2023年3月31日金曜日

国交省元次官、「OBを社長に」要求 空港関連会社の人事に介入か(朝日) / 「有力OBの名代」の真意は 国交省元次官、取材に「威圧ではない」(朝日) / 「有力国交省OBの名代」元次官が発言 空港会社の人事介入か(毎日) / 「OBを社長に…」国交省元事務次官が人事介入か(テレ朝) / 「えっ?その話?ここで?」 国交省元次官に人事介入された社長は(朝日) / 元国交次官に発言内容聴取 - 斉藤氏「誤解招き遺憾」(共同)

 

日銀人事、140年の歴史で「女性ゼロ」でも問題視されない異様さ。英機関「日本は前進の機会が5年遠のいた」(BUSINESS INSIDER); G7最下位どころではなくなってきた日本のジェンダー問題。 「世界185行のうち142位」 「日本と近い低スコアの国は、イラク(136位)」   

全斗煥の孫のチョン・ウウォン氏が5.18光州民主化運動の犠牲者墓地を訪れ、決して罪を認めなかった祖父に代わり遺族に謝罪。経緯はともかく立派な行為だと思う。報道を見ながら思わず涙ぐんでしまった。ー 徐台教(ソ・テギョ, 서태교)

 

〈藤原定家の時代316〉建久10(1199)年1月20日~2月13日 源通親、人事を強行(右大将兼任と頼家の左中将昇進) 「院中物騒にて、上辺兵革の疑い有り」 「京中騒動し、衆口狂乱す」(「明月記」) 頼家(18)が鎌倉殿を継ぐ宣旨    

 


〈藤原定家の時代315〉建久10(1199)年1月1日~1月16日 頼朝の急死 「カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ、アサマシキ事出(いで)キヌ、同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ、ヤガテ正月十一日出家シテ、同十三日ニウセニケリト、・・・・・夢カ現カト人思タリキ」(『愚管抄』) より続く

1月20日

・頼朝の計報に接した権大納言源通親は、知らぬ体を装ってこの日朝、急遽小除目を行い、摂政藤原基通の内覧をも省略して、自らの右大将兼任と頼朝の子息頼家の左中将昇進を強行。その後、頼朝没を正式に朝廷に報告、喪に服す。

本来ならば、頼朝のために喪を発し、その期間内は人事異動を延期する慣例であるが、通親は頼朝没の正式発表前に自分の右近衛大将就任を繰上で発動、そして、右近衛大将の推薦という形式で(次期将軍になるであろう)頼朝の嫡男源頼家の左近衛中将任命の手続きを取り「頼朝死去」の喪を公表して直ちに閉門蟄居・謹慎。

また、この年、通親は内大臣に昇進。後白河・頼朝は亡く、兼実も失脚し、朝廷・幕府・院の全てが通親の意向を重んじ、かつての摂関政治を髣髴とさせる状況を生み出す。

頼家の件は、頼朝が亡くなれば服喪のため除目を行なうことはできなくなる。その除目を頼朝の死去を知っていながら行なったとなると、それは幕府を愚弄することになろう。この措置は、京都守護だった故一条能保の部等らによって、ただちに鎌倉へ伝えられている。

1月21日

・定家(38)、風病を病み、数日間体調不良。

1月22日

・この日から、京都は「院中物忩、上の辺り兵革の疑いあり」「京中騒動」の巷説が駆け巡って緊迫した情勢となり、通親は、「今、外に出ては殺されかねない」と院御所に立て籠もる(「只今マカリ出デバ殺サレ候ナンズ」(『愚管抄』))。

「右大将初任の翌日より閉門す。前の将軍有事の由奏聞せず(傍輩また此の如し)。見存の由を称し、除目を行うの後薨逝を聞き、忽ち驚歎するの由、相示さんが為に閉門すと。奇謀の至りなり。また巷説に云く、院中物騒にて、上辺兵革の疑い有り。御祈り千万神馬を引かる。」(「明月記」22日条)

1月26日

・幕府が申請していないにもかかわらず、「故頼朝卿家人、右近中将頼家に随(したが)ひ、諸国守護を奉仕すべきの由宣下す」(『百練抄』建久10年1月25日条)という宣旨が発給され、頼家(18)が鎌倉殿を継ぐ。二代目源家将軍が誕生。頼家が正式に征現大将軍に任命されるのは建仁2年(1202)7月23日だが、家督の継承により幕府の最高権力者の地位は確定しているので、この時の任命は追認にすぎない。

通親ら朝廷首脳部は、頼朝の死による幕府の混乱・解体ではなく、幕府権力の二代頼家への円滑な移行を望んだ。

「吾妻鏡」は、父の偉業に押し潰され、悪評高き輩を近づけ、家人の妻を奪うなどの頼家の行状が多くの人々の怨みを買うとの悪評を書く。

1月26日

「巷説、京中騒動し、衆口狂乱す。院中また物騒にて新大将猶世間を恐ると。」(「明月記」)

1月28日

「世間の狂言日を遂って嗷々す。院中の警固軍陣の如しと。」(「明月記」)

1月30日

・定家、嵯峨に行く。

「天下の穢に依って、諸社祭停止の由仰せらるると。」(「明月記」)

2月2日

「今日寅の時八幡炎上有り。西谷大塔・小塔・釈迦堂・鐘楼小屋等少々と。」

2月2日

・藤原定家(38)、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕

2月6日

・26日付け宣旨が到着し、この日、政所にて頼家の吉書始め(業務の開始)の儀式。『頼家紀』この吉書始かの記事から始まる。

三善康信が起草し中原仲業(なかなり)が清書した「武蔵国海月(くらき)郡」に関わる吉書が、大江広元より頼家のもとに進上される。

儀式に参列した人びとは、

政所    大江広元(別当)、中原仲業(別当か)、二階堂行政(令)、源光行(?)

