自宅近くの公園 2018-03-01
*明治12年
自由民権のシャワー
案山子は、この年、大阪で開かれた愛国社第2回大会に、長男下学らを送り込む。下学は既に相愛杜の社員であった。
明治13年
「山約水明会」結成
明治13年2月、父、案山子は、玉名郡一帯の独自の結社として「山約水明会」を結成する。この会は連合親睦会で、池松豊記ら相愛社メンバー、後に国権主義の紫溟会(幕末の藩の中枢部の流れをくむ保守派)を結成する国友重秋、各郡の士族や平民などが加わる広く緩やか集まりだった。
2月15日、玉名郡高瀬町(現玉名市高瀬)の光蓮寺で開かれた山約水明会発会式は、午後4時から深夜12時頃まで演説が続き、傍聴人が寺内に充満したという。地租を下げさせ、郷備金を守り、干拓地の地主権を巡っても先頭に立って闘った案山子が結成した組織である。村々は沸きたった。その後も毎月1回、高瀬で演説会を開催し、ある時は数百人が集まることもあった。
明治14年~15年
案山子の「山約水明会」演説会は、小天の神社や個人宅などで演説会を重ねた。夕方から夜10時、11時、あるいは午前1時まで行われ、聴衆も百人を超えるう熱心さだった。この頃、高知では、集会条例により、臨場警官が毎回のように演説を中止させ、解散させ、演説家の逮捕を繰り返したのに対し、小天ではそのようなことが一度もなかった。案山子への村民の厚い支持が彼を囲んでいたからであろう。
思春期の前田卓
このように、父・案山子が村民のことだけでなく国政にかかわっていく時期に、卓は思春期を迎えた。父や長男下学は家をあけ、東奔西走することが多くなった。卓は、父のお供で東京に出かけるようにもなった。
卓の目の前は、熊本の僻村から一気に開け、自由民権思想をシャワーのように浴びていく。自由、平等、人権、民主主義、革命・・・、それらの言葉が、卓の頭に刻まれていった。
この頃の卓を知る記録、田尻於菟来馬(おとくま)が書き残した「思ひ出の記 上」
卓と同じ小天に生まれ、親戚筋であった田尻於菟来馬(おとくま)は、卓の3歳年下、妹の槌(つち)と同じ明治4年生まれ。「思ひ出の記 上」は、彼が61歳の誕生日に、身近な人々に配るために書いた、ガリ版刷りの自分史である。その中に一章「前田の家」は、彼が9歳から11歳の頃、案山子の私塾「蒙正館」で学ぶため本邸に同居したことを中心に、卓や案山子など前田家の人々や家のたたずまいについて書かれている。12歳から14歳にかけての卓と一緒に暮らした記録である。
卓や於菟来馬が自由民権運動に強い関心を持っていく様子
「自然余等も自由民権だの権利義務だの国会開設だの聞き覚え、板垣退助大隈重信など崇拝するようになった」。そして特に、東京で発行された『絵入自由新聞』に、卓ともども心ひかれたという。『絵入自由新聞』は、自由党が発行する女性や子供向けの新聞で、ロシアの虚無党が政府転覆の陰謀を企て、驚天動地の活動をする小説「西洋(にしうみ)血潮の小嵐」や、フランス革命を題材にした小説「自由の凱歌」が載っていた。それを、「お卓さん等と毎日新聞の配達が待ちきれず、来ると二人で争って読んだものである」という。
彼らは、こうした物語によって、自由への憧れや革命の情熱というものに身をひたした。熊本の僻村にいて、東京の進んだ思想の空気を当たり前のように吸っていた。
「於菟来馬さん、あなたは何になるつもりですの」。その問いに対して於菟来馬は、「僕は政治家となって国家社会の為に竭(つく)したい」と昂然と答えている。
於菟来馬は、勉強も漢学一辺倒をやめ、フランス革命史なども学ぶようになり、前田邸を訪れる「遊歴の士」たちと親しく交わった。鹿児島の人で佐藤良之助という「仏蘭西学者」が2~3ヶ月滞在して、ルソー『民約論』を原書で案山子に講義していたが、時には子供たちと一緒に邸内を散歩し、「時々仏蘭西の革命歌を仏語で聞かせていた」という。
於菟来馬が前田家に同居して学ぶようになった1年ばかり後、次男清人は遊学のため上京した。父案山子や長男下学も留守がちな家は、支配人と母親のほかは幼い子供たちだけとなる。しかも本邸のほかに二つの別邸があった。父親たちの留守にも訪問客が訪れ、滞在客もいたことだろう。
卓は否応なく長女的な立場と責任感を強め、現実的に働き手になっていった。
明治15年
九州改進党結成と中江兆民の小天滞在
この年、九州の自由民権運動のリーダーの一人になっていた父案山子の活動はいちだんと広がり、いっそう多忙を極めるようになっていた。卓は14歳。
明治15年2月、案山子は全九州の民権家を結集した「九州改進党」結成を呼びかける。
3月12日、熊本市での創立大会では、案山子は主催者を代表してまっ先に演説した。小天からは51人が九州改進党の地方組織に入った。案山子は、大会終了後、中江兆民ら東京や東北、九州各地の民権家たちを小天に連れてきた。大勢の民権家が本邸や別邸に滞在した。
田尻於菟来馬は、そのときの模様も書き残している。
この時、小天神社での大演説会で、於菟来馬11歳は案山子の孫貞太郎10歳とともに、生まれて初めて演説した。案山子は小冊子を与え、その中からどの演題を選び、どう話したらよいかを教えた。於菟来馬は「学問を勧む」という題で話し喝采をあびた。2~3日後、熊本改進党の機関誌に、貞太郎ともども「嗚呼後世恐るべし」という記事が掲載された。
