2014年3月29日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(95) 「第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火-「ピノチェト・オプション」を選択したロシア-」(その3) 「議会の”反逆”に報復するべく、エリツィンはテレビ出演や非常事態宣言の発令によって皇帝の権力の回復を図る。」

ソメイヨシノ 代官町通り 2014-03-28
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(前回の最後)
アメリカの支援、ジェフリー・サックスの再度の登場
アメリカ政府はエリツィンのシカゴ・ボーイズを思想面と技術面の両方で支援するべく、民営化法令の起草からニューヨーク式の証券取引所の立ち上げ、投資信託市場の設計に至るまで、移行に関連する国内のさまざまな分野の専門家に資金を提供した。
1992年秋、米国際開発庁(USAID)と210万ドルの契約を結んだハーバード大学国際開発研究所は、ガイダルのチームを支援するため、若い法律家と経済学者から成るチームを派遣した。
1995年5月、ハーバード大学はサックスを同研究所の所長に任命。これによってサックスはロシアの改革期に、最初は自由契約でエリツィンの顧問に、次には米政府の資金によりロシアで活動するハーバード大学チームの監視役に、という二つの任務を負うこととなった。

わずか一ヵ月半の間に包括的な民営化プログラムと二〇件の規範的法律を書き上げなければならなかった
こうして自称革命家たちは、ふたたび徹底的な経済プログラムを作成するためにひそかに会合を重ねた。
主要メンバーのディミトリ・ヴァシリエフはこうふり返る。
「当初、職員は一人も雇っていなかったし、秘書だっていなかった。備品もなく、ファクスすらなかった。そんな状況で、わずか一ヵ月半の間に包括的な民営化プログラムと二〇件の規範的法律を書き上げなければならなかった。(中略)まったくもって現実離れしていましたよ」

ショック療法プログラム:価格統制廃止、貿易自由化、国有企業約22万5千社民営化(第一段階)
1991年10月28日、エリツィンはロシア人民代議員大会で演説し、「価格を自由化すれば、あらゆることがしかるべきところに収まる」と述べて、価格統制廃止の方針を打ち出した。
そして、ゴルバチョフの辞職から一週間後、エリツィン新政権の「改革者」たちは経済的ショック療法プログラム(三つの外傷性ショックの二つ目)に着手する。
ショック療法プログラムには、価格統制の廃止のほか、貿易自由化や国有企業約22万5千社の民営化(第一段階)も含まれていた。

意図された国民の驚き:
エリツィンの政策と国民の要望(協同組合、完全雇用)とのギャップ
「「シカゴ学派」のプログラムには国中が仰天した」と、経済顧問たちは回想するが、この驚きは意図されたものであり、突然、急激な変化を起こすことで抵抗を封じるという、ガイダルの戦略のうちだった。
彼のチームが直面したのは、民主主義の脅威による計画の妨害というお決まりの問題だった。
国民はロシア経済が共産党中央委員会に管理されることを望んでいなかったが、依然として富の再分配や、政府が積極的な役割を果たすのは良いことだと信じていた。
1992年の世論調査では、連帯を支持するポーランド国民と同様、ロシア国民の67%が共産主義国家資産民営化の公平な方法は労働者の協同組合だと考え、79%が完全雇用を維持することが政府の重要な役目だと考えていた。
もしエリツィンのチームが、すでに極度の混乱に陥っていた国民に不意打ちを食らわすのではなく、計画を民主的な討論の場にかけていたら、シカゴ学派式の改革は実行されることはなかったはずである。

自分のことしか考えられない疲れ果てた国民
エリツィンの顧問だったウラジーミル・マウの説明。
「改革にもっとも好ましい条件」は「それまでの政治的苦難に疲れ果てた国民」の存在だという。「だから政府は価格自由化を突施するに先立って、激しい社会的衝突は起こらないし、民衆の暴動によって政府が倒されることもないと確信していた」。
ロシア人の70%は、価格統制廃止に反対していたが、「国民というのは当時も今も、自分の畑の収穫量はどのくらいかだけを考え、一般に自らの個人的な経済状況だけを気にするものだ」と。

国民が団結する前に変化を起す
世銀チーフエコノミストであったジョセフ・スティグリッツの説明。
ショック療法を実施する人々を動かしていた心理は、「「移行期の混乱」によって生じた「またとないチャンス」に電撃戦をしかけること - 国民がそれまで手にしていた権利を守ろうとして団結する前に変化を起こす方法は、それしかない」。
まさにショック・ドクトリンそのものである。

