2015年11月25日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(80)「チンチョン伯爵夫人像」(1終) : 『チンチョン伯爵夫人像』1800 : 「ゴヤが描いた三百数十枚の肖像画中の最高傑作・・・。 ゴヤの憐れみと同情は大画面に満ちて画外へ盗れて出て来る。額縁などもいらぬくらいのものである。」

チンチョン伯爵夫人像
 ・・・彼(=ゴヤ)がフロリダプランカ伯爵、あるいは建築家のベントゥーラ・ロドリゲスの紹介で、アレーナス・デ・サン・ペドロ離宮に隠棲をしていたドン・ルイース親王一家を描いた・・・。一七八三年夏のことであった。

 ・・・あれから一五年後・・・。
マリア・テレーサ・デ・ブルボン・イ・バリァプリーガ内親王は、一七九八年、一八歳になっていた。すでに父のドン・ルイース殿下も母のマリア・テレーサ・デ・バリァブリーガも死んでいた。彼女が頼りにすることが出来た人は、四歳上の兄、枢機卿兼トレドの大司教、すなわちスペインの首席司教であるルイース・マリアだけである。
 一七九七年、王と王妃から、ということは王妃マリア・ルイーサの考えで、彼女はマヌエル・ゴドイと結婚せよ、という王命をうけた。うけざるをえない。……
九月に結婚式がとり行われ、彼女はブルボン家の名前と家紋とを保持し、同時に彼女の兄弟たちも殿下の称号を名乗ること差された。そこに一つの企みがあったのであることを、言うまでもなく彼女は気がついていなかったであろう。

 ・・・彼女の父は枢機卿であったのを聖職を捨てて還俗してしまい、したい放題のことをしたあげく、四九歳になってから身分違いの彼女の母と自由恋愛の末結婚し、家族連れでマドリードに入ってはならぬという条件つきで、いわば勘当処分にあっていた。・・・
・・・彼女は王にとっての従妹にあたり、何よりもブルボン家の一員である。その家名が欲しかった・・・。
 この娘とゴドイを結婚させれば、ゴドイもまたブルボン家の一人ということになり、王族の一人ということになる。彼は王にとっての義理の従弟ということになる。
 そもそも、しかしいったい王妃はなぜ彼に結婚をさせようと考えたものであったろうか。ゴドイは先にも何度か書いたように、王妃を情婦として持ちながら毎日のように女出入りが絶えたことがなく、しかもなおペビータ・ツドオという正式の妾をもっていた。この女に大きな館を建ててやり、ゴドイは自邸に、ではなくて、この女の館から宮廷へ通っていた。しかもこのペビータはゴドイに伴われて傍若無人に堂々と宮廷に出入りし、王妃とも対等に近いロを利いていたのである。ペビータとゴドイがひそかに、正式に結婚していたという説もあり、異端審問所は内偵をつづけていた。
 この当時の宮廷というものの乱脈放縦ぶりは、まことにわれわれの想像を絶する。

 王妃がペビータをどう処分しようと考えていたかは別として、ゴドイの方に彼女を捨てようなどという気符はまったくなかった。
プロシャの大使が故国に次のように通報している。

五〇〇万レアール(約三五万ドル)の持参金を手に入れると、たちまちゴドイはベビータのところへ戻って行ってしまった。そして今度は前よりも余程ベビータと親密に暮しはじめ、おまけに大邸宅までを彼女のために手に入れた。

・・・
ロシア大使がペテルスプルグへ通報する。

結婚式の後、大公は王妃と新婚の妻とだけで満足しているかに見えたが、数過後に、また妾と事をおっぽじめた。この女の家でほとんどの時をすごしはじめた。女は晩餐会や夜会では、大公夫人につぐ位置を占めている。多くの最上流階級の人々は、彼女(ベビータ)を最上級の敬意を払って扱っている。

 かくて、いかになんでもという次第で王妃が怒り、ゴドイは寵を失うのである。妻のマリア・テレーサまでがその傍杖を食わされることになる。

 ・・・
 王妃は王妃で近衛騎兵隊から若いツバメを拾って来、政治的にはゴドイの敵、すなわち開明派のウルキーホ、サーベドラ、ホベリァーノス、メレンデス・パルデースなどを登用するという順番になるのである。
 しかしそれぞれが代表的な大知識人であるにしても政治的には彼らはやはり素人の域を悲しいことに出ることが出来ず、そのうちに彼らにとって扱いかねるような大事件が続発した。一七九八年にはアブキール海戦が起り、ネルソン提督のひきいるイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊に大打撃を与えてしまった。そうしてその翌年、パリではプリュメール一八日のクーデター、すなわちナポレオンの出現である。

