2011年10月31日月曜日

「さまよへる牛に与へよ今年藁」(東京都 菊池潔) 「朝日俳壇」10月31日より

東京、北の丸公園のフユザクラ(2011-10-31)
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「朝日俳壇」10月31日より

ふくしまに生を受けたる芋の露      (岡山市)森   格

さまよへる牛に与へよ今年藁       (東京都)菊池  潔

(*)選者(長谷川櫂)評
原発事故で野をさまよう牛。
その牛たちに新藁をとはあわれみ以上のものがある。
世を嘆く一句。

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「朝日歌壇」10月31日より

風評を避けて秋刀魚がやって来た瞠れる眼に血を滲ませて    (岐阜県)棚橋 久子

どんぐりもきのこたけのこ好きな熊原発事故を知る術も無く    (福島市)伊藤 緑

女川の秋刀魚が食める嬉しさにワッシワッシと大根おろす     (岩沼市)山田 洋子

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延暦15年(796)~延暦16年(797) 最澄、内供奉十禅師となる 「続日本紀」撰進 坂上田村麻呂、征夷大将軍となる

東京、北の丸公園(2011-10-28)
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延暦15年(796)
1月
坂上田村麻呂(39歳)陸奥出羽按察使(両国を兼任する按察使がはじめて出現)兼陸奥守に任じる。
10月には鎮守府将軍を兼ねさせる。
ここに、田村麻呂は、平時における東北の行政・軍事を一身に体現するポストに就任。
田村麻呂は、まず玉造塞(さく)と伊治城との中間に新しく駅を開設した。
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1月1日
ようやく完成した大極殿で朝賀の儀を行う。
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7月
・造宮職の官位を中宮職に準じることにする。
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10月
・1月に陸奥出羽按察使兼陸奥守となった坂上田村麻呂(39歳)に鎮守府将軍も兼ねさせる。
田村麻呂は、まず玉造塞(さく)と伊治城との中間に新しく駅を開設した。
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11月
・伊治城の強化のため、相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後国から移民9千人を伊治城に移配(『日本後紀』延暦15年11月戊申条)。
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12月
・平安京造宮の作業に従う飛騨工の逃亡があいつぎ、この年の暮れ、政府は諸国に命を下してこれを逮捕させる。
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延暦16年(797)
この年
・この年、勘解由使が設置される。
前任国司から後任国司への国務の引き渡しを監視し、国司の不正を摘発することも行われる。
また、国司の監察だけでなく、諸国の財政状況の可視化を促し、造都や征夷への財政出動を増やすことも目的であったようだ。
延暦22年(803)年、菅野真道等がその集大成として『延暦交替式』を編纂し国司交替制がマニュアル化される。
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不三得七(ふさんとくしち)の法を改める
奈良時代以来、民部省の慣例として、一国の租を通計し、その額の7分以上の徴収をめどとし、残り3分は国司の処分に任せていた。これを不三得七(ふさんとくしち)の法という。
国司たちは、自らの裁量に委ねられているのにつけこんで私腹をこやすようになっていた。
この年、桓武の政府は、戸ごとの町段をはかり、その租の8分を徴収し2分を免じることに改め、増収を図りまた国司の不正を封じようとした。
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・天台教学を修めた最澄(32歳)、この年、宮中で天皇の安寧を祈る内供奉(うちのぐぶ)十禅師の1人に選ばれる。

最澄:
神護景雲元(767)年、近江国滋賀郡古市郷(現滋賀県大津市付近)生まれる。父は三津首百枝(みつのおびとももえ)。三津首氏は渡来系氏族。

12歳で近江国分寺の行表(ぎようひよう)に師事し出家、延暦3年に15歳で得度、19歳で受戒。
その年、比叡山で山林修行を始める。山林修行は、神秘主義を重視する密教と重なる部分も大きい。

その後、天台教学を学び始める。
天台教学は6世紀に中国で生まれた宗派だが、唐僧鑑真がもたらした天台教学に関係する典籍を学び、天台教学に目覚める。

彼は、仏家の間で注目される存在となり、内供奉(うちのぐぶ、宮中に勤仕する僧)の寿興(じゆこう)との交際が始まり、この年延暦16年(797)、内供奉十禅師の1人に加えられる。

最澄はこの頃から一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助をえてその業を完成させる。
延暦17年には、初めて山上で法華十講をおこし、延暦20年(801)には、南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山寺に用いて、天台の根本の経である法華経についての講筵をひらく。

この頃には、最澄は、桓武天皇の仏教政策を、十分考慮した上で、仏家として独自な立場を外に向かって宣揚するという積極的態度を明確に示す。

この頃、和気広世(ひろよ、清麻呂の息)というパトロンをもっており、広世は和気氏の寺である高雄山寺に最澄を招いて法華の大講筵をひらく。
最澄は、和気氏をこえて桓武天皇への接近を狙っている。
最澄の天台法華宗の樹立の企ては、桓武朝の仏教対策の波に乗るところがあり、最澄にとって、桓武の恩顧をうけていた和気氏は天皇への有力な橋わたしである。
この高雄山寺での講筵を機に、最澄は朝廷にたいして入唐請益(につとうしようえき)の表を提出する。
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2月13日
・菅野真道ら、『続日本紀(しよくにほんぎ)』を撰進(40巻)。
文武天皇即位~延暦10年(791)。
自分の治世の10年を対象に入れたところに桓武の自信のほどが窺える。

上表文の中で、桓武(60歳)は、

「威は日河の東に振るい、毛狄をして息を屏めしむ。前代の未だ化せざるを化し、往帝の臣とせざるを臣とす」(『日本後紀』)

と讃えられている。

桓武の威厳が及んで蝦夷が息を潜めたとされる日河(日高見川=北上川)の東は、第1次征討で惨敗を喫した場所であり、第2次征討の戦勝が桓武の権威を高めたことを示す。

しかし阿弖流為はまだ降伏しておらず、この地域に律令制支配を行うために必要な城柵もまだ設置されていない。
そこで桓武天皇は第3次征討に踏み切る。    

自分の在位中にその治世の様子を記した史書を編纂させたことは、大きな失態を招く。

藤原種継暗殺事件および早良親王廃太子に関し、

「『続日本紀』に載(の)する所の崇道天皇(早良親王)と贈太政大臣藤原朝臣(種継)との好(よ)からざるの事、皆ことごとく破却し賜いてき。

しかるに更に人言(ひとごと)によりて破却の事もとのごとく記し成す

これもまた礼無きの事なり。今、前のごとく改正す」(『日本後紀』弘仁元年(810)9月10日条)

とあるように、桓武朝の末年に、『続日本紀』の関係部分を削除させた。

しかし平城天皇は、種継の子である薬子と仲成の意向を受けてその記事を復活させた。
ここではそれを「無礼」と評しているが、これは薬子の変の直後に薬子・仲成そして平城上皇側を悪役に仕立てたい嵯峨天皇側の言い分である。

この記述から、桓武による史書改鼠を批判する平城が、復旧に積極的に関与したのではないかと読みとる説もある。

その後、嵯峨天皇の意向により、ここにあるように再び早良親王と種継の記事は削除された
ただし、削除された記事の一部は、『続日本紀』などの正史を抜き書きした『日本紀略』によって復原が可能である。
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3月
・この月、遠江・駿河・信濃・出雲などから雇夫2万余を徴発。
翌々年12月にも伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊などに役夫を差しださせている。
いずれも平安宮を造るためである。
平安京内裏の建造物は、まだ完成していないものがある。
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8月
浮浪人への課税を命じる
浮浪人は親王・王臣の庄に流入し、調・庸を免れている。
官人(国・郡司)はそれらの庄に踏み込んで、そこに寄住する不浪人の実数をよく調べ、毎年「浮浪人帳」に記載し、それによって調・庸などを徴収するように命じる。
拒んだり1人でも漏らした場合は、その庄長を捕らえ、言上すれば、違勅の罪を科すると言明。
庄長らはその庄の内外に彼ら自身の農業経営を行っているが、政府はそれを禁止している。

これら王臣家の庄の庄長は在地の土豪か有力農民で、彼らは関係した庄を足場として、王臣家の威勢を利用して、私田を営んでいる。
また、庄は、浮浪人だけではなく、多くの周辺農民の力が必要で、庄長はその人手を揃えた。それらの人は寄人(よりうど)といわれる。

親王・王臣家・寺社をはじめ土豪・有力農民にいたる階層までが、浮浪人や周辺農民をかり集め、山林原野を囲い込んだり、荒廃田を活用したりして土地を切り開いている。
農民の疲弊、浮浪や逃亡によって口分田は荒廃しており、優勢者はそれに目をつけた。
桓武は、荒廃田・空閑地を差し押さえ、これを勅旨田の名称で確保した。
開墾して良田にするための方式であったが、天皇はそれを親王や権臣に分与した例も多い。

桓武とその政府は、延暦3年(784)、延暦17年(798)、延暦20年(801)に、幾度も王臣家らの山野占拠を抑制したが、殆ど効なく、開墾ブームは、平安京の貴族から地方の豪族にいたるまでの全支配階級をとらえた。
有力農民もそのおこぼれにありついた。
一般農民の疲弊の深刻化とは対照的に、王臣家ないし土豪の農業経営は活気を呈している。
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11月15日
坂上田村麻呂(40歳)、征夷大将軍に任じられる。
桓武朝第3次征討のため。前回の征討では副将軍を勤めた。
副将軍以下も任命されているが、『日本紀略』は副将軍以下の人名を省略しており不明。副将軍の1人は、小野永見と推定されている(『日本三代実録』貞観2年(860)5月18日丁卯条)。

田村麻呂は、前年正月に陸奥按察使兼陸奥守、10月に鎮守将軍となって、東北の軍事・行政を一身に担っている。
その後、近衛少将を兼任、延暦18年に近衛権中将、延暦20年12月には近衛中将に昇任。

鎮守将軍の前任者である百済王俊哲は、田村麻呂に征夷の戦術や蝦夷のことなどを教え、第2次征討での田村麻呂の活躍を見届けた後、翌延暦14年8月7日、鎮守将軍のまま没している。
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2011年10月30日日曜日

海の汚染 セシウムの海洋流出、東電発表の20倍か!? フランスの研究所

ついこの間、

「福島セシウム137放出3万5,800テラベクレル、(日本)政府発表の2倍超か」(ブルームバーグ)


というニュースがもたらされたばかりで、今度は海の汚染の話題。

セシウム137の海洋流出について、フランスの研究所が発表した値は東電の発表の20倍になるそうだ。

海洋汚染については、原子力開発機構も推計値を発表しており、セシウム137は東電発表の3倍だった。(コチラ

報道内容の概要は、



でわかります。

そのほかに、




でも、わかります。


もありました。

高橋源一郎「朝日 論壇時評」(10月27日)「祝島からNYへ 希望の共同体を求めて」

「朝日新聞」10月27日の高橋源一郎「論壇時評」
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①纐纈(はなぶさ)あや監督の映画「祝(ほうり)の島」(2010年) 

「80歳近いおじいさんが、ひとりで水田を耕している。
その水田は、おじいさんのおじいさんが、子孫たちが食べるものに困らぬよう、狭く、急な斜面ばかりの島で30年もかけて石を積み上げて作った棚田だ。

子どもたちは都会へ出てゆき、ひとり残されたおじいさんが、それでも米を作るのは、子どもや孫に食べさせるためだ。
息が止まるほど美しい空や海に囲まれた水田の傍らでおじいさんが話している。
次の代で田んぼはなくなるだろう。耕す者などいなくなるから。

「田んぼも、もとの原野へ還(かえ)っていく」といって、おじいさんは微笑(ほほえ)む。
そして、曲がった腰を伸ばし、立ち上がる。
新しい苗代を作るために。

山口県上関町の原発建設に30年近く反対し続けている祝島(いわいしま)の人たちを描いた映画「祝(ほうり)の島」の一シーンだ。

人口500人ほどの小さな島には、ほとんど老人しか残っていない。
その多くは一人暮らしの孤老だ。

彼らは、なぜ「戦う」のか。

彼らが何百年も受け継いできた「善きもの」を、後の世代に残すために、だ。
では、その「善きもの」とはなんだろうか。
汚染されない海、美しい自然だろうか。
そうかもしれない。

だが、その「善きもの」を受け取るべき若者たちが、もう島には戻って来ないことを、彼らは知っているのである。」

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②中島眞一郎「いかたの闘いと反原発ニューウェーブの論理」(「現代思想」10月号)

「四国電力伊方原発の出力調整実験への反対闘争について記した」

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③成元哲「巻原発住民投票運動の予言」(「現代思想」10月号)

「新潟県巻町(当時)の原発建設の是非をめぐる住民投票について記した」

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④姜誠「マイノリティと反原発」(「すばる」11月号、連載中)

「祝島について報告した」
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①~④
「都会から遠く離れた場所での、孤独な「戦い」を記述した彼らの報告を読みながら、ぼくの脳裏には、映画で見た祝島の風景が蘇(よみがえ)った。

受け取る者などいなくても、彼らは贈り続ける。
「戦い」を通じて立ち現れる、大地に根を下ろしたその姿こそが、ひとりで「原野へ還っていく」老人たちから、都会へ去っていった子どもたちへの最後の贈りものであることに、ぼくたちは気づくのである。

おそらく、世界中に「祝島」はあって、そこから、「若者」たちは「外」へ出てゆくのだ。
では、「外」へ出ていった「若者」たちは、どうなったのか。」

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⑤「立ち上がった『沈黙の世代』の若者」
(津山恵子のアメリカ最新事情、ウォールストリート・ジャーナル日本版)
 http://jp.wsj.com/US/node_315373

「「こんなデモは今までに見たことがない」

9月18日夜、米ウォール街から北に200メートルばかり離れた広場に出向いた津山恵子は、まずこんな風に書いた。

「参加者のほとんどは、幼な顔の10代後半から20代前半。
団塊の世代や、1960~70年代の反戦運動を経験した世代など、『戦争反対』『自治体予算削減反対』『人種差別反対』などのデモで毎度おなじみの顔は全くない。
いや、彼らは今までデモに参加したことすらないのだ」

世界を震撼(しんかん)させることになる「Occupy Wall Street」デモが始まった翌日の光景だ。

いったい、彼らは、なんのためにどこから現れたのか。」

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⑥「若者の『オープンソース』革命は世界を変えるか」
(肥田美佐子のNYリポート、ウォールストリート・ジャーナル日本版)
 http://jp.wsj.com/US/Economy/node_320632/?tid=wallstreet

「肥田美佐子は、豊かな社会の中で劇的に広がる「格差」が、彼らを、まったく新しいやり方で、街頭に繰り出させたと報告し、」

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⑦瀧口範子「全米に広がる格差是正デモの驚くべき組織力
ウォール街占拠を訴える人々をつなぐもの」
(ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/articles/-/14428

「さらに、瀧口範子はリポートにこう書いている。

「自然発生的に広がっていったOccupy Wall Streetは、まるで新しい共和国のような様相を呈している。
最初は失業者やホームレスたちの集まりと見られていたが、そのうち若者や学生も加わり、整然と組織化されていった。
組織といっても、弱肉強食のウォール街の流儀とは正反対のもの。
話し合いを通じて、合意形成を図り、それを実践していくというものだ」 」

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⑧「ナオミ・クライン ウォール街を占拠せよ 世界で最も重要なこと」
(「aliquis ex vobis」掲載の邦訳)
http://beneverba.exblog.jp/15811070/

「10月6日。
『ショック・ドクトリン』の著者で、反グローバリズムの代表的論客、ナオミ・クラインは、彼らが占拠する広場で演説した。
そこで、彼女は、一つの「場所」に腰を下ろした、この運動の本質を簡潔に定義している。

「あなたたちが居続けるその間だけ、あなたたちは根をのばすことができるのです……あまりにも多くの運動が美しい花々のように咲き、すぐに死に絶えていくのが情報化時代の現実です。

なぜなら、それらは土地に根をはっていないからです」

かけ離れた外見にかかわらず、「祝の島」のおじいさんとニューヨークの街頭の若者に共通するものがある。
「一つの場所に根を張ること」だ。

そして、そんな空間にだけ、なにかの目的のためではなく、それに参加すること自体が一つの目的でもあるような運動が生まれるのである。 」

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⑨上野千鶴子「ケアの社会学」

「上野千鶴子は大著『ケアの社会学』で、ケアの対象となる様々な「弱者」たちの運命こそ、来るべき社会が抱える最大の問題であるとし、「共助」の思想の必要性を訴えた。


「市場は全域的ではなく、家族は万全ではなく、国家には限界がある」

背負いきれなくなった市場や家族や国家から、高齢者や障害者を筆頭とした「弱者」たちは、ひとりで放り出される。

彼らが人間として生きていける社会は、個人を基礎としたまったく新しい共同性の領域だろう、と上野はいう。

それは可能なのか。
「希望を持ってよい」と上野はいう。
震災の中で、人びとは支え合い、分かちあったではないか。

その共同性への萌芽(ほうが)を、ぼくは、「祝の島」とニューヨークの路上に感じた。
ひとごとではない。
やがて、ぼくたちもみな老いて「弱者」になるのだから。」

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「編集部が選ぶ注目の論考」では、

高橋と同じく、成元哲「巻原発住民投票運動の予言」(「現代思想」10月号)をあげ、

「原発を拒否した住民運動がなぜ成功したかを考察。カギは保守派住民の動向にあったとし、彼らの参入が地域社会の再編成を促す原動力になったと論ずる。」

と纏めている。

それからもう一つ、気になるのは・・・、

「オバマ米大統領が野田首相に対し普天間移設問題で「具体的な結果を出す」ように迫ったとされた報道について、首相の説明と食い違いがあると指摘した伊田浩之「キャンベル氏がマスコミ誘導か」(週間金曜日9月30日号)は、検証報道が不十分と批判する。」

のところ。

マスコミ報道をそのまま受け入れる危険性についてだ。

TPPに関してなんて、よーく吟味しないと危ないこと極まりない。

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高橋源一郎「論壇時評」
6月30日「原発と社会構造」
8月26日「柔らかさの秘密 伝えたいことありますか」
9月29日「そのままでいいのかい? 原発の指さし男」
11月24日分はコチラ
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2012年4月26日分
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2011年10月29日土曜日

東京 北の丸公園 秋陽に照らされて、もみじが黄金色に輝く

10月28日の北の丸公園
もみじが、紅葉にはまだあと1ヶ月ほどだけど、秋の陽に照らされて黄金色に輝いている。




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「放射性物質の利用は、自分たちの手でわざわざ終わりを早める可能性を広げる行為ではないか。」(川上弘美)

10月28日「朝日新聞」に掲載された作家川上弘美さんのインタビュー記事。

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私はずっと「日常のことを書きたい」と思って小説を書いてきました。
それも一見些末なこと。
お酒を飲んだり、散歩をしたり夜空を見上げたり。
「生きている」ということは日常を過ごすことだ、と思っているからです。、

福島の原発事故で大量の放射性物質がまき散らされたことは、私たちの日常に強い影響を与えました。
日の光が当たる何でもない一日が、今回の事故でどう変わってしまったか。
9月に出版した小説「神様 2011」は、それを確認する、というよりも「どうしてこんなことが起こってしまったのか」という思いで書きました。

(略)

自分たちが選挙をしてつくってきた国で、こういうことが起こるってしまった。
たまらない思いです。
どこに向けていいか分からない、最終的には自分自身に返ってくる怒りがあります。

