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2026年9月25日金曜日

1931(昭和6)年9月26日付け「大阪朝日」社説 「断じて他の容喙は無用、帝国政府の満州事変声明、正当なる我権益擁護のみ」。事変の正当性を強調。朝鮮派遣軍の越境までも容認する。 「朝鮮より数千名の増援隊を派遣したけれども、これも条約上の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていない。帝国軍隊の行動は全く『正常なる権利の擁護のため』であって、決して局外者よりかれこれ非難さるべきではない。・・・吾人の見解では連盟がもしこれ以上に容喙するようのことあれば、それこそ必要以上に日本の国論を刺激し、却って実際上益なき結果となるであろう」

 

1931(昭和6)年9月21日、多門二郎中将の第2師団、吉林無血開城。朝鮮軍司令官林銑十郎、独断命令により混成第39旅団新義州で越境、満州に出動。 翌22日、閣議、関東軍の吉林出兵、朝鮮軍の独断越境、賛成も反対もなく追認。若槻首相は、天皇から不拡大方針徹底の念を押され、間島・ハルビンには出兵しないと奉答、金谷参謀総長も同様 より続く

1931(昭和6)年

9月23日

国民政府、「国民に告ぐる書」発表。「不抵抗」を説く。

9月23日

重光駐華公使、満州における軍の行動を外相宛上申で攻撃

9月23日

南陸相、首相らにハルビン以外に出兵せずと言明

9月23日

外相幣原喜重郎、駐日公使蔣作賓と会談。幣原は、事件は日本の責任と述べたという。

「十月三日付北京天津タイムス紙は九月二十三日付南京ロイテル通信として左の如き奇妙な報道を発表して居る。・・・発表者が外交部だけに問題であると思ふ」

「外交部長は昨日東京に着任した新駐日公使蔣作賓氏からの長文の電報を本日受取つた。それによれば蔣公使は昨日幣原外相を訪問し約一時間半に亘つて会談したが、その際外相は満州に起つた今回の事件の責は日本関東軍当局にある事を繰返し言明した」

(東亜経済調査局「東亜翻訳通信」10月21日)。「編集・発行兼印刷人」は大川周明。

9月23日

この日付け大阪朝日の記事。

「私は未熟な見習い看護婦ですが、どうぞ満州の曠野に戦ふ人々の看護のために満州へやつて下さい」と大阪府知事に願い出る若い女性。飛田遊郭の娼妓たちが満州の兵士を慰めるための慰問袋を作り始める。前夜の朝日新聞社主催の満州事変映画会には大観衆が集まり繰り返し4度映写。

9月23日

社説「満州事変の本質」(「東京日日」同日付)、政府の不拡大方針に疑問を呈し、「日本はまさに支那のために、国威と利益を蹂躙された被害者」であると抗議。

9月23日

国際連盟、満州事変のため緊急理事会を招集。満州事変に関してレルー議長より日中国外相に第1次勧告。


9月24日

上海、日本埠頭労働者3万5千、満州侵略抗議スト。大中小学生10万も抗議。

9月24日

重光葵駐中国公使、満州における軍の行動を外相宛の上申で攻撃。

9月24日

奉天に袁金鎧・干沖漢等により地方維持委員会、成立。

9月24日

参謀本部第1部長建川少将、帰任。

9月24日

政府、満州事変に関し第1次不拡大方針声明。

9月24日

三井と広東国民政府間の武器供給契約、解約。

9月24日

陸軍中央部、関東軍にハルビンと間島には出兵してはならないと指示

9月24日

黒龍会内田良平が、旧知の「大阪朝日」調査部長井上藤三郎を通じ、幹部への面会の申入れがあり、この日夜、大阪の料亭で井上は内田と会う。

井上は「大阪朝日」入社前、黒龍会の機関誌編集に携わっており、同社内の右翼との折衝窓口。この時の会談の内容は不明だが、翌25日の重役会で事変についての方針が協議され、高齢の為それまでほとんど顔をみせない村山龍平社長が出席し、重大な方針が決定されたことを窺がわせる。

「内田が井上を通じて、『大阪朝日』の姿勢を憫喝、脅迫した」と思われる(後藤孝夫「辛亥革命から満州事変へ-大阪朝日新聞と近代中国」1987年)。その結果、高原は満蒙放棄諭への釈明書を書くが、これは謝罪広告に近いもので、美土路昌一東京朝日編集局総務が「こんなものを出すと軍部に降伏したと物笑いになる」と掲載に強く反対し中止。美土路は抗議していた参謀本部次長二宮治重中将にかけあう。二宮と美土路とは激しくやり合い、2時間ほどの押問答の末、今後納得のゆくまで話し合おうということで結着、「謝罪広告」は出さずに済む。しかし、内田の直接行動をにおわせる個喝に、高原も大阪朝日編集幹部も屈伏。

9月24日

アメリカ、満州事変に関して同文覚書を日中両国代表に手交し、武力に依らない解決を希望。

9月24日

イタリア、外国為替管理を実施(中小国の為替管理が相次ぐ)。


9月25日

井上蔵相、金輸出再禁止の意思のない旨を言明。

9月25日

朝日新聞社大阪本社で役員会。「時局ニ対スル方針」。

「一、貴賓室にて村山社長より全役員と会し、時局問題に付社論の統一の事、及不景気急に回復せず、用紙の値下りもなきため、今後緊縮方針の話杯出づ。 一、・・・、昨夜内田良平氏井上藤三郎氏とつるやにて会したる節の内田氏の注意の報告を受け、高原君の満蒙放棄論の流説に関しては新聞紙上公告する事とし、案を決定し散会せり」(辰井梅吉の日記)。

大阪朝日編集局長高原操の日記では、「・・・雑誌「自衛」事件につき、小生名前にて広告の要ありとの事にて誤解を釈く用意したり」とある。雑誌「自衛」が、軍縮促進・満蒙放棄を主張しているとして高原を攻撃、内田も朝日に圧力をかける。結局、高原の広告は掲載されず。

9月25日

東京朝日編集局顧問兼論説委員米田実、陸軍調査班員の質問に対し、部隊を元の駐屯地に戻すべきと述べる。米田は、前日の社説で、関東軍の行動について「自衛行為たる以上、必要な限度を超ゆべからざるは、国際法の原則である」と書く。

9月25日

「東京日日」朝刊第二面トップで「満州事変、帝国中外に声明、『正当の権益擁護、軍事占領にあらず』」の見出しで、内閣の声明を伝える。

中国側が国際連盟へ提訴した結果、連盟理事会議長は両国代表に「各自の軍隊を直に撤退し得べき適当な手段」をとるよう申し出たが、日本側は拒否した。

26日、社説「第三者の批判の価値」で、この拒否を「最も適当なる処置」「わが国民全体が満腔の共嶋を持つ」と評価し、第三者は事変の真相がわかっていないと批判。

9月26日

上海全市抗日救国大会。10余万人。中国各地に波及。

10月、上海・北京で抗日救国会、義勇団を組織。

9月26日

「大阪朝日」社説「断じて他の容喙は無用、帝国政府の満州事変声明、正当なる我権益擁護のみ」。事変の正当性を強調。朝鮮派遣軍の越境までも容認する。

「朝鮮より数千名の増援隊を派遣したけれども、これも条約上の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていない。帝国軍隊の行動は全く『正常なる権利の擁護のため』であって、決して局外者よりかれこれ非難さるべきではない。・・・吾人の見解では連盟がもしこれ以上に容喙するようのことあれば、それこそ必要以上に日本の国論を刺激し、却って実際上益なき結果となるであろう」

9月26日

石橋湛山「内閣の欲せざる事変の拡大。政府の責任すこぶる重大」(「東洋経済新報」同日付)、政府と軍部の不一致ぶりを「内閣が軍部の方針に屈し、其の引き回すままに従ったということだ。内閣は亡びたに等しい」と批判。

石橋湛山「満蒙問題解決の根本方針如何」(「東洋経済新報」同日、10月10日)、満蒙放棄論を展開。

「満蒙を放棄すれば、果してわが国は亡ぶのか」と問う。満蒙特殊権益確立は力で無理押ししても、中国民衆のナショナリズムによって不可能である。満蒙問題の解決方法は中国の統一国家建設要求をどう見るかにかかっている。

