2025年4月7日月曜日

大杉栄とその時代年表(458) 1903(明治36)年10月5日~8日 「万朝報」も開戦論に転換 この日(10月8日)、夜勤の堺が夕刻に出社すると、地方版が刷り上がってきた。そこには、大きな見出しで『萬朝報』は開戦を主張するという短い宣言文が載っていて、明らかに社長の黒岩涙香が書いたものだった。昼間の編集の締め切り後で、涙香がそこだけを差し替えさせたのだ、と堺は直感する。、、、、、

 

黒岩涙香

大杉栄とその時代年表(457) 1903(明治36)年9月24日~10月4日 「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」、戦時報道体制を築く検討を始める。 通信網の整備、戦時通信任務規定、戦時通信員給与規程、戦時通信賞恤規程、特派記者の選定など より続く

1903(明治36)年

10月5日

対露同志会大会開催。

10月5日

(漱石)「十月五日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。夜、寺田寅彦来る。十五夜。」

寺田寅彦と高浜虚子、時々訪ねて来る。ある時、鏡は寺田寅彦と高浜虚子に向って、漱石の機嫌が悪いことを訴え、何処かに引っ張り出して欲しいと依頼されていたからとも想像される。「寺田寅彦日記」に記されている限り寺田寅彦が漱石を誘い出したのは、これが初めてである。明治三十八年一月四日(水)に、寺田寅彦は、高浜虚子・寒川鼠骨と共に、漱石を本郷座まで誘い出したが、満員で「牡丹」(連雀町)で家鴨を食べている。また、八月二十七日(日)には、鈴本亭に落語を聞きに行ったが、満員で浅草公園に行く。八月二十九日(火)には若竹亭で、義太夫を聞いている。鏡からの依頼で誘い出したものとも受け取れる。だが、明治三十七年末以後は『吾輩は猫である』そのほか、創作に熱中するようになったので、機嫌の悪い時期を脱していたと想像される。寺田寅彦が、漱石を連れ出したのは必ずしも漱石の気晴らしのためだけであったとはいえない。青陽楼(下谷区上野元黒門町二十五番地、現・台東区上野二丁目)は西洋料理店で、不忍池畔にあり、三階建で眺望奇なりといわれる。」(荒正人、前掲書)

10月5日

永井荷風、カナダに到着。まず、ヴィクトリア港沖合いで一夜を明かした。


「ヴィクトリア港の燈火天上の星と相乱れ月中異郷の山影は黒く怪物の横るに似たり。鳴呼余の身は遂に太平洋の彼岸に到着せるなり」(『西遊日誌抄』)。


荷風はシアトルを経て、10月10日にタコマの下宿に落ち着く。語学の稽古にハイスクールへ通った。

10月6日

日露交渉(小村=ローゼン第1回会談)開始。

30日、満韓交換の線で日露協商確定修正案纏まる(満州は日本の特殊権益外、韓国はロシアの特殊権益外、満韓境界50kmを中立地帯とする)も、12月11日.ロシア政府の反対、決裂。

10月6日

『東京朝日新聞』、10月6日「朝鮮扶植と其経営」において、「朝鮮国家をして文明国の伍伴に列して、遜色なきに至らしむるの事業は、朝鮮扶植の大義を唱へしと同時に我国民の双肩に懸る一大負担なり」と韓国の「文明化」を日露開戦の根拠とした。

10月6日


(漱石)「十月六日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。(「『マクベス』の人気はたいしたものだ。一般講義で一躍して文科大學第一の人気者になられた夏目先生は『英文學概説』に於ても次第に人気を得られるやうになった。」(金子健二『人間漱石』))

十月八日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。」(荒正人、前掲書)

 

10月7日

フィリピン、公有地法制定。

10月8日

日清両国間の追加通商航海条約調印。奉天大東溝の開放を清国承認。1904年1月11日批准交換。

10月8日

菅野須賀子(22)、反戦小説「絶交」(「基督教世界」第1050号掲載)。

宇田川文海の紹介で「大阪朝報」に入社、「絶交」を書いたときは三面主任。

この年、大阪婦人矯風会へ入会し、半年後には文書課長に推薦され、矯風会講演会で島田三郎に、社会演説会で木下尚江らに面会、感激している。さらに、天満教会で長田時行牧師から受洗していることなどが「絶交」の書かれた背景にはあり、作品と無関係ではない。

