2016年11月5日土曜日

インパール作戦認可までの経緯(その4) 南方軍総参謀副長稲田正純少将は第15軍牟田口軍司令官のインパール作戦計画に一貫して反対。昭和18年9月12日の南方総軍参謀長会同でもその旨をビルマ方面軍中参謀長、第15軍久野村参謀長・情報主任参謀藤原岩市少佐に言い渡す。

東京 上野公園 2016-10-24
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昭和19年1月7日、インパール作戦(ウ号作戦)が認可(大陸指1776号)される。
インド東北部インパール攻略。英印軍の反攻阻止・自由インド仮政府の拠点確保。
「南方軍総司令官ハ『ビルマ』防衛ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ『イムパール』附近東北部印度ノ要域ヲ占領確県スルコトヲ得」。 

ここで、昭和17年からインパール作戦認可までの経緯を概観しておく。

昭和18年8月1日
南方軍総参謀副長稲田正純少将、サイゴンで第15師団山内師団長、岡田参謀長と会談。
稲田副長は牟田口軍司令官のインド進攻計画に反対。

「わたしは今回の研究会(昭和十八年六月下旬、インパール作戦のための兵棋研究)で、牟田口将軍の我武者羅(がむしゃら)を押さえた点は二つあった。
その一つは、インパールからアッサムへの突進企図を絶対に認めなかったことであり、他の一つは、インパール作戦そのもののやり方に一か八かの山勘をやらせないことであった」
(稲田副長の回想録)

その後、稲田副長は南方軍から派遣されて東京に行き、大本営と意見の交換をした。
そのときも、「南方軍としては、絶対にこの作戦をやらせない」と説明した。
また、東条首相兼陸相にも同様のことを確約した。
稲田副長は山内師団長にも、その意向をつげ、それに対する南方軍の新たな計画を伝えた。

昭和18年8月1日
日本占領下のビルマでバー・モー政府、イギリスから独立宣言。
米・英に宣戦布告。日本・ビルマ同盟条約調印(ラングーン〔ヤンゴン〕)。
ラングーンに大使館設置。初代大使沢田兼三。

昭和18年8月2日
第15師団岡田参謀長、少将に進級。第31、33師団の参謀長は大佐で、第15軍の参謀長は前の小畑参謀長も後任の久野村参謀長も少将。

昭和18年8月6、7日
第15師団山内師団長・岡田参謀長、シンガポールで南方軍司令官寺内寿一元帥、稲田参謀副長と会談。
第15師団は、すぐにビルマには向かわず、チェンマイに集結し、当面は、南方軍直轄の戦力予備となり、チェンマイ=トングウ道改修を行うこととなる。
背景には、南方軍(稲田参謀副長)は第15軍のインパール侵攻作戦を容認していないということがある。

昭和18年8月7日
南方軍、大本営のインパール作戦準備指示に基づきビルマ方面軍に下命。
この準備要綱のなかで、はじめて”ウ号作戦”の文字が使われた。

昭和18年8月12日
ビルマ方面軍は、第15軍に準備下命。
第15軍久野村参謀長を方面軍司令部に呼び寄せ、作戦に関して方面軍の考えを説明し、これまでの牟田口計画の様な独断を戒める。

昭和18年8月25日
第15軍司令部(ビルマ、シャン州のメイミョー)で、インパール作戦計画を研究するための兵棋演習。
インパール作戦計画を起案した第15軍の木下高級参謀が演習を指導し、インド=ビルマの地図の上に、各部隊の隊標を置いて作戦の構想・展開を示す。
第15軍から牟田口司令官、久野村参謀長以下、全幕僚が出席。ビルマ方面軍からは中参謀、北沢正一少佐参謀が参会。直属部隊として第33師団長柳田元三中将、第31師団長代理の宮崎繁三郎少将が臨席。また隣接の関係部隊として、第18師団長田中新一中将、第56師団長松山祐三中将も出席。
第15師団からは山内師団長と岡田参謀長が列席。第15師団は南方軍直属であったが、近いうちに復帰するものとして、そのときの参考にするために参会。