①中国の統一国家運動を力で破壊しても、再び悪い形で運動が起らないか。

②力を持ってたたきつぶすと旧ドイツ帝国の二の舞に陥らないか。

③人口増は領土を広げても解決しないし、鉄、石炭の原料供給基地の確保という面も、平和の貿易で目的を達せられるので力ずくの必要はない。

④満蒙は生命線という国防上の主張は、あたかも英国が国防上、対岸の大陸に領土が必要というのに似ており、日本海で十分である。


9月27日

北平、東北民衆抗日救国会結成。知識人・学生中心の統一戦線的団体。張学良も資金などで関わる。

9月27日

張学良、錦州に仮政府樹立

9月27日

政府は9月24日の米の通牒に対して、攻撃されない限り現在以上の敵対行為にはでないと回答。

9月27日

社説「時局は極めて重大だ」(「東京日日」同日付)、慎重な政府の態度を弱腰として叱咤し、強硬論を繰り返す。

「これ、実にわが国民の上にくだされたる日清日露戦争以来の一大試練であって、われらは大声疾呼して国民的大努力の発動を力説しなければならぬ。正義の主張をまぐる如きことあらば、我が帝国は侮りを外にうける」


9月28日

上海抗日救国会、市商会で第2次常務委員会開催。買弁の退去を要求し、応じない場合は売国罪として処分する、と決議。

9月28日

北平、抗日救国大会。20余万人。政府に対日参戦を要求、さらに市民による抗日義勇軍編成が決議。日本商品ボイコット運動も広範囲に広がり、日本の対中国輸出を激減させる。

9月28日

国民政府の「不抵抗」に抗議の南京中央大学学生、「対日宣戦布告」要求、南京外交部包囲、王正廷外交部長を殴打し重傷を負わせる。

30日、王正廷辞任、施肇基代理。

9月28日

吉林省、熙洽を省長として国民政府離脱宣言。ピストル・ポイント(拳銃を突きつけられての)独立。「満州独立」の先駆。

21日、吉林は第2師団(多門師団長)に無血開城。参謀長熙洽と吉林の日本総領事石射猪太郎の努力による。しかし、2日後、多門師団長は、熙洽との会見で、国民政府に対する独立宣言を迫る。居並ぶ参謀連から拳銃を突きつけられての脅迫に、熙洽は屈する。石射総領事は、満鉄付属地外の事であり、日本政府の不拡大方針から逸脱するので、多門師団長に抗議を申入れるが、軍司令官命令であると一蹴される。石射は戦勝に浮かれる日本人居留民からも浮いた存在となり、軍は外務省に召還を要求するが、留まり、事変後8ヶ月で本省に帰朝申請。

9月28日

全国労農大衆党、対中国出兵反対闘争委員会を結成。

9月28日

日商、在中国権益擁護及び排日運動絶滅を声明。

9月28日

日本放送協会、聴取者激増のため70銭値下げを決定。


9月29日

ハルビンで張景恵、東省特別区自治委員会を組織

9月29日

湯玉麟、独立を宣言

9月29日

中国公使、満州における独立政府建設の企図は日本の責任との口上書を交付。これに対して日本政府は、10月1日、局地的治安維持機関の成立は歓迎と回答。

9月29日

「東京朝日」、満州の中国人は「満州独立国」建設を目指すことで意見が一致し、中でも実現性高い独立計画を持つのは奉天の「地方維持委員会」(袁金鎧、関東軍が傀儡国家建設工作で作った組織)だと伝える。

エドガー・スノーは奉天で袁に取材。「ここではすべてが日本人顧問の言いなりになっていることを、世界が知ってほしい」。「日本人将校数人」が「政府のようなものをつくったので、私にその名目上の長官になれ」と要求し、同行を求めた。「私は断った。すると引き受けなければ叛逆者として投獄され、悪くすると処刑されるかもしれないと言われた」「私は満州が中国から分離しないことを心から願っている」(スノー「極東戦線」32年、34年改定)。インタビューは米国の新聞に打電される。

9月29日

「大阪朝日」社説「連盟と満州事件」。

「そもそも今回の事変は支那兵が満鉄を破壊し危害を我に加えたるに端を発し、我軍は己むを得ざる緊急処置として自衛権の行使をなしたるものと解釈する以上、第二の事態拡大防止も、第三の領土的野心のためでは絶対にないとも自ら証明されるのである。この三点が帝国政府の声明中に明記されてあることが国際連盟は勿論、外国の世論をして日本の行動を正当なりと諒解せしめるに至った所以である」


9月30日

中国共産党宣言、国共合作を否認

9月30日

陸軍より帝大に派遣されている池田純久・田中清・四方諒二・鈴木庫三、桜会の国家改造に関する研究会を持つが、この日をもって終える。10月事件との関連?

9月30日

この日付の憲兵報告、「輿論ハ今ヤ軍部ノ主張ヲ強硬ニ支持スヘシト云ふに帰一シタリト言ふも過言ニアラサルヘシ」と誇らかに述べる。

社会民衆党は、「事件報道セラレルヤ態度一変」、軍部の政策に賛成。大阪財界の有力団体も慎重論を転換し軍部の積極的態度を容認。労働大衆党は、「依然戦争反対ノ底意アルモ世論の趨勢斯クナレル以上此際露骨に戦争反対ヲ唱フルハ不利ナリトシ暫ク傍観的態度ニ出ツト語リ居レリ」と、憲法報告は書く。

9月30日

国際連盟理事会、日本軍は自国民の安全・財産の保障が確保されるとともに、鉄道付属地に撤退するとの決議、日本も加わる全会一致で成立。


つづく



2026年9月23日水曜日

1931(昭和6)年9月21日、多門二郎中将の第2師団、吉林無血開城。朝鮮軍司令官林銑十郎、独断命令により混成第39旅団新義州で越境、満州に出動。 翌22日、閣議、関東軍の吉林出兵、朝鮮軍の独断越境、賛成も反対もなく追認。若槻首相は、天皇から不拡大方針徹底の念を押され、間島・ハルビンには出兵しないと奉答、金谷参謀総長も同様

 

1931(昭和6)年9月20日 午後8時35分、林銑十郎(中将)朝鮮軍司令官より「独断一部ノ兵ヲ越境ヲナシウル余地ヲ与へラレンコトヲ切望ス」と入電。増援部隊は鮮満国境で待機の姿勢で放置。林は、軍は大命を待って出動すべきとの中央の主旨は諒解するが、大命降下となれば日支開戦になり、事は重大。地方問題として処理するには独断出兵の形式が穏当と考えられる、と入電。 より続く

1931(昭和6)年

9月21日

蒋介石、南昌から南京へ帰る。

特別外交委員会設立(委員長戴伝賢・副委員長宋子文・秘書長顧維鈞)。

国際連盟中国代表、満州事変を連盟に正式提訴。

蒋介石、満州事変勃発対処の為、中国共産党討伐計画を緩めると言明。

国際連盟は日本の軍事行動に対して有効な行動をとらない。帝国主義列強にとって中国の共産主義とナショナリズムの方がむしろ大きな脅威であり、日本に対し宥和的な姿勢を示す。ソビエト連邦も計画経済の実施と農業集団化の推進に国力を傾注しようとしており、事件には不干渉の方針をとる。

9月21日

西埼玉地震。マグニチュード6.9、死者・行方不明者16人、家屋損失は206戸。

9月21日

英国の金本位体制停止の影響で、株式・商品相場が暴落。東京・大阪など株式市場立会停止。

23日、再開するも売物が殺到し再び休会(~26日)。

9月21日

午前3時、本庄関東軍司令官、三宅光治参謀長・板垣高級参謀に迫られ吉林出兵・事変拡大を承諾。

9月21日

多門二郎中将の第2師団、吉林無血開城。省長代理熙洽参謀長と在吉林日本総領事石射猪太郎の交渉。吉林(長春の東127km)は張学良の叔父張作相の根拠地であるが、この時、母の葬儀で錦州に在る。