「利権の甘い汁を吸い続けてきた原発推進派を裁くべきだ」という意見もありますが、私には違和感があります。
裁くべき相手はどこにいるのか。
構造を解明することは必要です。
ただ、政府も電力会社も一枚岩ではなく、「いい方」「悪い方」という単純な区別ができない。
悪い方がいたとしても、どこかで自分につながっている感じがします

■手に余る原子力
最初は、この小説を発表するつもりはありませんでもた。
あの事故を言語化するやり方として適切かどうか、自分でも分からない。

あえて出版したのは、「原子力は人間の手に余る」ということを、私自身にできるやり方で、どうしても訴えたかったからです。

45億年前、地球ができた当初は今よりもずっと多くの放射性物質がありました。
長い長い年月の間に放射性物質が自然に崩壊し、少ずつ減っていったことで、複雑な生命が住める環境がようやく整ったのです。

せっかく放射線の少ない環境になったのに、なぜ今になって残りわずかな「ウラン235」という放射性物質をかき集めて核分裂させ、さらには自然界に存在しなかったプルトニウムとい放射性物質をつくり出すのか

発表前に、放射線の専門家の方に作品の内容を確認していただきました。
その方が「福島ではもっと恐ろしいことが起こっています」とおっしゃったのが、強く印に残っています。

私は理系出身でSFに親しんできました。
そのせいか、「人類はいつ、どんな風に滅びるのか」ということをいつも考えます。

生物の「種としての寿命」は数百万年程度と言われています。
人類もいつかは種としての終わりを迎える。

放射性物質の利用は、自分たちの手でわざわざ終わりを早める可能性を広げる行為ではないか

みんなが持っていた「核戦争で世界が滅びるかも」という思いは冷戦の終結では少し緩みました。

でも、実は原爆も原発も原理は同じ。
今回の事故でも、広島の原爆の168倍もの放射性セシウムがまき散らされた
世界が滅びる脅威は少しも緩んでいなかった。

希望と絶望は常に同居していると思います。
人類って大したものじゃない。
技術力は高くて核兵器や原発をいっぱいつくったけど、それを制御するカはない
そうした面では非常に絶望的です。

でも、生物としてみれば「生きているだけですごい」と思います。
日常がどんなに変わってしまったとしても、生の本質を味わう自由なのびのびしたひととき、生きているよるこびはありますし、それを手放すことは決してしたくない、そう思っています。
(聞き手はいずれも太田啓之)
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「今さらですが、原発について反省し再考したいです。」(萩尾望都)

10月28日「朝日新聞」に掲載されていた、漫画家萩尾望都さんのインタビュー記事。

萩尾さんは、
「私の漫画は、ちょっと現実から遊離した不思議なことを追いかける、という内容が多く、社会問題を扱ったことはほとんどありません。」
と前置きして、
「でもいま」「やむにやまれぬ」気持ちから、二つの作品を発表したという。

一つは、
「津波で祖母を失い、原発事故で住んでいた土地から離れたフクシマの少女の物語」である
「なのはな」(雑誌「月刊フラワーズ」8月号)。

もう一つは、
「「なのはな」の創作中に思いついたのが、フラワーズ10月号に掲載した「プルート夫人」です。
放射性物質プルトニウが絶世の美女「プルート夫人」となって現れ、彼女を裁こうとする人々に対して自己弁護する、というブラックコメディーです。」
(12年2月には続編を掲載予定)

そして、
「先日、原子力安全委員会の斑目春樹委員長がテレビに出て、
「3月11日以降のことが全部取り消せるんだったら、私は何を捨ててもかまいません」
と遠い目をして話されていました。

愛するプルート夫人に裏切られた男性のように見えました。
あるいは、愛して育てたのに思春期になった子どもが親に反抗して、「まさか」と、ぼうぜんとする父親のようでした。

あの事故は、「原発」という子どもが「もっときちんと地震や津波に備えて育ててくれれば、私はこうはならなかった!」と、親である人間たちを責め立てているふうにも思えました。

「百%安心。事故は絶対に無い」と思われていた子どもの反乱の可能性をシビアに考慮していれば、もっと効果的な対策を講じられていたでしょう。

今さらですが、原発について反省し再考したいです。」

と、締めくくる。

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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(3) 「二 老翁、俗を脱したり - 「老人」への共感」

東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(3)
「二 老翁、俗を脱したり -  「老人」への共感」
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荷風は老人趣味を持つだけでなく、実際にも老人が好き。
寡黙で律義な職人的な老人や、生ま生ましい現実から降りてしまった世捨人的な老人が好き。

昭和10年10月25日午後
電車で浅草に行き、公園を歩く。千束町で偶然、以前家で働いていた派出婦に会い、誘われるままに彼女のアパートに行く。
そのあと夕暮れの待乳山にのぼり、聖天町、猿若町を歩き、山谷堀に沿って日本堤の方へ歩き、そこで路地裏に小さな古本屋を見つける。

「日本堤東側の裏町を歩み行く時、二間程の間口に古雑誌つみ重ねたる店あるを見たれば硝子子戸あけて入るに、六十越したりと見ゆる坊主の亭主坐りゐて、明治廿二三年頃の雑誌頓智会雑誌十冊ばかりを示す」

「禿頭の亭主が様子話振りむかしの貸本屋も思出さるゝばかり純然たる江戸下町の調子なれば、旧友に逢ひたる心地し、右の雑誌其他二三種を言値のまゝにて購ひ、大通に出ればむかしの大門に近きところなり」

この光景は、のちに「濹東綺譚」冒頭でさらに好ましく描かれる。

「わたくし」は、浅草の帰りにわざわざ回り道をして、この日本堤の裏町にある古本屋を訪ねる。
「然しわたくしがわざわざ廻り道までして、この店をたづねるのは古本の為ではなく、古本を鬻(ヒサ)ぐ亭主の人柄と、廓外の裏町といふ情味との馬である」

そして荷風は、古本屋の老主人を、江戸時代の職人か市井の生活者に見立てて、
「主人は頑を綺麗に剃った小柄の老人。年は無論六十を越してゐる。その顔立、物腰、言葉使から着物の着様に至るまで、東京の下町生粋の風俗が、そのまゝ崩さずに残してゐるのが、わたくしの眼には稀観の古書よりも寧ろ尊くまた懐しく見える。震災のころまでは芝居や寄席の樂屋に行くと一人や二人、かういふ江戸下町の年寄に逢ふことができた----」

荷風は下町の陋巷に控え目に生きる老人の姿に、生活者の確かな生きようを重ね合わせる。
荷風が下町を愛したひとつの理由は、路地のなかに一歩でも入れば、そこに、こんな律義な老人、「江戸下町の年寄り」の清々しい姿を見ることが出来たからに違いない。

現実社会への違和感が強まれば強まるほど、荷風は実社会との接触が相対的に少ない老人たちに思い入れををする。
老人たちは社会の周縁にいるからこそ、逆に俗界の生ま生ましさにも汚染されていない。
荷風の老人への愛情は、現実社会への違和感と表裏の関係になっている。

昭和17年11月24日午後
大石医師の中洲病院に行く。いつものように滋養注射をしてもらう。そのあと浅草まで足を延ばす。観音堂に詣で、おみくじを引くと吉と出る。そのあと路地裏に入り、そこで好ましい老人を見る。

「辯(ママ)天山下の路地を過るに竿敏と障子にかきたる釣竿屋の店先に白髪禿頭の一老翁、餘念なく釣竿をみがさゐたり。
其風貌今の世には見る可らざる程俗を脱したり
歩を停めて眺むること暫くなり」

荷風は俗臭には目をつぶり、下町の老人を、古き良き過去にひっそりと殉じようとする清潔、清貧の古老と描き出そうとする。
荷風は古本屋の主人や釣竿屋の主人を、時代に汚染されていない良き古老に見立てていく。
荷風は、客の自分と古本屋の老主人を人情本の登場人物であるかのように仮構している。

「日乗」大正13年4月22日。
「一昨日小石川を歩みてなつかしき心地したれば、今日もまた昼餉を終りて直に家を出で、小日向水道町日輪寺に往き老婆しんの墓を吊ふ。
おしむ婆吾家に在りてまめまめしく働きしこと二十餘年なり」

「老婆しん」の墓参り
市井に生きる無名の老人に対する愛情。

「老婆しん」とは? 「日乗」大正8年5月30日。
「昨朝八時多年召使ひたる老婆しん病死せし旨その家より知らせあり。
この老婆武州柴又邊の農家に生れたる由。
余が家小石川に在りし頃出入の按摩久斎といふものゝ妻なりしが、幾ばくもなく夫に死別れ、諸処へ奉公に出で、僅なる給金にて姑と子供一人とを養ひゐたる心掛け大に感ずべきものなり。
明治二十八九年頃余が家一番町に移りし時より来りてはたらきぬ。
爾来二十餘年の星霜を経たり。
去年の冬大久保の家を売払ひし折、余は其の請ふがまゝに暇をつかはすつもりの処、代るものなかりし為築地路地裏の家まで召連れ来りしが、去月の半頃眼を病みたれば一時暇をやりて養生させたり。
其後今日まで一度びも消息なき故不思議の事と思ひゐたりしに、突然悲報に接したり。
年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものはこの老婆ならむかなど、日頃窃に思ひゐたりしに人の寿命ほど測りがたきはなし」

「新橋夜話」の一篇「見果てぬ夢」(「中央公論」明治43年1月号)の老車夫「助造」
父から譲り受けた古い家屋敷を手放さなければならなくなった高等遊民の男の感慨を語ったもの。父の期待に応えなかった荷風自身の思いが重ねあわされている。
最後まで若主人に仕えようとする「助造」という老車夫には「老婆しん」の面影を見ることが出来る。

この主人公の思い。
「つまり彼は眞白だと称する壁の上に汚い様々な汚点を見るよりも、投捨てられた襤褸(らんる)の片(きれ)に美しい縫取りの残りを發見して喜ぶのだ。
正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちて居ると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果實が却(かへて)て澤山に摘み集められる・・・」

荷風の審美感

時折り、諦念のような感慨が市井の人に向けられるところがあり、狷介孤高の荷風の別の一面を感じさせる。

大正15年1月3日
「四鄰今宵は寂然として蓄音機ラヂオ等の響も聞えず、崖の竹林には風の音絶えて、初更の静けさ蚤(ハヤ)くも深夜の如くなるに、忽然門外に怪しき声す。
聞馴れぬ人は山羊の鳴く声かと思ふべし。
是向側なる某氏の家の小児にして、齢十歳ばかり、白痴にて唖者なるが、寒さをも知らぬとおぼしく、毎夜門巷を徘徊するなり。
昼の中は近鄰の児童この唖児を嘲り、石など投るもあり。
二三年前までは母親ともおぼしき老女、附添ひて、稀に門外に出るのみなりしが、この頃は看護るものもなく、昼夜晴雨を分たず彷徨するなり。
今宵の如き寒夜または霖雨しとしととわびしく降る夜など、唖児の何を叫ぶとも知れぬ声一際気味わろく物哀に聞ゆ。
親なる人の心いかゞと思遣れば又更に哀なり

昭和2年4月25日
偏奇館近くを盲人の納豆売りが12、3歳の女の子に手をひかれて朝夕、納豆を売り歩く姿を書きとめている
「又去年あたりより盲人の納豆売十二三歳なる小娘に手をひかせ市兵衛町より飯倉仲ノ町邊を朝夕売り歩く、冬の雨ふりしきる夕暮などには其声殊にかなしく聞ゆるなり

偏奇館にこもり現実社会と距離を取るに従って荷風の目には、世を降りたような老人たちや社会の周縁にいる人々の姿が目に入ってくる。

中心が遠去り、周縁が近づいてくる。

明治42年(29歳)「新小説」に発表された「すみだ川」、若い主人公長吉の幼ない恋を見つめる俳譜師松風庵蘿月。年齢60歳近く。世間から降りて、隅田川の向こう、向島小梅町あたりに侘び住まい。文明開化の時代に背を向けて古い江戸情趣の世界にひたろうとする過去追慕者。

反時代的人物。
時代遅れの人間。

大正5年「文明」に発表の短篇「うぐひす」の老人「小林さん」。
家庭を持たなかったこの老人は、「(一人暮しは)折々不自由な事もありますが、然し何しろ静でよう御座います。獨りで暮したいのは申さば私の年来の望みなので・・・」といい、鴛の鳴合せというような風雅な楽しみに喜びを見出す。

私は王政復古の際に薩長の浪人どもが先に立って拵へた明治の世がいやで成らないのです

私の悪(にく)むのは薩長の浪人が官員となって権勢を恣(ほしいまま)にし一国上下の風俗人情を卑陋(びろう)にさせた事を申すのです

「私はかうして獨身で暮してゐるかぎりには鯰や鰌の世の中に交る必要がない。
門を閉ぢ客を断れば狭しと雖もわが家は城郭です。
木と花と鳥とが春夏秋冬を知らせるばかりです」

荷風の旧幕臣好みの心情。
敗れ去っていったものに詩情を見る。
その敗北の美をもっともよく体現してくれるのが、世を捨てた一人暮しの老人である。

荷風の老人へのこだわりの裏には、薩長の作り上げた明治という実利文明に対する反発がある

荷風にとって老人とは、つねに、そういう良き世捨人であり、風流人である。
明治の文明に対して江戸の文化を体現した、古き良き文人である

「新橋夜話」の一篇「松葉巴」(「三田文学」明治45年7月号)の「多町の隠居」(多町は神田の町)と「(神田)明神社内の待合千代香の親方」も「うぐひす」の「小林さん」と同じように「明治の世」にさらりと背を向けた老人。

実利実学尊重の文明開化に反発し、他方で、フランス語の原書を読む先端的な明治の知識人でありながら、それゆえにこそ皮相な西洋文明の受容に反発し、時代遅れと見られていた江戸情趣の古い世界に入っていく。


先端と後方、明治文明と江戸文化、実利と無用。
その二律背反が荷風のなかに複雑に入りくんでいる

アメリカとフランスに留学した明治の先端的知識人である青年荷風が、日本の皮相な西洋文明受容のさまに絶望したからといって、それをあからさまにいいたてることは、恵まれた知識人の倣慢でしかない。

啄木「きれざれに心に浮んだ感じと回想」(「スバル」明治41年11月号)が荷風の「新帰朝者日記」を批判したように「東京で遊んで帰ってきた金持の道楽息子が田舎芸者を笑うようなもの」である。

明治文明の豊かさを享受して西洋に留学し得たエリートの「明治の二代目」が、帰国後、西洋文明を模倣しようとして必死になっている日本の現状を、高見の見物的に嘲笑することは、倣慢であり、嫌味である。
荷風は、それに気づき、「老人」というフィクションを使い、「老人」という衣裳を着た

荷風は、文明批判のためのひとつの手法として「老人」を前面に出してきたのである


しかし、文明批判のための技法として「老人」を使ったとはいえ、本来の気質として、老人趣味、老人好みがあったこともまた事実。


大正5~6年の花柳小説「腕くらべ」の、新橋の芸者置屋、尾花屋の老主人、木谷長次郎。

「つゆのあとさき」(昭和6年)の世捨人的な老人、清岡老人。
東京帝国大学教授(専門は漢学)で、妻に先立たれ、退官を機に、東京郊外の世田谷、豪徳寺あたりに引込み、読書と庭いじりの静かな日々を送っている。

「ひかげの花」(昭和9年)の塚山老人。
私娼の娘で、親戚などの家をたらい回しにされて育ち、やがて自分も私娼になるたみ子というひかげの女に同情を寄せる。
昔は実業家だったが早々に身を引いてしまった世捨て人。

丸谷才一。
「彼(荷風)の長編小説の片隅にほとんど常に置かれてゐる東洋的な老人の姿は、その抒情的な沈黙によって画面を安定させているのである」(『言論は日本を動かす』第3巻解説、講談社、昭和61年)

(「わが荷風」)
「荷風は、明治維新後の性急な近代化を嫌った。
古い世界を壊して突き進んでいく文明を嫌った。
にもかかわらず自らも文明の子であることを自覚していた。
だから、その嫌悪感をなまの形で出すこともできなった。
そのとき荷風は、「老人」という存在に注目した。
現実との関わりが少ない老人たちのなかに清潔さを見た。
江戸文化の名残りを見た。
そして荷風は、「現実が嫌いだ」という否定的な思いを、「老人が好きだ」という肯定的な思いに変えていった。
「老人」という理想型を造形することで、現実嫌悪や文明批判の生ま生ましい感情を冷却させていったのである。」

この江戸粋人の流れをくむ衰残の老詩人ともいうべき余計者の典型である蘿月は、荷風ごのみの存在で、『新橋夜話』中の一篇である『松葉巴』の多町の隠居、『うぐひす』の小林、『腕くらペ』の倉山南巣と講釈師の楚雲軒呉山などにも再現三現される。
そして、『つゆのあとさき』の老漢学者・清岡熙や『ひかげの花』の元電気工場主・塚山のような人物をも造型させているが、『すみだ川』は蘿月が小梅の自宅を出て対岸の今戸に住む妹のお豊をたずねて行くところからはじまる。
以上は(「わが荷風」)から。
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延暦14年(795) 富豪層の成長 里倉負名 公出挙と私出挙

東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
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延暦14年(795)
この頃
富豪層の成長
公出挙は、元来、公民の経営支援のための国衙(国の役所)による稲の低利貸付制度で、国衙はその運用益(利稲=りとう)を財政運営の財源としていた。
しかし、公出挙が強制貸付けとなると、農民にとっては租以上の負担となっていた。
このため、この年、桓武は、利稲を5割から3割に引き下げた(但し、死者の債務をもとりたてることにした)。
すると、これまでは公出挙稲を忌避してきた土豪・有力農民はこれを借り入れ、高利で貧民に貸し付けるようになった。

また、従来郡衙(郡の役所)の正倉(しょうそう)に一括保管していた正税稲(しょうぜいとう=公出挙稲=くすいことう)を郷ごとに郷倉(ごうそう)を作って分散移管することとした。
この正税稲の郡から郷への移管は、公出挙事業を郷レベルの有力農民に移管することでもあった。

やがて国司は正税稲を彼らの倉庫(里倉=りそう)に預けるという名目で、その経営能力に応じて正税稲を分配し、利稲部分だけを回収するようになる。
正税稲を預かった有力農民は 「里倉負名(りそうふみよう)」と呼ばれた。
彼らは分配された正税稲を私稲(しとう)に合体させて、私的な高利貸付である私出挙(しすいこ)に投入して経営を拡大し、公出挙利稲相当分を国衙に納入するようになっていった。

