2014年6月21日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(72) 「三十七 「家も蔵書もなき身」 - 偏奇館焼亡以後」 (その2) 「西林寺は海岸に櫛比する漁家の間に在り、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する處に背かず」 

江戸城(皇居)東御苑 2014-06-19
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明石に移ってからも、荷風の目はしばしば周囲の花に向かう。殺伐とする心が花によって慰められている。

6月3日、西林寺を散策。
「殊に余の目をよろこばすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり、墓地につゞき数頃の菜園崩れたる土壌をめぐらしたるあり、蔬菜の青々と茂りたる間に夏菊芥子の花の咲けるを見る、これ亦海を背景となしたる好個の静物画ならずや」。
家を失ない流転の身となった老人の日記とは思えないほど平穏で明るい。

さらに岡山に移っての6月27日
「朝微雨須叟にして歇む、人家の崩れたる土塀に凌霄花の咲けるを見る、此花も東京にては梅雨過ぎて後七月半過に至りて見るものなり」。
東京では7月なかば過ぎに咲く凌霄花(ノウセンカズラ)が岡山では6月末に咲き始めている。

凌霄花といえば、佐藤春夫の詩に「●(ヰに濁点)ツカス・ホールの玄関に 咲きまつはつた凌霄花 感傷的でよかつたが 今も枯れずに残れりや」とあるように三田の慶應のヴィツカス・ホールにつたのようにからみついて咲いていた花である。
はじめての土地、岡山で凌霄花が咲くのを見て、荷風は三田時代のことを思い出したのかもしれない。

偏奇館焼亡で本を失なってからも折りを見ては本を求め、読書の時間を作っている。
東中野駅近くの国際文化アパート(ここはオペラ「葛飾情話」の作曲者菅原明朗が妻の歌手永井智子と共に住んでいたアパートで、荷風は二人を頼った)に仮寓していたときは、東中野駅近くの白紙堂という古本屋を訪ねている。

4月26日
「東中野驛附近の古書肆白紙堂の主人余が菅原君をたよりて住吉町のアパートに移居せしを知り人を介してポールモランの著書其他二三冊を贈り色紙三葉に余の筆蹟を請ふ」

4月29日
「夕餉の後菅原君と共に東中野氷川町古本屋白紙堂に至り賣残りの洋書を見その中の二三筋を買ふ」

5月8日
モーリヤックの短篇を読む。

5月22日
戸塚の古本屋で明治三十一年創刊の「世事画報」の綴込一冊を買い求め、夕食のあとこれを読んでいる。

空襲の続く日々、古本屋で求めた明治の雑誌を読む。
「濹東綺譚」の「わたくし」の言葉を借りれば、「この時分の雑誌をよむと、生命が延るやうな気がするね」という気持だろう。

岡山に着いてからの6月16日
「古本屋にて菊池三渓の虞初新誌を買ふ、行李の中に漢文の書一冊もなければなり」。
菊池三渓は幕末の漢学者で、成島柳北と親しく、明治10年に柳北が創刊した雑誌「花月新誌」によく寄稿した。「本朝虞初新誌」(明治16年)は若き日の鴎外が愛読した書。荷風は、はじめての土地の古本屋で偶然、この本を見つけ、敬愛する柳北、鴎外のことを思ったのだろう。

さらに読書は続く。

6月21日
「午後東京より携来りし仏蘭西譯トルストイのアンナカレニンを續讀す」。

8月6日
「S氏廣嶋より帰り其地の古本屋にて購ひたる仏蘭西本を示す、その中にゾラのベートイユメーン、ユイスマンの著寺院などあり、借りて讀む」。
流寓の身の荷風が漢文の本やフランス語の本を読んでいる。

偏奇館の最後の日々でも、実によく読書し、「今年の冬ほど讀書に興を得たること未だ曾て無し」(1月14日)と書いた。
古い本、遠いフランスの本を読むことで精神の均衡を保っている。

