永観堂のもみじ
11月5日~11月30日は、午後5時30分~8時30分(受付終了)の間、ライトアップが始まっている。
(以下の写真は11月4日現在のもの)
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2011年11月7日月曜日
「国がきちんと発表しない汚染食品を購入することは、福島支援ではなく東電支援です。」(ブログ「ただいま被曝中」)
ブログ「ただいま被曝中」(コチラ)という方が、
「国がきちんと発表しない汚染食品を購入することは、福島支援ではなく東電支援です。
絶対購入しないでください。」
「支援していただけるなら、国が信用できるまで絶対に買わないという支援をお願いします。」
と訴えられてます。
共感する内容なので、以下に全文を引用します。
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もしかしてきちんとお願いするのは初めてかも知れません。
拡散願います。
福島県以外に住居されているかたは言いづらいかもしれないと思い、私が発言します。
国がきちんと発表しない汚染食品を購入することは、福島支援ではなく東電支援です。
絶対購入しないでください。
きちんと汚染線量の表記を求めます。
どこまで食すのかは国民が決めます。
政治家に大丈夫かどうか決めてもらう気はありません。
はやく気付いて欲しいものです。
もし仮に風評だというのなら、政府がきちんと数字を公表せず『500Bqまで大丈夫』と言っているせいなのです。
国民は福島を応援したがっているのに、政府が数値を隠すがために躊躇いが生じています。
どうしてくれるのですか?
風評を拡大させた政府の政策。
責任を取りなさい。
すべて買い上げ議員会館で消費しなさい。
安全なんでしょ?
あなたたちが全部消費しなさい。
自分達が食べたくないものを国民に食べさせるなよ。
一回や二回テレビの前で食べたって、だれも安心なんかしません。
こっちは毎日の事。
全国の皆さん。
みなさんに内部被曝のおすそ分けを望んでなどおりません。
政府と官僚が食えばいいのです。
支援していただけるなら、国が信用できるまで絶対に買わないという支援をお願いします。
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延暦22年(803)~延暦23年(804)6月 坂上田村麻呂、志波城造成開始し、翌年征夷大将軍に再任される。
京都 永観堂(2011-11-04)
*延暦22年(803)
2月
・菅野真道等によって編纂された『延暦交替式』施行。
国司交替制がマニュアル化される。
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3月
・この月、坂上田村麻呂は「造志波城使」として再び陸奥に赴任し、陸奥国斯波郡(岩手県盛岡市)に志波城の造営を開始(『日本紀略』)。
大同3年(808)までには多賀城から胆沢城に鎮守府が移され、胆沢・志波地域の支配拠点として10世紀まで機能するが、当初は胆沢城よりも志波城の方が重要な城柵であったとみられる。
発掘調査で判明した胆沢城の規模は一辺670mの正方形だが、志波城は一辺約840mという東北最大級の城柵である。
最北に位置する志波城が大きく造られたのは、この頃の律令国家が更なる北進策を計画していたからで、志波城造営完了の頃とみられる延暦23年正月には、坂上田村麻呂が再び征夷大将軍に任命され、桓武朝の第4次征討計画が始まる。
胆沢城・志波城の設置と同じ頃、出羽国の北部でも、東北最大規模の城柵が造られている。
地名から払田柵(ほつたのさく)跡(秋田県大仙市)と呼ばれる。
近年では第2次雄勝城とみる説が有力で、創建は外郭に使用された材木の年輪年代測定によって延暦20年頃と考えられている。
横手盆地の南にあった天平宝字創建の第1次雄勝城(遺跡不明)を、胆沢城・志波城の造営に合わせて北に移転させ、東西1,370m、南北780mという巨大な規模で造営。
当時の律令国家が更なる北進策をとっていたことを反映している。
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延暦23年(804)
1月19日
・この日、征夷のため、坂東の6ヶ国(武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野)と陸奥国に命じて、糒1万4,315五斛・米9,685斛を陸奥国小田郡中山柵に運ばせる(『日本後紀』)。
中山柵の場所は不明(この頃の小田郡は登米郡を併合しているので、もともと登米郡にあった城柵か)。
軍粮計2万4千斛は、第2次征討で準備した26万斛の1割にも満たない。
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1月28日
・この日、刑部卿陸奥出羽按察使坂上田村麻呂を再び征夷大将軍に任じ、副将軍3人(百済王教雲、出羽守佐伯社屋、鎮守軍監道嶋御楯)、軍監8人、軍曹24人を任命(『日本後紀』)。
但し、田村麻呂は、陸奥に赴任せず平安京周辺に留まっている。
しかしこの第4次征討は、その後さしたる動きもないまま、翌年12月の徳政相論によって、造都とともに中止される。
延暦23年正月~桓武没の『日本後紀』巻21・22は完存しており、関連史料の少なさは、実際に征夷の準備が進展しなかったことを物語る。
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3月
・遣唐大使藤原葛野麻呂に節刀を授ける。
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6月
・越中国を置き上国とする。
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2011年11月6日日曜日