10月8日

この日、ロシアの第3期撤兵期限の日

政府系「東京日日新聞」以外の諸新聞は一斉に主戦論主張。政府に最終決断を迫る。

非戦論は黒岩周六「万朝報」、島田三郎「東京毎日新聞」、地方の「滋賀日報」「牟婁新報」、雑誌では社会主義協会機関誌「社会主義」(片山潜)、「六合雑誌」。

「万朝報」もこの日夕方、開戦論に転換(進歩党系の円城寺天山にひきずられ、黒岩社長も営業政策上、これに同意)。

内村鑑三はキリスト教徒の立場で、幸徳秋水は社会主義者の立場で、この年以前から『萬朝報』紙上に非戦論を発表し、当初は社主の黒岩涙香も非戦論を支持していた。しかし、同紙記者の円城寺清や松井柏軒(本名・広吉)は対外硬に近い立場で、主戦論を支持していた。

非戦論が世間から非難されはじめると、『萬朝報』は部数を減らし、ライバル紙は願ってもないチャンスとばかりにますます刺激的な記事で読者の愛国心を煽り、ロシアへの敵悔心をかきたてていく。政府の弱腰を罵り、ロシアと戦おう、と威勢よく叫ぶほうが大衆には受ける。戦争への熱狂的な支持が生まれてくると、その悲惨さを語ることや、負ける可能性などはかき消されてしまう。宗教界でさえごくわずかな例外を除いて日露戦争に賛成し、信者たちを戦場へと駆り立てた。

円城寺らに強硬に迫られた黒岩涙香は、ついに社主として経営を優先することを決意する。非戦論の最後の牙城とみなされていた『萬朝報』も、主戦論に転じた。

社説「最終の期日」

「第二次撤兵の約を違へて(中略)却って増兵の暴を」行なったので、撤兵を行なうかどうかは「大なる一疑問也」として、「平和に眷々たる我れを以てするも、決然として起ち、彼れに対して執るべき手段に就きて、最終の決定を下すべき時にあらずや」と迫る。

円城寺天山の論説「戦は避く可からざるか」


「吾人は我国忠良なる良人の一部として、五千万と共に熱心なる平和の希望者なり。吾人が如何の心事をもって平和を希望するかは、世の諒するところなるペし。

しかれども今は風雲ようやく急にして、戦のあるいは避く可からざるものあらんとす。事すでにここに至る。吾人は当局者の無能、能く平和を樽俎(そんそ)の間に維持しえざることを責めざるべし・・・」


この日、夜勤の堺が夕刻に出社すると、地方版が刷り上がってきた。そこには、大きな見出しで『萬朝報』は開戦を主張するという短い宣言文が載っていて、明らかに社長の黒岩涙香が書いたものだった。昼間の編集の締め切り後で、涙香がそこだけを差し替えさせたのだ、と堺は直感する。幸徳秋水はこの日、昼の仕事を終えてから社会主義協会主催の社会主義非戦論大演説会(神田青年館)に出かけているが、もしこの宣言文を知っていれば、黙って出かけるはずがない。

堺が演説会場である神田青年館へ行くと、幸徳秋水、安部磯雄、片山潜、西川光二郎、木下尚江らの弁士がそろっていて、みな『萬朝報』の態度の急変に驚いた。

演説会終了後、堺は秋水と共に自転車で秋水の家に行き、ほとんど徹夜で話し合って朝報社退社を決めた。

翌9日朝、2人が自転車で内村鑑三の家を訪れて退社の決意を告げると、内村も退社より他はないという意見であった。

3人はその日午前に黒岩涙香に面会して退社を申し出た。

黒岩涙香は3人をなだめ、留任してほしいと熱心に頼んだ。一種の騙し討ちをして主戦論に鞍替えしたわけだが、3人が泣き寝入りしてくれるのではないか、と考えていたのだろう。同席していた円城寺も、自分が退社するので3人は残って社長を助けてくれと言った。しかし、既に新聞に発表したことなので、やはり自分たちが辞めるのが順当だと秋水が力説し、涙香もあきらめて退社を承認した。

翌10日、堺は2ヶ月分の月給を受け取り、4年余り勤めた朝報社に別れを告げた。

この日、内村鑑三は家に帰って、「聖書之研究」を続刊できるかどうかと、妻シズ子に相談すると、彼女は3ヶ月は持つと言う。鑑三は餓死するようなことがあっても「聖書之研究」は続けようと覚悟する。すると、ドイツのスツットガルトの書店から、旧著「余は如何にして基督信徒となりし乎」のドイツ訳版初版3千部の印税1千マルクが送金されてきた。その上、この出版が動機となって、出版者の息子が、宣教師として日本へ派遣されるという嬉しい便りも届く。

師岡千代子『風々雨々』によれば、『萬朝報』を去る際、秋水は妻の千代子に今後の生活がいかに苦しくなるかを語り、厳粛な面持ちで覚悟を要求したという。

堺の場合は、病気が完治していない妻と、その年に生まれたばかりの娘を抱えての失業であり、秋水以上に悲痛な決意をしていたはずである。


つづく

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