2024年10月5日土曜日

大杉栄とその時代年表(274) 1900(明治33)年1月1日~2日 鷗外「鷗外漁史とは誰ぞ」 子規、念願の「月給五十円」に到達 堺利彦、副収入を得るための原稿書きに励む 与謝野晶子、鉄南を知り文通を始める 伊藤左千夫が子規を訪問、短歌会の常連となる   

 

伊藤左千夫

大杉栄とその時代年表(273) 1899(明治32)年12月1日~31日 荷風、外国語学校除籍 子規の病室の障子がガラス張りになり、ストーブが入る 池田勇人生まれる 袁世凱、山東巡撫となり、義和拳解散を説得 足尾、鉱毒議会成立(行動隊組織) 蕪村忌句会(第3回) より続く

1900(明治33)年

1月

鷗外「鷗外漁史とは誰ぞ」(「福岡日日新聞」)。この前年、小倉に赴任。

当時の文壇、文人達をさまざまに批評し、「今の文壇は露伴等の時代に比すれば、末流時代の文壇だというのだ」と手厳しく指摘。しかし、そのなかで子規については好意的である。


「今の文壇というものは、鷗外陣亡(うちじに)の後に立ったものであって、前から名の聞えていた人の、猶その間に雑じって活動しているのは、ほとんど彼ほととぎすの子規のみであろう。ある人がかつて俳諧は普遍の徳があるとか云ったが、子規の一派の永く活動しているのは、この普遍の徳にでも基づいて居るものであろう(略)。

明治の聖代になってから以還(このかた)、分明に前人の迹を踏まない文章が出たということは、後世に至っても争うものはあるまい。露伴の如きが、その作者の一人であるということも、また後人が認めるであろう。(略)また前に挙げた紅葉等の諸家と俳諧での子規との如きは、才の長短こそあれ、その中には予の敬服する所のものがある。」

1月

子規、虚子(ホトトギス発行所)から月10円の援助を申し出られる。


「「そういう事にしてはどうかと思うのだが・・・・・」と申し出る虚子の口調は不分明で、「出来るか出来ぬか、まあ遣って御覧や」という子規の回答も、どちらかといえば不機嫌であった。長くつづいた師と弟子、先輩と後輩の関係に、ついに金銭のからむ居心地の悪さが双方にあった。

しかし、この十円で子規は、かねてからの願いであった「月給五十円」の身の上に到達できた。」(関川夏央、前掲書)

1月

長男不二彦の死に打撃を受けた堺利彦の妻美知子は衰弱がひどくなる。大森には住みたくない、という美知子のために、堺は芝区高輪(現・港区高輪)に転居することにした。

堺は、美知子の治療費のための金策に苦心し、副収入を得るための原稿書きに励む。

「今後数個月の家政を想ひやるに殆んど当惑の至りなり。例の博文館にでも何か売りつけでもすべきか」(1月18日付日記)。

「金の事、策なし、松居松葉に頼み博文館少年読本に周布政之助を書く事を談判せんとす、博文館よく引受けんや否や」(1月21日付日記)。博文館「少年読本」は、その前の「少年文学」に続いて企画された史伝叢書のことで、1898年10月の創刊後、毎月1回もしくは隔月1回で計50冊が刊行された。堺はその一冊として『周布政之助』を書いている。

これ以外にも、堺は副収入を得るために次々に本を出版した。それらは小説ではなく実用書、啓蒙書といえる『家庭の新風味一~六』や『言文一致普通文』などだった。読者には予想以上に好評で、版を重ねて予想以上の収入を得ることができた。

堺は日記に「近来あちこちから原稿の所望がくる、多少名を知られたからの事である、世間は実につまらぬもの」とか、「我輩が若し数年前に小説で多少成功して居たならば、どうであらうか、成功せなんだのが却つて仕合せであったかもしれぬ」などと、皮肉っぼく記している。

1月

与謝野晶子(22)、「よしあし草」第23号「新星会」欄に3首発表。

6日~堺の覚応寺の嫡子鉄南と文通。1年弱29通。

3日、河井酔茗主唱の近畿文学同好会の新年会が堺の浜寺鶴廼家で開催。弟籌二郎、河野鉄南、宅雁月、中山梟庵など出席、晶子は玄関先で帰る。

2月、「よしあし草」第24号に詩「わかれ」、「新星会近詠」欄に5首発表。

3月、同第25号に「新星会近詠」欄に7首発表。

4月、同第26号に「新星会近詠」欄に4首発表。この月、乳母を伴い奈良吉野山に遊び、竹林院に1泊。

鉄南;

本名通該。明治7年1月16日に堺九間町の覚応寺に生まれ、長じて19代目住職。浪華青年文学会(関西青年文学会の前身)堺支会設立発起人となり、明治31年頃から活躍、鉄幹とは竹馬の友。晶子より4歳年上。晶子は、3日の近畿文学同好会の新年会での初対面が印象的で、ひたすら鉄南に手紙を送り、誠実、清廉な鉄南に心惹かれてゆく。鉄南は寺の後継者で、晶子には妹に対する兄の態度で接し、2人の間は進展しない。晶子は鉄南との文通により「明星」を知り、鉄幹と出会うことになる

