2024年10月4日金曜日

大杉栄とその時代年表(273) 1899(明治32)年12月1日~31日 荷風、外国語学校除籍 子規の病室の障子がガラス張りになり、ストーブが入る 池田勇人生まれる 袁世凱、山東巡撫となり、義和拳解散を説得 足尾、鉱毒議会成立(行動隊組織) 蕪村忌句会(第3回)       

 

第3回蕪村忌句会

大杉栄とその時代年表(272) 1899(明治32)年10月23日~11月28日 鉄幹、新詩社創設 子規、岡麓・香取秀真の家に招かれる 「我口ヲ触レシ器ハ湯ヲカケテ灰スリツケテミガキタブべシ」 難波大助生まれる 第14議会 「ホトトギス」2,300部が即日完売 より続く

1899(明治32)年

12月

朝鮮、「独立新聞」発刊。

12月

朝鮮、「韓清互換条約」調印。近代的国家間外交

12月

有島武郎、森本厚吉と登別温泉へ。前年明治31年12月にも定山渓の温泉宿へ。

12月

永井荷風(20)、欠席が過ぎて外国語学校を第2学年のまま除籍となる。

初冬、清の留学生羅臥雲(蘇山人)の紹介で巌谷小波の木曜会に入る。"

12月上旬 

虚子のはからいで子規の病室の南側の障子をガラス張りにする。燈炉(石油ストーブ)を入手して子規宅に届けた。子病床生活の一大変化で、子規の喜びは俳句や短歌や随筆に表現されている。

12月1日

子規『俳人蕪村』刊行(『俳諧叢書』第2編)。


「咳唾(がいだ)珠(たま)を成し句々吟誦するに堪へながら、世人は之を知らず宗匠は之を尊ばず、百年間空しく瓦礫と共に埋められて先彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、或は之に凌駕する処ありて、却つて名誉を得ざりしものは主として其句の平民的ならざりしと蕪村以後の俳人の尽く無学無識なるとに因れり。

(中略)

蕪村の名は一般に知られざりしに非ず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村に非ず、画家としての蕪村なり。蕪村没後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前に於て世に伝はらざりしは俳名の高かりしかために圧せられたるならんと言へり。

(中略)

余はこゝに於て卑見を述べ蕪村が芭蕉に匹敵する所の果して何処にあるかを弁せんと欲す。」(「緒言」『俳人蕪村』)


「積極的美」「客観的美」「人事的美」、「理想的美」「複雑的美」「精細的美」、「用語」「句法」「句調」、「文法」「材料」「縁語及譬喩」、「時代」「履歴性行等」について詳述。

他に子規は、『蕪村と几董』、『蕪村風十二ケ月』、『蕪村寺再建縁起』などを著している。

12月2日

子規を詠んだ漱石の俳句

此冬は仏も焚かず籠るべし

が『日本』に掲載される。

前書に「病牀に暖炉備へつけたくなど子規より申しこしける返事に」とある。

12月2日

米独英、太平洋サモア諸島を米独で分割統治協定。ワシントン。

12月3日

池田勇人、誕生。

12月3日

川上一座、ボストン着。ベニスの商人翻案「日本趣向の人肉質入裁判」。

12月5日

アメリカ公使コンがー、山東巡撫毓賢が暴民を押え、宣教師を保護できないなら更迭し、袁世凱を後任にせよと総署を圧迫。

12月5日

第1回沖縄よりハワイ移民。26人。

12月5日

古賀逸策、誕生。水晶発振子の発明者。

12月6日

袁世凱、毓賢に替わって山東巡撫に任命。25日、山東省省都済南到着。

12月14日

幸徳秋水「政局一転の機いたる」(「万朝報」14、15日)。第2次山県内閣に不満の自由党が、再び伊藤博文に擦り寄る気配を見せるため、藩閥と自由党との間に楔を打つ。

12月15日

ボーア軍、コレンソの戦いで英軍撃破。

12月17日

この日付け子規の漱石宛手紙。


拝啓 永々の御無音如何御暮破成(おくらしなされ)候や。小生もまづまづ無事ニ相くらし申候。

煖爐の事難有候。先日ホトトギスにて燈爐といふを買てもらひ、かツ病室の南側をガラス障子に致しもらひ候。これにて暖気は非常に違ひ申候。殊に昼間日光をあびるのが何よりの愉快に御座候。こんな訳ならば二、三年も前にやつたらよかつたと存候。しかシ何事も時期か来ねば出来ぬ事を相見え候。