この出挙政策は、国衙による、利稲相当分の確実な回収を条件とする有力農民に対する経営支援であるが、低利の公的貸付を受けられなくなった貧窮農民の切り捨て政策である。
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・この年、国司の地位に応じて差をもうけ、貢納未進の数に準じて彼らの公廨(くげ)を割いて、中央に納入させることにする。
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1月16日
・この日の踏歌節会(とうかのせちえ)では、群臣たちが、「新京楽、平安楽土、万年春」という合いの手を入れながら、新京を言祝いで歌い踊ったと伝えられ、天皇と侍臣が遷都の成功を祝っている(『類聚国史』巻72踏歌)。
平安京は、桓武天皇にとっては、早良親王の崇りを乗り越え、胆沢の蝦夷に勝利することによって得た「平安楽土」であった。
このときには、まだ大極殿は完成しておらず、内裏前殿で宴が行われている。
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1月29日
・征夷大将軍大伴弟麻呂が節刀を返却。
長岡京東院を出発した大伴弟麻呂は、この時に初めて平安京に入り、将官を引き連れて朱雀大路を凱旋。
戦勝報告にある「虜百五十人」も、「捷(かちもの)」(戦勝の証拠)として入京し、天皇に進上されたと思われる。
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2月7日
・征夷大将軍以下に叙位。
『日本紀略』には記述ない。
坂上田村麻呂は従五位上から従四位下に昇叙(『公卿補任』延暦24年条)。
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7月27日
・この日付け官符では、貢納未進の場合の補填問題に関して、国司の史生(ししよう)以上が、公廨の配分比率をそのまま補填義務の比率として填納することとした(『延暦交替式』)。
史生は国司四等官の下にいるが、四等官と同様に中央から赴任し、公廨の分配にも与かるので、奈良時代から国司並みに扱われている。
この命令は、国司全員に補填の責任を負わせ、守(かみ)以下がランクに応じて公廨の取り分を割いて未進分に充てよ、とするもの。
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閏7
・雑徭(ぞうよう=国司の権限で年間60日間までの労働に従事させる力役)を半減して30日間とする。
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8月
・桓武、朝堂院の建設現場を視察。
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8月7日
・鎮守将軍百済王俊哲、没。
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11月22日
・防人司を廃止。
東国から派遣していた防人を止め、西海道(九州諸国)の人々に肩代わりさせる。
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12月26日
・征夷軍から逃亡した諸国の軍士340人が、死罪を許され、陸奥国の柵戸(移民)とされる(『日本紀略』)。
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2011年10月28日金曜日

東京 北の丸公園 秋晴れの朝の清水濠

10月27日、朝から秋晴れ
こういう晴れの日は、久しぶりに清水濠へ
濁ったお濠が鏡のように
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▼清水門の前のセンダンがきれいに色づいた
少しだけ実が付き始めた
(センダンは初夏に咲いて、冬に実をたくさん付ける)

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延暦13年(794)6月~12月 遷都と征夷を同時に成功させる桓武天皇の周到な演出

東京、北の丸公園 千鳥ヶ淵のもみじ(2011-10-27)
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延暦13年(794)
6月
・諸国から徴発した役民5千人によって平安京の新宮が清掃される。
皇居の大半は落成している様子だが、大極殿以下の工事は進んでいない。
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6月13日
征夷副将軍坂上田村麻呂らの蝦夷征討が始まる
『日本紀略』が欠失しており、
その記述は、
「副将軍坂上大宿禰田村麿巳下、蝦夷を征す」(『類聚国史』)
というのみで詳細は不明。

征夷大将軍ではなく副将軍以下が蝦夷を征討したこと、
副将軍4人の中で最年少の坂上田村麻呂が唯一史料に名が残っており、
田村麻呂が主導的役割を果たしたことを窺わせる。
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7月
・この月、東西市を新京に移す。
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9月28日
・遷都と征夷の成功を祈願するために、諸国の名神(由緒正しく霊験の優れた神)に奉幣。
桓武は、先の父祖の霊と皇祖神に続いて、全国の名神に遷都と征夷の成功を祈る。

『日本紀略』は、奉幣の目的を
「新都に遷り、及び蝦夷を征せんと欲するを以てなり」
と記す。
6月に続いてこの頃にも再度激戦が行われたのであろう。

遷都と征夷の成功を同時に祈願しているのは、この二つの事業がともに最終段階を迎えたからであろう。  
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10月5日
・桓武天皇、新京に移るため、装束司・次第司を任命。
行幸に際して任命される臨時の官司で、装束司は衣服・調度・設営などの準備、次第司は行列の前後で整列や進路の管理を行う。
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10月22日
・桓武天皇、皇太子以下公卿百官人をしたがえて、長岡京から新京に遷都
この日は60日に一度訪れる辛酉の日。
辛酉革命による大変革を日の干支によって印象づけようとしている。
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10月28日
・この日、桓武は、戦勝報告が到達するや、新京の内裏に官人を集めて遷都の詔を発す
当日の『日本後紀』の記事は欠失。

これを圧縮した『日本紀略』の記述は、
「征夷将軍大伴弟麻呂奏すらく、「首四百五十七級を斬り、虜百五十人を捕らえ、馬八十五疋を獲、落(村落)七十五処を焼く」と。鴨・松尾の神に階(位階)を加ふ。郡(都の誤りか)に近きを以てなり。授位、任官。遷都の詔に曰く、「云々。葛野の大宮の地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も参り出で来る事も便にして、云々」と。」(延暦13年10月丁卯条)

まず征夷将軍から戦勝報告があり、続いて神階の授与と官人に対する授位・任官が行われ、最後に遷都の詔が発せられる。

大伴弟麻呂の節刀返却は翌年正月なので、この時は弟麻呂本人の戦勝報告ではなく、軍藍か軍曹に文書を持たせて奏上したと思われる。

桓武天皇は戦勝報告を受け取った後、授位・任官のため内裏に人を集め、そこでおもむろに遷都の詔を発した。
遷都と同時に戦勝報告がもたらされるという奇跡を自ら起こし、二度目の遷都を劇的かつ周到に演出した。
征夷と遷都をワンセットで考えていた桓武の思想を明確に示している。

戦勝報告(蝦夷側の被害)
「虜百五十人」
征夷では、交戦中に捕獲された者と、自ら投降してきた者とが区別され、前者は天皇に進上される。
この時の征夷に伴い、蝦夷の諸国移配が空前の規模で行われ、ほかにも多数の蝦夷が投降して身柄を拘束され、諸国に移配されたと推定される。

「首四百五十七級を斬り、・・・落(村落)七十五処を焼く」
いずれも延暦8年の第1次征討の5倍強。桓武は、前回の斬首89級を少ないと言って征東使を責めたが、今回は満足いく戦果であった。しかし、阿弖流為は捕まっていない

今回の征夷では蝦夷の切り崩し作戦が功を奏したが、それに関わった蝦夷も命を落としている。
かつて蝦夷爾散南公阿破蘇らの服属を仲介した俘囚吉弥侯部真麻呂が親子で殺害され、延暦14年5月10日、犯人の俘囚大伴部阿弖良と妻子親族66人が日向国に流されている(『類聚国史』巻190)。

大規模な叙位・任官
桓武朝では公卿の数が制限され、とくに藤原氏に対して厳しかったが、今回の叙任では、7人の公卿の内5人が対象となり、新たに藤原内麻呂(うちまろ)・真友(まとも)・乙叡(たかとし)が公卿に列せられる。

桓武に平安京遷都を勧めた和気清麻呂は民部卿造宮亮(すけ)の菅野真道(すがのまみち)が民部大輔(たいふ)造宮判官に清麻呂の子広世(ひろよ)が、造宮主典(さかん)には民部少録飛騨国造青海(ひだのくにのみやつこおうみ)が任じられる。
いずれも民部省関係か清麻呂の血縁関係にある人物。清麻呂は長岡京造営時には難波京があった摂津国の大夫に任じられていた。
こうした遷都の経験が評価されたのと、財政支出を円滑にするため、清麻呂が重要なポストにつけられた。
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11月8日
・この日、新京に「平安京」という名称を付ける。
同時に山背国が山城国に改称され、国土の中心が大和国から山城国に移ったことが明確に示される(『日本紀略』)。

遷都の詔を発し、新京の名称を定め、山城国を諸国の筆頭に置くことができたのは、それができなかった長岡遷都の頃より、桓武天皇の権威が格段に高まっていることを示す。
(「山背国」の「背」にはそれまで都があった大和からみて背後という意がある)    

10月22日の桓武自身の遷都の直後に発せられた詔には、
「葛野の大宮の地は、山川も麗しく、四方(よも)の国の百姓(おおみたから)の参出来(もうでく)る事も便(びん)にして、・・・」
とあり、

またこの日の詔には、
「山勢実(まこと)に前聞にかなう、と云々。この国は山河襟帯(きんたい)し、自然に城を作(な)す。この形勝に因(ちな)んで新号を制すべし。宜しく山背の国を改めて山城の国と為(な)すべし。」
とある。

この月、遷宮使は、桓武の求めに応じて、京中の大小の路・築垣・堀・溝・条坊などの規格を天皇に奏上。
桓武自らが平安京の規格・設計に積極的に関与したことがうかがえ、巡見の多さとともに、平安京にかけた彼の執念が見える。
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2011年10月27日木曜日

東京 秋晴れの江戸城東御苑 天主台 乾濠 秋一番(ツバキ) タイワンホトトギス ジュウガツザクラ

久しぶりの秋晴れ
10月26日昼休みの江戸城東御苑
前日25日とはかなり変って、気温は多分20℃を少し超えたくらいか、
涼しく過ごし易い

▼晴れた日には、たまには天主台の写真もいいかな
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▼乾濠がキラキラと光ってたけど、少し逆光
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▼「秋一番」という品種のツバキ
やっぱり花ごとポロリと落下していた
昨日のサザンカとはやはり違う。
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▼タイワンホトトギス
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▼松の廊下あたりのモミジ
紅葉はまだあと1ヶ月後くらいか
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▼ジュウガツザクラ
かなり咲いた

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永禄9年(1566)閏8月1日~12月31日 信長、河野島の戦いで大敗 義昭、越前に入る 尼子氏降伏 [信長33歳]

京都、詩仙堂(2011-09)
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永禄9年(1566)
閏8月3日
・若狭小浜の住人や熊谷統直(義統の子の元明の擁立を企てる)が蜂起(「多聞院日記」同日条)。
義統支持の遠敷郡の武田信方や大飯郡の逸見昌経・武藤友益らが出陣、幕府奉公衆本郷信当の参陣もあり、反乱はどうにか鎮圧。
しかし、若狭国内は、武田氏家臣の離反・分裂が続き戦闘が繰り返されるという混乱。
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閏8月8日
河野島の戦い
斎藤龍興方大垣城主長井道利が攻撃しかけ、信長、大敗。
退却始めたところ、水嵩を増した木曽川に多くの兵がのまれる。
この頃から、信長の美濃攻めの舞台は西美濃に移る    

河野島の戦いが記されているのは、山梨県の中島家に伝わる『中島文書』のみ。
発給人は斎藤家の奉行人4人、宛先は不明。但し、宛先は武田氏関係者であることは確かで、この5年前に美濃の崇福寺から甲斐恵林寺(えりんじ)に移住した快川紹喜(かいせんじょうき)だという見方もある。

手紙の概要
「信長が義昭を擁立して上洛することを引き受けたので、義昭は織田・斎藤の停戦を仲介した。こちら(斎藤側)は義昭上洛のためを思って承知し、誓書を使者の細川藤孝に渡した。
こうして近江への通路も整ったので、藤孝が尾張に下り、急いで参陣するよう信長を催促したが、信長は動こうとしない。
義昭はたいへん機嫌をそこねている。
畿内で三好三人衆が義昭の上洛を妨げる画策しており、信長は躊躇しているようだ。                    
このままでは、義昭は矢島(現滋賀県守山市)にも止まることができず、朽木(現高島郡朽木村)か若狭あたりに移らなくてはならないという。
信長は天下の笑い物になっている。龍興は義昭を軽んずるつもはないが、しかたがない。」

「この八月二十九日、信長は尾張・美濃の境目まで出張してきた。その頃、木曾川は増水していたが、川を渡って河野島に着陣した。
すぐに龍興が軍を率いてそれに向かったが、信長は戦わずに軍を引き、川のふちに移動した。美濃軍も川を隔てて陣を布いた。

翌日、風雨が激しく、両軍とも戦いを仕掛けられなかった。ようやく水が引いて、美濃軍が攻めかかろうとしたところ、今月(閏八月)の八日の未明になって、にわかに信長軍は川を渡って退却を始めた。
ところが川は増水していたので、大勢が溺れてしまった。
そのほかの兵も、美濃軍に襲われて討ち取られたり、兵具を捨てて逃げていった。そのていたらく、前代未聞の有様である。」
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閏8月12日
・長尾輝虎、関東出陣を上野小泉城(群馬県邑楽郡小泉町)城主富岡重朝に報ずる。
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9月
・三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、松永久秀制圧
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9月5日
・上野金山城(群馬県太田市)城主由良成繁、長尾輝虎(謙信)に背き北条方に通ずる。
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9月6日
・オスマン朝スルタン・スレイマン1世(71)、ハンガリー、シゲト・ヴァール要塞を攻撃中に病没(1494~1566、位1520~1566)。
30日、スルタンにセリム2世が即位。
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9月9日
・霧島山噴火。
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9月11日
・木下藤吉郎(30)、州俣築塁開始。総勢2,500。斎藤勢の攻撃。3日で築塁、7~8日で城郭できる。
24日、築城成功。木下藤吉郎、墨俣を本拠として斎藤竜興の軍勢を破る。

「信長公記」などの資料の裏付けない。
秀吉が蜂須賀正勝を中心とする野伏(のぶし)たちを動員して、木曾川の向う岸に橋頭堡を築いたという記事を最初に載せたのは『太閤記』であるが、『太閤記』も、その場所が墨俣であるとは記していない。
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9月18日
・十市氏、筒井方に同心、田城に陣を置き柳本を攻める。
25日、筒井藤政(順慶)5千、奈良へ入る。西手掻で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦、多聞山衆が少々討ち取られる。
28日、筒井藤政、成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
*
9月20日
足利義秋(後の義昭)、武田家内紛により越前朝倉義景を頼り敦賀金ヶ崎に入る(「朝倉始末記」では9月晦日)。
既に、朝倉家に仕える明智光秀は、ここで義秋の近臣細川藤孝と邂逅。
義秋、上杉輝虎(後の謙信)へ大覚寺門跡義俊(義秋の母方の叔父)を派遣し上杉氏・北条氏の和平斡旋を促し出陣を要請(「上杉文書」)。    

義俊・義秋は早くから朝倉義景・若狭武田義統・尾張織田信長に協力要請するが、越後上杉輝虎に期待するところ大といわれる。
義秋は輝虎上洛を促進するために相模北条・甲斐武田との3者和睦を命じ、本願寺顕如に加賀一向一揆と越前の和睦を命じる。
朝倉氏内部では、同10年3月に坂井郡の有力国人堀江氏が加賀一向一揆と結び義景に謀叛をおこすなど安定を欠いていたが、同年冬、加賀一向衆と朝倉氏の和睦が実現する運びとなり、11月21日義秋は敦賀から一乗谷へ移る(「越州軍記」)。
*
9月29日
武田軍、箕輪城(群馬県群馬郡箕輪町)を攻略(勝頼の初陣)、城主長野業盛は自害。
これを機に、上野金山の由良氏、上野小泉の富岡氏はじめ、上野の諸将が北条方に寝返る。
下野の皆川氏・佐野氏、常陸の小田氏、宇都宮氏も北条方に旗色を変える。


6月末、上杉謙信は籠城衆の小暮弥四郎に竜印状を与える。信玄は事前に調略を進めている。

以降も西上野での武田氏の侵攻は続く。
翌永禄10(1567)年3月末、白井城、5月惣社城(前橋市)を攻略し、西上野全域支配を完成。これと並んで同月(3月)、駿河・遠江国境付近で緊張高まる。
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10月20日
・本願寺顕如、加賀一向一揆と朝倉義景の講和を命令した足利義秋(後の義昭)へ拒絶の意思を通知(「顕如上人御書札案留」)。
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10月21日
・足利義秋、越前府中竜門寺入り。
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11月
・宝満城督高橋鑑種、毛利元就の調略に応じて反大友の挙兵を約束。鑑種の決起に秋月・筑紫・宗像・原田・麻生氏らも同調。
毛利元就は山陰の尼子氏を打倒し、永禄7年の和議の必要性がなくなった上での九州勢調略作業の再開  
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11月7日
・三好長逸、京都真乗院に深草の地を安堵(「真乗院文書」)。
9日、三好三人衆、京都仙翁寺村百姓に年貢納所を命令(「鹿王院文書」)。  
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11月9日
・若狭守護武田義統、没。
長子の元明が家督相続。名目だけの存在、家臣の多くはもう元明に従わず。  
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11月21日
毛利元就、富田城の尼子義久を降伏させる
11月28日、尼子義久兄弟、退城。
12月14日、尼子義久・倫久・秀久3兄弟を安芸高田郡円明寺(高田郡向原町)へ幽閉。
後、志路(広島市安佐北区白木町)に領地を貰い移住。
後、尼子義久は毛利家へ属し朝鮮や関ケ原に従軍、「尼子の切り取り千石」と評される武将となる(後、出家)。
山中鹿之助、戦傷を癒すため杵築で治療、翌永禄10(1567)年、湯治のため有馬温泉へ向かうが、以降の足取りは不明。一説では、京都に上り、尼子再興のための軍法などを学ぶため武田・上杉・北条・朝倉などの各地を廻り、3年後京都に戻る。
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11月21日
・足利義秋(後の義昭)、敦賀金ヶ崎から一乗谷へ赴き、朝倉義景に出兵を説くも応諾得られず。
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12月2日
・多聞山衆、吐田郷を焼き払う。
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12月5日
・この日付の武田信玄の厩橋城主北条高広で、今後の入魂を求める。
高広は、9月29日の信玄による箕輪城攻略の結果を見て、北条氏康の調略により、上杉氏から離反。  
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12月7日
足利義栄、摂津富田普門寺入り
28日、「義栄」と改名、「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
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12月8日
・利休息子(実子)道安(21)の記録上の最初の茶会。
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12月9日
家康(25)、三河守を拝領。
11日、左京大夫を拝領。
29日、徳川姓を名乗ることを許される。山科言継が家康の徳川改姓のため奔走。
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12月20日
・長尾輝虎(謙信)、関東に出陣し沼田城に入り、佐竹義重に参陣を促す。
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12月21日
・三好長逸・三好政康ら、六角義賢と近江国坂本で会談。
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12月29日
・細川昭元、3月に次いで再度洛中洛外へ撰銭令を発す(「兼右卿記」)。
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延暦12年(793)~延暦13年(794)5月 桓武天皇、征夷と遷都の準備を進める

東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
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延暦12年(793)
1月1日
・前年閏11月に辞見した征東大使大伴弟麻呂が「征夷大将軍」としてあらためて節刀を授けられる。
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1月15日
藤原小黒麻呂・紀古佐美(2人とも征東大使経験者)を山背国葛野郡宇太村に派遣し、遷都予定地を視察させる。
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1月21日
・桓武天皇、「宮を壊たむと欲するに縁って」(長岡宮を解体するため)、「東院に遷御」。(「日本紀略』)。
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2月2日
・桓武、遷都候補地葛野郡の地主神(じぬしのかみ)である賀茂神に遷都の報告を行う。
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2月17日
・「征東使を改めて征夷使となす」と決定。
宝亀11年(780)以来用いられてきた「征夷使」の呼称をやめて、「征夷使」の呼称が採用される(『日本紀略』)。

この頃、平安遷都が具体化しつつある時期で、これまでの「征東使」が引きずってきた光仁朝の征夷の継続という性格を払拭し、征夷が造都と並ぶ桓武朝独自の事業であることを内外に印象づける意味があったと推定される。