問注所   三善善信(執事)

侍 所   和田義盛(別当)、梶原景時(所司)

公事奉行大 平盛時、三善宣衡

その他  北条時政、三浦義澄、八田知家、比企能員

2月8日

・定家(38)、休暇を取って妻を連れて三条坊門(俊成)を訪ねた、その後、嵯峨に向い12日まで滞在。10日、11日、清涼寺に参詣。

2月11日

・この日になって、左馬頭源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなる。

翌12日、関東から飛脚が到来して幕府が通親を支持する方針が伝えられたらしく、「右大将光を放つ。損亡すべき人々多し」という情報が流れる。

「一昨日京中忽ち騒動す。隆保朝臣北小路東洞院に行き向かい、諸武士を喚集し議定す。この事に依って天下また狂乱す。衆口嗷々すと。これ皆不幸の人殃を招くべきの故か。」(『明月記』11日条) 。

「関東の飛脚帰京す。右大将光を放ち、損亡すべき人々等多しと。」(『明月記』12日条)

2月13日

・定家(38)、亡母の忌日仏事


つづく

2023年3月30日木曜日

鎌倉 明月院と浄智寺の枝垂れ桜 モミジの新緑が眩しい 明月院の海棠、シャガ、山吹、スノーフレーク 2023-03-30

3月30日(木)晴れ

今日は明月院の枝垂れ桜を観に行った。満開であった。一体、何本の枝垂れ桜があるのだろうか。白色やら紅色やらのそれらが、光の当たり方によってそれぞれ微妙に変化して、まったく飽きない美しさだ。







▼もみじの新緑が眩しい


▼枝垂れ桜

▼海棠

▼シャガ

▼山吹
▼スノーフレーク

▼次に、浄智寺に移動。
枝垂れ桜は終盤。ただ、散った桜の花びらがさくらそうの上に落ちてゆくという、なかなか贅沢な光景があった。
ここでも新緑の眩しさが目立った。







〈藤原定家の時代315〉建久10(1199)年1月1日~1月16日 頼朝の急死 「カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ、アサマシキ事出(いで)キヌ、同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ、ヤガテ正月十一日出家シテ、同十三日ニウセニケリト、・・・・・夢カ現カト人思タリキ」(『愚管抄』)

 


〈藤原定家の時代314〉建久9(1198)年2月22日~12月晦日 定家(37)、頼長『台記』を抄出する 頼家長子一幡誕生 母は若狭局(比企能員娘) 「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」(「神皇正統録」) より続く

建久10(1199)年

・俊芿(しゅんじょう)の入宋。宋文物の進取的・総合的招来。

前年、戒律求法のため入宋を発願し100日間の不眠の行を修し、この年、博多から入宋。

「径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで、12年後の1211年(建暦元年)日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。」(Wikipediaより引用)


1月1日

・昏に臨み雷電地震あり。二年続きで元日に日蝕。

1月1日

・定家(38)、「今年病息災ヲ除ク為」に写経

1月4日

・定家(38)、「風気不快」。この頃、風病を病む。

日吉社から戻り、中宮任子(兼実の娘、宮中を追われている)の九条殿を訪れる。

「元三の間、人人多く宮(任子)に参ずと云々。申の時許リ大臣殿(良経)に参ず。相次で宮御所に参ず。巽(東南)の方、悉く造り畢(おわん)ぬ。風流の勝形、仙洞(院御所)に興らず。殿下(兼実)御覧じ廻る。召しにより御前に参じ、御供して暫く徘徊す。自ら御所の御格子を下げしめ給う。」

九条殿では正月三ヵ日、中宮任子に挨拶に参る人が多かった。兼実が任子のために新しく御所を造っていた。その御所は「風流の勝形、仙洞に異らず」と記すように、院御所にも劣らない立派な殿舎であった。

「この年は、風病だけではなく、脚気、腰痛、手足苦痛、咳病などがこもごも彼を襲い、腰痛のときには「焼石」なる石を温めたものを腰にあててみたが、効かないどころかますますひどくなり、車に乗せられて嵯峨の山荘へ行って湯治をしている」(『定家明月記私抄』)

1月5日

・定家(38)、式子の大炊殿に拝賀。兼実は、腫物が出来て、六十草ばかり灸治を行っている。

1月7日

・定家(38)、長男光家(16)を連れて九条殿へ行き、兼実や良経、中宮任子に面会。兼実より過分の仰せ事を賜う。光家は、樺桜浮文の織物・狩衣・萌黄の衣・紫の指貫に、紅の下袴という優美な出立ち。

1月11日

・頼朝、急病のため出家。

1月11日

・定家(38)、八条院の八幡御幸に供奉、浄衣を着す。

八条院の女房の戸部宗頼の妻が、「虚言狂乱、言語道断ノ事」に怒って「喧嘩口舌」、健御前(5歳年超の定家姉)と諍う。健御前が八条院に忠なるため、戸部夫婦は追い出しにかかる様子だとある。「凶女ノ舌端、虎口ニ入ルガ如シ」。健御前は院を出て定家のもとに避難。

1月13日

・源頼朝(53)急死。

安達盛長、出家、蓮西と号する。

政子(42)は剃髪し尼御台となる。

死因は、稲毛重成が亡妻の追福のために相模川の橋を新造し、その供養が前年10月に行われ、頼朝も列席したが、その帰り道で頼朝は馬から落ち、その後しばらくして亡くなったとされている。

しかし、落馬そのものが単なる事故なのか、それとも脳溢血のような急病だったのか、あるいはまたそれ以上に暗い背後の事情があったのかは判断できない。

頼朝の死については、『吾妻鏡』が建久7年(1196)1月から建久10年(1199)1月まで記事を欠いていることもあって、詳しいことは不明。

ただ、よく知られているように、建暦2年(1212)2月、相模川に架かる橋の修理が幕府の評議で検討された際に、「去る建久九年、重成法師これを新造し、供養を遂ぐるの日、結縁のために故将軍家渡御す。遠路に及びて御落馬あり。幾程を経ず葬じ給ひ畢んぬ」(『吾妻鏡』建暦2年2月28日条)と話題になり、この記事に基づけば、頼朝は相模川の橋供養の帰りに落馬し、それから間もなくして亡くなったことになる。

なお、摂政基通の子で権大納言近衛家実は、「前石大将頼朝卿、飲水に依り重病」(『猪隈関白記』建久10年1月18日条)と記し、頼朝が「飲水」(糖尿病)で重体に陥っていたと伝えている。

