2025年5月27日火曜日

大杉栄とその時代年表(507) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その4終) 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」(漱石の日記(1901(明治34)3月15日))

 

漱石の日記(1901(明治34)3月15日)

大杉栄とその時代年表(506) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その3) 「固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)といふ目的ある以上は、金を得る為めにと云ふも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を慈まにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては竜も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を洒養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず」(「中学改良策」) より続く

1904(明治37)年

5月10日 

漱石「従軍行」について(その4終)

▼1895(明治28)11月13日付け子規宛て手紙

「近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」ど書く。

反日親露派の専横な王妃が暗殺され、親日政権ができたことを、日本にとって「ありがたき」「出来事」と感じていた。当時の新聞の虚偽報道や彼自身の朝鮮認識の浅さが見て取れる、

▼1901(明治34)3月15日 ロンドンの漱石


「三月十五日(金)、日本人は中国人といわれると嫌がる。中国人は日本人よりも遥かに名誉ある国民である。現在は不振である。日本人と呼ばれるよりも、中国人と呼ばれるほうが名誉だと思ったほうがよいと記す。(「日記」)」(荒正人、前掲書)


3月15日 この日付け漱石の『日記』。


「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ

▼1901(明治34)3月27日 ロンドンの漱石


「三月二十七日(水)、 Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊している常陸丸の立花銑三郎より手紙あり、病気帰国の途中なので直ちに見舞う。容態悪い。立花銑三郎と同船の医学士望月淳一と渡辺雷を British Museum (大英博物館)と National Gallery (ナショナル・ギャラリー)に案内する。夜、渡辺雷来る。(立花銑三郎のことをさらに話したものと思われる)領事館の諸井六郎(推定)が examiner (試験委員)の件で来訪する。」(荒正人、前掲書)


3月27日 漱石、ドイツへ留学していた旧友立花銑三郎をアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に見舞う。日記には「気の毒限ナシ」とある。


「・・・・・立花銑三郎は肺を病み、帰国中の常陸丸からその旨を知らせてきた。漱石はすぐにアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に彼を見舞った。どう見ても重病で、立花はその後、香港を出てすぐに船中で死亡した。ドイツで立花と親しかった藤代素人(禎輔)の回想「夏目君の片鱗」に、立花の句として真偽不明の話が残っている。おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「立花銑三郎は、常陸丸で Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊中に芳賀矢一に手紙を出す。そのなかに、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」という句を書き添えている。日本とロシヤの戦争が近いことを知り、ロンドンに来ている日本人の生活を皮肉ったものと思われる。(藤代禎輔(素人)「夏目君の片鱗」『漱石全集』月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)

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"▼1901年04月09日付け子規宛て手紙(「倫敦消息其一」(「ホトトギス」5月号))


日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵ふちに誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上ってくる。」


「西洋の新聞は実にでがある。始からしまいまで残らず読めば五六時間はかかるだろう。吾輩はまず第一に支那事件のところを読むのだ。今日のには魯国新聞の日本に対する評論がある。もし戦争をせねばならん時には日本へ攻め寄せるは得策でないから朝鮮で雌雄(しゆう)を決するがよかろうという主意である。朝鮮こそ善い迷惑だと思った。


▼1902年3月15日付け岳父中根重一宛て手紙

ロンドンでは、日英同盟締結に尽力した林董公使の労を謝するために在留日本人たちが記念品を贈呈することになり、寄付金が徴収された。漱石も5円の寄付金を納める。漱石は、本国やロンドン在留の日本人が、日本もこれで西欧列強の仲間入りを果たしたと考えて喜んで浮かれている事大主義や成上り根性に、嫌悪を覚えていた。。


「三月十五日(土)、中根重一宛手紙に、計画している著書の具体案洩らす。「先づ小生の考にては『世界を如何に観るべきやと云ふ諭より始め夫より人生を如何に解釋すべきやの問題に移り夫より人生の意義目的及び其活力の變化を論じ次に開化の如何なる者なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其聯合して發展する方向よりして文藝の開化に及す影響及其何物なるかを諭ず』る積りに候」。日英同盟・西洋文明・キリスト教・フランス革命などにもふれ、「カールマークスの所論の如きは單に純粋の理窟としても缼點有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは當然の事と存候」。なお前年に続いて、「日夜讀書とノートをとると自己の考を少し宛かく」とも書く。」

「漱石は、 Marx の『資本論』を日露戦争以前に読んだ極めて少数の一人である。但し、全巻ではなく、第一巻だけであったと推定される。池田菊苗から数えられたものではないがと推定される。池田菊苗は、 Leipzig (ライブチッヒ)に留学していた頃、人類について根本的な勉強をしたいと思っていた。長男の池田醇一は、父親(菊苗)が社会主義者であったこと、三男の池田兼六は帝国大学の学生時代に、『資本論』第一巻を読んだが、論旨が自分の思想と余り違うので、最後まで読まなかったことを伝えている。また、長谷川如是閑は、明治三十三年から三十四年にかけて帝国図書館で、英訳『資本論』及びエンゲルス『空想的及び科学的社会主義』を発見し読んでみたが、極めて難解であったという。」(荒正人、前掲書)

