ヒマラヤヒザクラ 北の丸公園 2014-03-24
*治暦2年(1066)
この年
・この頃の成立といわれる『明衡往来』に納められた「前将軍平」某と参議藤原某の間の往復書簡。
参議某は長谷寺に詣でようとして、途中の奈良坂に盗賊が出るのを警戒し、「武備」として「精兵一人」の発遣を請い、前将軍は精兵というほどではないがと断りながらも、「重代の名物」として「すこぶる一人当千といふべき」兵1人の貸し出しに応じている。
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・東ローマ、アプーリアへの攻撃開始。
ロベール・ギスカールに対するアプーリアのノルマン諸侯反乱(1064年4月~1068年)軍、東ローマと手を結ぶ。
東ローマ、ブリンディジとターラントを取り返し、カステラネータまで侵攻。
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・カープア候リカルドゥス1世、北への領土拡張の一環としてローマに進軍。
教皇アレクサンデル2世、皇帝ハインリヒ4世に援助を求めるが実現せず。
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・1066年のスラブ人の大反乱。
スラブ人のキリスト教化を進めていたオボリート候ゴトシャルク、スラブ人により殺害。
聖職者・信者、殺害。
ゴトシャルク息子ブチュエも殺害。
ザクセンの上級支配者の関心はキリスト教伝道よりも戦争による略奪、改宗者への租税にあった。
反乱過程で、租税と引換えに異教徒を放置する政策に転換。
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・契丹が国号を再び遼にする
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1月
・ノルマン公ウィリアム、イングランド侵攻を決意。
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・一旦宮廷を離れたケルン大司教アンノ、マインツ大司教・ザルツブルク大司教・南ドイツ諸大公と大同盟。
ブレーメン = ハンブルグ大司教アダルベルトを宮廷より追い落とす。
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1月5日
・イギリス王エドワード(懺悔王、証聖王、64)、没(1002?~1066、位1042~1066)。アングロサクソン系16代イングランド王。実子なくヘイスティングの戦いの契機となる。
6日、エセックス伯ハロルド・ゴドウィン(エドワード証聖王外戚)、イングランド王に戴冠。
ハロルド2世(44?、在位 1066)、賢人会議(ウィタン)で国王選出即位(カンタベリ大司教スティガント)。
ハロルド2世即位に異議申し立て(ノルマンディ公ウイリアム、ノルウェー・デンマーク王ハーラル・ハードラーダ、ハロルドの弟トスティイ)。
1065年、ノーサンブリア伯トスティイ、ノーサンブリア人の反乱により追放、ノーサンブリア人はマーシア伯エドウィンの兄弟モーカを招きノーサンブリア伯にする。
ハロルドは、ノーサンブリア人とトスティイの仲介に当たるが、トスティイ支持に消極的で、モーカがノーサンブリア伯として認められる。
トスティイは亡命を強いられ、兄を恨む。
トスティイは水軍を擁してイングランド南岸を荒らし回り、更に北上して各地の寇略するが、エドウィンとモーカの兄弟軍に破れ、スコットランドに敗走。
ここでノルウェー王ハーラル3世苛烈王軍と合流。
トスティイの反乱の背後にはノルウェー王がいる。
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2月
・新イングランド王ハロルド、ヨーク進軍。
ハロルド王、モルカール伯の妹アルドギーサ(グリューフィド・ウェールズ王未亡人)を見初め結婚。
4月ロンドンへ帰る。
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・ハロルド王の弟トスティ卿、イングランド南部を荒らす。
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2月14日
・源信房を若狭守に任じる。
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3月6日
・暁、彗星東方に現る。
4月1日、酉刻、彗星西方に見ゆ。
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4月8日
・地震あり。
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4月24日
・~30日、イングランド、大彗星出現。
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5月
・宋商人王満が霊薬を献上するも、天皇の病は悪化
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・フランドル亡命のハロルド王の弟トスティイ、イングランド南東部のケント、サンドウィッチを攻撃。
スコットランドに逃亡、マルカム3世の許に亡命。
(船60隻でイングランド東海岸を北上、リンカーンシャー(リンジ)を掠奪。マーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカ兄弟により撃退)
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6月18日
・ノルマン公ウィリアム妃マチルダ、カーンの町に聖トリニティ教会建立奉献
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7月
・ノルウェー王ハラルド・ハードラダ(ハラール3世)、ヴァイキング船団をソルンド島に集結
北のスコットランドにはハーラル3世苛烈王とトスティイが、南のノルマンディーにはノルマンディー公ギョームが、イングランドを狙う。
ハロルドにとって、前門の虎、後門の狼。
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7月2日
・流人の源頼資、静範など、許される。
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9月