9月21日

朝鮮軍、越境。

午後1時20分、朝鮮軍司令官林銑十郎、独断命令により混成第39旅団新義州で越境、満州に出動。

9月21日

午前10時~午後5時、閣議、南陸相の朝鮮軍派兵の提議、幣原外相・井上蔵相の反対で結論出ず。若槻首相は同調の気配を見せる。

9月21日

午後3時20分、朝鮮軍司令官より、越境入電。

閣議開催中の午後2時40分、朝鮮軍嘉村達次郎旅団長から金谷参謀長宛てに、「旅団ハ本日午後一時、先頭列車ヲモツテ出発ノ予定」と入電。

続いて3時20分、朝鮮軍司令官から、「関東軍ハ吉林方面ニ行動ヲ開始スルニイタリ、著シク兵力ノ不足ヲ訴へ、朝鮮軍ノ増援ヲ望ムコト切ナル重ネテノ要求ヲ接受シ、義ニオイテ忍ビズ、在新義州・混成旅団ヲ越江、出動セシムルコトトセリ・・・」と、朝鮮軍は大命を待たず、軍司令官の独断で越境増派に踏切ると入電。

午後3時半ころ、朝鮮軍より越境開始を知らせる参謀総長宛の電文が到着。ただちに陸相より閣議に報告。林銑十郎司令官の命令による独断越境。司令官が天皇の命をまたず部隊を国外に動かすことは重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当する。若槻首相や井上準之助蔵相は閣議の席上でおおいに憤慨。この話をあとで聞いた鈴木侍従長も「御裁可なしに軍隊を動かすことはけしからん」と怒る。

この間(19日早朝~21日午後)、既に行動を開始した部隊に停止を命じただけで、越境に対する同意も、撤収の指示も与えなかった参謀本部は、陸軍刑法第37条に抵触する行為を敢てした朝鮮軍司令官に黙諾を与えたに等しい。

午後4時、参謀本部作戦部長より朝鮮軍司令官に電報。

「貴軍、以後ノ行動ニ関シテハ当部ニオイテモ情況トクニコレヲ要スルニ至ラバ、直チニ所要ノ部隊ヲ、満鉄沿線オヨビ間琿(間島琿春)地方ニ出動セシムルノ考慮ヲモツテ、要スレバ総長ノ帷幄上奏ヲモツテシテモ、速ヤカニ大命ノ発動ヲ伏奏スルゴトク準備シアリ」

午後5時、金谷参謀長、朝鮮軍越境の允裁をえるべき参内するが、参謀本部より帷幄上奏を中止されたとの連絡有り、朝鮮軍出兵の事実のみ上奏して退出。

これは、金谷の参内後、陸軍省軍事課長永田鉄山が、出兵に関する書類への連帯捺印を拒んだ為。永田の帷幄上奏反対の理由は、閣議にかけて朝鮮軍派遣承認を得た上で、軍の統帥を行なうという点にある。閣議は19日以来、不拡大、派兵不承認のままであり、永田の真意は閣議で出兵を認めさせ、不拡大方針そのものを覆すことにあったと推測される。

この夜、陸軍は、朝鮮軍司令官の今回の独断越境は大権干犯ではないと意思統一し、明朝以降、「政府と戦う」方針決定。翌日の閣議では、朝鮮軍出兵は大権干犯という結論になるかもしれず、その場合は陸相・総長揃って辞職することとして、両者の辞表を準備。

夜、杉山陸軍次官が若槻首相を訪ね、独断越境について閣議で承認する旨を今晩中に天皇に奏上してほしいと頼んだが、若槻はこれを断る。

夜、政府は今回の事件を「事変」と呼ぶことに決める。

9月21日

陸軍省、兵務課長安藤利吉を、謀略の有無の調査のため満州に派遣。事件の発端は中国側にありとの報告。

9月に事変が起きる風評は現地にあったが、陰謀ならば期日が予期されるはずがない、よって陰謀でないという論理により、「事件発端は支那側に在り」と報告(白石博司「安藤利吉兵務課長「満州事変ノ発端ニ就テ」」)。

9月21日

イギリス、金本位制を停止(金輸出禁止)。金本位改正法公布施行。

イギリスでポンド切下げ(約3分の2に下落)、スウェーデン、ノルウェー、エジプトなども金本位制停止。カナダも金輸出を制限。

22日、デンマーク、金本位制停止。

23日、イタリア、金本位維持声明。

28日、オランダ・ベルギーも同様の声明。

29日、スイス、金本位制を停止。

12月13日には日本も廃止。

以来、ポンドが2割程下落、英国商品は中国に進出し、日本のメリヤス等の輸出は打撃を受ける。満州事変以来、中国での排日貨運動は激化し、財界は危機感を強める。また、ドル買いの殺到も凄じく、当時日本の銀行は、国内金利の低下を嫌い、余裕資金で「ドル貨を買入れ、之を先物に売繋ぎ安全を計ると共に、之をロンドンに回金し」、短期外国証券を中心に投資していたが、イギリスの金本位制停止により「国際為替は一大衝撃を受け為替取引は休止状態に陥り・・・ドル先物約条履行の為自衛上必要限度のドル買いの必要を生じ、外に・・・外債利払並一般取引先の輸入為替等実需に基く為替取極の為、Coverを正金銀行より求むる事」になる。

この他、資本逃避やドルの思惑買いも加わり、9月21日~1週間で、正金銀行のドル統制売り(決済期にドル資金が不足すれば、日銀が正貨を払下げる諒解付きの為替先約)は2億円以上、10月15日までに4億円、金再禁止直前までに5億1千万円となる。

この為、日銀正貨準備は、政府の防遏策にもかかわらず、金解禁をした昭和5年1月の10億6千万円から、再禁止の6年末には4億7千万円に落込む。金本位制堅持方針を声明した政府は、10、11月に2度も日銀金利を引上げ、正金銀行には正貨を現送させるなどの手段で金本位制維持施策を強行するが、ドル買いは鎮静化せず。


9月22日

反日市民大会。反日援僑委を上海抗日救国連合に改組

9月22日

関東軍首脳(三宅光治参謀長、土肥原賢二・板垣征四郎両大佐、石原莞爾中佐、片倉衷大尉)、奉天で建川を交え「満蒙問題解決案」策定。「東北四省及び蒙古」に「宣統帝を頭目とする支那政権を樹立」。石原・板垣両参謀は、日本の満州領有を想定するが、建川は、領有案では中央部は同意しないと主張、激論ののち妥協して「独立国家」となる。

板垣・石原らからすれば、この案の力点は、宜統帝起用よりも、地方治安維持の為、熙洽・張景恵らを鎮撫使とする点にあり、これらの旧張作霖軍閥幹部達に働きかけ、張学良からの独立を宣言させ、そうした小政権や独立運動を既成事実とすることで、中国側との「交渉」を成立せなくするという新たな方策を意味するもの。

9月22日

中国共産党中央、日本の満州占領に関する決議。「反日」スローガン無くソヴィエト革命スローガンのみ。

9月22日

朝、南陸相、若槻首相を訪ね、朝鮮軍出兵経費支出を認めるよう説く。若槻は、「出たものは仕方なきにあらずや」と認める。

午前9時30分、若槻首相、参内。朝鮮軍出兵経費支出を閣議決定する旨、上奏。天皇をこれを認めるが、「事態を拡大せぬという政府の決定した方針は、自分も至極妥当と思うから、その趣旨を徹底するように努力せよ」と条件をつける。若槻は、「(現地軍から派兵を具申している)ハルビンと間島では、居留民の現地保護を行わず(出兵しない)、危急の場合はその引揚げを実施致します」と奉答。

若槻は宮中で金谷参謀総長に会い、金谷からは独断派兵について閣議の決定を経なければ天皇の裁可を仰げないので閣議の決定を経たかたちで上奏してもらいたい旨を依頼されたが、若槻はこれを断り、総理大臣官邸での閣議に向かう。

閣議、居留民保護目的の関東軍の吉林出兵、独断越境の朝鮮軍(林銑十郎司令官)、賛成も反対もなく追認。但し、不拡大方針を固守し得ないとはいえ、早期撤兵により国際的孤立を避け、中国との交渉に入る方針は堅持。

「兵力の派遣に関しては閣議に於てとや角論議すべき限りにあらずして唯その事実を認めて軽費の支出に関し議決すれば可なるものなり」(参謀本部作戦課河辺虎四郎中佐「満州事変機密作戦日誌」)。