京都の人びとの驚いた様子は、『愚管抄』に「夢か現かと」人びとは思ったという慈円の形容や、『明月記』に定家が記した「頓病(急病)か」という言葉に表れている。

そして急死であり、その意味で尋常でない死であったがゆえか、頼朝の死は彼によって滅ぼされた人びとの怨霊の祟りとする見方もあった。

例えば『保暦間記(ほうりやくかんき)』は次のような話を載せている。

橋供養の帰途、頼朝が八的(やまと)ケ原にさしかかると、志田義広・義経・行家などの亡霊が現れて頼朝とにらみ合いになり、さらに稲村ケ崎に至って、海上に十歳ばかりの童子姿で安徳天皇の亡霊が現れ「今こそ(頼朝を)見つけたぞ」と叫んだ。その後、鎌倉に帰って頼朝は病みついて亡くなったが、これは老死ではなく平家の怨霊のせいであり、多くの人を滅ぼしたためだというものである。八的ケ原というのは現在の藤沢市辻堂付近の海岸に当たるが、この場所は、生虜になった平家関係者が鎌倉への行き帰りに通った道筋であり、頼朝に鎌倉入りを拒まれた義経が弁明の状を捧げた腰越にも近い。さらに頼朝の本拠である鎌倉の西端から出たところで、頼朝を狙う怨霊が出現する場所として条件は揃っている。

権力者の不幸の背後に、その人物によって敗亡した人びとの怨霊の崇りを見るのは、当時の社会にあってはごく当然のことでもあった。とりわけ大量の犠牲者を生んだ、保元・平治から治承・寿永にかけての争乱期には、こうした噂が広く行われ、治承・寿永の争乱自体が、崇徳上皇・藤原頼長ら魔道に堕ちた保元・平治の乱の敗者たちの怨霊のせいだとまで考えられていた。

この争乱時代を生き延びて天寿を全うした後白河さえ、死を前にして痢病に苦しみ、怨霊の恐怖に怯えながら、崇徳・安徳をはじめとする戦乱の犠牲者たちの菩提を祈る措置を請じている。頼朝もまた生前、崇徳の慰霊や、奥州合戦の死者の鎮魂に努めたりしていたが、死の数年前からの『吾妻鏡』には、怨霊の崇りを窺わせる怪異についての記事が散見される。そうした時代にあっては、平氏を遂い、源氏一族を粛清し、弟たちをも滅ぼした頼朝の死に関して、怨霊の出現が放り沙汰されるのは必然だったともいえるのである。

「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」(「保暦間記」)。

「前右大将所労に依り、獲麟(かくりん)。去る十一日出家の曲、飛脚を以て夜前に院に申さる。…‥朝家の大事、何事かこれに過ぎんや。怖畏逼迫の世か」(建久10年1月18日条)

「嫡子少将頼家を喚出し、宣玉ひけるは、「頼朝は運命既に尽ぬ。なからん時、千万糸惜せよ。八ヶ国の大名・高家が凶害に付くべからず。畠山を憑て日本国をば鎮護すべし」と遺言をし給ひける。」(「承久記」)。

「カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ、アサマシキ事出(いで)キヌ、同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ、ヤガテ正月十一日出家シテ、同十三日ニウセニケリト、・・・・・夢カ現(うつつ)カト人思タリキ」(慈円『愚管抄』)

1月13日

・定家(38)、八条院日吉御幸に供奉

1月16日

・藤原定家(38)、光家を連れて、大炊殿・三条殿・禁中をめぐる。

頼朝死去。

以降、

「院中物忩。上ノ辺り、兵革ノ疑ヒアリ」

「巷談、京中騒動、衆口狂乱、院中又物忩」

「与州以下、宿所ニ会合シ、院中ヲ警固ス。女房等凡テ人ヲ出サル。何事ナルヲ知ラズ」

「世間ノ狂言、逐日嗷々。院中ノ警固、軍陣ノ如シト云々」

との記事が続く。


つづく


2023年3月29日水曜日

突っ込みどころ満載の維新のオッチャン → 「24時間選挙のことを考え、実行できる女性少ない」 維新・馬場氏(朝日);「女性が政界に進出するのはウェルカムだが、、、」 / 「選挙は非常に厳しい戦いだ。女性の優先枠を設けることは我が党としては全く考えていない。私自身も1年365日24時間、寝ているときとお風呂に入っているとき以外、常に選挙を考えて政治活動をしている。それを受け入れて実行できる女性はかなり少ないと思う」   

 



 

自宅近くを桜散歩 ソメイヨシノ満開 ベニシダレ満開 八重桜「マイヒメ」「イチヨウ」開花 山桜 2023-03-29

3月29日(水)、晴れ

一日を通して晴れというのは、一週間ぶりとのこと。昼過ぎ、自宅周辺を散歩した。ソメイヨシノは、既に散り始めてはいるもののまだ満開・見頃を維持しているのも多い。また、八重桜もちらほら見え始めてきた。

▼駅前の某公園脇の桜並木


▼某団地の中庭 ソメイヨシノとベニシダレが咲き乱れている



▼ベニシダレ

▼八重桜「マイヒメ」(看板あり)

▼八重桜「イチヨウ」(推定、看板なし)

▼路傍に咲いている山桜(推定)


高市早苗氏は地元や総務省から総スカン…捏造発言は職員への「配慮」と主張の支離滅裂(日刊ゲンダイ) / 奈良県連古参幹部が明かした…!「放送法文書で炎上中の高市早苗氏」が、地元・奈良で「嫌われてしまった理由」(現代ビジネス);「高市さんが『本部のことは会長の仕事。私に任せなさい。私が絶対に決める』…保守分裂への懸念も『大丈夫だと言っているでしょう! 』と一蹴し、国会答弁でお馴染みの口調で押し切った」  

 



 

〈藤原定家の時代314〉建久9(1198)年2月22日~12月晦日 定家(37)、頼長『台記』を抄出する 頼家長子一幡誕生 母は若狭局(比企能員娘) 「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」(「神皇正統録」)

 


〈藤原定家の時代313〉建久9(1198)年2月1日~2月21日 定家(37)の体調不良続く 「心神忽チ違乱シ、俄ニ病悩。終夜辛苦す。」 後鳥羽の乱痴気騒ぎ 大雨になれば定家の「荒屋悉ク漏ル」 より続く