征夷と遷都を組み合わる構想は、新京造営が具体化した延暦12年正月頃に始まる。
征東使から征夷使への改称も、この構想に連動するもの。
征東大使・征東将軍がこれ以後「征夷大将軍」と呼ばれるようになる。
胆沢制圧のための再度の征夷は、この時点で次の遷都を演出する政治的役割を担わされる。
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2月21日
征夷副使坂上田村麻呂が辞見(謁見と辞別、赴任の挨拶)。
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3月
・桓武自身が現地を巡検。
宮に取り込まれる百姓(おおみたから、公民)に恩恵を施し、伊勢大神宮に遷都の旨を報告した上で、五位以上あるいは諸官衙の主典(さかん)以上の者に造宮に従事する役夫(えきふ)を進上させる。
新京の宮城の内にとりこまれる百姓地44町にたいして3ヶ年の価直(あたい、耕地の収穫の代金)を給することにする。
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6月
・新宮の諸門を造らせる。
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7月
・遷宮使等を褒賞
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9月
・官人たちに京の宅地を班給
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延暦13年(794)
・延暦13年は『日本後紀』の欠失部分に当たる。
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・桓武天皇は、菅原古人(ふるひと)の侍読の労を追懐して子の清公(きよきみ)らの奨学のために衣類を給す。
この年、越前国の水田102町余(さきに朝廷が没収した大伴家持の家産の一部)を大学に付して勧学田とする。
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1月1日
・桓武、「東院」(長岡宮解体のために引っ越した仮の内裏)で、征夷大将軍大伴弟麻呂(64)に節刀を与える。正月1日の節刀下賜は例がなく、桓武の意気込みを示す。    

 征夷軍編成
『日本後紀』弘仁2年(811)5月壬子条に、
「去ぬる延暦十三年の例を検ずるに、征軍十万、軍監十六人、軍曹五十八人」とある。
征夷軍10万、征夷大将軍1人・副将軍4人の下に、軍監16人・軍曹58人という多数の軍監・軍曹がいた。

延暦8年(789)の征夷では、「別将」と呼ばれる多くの下級指揮官が実戦部隊に配置されていたが、彼らの地位の低さが敗戦の主因でった(桓武自身が指摘)。
彼らは軍毅・郡司・郡司子弟などの地方豪族であったと思われるが、今回の征夷では、彼らの多くを征討使の軍監・軍曹に任用し、征討使という一つの官制体系の中に位置づけ、指揮系統を明確化したとみられる。
軍監・軍曹の増加は、これ以後の征夷軍編成においても踏襲される。
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1月16日
・征夷の実施を山階陵(やましなのみささぎ)と田原(たわら)陵に告げる。
山階陵は天智天皇(桓武の曾祖父)陵、田原陵は光仁天皇(桓武の父)陵でである。
征夷に関わって山陵祭祀が行われたのはこれが唯一であり、しかも自分の直系父祖に戦勝を祈願している。
前年3月25日にも、山階陵と後田原(のちのたわら)陵(光仁天皇陵)・先田原(さきのたわら)陵(施基親王=春日宮天皇陵、桓武の祖父)に遷都の由を告げているが、遷都に伴う山陵祭祀も他に例がない。
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1月17日
・征夷のため参議大中臣諸魚を伊勢神宮に派遣して奉幣。
前年3月10日に、参議壱志濃王を伊勢神宮に派遣して奉幣し、遷都の由を告げていることに対応する。
桓武は、遷都と征夷を組み合わせて行うという難事業を、父祖の霊や皇祖神の加護を得ながら成功させようとしている。
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5月
・安殿皇太子の妃藤原帯子(たいし、百川の娘)が早逝
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「福島セシウム137放出3万5,800テラベクレル、(日本)政府発表の2倍超か」(ブルームバーグ)

「福島セシウム137放出3万5800テラベクレル、政府発表の2倍超か」

との報道が、ブルームバーグのニュースにでている。

ノルウェーの研究機関による調査結果が「アトモスフェッリクス・ケミストリー・アンド・フィジックス・ジャーナル」誌に発表された、とのこと。

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原発に関する情報は、

(1)隠蔽

(2)遅延

(3)過小評価

の特徴をもっているを、この間、身をもって理解した。

だから驚かないということではないが・・・。

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その内の「隠蔽」に関して、・・・。

このところ「朝日新聞」に「プロメテウスの罠」という連載記事があり、これを読むといかに原発情報、放射能情報が隠されてきたか、よくわかる。

そのうちの「防護服の男」という連載はコチラで見れます。

「防護服の男」(その4)のタイトルは、「殺人罪じゃないか」です。
知らされずに放射能の中で生活していた人の独白です。

また、この連載記事により、福島県は3月12日朝に(水素爆発前に)、大気の線量を測り高濃度汚染の実態を把握していた、という事実を知り、これを告発している方もいます。
未必の故意による殺人罪に匹敵する、と告発されてます。
(福島県当局の罪は、SPEED1のことだけではなかった。)

この方のサイトはコチラ。

「プロメテウスの罠」の話題に戻ります。

今は二番目のシリーズで「研究者の辞表」が続いてます。
(これはコチラで見れます)

昨日の記事だったかに、
「3月18日、日本気象学会は会員の研究成果の発表自粛を呼びかけた」
ことが書かれてあった。

秘密主義とか緘口令とか、なんかゾッとする組織犯罪のような気がしてくる。

「研究者」の良心に基づく自発的な行動をも抑圧するような・・・。

「畑村委員会」は是非こういうことにもメスを入れて戴きたい。

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「過小評価」といえば、フランスの事故でも同様のことがあるようだ。


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なんともやりきれない。

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2011年10月26日水曜日

昭和16年(1941)10月25日 「市中の散歩も古書骨董を探るが為ならず餓饑道の彷徨憐れむべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年(1941)10月23日
十月廿三日。小春の日和つゞきて勝手口に洗流しの米粒あさりに来る雀の聲もたのし気なり

門外は折々防空演習の人聲さはがしきことあれど吾家の庭は夜毎の露霜に苔いよいよ深く、山茶花のしげみに鶯の笹啼絶えずいつもより静にさびしく暮れ行きぬ。
黄昏の光消えやらぬ中にと急ぎて夕餉の支度をなし窓に黒幕を引きて後燈火の漏れはせずやと再び庭に出でゝ見るに、向側なる崖の上に四五日頃の片割月落ち残りて空あかるし。

飯後夜具敷きのぺ宵の中より蓐中に陶集をよみて眠の來るを待ちぬ。陶淵明が詩を誦せんには當今の時勢最適せし時なるぺし。
(略)
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10月25日
十月廿五日。快晴。雲翳なし。庭に残蝶の飛ぶを見る。

晩食の後淺草に徃く。煮豆ふくませ罎詰葛等を得たり。
市中の散歩も古書骨董を探るが為ならず餓饑道の彷徨憐れむべし
オペラ館楽屋に少憩してかへる。・・・(略)
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10月26日
・十月廿六日 日曜日 昨日に劣らぬよき日なり。家に在りて陶集を讀む。晩間出でゝ芝口に飯す。
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10月27日
十月廿七日、晴れて風あり。

牛後散歩。
谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。
團子坂を上り白山に出でたれは原町の本念寺に至り山本北山累代の基及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の基は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向變りたるやうなり。
寺を出で指ケ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮かゝりたれは電車に乗りてかへる。
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10月28日
十月廿八日。晴。風邪心地なり。・・・。

日の暮るゝを待ち芝ロの金兵衛に至るに宵のロまだ七時にならざる中配給の魚介少きため料理出来ず客をことわり居たり。
盬鮭と味噌汁にて茶漬飯を食す
歌川氏來る。紀の國屋倅田之助來る。十年ぶりにて逢ひしなり。この頃役者連自動車なきためいづれも遠方より雑沓の電卓に乗りて木挽町へ通ふと云。

かみさん紙筆を持出し賣切の札かけと言ひければ、
酒肴みな賣切に鳴海潟
汐もそこりて干物さへなし
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10月29日
十月廿九日。晴。
谷町電車通の焼芋屋久しく休みゐたるに芋俵の配給ありしとて早朝よりふかし芋を賣出す。買はむとするもの行列をなしたり

それ焼けたとわめき集る人のむれ
芋屋のさわざ火事場なりけり
ふかし芋ふかす藁火も飢る子の
うれし涙に消ゆるわびしさ
釜のふたあけて取り出す焼芋は
地獄の鬼の角とこそ見め
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10月30日
十月三十日。晴。

伊太利亜友ノ會白鳥敏夫と云ふ人突然同會の評議員に余を推挙したりとて、役人くさき辞令書の如きものを書留郵便にて送り來りたれば、直に拒絶の手紙を添へて右の辞令を返送したり。

不快の感を一掃せむとて牛後淺革公園に徃きオペラ館踊子大勢と森永に夕飯を喫し汁粉屋土筆に汁粉を食す。
砂糖の不足を補はむとて西瓜糖また蜂蜜などを用ゆるためにや、汁粉の甘味一種異様なるも可笑し。
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10月31日
・十月卅一日。

夜八時頃淺草より歸る時、地下鐡道の乗客中に特種の風俗をなしたる美人を見たり。
年廿歳ばかり、圓囲顔にて色白くきめ細にして額廣く鼻低からず、黒目勝の眼涼しく少しく剣あり。
髪は後にて束ね角かくしの如き黒地のきれを額に當てたり。
紺地のあらき絣の着物に黒の半纏をかさね帯は幅せまき布をぐるぐる巻きにし、はでなる染物に黒地のきれにて縁を取りし前掛をしめ、結目を大きく帯の上に見せたり。
着物半纏ともに筒袖なり。着物のきこなしより髪の撫付様凡て手綺麗にて洗練せられたる風采、今日街上にて見る婦女子に(ママ)比にあらず。おぼえず見取るゝばかりなり。琉球の女にあらずばアイヌの美人ならむ歟。

二三年前銀座通にて同じ風俗の女二人連にて歩めるを見しことあり。其時は夏なりし故髪かざりの布は白地にて細かき刺繍を施したり。半纏はなかりし故巻帯の後ざま能く見えたり。着物はその時も絣なりき。いづこの風俗ならむ。
色彩の調和よく挙動の軽快なること日本現代の服装の俗悪野卑なるに似ず遥に美術的なり。
淺草松屋の下より乗りて京橋にて降りたり。同伴の者なく一人なり。履物は普通のフェルト草履に白足袋をはきたり。この圖の如し。
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谷中の永久寺はココにあります

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本念寺はココです。

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「死の地域に生きる」原発事故後の日常(ドイツのテレビで放送された南相馬の現状)

ドイツのテレビ(WDR)が、10月18日、福島・南相馬の状況を放送した。

コチラで教えてもらった(リュウマの独り言)。

この方のソースは、コチラとのことで、ここが詳細版です(コチラ)。

YouTubeで30分ものです。

現地の人びとのナマの声を淡々と伝えています。
(サイトでは、放送内容の文字情報も提供してくれてます。スゴイ)

是非視聴を。

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東京 江戸城東御苑の陽気なサザンカ(山茶花)が満開

江戸城東御苑のサザンカが満開
例えば、近くの北の丸公園のサザンカはこんなふう(コチラ)なのに、東御苑のサザンカは陽気な南国系の感じがする。

写真は10月25日現在
もう満開で、どんどん散り始めている。
花がポロリと落ちるのがツバキ、花びらが散っていくのがサザンカ
このポイントしか見分け方がないくらい、ツバキのようなサザンカだ。

北桔橋門を入ってすぐを左、天主閣跡の裏側、にある。


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延暦11年(792) 軍団兵士制廃止 蝦夷集団の服属 長岡京洪水 桓武天皇は和気清麻呂の助言により平安京遷都を決意

京都、銀閣寺の庭園(2011-09)
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延暦11年(792)
・この頃、(長岡京では)大極殿・朝堂院は、次第に日常の政務に用いられなくなり、儀式や儀礼を行うハレの空間に変化し、代わって政務は内裏で行われるようになる。
内裏には南殿(後の紫宸殿)や寝殿(後の仁寿殿)など多くの殿舎があり、本来は天皇が生活するプライベート空間であった。
この年、公卿は新堂への出仕だけでなく、内裏への出仕も含めて、上日(じようじつ、勤務日数)に数えることが許される。
長岡京に都が置かれた時代には、既に公卿たちは朝堂院では政務に差し障りがあり、日頃から内裏に伺候するようになっていたと推測される。
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1月
・かつて阿弖流為と共に抵抗していた斯波(志波)村の蝦夷族長、胆沢公阿奴志己が、戦禍を避けて移住していた斯波村から国家への帰陣を願い出る(『類聚国史』同年正月丙寅条)。
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6月5日
安殿皇太子の病状が再び悪化
10日、卜(うらな)わせたところ、早良親王の崇りであるという明確な答えが出た。
直ちに諸陵頭(しよりようのかみ)の調使王(つきつかいおう)を淡路に派遣して早良親王の霊を慰め(『日本紀略』)、6月17日には勅を発して、墓の回りに濠(ほり)を設けて清浄を保つように指示し(『類聚国史』巻25)、崇りの終息を願う。

しかしその5日後、雷雨が発生、長岡京が洪水に襲われ、式部省の南門が倒れるという被害が出る(『日本紀略』)。  
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6月7日
・陸奥・出羽・佐渡・大宰管内諸国を除いて、軍団兵士制(総兵力20万)を廃止する(『類聚三代格』巻18)。大軍縮の実施。
(光仁朝末年には、軍団兵士制の縮小化が実施され始めていた)

理由
貧窮農民による兵士の弱体化
集められた兵士は国司・軍毅の土地経営のために私役されている実態
唐の衰退による国際的緊張緩和(対新羅軍事侵攻放棄)
兵士の庸の免除、征軍から帰郷した後の国内上番の免除などによる国家財政上の問題
一方で征夷政策が継続しているが、征夷戦に対しては、軍団の枠を超えて富裕農民層から広範な動員を行う。
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7月25日
・胆沢以北の蝦夷集団の服属。桓武は次の征夷の勝利を確信する。
この日、蝦夷爾散南公阿破蘇(にさなんのきみあわそ)が入朝を希望しているとの情報が陸奥国から入る。桓武は、長岡京までの路次の国々に対し、壮健な軍士300騎を出して国境で迎接し、国家の威厳を示すよう指示(『類衆国史』)。

11月3日、爾散南公阿破蘇は宇漢米公隠賀(うかんめのきみおんが)と共に長岡宮の朝堂院で饗され、桓武から爵第一等と大御手物(天皇自ら手渡す品物〉を与えられる。
その際桓武は、今後も誠実・勤勉に朝廷に仕えれば、ますます優遇する旨の詔を発す(『類聚国史』巻190延暦11年11月甲寅条)。

爾散南公・宇漢米公は胆沢より北の蝦夷集団で、陸奥国の俘囚吉弥侯部(きみこべの)真麻呂・大伴部宿奈麻呂・吉弥侯部荒嶋らが彼らの服属を仲介した。
彼らはその功績により、無位から地方豪族としては最高位にあたる外従五位下を与えられる〈『類聚国史』巻190延暦11年10月癸未条・11月甲寅条)。
彼らは、陸奥按察便兼陸奥守の多治比浜成や、鎮守将軍の百済王俊哲ら現地官人の要請のもとに仲介の努力を払ったとおもわれる。
第1次征討失敗以後、蝦夷の懐柔策が強化され、蝦夷集団の切り崩しに成功したのであろう
胆沢の背後の蝦夷集団が国家側に就いたことは、征夷を進める上で有利な状況をもたらした。
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8月
・長岡京に洪水(6月にも発生している)。
桓武は赤日崎(あかひざき、京都市伏見区羽束師(はづかし)古川町赤井前)に行幸して被害状況を視察。

水上交通の便の良さは、洪水の発生と隣り合わせで、桂川や小畑川が氾濫すれば、直ちに京は冠水し、水害に襲われた。
長岡京の構造的問題。

桓武は、安殿の病状悪化2年前の身内の不幸(旅子・新笠・乙牟漏の死去)や疫病と併せ、この洪水早良親王の崇りと認識した。

崇りをなす霊の存在が確実視されると、大雨や洪水は、天皇や皇太子ばかりでなく、社会全体に襲いかかる崇りと認識されるようになる。
洪水が頻発する立地問題(構造的欠陥)に加え、それが怨霊による崇りと組み合わされると、長岡京は放棄せざるを得なくなる
桓武は、長岡京を廃し、新しい清浄な地に遷都することを決断する。

革命思想に基づく新王朝の都は既に長岡京で実現しており、古来からの歴代遷宮の慣行も二度目の遷都には適用できない。
平安遷都は「理念うすき遷都」になるため、桓武は、遷都と征夷の組み合わせを思いつく。
遷都と同時に戦勝報告を新京にもたらし、二度目の遷都を劇的に演出し、天皇の権威を飛躍的に高める構想である。    

いつ頃平安京遷都が計画されたか。
延暦12(793)年正月、桓武は藤原小黒麻呂・紀古佐美に山背国葛野郡を下見させている。
但し、和気清麻呂が没した際の伝記には(『日本後紀』)、
「長岡新都、十載を経るとも未だ功成らず。費(つい)え勝(あげ)て数(かぞ)うべからず。清麻呂潜かに奏す上(桓武)遊猟に託して葛野の地を相(み)せしめ、更に上都に遷す。」
とある。
清麻呂が狩猟にかこつけて、桓武に新都の地相を下見させたという。
延暦11年、桓武は15回以上、狩りや行幸に出かけており、計画時期は延暦11年に遡ると推測できる。
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閏11月28日
・この日、征東大使大伴弟麻呂が一旦辞見(謁見、辞別)し、陸奥に出発。
しかし、大伴弟麻呂は延暦13年元旦に節刀を与えられ再び陸奥に出発している。
おそらく、延暦11年閏11月以降に、征夷実施が延期され、大伴弟麻呂は一旦帰京し、延暦13年元旦に再び出発したと考えられる。

理由は、延暦12年正月に始まる新京(平安京)造営であろうと推測される。征夷実施と遷都とを組み合わせて行う方向で当初日程が修正されたと考えられる。
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2011年10月25日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(2) 「一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て」

東京北の丸公園(2011-10-20)
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別途進めていた「永井荷風年譜」が22回目にしてようやく「断腸亭日乗」起筆の大正6年に到達した(コチラ)。

前からの予定通り、「はじめに」で止まってしまっている川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読むコチラ)の続きを始めようと思う。
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(2)
一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て

「日乗」起筆の頃の荷風は37歳、独身、慶応大学も辞め、その後手を染めた文芸誌編集・発行からも手を引き、まったく自由な文士生活を始める時期に相当する。

荷風は自分を「老人」と見たて、社会的現実から一歩身をひいた、消極的な人生の楽しみ方をはじめようとしている。

大正6年9月16日に「日乗」を起筆したが、その数日後の「日乗」には・・・。

大正6年9月20日
「されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に陰れ住みて先考遺愛の書画を友として、餘生を送らむことを冀ふのみ」
とある。

大正6年10月26日には、身辺整理をしている。
「晴天。写真師を招ぎて来青閣内外の景を撮影せしむ。
予め家事を整理し萬一の準備をなし置くなり
近日また石工を訪ひ墓碑を刻し置かむと欲す」

大正8年1月16日、39歳の時には
「余既に餘命いくぱくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず
と書いている。

荷風は終始、自分の気力、体力が落ち死期が近いのではないかという恐れを抱いている。

昭和3年3月29日
「春来神経衰弱症ますます甚しく読書意の如くならず、旧稿を添削する気力さへなく、時々突如として睡眠を催すことあり、眠れば昼となく夜となく必悪夢に襲はる、何とはなく死期日々近き来るが如き心地するなり」

