2012年1月31日火曜日

東京 江戸城(皇居)梅林坂の梅 まだメジロもやって来ない

江戸城(皇居)梅林坂の梅がようやく咲き始めてきた。
例年より1ヶ月以上は遅いだろう。

まだメジロもやって来ない、
と呟いて、三脚にバズーカ砲のようなカメラを据えたオジサンが去って行った。

メジロが気づくほど咲いていないのだ。



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お正月に開花の報道があった
京都の北野天満宮だって1月25日でこの程度だった(コチラ)
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東京 外濠凍える

今朝(1月31日)、もう9時少し前なのに、まだ外濠が凍えていた。

▼竹橋から平川橋方面を見たところ
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▼竹橋から清水濠を見たところ

京都 平安京内裏跡 建春門跡 昭陽舎(梨壷)跡 温明殿(内侍所)跡 綾綺殿跡 宣陽殿跡 一本御書所跡

1月25日
北野天満宮(絵馬ウメ初天神の骨董市)、
平野神社(寒桜)
上七軒~五番町、
を歩き、その後、
平安京内裏の東端にあたる部分の碑を見て歩いた。

▼建春門跡、及び聚楽第南外濠跡
浄福寺通りと出水通りが交差する地点から一筋東に入ったところに、松林寺というお寺がある。
下の写真はこのお寺の門前にあるもの。
秀吉の聚楽第は平安京の内裏と重なる。
平安京内裏のどの辺りにあたるかは、コチラの「平安京内裏復元図」が見易い。

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▼昭陽舎(梨壷)跡
上の松林寺より少し西に入ったところにある。

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▼温明殿(内侍所)跡
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▼綾綺殿跡
浄福寺通りにある

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▼宣陽殿跡

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▼山中油店
コチラを初め何度かご紹介しているが、この方の記事ははるかに美しくかつ詳細に記述されているので、是非ご覧下さい(コチラ
下立売通り浄福寺を東へ入る。
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▼一本御書所跡
山中油店の前にある。
平治の乱の舞台でもある。
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永禄11年(1568)12月 信玄、駿府城を陥落す。 家康、遠江侵入。 堺に集結した三好三人衆勢は1万。 [信長35歳]

京都 二条城(2012-01-24)
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永禄11年(1568)12月
この月
・信長、山城妙顕寺へ、義昭下知による妙顕寺への「永寄宿」・「非分課役」等免除を安堵(「妙顕寺文書」)。
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・失脚していた若狭の庶子家武田信方、将軍近習の上野氏に対し、「上意」に応じて遠敷郡賀茂荘の社納について違乱しないと書状を送る。
将軍を若狭の支配者として認め、それに結びつこうとする姿勢をみせる。
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12月3日
・黒田長政、誕生。
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12月6日
武田信玄の駿河侵攻(三国同盟破綻)。
信玄、甲府進発。穴山信君を先陣として駿河侵攻。
12日、薩垂峠で今川勢2万(内応者多い)撃破。この年2月、家康と密約。今川・北条との三国同盟を破棄し駿河に侵入。
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12月9日
・北條氏照、上杉輝虎に武田信玄の駿河侵攻を伝え、盟約を打診。
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12月7日
・松永久秀、大和国人衆の諸城を攻略。
貝吹城(高市郡高取町)の攻防は激戦。久秀軍に多数の討死。
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12月9日
・竹内秀勝・喜多重政、大和法隆寺へ信長への御礼銭600貫文の受領を宗勁・宗純に申渡した旨通知(「法隆寺文書」)。
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12月9日
・家康(27)、遠州・井伊谷城へ入城
武田信玄の駿河侵入と同時に三河から遠江に侵入。本多平八郎忠勝、従う。
12日、引佐郡の菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時3人に誓書を与え所領宛行いを約束、遠江侵入の案内役として井伊谷筋から侵略。白須賀、宇津山陥落。
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12月12日
北條氏政、駿河に出陣
17日、先陣、薩垂峠に出陣、武田勢の退路を遮断。
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12月13日
駿府城陥落
武田勢山県昌景・馬場信春先手、駿府市中放火(浅間神社・臨在寺など)。
今川氏真、遠江掛川城へ逃亡。
事前に今川方の内応工作が進められ、瀬名信輝・朝比奈信置・三浦義鏡・葛山氏元らの離反が確認できる。
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12月14日
・家康、井伊谷城・刑部城を攻略。西遠江の諸豪族は服属。
18日、浜松引馬城、久能の久能宗能攻略。家康、曳馬城に入る。
20日、二俣城攻め。無血入城。
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12月15日
・若宮へ親王宣下。誠仁親王を名乗る。
16日、二条晴良の関白「再任宣下」陣儀。
19日、元服儀式。
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12月16日
・信長、大覚寺門跡へ、義昭下知に任せ門跡領・下河原領・功徳院分を安堵(「大覚寺文書」)。
沢与助(近江浅井氏に属した少土豪)へ、近江御園内の神田郷の米方54石と小物成12貫文を宛行う。
一色藤長へ、義昭下知に任せ領知を安堵。
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12月16日
・和田惟政・坂井好斎・中川重政・木下秀吉、松永久秀へ、今井宗久・武野宗瓦の訴訟で信長の和解提案を武野宗瓦が拒否したため、今井宗久の勝訴とした、と伝える。
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12月19日
・武田信玄、常陸の太田資正に対して北条氏の背後を脅かすよう要請。
23日、家康に宛てて、遠江出陣を謝し、更に掛川城の氏真追撃を要請。
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12月24日
・松永久秀、岐阜訪問。骨董名品(「不動国」行などの「名物」)を信長に献上。越年。
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12月25日
・今川氏真、武田信玄に圧迫され、越後上杉輝虎(謙信)の援助を乞う。
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12月27日
・家康、今川氏真が入った遠州掛川城包囲。
信玄重臣秋山信友、一揆扇動し自軍を遠江侵入させる。
翌日、家康は遠江の見付に兵を引き、越年。
翌永禄12年5月、和睦、開城。
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12月28日
・北条氏康、援軍4千を掛川へ送る。
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12月28日
・岩成友通ら三好三人衆5千、境湊近くの和泉家原城攻め。前美濃国主斎藤龍興・宿老長井隼人ら牢人勢も加わる。
義昭に守護を任ぜられた三好継家・寺町左近・雀部次兵衛、自害。
三好三人衆、堺入り、軍勢は1万となる
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斉衡4年/天安元年(857) 治安の悪化(女賊が内裏に浸入) 対馬で争乱 藤原良房(54)、左・右大臣を経ないで、太政大臣となる。