・イングランド王ハロルドの弟トスティ卿、フランダースのボールドウィン辺境伯の支援でノルウェー王ハラルド・ハードラダ(ハラール3世)軍団と合流、連合軍組成。
6日、ハラルド・ハードラダ軍団、スコットランドのフォース湾へ入港。
スコットランド王マルコム3世との同盟不成立。
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9月8日
・(聖母マリア誕生祭)イングランド王ハロルド、兵役期限切れになった艦隊を解散、農民兵を解役。自分はロンドンに帰還。
(イギリス王ハロルド、①ノルマンディ公ウィリアム、②ノルウェー王ハラルド・ハードラダ、③弟のトスティヒの攻撃に備えて、ノーサンブリア伯モーカーとマーシア伯エドウィンに北の防衛を託し、自らはワイト島に艦隊を集結、司令部設置、南部の兵を動員してイギリス海峡沿岸地帯の防御を固める)。
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9月12日
・ノルマン公ウィリアム(ギヨーム)、遠征軍をサン・ヴァレリ・シュル・ソンム港に移動させる。
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9月18日
・ノルウェー王ハラルド・ハードラーダ(ハラール3世)、イギリスに上陸。
ハードラダ王・トスティ卿連合軍、300隻の大水軍でヨーク平野のハンバ川及び支流ウーズ川を遡上。
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9月19日
・イングランド王ハロルド、軍団をロンドンに集結、直ちに北進
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9月20日
・ゲート・フルフォードの戦い。
ノルウェー王ハードラダとトスティ卿連合軍、イングランド北方ヨーク南郊フルフォードの戦いでイングランド軍(ノーザンブリア伯モーカ(モルカー)とマーシア(メルシア)伯エドウィン兄弟の同盟軍)を撃破。
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9月23日
・ノルマン公ウィリアム、イングランド王ハロルド軍団ヨークへ北進の情報入手
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9月24日
・イギリス王ハロルド、ヨーク近郊のテェトキャスターに到着。
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9月25日
・スタンフォード橋の戦い。
ヨーク近郊ダーウェント河畔、イングランド王ハロルド軍団、ノルウェー王ハードラダ(51)とトスティ卿連合軍を急襲、大勝利。
ハードラダ王・トスティ卿敗死。
9世紀以来、2世紀余にわたるデーン人との最大で最後の戦い。
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9月27日
・夜、ノルマン公ウィリアムと異父弟バイユー司教オドー、サン・バレリー港出航(800隻、7~8千)。
28日、イングランド南部ペヴンジーに無血上陸。
29日、ヘイスティングズ占領。
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10月1日
・イギリス王ハロルド、ノルマンディー公ウィリアム上陸の報を受け、翌日、ロンドンへ向かう。
6日、ハロルド軍、ロンドンへ到着(ヨークシャー~ロンドン約300km、1日40kmの強行軍)。
11日、ヘイスティングスへ向けて出発。
13日、ロンドンに向かう為の通過地点・センラック丘を確保し布陣。
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10月14日
・ヘイスティングズの戦い。
ノルマン公ウィリアム軍、南下したイングランド王ハロルド2世軍とヘイスティングスの北方センラックで戦い、圧勝。
ハロルド王敗死。イギリスがノルマン人の支配下に入る。
フランクの騎士より「馬上の突撃戦術」を学んだ「ノルマン騎兵」がアングロ・デーン系の「歩兵」を征服。
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10月21日
・イングランド、ドーバー降伏。
29日、カンタベリー降伏
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11月
上旬
・ノルマン公ウィリアム、ロンドンへ侵攻
ノルマンディ公軍は南からロンドンに迫るが、ロンドンを守りエドガーを王に押すノーサンブリア伯モーカー、マーシア伯エドウィン、カンタベリー大司教、ヨーク大司教などイングランド有力諸候達により撃退。
ノルマンディ公ウィリアムはロンドンを迂回、ウァリングフォートでテームズ河を渡り、城を築く。
更に北上し、ロンドン北方を荒らし回り、ロンドンと北部の連絡を絶ちきる。
東西南をノルマンディ公軍に押さえられ、西は海しかなく、ロンドンは孤立。
ロンドンに籠もる諸候達はやむなく12月中旬頃、降伏。
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12月
・エドガー・エセリング新王とアングロサクソン貴族、バーカムステッドで降伏
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12月24日
・ノルマン公ウィリアム(ギョーム)、ウィリアム1世(征服王、位1066~1087)としてウェストミンスター・アベイで戴冠。
この後250年に渡りイングランド王はフランス王に対し臣従礼をとる。
ウイリアム1世はイングランド西部一帯に蔓延った反乱を押さえ、デーン人の侵入を防ぎ、1071年迄にはイングランド統一を果たす。
ノルマン・コンクェスト:
①フランス語流入。英語は文学の言葉としても姿を消す。12世紀末、文学の言葉として復活。14世紀後半、政治・裁判に復活。
②教会上層部、フランス人に交代。司教座、農村部の修道院から都市に移動。ノルマンディ様式の司教座聖堂、建設。
③フランス政治制度を移植。ウイリアムの本拠は「ノルマンディ」、イングランドは属領。
反抗したアングロ=サクソンの大土地所有者から領地を没収してノルマン貴族に分与し、王権主導型の封建制度を固める。
租税台帳・土地台帳としてのドゥームズデー=ブックを作成。
王権直属の貴族らが「王の会議」に列席するようになり、イギリス独特の議会政治の原型が生まれる。
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