『ホトトギス』に付て発行遅延の御注意ありがたく候。コレハ第一小生の病、第二虚子の無精といぶ原因に基き候。・・・・・『ホトトギス』の発行遅延モ今は名物の如く相成、先月は二十五日出来上リニテ二千三百部印刷の処、即日売切。それがため新聞へ頼んで置いた広告を売切の広告にとりかふるといふ始末。全盛を極めをり候。

小生は此全盛がこはいので他日衰退に傾くやうでは、却て『ホトトギス』のために憂慮すべき事と半喜び半心配致居候。虚子はとにかく大得意にて殊に青々(せいせい)を雇ひ入る等の事ありしため多少の嫉妬を受け申候。虚子も此頃に至りて始めて世に立つの法を知り得たりなど申居候。

『日本』の方も余り景気よろしからず、ためニ景気づけんとの説度々起り候。此の如き場合には小生が一番に腕をまくらねばならず、さりとて『ホトトギス』は抛(ほう)つておけず、『ホトトギス』を書けばそれで手一ばいといふ始末故、実ニ弱り果候。しかシ本職といふ点からいふても今までの恩になりたる点からいふても新聞の方をおろそかにするは良心にすまぬ事なれば、十分働くつもりに候へども、なかなかさうも参らず頭の中は多少煩悶の姿に有之候。小生の頭は一刻も平和といふ事なけれど全く平和の境涯も永くは得処(お)るまじく、やはり忙中に閑を求め煩悶の中に平和を求むるが適当致をり候にや。随分困つた人間ニ生れたるものに候。・・・・・朝は寐る、昼は人が来る、夜は熟が出る、熱を侵して筆を取るか又は熱さめて後夜半より朝まで筆取るか、いづれにしても体は横寐、右を下、右の肱(ひじ)をついて、左の手に原稿紙を取りて、物書くには原稿紙の方より動かして行く、不都合な車、苦しい事、時間を要する事、意到つて筆従はざるために幾度か蹉跌して勢のぬける事、弊害と困難は数へきれぬほどに候。・・・・・

12月17日

淀橋浄水場で水道工事落成式。

12月20日

年賀状郵便の特別扱いが始る。

12月22日

足尾、沿岸被害地に鉱毒議会成立(行動隊の組織)。栃木・群馬4郡19ヶ村1,070名。第4回押出し準備

12月23日

独アナトリア鉄道会社、オスマン帝国からバグダッド鉄道敷設権を正式獲得。ドイツ帝国主義の3B政策実現の道を開拓。

12月24日

山東巡撫毓賢、離任1日前のこの日、神拳リーダ朱紅灯・本明和尚・千清水、処刑。

12月24日

子規庵で恒例の蕪村忌句会(第3回)


「十二月二十四日の日曜日は、恒例の蕪村忌句会であった。大阪からは青木月斗が、静岡からは加藤雪腸が前日に上京、子規庵に泊った。青木月斗は、その妹繁栄が翌明治三十三年秋に碧梧桐と結婚する人である。

蕪村忌句会当日の客の数は予想以上であった。これも「ホトトギス」の手柄であろうか、なんと四十六人におよんだ。

根岸の借家は、病間六畳、居間八畳に加えて、律の部屋四畳半、八重の部屋三畳、合わせて二十一畳半である。玄関先の二畳分を加えても二十三畳半、襖と障子をすべてとり払って座したが、それでも一畳に二人の集配となって、まさに身の置きどころがない。このうえに立ち働く律と八重がいるから合計四十八人、借家一軒に詰めこんだ数としては記録であろう。・・・・・

(略)