市場ボルシェヴィキ
スティグリッツは急激な革命を志向するロシアの改革者たちを、「市場ボルシェビキ」と呼んだ。だが、もともとのボルシェビキが古い体制が崩壊したあとに中央計画経済国家を建設しようとしたのに対し、市場ボルシェビキは、利益を上げるための最適な条件さえ整えば、計画などしなくても国は自らを再建するという、魔法のようなことを信じていた(これと同じ考え方は10年後のイラクにふたたび登場する)。

わずか一年後、ショック療法の打撃は壊滅的なものとなっていた
エリツィンは大胆にもこう約束した。
「半年ほどは事態が悪化する」が、その後は回復に向かい、近い将来ロシアは世界で四本の指に入る経済大国になる、と。
だが、この「創造的破壊」とも言うべき論理がもたらしたのは、ごくわずかな創造と進む一方の破壊だった。
わずか一年後、ショック療法の打撃は壊滅的なものとなっていた。
インフレによる貨幣価値の急速な低下によって何百万というロシアの中産階級は老後の蓄えを失い、突然の補助金削減は、何百万人もの労働者を何ヵ月にもわたる賃金未払いの状態に追い込んだ。
1992年の平均的ロシア人の消費は前年比40%も減少し、貧困ラインを下回る生活を強いられる国民は全体の1/3に達した。中産階級は路上に机を置いて私物を売るところまで追い詰められていた。
シカゴ学派の経済学者たちは、これを資本主義の復興が進んでいることの証だと称賛した。家の家宝と古着のブレザーを一緒に並べて売るのは、まさに「起業家精神にあふれる」行為だ、という。

「実験はもうたくさん」
ポーランドと同様、ロシア国民も次第に自分たちの置かれた状況を認識するに至る。
彼らはこの残酷な経済の冒険をやめるよう要求し始めた(当時のモスクワでは、「実験はもうたくさん」という落書きがあちこちに見られた)。
選挙によって選ばれたロシア議会(エリツィンの権力掌握を支持したのと同じ議会である)は有権者からの圧力を受け、大統領とシカゴ・ボーイズの暴走を抑えるべき時が来たと判断。
1992年12月、議会はエゴール・ガイダル解任を決議、3ヵ月後の1993年3月には、エリツィンに付与した特別権限(大統領令により経済関連法を公布できる権限)の無効化を決議した。
こうしてエリツィンに与えられた猶予期間は終わりを迎え、惨憺たる結果が残された。
以後、法律を成立させるには議会での議決を必要とするという自由民主主義国ではごく当たり前の方法が取られ、ロシア憲法に規定された手順が採用されることになった。

皇帝の様にふるまうエリツィン
自らの権限の範囲内で行動した議員たちに対し、拡大した権力に慣れっこになったエリツィンは自らを「ボリス一世」と称し、大統領というよりまるで皇帝のように振る舞った。
議会の”反逆”に報復するべく、エリツィンはテレビ出演や非常事態宣言の発令によって皇帝の権力の回復を図る。

非常事態宣言は憲法違反との裁決
ところがその3日後、独立機関であるロシア憲法裁判所(ゴルバチョフが行なったもっとも重要な民主化の成果のひとつ}は9対3で、この非常事態宣言がエリツィンが自ら守ると宣誓した憲法に違反するとの裁決を下した。

この時点までは、「経済改革」と民主改革をロシアにおける同一のプロジェクトの一環として示すことは可能だった。
しかしエリツィンが非常事態宣言を出したことで、両者は相反するものとなり、エリツィンとショック療法を実施する人々は、選挙によって選ばれた議会と憲法に真っ向から対立することになった。

エリツィンを支持する西側諸国
西側諸国は、エリツィンを「自由と民主主義のために真に尽力し、改革のために真に尽力する」(ビル・クリントン米大統領)進歩主義者とみなし、彼を支持した。

ロシア議会議員を非難する西側メディア
西側のマスコミの大半も同様で、議会の議員たちを民主改革阻止を目論む「強硬派」とみなし、議会全体を悪者扱いした。
『ニューヨーク・タイムズ』紙のモスクワ支局長は、議員らが「改革に懐疑的で民主主義に無知であり、知識人や「民主主義者」を軽蔑するソ連的メンタリティー」にあるとこきおろした。

これら議院は、1991年の強硬派によるクーデターではエリツィンやゴルバチョフとともに立ち上がり、ソ連の解体に賛成票を投じ、最近までエリツィンを支持していた政治家である
1041人という議員数を考えれば、その数も多い。
にもかかわらず 『ワシントン・ポスト』紙は、ロシア議会の議員を「反政府」分子とみなし、政府の一員ではなく、まるで侵人者であるかのように書いた。
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