2011年11月5日土曜日
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-2) 「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」(その2)
東京 江戸城東御苑のジュウガツザクラ(2011-11-02)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-2)
「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」
(その2)
*
まず、子ども嫌い。
昭和2年1月6日
偏奇館近くの箪笥町崖下の小道を歩いていると、一群の児童がうしろから、荷風をからかって拍手哄笑して逃走した。
そこからムキになって日本の文教政策、国家教育の堕落にまで話を広げ、最後に、
「余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんば非らざるなり」
と書く。
次に、妻嫌い。
昭和2咋9月22日(夏目漱石の未亡人を批判)
「改造」10月号に漱石未亡人の漱石の思い出が談話の形で出ていた。
そのなかで、未亡人は漱石が「追蹤狂とやら称する精神病の患者」だったと語る。
また、漱石の若いころの失恋のエピソードまで打ち明けている。
荷風はこれを読んで「不快」に思う。
夫の死後、妻たるものが夫の秘密を公けにするとはなにごとか。
「未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや」
「(漱石の)死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや」と悲憤憤慨。
「余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり」
子どもも嫌い、妻も嫌い。
家族を必要としない荷風にとっては、子どもよりも妻よりも金のほうが大事になる。
単身者の自由を保障してくれるのは、金といううっとうしくないものしかない。
相磯凌霜のインタビュー集『荷風思出草』(毎日新聞社)。
もし入院するようになったらどうするのかという質問に答え、
「そうなれば結局子供よりお金ということになる。お金がなければ子供もうまくいかないから、お金がいちばんということになってくる・・・」。
単身者としての自由な生活をまっとうするためには経済的な安定しかないという荷風のリアリズム感覚。
単身者荷風のひそかな楽しみ:夏の曝書と、晩秋の落葉掃き。
大正14年8月30日。庭でひとり曝書をする。
「風ありて稍涼し。曝書の労久しく見ざりし書物何といふことなく読みあさるほどに、暑き日も忽ち西に傾き、つくつく法師の啼きしきる声せはしなく、行水つかふ頃とはなるなり。
予は毎日この時刻に至り、獨り茫然として薄暮の空打ながめ、近鄰の家より夕餉の物煮る臭の漂ひ来り、垣越しに灯影のちらほら輝き出るを見る時、何とも知らず獨無限の詩味をおぼえて止まざるなり」
「無限の詩味」は、単身者のささやかな独居から生まれている。
単身者の気楽さは、正月によくあらわれる。
どこにも年賀に行かないし、客もこない。
大正7年1月1日
「例によって為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ちそこら取片づけ塵を払ふ」
(正月から部屋掃除)。
2日は父親の命日なので例年のとおり、雄司ケ谷に墓参。
3日には早くも机に向かう。
「燈下に粥を煮、葡萄酒二三杯を傾け暖を取りて後机に対す」
「日乗」初期には、単身者の静かな生活が淡々と記述されている。
清々しい孤独である。
大正12年5月29日
「終日家に在り。風呂場を掃除す」
「後期、晩年の独居には疲れが色濃く出てきて読んでいて痛ましいが、大正から昭和にかけては、荷風は、静かに独居を楽しんでいる。
荷風も若かったし、社会もまだ安定していた。
利子生活者として、高等遊民として、荷風は独居の侘しさすらも「無限の詩味」ととらえることが出来た。」(著者)
荷風は自炊もいとわなかった。
大正6年10月22日、「夜執筆の傍火鉢にて林檎を煮る」
大正6年11月30日、「この頃小蕪味ひよし。自ら料理して夕餉を食す」
大正9年1月1日、「自炊の夕餉を終りて直に寝に就く」
昭和15年5月1日、
「黄昏土州橋医院に至る。院長余が自炊の生活過労のおそれありとて頻に入院静養の必要を説く。
浅草に行かむと思ひしが院長の忠言を思起し銀座を過りてかへる。
余が下女を雇はず単独自炊の生活を営み初めしは一昨々年昭和十二年立春の日よりなれば満三年をすごせしなり」
医者に入院静養をすすめられるが、荷風はそれに従わない。
これは晩年、身体が弱っても入院せず、自分の部屋でひとり死んでいった壮絶さに通じる。
「荷風の単身者ぶりは筋金入りである。
単身者の自由勝手、気ままな放恣を楽しむかわりに、決して泣きごともいわない。」(著者)
「孤獨の清絶」をよしとしながらも同時に、女性の肌もまた恋しいという。
大正15年1月22日
「然りと雖淫慾も亦全く排除すること能はず。是亦人生樂事の一なればなり。
獨居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の樂しみもまた容易に廃すべからず、勉学もおもしろく、放蕩も亦更に愉快なりとは、さてさて樂しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。
蜀山人が擁書漫筆の叙に、清人石朧夫の語を引き、人生に三樂あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都て是なき処。といひしもことわりなり」