毎年、この日にあわせて大阪の水落露石から送られてくるはずの天王寺蕪が延着した。やむを得ず八重と律は急遽近所で蕪を買い集めて風呂吹にしたてた。しかし相手が四十六人ではたまらない。ひとりに一片ずつあてがうのがせいぜいであった。」(関川夏央、前掲書)

耕烟、芹村、鳴球、青々、虹原、白浜、藜杖、豊泉、世南、燕洋、森堂、月兎、梅影、道三、一五坊、塵外、四方太、松舟、鳴雪、碧梧桐、李坪、文漪、三子、牛伴、抱琴、鬼史、奇北、格堂、翠竹、雪腸、繞石、潮音、秋蘭、肋骨、潮花、虚白、孤雁、子規、紫人、春風庵、蘇山人、墨水、耕村、虚空らの俳人と、他に不折、圭岳、三允、碧童、秋窓、巴子、義郎、春渓ら参加。鳴雪、四方太は、床の間に上らなくなる。風呂吹きが振るまわれ、句会の後に、みんなが集まって庭で写真を撮り、夜9時に散会。

蕪村忌散会後、碧梧桐、助骨、牛伴、李坪、梅影、雪腸らは、上野にて小懇親会を催しました。

   蕪村忌におくれて蕪とゝきけり(明治32)

   蕪村忌に呉春が画きし蕪哉(明治32)

   蕪村忌の寫眞寫すや椎の陰(明治32)

   蕪村忌の人あつまりぬ上根岸(明治32)

   蕪村忌の日も近つきぬ蕪漬(明治32)

   蕪村忌の日も近よりぬ蕪漬(明治32)

   蕪村忌の風呂吹くふや四十人(明治32)

   蕪村忌の風呂吹足らぬ人數哉(明治32)

翌年1月10日発行の「ホトトギス」『消息』に「昨年末廿四日弊盧における蕪村忌の盛況は別項記する所の如くに候」とある。

坂本四方太の『思い出づるまま』には

「卅二年の蕪村忌などは無慮四十六名という会合であった。子規子もこの盛況を見て甚だ満足らしく、床の上に起き直って何呉と指図をしておられたが、僕に向って秘かに、いつまでこの盛況が続くだろうかといわれた。思へばこの時程子規子(病中の)の元気なことはその後またとなく、集会の盛なこともこの時に越したことがないのを見ると、強ち子規子の杞憂ばかりでもなかった様だ」とある。

碧梧桐の『子規の回想』「蕪村忌」には、

「第三回、即ち明治三十二年の時は、最も盛大を極めた時で、子規自ら筆をとり、……午後一時写真を写さんとて皆屋外に出づ・・・・・家に入りて午餐を喰う。嘉例の風吹五十きれ、一人一きれづつ配りて、僅に十きれを余す、蓋し未曾有の盛会なり。運座句成て鳴雪翁例によりて朗読す。床の間に立上って、一座高うはござりますれど、と呼ぶ。衆笑ふ。選句は特に総匂数の二十分の一として二十句を選ぶ事に定めしも、猶選句朗読は点灯後に始まりぬ……。と当時の模様を報じている。この時、子規はもう足が立たなかった。それでも是非写真にくわわりたいというので、やっと縁側まで這い出して来たのを私が負って行った。言うまでもないことであるが、背中に負った気持は、如何にも軽かった。縁側から写真の座席まで、ほんの十歩位、時間にして三分とはかからなかったであろうが、説明し難い妙な感触が私の背柱に残っている。

 初め縁側へ這い出した時、誰彼と物色することなしに、「オイ秉さん」と私を手招きした「エ、何ぞな」、それまで、写真を撮る位置などを選定していた私はこう答えて、子規の側へ行った。手真似で負えという。背を向けて、手が肩に来た時、さも重い大事な物を負い上げるように、両手をうしろに延ばしながら、注意深く腰を上げたが、さも空うな葛篭を背負ったように力ごたえがしなかった。ひょろひょろ前ヘのめるようであった。私は低い鶏頭や小菊などを跨いで、中央の座席へ下しながら「随分軽いな」「そんなに軽いかナ」一言二言とりかわして、また大勢の整理にかかった。が、頬のあたりに感じた子規の息吹きと、肉体のほの暖か味の骨から髄に滲む込む、言い知れぬ感触を忘れることは出来なかった。

