1812年8月12日、イギリスのウェリントン軍とスペインのゲリラ軍の集合部隊が、ホセ1世(ナポレオンの兄ジョセフ)のフランス軍を破り、人々の熱狂の中をマドリードに入城。
しかし、同年11月2日には、ホセ1世がマドリードに再入城を果たす。
さてしかし、年老いて(*ゴヤ66歳)妻のホセーファを失い(この年6月20日没)、傷心のゴヤは何をしているか。
老ゴヤもまたこの”解放軍”(*ウェリントン軍)を歓迎したものであろうことは容易に想像されうることと思う。
九月一日の新聞に次のような公告がのせられた。
明日より来月一一日金曜日まで、休祭日を除き、王立美術アカデミイの広間は、午前一〇時より一二時まで、午後四時より六時まで公開される。広間のうちの一つには王の首席画家にしてアカデミイ絵画部長、ドン・フランシスコ・ゴヤ描くところの元帥ウェリントン卿にしてシュウダード・ロドリーゴ公爵の騎馬像が展示される。
ここに、王の首席画家、とある。その王は、すでにホセ一世などでないことは言うまでもなく、これは”望まれたる”フェルナンド七世である・・・
ゴヤは全体でウェリントン像を、赤チョークでのデッサンを入れて四枚描いている。問題の騎馬像は現在ロンドンのウェリントン博物館にあるもので、一時盗難にあったりして有名なことになったが、これはゴヤの手になる騎馬像のなかでも出来がわるく、馬の顔は首よりも小さく、絵自体の保存もよくない。馬それ自体よりもウェリントンの顔の方が馬の顔に似ている。ウェリントン自身も気に入ってはいなかったのであろう。
というのは、・・・次のような伝説がつたわっているからでもある。ウェリントンがモデルとしてゴヤのアトリエにあらわれ、例の似ている、似ていないという肖像画にはつきものの永遠の問題をめぐって、モデルが画家に文句をつけた。ところが聾者である画家が怒って、いきなり傍の机の上にあったピストルを取り、二発を発射した、というのである。ウェリントンも剣をとって……。
びっくり仰天した息子のハピエールが、
- 閣下、お許し下さい、母が死にましてから父はもうまったくの気違いなのです。
と詫びた。
ウェリントンは肩をすくめて、いかにも軽蔑したような眼差しを見せて去って行った。…・・・というのである。
誰がつくった話か知らないが、まことによく出来ていると思われる。
というのは、もう一枚の、勲章を帯びた半身像のための赤チョークのデッサンが大英博物館にあり、・・・
このデッサンをよくよく眺めていると、如何にうまく、かつ適確にこの英国人を描いているかということが、これまたしみじみとわかって来るのである。
ダブリンの上流階級の出であるウェリントン卿アーサー・ウェルズレイは、このとき四三歳であり、先に行ってワーテルローでナポレオンを打ち破る運命をもつにいたるのであるが、この彼は皮肉なことにフランスはアンジュールの士官学校で兵学を学び、インド植民地軍で経歴をつくって来た人であった。
つまるところ、ことばも通じぬ、しかも通じる必要もない植民地兵を使って植民地支配をする専門家であった。辺地にあって、限られた兵力、資材で最大限の支配能力を発揮するという、英国帝国主義の尖兵である。従ってスペインのゲリラを、心底では深く軽蔑しながらも、これを使いこなすことなどはお手のものであった。
鉄公爵(Iron Duke)という別名を後にもつことになるこの英国人は、まことに英国人らしくつねに慎重かつ沈着な計算家で、勝利にあっても敗北にあっても決して狂喜も絶望もせぬ現実主義者なのである。・・・この現実家は、戦況がいささか不利、と思えば、さっと一切を放り出して根拠地であるポルトガルへ戻って行ってしまうであろう。
状況についてのすべての可能性を冷静に計算しつくした後に、彼は行動に出る。口数も極端に少く、必要なことだけしか言わなかったということで有名であったが、ゴヤの描いた四枚の肖像画は明らかにそういう性格をつかみとっている。そうしてこういう性格こそは、スペイン人を含むラテン系のものとは正反対のものである。ゴヤがそういう計算高い現実家に興味をもったとしても不思議ではないであろう。
ゴヤ『ウェリントン卿像』1812
(ロンドンのナショナル・ガラリイ)