「単身者荷風は、同時に誰よりも快楽主義者である。
隠棲者のストイシズムと、金持の独身男姓の放恣な快楽主義が、荷風のなかでは自然に同居している。
「明治」のストイシズムと「江戸」のデカダンスが不思議と一体化している。」(著者)
大正9年7月27日、はじめて老眼鏡を買う。自虐的なことを書く。
「銀座松島屋にて老眼鏡を購ふ。
荷風全集ポイント活字の校正細字のため甚しく視力を費したりと覚ゆ。
余が先人の始めて老眼鏡を用ひられしも其年四十二三の時にて、余が茗渓の中学を卒業せし頃なるべし。
余は今年四十二歳なるに妻子もなく、放蕩無頼われながら浅間しきかぎりなり」
中村光夫『《評論》永井荷風』(昭和54年)。
終戦後、熱海に独居する荷風に、筑摩書房の一編集者として会いにいくと、荷風はこんなことをいったという。
「戦災と流浪の旅のあいだも彼は草稿と日記の這入った鞄は手放さなかったのですが、その熱海を訪ねたとき、偶然日記帳を整理しているのにぶつかったことがあります。
そのとき、自分が日記をつけるのは、外出から帰って、ガスで湯を沸かす五分ほどの間が主だ。
長年つづいたのは、独身で見られて困るような人間がいなかったからだと云いました」
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延暦21年(802) 蝦夷の族長阿弖流為と母礼が同族を率い降伏、処刑される
東京、北の丸公園(2011-10-31)
*延暦21年(802)
この年
・この年、最澄は、和気広世(ひろよ)によって和気氏の氏寺である高雄山寺(後の神護寺)に招かれ、天台教学を講説(天台講会)。
和気氏は、長岡・平安遷都に大きな貢献をし、桓武の信任も篤い和気清麻呂の一族。
桓武天皇は、和気氏を通じて最澄を知り、天台教学に触れ、その興隆を目指そうとした。
桓武は早良親王の怨霊に悩まされ、皇太子安殿親王の病気も早良親王の怨霊によるものとの占いも出ており、最澄が説く天台の教えが魅力的に映ったと思われる。
当初、最澄とは別人が遣唐使に加わる予定であったが、桓武の思いは強く、最澄を入唐請益(につとうしようやく)僧(短期留学僧)として派遣することに決する。
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1月8日
・この日、征夷軍監以下、軍士以上の人々に位階や勲位が与えられる。
前日には、征夷に霊験を示した陸奥国の三つの神社に位階が与えられる(『日本紀略』)。
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1月9日
・この日、坂上田村麻呂が「造陸奥国胆沢城使」として再び陸奥国に派遣され、胆沢城(現、奥州市水沢区)を造営。
翌年には「造志波城使」として志波城(現盛岡市)を造営。
光仁天皇が初めて胆沢・志波に軍隊を送り込んだ宝亀7年(776)から4半世紀が経過している。
大同3年(808)までには、鎮守府が多賀城から胆沢城に移され、律令国家の版図は一挙に北進する。
この「征服」は田村麻呂と蝦夷勢力との政治的妥協によるもの。
鎮守府の管轄になった衣川関以北の新たな版図(奥郡)には、胆沢・江刺・和賀・稗貫(ひえぬき)・斯波(しわ)の5郡が置かれるが、統治は、俘囚首長を郡司・村長に任命し、蝦夷の支配関係を温存するもの。
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1月11日
・この日、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヶ国に対し、浮浪人4千人を陸奥国胆沢城に移配することを命じる。
城柵に対する移民としては最後の事例。
胆沢城造営に使役された。
胆沢城のもとには、磐井・江刺・胆沢3郡が置かれるが、江差郡には信濃・甲斐郷が、胆沢郡には下野・上総郷があり、移民の出身地がわかる。
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4月
・胆沢城の造営工事が始まる中、胆沢の蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)とその同志母礼(モレ)が同族500人を率い降伏。
「造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂ら言す、
「夷大墓公(たのもきみ)阿弖利(流)為、盤具公母礼(ばんぐのきみもれ)ら、種類五百余人を率いて降る」と。」
(『類聚国史』巻190延暦21年4月庚子条)
延暦8年、13年、20年の征夷戦を戦いぬいた阿弖流為であったが、多数の死傷者を出し、村落や耕地を破壊され、集団勢力を分断され、しかも胆沢城の造営工事が進むなか、降伏しか道がなかったか。
坂上田村麻呂(45歳)はこれを受け入れ、彼らに夫々、大墓公・盤具公という姓を与える。
大墓(たも)は、北上川東岸の奥州市水沢区羽田町の田茂山に由来するという。
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6月24日
・王臣家が出羽国で渡嶋蝦夷がもたらす毛皮を買い漁ることを禁止する法令が出る(延暦21年6月24日太政官符)。
国司の私的交易を禁ずる法令は、延暦6年以後出されておらず、9世紀には王臣家・富豪層の交易だけが規制の対象となる。
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7月
・この年の夏、桓武天皇は、神泉苑で藤原百川の子の緒嗣に和琴を弾かせて涙を流し、「緒嗣の父がいなければ、どうして自分は帝位につくことができたであろうか」と述べ、彼を29歳の若さで参議に抜擢した(『続日本後紀』承和十年(八四三)七月庚成条の藤原緒嗣伝)。