午後2時40分、若槻首相、再度参内、朝鮮軍派遣経費を認めた旨上奏。天皇は不拡大方針徹底を指示。続いて、南陸相・金谷参謀総長、参内、越境の允裁を得る(追認)。天皇は、「将来を慎め」と叱る(「側近者と入智恵とみて、軍部は憤慨」)。

若槻首相は「こういう情勢になってみると自分の力で軍部をおさえることはできない」と語ったといわれる。

21日に吉林へ出兵した関東軍は、朝鮮軍と謀って間島・ハルビンに出兵しようとする。しかし、若槻首相は、天皇から不拡大方針徹底の念を押され、間島・ハルビンには出兵しないと奉答し、金谷参謀総長も同様。参謀本部は、朝鮮軍に宛て、「間島進入は勅裁命令あるまで断じて許されず」と打電、関東軍にも「ハルビンに対する出兵は、事態急変せる場合に於ても、これを行なうべからず」と厳命、「軍の主力を南満線上に保持して動かざること」と指示。

9月22日

米スチムソン長官、9ヶ国条約不戦条約を引用し満州の事態に関する責任は日本が負うべきとの通告を出淵大使に手交。


つづく


2026年9月22日火曜日

1931(昭和6)年9月20日 午後8時35分、林銑十郎(中将)朝鮮軍司令官より「独断一部ノ兵ヲ越境ヲナシウル余地ヲ与へラレンコトヲ切望ス」と入電。増援部隊は鮮満国境で待機の姿勢で放置。林は、軍は大命を待って出動すべきとの中央の主旨は諒解するが、大命降下となれば日支開戦になり、事は重大。地方問題として処理するには独断出兵の形式が穏当と考えられる、と入電。

 

1931(昭和6)年9月19日 朝、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針決定、上奏。南陸相には、これ以上、事変を拡大しないよう指示。林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁は夫々、事変は軍部の計画的行動と幣原外相に報告。奉天では、建川・板垣・石原・花谷・片倉が「問題解決」協議。 より続く

1931(昭和6)年

9月20日

建川・本庄会見。建川、現地軍の行動抑制しつつ、中央に対して既成事実承認へ導く役割。

9月20日

中国共産党(駐モスクワ中国代表か?)、「強暴なる日本帝國主義が東三省を占領せる事件に対する通電」。

9月20日

在留日本人官民合同時局委員会、成立。

9月20日

国民政府、中央臨時談話会開催。国民党中央執行委員会、広東政府に「共赴国難」を電請。

中央臨時談話会。干右任、戴伝賢、丁惟芬、朱培徳、呉敬恒、邵元沖、邵力子、陳布富、方覚慧、張道藩らが出席、王正延がら経過報告をして3項を決議。

①本月23日全国一斉に半旗を掲げて娯楽を1日停止し、奉天陥落に哀悼の意を表す、

②戴天仇、邵元沖、陳布富、王正延、陳立夫の諸委員に、全国々民に告ぐるの書、各国民に告ぐるの書を起草させ、国民の未曾有の国難に勉する覚悟を促す、

③対日問題に関し広東政府の態度表明を求める。

9月20日

上海市商会、市党部、反日会、夫々に臨時緊急会議を召集、対策を協議し、全国に激烈なる通電を発す。

上海市商会「全国同胞宛通電」。

「中国は今や匪息日々に甚しく、天災全国に普きに際し、国内政局は随時破裂の象を呈している。然るに日本はかかる中国の危機を千載一遇の良機と認め、遂に小事件に藉口してわが国と事を構え、その満蒙併呑の野心を遂げんとしている。かかる重大時機に際して兄弟かきにせめぐことは必ずや悔を千年に残すであろう・・・故に全国民は一致して国内的戦争を中止し、対外的に適当なる方法を構ずると共に、資力と人力を尽して以って当局を扶け、国家の危急を万一に挽回せんことを期す。祈るらくは剣履に及ぶの決心を以って奮起せよ」

反日会「排日弁法六ヶ条」。

①即刻全国軍隊を集中、東三省に出兵して日本兵を駆逐出境せしむ、

②速かに国内の軍事行動を停止して敵対的形勢を取除き、一致日本に向う、

③上海各界代表大会開催、

④抗日義勇団を組織し、軍事人材と義勇義士を募集し国難に赴く、

⑤反日宣伝拡大、

⑥会名変更。

9月20日

夜12時、奉天瀋陽館、関東軍三宅参謀長以下幕僚、全員吉林派兵に決し、三宅参謀長が本庄司令官に建言。本庄は、閣議が事変不拡大を決め、朝鮮軍増援が足止め状態という状況で、吉林出兵には同意せず。大激論の末、払暁、「出兵」決裁をとりつける。

吉林特務機関長大迫通貞大佐の「大迫機関」と甘粕正彦が謀略により「不穏な情勢」を惹き起こし、大迫大佐が、三橋居留民会長から吉林軍の動静を聞くと、甚だ不穏で、居留民保護のためにも出兵されたいと、関東軍に要望。三橋からも要請文が電報で届く。

本庄司令官は、決裁の理由を「独断派兵の理由十分で、派兵の弊害なく、かつ満蒙問題解決の根幹となるべく、また朝鮮軍の派兵を容易にして、増援を期待し得」とする。事実は、その通りになり、関東軍が吉林に移動すれば満鉄沿線はガラあきになり、朝鮮軍が沿線をカバーする理由が発生。

関東軍はハルビンにも同じ手を使い、百武特務機関、甘粕正彦、吉村栄吉(元中尉、石原と同期)の3者で、日本総領事館、朝鮮銀行支店、ハルビン日日新聞社、料亭春日楼などに小型爆弾を投げ込み、「不穏なる形勢」を作る。しかし、東支鉄道が兵員輸送を拒み、ハルビン侵攻は失敗。

9月20日

午前11時、陸軍の次官以下首脳会議、出兵態勢を維持して満蒙問題を解決する、政府がこれを認めないならば陸相は辞任、と態度決定。政府に妥協的な3長官を出兵態勢維持に引き込み、「倒閣」で脅し「撤兵」論を抑え込む狙い。

しかし、「満蒙問題の解決」の内容は、3次官の間で「条約上の既得権益の完全な確保」を目指すものであり「全満州の軍事的占領に及ぶものにあらず」との確認がなされ、事件収拾方法として中国側との「交渉」を予定するものである。

9月20日

午後8時35分、林銑十郎(中将)朝鮮軍司令官より「独断一部ノ兵ヲ越境ヲナシウル余地ヲ与へラレンコトヲ切望ス」の開き直った入電。

増援部隊は鮮満国境で待機の姿勢で放置。不徹底な立場に置かれた朝鮮軍司令官は、軍は大命を待って出動すべきとの中央の主旨は諒解するが、大命降下となれば日支開戦になり、事は重大。地方問題として処理するには独断出兵の形式が穏当と考えられる、と入電。

9月20日

陸軍中央部「間島および琿春地方に出兵を要する件」

9月20日

この日付の朝日新聞社説。

「すでに報道にあるが如く、事件は極めて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶつ壊しをやつたから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたといふまでである」「その非とその責任が支那側にあることは、少しも疑ふの余地が無い」

「大阪朝日」社説「日支兵の衝突、事態極めて重大」(編集局長高原操)、「曲は彼れ(中国側)にあり、しかも数百名兵士の一団となっての所業なれば計画的破壊行為とせねばならぬ。断じて許すべきでない。・・・そもそも満鉄はわが半官半民の経営幹線なりといえども、世界交通路の幹線である。これが破壊を企つものは寸尺の微といえども容赦はできない。わが守備隊が直ちにこれを排撃手段に出たことは、当然の緊急処置といわねばならぬ」