於菟来馬の記録には、案山子のもとに滞在し、演説した幾人ものの著名人の名前が出てくるが、中でも特に、中江兆民に強い印象を受けた。兆民はその年末にも別邸に滞在している。
「銘仙の塩たれた様な袷(あわせ)を着て、羽織も着ず、小さな帯をしめ、誠に風采の上がらぬ、否風采など構う様な人でもなかったらしいのである」。
「この主義主張のために奔走する志士に対する憧憬の念がかなり熾烈であったので、今其の志士を迎えて之に私淑する事が非常な光栄で歓喜であった」。
「中江篤助〔兆民〕大江卓など揃いも揃いし天下の名士たちの大演説で、実際田舎の地で到底願うこともできぬ千載一遇とでも云うべき事であったので、其の評判の盛んなりし事は想像に余りあるのである」。
岸田俊子の小天滞在
明治15年11月、案山子は女流演説家として名を馳せていた岸田俊子を別邸に迎えた。案山子は、九州・熊本各地での演説の旅の最後に彼女を小天に案内し温泉で労をねぎらった。
この滞在中、俊子は別邸の二階大広間で演説会を行ったが、それには村民500人が集まった。「ちなみに当時の小天村総戸数は六二〇戸、人口は三四一五名(『肥後国玉名郡村誌』)で、村中の七人に一人が俊子の歓迎の宴に参加したことになる」(上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」)。この時は、貞太郎と於菟来馬のほかに卓の妹槌も演説した。
さらに年末には、中江兆民が再び小天を訪れて滞在し、ルソー『民約論』を村民に講義している。「当時の小天はまさに一村挙げて自由民権運動の別天地だったのである」(上村)。
この時、岸田俊子は、大阪で何回か演説を行ったあと、近畿、西日本を廻り、九州に向かう。9月13日に福岡県八幡町で講演中止にあい、10月26日に熊本市に入った。
『熊本新聞』は、「かの女流の自由家を以て名ある岸田とし女は、一昨日当地へ来遊し、先馬町岩間宇平方に止宿せらるる由。去れば当地のご婦人がたにもチト訪問ありては如何」(10月28日付)の記事を皮切りに、どこに泊まったかも含めて、連日報道していく。
この九州・熊本遊説を取り仕切ったのが前田案山子だった。熊本では、熊本市で3回、八代で3回、鏡町1回、人吉3回、宇土2回と、約1ヶ月間各地で遊説し、11月28日、小天に到着した。岸田母娘が別邸に滞在した3日間、最も側近くで仕えたのが、14歳の卓だった。
岸田俊子の「学術演説会」の内容は、『熊本新聞』が詳しく伝えている。
俊子は熊本市に来て5日目の10月30日から演説を行った。翌31日の演説は、「柔柳堅松亦同精神矣」と「京都みやげ」と題する二題。
「柔柳堅松亦同精神矣」では、「現今我国婦女子(おなご)の気力なきことを論破し、女子は男子と同等の権利を有することを明らかにし、遂に従来(まえより)婦女子に教え来たりし徳義に関する古語の解釈を誤まれるを説きて、女子は柔柳の態ありて、堅松の如き精神なかるべからざる」を説いた。現在のわが国の女性は気力がない。それは女性に対するこれまでの教育が間違っていたからだ。女性は本来、男性と同じ権利を持っている。だから、柳のようにやわらかい物腰であったとしても、男性と同じように堅い松のような精神を持つべきだ、と。古い教育の弊害を説き、女性に男女同権の意識を持てと鼓舞する内容である。
「京都みやげ」は、高雄山の紅葉と高台寺の萩の花を比べての、巧みなたとえ話。高雄山の紅葉は和気清麿が植えたが、人々がそれを愛でるのは、和気清麿が植えたからではなく、「霜にあう毎にますます精神を丹(あか)くする」からである。つまり、厳しさに耐えて精神を高揚させるからだ。
一方、高台寺の萩は紫色で、世を逃れた人だけがこれを愛す。世の中のために奔走して力をつくす人は、こんな花を愛さない。なぜなら紫色は「不正不詳の色」で、厳しさに耐えて輝きを増す紅のような、純粋の色ではないからだ。紫色は貴顕の色というが、それは社会から捨てられたもののことである。「世人(よのひと)、この紫色の如き不正不詳の精神を持たず、楓樹(もみじ)の丹(あか)きが如き丹心あらんことを希望する」と。
過激な喩え話である。ここでは男女同権論ではなく、完全に自由民権の話になっている。浮世の雑事から離れ、雑の高尚のといっても、決して美しくはない。美しいのは厳しさを耐えしのんで世のために働くことにあると、言い切っている。皇室に仕えた体験がありながら、それをありがたがらず、むしろ軽蔑している。熊本の聴衆はこれを保守派の「紫溟会」への風刺と受け取ったようで、大いに受けたという(熊本新聞、11月2日付)。
俊子は言う。
「家の盛衰は婦人(おんな)に由る所以(ゆえん)の古例を引き、且つ社会と云い人民と云い人間と云うの語は、決して婦人を除き男子のみを指したるものにあらざるは、則ち我国三千五百有余万の同朋姉妹兄弟と云うを以て明らかなり。然れば婦人にして知識進歩せざれば社会の開化、人民の進歩などと云の語を用いること能わざるべし」(熊本新聞、11月8日付)と。
(つづく)
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