東京 江戸城(皇居)東御苑 白鳥濠
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斉衡4年
この頃
・治安の悪化
近江国守が相坂(おうさか)の他に大石・竜化(りゆうげ)に新関を設けることを要望し、この年、良房らは国府の官人・健児らをその三関に配備。

女賊が内裏の蔵殿に入り、天皇の衣服の材料を奪って逃げた(10月23日)。

群盗は平安京に蔓延り貴族らを脅かし、近衛府の兵力がそれらの逮捕にさしむけられた。

摂津国では、従八位下の位をもつ在地のものに武器をもたせて、国内の非違を検察させている。摂津職の要望による政府の任命と思われる。この重要な地域において治安が乱れていたことを物語る。

京の内外・近国では群盗の跋扈であるが、地方では異なる深刻な様相が現われ始めている。
この年、讃岐国の百姓らが朝廷に国守弘宗(ひろむね)王の暴政について訴え出ている。日向守嗣岑(つぐみね)王の場合も同じである。
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・この年、雷雨・地震が頻発。
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1月17日
・「開元大衍暦経」廃止。「五紀暦経」を採用。
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2月19日
藤原良房(54)、右大臣から左大臣を経ないで、太政大臣となる(平安遷都後初めて)
大納言の源信・藤原良相(よしみ、良房の弟)は、それぞれ左・右の大臣に昇進。

桓武~淳和では、左大臣を任命しなかった年代がかなりあり、良房の父冬嗣は、左大臣に任命された稀な例であった。いま、良房は父祖を超える極官に昇った。

太政大臣という官は、職員令に「一人(いちにん)に師範、四海(しかい)に儀形(ぎけい)たり(天皇の道徳の師で、世界の規範)。邦(くに)を経(おさ)め道を論じ、陰陽を燮(やわら)げ理(おさ)める(政治の姿勢を正し、天地自然の運行を穏やかにする)」地位とされている。
しかし、これは唐の三師(太師・太傳・太保)と三公(大尉・司徒・司空)の役割を合わせて作文されたもので、具体的に職掌が定められてはいない。
そこで「其の人無くば、則ち闕く」という次第で、滅多に任じられなかった。