この日付け漱石の岳父中根重一宛て手紙

前半部分で、在留邦人たちの浄財を集める計画のもと、無理やりに5円を寄付させられたことを怒っている。非国民ともいわれかねない意見。そして世界一の大国イギリスとアジアの小国日本の同盟に狂喜している日本人の軽率な姿を「貧人と富家の縁組」と嘆いている。

自身の計画する著書の具体案を「世界を如何に観るべきやといふ論より始め」ると記す。


「(前略)日英同盟以後、欧州諸新聞のこれに対する評論一時は引きもきらざる有様に候ひしが昨今は漸く下火と相成り候ところ、当地在留の日本人ども申合せ林公使斡旋の労を謝するため物品贈与の計画これあり、小生も五円程寄附いたし候。きりつめたる留学費中ままかくのごとき臨時費の支出を命ぜられ甚だ困却いたし候。新聞電報欄にて承知致候が、此同盟事件の後本国にては非常に騒ぎ居候よし、斯の如き事に騒ぎ候は、恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん。

固より今日国際上の事は、道義よりも利益を主に致し居候へば、前者の発達せる個人の例を以て日英間の事を喩へんは、妥当ならざるやの観も有之べくと存候へども、此位の萌に満足致し候様にては、甚だ心元なく被存(ぞんじられ)候が如何の覚召にや。

「国運の進歩の財源にあるは申迄も無之候へは、御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩は、此財源を如何に使用するかに帰着致候。只己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、只財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は、明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。此不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、若くは無教育に終らしめ、却つて平凡なる金持をして愚なる主張を実行せしめる傾なくやと有候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、且耶蘇教の随(ママ)性と仏国革命の殷鑑遠からざるより、是等庸凡なる金持共も利己一遍に流れず、他の為め人の為に尽力致候形跡有之候は、今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にて之と同様の境遇に向ひ候はゞ(現に向ひつゝあると存候)、かの土方人足の智識文字の発達する未来に於ては由々しき大事と存候。カールマークスの所論の如きは、単に純粋の理窟としても欠点有之ぺくとは存候へども、今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へども、一寸気焔が吐き度なり候間、斯様な事を申上候。「夏目が知りもせぬに」抔と御笑被下間敷候。・・・・・」

「漱石はマルクスの『資本論』を日露戦争前に読んだ極めて少数の一人、但し、第一巻だけであった」(荒正人『漱石研究年表』、岩上順一『漱石入門』など)との推定もあるが読んだ確証はない。漱石の蔵書中の英訳『資本論』には、漱石のよくやる書込みやアンダーラインなどは認められていないので、漱石のマルクス所論言及は、「関係文献からの間接的知識によると考えた方が自然」(藤尾健剛「漱石とクロージャーとマルクス」)ともいわれている。

漱石蔵書の『資本論』には、漱石がよく古本を購入したロンドンのチャリング・クロス通りの書店ミラー・アンド・ギルのラベルが貼付されており、池田菊苗と議論していたころ買い求めたとも考えられる。

▼1902年6月8日の漱石「ノート」

ボーア戦争(南アフリカへの帝国主義戦争)終結を祝うイギリスを見て

全国ノ寺院ニテ thanksgiving ヲ行フ自ラ戦端ヲ啓(ひら)キ自ラ幾多ノ生命ヲ殺シ、自ラ鉅万(きよまん)財ヲ糜(ついや)シ而シテ神二謝ス何ヲ謝セントスルヤ馬鹿々々シキコトナリ。

と不快な思いを吐き出す。

▼漱石は、前年(明治36年)9月から大学で『英文学概説』(のち『文学論』1907年刊)を講じていた。

その第1編第3章で次のように述べる。


「親の為めに川竹に身を沈め、君侯の馬前に命をすつるは左迄難きことにあらず、親は具体的動物にして、君侯は耳目を具有し活動する一個人なるを以てなり。されども身を以て国に殉ずと云ふに至りては其真意甚だ疑はし。国は其具体の度に於て個人に劣ること遠し。これに一身を献ずるは余りに漠然たり。抽象の性質に一命を賭するは容易のことにあらず。若しありとせば独相撲に打ち殺さるゝと一般なり。故に所謂かく称する人々は其実此抽象的情緒に死するにあらず、其裏面に必ず躍如たる具体的目的物を樹立しこれに向って進み居るものとす。」


人が「身を以て国に殉ず」というとき、「其真意甚だ疑はし」い。なぜなら、人工的な統治機構である「国」という「抽象の性質」のものに命を賭けるのは容易なことではないからで、彼はこのような表現によって、政府やマスメディアが個人に殉国を強いることを批判した。


つづく



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