防衛庁の戦史『インパール作戦』の記述
《このとき、第十八師団長田中新一中将は突然発言し、薄井参謀(第十五軍後方参謀)に対し「君は主任参謀として、本作戦間後方補給に責任が持てるのか」と詰問した。薄井参謀は素直に「とても責任は持てません」と答えた。田中師団長は憤然として「そんなことでどうするか、第一線兵団長としては補給が一番心配だ。この困難な作戦で補給に責任が持てんでは戦さはできん」と強く迫った。席上は気まずい空気に包まれ、薄井参謀は言葉に窮した》

そのあとで牟田口軍司令官は次のような奇妙なことをいった。
《「敵と遭遇すれば、銃口を空に向けて三発射て。そうすれば敵はすぐ投降する約束ができているのだ」と冗談ともつかぬ調子でいった。
列席の各兵団長は、内心、軍司令官の本心を疑った》

牟田口軍司令官はインパール作戦とその勝利の予想について語るときは、興奮して、とうとうと際限なく力説をつづけた。それを聞いた人のなかで、ある者は畏敬の念をおこし、ある者は異様な印象をうけた。

この日の山内師団長の日記
《一一〇〇(午前十一時)、軍司令部ニ至ル。軍司令官牟田口中将ニ申告ス。次デ作戦室ニテ将来ノ作戦計画ニツキ説明アリ。師団将来ノ任務モ明瞭トナル。(但シ、ソノ通り実現セズ、変化セル状況ノ下ニ師団ノ使用セラルル場合多キ予感アリ)
昼食後、軍司令官ノ訓辞、懇談アリテ会同終了。方面軍ノ軍楽隊ノ演奏ヲ聞ク。夜、官邸ニ軍司令官ノ招待アリ。終ッテ、サラニ翠明荘ニ案内セラル》"

日記には「兵棋演習」についての記述はなく、岡田参謀長にも演習の記憶がない。
岡田参謀長としては、牟田口軍司令官のインパール作戦計画を、形のでき上ったものと考えなかった。それほど、補給その他の点で、実行不可能と思われることが多かった。そのために岡田参謀長は、あまり気にかけなかった。

第15師団山内師団長と岡田参謀長は、メイミョーからの帰途、ラングーンのビルマ方面軍司令部に立寄る。方面軍では、インパール作戦に反対するのは高級参謀の片倉大佐のみ。方面軍司令官河辺中将は牟田口中将とは盧溝橋以来の仲で、インパール作戦には内諾を与えている。また、方面軍参謀長中中将も河辺司令官に説得されて賛成に廻るようになった。
(この時点で、インパール作戦に反対しているのは南方軍の稲田副長のみとなる)

15師団が命じられたチェンマイ=トングウ道路改修は、インパール作戦を実施させないため、稲田副長が15師団を第15軍に渡さない無理やり作られた口実であり、計画は極めてズサンなものであった。
タイ・ビルマ国境の山脈を直線距離にして300kmある道路に小石を埋めて舗装する工事が南方軍の命令であった。
このとき、バンコクにいた祭師団の兵力は、歩兵第60連隊の福島第3大隊、工兵第15連隊、自動車及び駄馬輜重各1小隊。後続部隊は南支那海を航海中か、まだ上海に残るかであった。南方軍からは、この作業のために独立工兵第23連隊を配属することになっていた。

昭和18年9月
第15師団の担当するチェンマイ=トングウ道路改修工事はかどらず。南方総軍の見積もりは2ヶ月であるが、第15師団の独立工兵連隊の見積もりでは今後1年半以上はかかるという難工事であった。
山内師団長は命令を遂行しようとするが、岡田参謀長は工事を切り上げるべきだと主張。一方で、第15軍牟田口司令官は第15師団はビルマの戦場(インド侵攻)を忌避してタイに留まっていると非難(実際には、第15軍から切り離されて、南方軍直轄となりその命により道路工事に従事している)

「祭師団についての奇妙なうわさがひろまった。南方軍が祭を勝手に使っているというのだ。あるいはまた、祭は、それを口実にして、ビルマに行くのを避けているという。」

昭和18年9月12日
シンガポールで南方総軍の参謀長会同。寺内総司令官官邸。
南方軍直属兵団の参謀長だけが集まることになっていたが、ビルマ方面軍の中参謀長は、第15軍の久野村参謀長と情報主任参謀の藤原岩市少佐を特別に「帯同して出席すべし」との命令を出して貰って連れてきた。