 ナポレオンは、少くともゴドイの政治的能力だけは、ある程度認めていた。しかも彼はイタリア遠征中に、王妃が異端審聞所をそそのかしてローマの教皇庁にゴドイを告発させようとしたとき、教皇庁の告発状をもった密使を捕え、その告発状をとりあげてひそかにこれをゴドイその人に与えたりもしていた。恩を売っていたわけである。

 ・・・
 そうして一九世紀に入ってナポレオンは、弟のリュシアン・ボナパルトを全権大便として派遣し、対英戦争により緊密に協力せよ、と強硬に要求してきた。スペインとしては、ポルトガルの対英協力をやめさせ、もしやめないならばスペイン軍をさしむけるだけではなく、一万五〇〇〇のフランス軍が支援に立つ、という最後通牒を出させられた。

 これらの対仏交渉は、表向きは時の総理大臣によって行われていたが、実際にはナポレオンの知遇をえていたゴドイが行っていたものである。

 ポルトガルは、女王マリア一世が支配をしていることになっていたが、この女王は精神錯乱で、皇太子でボルトガルの摂政、ブラジル大公ということになっていた人が政治をあずかっていた。この皇太子の嫁がカルロス四世の長女であった。・・・

 皇太子はスペインとフランスに頭を下げること嫌い、ロンドンのウィリアム・ピットに救いを依頼した。ここでゴドイの出番が来る。
 ・・・ポルトガル軍は数も少く、訓練もされていない。一押しすればひとたまりもないであろう。それにイベリア半島の統一は、歴代のスペイン王の長い夢でもあった。それをゴドイが実現する。
ウィリアム・ピットの英国は、しかし、もつれにもつれた対仏戦争に飽きていた。ポルトガルへ兵を送ることはしない、と決定した。

 ・・・
 一八〇一年三月二七日、スペインはポルトガルに宣戦布告をし、ゴドイが総司令官となる。ナポレオンは、参謀としてサン・シール将軍と少数のフランス兵を派遣した。
この戦争は、いくさにはならなかった。会戦というほどのものもなくて、ポルトガル軍は総崩れになって逃げ出してしまう。
 ゴドイの生地であるスペイン領のバダホス市から程遠くないポルトガルの要塞都市エルドスを包囲したとき、一兵士がこの付近の名産であるオレンジの枝を切って来て大仰な身振りでこれをゴドイに献じた。ゴドイはこの枝を急使に托して王妃に献じた。それでこの戦争は〝オレンジ戦争〞と呼ばれることになる。

 ゴドイ元帥は大得意である。彼は自分が、ナポレオンとも肩を並べる大戦略家であると自任する。
 かくて歴史はナポレオンを中心として、ウィリアム・ピット、ゴドイ、タレイラン、メッテルニッヒ、やがてはウェリントン公までが登場しての、近代ヨーロッパ形成へともつれ込んで行き、モスクワ灰燼などをも含めて、歴史にかつてなかった大量の人間の流血が要求されるのである。

 ゴヤの描いた戦場におけるマヌエル・ゴドイ像は、下ぶくれの、赤っ面をした大兵肥満の、しまりのない青年将校である。ポルトガルの軍旗が左端を飾り、ゴドイは・おそらくは王妃からのラブ・レターを読んでいる。背後には副官のテバ伯爵が控えている。このテバ伯爵もまた、ある時に王妃のお相手であったり、アルバ公爵夫人に寝取られたりもしていたものであった。

ゴヤ『チンチョン伯爵夫人像』1800

 この戦争の前年、王はマリア・テレーサに、チンチョン伯爵夫人という爵位を与えた。ゴヤが描いた三百数十枚の肖像画中の最高傑作であるこのチンチョン伯爵夫人像は、爵位の授与を祝ってのものである。これ以後は、誰もゴドイ夫人とも、大公妃殿下とも呼ばない、ただチンチョン伯爵夫人とのみ……。この爵位は、彼女一代限りのもので、別にスエーカ公爵夫人という爵位をも彼女はもっていたので、彼女の御裔はスエーカ公爵夫人の爵位を継いで行くことになる。

