2016年11月2日水曜日

中村研一(1895-1967) 《タサファロング(ガダルカナルに於ける陸海共同作戦図)》1944昭和19年 / 小磯良平(1903-88) 《娘子関を征く》1941 昭和16年 / 福田豊四郎(1904-70) 《スンゲパタニに於ける軍通信隊の活躍》1944 昭和19年 / 岩田専太郎(1901-74) 《小休止》1944 昭和19年 (東京国立近代美術館コレクション展) 2016-10-04

▼中村研一(1895-1967)
《タサファロング(ガダルカナルに於ける陸海共同作戦図)》1944昭和19年



▼小磯良平(1903-88)
《娘子関を征く》1941 昭和16年

 1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、画家たちは次第に戦争を描くという課題に直面します。
主に静物画や単体の人物画を得意としてきた日本の洋画家たちには、広大な空間と群像の描写を必要とする戦争はやっかいな主題でした。
しかし戦争前から群像に取り組んでいた小磯は、巧みな手腕を見せます。
中国、山西省の要所、娘子関(ろうしかん)での戦闘に従事する兵士を描くこの作品では、奥に見えるアーチ橋を利用して、四角い画面の下半分にもう一つ四角形を作り、そこにうまく人や馬を配しています。



美術オピニヨン
娘子関を征く:小磯良平

娘子関を征く:小磯良平 1937年の山西戦場における日本軍と中国軍の戦闘の勝敗を決めたのは、忻口と娘子関での戦争であった。

 河北省との東部省の境に位置する娘子関は太行山脈の隘路にあり、嶮しい山岳地帯を背にした要衝である。1937年10月、太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。

 太原攻略のためには、日本軍は北の忻口と東の娘子関からしか侵攻できなかった。娘子関を日本軍が攻撃した場合には、、河北省や山東省に展開する中国軍から側面を攻撃される可能性があった。 このため中国軍の閻錫山は娘子関方面を楽観視していた。

 兵力約8万の日本軍に対して、中国軍は40万人の大兵力だった。ただし、娘子関は第一線の正面が150Kmと広く、各部隊の担当場所が広すぎるという問題があった。

 そこで日本の北支軍は中国軍の裏をかいて、娘子関守備軍の背後を脅かすことを狙った。 実際には、21日中に娘子関前面の雪花山陣地が陥落し、23日には旧関が突破され、戦線は崩壊した。 そして11月8日、板垣兵団を中心に日本軍は総攻撃を開始、太原は陥落した。


 小磯良平の「娘子関を征く」は実際の戦闘場面ではないが、このように日中戦争のターニングポイントとなった山岳戦に赴く兵士を描いたものであり、戦意高揚の目的を十分に果たしていたのである。


▼福田豊四郎(1904-70)
《スンゲパタニに於ける軍通信隊の活躍》1944 昭和19年


▼岩田専太郎(1901-74)
《小休止》1944 昭和19年


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伊原宇三郎「特攻隊内地基地を進発す(一)」 岩田専太郎「特攻隊内地基地を進発す(二)」 (国立近代美術館常設展示MOMATコレクション) 2016-05-12





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