「東京日日新聞」社説「満州に交戦状態-日本は正当防衛」。 

関東軍の行為を「迅速なる措置に対し、満腔の謝意を表し、・・・出先き軍隊の応酬を以て寧ろ支那のためにも大なる教訓であろうと信ずる」と賞讃。

9月20日

宮沢賢治(35)、9月初め童話「風の又三郎」の執筆進行。

20日、上京したが激しく発熱。

21日、父母あてに遺書を書く。

28日帰郷。

9月20日

古賀政男「酒は涙か溜息か」、コロムビアレコードから発売

9月20日

ソ連、金属・石炭工業における賃金制度改組を決定。

9月20日

オーストラリアの極地探検家ジョージ・H・ウィルキンズ、潜水艦「ノーチラス」で北極到達を試み、この日ノルウェーに帰着。 


つづく

2026年9月21日月曜日

1931(昭和6)年9月19日 朝、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針決定、上奏。南陸相には、これ以上、事変を拡大しないよう指示。林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁は夫々、事変は軍部の計画的行動と幣原外相に報告。奉天では、建川・板垣・石原・花谷・片倉が「問題解決」協議。  

 

1931(昭和6)年9月18日 午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール(長さ約80cmほど)爆破。列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。、、、、、 19日未明、独立守備歩兵第2大隊、北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。 より続く

1931(昭和6)年

9月19日

午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る。

朝、幣原外相は駒込の自宅で朝刊を読んで初めて事変を知る。すぐ首相官邸に駆け付け、若槻首相に外務省電報による概要を報告、臨時閣議召集を申し出る。林久治郎奉天総領事から「支那側に破壊されたと伝えられる鉄道個所修理のため、満鉄より線路工夫を派遣するも、軍は現場に近寄らせず、事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらる」との極秘電報が届く。

午前7時55分、林銑十郎朝鮮軍司令官より陸軍中央へ兵力移動入電。

「軍ハ奉天方面ノ情況ニカンガミ、飛行第六連隊(平壌)ヨリ戦闘・偵察各一中隊ヲ今早朝平壌出発、関東軍ニ増援セシメ、マタ第二十師団(朝鮮・竜山)ノ混成旅団・約一旅団ハ奉天方面ニ出動ノ準備ニアリ。ナホ第十九師団(羅南)ニハ、ナルベク多クノ兵力ヲ以テ出動シ得ルゴトク、衛戌地ニオイテ準備ヲ整ヘシム」

9月19日

午前8時40分、朝日新聞航空部の社機、大阪から京城へ飛ぶ。

ここで奉天(現瀋陽)から列車で着いた写真などを積み、翌20日、広島に飛ぶ。ここで待機する別の機に引き渡し、この日の内に東京・大阪で写真号外を出す。朝日は、翌32年3月までに11機を使い計296回も飛ぶ(社機15機保有、「毎日」は数機、「読売」はゼロ)。多いときには1日6回の号外を出す。

中国各地へ記者14(荒垣秀雄ら)・カメラマン8ら特派員計22人を次々に送り込み、「朝日」の圧倒的資本力・機動力で、日中交戦の写真や記事の号外を次々に発行。号外は、2~4頁の付録で、事変一段落する迄に計11回発行。加えて大付録も出す。22日の本紙に地図入り1頁の平易な解説「満蒙早わかり」を添付。国際連盟に持ち込まれてからは、27日、連盟の本質や機構を説明した「国際関係早わかり」(2貢)添付。

事変と同時に、活動写真班は奉天・長春などで軍の奮闘ぶりをフイルムに収め、21日には本社に空輸し、早速、大阪朝日会館でニュース映画を上映。以降新報が届くたびに、大阪中之島公園などで封切られ、大阪、神戸、京都、広島、名古屋、金沢、高松、門司などで公開され、大好評を博す。

「東西朝日」の報道量。社説54回。特電の回数、19日162通。9月360通、11月525通、12月末迄に3785通(普段は月50~100通)。これらの電報は奉天、北平(北京)、天津、錦州、営口、大連、チチハル、ハルビン、長春、吉林など16ヶ所60人の特派員から打電(60人中43人は「大阪朝日」特派員)。号外も連日で、日によって朝夕刊で発行、9月11日~翌32年1月10日、131回、大部分は1頁大の号外。慰問金総額38万円余。特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人の聴衆。ニュース映画上映は、公開個所1501、公開回数4002、観衆1千万人。

19日未明、満鉄線爆破の一報が入った時、東京朝日編集局長緒方竹虎は「出先の出来ごとだから」小さく扱うように指示(「朝日新聞社史」)が、朝日は対中国強硬論に転換したと判断した整理部員が「日支両軍戦端開く」と大展開。整理部デスクは始末書を書く。しかし、ほどなく社論は大きく転換する。

この頃の様子を緒方竹虎は戦後、「早速論説の打合せ会議を開いたところ、・・・背後から鉄砲を撃つようなことは出来んというので、事実に引きずられて」しまった、とする。大阪朝日編集局長高原操は、「奉天特派員よりのうな電その他約尺余の高きに及べり・・・。「支那官兵の鉄道破壊に始まる」と報ずこれを肯定の外なし。臨時部長会を開く。対外的関係重視の必要上、報道全部をそのまま信じ・・・」と「編集局日誌」に書く。奉天通信局長は武内文彬。関東軍石原莞爾とも親密で、関係を危ぶみつつ、激しい報道競争の中で武内を重宝がる。

東京朝日の第一報見出し、「奉軍満鉄線を爆破」(爆破は奉天軍=中国軍の仕業)と、関東軍発表をそのまま掲示。朝夕刊のみならず、号外・第二号外も発行。「奉天軍の計画的行動」「激戦で我兵十九名戦死」。

9月19日

朝、原田熊雄、新聞で事実を知り、直感的に「いよいよ、やったな」と思う。すぐ調査し、「要するに、関東軍司令官が建川が持っていった陸軍大臣の親書を見ない内に、かねての計画を実行させようということらしい」との真相を突き止める(「西園寺公と政局」)。

9月19日

午前9時、後退中の長春駐剳部隊第4連隊黒石大隊と公主嶺守備隊小河原大隊、合流。

10時一斉攻撃前進。

挟撃作戦により、午後4時、南嶺兵営占領。

9月19日

午前8時30分~9時45分、緊急臨時閣議。局地解決・不拡大方針(但し、真相究明には踏み出さず)。幣原外相の謀略追求のため。南陸相、朝鮮軍派兵提議出来ず。続いて3次官会議(杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長)、「之を以て満蒙問題の解決の動機となす」との方針決定。

南陸相は、「事ここに至った以上は、在留邦人の保護の必要は元より、懸案の満蒙特殊権益確保のために、政府は一大決心をなすべき秋がきた」と主張。

幣原外相は、「国際関係も考慮し飽迄小範囲に限定して事件を拡大させない方針を採りたい」と反対、井上蔵相も同調し、政府は事件に対し不拡大方針で臨む事に決定。

若槻首相は南陸相に、「原因は支那兵がレールを破壊した正当防御であるか。もしそうではなく、日本軍の陰謀的行為ならば我が国の世界における立場はどうするか」とクギを刺し、これ以上、事変を拡大しないよう指示。南陸相は「朝鮮軍より増援することの必要を提議」しようとするが、幣原外相が現地からの電報を朗読し関東軍の謀略を匂わしたので、「提議するの勇を失えり」という。

幣原喜重郎は、外務省が得た情報を朗読、「事件は恰も軍部が何等か計画的に惹起せしめたるもの」(「太平洋戦争への道 資料編」)。

9月19日

午前9時45分、南陸相、参内、状況を上奏。

9月19日

午前10時15分、朝鮮軍司令官より混成旅団を増援のため出発させるとの報入電。

9月19日

建川、本庄関東軍司令官(午前11時奉天着)と会い、今後の事変展開について具体的に献策。

「東支線の性質と現下一般の情勢に鑑み、長春以北には兵を派せざるを可とすべきも、吉林、幷洮南等は一刻も早く打撃を加ふるを有利とすべく、又現東北政権を漬し宣統帝を盟主とし日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべし」。

建川は、事変勃発後の事態に即応しつつ、中央と出先関東軍の意見を調整し、両者が齟齬を来さぬよう、関東軍に対しては過剰な行動を抑制し、中央に対しては既成事実承認へ導く巧妙な役割を演じる。