 私はマドリードの現スエーカ公爵夫人の好意で二度この薄幸な夫人の像の前に立つことが出来た。この最高傑作は、いままでの如何なる規模のゴヤ展覧会にも出品されたことがない。一九六一年から六二年へかけてのパリでの大展観にも、また七一年の東京展にも出ていない。

 ゴヤは、ここでこの夫人だけを描こうとした。・・・余計なものは一切取り除き、夫人が着ている白絹(オーガンディ)のデコルテと金髪、それに面長なその顔がくっきりと浮び出るように背景は濃い黒に近い緑の色で塗りつぶしてしまった。

 夫人はゴドイの子(娘)を宿している。それはめでたい話であったのではあるが、彼女にとっては嬉しくもなんともなかったであろう。・・・。
 膨れたお腹をかくすかのように前で組んだ腕と指 - 右手の中指にはゴドイのメダル入りの大きな指輪をしている - その指輪も抜いてどこかへ投げつけたいくらいのものであったろう ー 腕は少々長すぎ、かつ太すぎるかに思われるが、適当な距離をとってみれば、決して太すぎも長すぎもしないのであった(・・・) 。

 緑と青との羽毛の髪飾りと紗のリボンをつけた金髪が額を蔽っていて、その下の眼の物語る、えもいわれぬ複雑かつ微妙なものは、それ自体でゴヤがこの二〇歳の姫に寄せた感情そのものであったであろう。
 一七年前の、あの無垢なマリア・テレーサのことをゴヤがこれを描きながら思い出さぬ筈はなかった。

・・・
 それにしてもこの、悲劇的、と言ってよいほどのところまで高まっている、清楚、清麗さは・・・。
 ゴヤの憐れみと同情は大画面に満ちて画外へ盗れて出て来る。額縁などもいらぬくらいのものである。

 ゴヤがそこへ光をあてていたように、スエーカ公爵家では、この一点を展示している部屋の天井に、あるフランス人技術者の設計で、極小の穴をあけてそこから方向性のある光線が夫人の膝にあたるようにしてあった。それはまことに賢い照明の仕方であって、その膝にあたる光の反映で面長な、まだ少女時代の面影ののこる額が照らし出されている。

 ゴヤはこの絵を仕上げたら、アランホエース離宮へ駈けつけなければならぬ。あの王族一家の莫迦芝居図を描くために。
 しかしこの夫人像には、急いで描いたといった風はまったくない。それは真に心を籠めて描かれている。・・・。

 ・・・
 彼女が一八〇〇年一〇月に女の子を生むと、前例を破って王と王妃はエル・エスコリアール離宮からマドリードに駈けつけ、鉞つきの槍をもった槍騎兵の一隊をひきつれて祝意を述べに訪れたものである。王と王妃が名付親となり、洗礼は異端審問所の大審問官によってなされた。それは皇太子夫妻にこそふさわしい処遇である。従って現実の皇太子であるフェルナンドが疑心暗鬼に陥ったとしてもいささかも不思議ではない。

 かくて一八〇八年、強大化する一方のゴドイの権力に対して、皇太子がアランホエース離宮において叛乱を引き起し、フェルナンドにひきいられた暴民がゴドイを逮捕し、離宮内のゴドイの居住区に打ち壊しをかけた際にも、暴民たちはゴドイ夫人であるチンチョン伯爵夫人が子供をつれて立ち去るまで、静かに同情をもって見守っていたものであった。・・・。暴民もが同情をしていたのである。

 そうしてこの時が、ゴドイとの永遠の訣別となった。ゴドイは逮捕され一時は殺されそうになったが、王と王妃ともどもにナポレオンにフランスのバイヨンヌまで呼びつけられ、そこで退位させられて、そのままこの異様な三位一体はフランス各地をさまよっての後にナポリに落ち着き、王と王妃の死後、ゴドイはパリに移り、オペラ座四階の一室に居をかまえ、孤独のうちにやがて死ぬ。・・・。

 夫人は夫の亡命後、主としてトレドの兄枢機卿とともに過した。ナポレオン軍が侵入して来てからはカディスに移り、そこでパルコンから民衆に向って、
Muera Napoleon!
ナポレオンを殺せ!
と絶叫をくりかえしたという。

夫人は精神までを打ち砕かれていたわけではなかった。
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