建久9(1198)年

2月22日

・藤原定家(37)、良経の北小路殿に赴き、藤原頼長の「宇治左府御別記(御即位)」(『台記別記』)を見る。3月の土御門即位に備えての勉強。多くの不審が散じたと記し、27日にはその『台記』の記事を少し抄出する。

「二月二十二日。天晴。午ノ時許リニ、北小路殿ニ参ズ。宇治左府別記ヲ給フ(御即位)。之ヲ見、多ク不審ヲ散ジ了ンヌ。其ノ奥ニ画図等アリ。彼ノ日ノ物具等ノ体ナリ。」

2月24日

・定家(37)、式子内親王に、桜の木をいただいて自庭に植える。

2月25日

・定家(37)、良経から、雪に竹の歌をしらべるよう命じられる。三代集・『後拾遺集』『金葉集』『柿本集』『貫之集』になく、『久安百首』『堀川百首』『千載集』から書いて進上するが、『万葉集』以下を引見するよう命じられ、『古今和歌六帖』から二首をみつける。

また、荒法師文覚が、兼実の許に来て、近日のわが秀歌として、次の歌を示したという。

世のなかのなりはつるこそかなしけれひとのするのはわがするぞかし

文覚は、「此歌、心を殊勝に籠む。但し咎むる人あらば、文覚の事と謂ふべきの由称ふ」と言ったという。定家は、〈誠ニ心無キ歌ニアラザルナリ。不思議ナリ〉と記す。

「二月二十五日。天晴。殿ヨリ仰セテ云フ、竹ニ雪降ルノ古歌、少々注シ進ムベシト。予、此ノ仰セヲ蒙ルノ後、三代集幷ニ後拾遺・金葉集ヲ引見スルノ処、竹ニ雪ノ歌無シ。近代常ニ詠ム歌ナリ。定メテ巨多カノ由、存ズル処、更ニ見ズ。詞華集当時持タザルノ間、又柿本・紀氏集ヲ勘へ見ル。遂ニ以テ之レナシ。仍テ崇徳院百首・堀川百首幷ニ千載集ヲ予(タマ)ハリ、二首(読人、共ニ以テ然ルべキ人ニアラズ)ヲ書キテ持チ参ズ。御前ニ召シ、仰ス事等アリ。猶万葉集以下ヲ引見スべキカノ由、仰セアリ。其ノ歌又雑用卜質(ナ)スカ。是レ引物ノ絵ニ、竹ニ雪ヲ画カレ了ンヌ。歌ニ絵所ノタメニ求メラルルナリ。即チ候(タヅ)ヌル所等ヲ御覧ズ。若君同ジクオハシマス。- 此ノ間ニ又侍ヲ以テ仰セテ云フ、雪ニ歌、猶求メ出スベシトイヘリ。仍テ退下シ、更ニ和歌六帖ヲ引見ス。二首ヲ勘へ出シ、之ヲ献ズ。其ノ内、

あしびきの山より雪はふりくれどいつもかはらぬわが宿の竹

是レ頗ル祝言ニ寄セ、用フベキ由仰セラル。六帖、又勅撰ノ如キニアラズト雖モ、和歌ニ於テ軽々シカラザル物ナリ。何事カアランヤノ由申シ了り、又退下ス。」

2月26日

・定家(37)、北山長谷の方に売地ありときき遠路検分にゆくが気に入らない。

「二月二十六日。天晴。辰終許リニ、門ヲ出テ、北山ノ長谷ノ方ニ向フ。売地アルニ依り、行キ向フ所ナリ。 - 貴賢人ノ旧跡卜雖モ、其ノ所甚ダ輿ナシ。已ニ相伝ノ思ヒ無シ。空シク帰路ニ赴キ、未ノ時許リニ帰宅ス。遠路無益々々。」

2月27日

・定家(37)、『台記別記』を少し抄出する

2月28日

・定家(37)、仁和寺の守覚法親王に参じて、御室本「官庁指図(官庁御即位の図)」筆写

2月29日

・定家(37)、伊予少将より「元暦之式(元暦の即位式の記録)」を借りて書写。ついで不審のところを坊門大納言・堀川宰相中将等に尋ねる。

「家絶エ、心愚カナリ。万事只ニ惘然。期ニ臨ミテ諸方ニ問フ。又後世ノ人無シ。適々尋ネ得ル事、是レ万々ニ一カ。然リト雖モ、又励ミ営マズンバ有ルべカラズ。九牛ノ一毛卜雖モ、猶師ノ説大切ノ故ナリ」と、故実を尋ねる定家の心境を記す。


3月3日

・為仁親王(4)、即位(第83代天皇、土御門天皇)。


4月4日

・源通親(1149~1202)、後鳥羽上皇執事となり、「院中申行諸事之人也」と評され(「猪隈関白記」建仁2年(1202)10月21日条)、更に通親没後、その弟通資(~1205)も「非器無才」といわれ懇望して執事の地位につく(「明月記」建仁3年2月2日条)。


5月

・『和歌色葉』(上覚)成立

5月2日

・『後京極殿御自歌合』(藤原良経)成立

5月20日

・この日より「鳥羽百首」(明日香井集)

8月16日

・後鳥羽上皇、初めて熊野へ御幸。


10月

・越前の真柄荘(武生市上真柄町・真柄町)、七条院庁下文により御願寺の仁和寺歓喜寿院領に編成される。

真柄荘は、橘行盛の私領真柄保とそこに建立された氏寺の料田4町が母体になり、建久3年8月越前の分国主七条院の兄藤原信定に譲られる。橘氏は、信定又は父信隆の母方縁者とみられる。信定は翌4年越前守に補任。真柄保領有について訴訟で、記録所の勘状により真柄保は無主の国領と認定される。このため信定はこれを七条院に寄進、この月七条院庁下文により仁和寺歓喜寿院領に編成される。預所職は信定の子の侍従信継に伝えられる(信継の兄弟の仁和寺僧信長は歓喜寿院執行)。鎌倉末期、真柄荘領主職を巡り仁和寺側と領家が訴訟。真柄荘の地頭の所見はないが、南北朝期迄に武士真柄氏が成長。

