2016年10月9日日曜日

應永35/正長元(1428)年正月19日~5月 義満第3子・元天台座主・青蓮院門跡義円(35)、還俗し6代将軍義宣(後、義教)となる 後小松上皇と武家の衝突(要職人事への横車) 「正長」改元 称光天皇、重篤となる 鎌倉公方持氏、上洛を企てる

横浜 山下公園 2016-10-05
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應永35/正長元(1428)年
正月19日
・義満第3子・元天台座主・青蓮院門跡義円(35)、還俗し6代将軍義宣(後、義教)となる事に決まる。
関東管領足利持氏が、将軍位を狙っており、その野望をかわす為、神意による決定という籤引きとし、籤は義教に当たるよう仕組んであるとの説もあり。

抽籤の経過は秘密裡に運ばれたため、この日、管領畠山満家自らが使者となって青蓮院を訪れた時、義円は驚いたと推測される。
室町殿就任を告げら、「種々に御辞退」と記録されている。何度も辞退したが、管領満家や諸大名らの歎願に義円も折れ、次期将軍就任を承諾した(『満済准后日記』)。

義円、管領以下が供奉して青蓮院を出て仮御所の日野(裏松)義資邸に移る。
この後、義円の還俗・元服の段取りについて協議。

22日、管領畠山満家以下重臣大名・満済ら、義円の還俗後の名前について協議。
広橋儀同(兼宣)・少納言入道浄宗(清原良賢)・万里小路時房の意見を聞き、翌23日の義持葬儀の際は「准三宮義円」とする。
以降、義円の俗名や叙任の手順、改元の協議が進む。

23日の義持の葬儀のあと、義教は日野邸より三条坊門の室町第に移る。

この後、抽籤の経緯が朝廷に伝わっておらず、事後の披露も遅れたため、後小松上皇がツムジを曲げ、ことごとに幕府の申し入れ(執奏)に対し抵抗するというトラブルが起る。

上皇は、義持葬送に参列した公卿に対し、仙洞へ参ることを1ヶ月停止した(『建内記』正月25日、2月24日条)。上皇の陰湿な嫌がらせ。

将軍義教、就任早々禅僧の不当利得を抑制する方針を打ち出すが、成功せず。
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2月
・フス派の遠征。一隊は援軍を経て更に進撃。
1428年2月シュレジェンに侵攻。ポルニッシュ・オストラウ、カッチェル、ホッツェンプロッフなどの都市は、廃墟となり、ウェンツェル・フォン・トッロパウ候は投降。
遠征軍は更に進撃を続け、オーベル・グロガウを攻囲、制圧。市民と貴族の多数を捕虜とする。

チェコ語で「スパニレー・イーズディ」(「偉大なる行軍」)と呼ばれる遠征は1433年まで続き、対象はオーストリア、上部ハンガリー(現スロヴァキア)、ドイツ南東部、ラウジッツ、シレジア、ポーランドに及び、ポーランド国王支援を背後に1433年にはドイツ騎士団領に深く攻め入りグダニスクでバルト海に達する。
フス派の強さを示す事は、フス派の正しさを全キリスト教世界に示す事であるとの認識で遠征を進める。
また、教皇が各国にボヘミアとの交易を禁止し、戦争による国土の荒廃もあり物資欠乏が進み、これを解決する為の遠征(物資や貨幣の略奪)という側面もある。
しかし、1420年代終わり頃には、人々は長期化する戦争に疲れ、フス派革命の本来の理想も次第に訴えかける力を失ってゆく。
更に1432、33年のヴルタヴァ川氾濫・大洪水被害は、人々の厭戦気分に追い撃ちをかける。
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3月
・武家(義円)の相続が朝廷への伝達に遅れた理由が伝奏の時房に知らされる。
管領満家が故実をよく知らず、管領の直奏が恐れ多いとして逡巡し、結局1月末に伝奏が正式に選任されて後、伝奏の勧修寺経興に奏聞させたため(『建内記』3月条)。

上皇は風聞(うわさ)によって幕府に賀使を送ったが、幕府より奏聞のない事に焦立ち、以後幕府の申し入れ(「武家執奏」)に対し、ことごとに抵抗を試みる。

上皇と室町殿との衝突は、まず寺社の要職の人事に現れた。
故義持の在世時、天王寺の別当職が、聖護院の道意から堯仁(ぎようにん)法親王に更迭されたことがあった。道意は義満に重用された護持僧であったが、義持に嫌われていた。義教は道意の選任を執奏したが、上皇はこれを拒否した。

