2012年9月21日金曜日

長徳4年(998) 道長『御堂関白記』始まる。 「維衡・致頼等合戦」

東京 北の丸公園
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長徳4年(998)
この年
・この年もまた赤斑瘡(あかもがき)が流行
この年は夏から秋に最盛で、一条天皇も罹病し、上下わずらわぬ者なしといわれ、死者も多かったが、下人はあまり死なず、四位以下の者の妻がもっとも被害を受けたという。
一条天皇は正暦4年(993)に疱瘡にかかり、今度も罹病したから、今度の疫病は天然痘ではないはず。『栄花物語』には赤い細かな発疹をともなうことが書いてあるから、おそらく麻疹であろう。
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・この年より道長『御堂関白記』(自筆本14巻が現存)始まる。~寛仁4年(1020)。当時一般のならいとして、具注暦(ぐちゆうれき)という暦の余白に書きこまれている。
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3月3日
・この日から道長が突如重病に陥った。
初め彼は全く万事を諦め、再三、官職を辞し、出家して年来の本意を遂げたいと奏請した。
この時の彼の病は、当時の記録では、腰病・邪気(腰の痛みで、もののけによるものらしい)というだけで、どんな症状か、誰のもののけか明確ではない。
再三再四の辞職出家の申請は聞き入れられず、陰陽師の勧めに従って転居してから、徐々に快方に向かい、約半年の後にようやく外出できる程度に回復した。
この年も赤斑瘡(あかもがき)が大流行し、天皇・中宮以下軒なみに罹病し、公卿以下の死亡者も多かったが、道長の病はこの赤斑瘡ではなかったようである。
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10月3日
・大地震。
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10月23日
・藤原行成、右大弁に就任。
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この年晩秋から冬にかけて
紫式部は藤原宣孝と結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
翌長保元年には長女賢子が生まれた。ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
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12月
維衡・致頼等合戦①
この年、伊勢国に居住する平貞盛の子下野前司維衡(これひら)と、平公雅(きんまさ)の子散位(さんい、官職についていない五位)致類(むねより)が合戦し、伊勢大神宮と伊勢国から政府に訴えられた。
二人は『続本朝往生伝』が「天下の一物」と讃える一条朝を代表する武士である。

この月、政府が両人を召喚して検非違使庁で訊問したところ、維衡は過状(かじよう、詫び状)を提出したが致頼は非を認めなかった。
翌長保元年(999)12月、維衡は五位のまま淡路に移配、致頑は五位を剥奪して隠岐に流罪と決まったが、維衛はまもなく赦されて京に戻り、致頬も長保3年に召還され、やがて五位に復した。

『今昔物語集』は、伊勢国で武芸を競い合っていた二人を中傷する者があったので、合戦に及んだとしている。
武芸を競い合う敵対関係は世代を越えて受け継がれていく。
維衛と致頼の対立は次の世代の正輔(まさすけ)と致経(むねつね)に持ち越され、2人は長元3年(1030)、伊勢国で合戦した。

武士の名誉と「私合戦」
2人は当代を代表する兵(つわもの)として知られた人物。
「武士には則ち満仲・満正・維衡・致頼・頼光、皆これ天下の一物なり」(『続本朝往生伝』)とか、「此党頼信・保昌・維衡・致頼とて、世に勝(すぐ)れたる四人の兵なり」(『十訓抄』)などと記されている。

武士にとって武名こそすべてであった。
武名を維持するためには、やられたらやりかえす復讐を身上としなければならなかった。
その復讐を「義」と感じた武士は、復讐を企てる武士を積極的に支援した。
将門の反乱の直接のきっかけは、常陸介藤原維幾(これちか)の迫害に対する藤原玄明(はるあき)の復讐への支援であり、純友の反乱も、備前国での介藤原子高(さねたか)の抑圧に怒った藤原文元(ふみもと)の報復を支援したことから始まった。

他人の中傷がもとで「一以当千(いちいとうぜん)」の誇りが傷つけられると、武士たちは私合戦=決闘によって自らの強さを証明しようとした。
『今昔物語』には将門の乱より以前、箕田源二宛(みたげんじあつる、摂津渡辺党の祖)と将門の叔父の村岡五郎良文が武蔵国の原野で一騎打ちの合戦をしたが決着がつかず、その後は互いの射芸に一目置き合う親密な仲になったという有名な説話があるが、この決闘の原因も他人の中傷であった。武士は登場した当初から、武名を競う決闘・報復という武士特有の行動規範を生み出していた。