10月16日

・興福寺衆徒の訴えにより和泉守平宗信の任を停止する

11月14日

・藤原兼雅が左大臣、藤原頼実が右大臣となる。


12月

・頼家長子・一幡、誕生。

母は頼家側室の比企能員娘の若狭局。能員は外戚として権勢を振う。

12月10日

・定家(37)、臨時祭舞人拝命

12月16日

・平宗信を解任して播磨へ流し、僧玄俊を佐渡へ配流。

12月27日

・稲毛重成亡妻の追善のため相模川に架橋して供養し、頼朝赴く。帰路、頼朝落馬

「相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。」(「承久記」)。

「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」(「保暦間記」)。

「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」(「神皇正統録」)。

12月晦日

・定家(37)、日吉社参観籠。翌年正月4日、帰宅。


つづく

史跡 〈旧相模川橋脚〉 2019-08-10



記憶で記録を否定する高市早苗 → 総務省が行政文書と認めたものを「怪文書の類い」「ねつ造」と虚言を吐き続ける高市早苗。 「私から考えたら」「私に記憶にはない」「私が言うわけがない」。記録がありながら、こんな「言い訳」が通用するなら警察も役立たずの無法国家に。 (画像 news23) / 参院予算委要旨 高市氏「配慮して『捏造』と言った」「偽造でも、変造でもない」 / 放送法解釈「怪文書の類い」 高市氏、閣僚辞任否定 / 2月13日のレクで、安藤局長、長塩課長、西潟氏の3人が、大臣レクのメモを作成。その3人は「ねつ造してない」と証言。だが、高市大臣は、メモ作成者でない大臣側の参事官や秘書官が「記憶がない」と言ってると反論 / (公文書)記録か? (デマ常習者の)記憶か? → 8日「レクを受けた筈もございません」 3/13「レク、確認の取りようが無い…」 3/14「大臣レクってあり得たのでは…」 / (国葬反対の書き込みの8割は隣の大陸のときは) → 「私自身もどなたからどこで何を聞いたかということを思い出せない場合もございますので」 / 高市大臣が"ねつ造"、存在しなかったとする「大臣レク」文書には日時、場所、出席者、文書作成者も記されている。 この文書作成者は現職の課長なのに総務省はレクがあったかなかったかすら「確認できない」と高市早苗をかばう → 総務省「高市大臣レク」メモの作成者を確認 レクがあったかは精査中と説明(日テレ) / 総務省、元首相補佐官の強要否定 高市氏資料は精査継続(共同) / 高市大臣「責任感じる大変申し訳ない」正確性確認できない文書が総務省に保存で(TBS) ← 自分の延命のためには公文書の信頼性毀損など気にしない!     

 

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2023年3月28日火曜日

学校も教育委員会も間違っている! → 「清潔じゃない」“黒人ルーツの髪形”理由に卒業式で生徒を「隔離」 実は…父親は“アメリカ国籍の黒人”だった(FNN);「教育委員会側は、学校の対応について「不適切とはいえない」としながらも、「生徒側にもっと寄り添った対応は可能だった」としている。」     

 

〈藤原定家の時代313〉建久9(1198)年2月1日~2月21日 定家(37)の体調不良続く 「心神忽チ違乱シ、俄ニ病悩。終夜辛苦す。」 後鳥羽の乱痴気騒ぎ 大雨になれば定家の「荒屋悉ク漏ル」   

 


〈藤原定家の時代312〉建久9(1198)年1月1日~1月30日 後鳥羽天皇(19)譲位、土御門天皇(4)受禅 源通親は天皇外祖父として後鳥羽院の院庁別当 左近衛権少将になって9年、従四位になって8年、定家(37)に昇進の兆しなし 定家、体調不良をおして『春記』書写 「太上皇密々女房車ニ乗リ、、、、近日、京中幷ニ辺地ヲ日夜御歴覧。」(『明月記』) より続く

建久9(1198)年

2月1日

・藤原定家(37)、新任の人に賀状を送ったり、祝賀の訪問。この日、俄かに病悩。以下、この月、風病や咳病等体調不良

2日、3日は心神違乱病悩し、春日祭の御祓には失礼する。後鳥羽院は、西郊の女院に御幸、人無き故、定家の参仕を求められたが、なお病術無き由を答える。宮女房の許に車を送る。密々御幸見物のためである。雑色等が帰って、供奉の殿上人の名を報告する。

5日もまだ風病が癒らないが沐浴。咳しきりに出て不快。

「心神忽チ違乱シ、俄ニ病悩。終夜辛苦す。」(2日条)

2月6日

「二月六日。天陰ル。辰後ニ晴ル。心神殊ニ悩ム。重病ヲ扶ケテ、今日旧記七巻ヲ書キ訖ンヌ。宿習ノ催シニ依り、病悩ヲ顧ミズ功ヲ終へ了ンヌ。世以テ之ヲ秘ス。外見スべカラズ。外見スベカラズ。」

『資房卿記』(官名〈春宮権大夫〉により『春記』)7巻を11日かかって写し終えた感懐が、〈外見スベカラズ〉の繰返しにあらわれている。

2月7日

「二月七日。天晴。先日給ハル所ノ記七巻(一帙ノ櫃一合)、女房ニ付ケ、返上シ了ンヌ。 - 又、時々彼ノ院ニ参ズル殿上人等、少々相催ス(雅行朝臣・有通・行房・範宗)。隆信朝臣両息参ゼシムべキ由、厳閣ニ申シ、相示ス。近日彼ノ院中、万事言フニ足ラザルカ。仍テ不肖ノ物、忽チ奉行スルノミ。弥々領状ノ人無キカ。咳病殊ニ術無シ。心神甚ダ悩ム。」

『資房卿記』七巻を返却。後鳥羽院の身辺は、〈万事言フニ足ラザルカ〉と批判。

藤原隆信は、定家の異父兄で、肖像画の名手。平重盛像、源頼朝像がある。その子の信実もまた絵をよくし、後鳥羽院像や、三十六歌仙の画像があり、その妹の今姫も絵の上手であり、後年定家は、家を新築した折、襖絵を依頼した。