その叙任の宣制のなかで、文徳天皇は、
右大臣正二位藤原朝臣は朕の外舅なり
又雅(わか)き親王と大坐(ざ)す時より助け導き供え奉れるところもあり、今も又忠貞(まめ)なる心を持ちて食国(おすくに、天下、日本国)の政を相あなない申し助奉事も漸(ようや)く久しくなりぬ。
古人いえるあり、徳として酬いざるなしとなも聞召(きこしめ)す、今あるところの官は、かけまくも畏(かしこ)き先帝の治め賜えるところなり。
朕未だ酬ゆるところあらず、ここをもて殊(こと)に太政大臣の官に上げ賜い治め賜う。・・・」
と述べる。

これによると、太政大臣任命の第一の理由は、良房が天皇の外舅にあたるためであった。

これまでの太政大臣。
7世紀後半、大友皇子(天智朝)・高市(たけち)皇子(持続朝)が太政大臣の地位についている。
奈良時代末期、藤原不比等の孫仲麻呂が権勢をふるい、人臣にして初めて大師(太政大臣の別称)に就き、続いて道鏡も称徳女帝によってこの官に就いている。

良房の場合の、太政大臣になりうる条件とそれを望む背景。
①彼は文徳の皇太子惟仁(これひと)親王の外祖父である。
②嵯峨源氏との対抗上、官職において、かれらから超越したい。
③藤原一門のなかで彼とその直系の位置を決定的なものにしたい。

天皇の外祖父に太政大臣を贈ることは、この当時慣例化していた。
平城天皇の外祖父藤原良継、淳和天皇の外祖父藤原百川、文徳天皇の外祖父藤原冬嗣、のように平安時代に入ってからは、通常は即位の時点で新天皇の外祖父に太政大臣が贈られていた。
仁明天皇の場合は30歳を迎えた年に外祖父の橘清友に太政大臣を贈っている。
但し、これらの例は、贈られた本人が既に没しているという状況ではある。
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2月21日
・天安に改元
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2月28日
・賀茂斎王慧子内親王を廃し、述子内親王(母:紀静子)を卜定。
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3月16
・京南に群盗を衛府・検非違使・馬寮に追捕させる。
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3月18日
・平城前京の群盗を六衛府に追捕させる。
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4月23日
・近江国の相坂(逢坂)関を復活。
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6月
・大宰府が中央に急使を走らせて対馬の争乱を報告。

対馬国上県(かみあがた)郡擬主帳(ぎしゆちよう、書記候補)卜部川知麻呂(うらべのかわちまろ)・下県郡擬大領(長官候補)直浦主(あたえのうらぬし、氏成うじなり)らが、「党類」三百余人をひきいて国守の居館を包囲し、それに火を放って守立野正岑(たてのまさみね)と従者榎本成岑以下10人、防人6人を殺害したという。放火のために、付近の民宅も焼失した。

国府は事変直後に首謀者らを捕えて投獄し、その顛末を大宰府に連絡、大宰府はこれを政府に急報した。

7月、太政大臣良房を首班とする政府は、大宰府に対して、逮捕された者のなかで賊党に劫入(こうにゆう)されたもの、獄中で没しその実罪のない者の妻子を放免させる。
「党類三百余人」のなかには、強制されてこの襲撃に加わった者もいた。

翌年2月、朝廷は大宰府に命じてかれらを裁判にかけさせる。

12月、太政官は大宰府から受理した断文について審議し、主犯人の下県郡擬大領直(あたえの)氏成・上県郡擬少領直仁徳らと部内百姓との主従17人の罪は、いずれも斬刑にあたると決定した。
しかし、朝廷は即位したばかりの清和幼帝の詔という形式で、死一等を減じてかれらを遠流に処することにし、事件は勃発後1年7ヶ月ぶりにようやく結末をつげた。

この襲撃事件の真因は不明。
直氏は旧国造系で、この島の豪族であり、同族の者が二つの郡衙にポストをもっていた。
この直氏と受領立野正岑との間に何らかの紛争が生じ、擬郡司の直氏らが「党類三百余人」を集めて襲撃したまでで、受領を殺せばそれで目的を達したもよう。
国府占拠や、挙兵宣伝をせずに首謀者たちは縛についている。
ことは受領への私怨に発していたと思われる。
300余人の地方民が動いたが、指導グループは17人である。

受領立野正岑は、榎本成岑以下10名の従者を国守の館に置いていた(殺害されたのが10人で、従者はもっと多い可能性もある)。
これは国府の正規な成員ではない。この従者群は、受領の郎等と呼ばれる者たちである。