このデッサンにもとづいての作品は、不出来な騎馬像をも含めて三枚あり、スペインの最高位の勲章である金羊毛勲章をつけたものは、ロンドンのナショナル・ガラリイにあるが、・・・。もう一枚の、フロックコート様のものに大きなケープをまとい、双角帽をかぶった、幾分若目に描かれているものは、現在ワシントンのナショナル・ガラリイにある。その実に青い目は、画家を注視していて、あたかも”こいつらは何を考えているものだろう?”とでもいうような、幾分は軽蔑感のこもった眼差しをもっている。
騎馬像はロンドンのウェリントン博物館にあり、・・・。
・・・私はあるときグラナダのホテルの宿帳に、現ウェリントン公爵のサインを見出して驚いたことがあったが、番頭の話を聞いて二度びっくりした。グラナダの近郊に、ウェリントン公爵家の狩猟用の領地がいまに存しているのである。それはこの”半島戦争”のお礼にスペインが初代ウェリントンに与えたもので、それが代々受け継がれていまにいたっているのである。それは、まことに恐れ入ったる話であって、ヨーロッパのことはわからない、下手に手を出してはいけない、とっくづく思わせるほどの驚きであった。"
ゴヤのデッサンで見る限りでは、眼はいささか落ち込み、頬もこけている。筋肉質の頬の肉が顎骨にはりついて、おそろしくヒゲが濃い。野戦生活の疲れが出ているかに見える。おそらくはスペインの真夏の陽光に灼かれて手ひどく日焼けをしていたものであろう。
彼の兄は摂政会議への英国大使をつとめていたが、弟について「彼が可愛がっていた犬の保護をさえスペイン軍には決してまかせないであろう」と書いている。彼は再編されたスペイン正規軍もゲリラも決して信頼していなかった。必要なときに必要なだけ利用するのみである。スペイン正規軍との間柄も、決して円満なものではなかった。特に前年のタラベーラでの会戦でスペイン軍が逃亡するのを見て、彼がさっさとポルトガルへ軍を引いてしまったときには、スペイン側は声を大にして非難をしたものであった。
しかし、そんなことに彼は動じはしない。言いたいだけ言わせておけ、である。
だから、マドリード入城に際しての市民たちの熱狂、スペイン軍とゲリラが銃を空へ向けて射ちながら、軍列を乱して女たちと抱き合いながら、酒をラッパ飲みしながらの行進を、おそらく軽蔑の眼をもって見ながら馬を進めていたものであろう。
このデッサンをも含めての四枚の特徴は、いわゆる表情というもののまったくないことである。顔面はまるで凝結をでもしたかのように硬わばっている。あたかもまったくの未知、不可解なものに接しているかのような面持ちである。おそらくこの植民地での軍事と行政の実務家には、画家フランシスコ・ゴヤなどというものは不可解であったであろう。ましてや首席宮廷画家などと称させたりして、この貧乏国が芸術などというものに国家の金を浪費したりすることも彼の理解の外であったであろう。
一方ジョセフはアンダルシーア軍を率いて、歯ぎしりをしながら南から再びマドリード奪回をはかる。
冷静緻密な実際家は、マドリード防衛の可能性と必要不必要を勘案し、迫り来る冬を前にして、またまたサッとばかり暖いポルトガルへ引いて行ってしまった。ロシア戦線のナポレオンとは正反対である。
一一月二日、ジョセフがまたまたマドリードへ”勝者〞として戻って来る。
ジョセフが戻って来たときは、ゴヤはまだウェリントン卿の、双角帽をかぶった肖像画の仕事を終えていなかった筈である。
どれだけ書いてみても私にはゴヤという人は依然として一つの謎なのであるが、この人のいわば端倪すべからざる性格は、ウェリントン卿騎馬像の、いま乾いたばかりの絵具の下にも存していた。最近の研究によると、このウェリントン像の下に、もう一人の、別の人間の騎馬像があることがわかった。
しかもその人間が、ジョセフ・ボナパルトかもしれず、またあのゴドイであるかもしれず、どちらとも決定出来ないというのである。
おそらく下手な馬はそのままで、人物だけを差し替えたものであろう。塗り潰されたのがジョセフであってもゴドイであっても、ウェリントンに対する敬意などというものはゴヤの側には皆無と見える。
軽蔑には軽蔑を!
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