さらに上皇は、石清水八幡宮の検校職を、現職の芳情(ほうせい)法印から、同宮権別当等清に改めようとしたが、今度は義教がこれを拒否。等清は貧家で、神事等儀礼に節約すれば「神人等(ら)、訴訟の基(もとい)」となるというのが幕府側の主張。これに対し上皇は、「請文(契約書)を召し置」けばその恐れはないと、重ねて芳清の更迭を命じた。

社寺の重要人事は、義満以来すべて幕府の承認を要するのが慣例となっており、上皇がこのように主張し、命ずるのほ異例のことである。上皇は、幕府の権威の空白に乗じ、失われた朝権の回復を目指し、瀬踏みを試みた。

義教は、管領満家と対応を協議した。
満家は宿老評定(重臣会議)を開いて有力大名の意見を質したところ、諸大名は上皇の横車は「然るべからず」として、上皇の「仰(おおせ)」を採用すべきでないと具申した。

一方、伝奏の勧修寺経興は上皇に、武家執奏どおり取り計らうよう諌めたが、上皇は「御許容に及ばず」、経興の諌言に耳を傾けなかった。しかし、幕府の反対にあって上皇は鉾を収めざるを得なくなった。

時房は経興から一部始終を聞き、上皇の仰詞は「却って楚忽に相似たり」「叡慮御思案に及ばず」と、後小松上皇の短慮を批判した(『建内記』正長元年2月26日条)。

八幡の人事は、上皇が経興の諌言を容れ、幕府の執奏通り、善法寺宗清が還補されて落着した。
しかし人事の紛糾はこれに留まらなかった。
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3月12日
・足利義宣(義教)、還俗 。俗名は関白二条持基・勧修寺時房・清原良賢らが決める。

還俗前、義教は、改元を朝廷に要求し後小松天皇と衝突(武家伝奏万里小路時房「建内記」)。
月末には、石清水八幡宮検校職任命についても衝突。
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3月18日
・ナイセ川河畔、ブレスラウ司教と若干の君候の軍勢、フス派遠征軍の進撃を止めるべく陣をひくが、撃破。
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4月
・フス派遠征軍、オスト・マハウ、バッチュカウ、フランケン、ファルケンベルク、グロットカウ、ストレーレン、カント等を攻略、殆どの都市に火を放つ。
4月ケーニヒス・グレーツやフルーディム等の市民が、ボヘミアのカトリック諸侯軍とともに抵抗戦を挑むが、これも壊滅状態に追いこみツォブテン要塞を占領。更に援軍のシュレジェン諸侯軍の接近を巧みにリーグニッツで撃破。
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4月15日
・ヴェネツィア、ロドヴィーコ及びフランチェスコ・サンセヴェリーノと傭兵契約
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4月19日
・朝倉孝景、朝倉教景(家景)の長男として誕生。越前朝倉氏初代広景から7代目。
宝徳2年(1450)父家景没、越前守護斯波義敏の「敏」の偏諱を受け孫右衛門尉敏景と名乗り、祖父の教景(法名心月)の後見のもと嫡子として成長。
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4月27日
・「正長」に改元
応永の年号35年間は、明治以前で最長の記録。
年号が長引いたのは、義満・義持父予が年号を変えたがらなかったためであるが、義教は、義量・義持と武家当主の死が連続したことで年号を変えようとし、3月初め、朝廷に申入れた。
上皇は改元は承知したものの、題目(改元事由)に難色を示した。関白二条持基以下の廷臣は、代始(天皇一代中の改元)を事由として奏請したところ、上皇は、