また、対馬国府は擬郡司ら一味を検挙するだけの兵力を保有していたことも注目される。
但しこの場合、襲撃者は受領らを射殺してすぐ四散し、ほとんど抵抗しなかったらしいことにもよる。
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10月23日
・故空海に大僧正位を贈る。
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12月1日
・文徳天皇皇子惟喬親王、元服。(母:更衣紀静子)
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2012年1月30日月曜日

東京 北の丸公園 ロウバイがどんどん開花 残雪 霜柱

1月30日の北の丸公園
快晴ではあるが寒い。
(北国のことを考えると贅沢は言えない)

昼休み時間帯であるが、まだ雪が残り、霜柱も残っている。

▼ロウバイがどんどん開花
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▼先週1月24日の雪がまだ残っている
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▼大きい霜柱


「反戦と反原発の海鼠かな」(久慈市 和城弘志) 「朝日俳壇」1月30日より

東京 北の丸公園のロウバイ(2012-01-30)
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「朝日俳壇」1月30日より

反戦と反原発の海鼠かな            (久慈市)和城 弘志

フクシマや焚くに焚けないどんど焼き      (川越市)横山由起子

福の島取り戻さむと初仕事           (川口市)知念 哲夫

**全て金子兜太さんの選。
意表をつく切り込みに、お見事と唸る「海鼠かな」。

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「朝日歌壇」1月30日より

九円の福島産のもやしあり買う日買わぬ日買わぬ日買う日  (袋井市)山内 弓子

風評のいまだ絶えぬに甘藍は霜巻きながら滋味増すらしも    (ひたちなか市)篠原 克彦

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事情あり掲載できなかった先週分。
「朝日歌壇」1月23日より

草の実のびっしり刺さりし防護服に玄関開くる一時帰宅は        (郡山市)渡辺 良子

モロビトノコゾリテクルシミテイマスフクシマニフルユキハハイイロ  (福島市)美原 凍子

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京都 上七軒から千本通りを通り五番町へ 千本座跡

北野天満宮で
絵馬の様子など(コチラ)と、
ウメを観て(コチラ)
初天神の骨董市をひやかした(コチラ)あと、
平野神社に向かい、寒桜を観た(コチラ)

このあと、上七軒を通って、小雪舞う中、千本通りから堀川丸太町辺りまでを歩いた。

▼上七軒の辺り
以前、桜の季節に歩いた記事はコチラ

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▼千本通り(旧の朱雀大路)に出ると小雪が舞い始めた
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▼この辺りは千本座跡地
千本座についてはコチラ
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▼平安京では正親町小路、中世以降は中立売通り
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▼仁和寺街道を西へ入ると五番町
上七軒へは行けない西陣の職人さんなどを相手にした安い遊び場である。
以前、「五番町夕霧楼は何処」という記事を書いた(コチラ)
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▼確か入場料は500円であった
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▼すっぽんの「大市」
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斉衡2年(855)~斉衡3年(856) 地震により東大寺大仏の頭が落ちる

京都 神泉苑(2012-01-24)
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斉衡2年(855)
この年
・この年ころ、大和国に検非違使が存在している。
畿内、さらに諸地域にこれを設置する端緒が開かれる。
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1月
・この月、奥郡の騒乱に関する記事が見える(『日本文徳天皇実録』)。
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2月17日
・藤原良房らに『続日本後紀』の撰修を命じる。
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5月23日
地震により東大寺大仏の頭が落ちる

貞観3年(861)、修理され、開眼供養が行われた。

鴨長明「方丈記」の「元暦の大地震」(元暦2年(1185))の項に、 
「又元暦二年の頃、大地震ふること侍りき。」
「「昔、齊衡(せいかう)の頃かとよ。大地震ふりて、東大寺の仏のみぐし(御頭)落ちなどして、いみじき事ども侍りけれど、猶この度にはしかず」とぞ。
すなはち人みなあぢきなきことを述べて、聊か(いささか)こころのにごりもうすらぐかとみし程に、月日かさなり、年越しかば、後は、言の葉にかけていひ出づる人だになし。
とある。