翌3月30日
「今よりそろそろ終焉の時の用意をなし置くなり」

昭和11年2月24日(59歳)
「余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり」と書き、
「依てこゝに終焉の時の事をしるし置かむとす」とし、「余死する時葬式無用なり」「墓石建立亦無用なり」など7項目の「終焉の時の事」を掲げている。

まず、荷風が本当に身体が弱かった。

随筆「十六七のころ」(昭和10年)によると、「十六七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった」。明治27年、15歳の時、結核性の瘰癧(ルイレキ)にかかり、下谷の帝国大学病院に入院。退院後も風邪をこじらせ、それが悪化して明治28年には逗子に転地し、その結果、学業が1年遅れることになる。

尚、帝国病院入院中に、お蓮という名の看護婦に初恋をして、その「蓮」(はす)にちなんで、自分の名前を「荷風」にしたという有名な逸話を残している。随筆「雅号(旧)について」(明治41年)。
荷風の「荷」は「はす」のこと。

成人してからも腸が悪く、それが持病となって、隅田川沿いの中洲にある中洲病院に通うようになり、院長大石貞夫は、荷風の主治医のような存在になる。
「日乗」起筆の頃、銀座三十間堀の築地界隈や出雲橋に近い路地裏に部屋を借りるが、それはひとつには、中洲病院に通う便がよかったからである。

荷風は病弱であった。
しかも、自身がそのことを非常に意識して、病院通いのために、病院に近いところに部屋を借りるほどであった。

大正10年5月26日
「病衰の老人日々庭に出で、老樹の病を治せむとす」

同年6月9日
「中洲病院に往きて健康診断を乞ふ。
尿中糖分多しといふ。
現在の境遇にては日々飲食物の制限は實行しがたきところなり、憂愁禁ずべからず」

「日乗」起筆の頃に戻る。

大正5年2月に慶魔義塾教授辞職の頃の随筆「矢はずぐさ」(大正5年)に、慶應を辞めた大きな理由は、体調が思わしくなく、朝出がけに腹痛をおぼえることが度々あったためという。

職を辞し、人との付き合いもなく大久保余丁町の家に引込んでしまったいま、荷風は、「われは誠に背も圓く前にかゞみ頭に霜置く翁となりけるやうの心とはなりにけり」と書く。
「およそ人の一生血気の盛を過ぎて、その身はさまざまの病に冒されその心はくさぐさの思に悩みて今日は昨日にまして日一日と老ひ衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし」。
荷風が日記を書こうと思い立つのはこのとき。

この時期、病気を気に病み、年齢のわりに、普通以上に死を近く意識したに違いない。

大正6年の「西遊日誌抄」の序文。
自分はこの3年はど体調が悪い。大石医師に余命はどれほどかと聞くと、「恐らくは常命五十年を保ち難からん」という。
「余元よりかくあらんと兼てより覚悟せし事なれば深くも驚かず」。
ただその日から身辺整理をするようになった。
あるとき書庫の棚を片づけようとして、昔書いた「西遊日誌」4、5冊を見つけた。
はじめ庭で焼き捨てようとしたが、ふと読み返していくうちに「感慨忽ち禁ぜず、薄暮迫り来るも猶巻を掩ふ事能はず」。ついに日記の、後日人の迷惑になるようなところを削って、再び書庫におさめた(これを大正6年に「文明」に発表。)。

「西遊日誌」は、大石医師から長生きは出来ないといわれ、覚悟のうえで身辺整理したところから陽の目を見るにいたった。

荷風にとって、「日記」をつけるとは、死に向かっていく日々を確認していく毎日の遺書だったと見ることが出来る。
だからこそ荷風は「餘生」「病衰の老人」と書く


「日乗」が四季の観察、植物への視線に富んでいるのも、死を意識した荷風が”末期の目”で周囲を見ようとした結果だろう

荷風は好んで自らを「老人」に擬したのではないか。
「老人」に見立てたのではないか。

荷風には時代の生ま生ましい現実と直接関わりを持ちたくないという消極的な反俗精神があった。


さらに俗世から離れた草庵で静かな生活をしたいという文人趣味、隠棲趣味があった。

「若さ」よりもむしろ「老い」のなかに、美しさを見たいという老人趣味があった。

そうした傾向が重なり合って荷風は自らを好んで「老人」に見立てていったのではないか。



現実とはなるべく関わりたくないという、逃避の口実にしたのではないか。

つまり荷風は事実としての「病弱」に、意識としての「老い」を重ねることで巧みに「孤高」の立場を作っていたのである。

大正13年8月16日の散歩記録を見てみよう。
「猿江より錦糸堀に出で、城東電車に乗り、小松川に至り、堤防を下りて蘆荻(ろてき)の間を散歩す。
水上舟を泛(うか)べて糸を垂るるものあり。蒹葭(けんか)の間に四手綱を投ずるものあり。
予は蘆荻の風に戦ぐ声を愛す。
嘈々(そうそう)雨の如く切々私語の如し。
黄昏来路を取りて家に帰る」

麻布から隅田川を越え、小松川まで行き戻ってくるのは半日の旅行であり、しかも夏の暑い盛りである。
「老人」とは思えぬ、元気な行動力である。

荷風の病気には、胃腸障害とそこからくる神経衰弱の他に、長年の放蕩からくる梅毒の恐れがあった。
大石医師の言葉を借りれば、「君元来身健かならざるに若き時夜遊びに耽りたれば露の冷気深く體内にしみ入りて終にこの病を發せるなり。今よりして摂生の法を尽すとも事既におそし恐らくは常命五十年を保ち難からん」(「西遊日誌抄」)と、医師は笑いながらいったとも考えられる

大正14年8月31日
「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」と書く

自分を「老人」に見立てている。
好んで老人趣味に徹しようとする。
「日乗」にはいたるところに荷風の老人趣味があらわれている。
その日常生活には、老人の静かな生活ぶりが強調されている。


老人・隠棲者に見立てようとする荷風にとっての理想とする静かな一日
大正15年9月26日(46歳)。
この日、荷風は知人からかねて欲しいと思っていた秋海棠を数株もらう。
さっそく庭に降りて秋海棠を植える。ようやく手に入りうれしくて仕方ない。
「今日偶然、これを獲たる嬉しさかぎりなし」
そして、
「秋海棠植え終りて水を灌漑(そそ)ぎ、手を洗ひ、いつぞや松莚子より贈られし宇治の新茶を、朱泥の急須に煮、羊羹をきりて菓子鉢にもりなどするに、早くも蛼(コホロギ)の鳴音、今方植えたる秋海棠の葉かげに聞え出しぬ。
かくの如き詩味ある生涯は蓋し鰥居(かんきよ)の人にあらねば知り難きものなるべし。
平生孤眠の悲なからんには清絶かくの如き詩味も亦無し」

好んで自分を老人に見立て、ことさらのように静かな一日を演出する。
生活の芸術化

「矢はずぐさ」

「我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までをも藝術の中に数へずば止まざらんとす。
進んで我生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す

昭和3年2月15日
「空澄みわたりて日の光いよいよ春めきたり、過日高木氏の贈り来りし古梅園献上の古墨を擵り試む、光澤漆の如く筆の穂ねばらず、誠に好き墨なり」

毎年正月、亡き父を偲んで、父親が大事にした硯をきれいに洗うことを一年のはじめの儀式のようにしている。

筆、墨、硯を愛する「文房清玩」の精神である。

今東光の青春回想録『十二階崩壊』(中央公論社、昭和53年)によると、荷風は書き損った原稿用紙の反古はこまかく切って観世縒(かんぜより)を拵えて、出来上がった原稿を綴じるのに使用したともいう。

大正6年9月17日
「燈下反古紙にて箱を張る」

大正8年3月26日
「築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此目糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ」

大正8年11月28日
「燈下臙脂を煮て原稿用罫紙を摺る」

大正14年1月22日
「戯に石印二三顆を籑刻す」

その他
墓参趣味
庭いじり
焚き火
曝書
文房清玩
・・・・・
好んでそういう老人くさい日常を作り出していった。

荷風は、「日乗」のなかでは、俗気を出来る限り排そうとした。


自分を「老人」に見立てることで、世俗とは関わらないですむ理想の隠れ里生活を作り上げていこうとした


「断腸亭日乗」はその意味で、日記であると同時にフィクションであるといってもいいだろう。

************************************* 読書ノートは以上
*
さて、子供の頃は病弱で、一生独身であった荷風
成人してからは、偏食がたたり、
さぞかし老け込んだろう・・・と想像してしまうけれど・・・。


明治12年12月3日生まれで、
昭和34年(1959)4月30日に満79歳で亡くなっている。
昭和27年には文化勲章、昭和29年には日本芸術院会員の名誉にも恵まれて。


ついでに言えば、別途進めている昭和16年の断腸亭日乗(コチラなど)によれば、
この時満62歳の荷風さん、月に2回くらいは日付けの頭に「・」マークを付けている。


健康な精神は健康な肉体に宿る、ということか?


*
*


延暦10年(791)7月~12月 征東大使・副使(田村麻呂)の任命 早良親王の怨霊を明言される

東京・北の丸公園(2011-10-20)
*
延暦10年(791)
7月13日
大伴弟麻呂(おとまろ)が征東大使に、百済王俊哲・坂上田村麻呂・巨勢野足(こせののたり)・多治比浜成が、征東副使に任じられる。
のち、征東使は征夷使に改称される。

征東大使大伴弟麻呂:
従四位下、61歳。延暦2年に征東副将軍に任じられ陸奥に赴任したが、征東将軍大伴家持の死去によって征夷が中止されたため、実戦経験はない。
持節将軍は前線で実戦指揮するのではなく、後方で征夷軍全体を統括するので、高齢で実戦経験がなくとも不都合ではない。

征東副使の百済王俊哲と多治比浜成は従五位上、坂上田村麻呂と巨勢野足は従五位下。
田村麻呂以外の3人は、征討使或いは鎮守府官人を経験し、陸奥按察使・国司・鎮守府官人を兼任していた。
征討使と現地官人の兼任は、これ以降の特徴で、現地官人を征討使の組織の中に取り込み、指揮系統を明確化したものと評価されている。
延暦8年の胆沢の征夷で、征東副使と鎮守副将軍の連携がうまくいかなかったことを踏まえた改革である。

・百済王俊哲は、長く鎮守副将軍・鎮守将軍などを務め、実戦経験が豊富なベテラン。
この年正月18日に閲兵のため東海道に派遣され、4日後には下野守に任命され、東海道の閲兵を終えた後は、東山道の下野国府にいたと思われる。
革甲や糒の準備にも関わったと思われる。同年9月には鎮守将軍を兼任(延暦6年に解任されて以来の復任)。

・多治比浜成は、延暦8年の第1次征討で征東副使を務め、唯一軍功を認められた人物。
延暦9年3月に陸奥按察使兼陸奥守となり、敗戦後の体制の立て直しを行っていたとみられる。

・巨勢野足は43歳で、延暦8年征夷の胆沢の敗戦の勘問が行われた直後の延暦8年10月に、鎮守副将軍となり、延暦11年には陸奥介を兼任する。
のち嵯峨朝では藤原冬嗣と共に最初の蔵人頭となるが、中衛少将・左衛士督・左兵衛督・左近衛中将・右近衛大将といった武官の要職を歴任している。
延暦8年の敗戦後、陸奥に鎮守副将軍として派遣されたのも、武人として優れていたからであろう。「人となり鷹・犬を好む」という(『公卿補任』弘仁7年条)。

第2次征討の大使・副使は、田村麻呂以外は陸奥国への赴任経験があり、実戦経験者も2人いる。実戦経験のない巨勢野足も武人として優れているし、田村麻呂も優れた武人である。
経験と武力に裏打ちされた強力な布陣で、桓武の意気込みと期待が窺える

田村麻呂起用の意味
坂上氏は渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の一族。
坂上田村麻呂の薨伝(『日本後紀』)に、「家世武を尚び、鷹を調へ馬を相る。子孫業を伝へ、相次ぎて絶へず」とあるように、代々武芸を以て朝廷に仕えた(『日本後紀』弘仁二年(811)五月丙辰条)。
父の苅田麻呂は授刀少尉であった天平宝字8年(764)、恵美押勝の乱の鎮圧に活躍し、その功績によって従四位下の位階と大忌寸(いみき)の姓(かばね)を与えられ、中衛少将に任じられた。桓武即位の翌月、右衛士督(うえじのかみ)となり、延暦4年(785)には従三位の位階と大宿禰(すくね)の姓を授与されている。
苅田麻呂は、東漢氏の祖である阿智使主(あちのおみ)が後漢霊帝の子孫であると主張し、東漢氏の支族の姓を忌寸から宿禰に変えることに成功している(『続日本紀』延暦四年六月癸酉条)。
東漢氏は実際には朝鮮半島から渡来したとみられるが、新たな主張を展開し東漢氏全体の地位を向上させた。

田村麻呂は、武門の坂上氏の伝統を受け継ぎ、父の栄達と彼自身の武人としての才能によって、桓武天皇の信任を得る。
宝亀11年(780)に23歳で近衛将監となり、30歳で近衛少将、42歳で近衛権中将、44歳で近衛中将、49歳で中衛大将、翌年中衛府が右近衛府に改組されると初代の右近衛大将となる。
近衛府の官人は天皇側近の武官であり、その要職を歴任した田村麻呂は、天皇の信任が特に厚かった。

田村麻呂の薨伝には、「田村麻呂、赤面黄鬚にして、勇力人に過ぐ。将帥の量あり。帝これを壮とす」、「頻りに辺兵を将ゐて、出づる毎に功あり。寛容にして士を待ち、能く死力を得たり」とある。
顔が赤く鬚(あごひげ)が黄色で、勇気と腕力が人に勝り、将軍としての力量があったので、天皇はそれを頼もしく思っていた。
一方で、寛容で士卒を大切にしたので、よく部下の死力を得ることができたとの評価である。

今回の征東使の中では最年少34歳で参加。
これまでの征東使が逗留して進軍しなかったり、無断で軍を解散するなど、天皇の意に反する行動をとることがあったので、腹心の武官を征東副使に任じることによって、征夷に天皇の意思を反映しやすくしたと思われる。
田村麻呂は桓武にとっての勝利の切り札として起用された。
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8月
・この八月、夜間に群盗が伊勢大神宮に侵入、正殿一宇・財殿二字に放火し、門三間・垣一重を焼く。桓武天皇は直ちに参議紀古佐美らを派遣して、幣帛を捧げて出火を謝し、再建の措置を講じる。
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9月16日
・八ヶ国に命じて平城宮の諸門を長岡宮に移建させる。平城京廃都が決定的になる。

平城宮の諸門を長岡宮に移築せよとの命令を、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予の諸国に下す。これらの国々の多くは、後に平安官の美福(びふく)・偉鑑(いかん)・藻壁(そうへき)・待賢(たいけん)・陽明(ようめい)・談天(だんてん)・郁芳(いくほう)の諸門の造営を命じられているので、この時長岡宮に移し建てられたのも、これらの諸門に相当する門だったのだろう。
この措置は、もはや平城京に帰ることは無い、という意思表示である。
しかし、遷都から7年になろうというこの時点で、宮を取り囲む諸門がまだ出来上がっていない状況である。
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10月
・前年元服したばかりの安殿皇太子に不例の日々が続き、なかなか快癒せず。
10月27日、小康状態になって、皇太子は自ら伊勢大神宮に参拝。
皇太子の心身の異状はその翌年にまで及ぶ。
朝廷の陰陽師は、はっきりと早良親王の怨霊がとりついているのだと言う。
桓武天皇は、諸陵頭を淡路国に遣わし、かさねてその亡霊に陳謝の意を表す。

桓武は、皇太子時代に伊勢神宮を訪れた経験がある。安殿の伊勢参拝も父桓武の指示であろう。
この他、遷都や征夷に関して伊勢への奉幣記事が頻出する。
桓武が伊勢を深く信仰していたことがわかる。
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10月25日
・東海道・東山道諸国に征箭(そや、矢)3万4,500余具を作ることを命じる。
矢は兵士1人が胡簶(ころく)に入れて背負う50隻を1具と数えるので、これは172万5千余隻という膨大な数である。
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11月3日
・桓武天皇は、坂東諸国に対して軍粮の糒12万余斛の準備を指示。
前年閏3月にも糒14万斛の準備を命じている。
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2011年10月24日月曜日

「生き物は生きねばならぬ物なれば餌を求めて走る豚の子」(鎌ヶ谷市 正治伸子) 「朝日歌壇」10月24日より

東京、北の丸公園、池の畔のススキ(2011-10-24)
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「朝日歌壇」10月24日より


生き物は生きねばならぬ物なれば餌を求めて走る豚の子(*) (鎌ヶ谷市)正治 伸子

フクシマの車で県外走るとき人目はばかる我情けなし     (福島市) 伊藤 緑

海釣りも畑仕事もジョギングもみな奪われて福島にいる    (福島市) 武藤 恒雄

福島から鳥が消えたと友の文ウグイス・カッコウ・カラスにスズメ (名古屋市)諏訪 兼位

ドイツ語で我等ゲンパツやめると言う原発と言う日本語をつかう (福岡市)鬼塚 夏子


(*)選者(永田和宏)の評
「正治さん、原発立入禁止区域の映像である。どんな状況でも餌だけは取らねばならない生き物の本質を豚の子に見る哀れ。」

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延暦10年(791)1月~6月 坂上田村麻呂、桓武の配慮で百済王俊哲と出会う 

京都北白川から市街を望む(2011-09)
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延暦10年(791)
1月18日
・第2次征夷のため、東海道・東山道に閲兵のための使者を派遣。
「正五位上百済王俊哲・従五位下坂上大宿禰田村麻呂を東海道に、従五位下藤原朝臣真鷲を東山道に遺して、軍士を簡閲し、兼ねて戎具を検ぜしむ。蝦夷を征するがためなり。」(『続日本紀』延暦十年正月己卯条)
延暦5年5月の時と同様、征夷に先立って東海道・東山道諸国の軍士を簡閲し、武器・武具を点検させる。

注目すべき点。
①延暦6年閏5月に日向権介に左遷され、同9年3月に許されて日向から帰京した百済王俊哲が派遣されている。
百済王俊哲は、宝亀5年(774)の38年戦争開始以来、鎮守副将軍・鎮守将軍などを歴任し、左遷中に行われた延暦8年の征夷以外の全ての征夷に参加している。
征夷に関する実戦経験の豊富さでは、当代随一の人物。

②後に征夷大将軍として活躍する坂上田村麻呂(34歳)が、初めて東北政策に関わり、百済王俊哲と共に東海道に派遣されている。
田村麻呂は、実戦経験の豊富な百済王俊哲から、征夷に関わる戦術や、蝦夷や彼らの住む東北について多くを学ぶ。
2人は半年後に征東副使に任命され、延暦13年の征夷で行動を共にする。
田村麻呂と征夷との関わりが、桓武の配慮で百済王俊哲との出会いから始まる
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3月
・国忌の対象が天智以降の歴代天皇(大友皇子〈弘文〉と大炊王〈淳仁〉は除く)ら16名になり、この月、太政官が国忌の整理を奏上。

「謹んで『礼記』を案ずるに曰く「天子七廟、三昭・三穆(さんぼく)と太祖の廟とともに七なり」と。また曰く「故きを舎(す)てて新しきを諱(い)む」と。注に曰く「親冬の祖を舎てて、新死の者を諱む」と。今国忌稍(やや)多く、親世もまた尽く。一日万機、行事多く滞る。請うらくは、親冬の忌、一に省除に従わん。」
宗廟(「おたまや」)で祀る対象を示す中国の古典『礼記』を参照している(一族(宗族)の初代とされる者を恒久的に残し、祀る本人の父系直系の先祖のうち近い方から、父・祖父・曾祖父と6人まで祀る方式)。