9月19日

中国共産党満州省委員会、「日本帝国主義の満州武装占領についての宣言」

9月19日

午後0時30分、参謀総長名で朝鮮軍へ勅命下達までは増援見合わせるよう機密至急報を発信。

9月19日

午後1時30分、若槻首相、事件の不拡大方針を上奏。

9月19日

午後2時、3長官会議(南次郎陸軍大臣、金谷範造参謀総長、武藤信義教育総監)、閣議決定に同調。3次官はこれを満蒙問題解決の動機にすべしとの意見。

金谷参謀総長は、部内に対し、速かに事件を処理し「旧態に復する」事が必要との意向を示すが、幕僚クラスは、何の成果も挙げないうちに撤兵させることはできないという強い反発の声があがり、3次官はこれに同調。

9月19日

午後2時、旅順の軍司令部、奉天へ移動完了。

9月19日

午後5時45分、本庄関東軍司令官、金谷参謀総長に打電して内地からの増援を要請。

「事態玆ニ至レル以上、此絶好ノ機会ニ於テ先ズ軍ガ積極的ニ全満州ノ治安維持ニ任ズルハ最モ緊急ナリト借ズ。之ガ為、平時編成三個師団ノ増援ヲ必要卜認ム。之ニ要スル将来ノ経費ハ満州二於テ負担シ得ルコト確実ナリ」。

9月19日

夕方、吉林省政府顧問大迫通貞中佐、吉林総領事石射猪太郎に居留民救援要請を軍に出すよう力説、石射拒否。

9月19日

夜、吉林、日本人浪人、日本人商店にピストルを撃ち込む。

9月19日

夜、満鉄北端の長春占領

9月19日

深夜、建川・板垣・石原・花谷・片倉、奉天の瀋陽館2階で「問題解決」を協議。

石原は持論の満蒙占領案を主張。

建川は、「阻害された権益の回復と事変の不必要な拡大の不可を説き、結論として満蒙を独立させ、日本が適当と認める政府を擁立し、指導してゆく。擁立すべき者としては清朝廃帝宣統帝が適当」という妥協的な結論を得る。

板垣は、「今日の事態を機とし、情勢判断第四段階、すなわち領土とするを得策とすべし」と主張。

石原は「現下の状勢、なかんずく、ソ連の軍事力、英支の軍事態勢、米国の軍事力とくにその海軍力は、いずれも実力干渉の能力に欠け、国際連盟の実力干渉も困難であり、日本の国防、満州の防衛、はたまた東亜の保衛上からも天与の好機である」ので、「このさい南北満州の一体不可分解決の要あり」と力説。この石原の判断は正鵠を射ている。アメリカはフーバー大統領が大恐慌に苦戦中、イギリスはマクドナルド首相辞職後、自由・保守両党による国民内閣を組織したばかり、ソ連は第1次5ヶ年計画が完成するかどうかの瀬戸際で、いずれも極東の軍事紛争に兵を進める余裕はない情況。

建川は、板垣・石原の意見具申に対し、翌20日、「現下一般の情勢、就中、東支線の性質から、長春以北には派兵せざるを可とするも、吉林、洮南等は一刻も早く打撃を加うるを有利とすべし。また現東北政権を潰し、宣統帝を盟主とする日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべ」と答える。建川の眼はソ連にむき、その視野を限界点として発言。彼は、その場で発言したばかりでなく、同じ内容のものを電文として、陸相・参謀総長にも打電。

建川は、「情勢判断の第一段」(満蒙における日本の権益の実際的効果を確保し、その拡充につとめる。学良政権にかわる親日新政権を樹立するが、支那中央政府の主権下におく(「昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」)実施の時期であると提言し、板垣・石原の満蒙占領案と衝突するが、建川はその主張を変えず。しかし、軍の積極的行動には、敢えて拘束を加えないと言明(「片倉日誌」)。

9月19日

林久治郎奉天総領事と内田康哉満鉄総裁がそれぞれ、関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破、これを中国軍の所為として総攻撃、奉天城を占領した(満州事変)のは、軍部の計画的行動と幣原喜重郎外相に報告。

林奉天総領事、「今回軍隊出動の計画はすでに一四日以来、非常演習として予行せられたり。我軍の行動は予定の計画の実現と推定される。支那側の無抵抗態度と我軍事行動に伴う小事故が在留外人を刺激し、世界の世論がわが方に不利なる傾向が現われ、対外政策ますます難局に陥るのではないかと憂慮に堪えず」と幣原外相に入電。

9月19日

満州事変の第1報、初のラジオ臨時ニュースとなる。

9月19日

この日付「東京朝日」号外。朝月新聞奉天通信局長の武内文彬による急報。

「ままよと勇を鼓して城内へ入れば警備の武装巡警に止まれ!と銃剣を突付けられること数度に及びその度にえり下が冷やりとする」「交戦地の日支両軍のぶつ成す砲声はますます加はり、日本軍の城内占領計画具体化とともに危険刻々に迫り城内日支人の動揺は極度に達し」。

9月19日

満州事変勃発の影響で、株式、商品相場が暴落。

9月19日

「ラ・スイス」紙、柳条湖爆破事件報道。

9月19日

ヒトラー姪ゲリ・ラバウル、ミュンヘンのヒトラー宅で発見。自殺として処理されるが謎

9月19日

連盟議長レルー(スペイン外相)、日本代表芳沢謙吉に説明求む。


つづく

2026年9月20日日曜日

1931(昭和6)年9月18日 午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール(長さ約80cmほど)爆破。列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。、、、、、 19日未明、独立守備歩兵第2大隊、北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。

 

1931(昭和6)年9月15日 参謀本部第1部長建川美次少将、東京発満洲に向かう。南陸相から本庄関東軍司令官に宛てた親書持参。但し、建川は、本庄司令官に会う前に板垣と会うことになっている(事変当日の18日夜)。16日、石原が、三谷・今田・川島に対して18日夜決行を指示。17日、 石原・板垣の役割確認。 より続く

1931(昭和6)年

9月18日

奉天の森島守人領事と木村鋭一満鉄理事、建川来奉や奉天城占領演習情報などから、事態切迫を予感し、林久治郎奉天総領事に事前防止措置進言。林は、危機切迫を認めず、本庄司令官に宛てて速達の私信を送るのみ。また、この私信は旅順で片倉参謀が握り潰す。

9月18日

朝、板垣、遼陽から奉天へ引返し柳条湖爆破準備完了を確認し、本渓湖へ建川を迎えに行く。

9月18日

午後2時、本庄司令官、巡視を終え石原と遼陽から旅順に向かう。

9月18日

午後、奉天領事館で中村大尉事件に関する秘密会議。~午後8時、終了。森島領事は土肥原・花谷を探す。

9月18日

午後7時5分、建川と板垣、奉天到着。花谷が出迎え、料亭「菊分」へ直行。板垣は宴席には加わらず特務機関へ急ぐ。

「私もなにか起きるということで、その晩、最後に領事館で会議を開いて、終えたのが八時半か九時ごろでしたね。私はその日、建川少将のいるところを捜そうとしたんです。建川と話をしなければならんということで、あらゆる料理屋から、旅館から、心あたり全部電話をかけたりしまた。彼は料理屋で一杯飲んでおったが、陸軍は隠してたのです」(奉天総領事森島守人「昭和政治経済史への証言」)。奉天特務機関に行けば、建川の所在はわかる筈なのに、「探す」にしては動きは鈍重。

建川は「君らの事が半分あばかれた。中央は止めよという。自分の意見はうまくやるならやれ、駄目なら止めた方がよかろう」と述べ、酔いつぶれて寝込む。建川の口ぶりに板垣・花谷は本気で止めようとしていない腹の内を察し、計画通りに実行。建川もまさか、その夜やるとは思っていない。

林総領事は、この日、津久井平吉(日露戦争の沖・横川ら挺身破壊班の同士)の通夜に出かける。林は、関東軍の計画的行動を暴露し、政府による軍の行動緊急差止めを要請した至急極秘電を打ち、19日「午前」と「午後」に到着し、真相を中央へ伝える決定的な役割を果す。

しかし、林は、事変後、関東軍から再度の詰問を受け、中央へ報告した諸情報の取消しを強要され、再三、本庄軍司令官に対して陳謝させられ、遂には軍との協調を図ることになる。武力の前に立たされた外務官僚の現実追随の象徴。

9月18日

夜、大阪・中之島公会堂で「対支国民大会」、国粋大衆党主催。「権益確保のため帝国威武の発動」を求める。講師として登壇した朝日新聞外報部中平亮は、猛烈なやじで立ち往生。