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7月10日
・この日、坂上田村麻呂が阿弖流為・母礼を伴って入京(『日本紀略』)。
交戦中に捕獲された蝦夷は都に送られ、戦勝の証拠として天皇に進上される原則があり、交戦後に投降した阿弖流為・母礼にもこの原則を適用し、戦勝の証拠として入京させた。
長年にわたり国家に抵抗してきた阿弖流為らが降伏したことは、桓武天皇にとっては長年にわたる征夷政策の成功をアピールするまたとない慶事であり、いかなる状況で降伏したにせよ、その身柄は必ず進上されなければならなかった。
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7月25日
・阿弖流為・母礼の入京を承けて、百官が天皇に上表して蝦夷の平定を祝賀する。
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8月13日
・坂上田村麻呂の助命にもかかわらず、阿弖流為・母礼が河内国で処刑される。
「夷大墓公阿弖利(流)為・盤具公母礼らを斬る。
この二虜は、並びに奥地の賊首なり。
二虜を斬る時、将軍ら申して云く、
「この度は願いに任せて返し入れ、その賊類を招かむ」と。
しかるに公卿執諭して云く、
「野性の獣心は、反覆定まることなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依りて、奥地に放還すれば、所謂虎を養ひて患を遺すなり」と。
即ち両虜を捉えて河内国杜山(もりやま、植山うえやま・椙山すぎやま)で斬る。」
(『日本紀略』延暦21年8月丁酉条)
田村麻呂は、「このたびは、二人の願いに任せて故郷に帰し、蝦夷の残党を招き寄せたい」と述べて、二人の助命を求めた。
しかし、「野性の獣の心は、いつそむくかわからない。たまたま朝廷の威光によってこの族長をとらえたのだ。もし申請の通りに奥地に放還すれば、虎を養って患いを残すようなものだ」という公卿たちの意見によって否定される。
田村麻呂が、阿弖流為の助命を求めたのは、田村麻呂自身が述べているように、未服属の蝦夷を服属させるためであり、そのことを含めて、阿弖流為の持つ権威を胆沢の支配に利用するためであろう。
しかし、莫大な犠牲を払って捉えた蝦夷の族長を生かして故郷に帰したのでは、国家の威信に関わるのであり、処刑して初めて天皇の軍事は正当化されることになる。
阿弖流為の処刑は桓武天皇自身の意向であった。
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2011年11月4日金曜日
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-1) 「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」
東京、北の丸公園(2011-11-01)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-1)
「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」
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随筆「西瓜」(昭和12年)冒頭の「駄句」。
「日乗」昭和8年11月11日
「或年の夏、友達から見事な西瓜を一個貰ったことがあるが、大きすぎて一人ではどうする事もできない。
折角の好意を無にする悲しさに、わたくしは
もてあます西瓜一つやひとり者
といふ發句を書送って返禮に代へた
・・・
わたくしは初に言つたやうに決して獨身論を主張するものではない。
唯おのづから獨身の月日を送ることが多いやうになったのである。
何事にも苦と樂とは相半するものである。
妻帯者には妻帯者の樂みもあれば苦しみもあらう。
獨身者の生涯亦そのやうである」
「荷風が、東京の町をあちこち歩きまわることが出来たのは、彼が単身者であったからこそである。」(川本三郎)
大仏次郎の随筆「散歩について」(『大仏次郎随筆全集』第2巻、朝日新聞社)によると。
散歩は昔の日本では一般には認められていなかった、らしい。
「外出には羽織はかまに大小をさすのが社会的慣例だった日本のサムライに散歩を奨励したって実行不能だったろう。武士が散歩したら『お忍び』である」
「町人の社会でも、堅気な家など、用のない外出を戒めたのは当然である。町をうろついたり、ごろつくのは遊び人だけに認められたことだ。
日本で散歩を許されたのは、彼らか、閑に苦しんでいるご隠居だけである」
池波正太郎の画文集『東京の情景』(朝日新聞社)にも、
「むかしの東京・下町に住み暮らしている人びとは、よほどのことがないかぎり、自分の住む町の外へは出て行かなかった」と書いている。
昔の東京(下町)では「散歩」「町歩き」という概念がなかったのである。
佐藤観次郎(戦中・戦後、「中央公論」の荷風担当編集者)の回想記『文壇えんま帖--編集長の手記』(学風書院、昭和27年)。
戦後、数年ぶりに会った荷風が以前にも劣らず元気横溢していて、70歳を超えた老人と思えなかったと書いている。
荷風はこう答えたという。
「家庭をもたないことが、却って若返りでしょうね。
妻や子供をもつことは、わずらはしさが加わるだけで、この方が、余程気楽ですよ・・・」
家庭のある谷崎潤一郎と独身の自分とを対比させ、次のように語ったという。
「先日銀座を一緒に歩いた時ですがね、谷崎君には、あの銀座裏などには、少しも興味がないらしい。
勿論昼間でしたが、ダンスホールや、いかがわしい所にも・・・谷崎君は、もう孫まで出来ているので、矢張り世帯じみてしまうのですね。すっかりおぢいさんになっている。私より随分若いのに・・・
あれを思うと、家庭をもつと、人間、年老いてゆくんですよ。周囲がそうさせてしまうのですよ。