1月

永井荷風(23)、 『烟鬼』が懸賞小説番外当選作として「新小説」に掲載。

1月

フィリピン、アギナルドの抵抗に手を焼く米政府、新たに8万人の援軍派遣。

1月1日

凸版印刷(資)設立。1908(明治41)年6月4日に株式会社に改組。

1月1日

新聞『日本』で募集していた短歌の第1回発表会。

1月1日

ハンガリー、「21世紀」誌発刊。

1月1日

ドイツ、民法典発効。

1月2日

伊丹万作、誕生。

1月2日

伊藤左千夫が子規を訪問、短歌会の常連となる。左千夫は前年の子規「歌よみに与ふる書」に対して激越な反駁を数度加えていた。


「「人々に答ふ」で痛罵された自分なのに、明治三十三年(一九〇〇)元日の「日本」紙上「新年雑詠」に「伊藤さちを」名義の歌が三首もとられている。その不思議さが明治三十三年一月二日、左千夫の子規宅訪問の動機となった。

勢いこんで訪ねた初対面の左千夫に、子規はつねのごとくに接した。甘いものを食い、食べものの話をし、歌の話をした。その気配は闊達であり、社交と座談を天性好む人であると思われた。腰は立たず、病床に左の片肘だけをついてきわどく体を支えている子規だが、しばしば病人であることを左千夫に忘れさせた。

そのうち岡麓がやってきた。岡麓と左千夫は、明治二十九年、桐の舎桂子の歌会で出会って以来の旧知の仲であった。彼らは、香取秀真も含め、その歌会で「万葉調」を学んだのである。

(略)

左千夫は、たちまち子規の虜となった。元来、人に対して年齢の上下でへだてることを知らない左千夫であったが、三歳下の子規に兄事した。というより師として接し、子規を「先生」と呼んではばからなかった。初訪問以来、左千夫の足はしばしば根岸へと向き、「二日とあげず」とか「一年に百日は優に超える」と自らが語るほど子規と会いたがるのであった。」(関川夏央、前掲書)

■伊藤左千夫


「伊藤左千夫は上総の国武射(むさ)郡殿台村(現千葉県山武市殿台)で元治元年(一八六四)に生まれた。森鴎外の二歳下、二葉亭四迷とは同年、子規と漱石より三歳の年長であった。実家は田畑と山林、合計して三町歩半を持つ上層中農の家の、左千夫は四男であった。

上総の海岸に近い殿台村は、九十九里浜沖を流れる思潮のせいで気候温暖、厳冬の頃に菜の花が咲く土地柄で、・・・・・

(略)

たしかに左千夫は、その村夫子然とした風貌に似合わず、開放的かつ積極的であった。子規没後、左千夫のもとには多くの歌人志望の青年がつどい、子規の孫弟子となったのもその性格の余徳であった。左千夫門下にあったのは、斎藤茂吉、島木赤彦、中村憲吉、古泉千樫、土屋文明、石原純など、後年短歌界のリーダーとなる人々で、みな地方の出身者、いわば田舎者であった。それもまた左千夫の性格のしからしめたところである。

(略)

幼い時期の左千夫は、父親が教員をつとめる地元の小学校に学びつつ、同時に漢籍に親しんだ。「唐詩選」をよく読み、「史記」にもっとも深く影響された。江戸の残光を浴びて長じた早熟な少年の常として、志を政治に抱き、明治十四年四月には元老院に「建白書」を提出した。投書癖は当時の政治少年が、ある種必然に帯びたものであった。

(略)

「建白書」を投じたその春に上京、明治法律学校(のちの明治大学)に入ったが、眼底充血と強度の近視進行のために退学、帰郷して生家の農事を三年半ほど手伝った。高血圧は左千夫の宿痾であり、満四十八歳で彼の命を奪ったのも脳出血であった。

明治十七年、近視のため兵役免除が決まると、翌年一月、書置を残し、一円とわずかな衣類のみを持って再上京した。ときに二十歳であった。彼は京浜間の牛乳屋に住みこんで働き、明治二十二年春、二十四歳で本所に搾乳業の店と小牧場を持って独立した。栄養やカロリーという言葉が時の流行語となる健康ブームのうちに、十数年前までは考えられなかったほど牛乳飲用の習慣が市中に普及したのである。

左千夫は、茅(かや)の舎(や)ともデボン舎(しや)とも称したその店に、精神の変調をきたして故郷にいられなくなった母なつを呼び寄せ、また明治二十二年中に同郷の娘と結婚した。そして、文字どおり身を粉にして働いて生活の基盤をつくった。彼の五尺六寸五分(一七〇センチ)の肉体は「一日十八時間の労働」によく耐えた。

茶の湯とともに和歌を学びはじめたのは、事業が安定を見た明治二十六年頃からである。

その容貌その体躯に似つかわしくもない桂園風の歌を詠んだ左千夫が、春園と号したのはこの時期である。明治二十九年頃、すなわち彼の三十二歳になる頃からは万葉調の歌風にかわり、やがて明治三十一年二月から三月にかけて、子規「歌よみに与ふる書」への三回の問い質しへとつながっていく。


牛餌が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる  左千夫


大正二年(一九一三)夏に四十八歳で畢(おわ)るまで、ずっと本所で搾乳業を営みつづけた伊藤左千夫は、自らを「牛飼」と称した。左千夫の代表歌のひとつと目されるこの歌は、子規に親炙したのちの作と一般には考えられているが、左千夫の弟子土屋文明は、それより早く、明治三十年頃、万葉調にめざめた時期の作だといっている。」(関川夏央、前掲書)


*伊藤左千夫は、子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作る。1905年、純愛小説『野菊の墓』を発表、漱石にも激賞される。

つづく

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