(「昔、斉衡のころ。大地震が起きて東大寺の大佛の頭が落ちたなどたいそうなことがおきたけれども、この度の地震ほどではない」という。
その直後には誰も彼もがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささかの欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後はそんなことを言葉にする人もいなくなった。」)
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9月28日
・東大寺大仏を修繕。
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斉衡3年(856)
この年
・仙遊寺建立。(後の泉涌寺)
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3月
・地震が相次いで起り、京中に被害続出。
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3月21日
・円仁、文徳天皇に両部灌頂を授け、同時に皇子の 時有(素延)・毎有(算延)らにも灌頂を授ける。
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4月22日
・五世王を皇親から除く。五世王は非皇親とし、服色を諸臣の位階に准じるものと定める。
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5月9日
・疫災退散を願い、大極殿・冷然院・賀茂社・松尾社で大般若経を読経。
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7月7日
・藤原長良(55)、没。
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8月8日
・安房国に黒灰が降る。
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9月
・円仁、皇太子惟仁親王に灌頂を授ける。この時、藤原良房・明子にも灌頂を授ける
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11月1日
・近江国大津で火災。
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12月28日
・美作国より白鹿が献上され、神泉苑に放つ。
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2012年1月29日日曜日

「無責任な企業」ネット投票 東電2位 「朝日新聞」1月28日(夕刊)

京都 北野天満宮(2012-01-25)
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「朝日新聞」1月28日(夕刊)に
東京電力が「無責任な企業」ネット投票で2位になったとの報道があった。
アサヒ・コムはコチラ

概要は下記
*****************************************(始)
(見出し)
「無責任な企業」ネット投票 東電2位
ダボス会議に合わせ発表

(記事)
スイス東部に政財界のリーダーが集う世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に合わせ、国際NGOが27日発表した「無責任な企業」のランキングで、東京電力が第2位になった。
福島第一原発事故をめぐり「情報の公表が遅く、うそもあった。隠蔽(いんぺい)、改ざんの体質がある」とされた。

環境NGO「グリーンピース」などが主催する「地球に害を与え、人権を侵害した」企業を選ぶ「パブリック・アイ(世間の目)賞」で、総数8万8千票のインターネット投票で約2万4千票を集めた。・・・

(略)

・・・ノーベル経済学賞受賞のジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大教授は東京電力をめぐり、「世界中の原子力産業は補助金漬けで、企業だけが責めを負うことではないが、この賞で企業も政府も責任に気づいて欲しい」と述べた。        (ダボス=前川浩之)
*****************************************(終)
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1位との票差は約800票で「惜しくも」2位だったようだ。
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併せて、是非注目すべきだ。
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今日の富士山 2012-01-26 新幹線車窓の雪景色

今日の富士山は、少し前の1月26日、新幹線から見た富士山。

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▼同日、新幹線から見た関ヶ原辺りの雪景色


嘉祥4年/仁寿元年(851)~仁寿4年/斉衡元年(854) 慢性化する農民の浮浪と逃亡 疱瘡流行

京都 東寺(2012-01-25)
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嘉祥4年/仁寿元年(851)
1月27日
・諸国の諸神に正六位上を授ける。
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2月13日
・清涼殿を移し伏見嘉祥寺の堂とする。
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2月23日
・故仁明天皇皇子常康親王、出家。
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2月24日
・故仁明天皇女御藤原貞子、出家。
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4月28日
・「仁寿」に改元
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6月5日
・畿内諸国の水害被災者に賑給。
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8月15日
・京中の水害被災者に賑給
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仁寿2年(852)
2月8日
・滋野貞主(68)、没。
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閏8月16日
・京中の風害被災者に賑給。
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12月22日
・小野篁(51)、没。
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仁寿3年(852)
この年
・8世紀後半以降、農民の浮浪と逃亡は慢性化
この年の頃、美濃国では班田を実施しても、浮浪人には土地を分与していない。
飢えに苦しむ農民にとっては、目先に権門寺社の庄園や豪族の農業経営が、かれらの遁入を待っていることを心得ており、逃亡は一層激しさを加える。
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2月
・この月、疱瘡流行。
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2月14日
・文徳天皇、梨本院に移る。
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2月30日
・文徳天皇、右大臣藤原良房第に行幸。花見
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4月
・疫病のため大赦し、承和10年以前の調庸未進を免じ、雑徭10日を免じる。
この年、赤斑瘡(あかもがき、麻疹)が流行。
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4月18日
・仁明天皇皇子成康親王(17)、疱瘡の為没。(母:女御藤原貞子)
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4月25日
・疱瘡流行の為、賀茂祭が中止。
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4月26日
・疱瘡流行の為、調庸の未進を免じる。医薬を賑給。
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5月4日
・陸奥・常陸・上総・下総・相模・上野諸国において一切経を書写。
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5月13日
・大宰府に観音寺・弥勒寺・管内国分寺において大般若経読経を命じる。
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5月22日
・美濃国の疱瘡患者に2,100斛を賑給。
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5月25日
・故橘逸勢に従四位下を追贈。
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8月1日
・右京で火災。
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12月8日
・災害鎮静の為、諸国国分寺・国分尼寺において陰陽書法を行わせる。 
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仁寿4年/斉衡元年(854)
この年
・左大臣源常、没。藤原良房が首班の地位につく。
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2月13日
・災疫退散を願い、大和国において灌頂経法を行う。
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4月
・円仁、天台座主となる。
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・この月、奥郡の騒乱に関する記事が見える(『日本文徳天皇実録』)。
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4月13日
・文徳天皇、梨本院より冷然院に移る。
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426日
仁明天皇皇太夫人藤原明子が皇太后に、淳和天皇皇后正子内親王が太皇太后となる。 
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4月28日
陸奥国で兵士が逃亡、叛乱。
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11月30日
斉衡に改元
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イラクのハディーサ市民虐殺事件に関わった米海兵隊兵士8人全員が実刑を逃れる