これが、私は恐れるのですよ。
矢張り家庭を持たずに、妻も子もなくって、これだけはしやわせだと思っています。
私は、その点だけは、よくやってきたと時に考えます。
こんな時代に、子供や孫などもったら、本当に苦労が多くて、
一寸、死にきれませんからね・・・」
明治41年11月7日、浅草散歩中に親友井上精一(唖々)に投函した短かい手紙
単身者ならではの町歩きの喜びが。
「先刻電話をかけたら己に御帰宅。
大川筋を散歩し浅草の一膳飯屋でめしを食った。
何といふ明月一寸吾妻橋から土手を歩いて帰らうと思ふ」。
「荷風は、自分が単身者であることにつねに自覚的だった。
そして単身者だから出来るひそかな楽しみごとの世界に入っていった。
大正から昭和のモダン都市東京には、そういう匿名の個人が身を隠す場所がいたるところに出来つつあった。」(川本三郎)
「「断腸亭日乗」には「孤独」の「孤」の字が非常に多く目につく。
「孤燈」「孤坐」「孤眠」、あるいは「孤眠の清絶」。
「孤」は荷風にとって単身者の反俗のダンディズムである。
俗人と群れたり、徒党を組んだりしない、孤高の清潔さである。
荷風が愛する「孤」は、また、侘び住まいの静かな抒情の源泉でもある。
侘しさの詩情は「孤」があってはじめて生まれる。
同時に「孤」は、無用者、余計者の美意識でもある。
現実社会から降りたところに自分を規定した無用者にとっては、「孤」の状態が、もっとも自然になる。
荷風の「孤」にはそうしたさまざまな想いがこめられている。
ときに「孤」を気取る。
「孤」に沈潜する。
「孤」の詩情をうたいあげる。
「孤」ならではのひそかな楽しみをつづる。
「孤」のわがままを得意気に披露してみせる。
*
*
著者の川本三郎さんもまた詩人である。
*
この項(4-2)に続く
*
永禄10年(1567)8月 信長、稲葉山城攻略 [信長34歳]
東京 江戸城東御苑(2011-11-02)
*永禄10年(1567)
8月
・信長、尾張蓮台寺へ、津島の道場(蓮台寺)の堀より外の屋敷及び寺領は「衆僧」の「裁許」たるべき指示を下す(「張州雑志抄」)。
*
・この頃、明智光秀、足利義秋に臣従し、義秋の上洛を実現するべく朝倉家を辞し、美濃に出て信長に仕える。
*
・武田信玄、嫡男義信の正室・今川氏真の妹を離縁させ駿府今川家に帰す。
*
・武田信玄、占領地を含む全家臣に起請文を提出させる。嫡男義信処断の準備。
*
・北條氏政、上総に出陣、里見氏の拠点久留里城を攻めるため三船台に布陣。
里見勢の先制攻撃に敗れる。太田氏資等戦死。
*
・宇喜多直家弟忠家9千、備中佐井田城(植木秀長)を攻略。
*
・トスカナ大公コジモ、邪魔になったエレオノーラ・デッリ・アルビッツィを、死闘で入獄中のカルロ・デ・バンチャティキと釈放を前提に結婚させる。
カルロは騎士に、エレオノーラの子はコジモが認知。
1577年エレオノーラは夫より姦通のため修道院入り強制、1634/5/19修道院にて没。
*
8月1日
・美濃3人衆(稲葉伊予守一鉄良通・氏家卜全直元・安藤伊賀守守就)、信長に内通、人質供出を申し出。
信長はこれを承諾、村井貞勝・島田秀順が人質受領に西美濃へ赴く。
*
8月2日
・筒井順慶軍、大黒尾方へ出撃するも成果無し。
*
8月3日
・伊達政宗、米沢城主伊達輝宗の長男として誕生。母は山形城主最上義守の娘、義姫。
幼名梵天丸。幼少の頃、疱瘡(天然痘)を煩い、右目を失う。
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8月8日
・スペイン王フェリペ2世、低地地方の新教勢力を一掃、中央集権化のため軍隊1万と執政に匹敵する権限をアルバ公に与え、低地地方に派遣。
この日、アルバ公フェルディナンド(60)がネーデルランドに到着。
22日、総督アルバ公はフランドル、ブラバントの各都市に軍を進駐。
兵2万を動員しネーデルランドの反乱者の弾圧開始。ホールネ伯やエグモント伯などの高級貴族も逮捕。
「血の法廷(血の評議会)」(騒擾の鎮圧を理由に全ての州・都市の憲法・特権を無視)と呼ばれる騒乱裁判会議を開催。
5年間に6千~8千人処刑。
10万人がイギリスやドイツに亡命、抵抗運動を開始。
1568年6月エグモント伯、ホールネ伯処刑。オラニエ公ウィレム1世はドイツに亡命。
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8月12日
・朝廷、三好長逸のルイス・フロイス京都還住奏請を却下。
「日向(三好長逸)、篠原(長房)、下野(三好政康)がバテレンの(京都復帰)ことで了解を求めてくるが許可しないと返事した」(「御湯殿上日記」)。
強硬な反対者は竹内季治・秀勝兄弟、朝山日乗(弘治元年(1555)閏10月頃、上人号授与)、万里小路惟房。
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8月14日
・稲葉山城陥落
信長、1日の美濃3人衆内通の報を聞き、人質が到着する前に直ちに美濃攻め進発。
稲葉山の尾根続きの瑞龍寺山を占領。
次いで、稲葉山麓の城下町井ノ口に侵攻、町に放火。
部将たちには、稲葉山城の周辺に鹿垣(ししがき)を廻らせ包囲戦に入る。
城主齋藤龍興は城を捨て舟で長良川を逃亡、伊勢路に向う。
信長は稲葉山城を岐阜城と改め、居城を小牧城よりここに移す。
稲葉山城攻略戦は「信長公記」などの資料には書かれておらず、舞台編成など詳細不明。
「八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長島へ竜興退散」(「信長公記」)
「一、八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方(味方)に参るべきの間、人質を御請取り候へと申越し候」(『信長公記』)