この月の動き
12月14日、左大臣藤原道長が頭弁(とうのべん)藤原行成に奏上させた中に 「五位以上畿外に出づべからざるの由、法条の制する所なり。而るに前下野守維衡・散位致親等、数多(あまた)の部類を率ゐて、年来の間伊勢国神都に住む。国郡のため(欠)事の煩ひ有り、人民の愁ひを致す、と云々」とあり、両名を大神宮司・国司らに命じ京に追上げさせることとなった。

同26日、陣定(公卿による政務評議)において、維衡・致頼の合戦が議せられ、左右衛門府の番長のうち「事に堪へたる者」を使にして、改めて召上げるべきことが定まった(14日に決めた両人の召還は成功しなかった)。

同29日、伊勢国司が調査して上申した「維衡・致頼等合戦状文」を奏上(以上『権記」)。

平氏と伊勢
平維衡は、正度、正衛、正盛と続いていく伊勢平氏の祖といわれ、これは、伊勢に地盤を拡げ活動していたことのわかる最も古い事例である。
本来東国を地盤にしていた平氏が、いつの時点で伊勢と関係を持つに至ったか。
将門の乱追討に活躍した平貞盛が、その後、なんらかの縁で伊勢と関係を有するようになったと推定される。
初期の平氏の勢力圏は、鈴鹿郡以北の北伊勢を中心に一部は尾張に及んでいたとみられ、うち維衡流は鈴鹿郡・三重郡などに、致頼流はその北に、本拠を置いていたと思われる。

伊勢における平氏家人らの本拠の分布
三重郡には館氏のほか、治暦3年(1067)年頃に維衡の孫季衡の従者が居住していた(『大神宮諸雑事記』)。
また『三国地志』(宝暦13年編纂完)によれは、三重郡を本貫の地とする平氏家人には、別に日野十郎・黒田後平四郎・伊藤武者次郎などがいる。いずれも『平家物語』『吾妻鏡』などに登場する者たちである。
さらに『三国地志』は、上総介忠清・忠光・悪七兵衛景清らを、国衙所在郡で三重郡に南接する鈴鹿郡の住人、また古市の白児党を鈴鹿郡の東南に続く奄芸郡の住人と記している。
つまり伊勢を木貫とする平氏家人の大部分が、三重・鈴鹿・奄芸の諸郡に本拠をもつと伝承されているのである。このうち三重郡は、維衡・致頼の合戦のあった長徳4年より30年以上前の応和2年(962)年に「神郡」になっている。
伊勢平氏の最も古い根拠地は、三重郡を中心とする北伊勢地域と推定できる。

この頃の平氏の伊勢居住は「土着」ではない
9世紀以降、中級官人や貴族が、都に本宅を置いたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営を行なうことがあった。
この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持発展させるための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。
中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築こうとした。このような地方居住の概念を「留住」(戸田芳実)という。
この頃伊勢に居住する平氏も、農村に深々と根をおろす地方豪族ではなく、京に足場をもって農村との間を往来する一種の地域支配領主と規定される。
平氏の伊勢留任は、京都の官界・政界における諸活動の結果であり前提である

維衡の財力
『尊卑分脈』によれば、平貞盛には、維叙・維将・維敏・維衡の4人の男子がいた。
彼らはいずれも数カ国の受領を経験している。
維衝は兄弟の中では、最高の受領経験者であった。

寛仁4年(1020)頃、左大臣藤原顕光と娘一条天皇女御元子との間におこった京都堀河院の領有争いに触れて、『栄花物語』「巻一六もとのしづく」に、
「これは焼けたりしかば、故一条院のこれひら(維衡)して造らせ給へりし堀河の院なれば、女御は我領ずべしとおぼしたれど、」
という一節がある。
一条天皇が承香殿の女御元子のために、焼亡していた堀河院を修造させたのは、彼女が入内した長徳2年996)年2月から、懐妊し出産のため里第の堀河院に退出するまでの時期と考えられ、維衡と致頼の武力衝突の前年もしくは前々年にあたる。

堀河院は藤原基経の造営になり、数代を経て兼通、その子朝光、顕光へと伝領された。
『拾芥抄』に「二条南堀川東、南北二町」とあり、左京三条二坊の九町と十町を併せ、間を東西に通る押小路を吸収した堂々たる邸宅である。「堀川院は地形のいといみじき」(『大鏡』巻二)といわれ、山水の美は多くの文人・貴族によって詩歌に詠まれ、10世紀末および11世紀後半の二度の里内裏として重要な役割を果たした。
このような平安京屈指の名邸の修造に、維衡が起用されたのは、彼の財力が尋常のものではなかったことを示している
その根幹をなすものは、伊勢留任の成果や下野守など受領在任中に蓄えられた富である。
そして、余人をさしおいて維衛が修造に起用されたのは、彼が元子の父右大臣顕光の家人であったからと考えられる。
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