この時に残された国忌は、天智、施基とその妻(光仁の母)紀橡姫、聖武、光仁とその妻(桓武の母)高野新笠、現天皇たる桓武の妻藤原乙牟漏であろうと推測されている。
但し、聖武の国忌は、平城天皇の大同2年(807)には除かれる。
これにより、王朝の始祖は天智とされたことが確認される。

「国忌」は、過去の特定の天皇・皇后の命日のことで、この日は国家的な忌日(きじつ)とされ、政務を休み、追善の行事を行うことが、儀制令に規定されていた。

国忌の初見は『日本書紀』持統天皇元年(687)9月9日条の天武天皇一周忌だが、『続日本紀』大宝2年(702)12月2日条によれば、天武ばかりでなく、12月3日の天智の命日も国忌とされている。
山陵の取り扱いや不改常典(ふかいのじようてん)に関して同じく、天武系の皇統は、天智をその初代と認識していた
天武系の皇統のもとで編纂された『日本書紀』には、天智がいったん大海人皇子(後の天武)に譲位しようとしたという挿話を載せている(天智10年〈671〉10月17日条)。これを載せることで、大海人皇子には天皇として即位する資格が備わっていると天智が認定していた、という論理を組み立てようとした。
天智が初代、その正統な後継者としての天武が二代目、というのが奈良時代の公認歴史観であった。

その後、国忌とされた命日は、次第に増えてゆく。

慶雲4年(707)4月には、天皇になっていない草壁皇子の命日、天平宝字4年(760)12月には、文武夫人で聖武の母の藤原宮子(みやこ)と、聖武皇后の藤原光明子の命日、宝亀2年(771)5月には光仁の父の施基(しき)親王の命日、同年12月には、施基親王の妻で光仁の母に当たる紀橡姫(きのとちひめ)の命日が、それぞれ国忌に入れられる(以上『続日本紀』)。

この外、延暦8年(789)12月に死去した高野新笠(光仁の妻で桓武の母)、延暦9年(790)閏3月に死去した桓武皇后の藤原乙牟漏(平城・嵯峨の母)の命日も、国忌に入れられる。
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3月17日
・右大臣以下、五位以上の貴族を対象に甲(革甲)を造らせ、五位の富裕者には特にその数を増して、20領を造らせると定める。
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6月10日
・諸国に対し、鉄甲3千領を新様式で修理することを命じる。
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2011年10月23日日曜日

永禄9年(1566)4月1日~8月31日 三好三人衆に担がれた足利義栄が摂津上陸 義昭は若狭武田氏を頼る [信長33歳]

東京、江戸城東御苑本丸跡付近(2011-10)
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永禄9年(1566)
4月
・本多平八郎忠勝、騎士52騎を付けられ3万6千石の旗本・青年騎馬隊隊長となる。
岡崎城黒御門内・平馬屋敷に侍屋敷を拝領。母と乙女が転入、結婚。
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上旬
・信長、美濃国各務野へ侵入。
斎藤龍興も井口を出て新加納に布陣。地勢が悪く軍の進退が難しいため信長は交戦断念、その日のうちに帰陣。
この年は木曽川を越えて一進一退が続く。(「信長公記」)
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・ヴイレラ、トルレスの命により豊後に戻る。
日本人修道士ロレンソも一時九州に下り、アルメイダに従い五島へ伝道行脚。
フロイスのみが堺で京畿の信者達の面倒を見る。
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4月2日
・ブリュッセル、オラニエ公ウィレム1世(33)やエグモント伯(44)を中心とする同盟貴族400人、宮廷に押しかけ執政パルマ公妃マルガレータ(44)に請願書提出。
フェリペへの忠誠を誓いながらも、宗教裁判廃止と全国議会開催を求める。
翌日、「乞食」貴族たちの勢いに恐れをなしたマルガレータは、請願書のフェリペへの取り次ぎを約束、その場を取り繕う。
マルガレータのあいまいな対処に、カルヴァン派信徒達は事実上迫害停止と考え、公然と集会を開く。
亡命貴族も次々に帰国、カルヴァン派組織は急激に進展。
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4月3日
・今川氏真、富士大宮の市を楽市とする。  
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4月3日
・信玄、白井城を攻める
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4月10日
・三好三人衆2万、大和侵攻。筒井順慶も合流。
翌日、奈良付近の五本松まで迫る。
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4月11日
・信長、朝廷に物を献上。
「尾張から御うま、御たち、三千疋」(「御湯殿上日記」)。
21日、足利義秋(後の義昭)に物を献上。
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4月12日
・北條氏政、蔭山新四郎に下総臼井城での籠城を賞する
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4月18日
・足利義秋(後の義昭)、細川藤孝・和田惟政に宛てて、信長の参洛承知を喜び、信長誓紙を調へ帰るのを待つと書簡。
実際には、信長は未だ逡巡。
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4月21日
・足利義秋(後の義昭)、「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
「吉田兼右が伝奏を通さずに隠密に取りはからう」(関白近衛前久・万里小路惟房が協力)、元服前でもあり納得できないと述べる(「言継卿記」)。
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4月21日
・松永久秀、和議にて美野庄城を筒井氏に明け渡す。 
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4月22日
・三好長逸、京都余部図子中へ買得地を安堵(「余部文書」)。
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4月26日
・三好三人衆、大安寺の陣を払い、筒井城攻略へ向かう。
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5月
・毛利軍、富田城内七曲口で交戦。
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5月13日
・フィレンツェ、コジモ大公の愛人エレオノーラ、男児出産。
この頃、コジモの関心は新しい愛人カーミラ・デ・マルテッリに移る。
エレオノーラ(18)はコジモ末子ピエロ(12)と不倫関係に。  
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5月9日
・足利義秋(後の義昭)、相国寺万松軒で足利義晴17回忌法会。
19日、相国寺光源院で義輝1周忌法要。
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5月19日
・上杉輝虎(謙信)、武田信玄を討伐し北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都と鎌倉の公方を復興することを祈願
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5月15日
・大友宗麟、島井宗叱に博多織20端、織立を依頼。
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5月19日
・松永久秀5千、多聞山城脱出、摂津欠郡野へ移動。
24日、松永久秀(軍勢6千となる)、三好義継らを高屋城に攻める。
敗れ、29日、堺へ退く。
30日、三好義継ら三好三人衆1万5千、堺に松永久秀を攻める。久秀、逃走。
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6月
・神保長職、永禄5年に家臣水越勝重が寄進した本覚寺の寺領を安堵。
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・ブリュッセル、スパの協議。ル・クレルク、ルードヴィヒ、ド・ハメス、マルニクス兄弟。
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6月1日
・松永久秀・三好勢、堺外での決戦約定。
堺会合衆の要請。久秀、軍を解散し逃亡。
この日、大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆による合戦。両軍数名の戦死者が出る。
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6月5日
・パミエ(ピレネー地方)のユグノー、修道院を襲い修道士・神父を殺害。
カトリーヌ、ラングドック総督アンリ・ド・モンモランシー(ダンヴィル伯、モンモランシー大元帥次男)にユグノーに対する報復を指示。
1年後、牧師タシャール(虐殺の扇動者)及び24名を処刑。
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6月8日
・筒井順慶、大和・筒井城を奪還。
後、順慶は攻撃に転じて久秀の諸城を落としていく。
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6月11日
・阿波勝瑞城篠原長房、将軍跡目として義秋の従兄弟足利義栄を淡路筑紫に移し、1万5千余で兵庫上陸。
義栄が富田に前進した時、フロイスはバテレンに好意を持つ篠原長房に義栄への謁見取成しを求めるが実現せず。
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6月11日
・足利義秋(後の義昭)、和田惟政へ、尾張にいる細川藤孝からの報告を伝達。
藤孝は信長の要請を受けて早急に和田惟政を尾張へ派遣するよう要請あり、改めて和田惟政へ尾張下向を命令。
また、信長に義秋参洛のため馳走するよう通達すること、信長の出勢を急ぎ実現させることなど通達・命令。
尚、信長が尾張守任官にこだわるなら、自分は許すつもりであると伝える(「和田家文書」)。
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6月17日
・仏、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、遺言状を作成。
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6月19日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワート、エディンバラ城にて王子(後、スコットランド王ジェームズ6世・イングランド王ジェイムズ1世)出産。
3日後にグリニッジ宮殿にいたエリザベス1世のもとに知らせ。
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7月
・足利義秋(後の義昭)、畠山義綱(能登国七尾城主)へ出陣命令(「本多文書」)。
11日、十市遠勝(大和国人)へも出陣命令。
来月22日、信長が出陣し義秋動座に供奉すると通達(「多聞院日記」)。
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・アントウェルペン、ガン、トゥルネー、ヴァランシェンヌ、カルヴァン派の野外説教開始。
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7月2日
・仏、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス、62)、サロン(プロヴァンス)で没(1503~1566)。現金だけで3,444エキュの大金。
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7月5日
・木下藤吉郎、墨俣に城を築き始める。信頼できる史料にはない。
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7月13日
・三好三人衆、摂津淀城を攻略。
14日、摂津より入洛、庶政を裁決(「言継卿記」)。  
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7月13日
・松永久秀方小泉城(京都郊外西院、元三好長慶被官小泉氏)、三好三人衆に攻められ陥落。
「今暁西院の小泉、城を渡し大津へ落ち行くと云々。二百計りこれ有り」(「言継卿記」7月13日条)。
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7月13日
・細川昭元、松室重清に神領を惣安堵(「松尾月読神社文書」)。
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7月17日
・「多門院日記」に、8月、信長(33)は足利義昭を奉じて上洛予定と伝えられる。
この頃、上総介から尾張守を自称。
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8月
・上杉謙信、関東出陣、離反した金山城(群馬県太田市)の由良成繁を攻める。
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8月2日
・津田宗達、没。
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8月3日
・三好勢3千、足利義秋が身を寄せる矢島攻めのため近江坂本に迫る(義秋を匿う六角氏に内応者あり)。
義秋は甲賀和田惟政の館から野州郡矢島少林寺に移動していた。
義秋、信長・島津・相良(肥後)・大友(豊後)・毛利(安芸)に御内書送る。
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8月5日
・オスマン朝軍、ハンガリー、シゲト・ヴァール包囲。
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8月9日
・三好三人衆1千余、片岡まで出陣。
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8月10日
・ベルギー、アントウェルペンの暴動(フランドルの反乱)、 各地(ヘントやフランドル各地)に14週間に渡り飛び火。
カルヴァン派による「聖像破壊運動」。カトリック教会の破壊や略奪。カトリック僧侶は教会から追い出され,礼拝も中止される。      
エグモント伯爵が、新教徒指導者オラニエ伯爵、その弟ヴィレム・フォン・ナッサウと手を組む。
ネーデルランド北部7州によるブレダ協約。
フェリペ2世、アルバ公をネーデルランデンに派遣。
スペイン軍、フランス領内近くを通過、フランス新教徒は危機感を高める。
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8月23日
・ブリュッセル政府マルゲリータの譲歩。「盟約」解体。中央派ウィレム、ホールネ、エフモント。  
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8月23日
足利義栄、摂津越水城入城
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8月24日
・三好長逸(三人衆)、松永久秀の京都居宅を没収(「言継卿記」)。
禁裏六町における検封事件。
この時、広橋家雑掌速水武益と松永久秀内者楠正虎が松永党であるとの理由で、持ち家5間を三好長逸が検封(住屋の検封)。町衆は抵抗せず(「言継卿記」8月24日条)。
40年前の大永7(1527)年、堺公方府の住宅破却に対し町衆は果敢に抵抗。
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8月25日
・北條氏照、正木時忠に宇都宮・由良・成田諸氏の帰属を伝える。
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8月25日
・北条氏政、細川藤孝へ、足利義秋(後の義昭)が提示した上杉輝虎(謙信)・武田信玄・北条氏政の同盟督促に関して、武田信玄に下知することが先決であると通知。
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8月29日
・足利義秋、近江六角氏・矢島同名衆の謀叛が顕然としたため、夜陰にまぎれて、近江矢島を発ち、細川藤孝・一色藤長・三淵藤英ら10騎ばかり従え、琵琶湖を渡り若狭守護武田義統(義秋の妹婿)を頼る。
父子が不仲のため、9月8日、越前(敦賀金ヶ崎)朝倉義景を頼る。
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8月29日
信長、大軍率い美濃攻め、木曽川河野島(羽島郡)上陸
30日、織田信長・斎藤龍興、両軍対峙。      
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8月29日
・京都御霊通で大火。知恩寺などが炎上。(「言継卿記」)    
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昭和16年(1941)10月21日 「男は勲章まがひの徽章其他を胸につけ、女は模造の蜀紅錦ならでは帯にせず。是軍人執政の世の風俗なり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年(1941)10月19日
十月十九日。青空隈なく晴渡りて風もなし。

晝飯食ひし皿小鉢も洗はずその儘にして家を出づ。足の向くまゝまたもや小石川の故里を歩む。牛天神より傳通院の境内に少憩し電車にて同心町竹早町の通を大塚仲町に至る。

法華寺善心寺に栗本鋤雲の墓あることを思出し寺の門を入る。
この寺の僧盆栽を好むとおぼしく数年前来りし時には本堂の前に植木棚をつくり皐月躑躅花の鉢を数知れず並べたるを見しが、この度は菊の鉢を置きつらねたり。既に花の咲きたるもあり。庫裏入口のほとりに見事なるドウダンの圓く刈り込みたるが美しく霜に染みたり。黄楊の古木を刈り込みて屋根の形になしたるもあり。其後に盆栽多く並べたるさま植木屋の庭を見るが如し。住職の風流思ふべきなり。寺男に樒線香を運ばせ本堂の後なる鋤雲の墓を拝す。勒する所の文字左の如し。

 (略)

善心寺墓地のはづれは険しき崖にて大塚坂下町の陋巷を隔て護国寺の丘陵を望む。老樹茂(お)ひしげりて甚幽寂なり。

寺を出で仲町の四辻に佇立みて電車を待つ。音羽目白台の眺望あり。

淺草に至りオペラ館楽屋に休憩す。踊子等と共に汁粉屋つくしに至りて汁粉を食す。いつも汁粉は品切なれどこの日珍らしく注文に応じたり。
去年冬頃より市中到處汁粉羊羹の如き甘き物なくなり。たまたま之を味ひ得る時は人々歓喜してその幸運を祝するなり
燈刻芝ロの金兵衛に夕飯を喫す。偶然歌川氏に遇ふ。
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10月20日
 十月二十日。晴。

晝頃隣のかみさん來り隣組にて昨日合議の末先生のところは女中も誰も居ない家政今度の防空演習には義務も何もないものとして除外致しました。
ヘルマンさんのところは女中だけで御主人は外国人故これも先生と同じく防火團には入れない事に致しましたと言ふ。
何分よろしくと荅へ過日人より貰ひたる栗を箱のまゝ贈りたり。
明後二十二日より世の中暗闇になる由。
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10月21日
十月廿一日。今日も晴渡りてよき日なり。庭の野菊石蕗花と共に吹き出で蟲の聲晝の中より静なり。

正午銀座に徃きて食料品を買ふ。明日より三四日の間外出し難き形勢なればなり。
正午の頃の銀座通は男女店員の休憩時間とおぼしく事務服のまゝ散歩するもの多く、飲食店はいづこも店員にて雑沓せり。

亀屋相模屋など食料品賣る店には山の手の奥様令嬢らしき女の出入頻繁なり。其服装を見るに帯は皆金欄に金銀の縫箔をなしたり。赤地に金銀の孔雀の尾を縫ひ取りになし衣服は一面に赤き蔦の葉を染めたるが如きを平気で着てゐるもあり。されど通行の人さして珍しとも滑稽とも思はぬと見え振返り見るものも無し。
数年前カフェーの女給の華美姿(はですがた)に比すれば更に一層毒々しくきらびやかになりたり。
淺草興行場の女藝人の舞台衣裳といヘども尚三舎を避くべきもの遂に良家の婦人が外出の衣服とはなれるなり。
金銀にてぴかぴかひかるものを好むこと現代の日本人ほど甚しきはなかるぺし。


男は勲章まがひの徽章其他を胸につけ、女は模造の蜀紅錦ならでは帯にせず。是軍人執政の世の風俗なり
外形既に斯くの如し。其性情趣味に至つては推して知るべきのみ
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10月22日
十月廿二日。今日は世間騒しく夜は暗闇になると思ひの外日の丸の旗あちこちに飜り夜も暗くはならぬ由。どこやらに御嫁入の御祝事あるが故なりとぞ。

正午士州橋に行き歸途日本橋に出で八木長にて鰹節を買ふ。
鰹節も近き中に米同様切符制になるべき噂盛なれば萬一の事に備へむとするなり。
余は今日まで鰹節の事など念頭に置きしこともなく洋風の肉汁あらば事足れりとなせしが、今年春頃より食料品何に限らず不足品切となり、こゝに始めて昔の人の饑饉の用意に米と鰹節と梅干あらば命はつなぎ得ぺしと言ひたることの真實らしきを知りたるなり。
暖き粥に鰹節醤油梅干を副食物となせば一時の空腹をいやし得べし。
陶靖節の集をよみて眠る。
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*善心寺はこの辺りにあったようだ

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延暦9年(790) 桓武天皇、第2次征夷の実施を表明 相次ぐ身内の不幸(生母と后妃3人を相次いで没す) 坂東の疲弊

江戸城二の丸池(2011-09)
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延暦9年(790)
2月
・延暦8年の征夷で征東副使であった入間広成、従五位下に叙される。
3月には常陸介に任じられる。
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3月
・延暦8年の征夷で征東副使であった多治比浜成、陸奥按察使兼陸奥守に任じられる(延暦九年三月丙午条)。浜成は延暦8年の征夷では1人だけ戦功を賞されていた。
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閏3月4日
桓武天皇、第2次征夷の実施を表明

「勅して、蝦夷を征するために、諸国に仰せ下して、革の甲二千領を造らしむ。東海道は駿河以東、東山道は信濃以東、国別に数あり。三箇年を限りて、並びに造り訖らしむ。」(『続日本紀』延暦九年閏三月庚午条)。
蝦夷を征するために、駿河以東の東海道諸国と、信濃以東の東山道諸国に命じて、革の甲(よろい)2千領を3年間で造らせるという勅。当時は年数を足かけで数えるので、「三箇年を限りて」は、納品期限は延暦11年となる。

従って、桓武朝第2次征討は延暦11年か12年に行われる予定であり、この勅はそれを表明したもの。

既に、宝亀11年(780)8月、諸国で製作する年料の甲冑を鉄製から革製に変更することが指示されている。理由は、革製の甲は鉄製の甲に比べて丈夫で錆びず、身に付ければ軽く、矢に当たっても貫通し難いことである(『続日本紀』)。これを征夷でも積極的に使用すべく、東国にその製造を命じる。
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閏3月10日
・桓武の皇后の藤原乙牟漏(31)、没
乙牟漏は百川の兄・良継の娘で、皇太子安殿親王(後の平城天皇)、神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)の母。
母を失って3ヶ月後のこと。