(美濃三人衆が投降し、村井貞勝・島田秀順が人質受け取りのために派遣されるが、人質の到着前に、信長は出陣命令を下す。)
信長は禅僧沢彦宗恩に井口の新しい名称を考案させ、沢彦は岐山・岐陽・岐阜を候補とする。信長は岐阜を選ぶ。
岐阜の地名(これら漢語の地名)は禅僧達が以前より雅称として稲葉山周辺の土地に付けられている。
信長はこれを機に「天下布武」の印判を使用。尾張・美濃を制圧し、全国制覇に乗出す意欲示す。
那古屋~清洲~小牧~岐阜へと、京都に接近する方向に本城を移す。
「川内長島へ竜興退散」:
一向宗の一大策源地長島への竜輿の亡命(一向衆の竜興擁護)。
織田勢が、尾張南部の「国わき」勝幡・那古野・古渡・末盛から清須・小牧山・犬山・松倉へと北部木曾川中流域の「国なか」へ勢力拡大し、一国領域化を進めつつ、美濃の斎藤氏への攻撃を強化する過程は、同時に、尾・濃両国に深く展開する一向衆との対立激化の過程を伴う。
○信長の美濃攻めの経緯
①永禄4年(1561)5月13日(義龍没の翌々日)
美濃に出動し、森辺(岐阜県安八郡安八町)で、また23日、十四条(じゆうしじよう)・かるみ(軽海、岐阜県本巣郡真正町)で戦う。
②永禄6年(1563)
従兄弟の犬山城城主織田信清(斎藤方)に対抗して、居城を清洲から小牧山に移す。
このため、小牧山から20町ほどの於久地城(小口城、丹羽郡大口町)の敵は、城を明け渡して犬山城に退く。
③犬山城の対岸(木曾川北岸)に宇留摩(うるま)城(鵜沼城)と猿はみ城(猿啄城、加茂郡坂祝町)、その5里奥に加治田城(加茂郡富加町)があり、加治田城城主佐藤紀伊守父子が信長に内通してくる。」信長は、「内々国の内に荷担の者、所望に思食(おぼしめす)折節(おりふし)の事なれば」非常に悦び、兵粮代黄金50枚を贈る。
④犬山城家老で黒田城(葉栗郡木曾川町)主和田新介と、於久地城主中嶋豊後守が信長に内通し、城内に織田軍を引き入れる。
永禄8年(1565)7月頃、犬山城は落ち、織田信清は甲州に逃れる。
⑤美濃に出動し、宇留摩城の近くの伊木(いぎ)山に着陣。宇留摩城は開城。
⑥猿はみ城の上の大ぼて山から水の手(水源)を占拠すると、猿はみ城は降参し、兵は退去。
⑦斎藤軍の長井隼人正が、加治田城の近くの堂洞(美濃加茂市)に砦を構え、関(関市)に本陣をおくが、永禄8年(1565)9月、信長は堂洞城を落とす。
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8月17日
・今川氏真、甲相駿3国同盟破棄を決めた武田信玄への報復として、駿東郡の葛山氏に命じて甲斐への塩荷を止める。
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中旬
・信長、自身が軍を率い伊勢に出陣、長島を放火、高岡城(鈴鹿市)を包囲。
滝川一益に北伊勢衆を付けて押えとし岐阜へ引上げる。
尾張を旅行中の連歌師里村紹巴の紀行『富士見道記』。
「(永禄十年八月中旬)長島一向念仏坊主城敗(成敗)に尾州大守(信長)出陣なれば」
「(同月十八日)夜半過、西を見れば、長島をひ(追い)おとされ、放火の光夥しく、白日のごとくなれば」
寛永期(1624~1644)に成立した『勢州軍記』に、
永禄10年8月、信長が桑名表に出張し、北伊勢の諸城を攻めたが、美濃三人衆の心変わりの噂を聞き、岐阜城に帰陣したとの記事あり。
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8月23日
・ポルトガル船、長崎に来航。
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8月25日
・北条氏政、細川藤孝へ、上杉氏・北条氏・甲斐武田氏の和睦を承諾。また武田信玄への足利義秋下知を要請(「上杉家文書」)。
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8月25日
・飯盛城の松山安芸守、松永久秀方に寝返る。
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8月26日
・岩成友通(「石成」)・中村某、軍勢2千ほどを率い河内へ軍事行動。
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明治36年(1903)6月1日~16日 日露開戦論盛ん(7博士事件) フォード社設立
東京 江戸城東御苑のツワブキ(2011-11-02)
*明治36年(1903)
6月
・根岸短歌会『馬酔木』創刊。のちの『アララギ』につながる。
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・片山潜「都市社会主義」
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・内村鑑三、『万朝報』などで日露開戦に反対。戦争絶対反対の主張を開始。
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6月1日
・東京日比谷公園、仮開園式。日本で最初の西欧式都市公園。設計本多静六(のち東大教授)。5万1,000余坪、
翌年2月、園内に洋風喫茶店松本楼開店。明治35年5月、竣工。
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6月1日
・フィリピン植民地政府、ムスリム地域を纏めモロ州設立。
ゲリラ対策として住民集団強制移住法を制定。
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6月2日
・貴族院、海軍拡張案可決。
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6月2日
・京都に聖護院洋画研究所開校(関西美術院の前身)。