2月9日

・定家(37)、9日、10日、11日と咳病に苦しむ。

2月12日

・定家(37)、咳病をおして歓喜光院修二月会奉行勤仕。この日、健御前も仏事を修し、定家の妻も参堂した。

2月13日

・定家(37)、亡母の忌日仏事、また持仏堂修二月会を修す

2月14日

・後鳥羽院、石清水参詣、久我の通親邸に3日逗留、17日夕方御所に戻る。検校成清はこの御幸に「海内の財力を尽く」して奉仕(「明月記」)。頼朝派とみられている成清はこの機会に通親に接近、女婿別当道清は通親の知遇を得る。

2月14日

・御鳥羽院の八幡御幸があり、定家は、〈是レ見物スベシト雖モ、本ヨリ好マザルナリ〉といいながらも、桟敷で見物した友人が告げて来た始終をひかえている。衣裳のことを微細に記し、里神楽があったこと、巫女三人が舞ったことを記す。近習の人々も皆浄衣を着て奉仕し、若宮では、巫女三十人あまり、老若とりまぜて参集、乱舞に堪能の輩は、白拍子を舞った。「これはもう乱痴気騒ぎである」(堀田善衛『定家明月記私抄』)この日、院は鳥羽の北殿に宿った。

2月15日

「二月十五日。朝天晴。午後俄ニ陰り。風雨猛烈。即チ晴ル。上皇昨日還御ナシ。久我ニ御逗留(通親卿宅)。種々ノ御遊等アリト云々。八幡検校成清、海内ノ財力ヲ尽スト云々。鳥羽ニ入リオハシマス。供奉ノ人、退出ス、其ノ後、近臣等供奉シ、久我ニ入リオハシマスト云々。」

院は、翌日久我から鳥羽殿へ、そしてまた久我に宿泊、源通親の第である。通親は、後鳥羽の乳母藤原範子を妻としていて、範子の先夫能円との間の在子を養女として、後鳥羽後宮に入れた。土御門天皇の母である。八幡検校成清が、その財力をつくして院をもてなした。

2月17日

・やっと定家の風邪が癒える。

2月19日

・夜、後鳥羽院は城南寺に御幸、御供の人皆悉く船を儲けた。そこへ逗留のことははっきりせず、近臣は周章。鳥羽殿で先ず競馬、ついで「近辺ノ鶏ヲ取り聚(アツ)メ」、老若二陣に分けて鶏合(トリアハセ)という遊行。老人組の敗けとあって通親の邸で宴遊、また鳥羽殿で鶏合、今度は若組の負けで、そちらへ押しかける。「職事奉行、惣ジテ暗夜カ。悲シムベキノ世ナリ」(「明月記」)と、定家は慨歎。

2月20日

・定家(37)、土御門天皇の大内遷幸に際し内侍所に供奉

2月21日

・夜大雷鳴、大雨。定家の「荒屋悉ク漏ル」(「明月記」)。咳病なお堪え難きさ中。


つづく

2023年3月27日月曜日

花曇りの横浜桜(満開)散歩 元町公園バス停付近 港の見える丘公園 県立近代文学館周辺 山下公園 象の鼻(一葉が開花) みなとみらい汽車道 2023-03-27

 3月27日(月)曇り

今日は、花曇りの中、桜を観ながら港の見える丘公園辺りからみなとみらいまでを歩いた。

コースは、元町中華街駅~外人墓地~元町公園バス停~港の見える丘公園~県立近代文学館周辺~フランス山公園~山下公園~赤レンガ倉庫~汽車道~関内駅で総歩数1万5千歩。

このところ雨が続いたせいか、曇り空のウィークデイなのに人出は多かった。

▼元町公園バス停付近






▼港の見える丘公園

▼県立近代文学館周辺



▼山下公園
枝垂桜はもう終わっていた。


▼象の鼻エリア
もう八重桜「一葉」が開花している

▼みなとみらい 汽車道あたり
緑の葉の目立つ桜は、ヤマザクラ(多分)




〈藤原定家の時代312〉建久9(1198)年1月1日~1月30日 後鳥羽天皇(19)譲位、土御門天皇(4)受禅 源通親は天皇外祖父として後鳥羽院の院庁別当 左近衛権少将になって9年、従四位になって8年、定家(37)に昇進の兆しなし 定家、体調不良をおして『春記』書写 「太上皇密々女房車ニ乗リ、、、、近日、京中幷ニ辺地ヲ日夜御歴覧。」(『明月記』)       

 


〈藤原定家の時代311〉建久8(1197)年1月20日~12月15日 大姫(19)没 8万4千基の宝塔供養(保元以来の諸国の戦没者の霊を弔う) 「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空 」(定家) 源頼家(16)従五位右近衛少将 より続く

建久9(1198)年

・法然の「選択本願念仏集」、栄西の「興禅護国論」が出る。

・熊谷直実、法然を師として仏門に入り、蓮生と名乗り、京都西岡の地に草庵を構える。法然を開山として念仏三味院といったのが光明寺(長岡京市粟生西条ノ内26)の始まりであるという。

熊谷直実(1141~1208):

源頼朝の御家人。1180年頼朝に従い常陸の佐竹秀義討伐に戦功をあげ、久下直光の押領地を停めて旧領を安堵される。1184年宇治川の戦では先陣として活躍。同年一の谷の戦では、源義経に従い平山季重と先陣の功を争う。海上に逃れようとする笛の名手平敦盛(16)をそのままにしようとするが、周囲の武士に咎めめられたため、敦盛を呼びとめ討取る。1187年鶴岡八幡宮の放生会で、流鏑馬の的立役を命じられるが、役目に不満で勤めず、所領の半分を召し上げられる。1192年久下直光と土地境界線で揉め、頼朝の前で対決するが、充分に弁明できず頼朝の不審を招き不利な採決が下る。証拠文書などを投げ捨て、幕府の西侍で髪を切り、行方不明となる。

