1793年3月7日、フランス国民議会はスペインに対して宣戦布告をした
「いま現在、若き政治家、青年宰相としてスペインを背負って立っているアルクーディア侯爵マヌエル・ゴドイのしなければならぬことは、フランス革命にどう対処するかという、歴史的な決断である。
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ゴドイは一七九二年一一月二〇日に宰相に就任すると同時に、数名の密使に巨額の金をもたせてパリへ派遣した。国民議会を買収しようとした。・・・
しかし、革命フランスに対しては、陰謀も術策も買収も無効であった。
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一七九三年、ルイ一六世と王妃マリー・アントアネットはギヨチン台に登らねばならなかった。そうして三月七日、国民議会はスペインに対して宣戦布告をした。」
「この戦争がゴドイの人気を頂点にまで持ち上げたのである。
なぜなら、この戦争こそは「神と王と祖国」の名において、「王と法と神の無い暴民」に対する正義の戦いであったからである。それはまた「弑逆者に対する戦い」でもあった。・・・戦費の公募もがなされ、七五〇〇万レアール(二〇〇〇万ドル弱)もの金が集った。
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戦争は、はじめの間は景気がよかった。殊にピレネー山脈の地中海側では、ベルビニアンの町を包囲したトマス・デ・モルラの軍が掠奪、強姦等々好き放題のことをやらかして一度に評判を落した。」
版画集『気まぐれ』76番:威張りかえったトマス・デ・モルラ
「部下に対しては倣慢無礼かつ残酷、しかも上位の者に対しては叩頭し、かつ卑屈なり」
「ゴヤをも含むフランス派の啓蒙派、あるいは開明派が複雑な心境でこの戦争を見守っていたことは、たとえば版画集、『気まぐれ』の七六番に明らかである。この版画では、元帥杖をもって腹を突き出して威張りかえったトマス・デ・モルラが描き出され、次のような詞書がつけられている。
大将の徽章と元帥杖は、彼が人に優れたるものの持ち主であることを示すなり。彼は自分のまわりの者をいじめるために権力を悪用する。部下に対しては倣慢無礼かつ残酷、しかも上位の者に対しては叩頭し、かつ卑屈なり。
・・・ここにすでに、・・・「戦争の惨禍」に対して、いわばスタンダール的、かつトルストイ的なまでに敵味方にとらわれないゴヤの眼があらわに現出して来ているのを見る。この人はすでに、神と王と祖国のために、などというスローガンにちょろりとやられたりはしなくなっているのである。それは、くりかえして言いたいのだが、不思議なほどに、するりと、何の抵抗もなく出て来る。」
版画集『気まぐれ』76番
もうスペインとしては戦うべき理由がなくなってしまう
「・・・出過ぎたモルラ軍は孤立させられてしまい、フランス軍は逆にパルセローナ北方のヘローナの町を包囲する。
北の方でも、逆にスペイン領土の方が侵略され、国境の町フエンテラピーア、サン・セバスティアンが占領され、ビルバオやビットリアまでが危くなる。」
「・・・人々は次第に、開明派、フランス派の意見に耳をかたむけはじめた。
それに、ルイ一六世の子、つまりはルイ一七世となるべき王子は、いつの間にやらいなくなってしまった。一七九五年六月八日に死んだことになっている。この公式の日付のずっと以前に、彼は消えてしまった。
こうなれば、もうスペインとしては戦うべき理由がなくなってしまう。」
1795年7月22日、スイスのバーゼルで平和会議
「・・・メキシコ戦争の勇将リカルドスまで戦死してしまった。・・・一七九五年七月二二日、スイスのバーゼルで平和会議がひらかれ、ここでフランス共和国政府とスペイン・カトリック王の政府と、同じくフランス共和国政府とプロシャ帝国政府との間の二つの条約が結ばれた。フランス共和国政府が王政をもつ国にはじめて公認をされた。
意気昂然たる二八歳の青年宰相マヌエル・ゴドイは、王によって九月四日、平和大公(Principe de la Paz)なるものに任ぜられた。」
ゴヤ『気まぐれ』第36番「先祖まで」1797-99
ゴヤ『気まぐれ』第38番「万々歳!」1797-99
「『気まぐれ』の第三六番を見られよ。
「先祖まで」と詞書がついていて、驢馬が誇らしげにその系図をあなたに見せてくれるであろう。
また三八番「万々歳!」と題されたものは、猿がギターの裏を、弦のない裏を弾いているのに、メス驢馬はうっとりとして聴き入っている!
マドリードの巷には、ゴドイがギターを弾いて王妃をちょろまかした、という噂が流れていたのである。
王と王妃とゴドイ ー この三位一体の三角関係は、三人ともども重々承知の上でのだまし合いであり、だまされ合いである。
そんなことがいつまで続くかと問われるであろう。
しかしこれが一八一九年の王と王妃の死まで、蜿蜒一十数年にわたって続くのである。」
(38)「ブラボー !」 ( 1798年)
1800年10月1日、サン・イルデフォンソ条約締結
「・・・バーゼル条約をより具体化するために、サン・イルデフォンソ所在のラ・グランハ離宮で西・仏交渉がつづき、一八〇〇年一〇月一日、サン・イルデフォンソ条約が締結された。スペインの目的は、イタリアに散在するスペイン・ブルボン家の領地を守ることと、南北アメリカへの航路の安全を保障すること、そのために王の弑逆者どものフランス共和国と同盟関係に入ったのである。」
中間的に強調し特筆しておかなければならぬ問題
「・・・中間的に強調し特筆しておかなければならぬ問題・・・結果として、フランスにおける革命がスペインにおけるリベラリズムの芽を押し潰してしまい、その影響がイベリア半島における今日の状況にまで及んでいる・・・。二〇世紀に入っての市民戦争もまた、フランス革命以来の状況の流れにおいてはじめて理解されうるものである。
またさらに、スペインをはじめとしてオーストリア、プロイセン、オランダ、イギリスなどが革命干渉戦争を起したことは、これも結果として、「フランス政府は平和が到来するまで革命的である」と宣言させ、非常措置権限を公安委員会にゆだね、革命裁判所では弁護や証人訊問を必要としないという、恐怖政治、ギヨチン政治体制を完成させ、革命を血のなかに溺れさせることになった・・・う。そうして戦争はナポレオンという化物を生み出したのである。われわれとしてはロシア革命に際しての、日本軍を主体とする革命干渉戦争、すなわちシベリア出兵が、ロシア革命自体に、また爾後のわれわれ自身の歴史に如何なる結果をもたらしたかということも、もう一度も二度も思い起してみる必要があろう。」
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