会議のあいまに、中参謀長は稲田副長と懇談し、インパール作戦を早く実施してもらいたいと訴えた。
「やかましいことをいわんで、ふたりの話をよく聞いてやってくれんか。そのために、わざわざつれてきたのだ」
稲田副長は、中参謀長が久野村参謀長を連れてきたのは、久野村参謀長に説得させる積りであることを察していた。
久野村参謀長は、稲田副長とは広島幼年学校の2年先輩で、陸軍大学校では同級、その後、同時期にヨーロッパに留学し仲がよかった。

また、中参謀長は、ビルマ方面軍片倉高級参謀に話を通さないで、片倉高級参謀のうしろ盾でもある稲田副長に直接訴えようとした。

それ以前、稲田副長はビルマ方面軍の河辺軍司令官から片倉高級参謀の更迭を求められていた。
《片倉高級参謀は、自分の気にいらないことをした者を、毒舌の限りをつくして、痛烈にしかりつける。このため、ビルマ方面軍司令部内の人心はおびえて、異常な空気を作っている。これでは知略を集めて、作戦指導をじゅうぶんにすることができない》

稲田副長は、ビルマ方面軍の中参謀長が第15軍の久野村参謀長をつれてきたことと、河辺軍司令官の手紙と考え合わせる、方面軍の首脳部が片倉高級参謀の追いだしにかかっていると推察した。
河辺軍司令官の思いは、本当のところは、インパール作戦に強硬に反対をしている片倉高級参謀を追いだして、インパール作戦を実施の段階に持ちこもうというものだ、片倉高級参謀がじゃまになってきたのだ、これは危険なことになった、と稲田副長は感じた。

稲田副長は久野村参謀長と、ふたりだけで会談した。
久野村参謀長はインパール作戦の計画書を提出して、
「稲田、たのむよ。認めてくれんか」
と、親しい口調でたのんだ。
その内容は、第15軍の兵棋演習の時のものと、全く同じであった。つまり稲田副長が「修正しない限り許可しない」と申し渡したものと、少しも変っていなかった。

稲田副長は久野村参謀長の真意を疑って、念をおした。
「この計画を、中参謀長は承知なのか」
「承知だから、われわれをつれてきた」

稲田副長は中参謀長の考えていることがわからなくなった。
3ケ月前のラングーンの兵棋演習の時には、中参謀長が自分で講評して、この計画を非難し否決した。その時、稲田副長も、それに同意の講評をした。それなのに、それをそのまま、稲田副長に認可させようとしている。
また、そのために、河辺軍司令官と中参謀長とがいっしょになって、片倉高級参謀を追いだそうとまでしている。
前には、このふたりは牟田口軍司令官の計画に反対していた。それが今は、このような策動をして牟田口計画の認可を得ようとしている。こうした変化が、いつ、どのようにしておこったのか、稲田副長は奇怪に思った。

あるいは、牟田口軍司令官の激しい意欲と強烈な自信に動かされたのかも知れなかった。そうとすれば、ビルマ方面軍の最高首脳者としては無能無力な統帥ぶりである。さもなければ、東条大将から何らかの指示があり、それに迎合したとも思われた。そうした追従の傾向があった。いずれにしても、無責任にすぎると思われた。稲田副長は計画書に手をふれないで、
「これは、なおさなければ認められんよ。それに、片倉が聞いたらおこるぞ。あんたは何も知らんことにしておけ。おれも何も聞かなかったことにする」
「そんな堅いこというな」
久野村参謀長のことばには、おれとお前の仲じゃないか、といったひびきがあった。
「しかしだな。こんな計画を認めたら、たいへんなことになる。インドまで攻めこんで、やりそこなったら、それだけではすまんことになる。日本全体が取り返しのつかんことになる。今、ビルマのほかに、勝っている所はないのだからな。それを考えにゃいかん」

久野村参謀長は当惑していたが、
「それじゃ、もう一つだけ、たのみを聞いてくれ。藤原がせっかく、ここまできたことだから、話を聞いてやってくれ。藤原はこの計画をまじめに考えている」