・藤原定家(37)、為家誕生


1月1日

・この年、正月元日に日蝕。

1月1日

・藤原定家(37)、写経。

2日~4日、体調不良

「正月二日。天晴。辰ノ時以後、漸ク陰ル。未ノ時許リニ雨降ル。終夜止マズ。今日節会ナリ。申終許リニ八条殿ニ参ズ(略)。昏黒ニ退出シ、入道殿ニ参ズ。路頭ニ於テ秉燭。見参ノ後ニ退出シ参内。雨殊ニ甚シ。内弁已ニ中間ニ立ツノ間ナリ。雅人狼籍。甚雨ノ間、旁々進退谷(キハ)マル。 - 心神甚ダ歓楽。家門ニ人ルノ後、身体歓楽、忽チ為ス方ヲ知ラズ。終夜甚ダ歓楽。鶏鳴ニ臨ミ、頗ル落居ス。」 

正月、定家は参内に、兼実邸にと忙しく、緊張して疲れたのか、歓楽(病に苦しむ状態)して終夜眠らず、明け方やっとおさまる。

次の日は籠居。やはり終日、前夜のごとく苦悩、鶏鳴以後やっとよくなった。にもかかわらず、人の見聞を書きとめる。即ち、宗国少将の異例の衣裳を人々があざけり、兼実の御沓を取る役を源雅行に改定させたこと。有雅少将が縫腋を着したとか等。

4日も心神違例。風邪らしいので沐浴(当時の療法の一つ)。

1月6日

「或る人云く、譲位有るべしと。明後日ばかりに大炊殿に幸き、閑院を以て新帝宮と為すべしと。十一日・二十一日の間、譲国の儀有りと。」(「玉葉」同日条)。

1月6日

・藤原定家(37)、除目の聞書(叙位任官者の理由書)が到来するが、「無慙ノ世ナリ」。左近衛権少将に任ぜられてから9年、従四位になって8年になるが、九条家失脚の状況では官位昇進の望みはない。

1月7日

「譲位の事、譲国等の事、元より沙汰に及ばずと。幼主甘心せざるの由、東方頻りに申せしむと雖も、綸旨懇切、公朝法師下向の時、子細を仰せらるるの時、なまじいに承諾を申す。然れども皇子の中未だその人を定められず。関東許可の後、敢えて孔子の賦を取り、また御占いを行わる。皆能圓孫を以て吉兆たりと。仍って一定せられをはんぬ。この旨飛脚を以て関東に仰せられをはんぬ。彼の帰り来たるを待たず、来十一日伝国の事有るべしと。桑門の外孫、曽って例無し。而るに通親卿外祖(彼の外祖母を嫁しをはんぬ故なり)の威を振わんと為す。(中略)通親忽ち後院別当を補し、禁裏仙洞掌中に在るべきか。彼の卿日来猶国柄を執る(世源博陸と称す。また土御門と謂う)。今外祖の号を仮、天下独歩の体、ただ目を以てすべきか。明日、中納言中将を補すべしと。その後任大臣を行わるべし。右大将丞相に昇る。その将軍を奪い通親拝すべしと。外祖猶必ず大臣に補すべきか。今日東札到来す。その詞快然なり。還って恐れを為す。今夜北斗を拝し奉る。」(「玉葉」同日条)。

「通親卿結構の外、帝王以下他の人有るべからざるか。」(「明月記」)。

1月8日

「譲位の事風聞す。天下の事倉卒より起こる。人皆仰天すと。」(「玉葉」同日条)。

1月9日

・藤原定家(37)、大炊殿行幸に供奉。

この日、使いが来て、「明後日行啓ニ参ズベシト。予云フ。行啓トハ何事ゾト。答ヘテ云フ。東宮ノ行啓ナリト。問ヒテ云フ、東宮トハ誰人ノ御事ゾヤト。」

後鳥羽が譲位して、第一皇子が土御門天皇になるについて、皇太子としての決定や宣布はなされていない。3人の皇子の中からクジ引きで決めたというが、源通親が決めたことである。

4歳の土御門が通親邸から抱かれての行啓。

定家の心境は、「其ノ役ヲ嫌フベカラズト雖モ、他ノ人無キニアラズ。不快不吉、疎遠地下ノ者、何ゾ吉事初度ノ事ニ供奉スベケンヤ」である。

後鳥羽が院となって入るべく新築中の豪奢な二条宮では棟上げ式の最中に「闘乱刃傷」が二件あり、「吉事ノ始メ、後鍳(こうかん)見ルベシ」(後のたたりが怖ろしい)と書く。

1月11日

・藤原定家(37)、脚気を病む。後鳥羽天皇譲位、土御門天皇受禅の儀に参仕

「この日譲位なり。大炊御門より劔爾を閑院に渡せらる。頭の中将公経爾を捧ぐ。右中将成定昼の御座に御劔を持つ。・・・新帝、今旦先ず博陸の家に渡御す。彼の宅より閑院に渡り給うと。」(「玉葉」同日条)。

1月16日

・元日の日蝕に続いて、この日は月蝕。

1月17日

・後鳥羽上皇(19)、院政を始める。

源通親は天皇外祖父として院庁別当(大納言兼任)に就任、朝政・院政を掌握。人々は「飛将軍」・「源博陸(げんはくりく)」(「博陸」は関白の異称)と呼ぶ。

1月17日

・藤原定家(37)、射礼に参仕

1月18日

「正月十八日。天晴。早旦、召シニヨリテ参上ス。女房ヲ以テ仰セラルル事アリ。一昨日、予申シ入ルル子細アリ。官途ノ事ハ望ヲ絶エ了ンヌ。御給等又所望無シ。 - 申ス旨等、殊ニ御威言ノ答へアルト云々。超越ニ於テハ、全ク痛ムベカラズ。所望ニ於テハ、又其ノ縁無キニ依り、更ニ申スベカラズ。但シ解官無クバ、本官ノ出仕全ク懈怠アルベカラズ。人ノ超越、翌日即チ出現スベシ。此ノ上ハ、申シ入ルル旨無キニ依り、解却サルルニ於テハ、又痛ムベカラザル由ナリ。此ノ条、殊ニ御甘心アリ。御興言等アリ。即チ退下ス。」