2005年11月、イラクのハディーサというところで米海兵隊が市民24人を無差別虐殺する事件が起きた。
「イラク:ハディーサでの市民無差別虐殺」に詳しい

米海兵隊は幕引きを画策していたようだが(コチラ)、
1月27日の報道によれば、

「銃撃命令を下した部隊長が司法取引で収監を免れ降格および減給だけの超軽処分。
これで虐殺に関わった兵士8人全員が実刑を逃れたことになる。」

となったようだ。

この件は、コチラのツウィートで教えて貰った。

ニューヨークタイムズの1月27日の報道はコチラ

「私は日本から武器をなくすことこそ、世界平和への第一歩だと信じ、110歳まで生きて、この運動に全力を注ぎたい、そう考えています。」(日野原重明)

京都 北野天満宮(2012-01-25)
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聖路加国際病院理事長の日野原重明さんは、今年、101歳になられるという。
「朝日新聞」土曜日版(Be)で日野原式「非武装」論とでも言うべき主張を展開されていたので、以下、概要をご紹介する。

「朝日新聞 Be」1月14日付け (青字が引用)

(タイトル)
100歳・私の証 あるがまゝ行く
「日野原式新世紀」に向けて (下)
日野原重明

(記事)
私は前回のこの欄で、今年101歳を迎える私にとって新世紀への約束、決意=コミットメントをすることが、私に与えられた使命であろうと述べました。
今回は、具体的に何を考えているかをお話ししましょう。

(略)

・・・、若い世代に対して私たち年長者が出来る最も大事なことは、平和な世界を残すことでしょう。・・・


私は、平和の礎を築くために、戦争放棄を明文化した日本の「憲法9条」は大きな役割を担うと考えています。
もし今後、憲法9条改正が国会で可決されたとしても、国民投票で国民の過半数がNOと言えば改正はできません。
確固たる平和への意識を持った若い国民が育つことは、私の悲願です。

(略)

しかし日本には、平和構築の決断力と実行力を備えた政治的なリーダーが不在なのは否めません。
そのリーダーの候補となる女性の育成にも努力していきたいと思っています。


沖縄の普天間基地の問題も、平和に向けて解決しなければならない重要な課題です。
私は以前から、沖縄住民にこの先10年の猶予期間をもらい、その間に在日米軍が撤退し、自衛隊も武器の使用を放棄する、という提案をしてきました。
軍備のない自衛隊は、世界で事故や災害が起こった時、医療班を伴って真っ先に出動し救援活動に従事します。


私は日本から武器をなくすことこそ、世界平和への第一歩だと信じ、110歳まで生きて、この運動に全力を注ぎたい、そう考えています。

(略)

 (聖路加国際病院理事長)

沖縄住民にこの上10年の猶予期間を乞うのは「酷」というものであるが、

■「憲法9条」を守る、
■在日米軍撤退、
■非武装日本の実現、

の思いは伝わってくる。

2012年1月28日土曜日

京都 平野神社 寒桜 山芙蓉

1月25日、
初天神で大混雑の北野天満宮を抜けて、すぐ裏にある平野神社に行った。
ここにはこの季節、「寒桜」が咲いている。

平野神社は立派な枝垂れ桜が有名
2010年3月の枝垂れ桜はコチラ




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▼山芙蓉
まだ咲き始め
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▼下の写真の正面が北野天満宮の裏にあたる
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この日の北野天満宮の様子
梅の開花状況(コチラ)
絵馬など(コチラ)
初天神の骨董市など(コチラ)
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「日本には「足るを知る」という言葉があります。・・・・・ こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。」(渡辺謙)