相次ぐ身内の不幸に、桓武天皇は恐れを懐き始めたらしく、閏3月16日、「国の哀(かなしみ)相尋(つ)ぎて、災変未だ息(や)まず」との理由で天下に大赦を行う(『続日本紀』)。

旅子・乙牟漏の死去は、種継の暗殺と相まって、藤原式家の没落をもたらし、代わって藤原氏本来の嫡流である南家が継縄(つぐただ、豊成の子)を代表として勢力を伸ばす。
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閏3月29日
・桓武天皇は、蝦夷を征するため、相模以東の東海道諸国と、上野以東の乗山道諸国に、軍粮の糒14万斛を準備することを命じる。
翌年11月3日にも坂東諸国に対して軍粮の糒12万余斛の準備を指示する。

これを合計すると、坂東諸国は26万余斛の糒を作って陸奥国に運ぶことになる。前回の征夷で東海・東山・北陸道諸国に用意させた糒が2万3千余斛であるから、桁違いの量である。
第1次征討において、軍粮の補給が大きな問題であったことを踏まえた措置であろう。
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7月21日
・乙牟漏と同じく皇太子時代から桓武に連れ添っていた坂上又子、没
又子は坂上苅田麻呂の娘、田村麻呂の姉か妹。年齢不明(田村麻呂は33歳なので、30歳代であろう。)
桓武天皇は、2年間に生母と后妃3人を相次いで失う

この頃、延暦9年秋~冬、長岡京と畿内を中心に天然痘(裳瘡もがき)・豌豆瘡(えんどうそう)が流行し、特に30歳以下の若年層が発病し死者も多いという(『続日本紀』延暦九年是年条)。
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9月3日
皇太子安殿親王が病気になり、桓武天皇は長岡京内の七つの寺に読経を命じる(『続日本紀』)。
病気は「風病」といわれる精神的な病で、翌年10月、翌々年6月にも病気が悪化している。
平城天皇となったあと、退位する原因も風病である。

桓武は、一連の不幸の原因が早良親王の崇りである可能性を考えたようで、この年、淡路にある早良親王の墓に墓守1戸を置き、付近の郡司に管理を担当するよう命じる(『類聚国史』巻25延暦11年6月庚子条)。
但し、この時点では早良親王の崇りは可能性の域に留まっており、正式には認定されていない。従って、長岡京造営は続行されている。
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10月19日
延暦8年の征夷に伴う論功行賞(最大規模の論功行賞) 
有功者4,840余人に対して、天応元年(781)の例に従って、功績の軽重に応じて勲位を授け位階を進めるという、これまでで最大規模の叙位・叙勲(『続日本紀』延暦九年十月辛亥条)。
桓武は、前年9月19日の勅で、「少しでも功績のある者には、その軽重に随って評価」すると述べている。
将官は処罰されているので、叙位・叙勲に預かったのは主に軍士であったとみられる。
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10月21日
・征夷の負担が坂東諸国に偏っていること、富裕者の徴兵忌避が続いていることから、左右京・五畿内・七道諸国の国司に命じて、甲を造る財力を持っている者を今年中に調査・報告させるという太政官奏が出される。

坂東の疲弊
「坂東の国、久しく戎場(じゆうじよう、戦場のこと)に疲れ、強壮の者は筋力を以て軍に供し、貧弱の者は転餉(てんこう、兵粮の運搬のこと)を以て役に赴く」
「富饒の輩は頗るこの苦(戦場の苦しみ)を免れて、前後の戦に未だその労を見ず」(『続日本紀』延暦九年十月癸丑条)。

「不論土浪人」政策の初見
諸税(軍事費)を負担させるのに、その対象が居住地の戸籍に登録されている者(土人)であるか、どこかからの流れ者で戸籍には登録されておらず、「浮浪人帳」などといった特別な帳簿に登載されている人々(浪人)であるかを区別しない、という政策。

同様命令は、翌延暦10年3月17日にも出される。
これらの「甲」は革甲であり、革甲の製造を、東国の民衆だけでなく、都の貴族や、「不論土浪人」を含む全国の富裕者に均等に負担させようという政策である。
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2011年10月22日土曜日

「【原発が「潜在的核抑止力」とは】 前例なき民主主義無視の論」(大江健三郎)

大江健三郎さんの「朝日新聞」連載コラム、「定義集」が初めて原発問題のみをテーマにした。
10月19日付けの「朝日新聞」

大江さんもさすがに、原発=核抑止論には「ドキリ」としたという。

一つは、先に私も扱った御歳85歳の読売新聞主筆の主張
「主筆は85歳になっているはずだが、いまだに中二病だ」小田嶋隆をご参照下さい)
(新聞社内で「トノ、御ランシンを」と言う人は一人もいないのだろうか?とふと思う)

もう一つは、大江さんは「おなじみの伏し目の憂い顔で威嚇する政治家」と言われるが、
私はちょっと下品に「娘さんが無事東京電力に入社された政治家」と言う、自民党の政治家

彼らが、期せずしてかどうか、ほぼ同じタイミングで「原発=核抑止力」を展開した。

小田嶋さんは、
****************以下引用

「君らは色々言うけどさ、原発を持ってるとそれだけで周辺国を黙らせることができるんだぜ」
という、このどうにも中二病なマッチョ志向は、外務官僚や防衛省関係者が、内心で思ってはいても決して口外しない種類の、懐中の剣の如き思想だった。

が、一方において、中二病は、彼らの「切り札」でもあったわけだ。

なんという子供っぽさだろう。」
****************
という。

確かに、

《・・・一九六九年に外務省の外交政策企画委員会が作成した『わが国の外交政策大綱』

「核兵器については、NPT(核不拡散条約)に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する

との考え方を示している・・・》

ということがあったらしい。

さて、大江さんはというと、

まず、抑止力という考え方は

「こちらの攻撃能力で威嚇して、相手の攻撃を思いとどまらせることです。

事の性格上、すぐにも態勢は逆転して、危険きわまりない巨大なイタチごっこが続きます。」

と、抑止力という考え方そのものを否定した上で、

「この致命的な両刃の剣を手にすることについて、いつ国民の合意を見たのでしょうか?」

と「原発=核抑止力」論の民主主義的思想、手続きの欠落を批判している。

*
*

以下に、原文を抜粋して引用する。

******************************
定義集 大江健三郎

(見出し)
【原発が「潜在的核抑止力」とは】  前例なき民主主義無視の論


(記事)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(前略)
 《日本は・・・核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ》読売新聞、社説9・7

《原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという「核の潜在的抑止力」になっている・・・原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる・・・》石破茂・自民党政調会長(当時)、『サピオ』10・5

私は両者ともの「潜在的な核抑止力」「核の潜在的抑止力」という用語法に(それがいかにもフツウの言い方のように使われているのに)ドキリとしたのです。

核抑止という思想は、冷戦時に始まり、その終結の後も、厄介な超大規模の遺産のかたちで残る核兵器を積み上げています。
この十年、欧米で、当の政策推進者だった大物らの転向宣言が続きましたが、実体は変わりません。

抑止、deterrenceは、こちらの攻撃能力で威嚇して、相手の攻撃を思いとどまらせることです。
事の性格上、すぐにも態勢は逆転して、危険きわまりない巨大なイタチごっこが続きます。

「核の潜在的抑止力」というのが、この国の原発でいつでも原爆が作れると誇示することなら、原発への国籍不明のテロリストによる攻撃への防衛が緊急の課題となるなかで、東アジアの緊張はその方向へも高まっているのか。
さきの論客たちが、その効力を信じる「潜在的」な力を、いつ・どのように「顕在化」させる戦略を考えているかは不明ですが。

今度の大事故によって、原発の建設時にさかのぼり、今日の東電・政府の情報開示の仕方にまで、いかに民主主義の精神が欠落しているかを、私らは思い知りました。
しかしこの抑止論ほど徹底した民主主義の無視は、例がなかったのじゃないでしょうか?

あまりにも正直に、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになると、おなじみの伏し目の憂い顔で威嚇する政治家は、この致命的な両刃の剣を手にすることについて、いつ国民の合意を見たのでしょうか?

・・・・ ウェブサイト「核情報」の田窪雅文氏による「原子力発電と兵器転用」から。石橋克彦編『原発を終わらせる』(岩波新書)

《・・・再処理工場の製品プルトニウムはそのまま核兵器に使える。》

・・・・・略

 《・・・。例えば、一九六九年に外務省の外交政策企画委員会が作成した『わが国の外交政策大綱』が「核兵器については、NPT(核不拡散条約)に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」との考え方を示していることなどが注目されてしまう。・・・》
・・・・・・・略
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福島県議会が、福島第1、2の全原子炉の廃炉を求める請願採択


福島県議会が、福島第1、第2の全原子炉の廃炉を求める請願を採択したそうだ。

10月21日付け「朝日新聞」の記事を引用させて戴く。

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■福島県議会 廃炉求める請願採択

福島県議会は20日、定例の本会議で、東京電力福島第一、第二原発の原子炉計10基すべての廃炉を求める請願を採択した。

議会多数派の自民のほか、民主と社民からなる会派は脱原発の立場を打ち出していたが、約1ヶ後に迫った県議選を前に廃炉の立場を明確にすべきだと判断した。
これを受け、佐藤雄平知事は廃炉への判断を迫られる。

請願は、共産党系の団体「新日本婦人の会福島県本部」が6月に提出。
当初は「県内には様々な意見があり、さらに議論を続ける必要がある」などとして、自民などは継続審査とする方針だった。
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色んな事情は河北新報のニュースに詳しい(コチラ)。

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脱原発はポピュリズムと批判する輩(コチラ)がいるが、確かにポピュリズムで脱原発を主張する人たちもいるような気がする

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HOTSPOT in YOKOHAMA (ホットスポット イン ヨコハマ) ストロンチウム検出

10月18日、文部科学省が放射線量分布マップ拡大サイトを開設した。(コチラ
今までぽつりぽつりと順次公開していたものを一括したものと思うが、マクロという点では意味有るのではないか。
また、昨日だったかの報道では、文科省は、全国調査も行うということだ。

しかし、ミクロのレベルでは、いわゆるホットスポットが、マクロのマップでは捕捉できないくらいポコポコと点在しているようだ。
いわばモグラタタキのように。

今日(10月22日)の新聞では、私の自宅から徒歩圏内の小中学校で「目安」を超える放射線量が測定されたという。
以下、10月22日付け「朝日新聞」

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(見出し)
戸塚区の小中学校で目安超える放射線量
屋上側溝・雨どい下など

(記事)
横浜市は21日、いずれも戸塚区の市立舞岡中、市立秋葉中、市立柏尾小の3校で、市の再測定の目安(毎時0.59マイクロシーベルト)を超える0.83~0.75の放射線量を測定したと発表した。
目安を超えたのは屋上の側溝や雨どいの下で、堆積物を撤去した後は数値が下がった。
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一番汚染度の高い(放射性物質の累積度が高い)と思われる屋上側溝・雨どいの下という場所で、除染の対象とすべき1ミリシーベルトに近いとは言え、それ以下ではあるし、「直ちに健康に被害はない」レベルだとは思うが、もし半減期の長いセシウムであったら、除去した堆積物の処理など、どうしたんだろう?と心配する。

同じような記事を見てみると、

同じく
10月22日付け「朝日新聞」では・・・

①「柏の空き地 57.5マイクロシーベルト」

②「乾燥シイタケで基準超セシウム 相模原」


10月20日付け「朝日新聞」では・・・・

①「(横浜市)金沢区の小学校側溝 目安超える放射線量」
(横浜市立能見台小学校で0.69マイクロシーベルト)

②「東京・東村山で2.1マイクロシーベルト 小学校の敷地」

③「狭山茶の銘柄9%が基準超」



10月18日付け「朝日新聞」では・・・

①「足立3.9マイクロシーベルト 小学校の雨どい」



10月15日付け「朝日新聞」では・・・

①「伊東のシイタケ 基準超セシウム」

②「茨城4市でも検出」

③「干し柿加工自粛要請 福島の1市2町」



10月14日付け「朝日新聞」では・・・

①「船橋の「高線量」公園 市測定の最高値 1.55マイクロシーベルト」

②「給食シイタケからセシウム 国基準以下 (横浜)市、使用せず」

③「(横浜市)緑区の小学校で0.92マイクロシーベルト」


しかし、圧巻は横浜市でストロンチウム検出の報道だろう。

10月15日付け「朝日新聞」によると・・・

(見出し)
「側溝にストロンチウム
横浜市発表 129ベクレル 噴水でも検出」
とあり、

記事の概略は、
港北区の道路側溝で1キロあたり129ベクレルのストロンチウム、セシウム3万9,012ベクレルを検出。

新横浜の停止中の噴水の底からストロンチウム59ベクレル、セシウム3万1,570ベクレルを検出。

区内の住民がマンション屋上を自主検査したところストロンチウム195ベクレルが検出されたと通報したことが発端と言う。
「だが、最初に市に報告した住民によると、屋上の物は236ベクレルのストロンチウムが検出された、との説明を市から受けたという。」ともある。

横浜市港北区は福島原発からは250km離れたところにあるが、同新聞の「解説」によると

「20キロ圏内と同程度の汚染

とのこと。


マクロの分布図では安心できないモグラタタキ状況だ。

政府・文部科学省のスタンスは、ホットスポットの通報があればサポートしますよ、というもの。

・・・で良いのか?

*
*

延暦8年(789)8月~12月 延暦8年の征夷戦 征東将軍らの敗戦責任を喚問するが寛大な処分となる

鎌倉・常楽寺境内の柿木(2011-11-15)
*
延暦8年(789)
8月30日
・陸奥国の軍士に対して、今年の田租と2年分の課役を免除すること、黒川以北十郡の軍士については「賊と居を接する」との理由でさらに課役免除の年数を延長することが定められる。  
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9月8日
・持節征東大将軍の紀古佐美が陸奥から帰京、天皇に節刀を返却(『続日本紀』)。
場所は、2月に大極殿院の東方に完成した「東宮」(現在遺跡として知られる長岡宮内裏)。
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9月19日
・桓武天皇は、太政官の筆頭である大納言藤原継縄、中納言藤原小黒麻呂・紀船守(きのふなもり)らに勅して、太政官曹司において、征東将軍らが逗留して敗戦したことについて勘問(取り調べ)を行わせる。
継縄と小黒麻呂は、宝亀11年に征夷大使を経験している。
召喚されたのは、大将軍紀古佐美、副将軍入間広成、鎮守副将軍池田真枚・安倍猿嶋墨縄の4人。
(副使であった多治比浜成・紀真人は、勘問の対象外)
4人はそれぞれ理由を述べて弁明するが、いずれも自らの非を認め、天皇の勅によって処分が下される(『続日本紀』延暦八年九月戊午条)。

処分内容
・陸奥国の蝦夷を征討するために任じた大将軍紀古佐美は、委ねられた本来の計画に従わず、奥地まで攻め入ることをせず、軍を敗走させて軍粮のみを費やして帰ってきた。
これは法に従って厳しく糾問し処罰すべきであるが、以前から朕に仕えていることを思い、罪を問わずに許す。

・鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄らは、頑愚で臆病で拙く、軍の進退に節度がなく、戦いの時期をも怠り失ってしまった。
これを法に照らし合わせると、墨縄は斬刑に当たり、真枚は官職を解いて位階を奪うべきである。
しかし墨縄は長らく辺境守備に奉仕してきた功労があるので、斬刑を許して官職と位階だけを奪うことにする。
真枚は日上の湊(北上川渡河の港か)で溺れていた軍士を助け救った功労により、位階を奪う罪を許し、官職のみを解くこととする。
その他、少しでも功績のある者には、その軽重に随って評価し、小さな罪を犯した者は、その罪を問わずに許すこととする。

処罰されたのは、鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄のみで、しかも刑を軽減される。

征東大将軍紀古佐美は罪を許され副将軍入間広成は勅の中で言及すらされていない
紀古佐美はその後も参議として朝廷内で重きをなし、平安遷都の際には新都予定地の視察に派遣されるなど、桓武天皇の信頼も回復したようであり、延暦15年には大納言にまで昇進し、翌年に没。

寛大な処分が下された背景として、
①当時桓武の生母高野新笠が病気であったこと
②桓武と古佐美は、ともに紀諸人を曾祖父に持つという縁故、などの推測がある。
将官を厳罰に処することは、今後の征夷に官人を協力させるためには得策ではないと判断したのではなかろうか。
そのため、将官を厳しく譴責し、厳罰に当たることを示した上で、彼らの罪をすべて減免するという温情に満ちた君主を演じてみせたのであろう。

この時の征夷に伴う論功行賞は、翌年10月19日に行われる。
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12月28日
桓武天皇の母、高野新笠、没。年齢不明(この年、桓武は53歳)。
天皇の悲しみは大きく、長岡宮内裏正殿を避けて西廟(ひさし)に移り、そこに皇太子安殿親王と群臣を集めて挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す慟哭の儀礼)を行っている〈『続日本紀』延暦八年十二月丙申条)。
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2011年10月20日木曜日

永禄9年(1566)1月1日~3月31日 一乗院覚慶(後の義昭)還俗、信玄・謙信らに御内書を発行 [信長33歳]

京都北白川、曼殊院門前(2011-09)
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永禄9年(1566)
この年
信長33歳、光秀39歳、秀吉31歳、家康25歳
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・若狭国、逸見氏は、前の反乱で砕導山を陥落されたため高浜に水・平山城を築城。
この年、守護武田義統の子元明擁立を旗印に再び、粟屋勝久と連携し高浜と三方の東西で叛乱。
義統は再び朝倉氏に援軍を頼み、粟屋氏居城を包囲させ、自らは全軍事力で逸見氏に立ち向かい、再度これを破る
(逸見氏の水軍に対抗して、自らも水軍を編成、これを破る)。
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・天草に初めてキリスト教が入る。
天草の下島の北~西を押さえる豪族志岐鎮経(しげつね)、有馬口之津に滞在中のイエズス会修道士アルメイダを招く。
このときヴェレイラ神父・トルレス神父・オルガンチノ神父らも来島。
しかし、志岐氏は自らキリシタンになったものの、領内のキリシタン化に対する仏教徒ら反体制派家臣を押さえられず迫害に転じる。
1569年、志岐氏、棄教。
これにより、天草の布教の地は天草尚種領内(下島の東~北)へ移る。
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・明智光秀(39)、美濃安八郡に4500貫の知行を授かる。
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・15世紀後半~16世紀、洛中洛外の酒屋の多面的な活躍
この頃と推定される請酒屋の酒屋役銭の進未進を注する史料
(西京・北山・御室・梅津・嵯峨近辺の請酒屋を列記し、造酒司への請酒屋役銭を納めたかどうかを注記したもの)。  
高利貸を営み帯座座頭職をもつ嵯峨の角倉与次宗忠が営む棚(出店)の請酒屋が、北山鹿苑寺門前に2軒、嵯峨に数軒、西梅津に1軒、仁和寺近くに1軒、妙心寺門前に1軒と、10軒近くある。
洛中全域の実態は不明だが、角倉棚の請酒屋がまだ他に散在している可能性はある。
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・近江の浅井長政の「料足掟条々」(「菅浦文書」)
「自他国当谷居住之仁、其外往還之商人、定置公用之外を、清銭を撰び本国へ遣儀堅令停止畢」とする。大名の精銭確保の欲求を表す。
大内(「大内氏掟書」)、相良(「相良氏法度」5条)、武田(「甲州法度之次第」42条)、結城(「結城氏新法虔度」83条)、北条(永禄2年「代物法度」等)などの諸大名はみな「法度」として精銭確保=撰銭の問題を取り上げる
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・大名領国下の独立市場圏。
遠江引佐郡祝田・都田両郷を含む井伊谷東南辺地域は、浜名湖北岸に位置し、今川勢力下で、国人領主井伊が君臨。
この年、この地域に今川方から徳政令が発布され、「銭主方」は井伊に働きかけ、徳政実施を68年に至っても拒否し続ける。
この「銭主」は、井伊谷地域の多く土地を買得する地主でもある瀬戸方久以下の人々で、これら銭主方と国人井伊とが結託し「私に仕り」、徳政実施を握り潰そうとする。

