オオカンザクラ 江戸城(皇居)乾門脇 2014-03-18
*戦前の昭和というと一般的に軍国主義下の「暗い昭和」といわれることが多いが、昭和10年ころまでは必ずしもそうではない。
大正2年東京生まれの写真家桑原甲子雄は、戸板康二との対談(『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』晶文社、1977年)のなかで、戸坂康二の発言「昭和十一年というのは、満州事変ははじまってたけど、昭和十二年七月の蘆溝橋の前ですから、物資はまだありました」を受けて、「いちばんいい時代だったみたいですね。昭和の五十年間を通じても、あの頃は物もあったし、人口は少なくて公害はないし、都市としてはいちばん住みいい時代でしたね」と語っている。
「断腸亭日乗」を読んでも昭和十一年までは、「暗い昭和」という印象は受けない。まだ物資は豊かだし、軍部の市民生活への圧力も感じられない。それが一変するのは、昭和十一年七月七日の藘構橋事件によって日中戦争が始まってからである。「日乗」には次第に、暗い世相が反映されていく。」(川本)
昭和12年8月4日
「夜初更芝口の金兵衛に赴き夕飯を喫し玉の井を歩む。此里よりも戦地に赴くものありと見え廣小路の大通挑灯を提げて人を送るもの長さ列をなしたり」
花里の玉の井からも出征兵士が出ている。
日中戦争の拡大によって、東京の各所で男たちが出征していく。
昭和12年10月13日
「晡下士州橋病院より淺草に行く。驟雨を松屋百貨店に避く。東武鐡道乗場は出征兵士見送人にて雑沓す。見送人の大半は酒気を帯び喧騒甚しく出征者の心を察するが如きものは殆どなきやに見ゆ」
同年10月16日
「三ノ輪行のバスに乗り環状線道路を過ぎて寺嶋町の四辻に至る。歩みて玉の井に至るにまたもや降り来る雨の中を楽隊の音楽を先驅となし旗立てゝ歩み行く一群に逢ふ。路地の口々には娼婦四五人ヅゝ一團になりて之を見迭り萬歳と呼ぶもあり。思ふに娼家の主人の徴集せられて戦地に赴くなるべし。去年の暮より余が知れる家に至りて様子をきくに、出征する者は二部何番地の家の息子にて見送りの人とは共に白鬚神社まで往き社殿にて送別の式をなして帰るが例なりと云ふ」
隠れ里と思われた玉の井でも出征兵士の見送り風景が何度も見られるようになっている。
東京だけのことではない。
同年10月20日
「朝十一時床より起きて着物きかへむとする時古本屋中村来る。去月信越方面に古本買出しに行きしにその地方にては徴集せらるゝ兵上甚多く、旅館はいづこも混雑してゐたりと云ふ」。
昭和12年に入って日本の戦時体制が強化されていっている。
太平洋戦争が勃発した昭和16年12月8日から書きはじめられた小説「浮沈」(発表は戦後、昭和21年「中央公論」)には、冒頭、女主人公のさだ子が昭和12年10月の浅草を歩くくだりがある。
そこでさだ子は戦時色の強まった町の様子を見る。
「心ばかりのしるしに土産物を員はうと、急に立上って仲店の方へと歩いて行くと、赤襷に姓名をかいた出征者を真中に大勢の人が楽隊を先頭に列をつくって練って来るのに出遇った。今まで自分のことばかりに屈托して気がつかずにゐたのであるが、見れば此方にも彼方にも、殊に仁王門の下には千人針をたのむ女が七八人も並んでゐる。その中には身なりのいゝだけに一際気の毒に見られる若い奥様らしい人も交ってゐた」
日中戦争が拡大していくにつれて赤紙の召集状で入隊していく者が相つぐ。その武運長久を祈って千人針を縫う姿が見られるようになったのは昭和12年の夏以降である。
昭和6年の満州事変は現役兵だけで一般からの召集はなかったから、街頭で応召風景や千人針が見られたのは、日露戦争以来、30余年ぶりのことだった。
時代の変化に敏感で、軍事体制の強化に危機感を覚えた荷風の、昭和12年暮れの感想。
12月29日
「この日夕刊紙上に全國ダンシングホール明春四月限閉止の令出づ。目下踊子全國にて弐千餘人ありと云ふ。この次はカフヱー禁止そのまた次は小説禁止の令出づるなるべし。可恐々々」