9月18日

午後10時、本庄新関東軍司令官、満州各部隊の巡視から旅順の官邸に戻る。午後8時に大連に着き、野田画伯の家で出来上がった自分の肖像画を見る。

9月18日

午後10時20分頃、奉天独立守備隊島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、部下数人と柳条湖(奉天北8Km北大営南6~700m)の満鉄線レール爆破。しかし列車は転覆せず、北大営から中国軍も出て来ない。河本中尉は、仕方なく北大営に向けて射撃を命じ、川島中隊長へ「北大営の支那兵が鉄道を爆破、交戦中」との伝令を出す。折から演習中の独立守備隊島本大隊川島中隊100名は現場へ急行。

爆破の急報は、特務機関と島本(正一、中佐)大隊本部へ届き、「軍は軍の主力をあげて奉天付近に集中し、一挙に在奉天軍の中枢に一撃を加え、彼の死命を制し、至短期間に解決す」という作戦大綱が、板垣高級参謀によって迅速に実施。島本大隊は北大営へ進撃。平田幸弘第29連隊長は、非常呼集を命じ、奉天城へ進撃。

破壊されたレールの長さは約80cm(秦郁彦「柳条湖事件の再検討」)。19日には平常運行に戻る。

森島総領事代理は、特務機関からの急報で駈けつけ、外交交渉による解決の説得を試みるが、板垣から、指揮権に干渉するなと怒鳴りつけられ、「菊文」から戻っていた花谷が、抜刀して「干渉する者は殺す!」と脅迫。林総領事は、ようやく、電話で板垣に戦闘中止を勧告するが、板垣は「軍は既定の方針どおり事を進める」と、はねつける。その時には既に、24糎流弾砲は北大営を砲撃。

9月18日

午後10時30分、本庄関東軍司令官、板垣参謀より奉天での日支両軍衝突、独断で独立守備隊出動命じたとの連絡受ける。

参謀本部作戦部長建川美次少将、酔いつぶれ役立たず。

9月18日

深夜、朝日新聞奉天通信局長竹内文彬、支局員「K君」と共に喝采を叫ぶ(「満州・上海事変全記」)。

勃発の瞬間、武内は入浴中。「ドーン」とガラス戸が被れ、家を揺るがす大音響がとどろき、次々に重砲の爆音、機関銃の銃声が響く。電話が鳴り、妻の「アナタ電話です。国家の一大事だそうです。お風呂どころの騒ぎじゃないです」との伝言に、武内は飛び出し、第1報を本社に打電。徹夜で約8時間、計28通の至急電報を打ち、「朝日」開闢以来の記録を作る。奉天通信局員のK君が自動車で駆け付けて来る。「イヨイヨやりよったネ」と話しかけると、「とうとうやりましたネ」とK君も顔を真っ赤にして答える。

9月18日

夜遅く、旅順の関東軍司令部に柳条湖鉄道爆破の急報が入ると、司令部の参謀連中(情報の新井匡夫、作戦補佐の武田寿、輸送動員の中野良次の各参謀、幕僚付け片倉衷、調査班長竹下義晴ら)が参謀長官舎前に集り、板垣・石原が幕僚を無視して事件を起こしたことに不服で、事件に協力するかどうか、議論を交す。

この時、片倉と新井が大乗的見地から板垣・石原に協力するよう説き幕僚達を纏める。

石原が遅れて参謀長官邸に着。彼は、急報を聞き、軍司令官官舎に行き、遼陽の第2師団に対する奉天出動命令の決裁を受けてからやって来た。そして参謀長官邸から遼陽に電話で、第2師団長にその命令を伝え、三宅参謀長以下はやがて軍司令部に移る。



9月19日

午前0時、本庄関東軍司令官、司令部着。

9月19日

午前0時28分頃、第2報が届く。

作戦主任石原は、「・・・最早一刻を猶予すべからず。断乎として軍全力の行動を起こし、短切に敵中枢の死命を制すべきである」との参謀長以下の結論を伝える。本庄は瞑目して沈思黙考5分、開眼すると「宜しい。本職の責任に於てやろう」と断案を下す。本庄より「全線全関東軍出動、奉天軍攻撃」を命令。軍司令官も奉天に出動と決定(19日午後2時、奉天に異動)。同時に、参謀長以下の進言により林銑十郎朝鮮軍司令官に増援を要請。

9月19日

午前1時7分、関東軍からの第一報、陸軍中央に届く。南陸相は、夜半過ぎ、宿直将校に起され、奉天特務機関の軍機電報で事件発生を知る。

「十八日夜十時半ごろ、奉天北方、北大営西側において、暴戻なる支那軍は満鉄線を破壊し、わが守備兵を襲い、駈けつけたるわが守備隊の一部と衝突せり。報告により、奉天独立守備第二大隊は現地に向い出動中なり。」。

9月19日

午前2時、公主嶺独立守備隊司令官守中将、関東軍司令官より奉天前進命ぜられる。

9月19日

午前2時頃、小磯軍務局長、陸軍省からの電話で事件発生を知る。そのまま就寝。

5時頃、塀を乗り越えて訪れた朝日新聞記者高宮太平の質問に「(事件は)大きくなりそうだ」と答える。

9月19日

午前2時20分、第一報の「電通報」が「大阪朝日」本社に入電。

9月19日

午前2時30分頃、「東京朝日」編集局に第1報が入る(「満州・上海事変全記」)。

第1報。「奉天で日支軍衝突」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破・・・」「深夜の奉天市内は今や砲声轟く戦火の巷となった・・・」が入電。

「はり出しのため主要地方通信局への速報、号外準備の動員など編集局の神経は高圧電気を通した電線の如くになった」

「翌一九日には早くも編集局の論説委員会が開かれて、事件に対する正しい見解と態度が決定された。日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護、新聞編集には単に日本国内の読者のみを対象とせず、世界の世論を考慮に入れることーこれが事変を中心としての我々の新聞製作の標識であった」(社会部長鈴木文史朗)。

9月19日

未明、独立守備歩兵第2大隊、王以哲軍兵営北大営占領。第2師団歩兵第29連隊、奉天城侵入。引続き長春占領。営口、鳳凰城、安東占領。

9月19日

午前3時、長春駐剳部隊司令官歩兵第3旅団長長谷部照悟少将、第4旅団長大島陸太郎大佐に命じ第2大隊(黒石大隊)の南嶺(長春南6㎞、奉天直系の歩兵1連隊・野砲1連隊、計3600・火砲36門)攻撃下命。

5時、南嶺砲兵営奇襲するも、応戦により後退。

9月19日

午前3時30分、本庄関東軍司令官、旅順発。午前11時、奉天到着。

9月19日

午前6時、公主嶺独立守備隊司令官森中将、第1大隊(小河原中佐)を南嶺へ派遣。

森中将は、前夜(18日)11時10分頃、奉天付近の戦闘の報告を受け、部隊に出動準備を命じ、19日午前2時頃、関東軍司令官から、第1、5大隊主力を奉天へ前進させる命令を受け、午前6時には公主嶺駅(長春南94km)に搭載完了。しかし、奉天での戦闘行動は成功しているのが、長春付近では苦戦中と知り、小河原中佐の意見具申を容れ、独断で小河原中佐の第1大隊を長春の応援に赴かせる。

9月19日

午前7時、陸軍中央部首脳会議。全面的に関東軍支持。

9月19日

早朝、北京、張学良ら東北関係者会議、張の主張確認、「あらゆる軍事・外交はすべて全国的問題・・・抗戦を主張するがそれは全国的抗戦でなければならない」

9月19日

午前7時過ぎ、若槻首相・幣原外相ら、事変発生を知る。


つづく

2026年9月18日金曜日

1931(昭和6)年9月4日 河本大作(予備役大佐)、参謀本部第5課長重藤千秋大佐の要請により、奉天で特務機関花谷正少佐に開戦謀略資金5万円を渡す。高級参謀板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐(関東軍作戦参謀)と会談

 


1931(昭和6)年の今日(9月18日)、柳条湖事件(満州事変の発端)が起る。

夜10時20分頃、奉天郊外の柳条湖付近の南満州鉄道線路上で爆発が発生。実は関東軍の謀略だ合ったが、関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作であるとして中国軍を攻撃する。