定家の現在の官職は、従四位上近衛権左少将である。絶望して、何も申し入れる事はないといっているが、兼実から女房を通じて、種々なぐさめの言葉を受ける。

1月19日

・全権を掌握した通親は思うがままに人事をおこない、この日、九条良経の左近衛大将を辞めさせて、後任に基通の嫡子家実を任じた。更に、この時、良経に太政大臣昇進の話が持ち上がっていた。建久2年3月10日、兼実の同母弟兼房が太政大臣になったとき、兼実が「太相(だいしょう、太政大臣)、近代大略棄て置くの官」と記しているように、太政大臣はこの頃、これといった職務のない、名誉職になり果てていた。

しかも、安元3年(1177)正月、藤原師長(頼長の子)が太政大臣への就任を望み、「永く執政の思ひを絶つ」と述べたように(同年正月23日条)、太政大臣になると、摂関にはなれないと考えられていた。人臣最初の摂政である良房を除き、太政大臣になってから摂関に任じられた者はいなかった。そこで、良経の太政大臣昇進の話が出ると、九条家の家中では「絶望」といわれた(『明月記』建久9年正月8日条)。

しかし、後鳥羽上皇は良経を太政大臣には任じず、かえって翌正治元年(1199)6月22日、左大臣に任じて厚遇した。良経は建久7年の政変以来、籠居して朝廷に出仕していなかったが、正治元年12月には後鳥羽の命令で兵杖(へいじょう、護衛の武官)を与えられ、出仕を果たした。

そして、建仁2年(1202)10月21日、通親が急死すると、12月25日、基通は摂政を解任され、良経が摂政となる(ただし、このときも、良経は兼実のときと同じく11月27日にいったん内覧とされている)。

良経が摂政に就任した後、基通は後鳥羽の命により閉門・籠居を命じられたが、12月26日には閉門処分を解かれている。また、嫡子家実も12月23日には出仕を許された(『猪隈関白記』)。

後鳥羽は近衛家・九条家のどちらに肩入れするわけでもなく、双方の勢力を均衡させ、そのうえで自分が人事権を持つことで、摂関家やそれに従う貴族たちを自分の下に統制しようとしていたと考えられている。後鳥羽にとって、摂関家は二つに分かれ、争っているくらいがちょうどよかった。

これによって摂関家は新たな段階を迎えた。一般に、摂関家は忠通の息子である基実・基房・兼実がそれぞれ摂関になったことから分立したといわれるが、法住寺合戦で師家が摂政になると基通が没落し、義仲滅亡後は基通が返り咲いて基房・師家が没落したように三つの家系は同時に併存することはなかった。これは保元の乱前、摂関家の後継者の地位をめぐって忠通と頼長が争ったのと同じで、ここまでは唯一の後継者の地位(嫡流)を三つの家系が争っていた。

ところが、後鳥羽は近衛家・九条家をともに摂関家として処遇した。摂関家領をめぐる争いに敗れ、嫡流を象徴する家産を持つことができなかった九条家は、本来ならば、建久七年の政変後、没落し、二度と摂関を誰出しなくてもおかしくなかったはずである。だが、後鳥羽によって摂関家としての家格の維持を許されることで、ここに新たな摂関家としての九条家が確立した。

1月19日

・藤原定家(37)、御堂例講に参仕。

1月24日

・藤原定家(37)、1日の写経の結縁により涅槃経一巻書写。

1月25日

・藤原定家(37)、兼実より藤原資房の日記『春記』(「資房卿紀七巻」、『春記』万寿・長元・長暦年間記)を借用、書写。2月6日、書写完了、翌7日返却

「正月二十五日。天晴。今日、殿ヨリ資房卿記七巻ヲ給フ(万寿・長元・長暦)。此ノ記、極メテ以テアリ難シ。人以テ之ヲ秘ス。年来借ルヲ得ズ。今之ヲ給フ。殊ニ以テ握玩ス。」

年来見たかった日記である。家の日記は大切に秘めて、写本を持っていても、門外不出、余程信用の置ける人でないと貸さなかった。翌日から、門を出ず、一心に筆写する。

翌26日には「不出門、向旧記」、28日に「書旧記」、29日「書旧記、不知他事」、2月6日 「扶重病、今日書訖旧記七巻」と熱心に書写した後、2月7日にすべてを返却。

この時期、兼実は建久7年11月に関白を止められて失脚していた頃で、定家は「官途事絶望」(正月18日条)という状況にあって、不遇をかこっていたが、それにもめげずに公事に精進を続けている。

これ以前に『春記』は、父俊成の下で書写されていた。『春記』永承4年(1049)記の奥書には「建久元年庚戍十一月六日 能成 又今書進了」とあって、その次の行に俊成の花押が据えられているので、俊成の下で能成なる人物が『春記』を書写したことがわかっている。

後年、建暦2年(1212)4月18日に中将藤原資家から御禊の際の垣下について問い合わせがあった時、定家は『春記』を資家に貸し与えている。

1月26日

・藤原定家(37)、病気不快。『春記』書写。~29日。

1月27日

「正月二十七日。通夜、雨注グガ如シ。朝後ニ休ミ、巳ノ時ニ晴ル。今日、左司即チ黄牛一頭ヲ引キ送ラル。尋常ノ牛ナリ。去年ノ冬ヨリ、惣ジテ牛ヲ持タズ。東西ニ相尋ヌト雖モ、更ニ芳心ノ人無キノ処、殊ニ以テ悦着ス。 - 下人云フ、今日、太上皇密々女房車ニ乗リオハシマシ、景勝光院ニオハシマスト。此ノ一所ニ限ラズ、近日、京中幷ニ辺地ヲ日夜御歴覧。尤モ用意アルべシト云々。」

定家は、黄牛一頭を贈られ悦ぶ。牛なしで全く不自由だった。譲位した後鳥羽院は、女車に身をやつして、京中ばかりか郊外を歴覧の毎日。「尤も用意あるべし」の「用意」とは、日夜各所を歴覧する院と、いつ、どこで出くわすか分らない、用心が必要だ、というもの。

1月28日

・この日も日記を写してくらす。文義(定家の家司)が来て、後鳥羽院は、昨日俄に法住寺殿に御幸。源通親・高能が車で陪従したと。良経が明日着陣するので供に参上すべしとのこと、定家は所労中であるが、扶けて参ずべき由答える。

1月30日

・藤原定家(37)、健御前が、日吉社に参詣するので女房辛をつかわす。除目の聞書を記す。


つづく