東京 江戸城(皇居)東御苑白鳥濠
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俳優、渡辺謙さんがダボス会議で脱原発に関するスピーチを行った。
全文は下記をご参照下さい。

全文はコチラ(東京新聞)
「渡辺謙さん、ダボス会議でスピーチ 原子力からの転換訴える」

概要は下記。
****************************************(始)
(略)

国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。
私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。
しかし度を超えた成長は無理を呼びます。

日本には「足るを知る」という言葉があります
自分に必要な物を知っていると言う意味です。
人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。
こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。

「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。

私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。
がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。

今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。
しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。
心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。
そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。
****************************************(終)

ダボス会議は「世界経済フォーラム」というシンクタンクがスイスのダボスで開く年次総会のこと。
その時々の流行に沿ってグローバリズムや新自由主義を謳いあげるような会議であると理解している。
かつてはソニーの何とかさんも、この会議の有力メンバだったような・・・。
或いは竹中平蔵とか。

今年は、欧米の雇用問題と二つの資本主義(欧米流、中国流)が話題になっていると、このところの新聞が伝えている。
(しかし、少なくとも「朝日新聞」は渡辺謙さんのスピーチを伝えていない。)

「ダボス会議 テーマは「資本主義」=「時代遅れの資本主義」の変革 ほか」(コチラ)
に非常に詳しく掲載されている。

どういう場所であれ、どういう立場であれ、
公然と脱原発を主張する芸能関係者は勇気のある人である

記録と記憶に残すために取り上げた。

嘉祥3年(850) 「頃来盗賊群をなし、黎甿害せられ、或いは暗中に火を放ち、或いは白昼に人を掠む。」 仁明天皇没、文徳天皇即位。

京都 神泉苑(2012-01-24)
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嘉祥3年(850)
この年
・年初
仁明天皇の病気が憂慮すべき常態となったこの頃の勅書に、
「聞くならく、頃来(このころ)盗賊群をなし、黎甿(れいぼう、人民)害せられ、或いは暗中に火を放ち、或いは白昼に人を掠(かす)む。・・・・」
とある。
京中の群盗を捜捕するために、検非違使だけではなく六衛府の兵力をももちいたが、十分な実効をあげなかった。
農民の生産の低下、国司ら官人の荒政、凶作と疫病がかれらの生活をこわし、それが群盗発生の根源となっていた。
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・左・右検非違使の権限が、京内での司獄また行刑にまで拡張しつつある。
この年、左・右検非違使が獄中の罪人の放免に関与している。さらに天安元年(857)には、かれらは朝廷に奏して、死罪を犯せるもの二人の誅(死刑の執行)を乞うに至る。
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仁明朝で桜を愛でる風潮が定着
これより先、嵯峨天皇が神泉苑で、また淳和天皇が内裏で催した「花宴」において、桜花がもてはやされていたという前史はあるが、桜を愛でる風潮が定着したのは、この仁明朝。
天皇の側近藤原良房の東京(左京)染殿の第や、その弟良相(よしみ)の西京の第は、桜で有名。
仁明天皇は染殿第に行幸して桜を楽しもうと思ったが、果たせずに崩御したと伝えられており(『文徳実録』仁寿元年3月10日条)、後年良房は、しばしば清和天皇を自第に招待しては観桜の宴を設けたことが『三代実録』に記されている。
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1月26日
・盗賊が横行し、左右京職・畿内諸国司に追捕を命じる。
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3月8日
・左右京・畿内・近江・丹波諸国百寺に誦経させ、帝釈天を安置。
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3月21日
・仁明天皇(41)、没
生母橘嘉智子は落髪して仏門に入る(5月に没)。
皇太子道康(みちやす)親王(24歳、母は冬嗣の娘順子)が践祚。
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3月25日
・第4皇子として惟仁親王(のちの清和天皇)が誕生。母親は藤原明子(あきらけいこ)、藤原良房の娘。11月、立太子。
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3月28日
・良岑宗貞(僧正遍照)出家。
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4月17日
文徳(もんとく)天皇、即位。母・藤原順子、皇太夫人となる。
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5月4日
・嵯峨天皇太皇太后橘嘉智子(65)、没。
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5月17日
・故橘逸勢に正五位を追贈し、本郷に帰葬を許す。
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7月
・洪水の為、山崎橋破損。
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7月9日
・文徳天皇皇女晏子内親王(母:藤原列子)を伊勢斎王に、慧子内親王(母:藤原列子)を賀茂斎王に卜定。
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7月17日
・故藤原冬嗣に太政大臣位を追贈。
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9月8日
・摂津国淀川口において八十島祭を催す。(八十島祭=即位儀礼の1つ。これが初見)
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10月15日
・信濃国建御名方富命神と建御名方富命前八坂刀売命神に従三位を授ける。
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11月6日
・興世書主(73)、没。
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11月25日
惟仁親王(生後8ヶ月)、立太子
文徳天皇の第一皇子惟喬親王は、承和11年(844)の生まれの7歳、母は紀名虎の娘静子(更衣)。桓武朝以降では、恒貞親王が9歳で立太子している例がある。
紀名虎は、中納言従三位紀梶長(きのかじなが、勝長かつなが。大同元年(806)没)の子で、静子の姉の種子が、仁明天皇の後宮に入り、常康(つねやす)親王・真子内親王を産んでいる。
紀氏の出身者で、公卿(参議以上)になったのは、承和3年(836)に73歳で没した紀百継が、その前年にようやく参議に任じられ、その前には弘仁10年(819)に参議で没した紀広浜まで遡る。
藤原北家は言うまでもなく、伴(旧、大伴)、橘氏などよりはるかに見劣りがする。
しかも紀名虎は、既に承和14年(847)に散位正四位下で没している。