稲田副長は藤原参謀に会ったところで、無駄なことはわかっていた。藤原参謀が久野村参謀長と違った作戦計画を持ちだすはずがなかった。
藤原参謀はこの計画については、作戦主任参謀以上に熱心だった。牟田口軍司令官の構想を基にして、研究をかさねた。そして、やれるという碓信を持って、2年越し奔走をつづけている。チンドウィン河のような重要な場所には、直接に出かけて渡河の方法を研究していた。

稲田副長は藤原参謀の努力を知っていたので、話を聞いてみることにした。藤原参謀は稲田副長に向って、いきなりいった。
「今、ウ号作戦をやらないと、十五軍はくさってしまうのです」
「十五軍がくさるからというだけなら、ウ号でなくても、なんでもやればいい。インドをあきらめて、雲南をとりに行ったらいい」
「雲南ですか」
インド進攻を訴えようとした矢先に、急に話が中国の雲南省に飛んだので、藤原参謀はあっけにとられた形で問い返した。
「そうさ、総軍といっしょになって、雲南に女をとりに行った方がおもしろいぞ」
稲田副長は時どき、とっぴなことをいう筋があった。本心はまじめなのだが、それがつかめないので、藤原参謀は当惑しながら、
「おもしろいですか。しかし、雲南よりもインパールをやらしてください」
「それなら、真剣に考えなけりやいかん。英米が本気になってかかってきたら、どうする。どうもならんじゃないか」

稲田副長は相手の気持ちを読みながら話をしていた。
「英米にインドの方から押されたら、ビルマ方面軍はさがる道がない。雲南に退路を求めるよりほかはない。ビルマは南方軍の主力だから、これがさがる時は、総軍もいっしょにさがる。南方軍の主力はシナにおいて、総軍はシナ総軍と手を握る。こうして北京まで逐次さがるとすると、五年はかかる。いくさは、切りあげることを考えてやらなけりやいかん」

稲田副長はしだいに早口になった。熱のこもった調子だった。総参謀副長として、さきのことを計算していたのだ。また、第十五軍がくさるというだけの理由で、インドに行かれては困ると思っていた。

「こう惰勢が悪くなると、どうやって持久戦をつづけるかということを、真剣に考えねばならない。退路をシナにとる。その前提として雲南をとりに行く。これがインパールに行く代りにならんか」
藤原参謀は話の腰をおられたと思っただけのようであった。なおも、しつこくインパール作戦の実行を、くりかえしたのみこんだ。稲田副長の話の、東向きの行動にはなんの関心も見せなかった。

稲田副長は反対の理由をかぞえあげた。
「牟田口司令官はやるやると目の色を変えているが、師団長の方はやる気がない。おれは三師団長に会って話を聞いている。その上、三人とも、軍司令官とは性格が合わない。これでは、いく
さはうまくいかんよ」
弓第三十三師団の柳田元三中将は、はじめからインパール作戦は不可能だとして反対していた。柳田中将は学識ゆたかな教育者といった型で、牟田口軍司令官の実行型とは全く膚が合わなかった。柳田中将は稲田副長に、
「あんなわけのわからん軍司令官はどうもならんな」
と、酷評した。牟田口軍司令官は、
「あんな弱虫はどうにもならん」
とののしった。柳田中将は、インパール作戦を中止すべきだという考えを持っていた。
また、祭第十五師団長の山内正文中将も、線の細い知識人の型で、激戦場の指揮には向かないと見られていた。
ただひとり、烈第三十一師団長の佐藤幸徳中将は猛将として期待された。しかし、この場合でも、佐藤中将が激しい気性なので、強情の牟田口軍司令官と衝突すると、おさまりがつかなくなることが予想された。
このような人々を第十五軍に配置したのは、陸軍次官の冨永恭次中将の識見のない、無能な人事行政のためであった。また、それを甘んじてやらせた東条陸相の思いあがった無反省のためでもあった。東条陸相は性格が偏狭で、人の好ききらいが強かった。無能といわれた冨永中将に、次官の要職を与えたのも、そのためであった。そうしたことが今、第十五軍の人事関係に危険なものを作りあげてしまっていた。

こうした理由をあげて、稲田副長は結論をいった。
「どうしてもインドに行きたかったら、今の案をなおしてこなければ、だめだ」
こうして、中参謀長らの苦肉の手段も、稲田副長に阻止された。牟田口軍司令官もアッサム州進攻の計画を撤回するか、あるいは、しばらく時機を待たなければならなくなった。
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