攻撃など ー が発生したときにのみ、真っ白で巨大なキャンバスが手に入ると信じている。

人々が精神的なよりどころも物理的な居場所も失って無防備な状態にあるそのときこそ、彼らにとっては世界改変の作業に着手するチャンスなのである。
(序章おわり)