6月10日
「夕陽の縁先に坐して過日菅原氏が大坂の友より借来りしウヱルレーヌの選集を讀む」

この時期、好きな散歩も続けている。
東中野にいたときは、早稲田の方に散歩に出かけている。

5月10日
「晴、晡下散歩、小瀧橋よりバスに乗り早相田に至る、高田の驛を過るに見渡すかぎり焼原なり、線路土手の草のみ青きこと染むるが如し、バス終點より歩みて駒塚橋を渡る、目白台の新樹欝然、芭蕉庵門内の老松また恙なく緑の芽の長く舒びたるを見る、門の桂に小石川區關口室町廿九番地、史蹟芭蕉庵、また服部富服部敏幸とかきし小札を出したり、門外の急坂を上り路傍の小祠に賽し銀杏の樹下に少憩して後再び乗路をバスに乗りてかへる」

この文章には、芭蕉庵横の「小祠」(水神社のことだろう)から見た風景のスケッチが添えられている。
昭和7年頃、荒川放水路を歩きスケッチしたころと気持は変っていない。
とても家を焼かれた人間とは思えぬ落着いた散策ぶりにまたしても驚かざるを得ない。

5月22日
「風、雨気を含みて冷なり、晴れたる日よりも町を歩むによし、近巷到る處樹木猶多く生垣つゞきの小径静にして小鳥の聲賑かに戦乱の世を忘れしむる處あり、柿の花卯ッ木の花まさに盛なり。戸塚町のとある古本屋にて世事画報の綴込一冊を買ふ、知十残花小波の如き先輩の文多きを見たればなり、晩食の後燈下に繙讀す」
東中野から戸塚方面に足を延ばし、緑の多い風景にいっとき戦争の世を忘れている。帰りに前述したように古本屋で岡野知十、戸川残花、巌谷小彼らの文の載った明治の雑誌を買い、夜、アパートの一室でそれを読む。散歩と読書の一日は、流浪の荷風にとってかろうじて幸福な日だったに違いない。

6月3日
菅原明朗の実家を頼って明石に着くが、着いた当日に、宿泊することになった西林寺の境内を歩いている。
「西林寺は海岸に櫛比する漁家の間に在り、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する處に背かず」。
瀬戸内の海を見てマラルメを思い出すところはフランスを愛し続けている荷風ならでは。

6月6日
墓地を逍遥。

6月7日
菅原明朗と海岸を歩き、掘割に沿って娼家が十余軒あるのを目にする。

6月9日
また菅原とともに明石の町を歩き、船着場を散歩する。
「岸には荷物持ちたる人多く蹲踞し弁當の飯くらひつゝ淡路通ひの小汽船の解纜するを待てり、水を隔る娼家の裏窓より娼女等の船の出るを見る、あたりの風景頗情趣に富む、故もなく竹久夢二の素描画を想起せしむ、是亦旅中の慰籍なり」。
淡路通いの船が船着場から出て行くのを娼婦たちが娼家の裏窓から眺めている。その姿に竹久夢二の画を重ね合わせている。西林寺から海を見てマラルメの詩を思い浮かべると同じ文人趣味である。風景を風景のままでは見ない。いつも詩や絵画と重ね合わせる。過去の文人の筆を通して風景を見る。荷風の風景の見方はその点で一貫している。

明石から岡山に移ったあとも荷風はよく町を歩く。

6月21日
菅原明朗と夕方、船着場を歩くが、このときは広重の風景画を眼前の風景に重ね合わせる。
「晩飯を喫して後月よければ菅原氏と共に電車にて京橋に至り、船着場黄昏の風景を賞す、暮靄蒼然、廣重の風景版画に似たり」。
夢二や広重の絵と重ね合わせることで未知の風景が懐しい風景に変る。
現在が過去につながる。

昭和6年~7年、砂町をよく歩いたとき、新開地と思われた町が実は、広重の「名所江戸百景」や三島政行の地誌「葛西志」で描かれた土地だと知って急に親しみを覚えたのと同じ風景の見方である。

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