(実際には東京のダンスホールは昭和15年10月31日をもって閉鎖される)。
昭和13年秋、荷風は戦死者の葬儀を目撃する。
10月8日
「(向島百花園の)裏木戸より新道路に出で玉の井廣小路に至るに、町會其他の旗持ちたる人々歩道に居並ぶこと七八町に及べり。戦死者の葬式を送るなりと云ふ」
荷風の近くからも出征者が出るようになる。
浅草の芸人や通い慣れた料理屋の料理人が応召を受けて戦地へと出征して行く。
昭和16年6月11日
「晡下散策。淺草公園米作に夕飯を喫してオペラ館楽屋に至る。藝人某徴兵に取られ戦地に行くとて自ら國旗を購来り、武運長久の四字をかけといふ。この語も今は送別の代用語になりしと思へば深く思考するにも及ぼざれば直に書きてやりぬ」
同年7月25日
「夜芝口の金兵衛に飯す。この店の料理人も召集せられ来月早々高崎の兵営に行く由なり」
こうした戦時状況のなかで、荷風の軍部批判は強まっていく。
もともと軍人嫌いの荷風は「日乗」のなかで激越な調子で軍人を罵倒し、戦争に突き進んでいく国の行末に暗澹たる気分になる。
昭和13年8月8日
軍が士官相手の遊び所を作るために女を集めていると水天宮裏の私娼家のおかみから聞いた荷風はこう書く。
「世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし」
昭和16年7月25日
「此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二個所に侵入せり。この度の動員は盖しこれが為なりと。此の風説果して事實なりとすれば日軍の為す所は欧洲の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。人の弱味につけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり。斯くの如き無慈悲の行動は軈て日本国内の各個人の性行に影響を及すこと尠からざるべし。暗に強盗をよしと教るが如く(ママ)ものなればなり」
さらにこの時期、荷風が一貫して連合国側に声援を送っている。
当時の日本の知識人のなかでも際立って特異な立場である。
たとえば『大佛次郎 敗戦日記』(草思社、1995年)で、リベラリストの大佛次郎は、軍部の独断を批判しながらも、根底では日本の運命共同体を信じていて戦局に喜一憂している。B29撃破のニュースに「胸のすく」思いをする。レイテ湾に神風特攻隊が出撃するニュースには「鞍馬天狗現ると云う感じで嬉しい」と手放しで喜ぶ。テニアン島玉砕を聞いて「胸がふさがる」思いがし、特攻隊の青年のことを思って厳粛な気持ちになる。
こうした大佛次郎に比べると荷風は、日本の国及び日本人に対して終始冷ややかである。
日本の運命共同体の外側にいて、連合国側の勝利さえ望む。
昭和14年9月2日
「此日新聞紙獨波両國開戦の記事を掲ぐ。ショーパンとシエンキイツツの祖國に勝利の光栄あれかし」
昭和14年10月18日
「夕刊の新聞紙英佛聯合軍戦ひ利あらざる由を報ず。憂愁禁ずべからず」
昭和15年2月20日
「新聞紙此夕芬蘭土軍戦況不利の報を掲ぐ。悲しむべきなり」
同年5月16日
「余は日本の新聞の欧洲戦争に関する報道は英佛側電報記事を讀むのみにて、獨逸よりの報道〔此間約八字切取。以下行間補〕又日本人の所論は〔以上補〕一切之を目にせざるなり」
「余は唯胸の奥深く日夜佛蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ」
同年5月18日
「号外賣欧洲戦争獨軍大捷を報ず。佛都巴里陥落の日近しと云ふ。余自ら慰めむとするも慰むること能はざるものあり。晩餐も之がために全く味なし。燈刻悄然として家にかへる」
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