2018年8月11日土曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート15 (大正8年)

片瀬西浜海岸
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大正8年
周恩来は、日本を離れる直前の1919(大正8)年4月5日、京都の嵐山を散策して惜別の詩を綴った。『雨中嵐山』と『雨後嵐山』と題する詩文が嵐山・亀山公園に建てられた記念碑に刻まれている。

雨中嵐山
雨中二次遊嵐山、両岸蒼松、挟着幾株櫻。
到尽処突見一山高、流出泉水緑如許、蹺石照人。        
瀟瀟雨、霧濛濃、一線陽光穿雲出、愈見姣妍。
人間的万象真理、愈求愈模糊、- 模糊中偶然見着一点光明、真愈覚姣妍。

雨の中を二度嵐山に遊ぶ 両岸の青き松に いく株かの桜まじる
道の尽きるやひときわ高き山見ゆ 流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす
雨濛々として霧深く 陽の光雲間より射して いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも - 模糊の中にたまさか一点の光明を見出せば 誠にいよいよなまめかし
(葉子民訳、「周恩来総理記念詩碑建立委員会」資料より)

4月、周恩来は天津へ戻り、南開大学文学部に入学、直後に五四運動が起こって学生運動のリーダーとなった。その後「勤工倹学」(労働しながら学ぶ)制度を利用してフランスへわたり、1922年、フランスで組織された中国共産党の細胞に加わった後、帰国して政治運動へと身を投じる。

日本での滞在期間は僅か1年半ほどに過ぎない。
周恩来『十九歳の東京日記』に綴られた東京生活からは、靖国神社などの名所見物の晴れやかさと資金不足の苦労、受験に失敗した苦悩と強い望郷の念など、激しく揺れ動く青春時代の繊細な心理が浮かび上がる。
中国革命のために生死をかけて戦い、戦後は幾多の政治闘争や文化大革命の荒波に翻弄されながらも、周恩来は機知と慈愛の精神で人々を勇気づけた。だが、そんな姿は日本留学時代にはまだ見受けられない。
幼いときから肉親の縁に恵まれず、孤独と貧しさ、悲哀と苦悩に満ちた青春時代を送ったからこそ他人の悲しみを理解し、「慈愛の人」と呼ばれる政治家になったにちがいない。

大正9年
1915(大正4)年、留学生が急増し、駐北京日本大使の伊集院男爵と渋沢栄一子爵の斡旋により、三井、三菱、正金銀行、満鉄、台湾銀行、郵船、古河、東亜興業など、政財界から本格的な支援を受けて新校舎建設の敷地を探していたが、1919(大正8)年、隣接地の神田区中猿楽町6番地の土地200坪を購入したことで敷地が広くなり、建物面積500余坪(1,770㎡)という大規模な木造三階建ての新校舎を建設することができた。
翌1920(大正9)年に「財団法人」となり、校名も「東亜高等予備学校」に簡略化した。

大きな校舎が建つと、入学する留学生がさらに増えた。これ以後の在籍者数は毎年平均して1,000名に達し、多い年には2,00千名にも及び、日本有数の中国人留学生の教育機関として名が知れわたるようになった。

1917(大正6)年9月、周恩来が来日し、東亜高等予備学校で日本語を学んだ後、東京高等師範学校(現、筑波大学)を受験したが失敗、留学資金が底をつき、失意のうちに1919年4月に帰国した。日本に滞在した期間は僅か1年半ほどだったが、その間に書き残した日記が『周恩来日記』(邦訳は、『周恩来『十九歳の東京日記』』、矢吹晋編、鈴木博訳、小学館文庫)として刊行されている。また、『留学日本時期的周恩来』(主編〔中〕王永祥、〔日〕高橋強、中央文献出版社)には、東亜高等予備学校について詳しく紹介されている。それらの記述によれば、授業科目は日本語、英語、数学、物理、化学、絵画などがあり、とくに日本語については発音、講読、会話、文法、聞き取り、作文、中国語の日本語訳など、さまざまな授業が行われていたようだ。

東亜高等予備学校の留学生のほとんどは官立学校を受験したが、留学生にはかなりの難関だった。
前出『留学日本時期的周恩来』によれば、東京高等師範学校の合格者数は、1915年に前期後期合計で39名(以下同)、1916年は46名、1917年33名、1918年77名、1919年に86名となった。学校別にみると、東京高等工業学校(現、東京工業大学)と東京第一高等学校に毎年それぞれ70〜80名の合格者を出した。しかし東京帝国大学農学部(現、東京大学農学部)には、1915年に8名が合格しただけで、その後は合格者なし。同大医学部には1918年に1人合格したのみ。京都帝国大学法学部(硯、京都大学法学部)は1917年に1人合格したのみである。

官立学校の毎年の合格者総数は平均200名前後だが、1917(大正6)年の在籍者総数は1,710人で、1918(大正7)年は2,085人だから、約1~2割の留学生しか官立学校へ合格できなかった計算である。その他の中国人留学生の多くは、無試験の私立大学の予科や専門学校に行くか、帰国して中国の大学へ入学した。

もっとも、官立学校の合格者の少なさは必ずしも留学生たちの不勉強が原因ではない。日中間の政治状況の悪化につれて、日本では落ち着いて勉強していられない状況が発生した。
例えば1920(大正9)年の同校の官立学校の合格者総数は82名に止まった。これは統計をとった2月時点で、まだ入試が実施されていなかったことに加え、1918年に日本が中国に日華共同防敵軍事協定を強要したことに反発して留学生が大挙して帰国し、1919年の在籍者数が833人に激減したためであった。また、官立学校に合格しても、日本の対中侵略政策に抗議して自ら大学を退学し、留学生が「総帰国」するという事態は、20年代以降、なんども繰り返され、来日する留学生総数も大きく変動した。

(つづく)





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