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6月3日
・政府、鉱毒調査委員会の調査報告書を発表。谷中村瀦水池案浮上。
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6月3日
・駐英公使内田康哉、中国の英公使館から武官デュカット中佐のロシアが戦争準備しているとの報告書を提供され、外務省に送付。
デュカット中佐は奉天、遼陽、営口などに旅行しその見聞と情報を綜合して判断したという。
①ロシアは満州占領を永久化するためのあらゆる手段をとりつつあり、他国の軍事的介入があるとすれば、それは日本だと考えている
②鉄道警備に必要である以外に、ロシアは物資の貯蔵と戦略地点への配兵を急いでいる。これは、できるだけ早く日本に交戦を強制する意図のあらわれとみなされる。
③大連で、ロシア側はギンスプルク商会ほか1社に石炭25五万トンの90日以内納入を発注。うち8千トンは英国カーディフ炭、10万トンは日本炭を指定したという。在清英軍部隊の石炭需要量が1日約千トンであることと照合すれば、これは『戦時発注』である
中佐の判決は、
「ロシアは、ロシア軍の移動が容易で日本軍の上陸が困難な時期、すなわち本年晩秋または初冬に対日開戦を企図しているものと確信する」
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6月4日
・漱石(36)、文科大学学長に大学図書館教職員閲覧室の隣室事務員が騒がしいと書面で訴える。
この頃、漱石は精神的不安定状態が続く。
妻鏡子によれば明治36(1903)年6月頃~明治37(1904)年5月頃迄続く
「梅雨期頃からぐんぐん頭が悪くなつて、七月に入つては益々悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、無暗と癇癪をおこして、枕と言わず何といはず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといつては怒り出しますし、時には何が何やらさつぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らして居ります。どうにも手がつけられません。」(「漱石の思ひ出」)
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6月4日
・第18特別議会、閉会。
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6月6日
・外務省政務局長山座円次郎、政友会代議士小川平吉に招かれ料亭「田中」で、日露戦争の必至と伊藤元老の軟弱を批判。
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6月6日
・ロシア、アラム・イリイチ・ハチャトゥリャン、グルジア共和国トビリシに誕生。
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6月8日
・参謀本部部長会議。総務部長井口少将、第1部長松川大佐、第3部長大沢界雄大佐、第4部長(心得)大島健一大佐、第5部長落合豊三郎少将。要望により総長大山巌元帥も出席。
井口少将が代表して意見書を説明。
ロシアに「公然撤兵を要求」し「談判破裂」の時は武力に訴えるべきと提言。
他の部長も同調。
後、大山は桂首相を訪問、「今日ナレバ御引受申ス」と早期開戦を進言。
既に、4月21日「無隣庵」で山県・伊藤・桂・小村は開戦決意。
反政府勢力を刺激し、ロシアに開戦の口実を与えないため秘匿。
(井口少将)
「朝鮮ニシテ一度彼ノ勢力範囲ニ帰スルトキハ(朝鮮海峡、日本海、黄海の制海権を奪われて)日本帝国ハ扶桑ノ一孤島ニ蟄伏セヲレ……対馬及北海道ノ如キ帝国主要ノ属島モ、彼ノ欲スル所ニ従ヒ其占領ニ委セザルベカヲザルノ悲運ニ際会スルナキヲ保セズ」
財政問題については、
「(戦争遂行に際して)最モ切要ニシテ最モ欠乏ヲ患フルモノハ、国ノ兵カニアラズ、海運力ニアラズ、智力ニアラズシテ、金力ナリトス」
戦費は「約五億円」と見込まれ、うち1億5千万円を国庫負担、3億5千万円を公債にして「五十ヵ年償還、年六分ノ利子」にすれば、戦後国民の負担は「最大年額二千八百万円」になる。
「一国ノ存亡ニ係ル大事ノ為ニハ、国民タルモノ此額ノ負担ニ堪へザルノ理アランヤ」
もし勝利の結果の賠償金を獲得すれば、「国民ハ前記ノ負担ヲ免ルルノミナラズ軍費ヲ償ツテ尚余剰」が見込まれる。
「某諜者」によれば、駐日ロシア公使R・ローゼンは、
「日本ノ内政外交ハ、一ニ元勲ノ同意ナクシテハ行ハレズ。内閣総理大臣モ其意志ニ反シテ一事ヲモ断行スル能ハズ。又、元勲ノ幇助ナキ内閣ハ、成立スルヲ得ズ。
而シテ所謂元勲タル三、四人者ハ、功成リ名遂ゲテ年老タレバ、今ニ迨(およ)ンデ一国ノ安危ヲ賭シテ露国卜戦ヲ決スル如キハ万之無力ルぺシ」
との報告を本国に送っている、という。
「彼我兵力ノ関係、西伯利鉄道ノ未完全、日英同盟ノ存立、清国民ノ敵愾心等今日ヲ以テ最好機トシテ、此好時機ハ今日ヲ逸シテハ決シテ再ビ得ベカラズ」
*
6月9日
・元老伊藤博文、政友会幹事長原敬に対して、小村外相が伊藤・クロパトキン会談で日露協商交渉できぬかと打診してきた、と述べる。
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6月10日
・7博士事件
東京帝国大学法科大学教授戸水寛人・小野塚喜平次・富井政章ら7博士、政府へ建議書提出。
満州・韓国交換の対露方針に反対。
6月24日「東京朝日新聞」に公表。
戸水寛人:
「日本はバイカル湖以東のシベリアまでことごとく占領すべし」と主張し「バイカル博士」と渾名される。ローマ法の権威。