〈1931(昭和6)年9月の年表〉

9月

上海で抗日大集会。

日本全国労農大衆党、対中国出兵反対闘争委員会結成。

日本商工会議所、在中国権益擁護・排日運動絶滅声明。

新興キネマ株式会社が創立。松竹資本により帝キネの業務を代行。

鈴木伝明、高田稔、岡田時彦ら、松竹を退社し不二映画を創立。

蔵原惟人(谷本清)「芸術的方法に就いての感想」(「ナップ」)、~10月)。

中野重治「今夜おれはおまえの寝息を聞いてやる」(「中央公論」)。

小林秀雄(29)「眠られぬ夜」(佐藤春夫編「古東多万」創刊号)

谷崎潤一郎「盲目物語」

藤沢恒夫「少年」

インヴァゴードンのイギリス大西洋艦隊水兵反乱。

イギリスの金本位体制の停止による金輸出再禁止を見通して、三井財閥などのドル買いが激化。日本銀行と横浜正金銀行、協議の上無条件で売りに応じる。11月、問題化。

アメリカ、銀行恐慌、全国に拡大。この年だけで2千以上の銀行が倒産。

9月1日

関東軍司令官本庄繁中将、着任第一声として隷下一般に訓示。

「本職深く期する所あり。精鋭なる我が将卒に信頼し、戮力協心(りくりょくきょうしん)匪窮(ひきゅう)の節を効し、以てこの変局に処し、相偕に国運伸展の大業に寄与せんことを庶幾う」。

9月1日

上越線の清水トンネル開通。工事期間9年4ヶ月、全長9702m世界最長、上越線が開通

9月2日

アメリカ、ラジオ番組「ビング・クロスビー・ショー」の放送が始まる。 

9月3日

外交部長王正延、中村大尉事件を中国側の犯行とみて謝罪を求める日本に対し「事実無根」と声明。

この頃、中国政府は、今後の対日方針を示す「対日方法建議案」を採用。中国は、日本の満蒙侵略政策を徹底的に抑制する強硬姿勢を打ち出す。

9月3日

大阪大丸、第1回服飾研究生として初めて女子店員をパリに派遣。

9月3日

ユーゴスラヴィア、新憲法施行('41年迄ユーゴ基本法として存続)。議会復活。ユーゴスラヴィア王国と改称。

9月3日

イギリス、外国為替制限令を公布。

9月4日

河本大作(予備役大佐)、参謀本部第5(支那)課長重藤千秋大佐の要請により、奉天で特務機関花谷正少佐に開戦謀略資金5万円を渡す。

3日、河本は参謀本部第2課長(実際は第5=支那課長)重藤千秋大佐の求めにより、奉天特務機関(長は土肥原賢二大佐、A級戦犯として絞首刑)に柳条湖における開戦謀略資金5万円を渡すことになり、4日朝羽田を出発、京城経由で夕刻奉天着、特務機関花谷正少佐に5万円を渡し、料亭で高級参謀板垣征四郎大佐(河本の後任、A級戦犯として絞首刑)、石原莞爾中佐(関東軍作戦参謀)と会談。

8日午後奉天~空路大連へ、大連大広場の大和ホテルに宿泊し、星ヶ浦の大和ホテルで満鉄理事・経済調査局委員長十河信二(戦後の国鉄総裁)と会い、板垣・石原との会談結果を伝え、「十河に頼んで満鉄総裁内田康哉に働きかけ、関東軍が軍事行動に出た時ただちに積極的に協力させることとした」という。

9日早朝大連発、空路京城に行き、朝鮮軍参謀中山大佐に、関東軍からの開戦後即時救援依頼を伝え、その日のうちに空路福岡に帰着、鉄道で11日に帰京。

河本大作は、参謀本部・関東軍・満鉄・朝鮮軍を結ぶ連絡役として、満州事変の開戦謀略の最後の仕上げを行う(1953年8月2日、太原戦犯管理所における河本大作(同月25日病没)の供述調書)。

9月4日

この日、原田熊雄、若槻首相・幣原外相に、満州での浪人の暗躍の様子を伝え、近く陸軍が武力行動に出るのではないかと注意を促す。翌日、幣原は奉天の林久治郎領事に暗号電報で浪人取締りを訓令。

4日付け原田の日記。

「とにかく(軍部は)現在の政治の状態に頗る不満であるから、実際において統制のとれていない陸軍においては、いつ何事が起こるかもしれない。この点は頗る憂慮に堪えないのである」と満州事変直前の危機的状況を予感(「原田日記」第2巻)。

4日付け訓令。

「最近関東軍板垣大佐等は、貴地方面に於て相当豊富なる資金を擁し、国粋会其他支那浪人を操縦し、種々策動に努め居り。特に中村事件の交渉捗々しからざるに顧み、本月中旬を期し具体的運動を決行することとなれりとの聞込あり・・・」。

9月4日

陸軍、軍制改革案の大綱を発表。

9月5日

幣原外相から林奉天総領事へ訓電。

「最近関東軍板垣大佐ラハ・・・浪人連ラノ策動取締り上、コノ上トモ御手配アリタシ」。

4日頃、外務省へ、奉天領事館以外の現地から電報が入り、関東軍の少壮士官が満洲で武力発動を計画中と伝える。この露顕は、特務機関に雇われている男からとも、花谷が酒に酔って放言した為とも云われ、大川周明ら内地の右翼団体の一部からも噂が流れる。料亭に入りびたる国士らが、問題の周辺を徘徊しているので、洩れない方が不思議なくらい。

9月5日

独墺関税同盟構想、ハーグ国際司法裁判所で違反判決。

10月2日、独クルティウス外相辞任、ブリューニング首相が外相を兼任。

9月6日

関東軍石原参謀、特務機関花谷少佐・今田新太郎大尉(張学良顧間柴山兼四郎の補佐官)・三谷清少佐(奉天憲兵隊長)らに、9月下旬の柳条湖計画は中止と煙幕を張る。奉天総領事館が彼らの動向に注目し始めたため。

9月6日

国際無産デーのこの日、反戦を叫ぶ130人が検挙。

9月7日

本庄繁関東軍司令官、各部隊巡視(初度巡視)開始。旅順、大石橋、鞍山、連山関、奉天、鉄嶺、長春、更に奉天、遼陽の各部隊を巡祝し、18日午後10時頃、旅順に戻る。

途中13日、長春での独立守備隊に対する訓示。「近時匪賊の跳梁甚しく、鉄道の運行を妨害し、剰え我が付属地を窺うもの多きは、誠に寒心に堪えざる所なり。我が威武を軽視する是等不逞の徒輩に対しては、進んで断乎たる処置をとり、鉄道守備を完うすると共に、帝国在留民の不安を一掃することを努むべし。」

9月7日

天皇、中村大尉事件で出兵不許可言明。

9月7日

安保海相、参内。軍紀について下問され、「軍紀の維持作興」について言上して退出。

9月7日

陸軍、省部の間で、中村事件に関して強硬態度をとるとの公式決定に達す。

9月7日

大川周明・津久井竜雄・赤松克麿、日本国家社会主義研究所を設立。

10月1日、「日本社会主義」を創刊(1932年6月「国家社会主義」と改題)。

9月7日

第16師団(京都)の「醒めよ国防に !」というビラを福井・金沢・富山・松本に撒く。10万枚散布

9月7日

ジュネーブ、国際連盟第12回総会開催。

9月7日

ロンドン、第2次英印円卓会議、開催。~12月1日。

14日、ガンディー、国民会議派代表として参加。少数派教徒の代議権について合意に達せず。

9月8日

この日付東京朝日社説、「共存共栄の原則」が中国側から蹂躙されつつある、「国策発動の大同的協力に向つて、その気運の促進と到来とを・・・痛切に希望する」と論じる。社論は対中国強硬論に転換しつつある。別の個所では、「軍部の反動的強硬論にも国民は無条件的賛意を表しかねる」と武力行使を牽制するが、それも及び腰。

9月9日

奉天、東北辺防軍司令部、第2回中村事件調査隊呉根香、奉天軍栄臻参謀長に「屯墾軍第三団の関玉衝が部下に命じて中村らを殺害し金品を強奪した形跡あり」と報告。


つづく