百姓たちは、今川に訴え集団的な動きをとり始め、今川方は徳政実施の厳命を下す一方、瀬戸方久の買得した「名職」「永地」は徳政から除外として安堵し、さらに新城根小屋における「蔵取立商売」の諸役を免除することでこれと妥協。

曳馬市(浜松)に近く、信州・三河への街道上で、国人の城下でもある経済的中心地域において、多くの農民が窮乏に追い込められている事実と、国人領主・銭主が結託して、大名に抵抗している状況

井伊谷両辺には「五日市場」があり、東南3kmの蜂前神社前にも「いち免」があり、井伊谷とその周辺地域は、独立的な国人領で、同時に一つの市場圏としても一定の纏り持っている見られる。

こうした市場圏の割拠性は大名領国下にひろく存在した一般的傾向で、名の領国経済圏形成のための市場政策や農村統治策としばしば矛盾する性質のもの。
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・イギリス、ハンフリー・ギルバート卿、「北西経由でキャセイア(中国)に至る航路を実証する論文」を提出。
カナダの北をまわって中国に向う北西航路。
300年以上後、19031906年、ノルウェーのローアル・アムンセンにより征服。
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・イギリス、1559年、エリザベス1世、全聖職者に対して英国国教会の定めた制服の着用を義務づけるが、清教徒から「キリストの敵の制服」として反発。
この年、カンタベリー大主教が制服着用の義務を命じてロンドンの聖職者110名を招集、37名が着用拒否し公職追放。
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・1566年のカトリーヌ・ド・メディシスの「国内巡幸」の旅程:
ムーラン→ヴィシー→ル・モン・ドール→クレルモン→フェラン→オセール→サンス→4月21日モンソー・アン・ブリー→4月30日サン・モール
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・フランス、ボルドーとリヨンの公証人、半数以上がユグノーに転向。
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ラス・カサス司教、没。開化派のフランチェスコ会伝道師、原住民の権利を公然と主張。
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1月

・信長、木下藤吉郎に州俣築塁を指示。(信頼できる資料にはない)
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・北畠具教(39)、砦を築き三好康長の侵攻を防ぐ。
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1月1日
・尼子義久、老臣宇山久信父子を富田城中に殺害。尼子軍動揺す。
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1月7日
・教皇ピウス5世、即位(位1566~1572)。
ドミニコ会修道士ミケーレ・ギスリエリ、厳格な禁欲主義者、異端審問所出身、反宗教改革。
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1月9日
・毛利元就、病再発。
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1月15日
・越智伊予守家増、筒井氏から貝吹城を受け取り入城。
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1月29日
・仏、コリニ提督のギーズ公フランソワ殺害事件、無罪判決。
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2月
・信長、尾張国の薬師寺別当蔵南坊へ尾張国海東郡間島村内100貫を寄進(「尾張国寺社領文書」)。
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・上杉謙信、関東の地を席巻。
再び離反した佐野氏の下野唐沢山城を攻め、3月、下総臼井城の正木氏を攻める。
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・本願寺筆頭坊官下間頼総、加賀での劣勢打開のため、この年正月、京都吉田社に依頼して新調した家旗・先惣旗(「兼右卿記」正月7・24日条)を持って金沢へ下り、戦況の立直す。
戦線は加越国境まで戻る。
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フランス、「ムーラン王令(86ヶ条)」
「王権の絶対性」を明確に定義(高等法院は勅令に反対できない)。
市や貴族の司法上の権利を最大限制限、国王司法権を拡張。
地方総督の恩赦実施、税金徴収、司法への圧力を禁止。
大貴族・地方総督を特命行政総監に格下げ。
ほか、町村裁判所管轄権、施療院・商人組合の規則、出版業取り締まり、飲食店価格表示に至るまで広範囲にわたる規則を網羅。
全国巡幸を通じて確認した行政・司法上の広汎な問題に答えようとするもの。
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2月4日
・三好三人衆、多聞山城攻撃。松永久秀の攻撃受け高屋城へ敗走。
11日、久秀、高屋城攻撃出陣。
17日、両軍、上之芝で激突。久秀、畠山1万。
畠山、討死1千・斬首460、で紀州敗走。久秀も大和多聞城へ退却。

**別資料では・・・
(17日、三好三人衆、畠山・遊佐勢と河内に戦い、大勝。
畠山・遊佐方は堺へ逃亡。
討ち取った首は実検分の463を含め、1千程という。)
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2月5日
・宇喜多直家の刺客、備前に侵入して備中・三村家親を狙撃。
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2月16日
・長尾輝虎(37、上杉謙信)、小田氏治の小田城を攻略。小田城陥落。(小田城攻め)
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2月17日
一乗院覚慶(後の足利義昭)、還俗して「義秋」と改名
12日、京都東寺八幡宮へ、「凶徒」「退治」を立願し、「帰洛」実現の際の「一宇」建立を約す(「進士文書」)。  
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2月19日
・多聞院英俊、多聞山城にいる筒井方の人質に連絡を取る。
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2月24日
・松永久通、筒井城へ兵粮を入れる。合戦あり、討死少々・負傷者多し。
29日、久通、筒井城へ出陣、兵を入替える。
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3月
・真田昌幸(20)に嫡男・信幸、誕生。
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・信玄、西上野へ侵攻  
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・上杉謙信、千葉胤富属城臼井城(佐倉市)原胤貞を攻撃。
千葉胤富・北条氏康が後詰めで原胤貞を支援、謙信、大敗北し、5月9日、関東より帰国。
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3月8日
・武田信玄、足利義秋(後の義昭)へ遠国のため援軍は派遣出来ない旨を通知(「前田家所蔵文書」)。
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3月9日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワートの愛人ダヴィッド・リッチオ(イタリア人音楽家)、メアリー夫ダーンリー卿ヘンリー・スチュワートによりホリルード宮殿にてメアリー(妊娠6ヶ月)の目の前で残酷な方法で殺害。
メアリーは軟禁されるが、後、脱出。
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3月10日
・足利義秋、上杉景虎の養子景勝に御内書。北条と和睦し上洛要請。
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3月15日
・松永久通、今市城破却に出陣。
17日、久秀、筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣。
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3月17日
・三好政権の細川昭元(摂津芥川城主)、上京し洛中洛外に撰銭令を発す(「兼右卿記」)。
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延暦8年(789)6月~7月 延暦8年の征夷戦 桓武天皇に事後報告となった征夷軍解散

江戸城東御苑(2011-10-18)
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延暦8年(789)
6月2日
征東将軍紀古佐美、征夷軍解散を決定し全軍に通知
桓武の6月3日付け勅は10日頃に古佐美の許に届く筈であるが、それを受け取る前に、彼はすでに軍解散を決定し、全軍に通知。
理由は軍粮の補給困難。

それに対する桓武の勅が6月9日付けで出ているので、古佐美の軍の解散を申し出る奏状は、6月2日頃に出されたと推定される(『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条)。

紀古佐美が奏状で述べる軍を解散する正当性。
①次に攻撃すべき子波(しわ、志波、盛岡市周辺)と和我(わが、和賀、北上市周辺)の地は遠く、軍粮運搬に日数を要する。
玉造塞~衣川宮の運搬に4日、輜重が運ぶ軍粮・軍事物資の受け渡しに2日かかるので、玉造塞~衣川営の往還に10日を要す。
衣川営~子波を6日の行程とすれば、輜重兵の往還に14日(6日+2日+6日)を要する。
合計すれば、玉造塞~子波の往還に24日を要する。
その中には、途中で敵軍と戦闘する日数や、雨に妨げられ進軍できない日数は含まれていない。

②軍粮の消費量が多く、補給が追いつかない。
河陸両道(舟運と陸路)の輜重兵は1万2,440人で、それらが1回に運ぶ糒は6,215斛である。征討軍には2万7,470人がおり、彼らが1日に食する糒は549斛である(1人あたり1日2升)。このことから計算すると、輜重兵が一度に運ぶ軍粮は、僅か11日分にすぎない(6215斛/549斛=11.32日)。
子波の地を目指すには軍粮の補給が追い付かず、実戦部隊を割いて輜重兵に回せば、征討軍の兵力が減って征討ができなくなる。
更に、春夏を経て征軍・輜重兵ともに疲弊しており、無理な進軍は危険である。

③蝦夷軍の残党は潜伏しているが、既に春夏の農時を失し、水田・陸田を耕作できなかったので、彼らの戦闘能力も尽きようとしている。

以上のことから、紀古佐美は軍を解散し、軍粮を遺して非常時のために備えた方がよいと判断する。
そして、軍士は1日に2千斛を食し、奏上して勅裁を待っていてはさらに軍粮を消費するので、「今月十日までに軍を解散して戦地を離れるよう、全軍に文書で通達します」と桓武天皇に報告

奏状末尾の「軍士の食する所、日に二千斛なり」とすれば、この時軍士が10万人いたことになる。
多少の誇張はあるが、軍士5万2,800余人は、坂東諸国に割り当てられた人数なので、陸奥・出羽の軍士数を合わせれば、総数はこれを上回る。
胆沢の征夷に参加していた軍士は、征軍2万7,470人と輜重1万2,440人の計3万9,910人であるが、他に多治比浜成が率いる軍が別の方面で活動しており、それを含めれば5万2,800人をかなり上回る軍士がいたと想定できる。  
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6月3日
・桓武天皇が現地軍の失策を責める勅を発する。(『続日本紀』延暦八年六月甲戌(三日)条)

古佐美の奏状はおそらく6月3日に朝廷に到着し、桓武天皇は即日、屈辱的敗戦を喫した現地軍の失策を責める勅を下したと見られる。
その中で天皇は、本来ならば征討軍指揮の中枢を担う軍監以上の指揮官が揃って兵を率い、威容を厳かにしながら攻め討つべきであるのに、わずかな軍勢しか動員せず、しかも身分の低い前線指揮官たちに指揮を執らせたために敗戦という結果を招いたとしてこれを責めている。

作戦を立案した副将(入間広成・池田真枚・安倍猿嶋墨縄の3人)は、衣川の軍営に留まり、征東軍監・軍曹さえも実戦に参加していない。それより下位の別将たちがそれぞれの小部隊を率いて戦場に向かった。
これでは全くの寄せ集め軍隊であり、奇襲攻撃に遭って総崩れになるのもやむを得ない。
軍監以上の高級指揮官が実戦部隊を統括して、威厳のある軍隊とすべきであったと指摘し、それを怠った副将らを厳しく非難。

実際に戦場に向かったのは中軍・後軍から選ばれた4千人で、これに川を渡れなかった前軍の実戦部隊を加えても推定6人である。桓武天皇が長期間をかけて準備させた5万2,800人以上という軍士総数と比べれば、その1割以下にすぎない。
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6月9日
・軍の解散を全軍に通知するとの紀古佐美の奏状が桓武に届く。
奏状を読んだ桓武は激怒し、勅を下して征夷軍指揮官たちの無能をさらに厳しく叱責。(『続日本紀』延暦八年六月庚辰(九日)条)    

古佐美が6月10日までの解散を全軍に通知することを、6月9日着で天皇に予告したことは、その事後承諾を求めたに等しい。
桓武は激怒し、直ちに「軍を解くならば、まず事情を詳しく記して奏上し、許可を得てから解散しても遅くはない。それなのに一向に進軍せず、にわかに征討を止めるという。将軍たちの策のどこに道理があるというのか」と非難する勅を発したが、これが古佐美の許に届いたのは、6月16日頃のことで、全軍に解散を指示した後。今回の征夷は、この時点で事実上終了した。

桓武は、この決定を下した紀古佐美と、衣川にいながら実戦に参加しなかった入間広成・安倍猿嶋墨縄らを、同日の勅で激しく非難。
「将軍たちは凶悪な賊を恐れて避け、逗留していたことが、これではっきりとわかった。
それなのに、巧みに体裁のよい言葉を連ね、罪過を回避しようとしている。
不忠の甚だしいことこの上ない。
また広成・墨縄は、久しく賊地にあって戦場を経験しているので、副将の任を与え、奮戦して功績を挙げるのを待っていた。
しかし軍営の中にいて勝敗を静観し、地位の低い指揮官を派遣して、かえって大敗を喫した。
君主に仕える道が、どうしてそのようであってよいものか」。
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6月10日
・10日頃、桓武の3日付け勅が古佐美の許に届く。
古佐美は既に2日頃、征夷中止を決意し、軍を解き都へ帰還したい旨の奏状を朝廷に送っている。
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6月16日
・16日頃、9日付けの桓武の激怒した勅が古佐美の許く。
その後20日間以上、現地軍と中央との間の交信記録は全く見えない。

7月10日の古佐美の奏状を受けて、7月17日、桓武は再度激怒・叱責の勅を送るが、17日付け勅を見ると、6月9日付け桓武天皇の叱責の勅を受けて、巣伏の戦いに続き、船団による戦闘が行われていたことがわかる。

また、戦闘を指揮したのは征夷副使の中で唯一喚問も受けず、翌年には陸奥按察使兼陸奥守に進んだ多治比浜成であろうと推測できる。

巣伏では敗戦を喫したとはいえ、征東軍にはまだ巨大な兵力が温存されている。
天皇の厳しい譴責を受けた古佐美は、当初予定の子波・和我方面への遠征は中止せざるを得なかったものの、多大な期待をかけている天皇に対してせめてもの面目を示すため、衣川営に滞在する前線指揮官たちに再度進軍を命じたのであろう。

浜成による軍事行動が仮に北上川を遡上しての水軍戦であれば、主戦場は主力軍と同様に胆沢となり、交戦区域は区別しがたく一体化してしまい、戦後、彼だけが栄進するほどの特別な戦功を挙げ得たというのは不自然になる。
浜成が船団を率いて進軍したのは、『続日本紀』にもある通り海辺の地域であっただろう。

13年前の宝亀7年(776)、安房・上総・下総・常陸4ヶ国に命じられて船50隻が購入され、陸奥国に配備されている。
おそらく副使多治比浜成率いる海道方面の軍勢は3月に多賀城を発ち、国府の外港である塩釜湾の港津から多数の軍船に乗り込み出帆したのであろう。
船団は牡鹿・桃生郡の沿岸部を北上、各地で武威を示しつつ、実戦よりは示威と懐柔の方法で征夷を行ったのであろう。
征夷は、気仙沼湾や広田湾など後の気仙郡の辺りにまで及んでいた可能性がある。  
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7月17日
・この日、さらに桓武を怒らせる10日付発信の奏状が持節征東大将軍紀古佐美から届く。
胆沢を討ち荒墟となしたこと軍船による征夷が成功したことを報告

「いわゆる胆沢は、水田と陸田が広大で、蝦夷はそれによって生活しています。
大規模な兵が一挙に攻撃し、たちまち荒れ果てた廃墟となりました。
たとえ残党がいたとしても、はかないことは朝露のようなものです。
それだけではなく、軍船が纜(ともづな)を解き、多くの船が前後に連なって進み、天子の兵が戦いを加える所は前に強敵なく、海辺の浦にある洞窟の住居には二度と人家の煙が立つこともなく、山谷の巣穴にもただ鬼火を見るばかりです。
慶快にたえません。緊急の駅使を派遣して上奏いたします。」(『続日本紀』延暦八年七月丁巳(十七日)条)。

原文は「所謂胆沢は、水陸万頃にして、蝦虜生を存す」。
「水陸万頃」は、6月9日勅が引用する征東将軍奏状の「水陸の田」(水田と陸田)が広大に広がっていること。
胆沢の蝦夷は、多くが農耕を営んでいる。6月10日、征東将軍が軍を解散したのも、彼らが農繁期に耕作ができなかったので、放置しても餓死するであろうという希望的観測があったからである。

原文は「至如(しかのみならず)、軍船纜を解きて舳艫(じくろ)百里、天兵の加ふる所、前に強敵無く、海浦の窟宅、復人烟に非ず、山谷の巣穴、ただ鬼火のみを見る」。
「水陸万頃」と言われる胆沢での戦いではなく、胆沢の戦いに登場しない征東副将軍多治比浜成の三陸海岸沿いの軍事行動に関する文であることが、桓武天皇の勅の後半部分によって判明する。

・桓武は、17日付けで勅を発し、この奏状を逐一引用して厳しく非難。
(桓武は官軍側の莫大な被害を指摘、古佐美が多勢の戦死者を出したことを棚に上げ、虚飾の疑いのつよい戦果報告をしていると、これを厳しく非難)

「今、先後の奏状を見ると、斬獲した賊の首は八九級で、官軍の死亡は一〇〇〇人余りである。負傷者はほとんど二〇〇〇人である。
賊の首を斬ることは一〇〇に満たず、官軍の被害者は三〇〇〇人に及んでいる。このことから言えば、どうして慶快するに足りるであろうか。
また官軍が退却する時に、賊軍に追撃されたことが一度ならずあった。それなのに、「大規模な兵が一挙に攻撃し、たちまち荒れ果てた廃墟となりました」と述べている。事情を勘案すれば、これは虚飾と言ってよい。
また、池田真枚・安倍猿嶋墨縄らは、地位の低い指揮官を河(北上川)の東に遣わし、軍が敗れて逃げ帰る時に、溶死した軍士は一〇〇〇人余りであった。
ところが「一度に越え渡り、戦いながら村々を焼き払い、賊の巣穴を奪い取り、帰って本営を守りました」という。これでは溺死した軍士のことは切り捨てて言及していないではないか。」

「また、多治比浜成らが賊を討ち払い、その地を奪い取ったことは、いくらか他方面よりは勝っている。
しかし「天子の兵が戦いを加える所は前に強敵なく、海辺の浦にある洞窟の住居には二度と人家の煙が立つこともなく、山谷の巣穴にもただ鬼火を見るばかりです」と述べるに至っては、事実とかけ離れた浮わついた言葉である。」


征夷軍が89級の蝦夷の首を斬ったことは、6月3日付け勅に引用されている征東将軍奏状にはなかった。
また、征夷軍の負傷者が2千人に近いとされているが、これも6月3日の勅が引用する征東将軍奏状では245人で、大幅に増えている。

6月10日に軍を解散しているので、再度胆沢で征討が行われたとは考えられないが、どこかで戦闘があった可能性がある。
入間広成・池田真枚・安倍猿嶋墨縄らによる胆沢の征討とは別に、征東副将軍多治比浜成が船団を率いて三陸海岸沿いを征討したと想定し、それが気仙郡の成立に繋がるという推測が成り立つ。

蝦夷の斬首、征夷軍の負傷者の多くは、多治比浜成による征討で発生したのであろう。
浜成には、宝亀9年(778)に送唐客使判官として唐に渡った経験があるので、海路を行く征討には適任であった。

9月19日の征東将軍らの敗戦に関する勘問には、浜成は召喚されていない
また、翌年3月には陸奥按察使兼陸奥守の要職に就き、翌々年には征東副使となっている
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