小野塚喜平次:
最後に加わり、すぐにメンバから抜ける。主戦論ではあるが開戦論ではないため。
京大澤柳事件では、小野塚が主導して東大が京大と連携し大学の自治を守る。
京大滝川事件では、東大側(有沢ら)を守るため鳩山文相と密約し、沈黙。
昭和3年東大総長。新渡戸稲造・美濃部達吉と交友、晩年は内村鑑三とも交友。門下に吉野作造・南原繁。
「大凡(おおよそ)天下の事一成一敗間髪を容れず、能く機に乗ずれば、禍を転じて幸となし、機を逸すれば幸を転じて禍となす。
・・・遼東還附の際其不割譲の条件を留保せざりしは、是れ実に最も必要の機を逸せるものにして、今日の満洲問題を惹起せる原因と謂はぎるべからず。
・・・若し独逸にして手を膠州湾に下す能はずんば、露国も亦容易に旅順大連の租借を要求すること能はざりしや明かなり。
然るに、我邦逡巡為す所なく遂に彼をして其慾望を逞するを得せしめたるは、実に浩嘆の至りに堪へず、・・・今や露国は次第に其勢力を満洲に扶植し、鉄道の貫通と城壁砲台の建設等により、漸く其基礎を堅くし、殊に海上に於ては盛に艦隊の勢力を集注し、・・・彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。
・・・清国の法は未だ嘗て露国兵の鉄道を保護することを認めず、故に露国が自ら兵を以て鉄道を保護する、是れ条約に基きたるにあらず、又法律に依りたるものに非ず。
去れば満洲の撤兵とは満洲各所の兵も鉄道守備隊も一切之を撤去するの意にして、露国は万国環視の裏に此の誓約をなせしものなり。
是を以て、此の不履行より危急存亡の大関係を有する邦国は最後の決心を以て、之を要求するの権利あり。
故に我邦は鋭意此撤兵を要求せざるべからず、縦令露国政治家たるもの甘言を以て我を誘ふことあるも、溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。
之を要するに、吾人は故なくして慢りに開戦を主張するものにあらず、又吾人の言議に適中して後世より先覚予言者たるの名称を得るは、却つて国家の為めに嘆ずべしとするものなり。・・・」
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6月10日
・ロシア陸相クロパトキン大将、下関入港。
4月28日ペテルブルク発。5月25日ウラジオストク着。6月8日ウラジオストク発。
日本側接待主任は陸相寺内正毅中将、補佐はロシア駐在経験のある佐世保要塞司令官村田惇少将・参謀本部員田中義一少佐。
11日東京に向う。12日午前9時30分、新橋着。寺内陸相、珍田捨己外務省総務長官、ロシア公使ローゼンが出迎え。滞京4日
。桂首相・小村外相と会談。日本側は、ロシアの満州永久占領に反対と明言。
15日、市ヶ谷の中央幼年学校を視察。28日、長崎より旅順口に向う。30日、旅順口着。
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6月10日
・セルビアでクーデター。ベオグラード、国王アレクサンダル・オブレノビチ(アレクサンダル1世)とドラガ王妃、自由主義将校団により謀殺。
翌日、セルビア議会、亡命中のペータル・カラジョルジェビチを国王指名、ペータル1世として即位(在位~1921年)。
「大セルビア主義」信奉者(バルカンにセルビア人主導国家建設)で反ハプスブルク(親仏・親露的、オブレノビッチ家の親オーストリア的傾向と対極)。
1889年憲法復活。急進党パシッチを重用。2度のバルカン戦争に勝利し第1次大戦迄政情は安定。
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6月11日
・中央線八王子~甲府間、開通。
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6月12日
・田中正造官吏侮辱事件、大審院、有罪。/6/16~7/26.服役。
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6月12日
・大阪の人力車夫、巡航船の市内河川運航に反対して、土佐堀青年開館で集会。
この日、大阪では国内博覧会があり、それを機会に社会主義大会が開催され、片山、幸徳、木下等が参加。
続いて、市内の人力車夫の大会が、営業車夫信用組合創立会という名で開催される。3,500~3,600人が参加。
博覧会の客を対し、市内の河川を利用して小蒸汽や早船による客の輸送を行う企業家に対する車夫たちの抗議の集会。
巡査は彼等を解散させようとするが、車夫たちは戎橋附近で蒸汽船に投石し、その船内に乗り込む。検束者約200人。
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6月13日
・ロシア、鴨緑江木材会社設立。責任者は顧問官のベゾブラーゾフ。
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6月15日
・陸羯南(45)、横浜港から日本郵船の安芸丸で出航、アメリカ~ヨーロッパ外遊に向かう。37年1月帰国。
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6月15日
・(露暦6/2)ロシア、労働災害補償法、公布。
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6月16日
・ドイツ、帝国議会総選挙、社会民主党が第2党に。
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6月16日
・アメリカ、ヘンリー・フォード、フォード・モーター社設立。
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