代始に於ては、応永廿年度改元の沙汰、仰せ出さると雖も、武家(義持)申し止められ了んぬ。然れば今において代始の沙汰はその詮なき歟。

と不快の色をあらわした。

応永20年(1413)、称光天皇の践祚直後、朝廷から代始改元を申入れたところ、義持の拒否にあった事実を持ち出して、いまさら幕府がそれを言い出すとほ何事か、と怒った。
結局、幕府は代始改元を取り下げ、康応元年(1389)の重臣薨逝による改元を先例として改めて改元を申請して落着した。
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5月
・元来健康でなかった称光天皇は、義持病死の前後から病気がちであったが、5月に入ると重態が伝えられた。時房は天皇の病状を「御腫気に依つて御苦痛、増気」と伝えている。
天皇重篤の報が伝わると、諸方に種々の異変や騒擾が起った。
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・仏、ジャンヌ、自分の秘密をうちあけ、叔父と呼ぶ親族(デュラン・ラクサール)に伴われ、ドンレミ村の隣町ヴォークールールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに面会。送り返される。
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・フス派遠征軍、5月ブレスラウ外市を焼き払う。
ミュンスターベルク、ラティボール、オスウィエチム、テッシェンの諸侯は金銭による和平を乞う。
バイエルン方面に侵攻の軍勢、5月タハウ~オーベル・ファルツに侵攻、ベルナウ方面を荒らしファルケンベルクを占領。モスバッハ、ニッテナウを襲撃し、ヴァルデンバッハでは修道院を破壊。
ヴァルド・ミュンヘンを制圧して7月プラハに凱旋。
更に別の1軍はメーレン~ブリュン市に侵攻。オーストリアにも侵攻、ヌースドルフ対岸のドラウの河畔を荒廃させ、ウィーン方面に至るまで攻撃を止めず。
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5月7日
・神宮祭主の人事を巡って、後小松上皇と幕府が対立。
同日、義教、「御判御教書」をもって天下の雑訴を成敗すると言い出す(「建内記」同日条)。

神宮祭主大中臣通直が死去し、後任を巡って上皇と幕府が対立。
上皇は予て勅約と称して長資朝臣に宣下の意向を示したが、義教は神宮の人事は鹿苑院(義満)以来武家の管轄と言い張って藤波清忠を推挙・執奏し、抵抗する上皇を押し切った。
この後、義教は、
                          
先々(義満・義持時代)近例にあひ替り、叡旨かくの如し、併(しかしなが)らこれ(義教)不肖の故たるか。

と述懐した。義教は、上皇が義持に比し自分を軽んじていると受取った。

正月の葬儀以来、上皇と室町殿の板挟みで苦しんでいた伝奏時房は、

叡慮(後小松)測り難きもの歟。然れども、公武について私曲なき耳(のみ)。(『建内記』5月7日条)

と、努めて公正を期していた。

義教政権下の正長元年~永享5年(1428~33)。
将軍の自署する御判御教書と奉行人連署奉書で政治が処理され管領奉書が殆ど見られなくなる。
管領を政治から排除、奉行人層の官僚を将軍の手足として使う独裁政治。

永享2~4年(1430~30)、将軍の御前で奉行人層の訴訟審理。判決は奉行人奉書で出させる。①「御前落居奉書」:全体訴訟件数72件、近江関係17(うち山門8)、五山関係13。
②「御前落居記録」:全体90件、近江関係28(山門21)、五山10。
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5月20日
・ノルマンディーで11年間ゲリラ的抵抗を続けたピエール・ド・ビグールデー、ルーアンのヴィユ・マルシェ広場で極刑。
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5月25日
・鎌倉公方持氏、将軍義教との武力的対決を構えて上洛を企てるが、関東管領上杉憲実に諌止され、思いとどまる。

関東公方足利持氏が京都へ攻め上ろうとして、執事上杉憲実の諌止を振り切って募兵した。
憲実は、策を巡らして分国上野の国人新田某に偽りの挙兵を起させ、新田某は鎌倉へ打入ろうとしているとの報を、上野よりしばしば流させた。
驚いた持氏は、京都への攻撃を思い止まったと伝える(『建内記』5月25日条。『満済准后日記』5月26日条)
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5月26日
・義教、管領制の幕府機構上の役割の強大さ故に、実質的機能を失っている評定衆・引付頭人の再設を命じる。

「御沙汰を正直ニ諸人愁訴を含まざるようニ御沙汰ありたき事也」(「満済准后日記」同日条)という所務相論上の公正さを期すにあると共に、管領権限の制限にある。
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5月27日
・「近日の儀、武辺の申し次ぎ、玉帛(しょう)を用いざるの時は毎時事行かず。其の外の申し次ぎは凡そ其の仁なし。貧者巳に度を失う」(「建内記」)。
幕府の手を借りて土地を横領する守護大名の家来や国人・土豪を排除する必要があるが、賄賂の贈与は不可欠。
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