2014年3月1日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(63) 「三十四 浅草の「一味の哀愁」」 (その3) 「淺草オペラ館に至り踊子の大部屋に入りて雑談に時の移るを忘る」(昭和13年4月20日)  

北の丸公園 2014-02-28
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浅草のなかでも荷風がもっとも気に入った場所はオペラ館である。現在の六区交番裏の三角地帯を占めていたレビュー劇場である。
昭和6年12月に開館し、エノケンの劇団「ピエル・ブリリアント」(輝く宝石)が最初の興行を打った。しかし、昭和13年にエノケンが東宝と契約を結び浅草を去ってからは、シミキンこと清水金一が座長をしていた劇団「ヤバン・モカル」(”やっぱり儲かる”の意)の常打小屋になっていた。

昭和12年11月16日、
荷風は初めてオペラ館に行く。
「銀座不二地下室に飯して後今宵もまた淺草に往きオペラ館の演技を看る」。
次第に精彩を欠きつつある浅草の大衆演劇だが、荷風はむしろその拙ない舞台に共感を覚えた。

昭和13年に入るとオペラ館通いは日課のようになる。
ひとつの場所が気に入ると徹底してそこに通い続けるという、まさに「流連」と呼びたいような荷風のこだわりである。

昭和13年1月18日
「淺草オペラ館立見。今半に飯してかへる」

1月27日
「昏暮出でゝ淺草ちん屋に飯しオペラ館に少憩して銀座に行き不二地下室に入る」

2月7日
「オペラ館に少憩例の如し」
オペラ館通いが二ヵ月余ですでに「例の如し」と日常化している。

2月27日、
初めてシミキン(清水金一)に会う。
「誘はれて淺草に至りカツフヱージャポンに飲む。夜十一時川上と共にオペラ館の舞台稽古を見る。館主田代旋太郎作者堺某小川丈夫排優清水金一其他の人々と款話して二時ごろに帰る」

3月7日、
シミキンとは気が合ったのか、一緒に吉原に出かけ茶漬飯屋で「飲み又食ふ」。
3月以降、荷風はいよいよオペラ館に深く入る。

3月13日、
「夜オペラ館楽屋に至りヤジ屋の大谷といふ者の来るを待つ。ヤジ屋と称するは看客席より奇聲を發し俳優の演技を聲授するものを云ふ。五六年前最盛にして今は稍すたれたるなり」とオペラ館の”プロの観客”というべき「ヤジ屋」にまで興味を示している。
オペラ館の踊子たちとの仲も深まる。

4月20日
「淺草オペラ館に至り踊子の大部屋に入りて雑談に時の移るを忘る」

かつて築地住まいの頃、近くの若い芸者たちと華やいだ時を過ごした日々の再現である。
この年59歳になる荷風は娘のような踊子たちと楽しそうに付き合っている。同業の文学者たちには気難しく狷介な面を見せる荷風が、踊子たちには別人のような好々爺の顔を見せる。
戦後、荷風が浅草のストリップ小屋に通いストリッパーたちと親しく付き合うのも、この時代の良き思い出があったからだろう。

荷風執筆の浅草オペラ「葛飾情話」に出演した歌手の永井智子の回想によれば、この頃オペラ館の踊子たちはこんなことを言っていたという。
「写真を撮ってくれるおじいさんが毎晩のように来るのよ、お姉さんも撮して貰ったら。ただなのよ、そして時々森永で御馳走もしてくれるけどいやらしいことは少しもいわないし、しないのよ」(「歌劇『葛飾情話』上演まで」岩波書店『荷風全集』第十二巻月報、昭和38年)。

踊子たちは当初、永井荷風が何者であるか知らなかったようだ。荷風にとってはそれがよかったのだろう。

あまりにオペラ館の楽屋に足繁く通ったので、劇場関係者から「薬屋に出入し踊子女優を誘ひ食事に出るは甚世間体よろしからず」と苦言を呈されるほど(5月9日)。

浅草オペラ「葛飾情話」の台本執筆はこうしたオペラ館通いから生まれた。
作曲家の菅原明朗と銀座の喫茶店不二アイスで会い、茶飲み話をしているときにオペラ上演の話が持ち上がった。

このとき荷風は、菅原にオペラへの想いをこう語ったという。
「楽劇の創作は森先生の生涯の大きな望みの一つだったが、世の中はまだその時期に達していなかった。上田先生も同じ望みを持っておられたが、先生の存命中にも時はまだ来なかった。今私が其れに手をつけるには慎重な態度をとって、両先生の夢にそうものにしたい」(前出「歌劇『葛飾情話』上演まで」)

敬愛する森鴎外も上田敏も果せなかった”オペラの夢”をいま自分が実現するという気負いである。
荷風は米仏に留学した時によくオペラを見た。
とくにニューヨークでは、メトロポリタン歌劇場、カーネギー・ホールなどに足繁く通った。

「西遊日誌抄」から当時、荷風がニューヨークで見たオペラをいくつか拾い出してみると、ワグナー「トリスタンとイゾルデ」、プッチーニ「トスカ」、ワグナー「タンホイザー」、ヴェルディ「アイーダ」、ワグナー「ローエングリン」、ヴェルディ「リゴレット」、グノー「ファウスト」、ビゼー「カルメン」、ドリーブ「ラクメ」など30を超えている。
明治38年から明治40年にかけて、当時、ニュー・ヨークでこれほど熱心にオペラを見た日本人は荷風の他にはいないのではないか。

「日乗」大正12年1月、
「伊太利亜歌劇」が日比谷の帝國劇場で公演を行なったときも何度か通っている。
「帝國劇場にトスカを聴く」(1月28日)
「帝國劇場にトラヰヤタを聴く」(1月31日)
「帝國劇場にフォーストを聴く」(2月1日)

荷風のオペラへの想いは長く、深い。
それに加えて作曲家の菅原明朗はドビュッシイを始めとするフランスの現代音楽の日本への紹介者である
(「日乗」昭和18年11月25日には、菅原明朗から「ドビュツシイの詳伝」を借りたとある)。
慶應大学三田のカレッジ・ソング「丘の上」の作曲家でもある(作詞は青柳瑞穂)。

荷風にとって、自分が台本を書き、菅原が作曲する形でオペラを制作することは楽しい仕事だったに違いない。

昭和13年3月16日に執筆を始め、3日後の19日には脱稿し、菅原の意見を聞いている。
菅原によれば、上演場所は、新宿のムーラン・ルージュと浅草のオペラ館が候補に上がったが、「新宿は客層が山ノ手族と中央線族とに-当時のインテリ族が大半になるので浅草でと云う事に決定した」。
インテリ族の多い新宿ではなく庶民の町浅草を選んだのが荷風らしい。

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