 妙な言い様であるかも知れないが、師であり兄であり友であった子規は、同時にまた我々の同性愛的恋人でもあった。恋人の肉体に初めて触れる、そんな気持ちからの悦びも包まれていたのであろうと思ったりした。子規に一笑に付されそうな、また読者にも一笑に付されそうな、こんな追憶を書く私は矢張り年老いたのであろうか。」(河東碧梧桐 子規の回想 蕪村忌)とある。


ただ、露石の蕪は当時の運送事情のために、蕪村忌には届かなかった。子規の手紙に「去る廿六日蕪到着。難有御礼申上候。ただ蕪村忌に後れ候は残念に存候」とある。そのため、急いで蕪を用意しなければならなかった。京都の中川四明より千枚漬けが届いており、会に彩りを添えた。四明へのお礼の手紙に「名物蕪漬御恵投被下候大由難有御礼申上候。蕪村忌の日も近づきぬ蕪漬」と子規は書いている。


12月25日

尾崎一雄、誕生。

12月16日

~28日。大杉栄(14)、愛知県中島郡一宮町と丹羽郡犬山町への修学旅行に参加

12月26日

子規、中村不折の新築の画室開きに参加。


「十二月二十六日、中村不折が住居を兼ねた画室を新築したので、画室開きの祝宴に酒一升と闇汁用の野菜を律に持たせ、子規自身は湯タンポをかかえて車で移動した。これが明治三十二年の十一回目、最後の外出であった。

といっても、不折の家は子規庵からわずか二百メートルほどである。会したのは羯南、鳴雪、飄亭、虚子、碧梧桐のほか、洋画家浅井忠と、その工部美術学校以来の画友小山正太郎であった。

(略)

中村不折は、永らく間借りのひと間で暮らし、そこで絵も描いていた。それがいまは画業だけで小なりとはいえ新居を建てた。のみならず、燈炉は入れてもらったものの、燃料の石油代金をどうしようかと思案に暮れていた子規のもとへ、石油ひと缶を届けてくれた。そして、爾後の石油代は自分が持つというのである。」(関川夏央、前掲書)

12月27日

袁世凱、「義和拳匪を査禁する告示」。義和拳解散を説得。清朝は、袁に兵力に頼らないよう指令。

12月30日

光緒帝の廃位の陰謀。大学士徐桐・軍機大臣啓秀・前吏部尚書崇綺(71、同治帝の父)、皇太子を立てる計画(=光緒帝退位)を大学士栄禄に相談。

1月24日、西太后、午前会議を召集。

12月31日

肥城県毛家舗、イギリス人宣教師ブルーク、逮捕、脱走し再逮捕、斬首殺害(1897年11月1日ドイツ人ニース、ホイレ両神父殺害以来初めて)。


漱石のこの年の句作〉


「漱石はこの年もよく旅行している。一月には宇佐八幡宮、羅漢寺、耶馬渓、守美温泉。大石峠を降りるときは、馬に蹴られて雪の中に倒れたりした。日田、久留米。八月には後半の作品「二百十日」の材料となった阿蘇へ。「阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ」二句もある。これらの旅行で詠んだ俳句は、すべて「子規へ送りたる句稿」に入っている。漱石は子規に、旅行く先とその感動を報告しているようである。

一月(耶馬渓方面への旅行で詠んだ俳句を中心に)句稿三十二 七十五句

二月(「梅花百五句」として)句稿三十三 百五句

九月(阿蘇旅行での句を中心に)句稿三十四 五十一句

十月(熊本高校秋季雑咏として)句稿三十五 二十九句 これが「子規へ送りたる句稿」の最後となった。漱石が松山で子規に送った句稿六百三十四句、熊本から送った句稿八百六句、計千四百四十句になる。『漱石全集』一七巻に収録されている句数二千五百二十七句のうち、約六〇パーセントが、子規に送った句稿ということになる。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))

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