一方、誕生したばかりの惟仁親王の方は、その外祖父藤原良房が右大臣正三位で、左大臣源常(みなもとのときわ、嵯峨源氏)に次ぐ地位を占め、47歳という働き盛り。
更に、良房は、仁明朝末年の嘉祥年間以降、朝廷での政務処理の面で、左大臣源常をはるかに凌駕していた。

惟仁親王の立太子により、惟喬親王は出家することになる。

台閣の首班は左大臣源常(ときわ)。
嵯峨の皇子で、父に寵愛されていた。「容儀閑雅にして、言論和順」といわれる。
右大臣良房は、その機略をもってこの温雅な皇親政治家と十分な調和をはかりながら、大政を掌握していた。
この時、太政官には、常のほかに大納言信(まこと)、中納言の定(さだむ)・弘(ひろむ)が席を占め、政治的力量という点では問題はあるが、天皇との密接な関係においてはあなどりがたい大勢力を形成していた。
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2012年1月27日金曜日

京都 北野天満宮の梅 2012-01-25 ロウバイは満開

京都北野天満宮の梅
江戸城(皇居)梅林坂でも同じであるが、今年の梅はかなり遅い。
正月の新聞では梅の花開くと報じられた北野天満宮ですら、1月25日時点では、まだ「ちらほら」以下の状況。
絵馬堂前の梅はすぐに見つかるが、その他はかなり目を凝らして探さないと見つからない。

梅の開花状況以外は、
絵馬などの様子(コチラ)
初天神の骨董市など(コチラ)




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皇居梅林坂の梅の1月30日の状況はコチラ
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▼ロウバイは満開
アマチュア・カメラマンが周囲を囲んでいた。
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闘病中の母が1月21日夕方、静かに逝った。
七回目の周り年の誕生日を迎え、父の三回忌を終えてすぐだった。
通夜(22日)、告別式(23日)は、子、孫、ひ孫合わせて20数名のみで執り行った。
濃密なときが過ぎた。
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1月24日はご近所の方々の弔問がありその対応。
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1月25日、京都の街を散歩。
朝のうちは晴れ、午後は小雪舞う天候であった。
ルートは、
バスで西本願寺前、そこから歩いて、
島原の遊郭街~梅小路公園(清盛の西八条第跡)~東寺~羅生門跡~西寺跡~西大路九条へ。
次に、
バスで西大路を北上。
北野天満宮へ、そこから歩いて
平野神社~上七軒(これまた遊郭街)~千本通り(旧朱雀大路)を南下~五番町(ここも旧色街)~旧平安京内裏跡を通り抜けて堀川丸太町へ。
合計5時間くらい歩いたか。
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