2013年12月24日火曜日

永承8年/天喜元年(1053) 関白藤原頼通、平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)の落慶供養をする。 本尊は定朝の代表作、丈六阿弥陀如来。

北の丸公園 2013-12-24
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永承8年/天喜元年(1053)
この年
・源頼義、鎮守府将軍に任命。
安倍頼良、この前後に投降、大赦の礼で赦免、頼時と名を改める。
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・7代ノルマンディ公爵ウィリアム(仏名ギヨーム)、叔父のギヨーム・アルク伯を破る
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・メールゼブルクの宮廷会議。
皇帝ハインリヒ3世、強引にバイエルン大公コンラート(任1049~1053)罷免。
バイエルン大公コンラート、ハンガリに退き、バイエルン貴族の支持とケルンテン大公ヴェルフ3世らとの同盟を頼んでハインリヒ3世に抵抗。
ハインリヒ3世、バイエルン大公に、最初ハインリヒ4世(3) を、次に1054年ハインリヒ4世が共同国王即位の際に次男コンラートを、コンラート没後に妻アグネスを任命。
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1月11日
・「天喜」に改元。
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 3月
・教皇レオ9世、ドイツ騎士達を伴いドイツよりローマに帰国。
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3月4日
・関白藤原頼通、平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)の落慶供養をする。
本尊は定朝の代表作、丈六阿弥陀如来。

この年2月19日付け、関白藤原頼通の家司平定家の日記。
「宇治殿に参り、申刻帰洛す。御仏を渡し奉る 丈六阿弥陀仏一体。丑刻に京を出で、午刻に仏壇にに坐し奉る。預(あらかじ)め此暁寅刻仏壇の結界(けつかい)有りと云々。大僧正奉仕せらる。次で行道習礼有り。楽人等参入し、聊か歌笛を発す。法眼定奝に禄を給ふ。明日著御せしめ給ふ柳色の直垂一領と云々。」
宇治に京の定朝(奝)の工房から丈六阿弥陀仏が10時間かけて運ばれた。
阿弥陀如来は、像高278.8cm。丈六とは1丈6尺(約5m)であるが、これは立った時の背であり、坐像はその半分の8尺である。

寄木造の完成
阿弥陀如来は丈六の巨像である。
一木造では造れず、寄木造によっているが、この寄木造は、藤原彫刻において日本独自に発達した技法であり、それを完成したのが定朝であった。
寄木造の完成により、巨材を求めることなく、容易に大像を造ることが可能になった。
威子御産の造仏の時の材木の注文にみたように、造仏が合理的に計算可能になった。
そしていくつもの部材を綿密な計算のうえに分担して彫刻することができ、定朝の百人をこす大工房が機能することになった。
また内割りの発達により、像の重量は軽くなり移動しやすく、また各部位ごとに造ったあと、仏所からはばらばらに運び、須弥壇(しゆみだん)の上で組み上げて完成させることもできた。

「定朝以後、近代の吉仏は皆飛天光に作る。」
長承3年(1134)、鳥羽院御願の鳥羽勝光明院(しようこうみよういん)を造営するにあたり、行事となった源師時が、「御仏光の化仏(けぶつ)は何を用ゐらるべきか。飛天か、また唐草か」と尋ねたのに対し、鳥羽院は、「定朝以後、近代の吉仏は皆飛天光に作る。今度も然るごときか」と言い、また長押(なげし)の上の供養菩薩は平等院を模すように言う(『長秋記』4月10日)。
翌月、仏師・絵仏師を宇治に派遣し、「仏座光の体、柱絵」、「供養飛天の体」などを詳しく調べ、平等院の定朝仏を徹頭徹尾模した。
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4月
・ウェセックス伯ゴドウィン、ウィンチェスターでエドワード懺悔王と食事中に心臓発作で没。
エドワード王、トスティ伯をノーザンブリアの領主に任命。
ゴッドウィン家は兄弟分裂。
ゴドウィン長男スヴェンは既に死亡のため、次男ハロルド、ウェセックス伯後継(33才?、1020頃~1066、国王在位1066)。
ハロルドは、重要な伯と義兄弟になり全イングランドの3/4の土地を入手、エドワード王を上回る権力、事実上の「国王」。
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5月
・教皇レオ9世、南イタリア遠征開始。
レオ9世の味方(ガエータ公アデヌルフス1世、アクイーノ伯ランド、テアーノ伯ランドゥルフス、モレルス息子オデリシウス、グアルディアのロフレドゥス、ルセンツァのロフレドゥス)。
反教皇派(ノルマンディ人有力伯は全て反教皇派。アプーリア公フンフレドゥス(オンフロワ)、伯ロベルドゥス・グイスカルドゥス(ロベール・ギスカール、38、15~1085)、アヴェルサ伯リカルドゥス1世(リシャール1世)、トラーニ伯ペトルス、伯グアルテリウス、ブオナルベルゴ伯ギラルドゥス、ボヴィーノ伯ラドゥルフス)。
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6月17日
・チヴァテッラ(キビタテ、チヴィターテ)の戦い。ノルマン人、教皇レオ9世に勝利。
レオ9世、捕らえられベネヴェントに連行、ノルマンディ人達の征服地を全て承認(1054年3月迄ベネヴェントに滞在、カープア経由ローマ帰還)。
レオ9世、ノルマン人との同盟を組む。

ノルマン軍左翼ロベール・ギスカール、右翼リシャール、中央オンフロワという布陣。
まず先陣リシャールが、教皇側在地領主軍を蹴散らす。
中核ドイツ軍に対しては中央オンフロワは苦戦。それを見て取ったロベール=ギスカールはドイツ軍に突撃。
更に、領主軍を破ったリシャール軍が加わり、戦況は大きくノルマン軍に傾く。
結局、教皇軍・ビザンツ帝国軍合流前に勝敗は決し、レオ9世はノルマン人に捕われる。
南イタリアにおけるノルマン人の覇権は確実なものとなり、教皇・ビザンツ帝国間に亀裂が生じ「東西教会の分裂」の加速を招く。
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6月20日
・白河法皇、誕生。乳母は藤原親子、藤三位。乳母子は藤原顕季・藤原国明。
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11月
・トリブールの帝国集会。
ハインリヒ3世、息子ハインリヒ4世(3)を次期国王に指名(1050~1106、位1056~1105)。
諸侯、「ハインリヒ4世が、立派な君主であることを証すならば、将来の王として服従する」との条件を付ける。
ハインリヒ4世が君主の道徳的要請を満たさない場合の抵抗権を明示的に留保。国王選挙史上初めての出来事。
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