2024年6月17日月曜日

大杉栄とその時代年表(164) 1895(明治28)年10月7日~8日 一葉、文名は高まるものの、虚名たちまち野末に返る運命であろうと達観する 乙末事変(閔妃殺害事件)そのⅠ 外務省政務局長小村寿太郎を弁理大使任命し、井上馨と共に漢城派遣。

 

乙未事變

大杉栄とその時代年表(163) 1895(明治28)年9月21日~10月6日 子規の第二~五回吟行 「遊志勃然、漱石とともに道後に遊ぶ」(子規「散策集」) 「古塚や恋のさめたる柳散る」 「行く秋や我に神なし仏なし」 より続く

1895(明治28)年

10月7日

朝鮮、朝、三浦梧楼公使、国王が訓練隊解散を決意、内示したことを知る。計画に支障となるため、急遽8日未明決行を決める。

午後3時頃、馬屋原少佐・荻原警部・安達謙蔵に指示。

三浦から指示をうけた安達謙蔵は新聞社に戻る。午後10時頃、社を出て南4kmの竜山に向う。ここで楠瀬中佐・堀口九万一・荻原秀次郎警部・横尾勇太郎巡査・境益太郎巡査・岡本柳之助(岡本は仁川から急遽駆けつけたため遅れる)らと落合う。

午前0時半頃、一行40人程は、ここから大院君連行に向う。

一方、柴四郎の宿にも10人程が集合し、国友重章を隊長として光化門付近を偵察。

10月7日

近衛師団、斗六を占領

10月9日、近衛師団、嘉義を占領

10月7日

この日付け一葉日記(再開)。6月17日から中断していた日記を再開。「水のうへ日記」、~11月7日。無署名


「やうやう世に名をしられ初(そめ)て、めづらし気にかしましうもてはやさるゝ。うれしなどいはんはいかにぞや。これも唯めの前のけぶりなるべく、きのふの我れと何事のちがひかあらん。小説かく、文つくる、ただこれ七つの子供の昔しより、思ひ置きつる事の、そのかたはしをもらせるのみ。などことごと敷はいひはやすらん。今の我みのかゝる名得つるが如く、やがて秋かぜたゝんほどは、たちまち野末にみかへるものなかるべき運命、あやしうも心ぼそうもある事かな。」(「水のうへ日記」明28・10・7)

(ようやく世間に名前を知られて来て、珍しげにうるさい程もてはやされる。嬉しいことだといってよかろうか。これもたゞ目の前の煙のようなもので、私自身は昨日の私と何の違いがあろう。小説を書き、文章を作る ー これはたゞ七歳の子供の頃から思い続けてきたことの、ほんの片端を書いただけです。どうしてこんなに大げさに言いはやすのだろう。今の私が俄にこんな名声を得たように、やがて秋風が吹き出すと、野末に捨てられて誰も見返る人もないでしょう。そんな運命を思うと、ますます心細いことです。こんな気持ちをしばらくここに書き留めて、後々の心慰みにしたいと思う。)


文名は高まってきたが、虚名たちまちに野末に返る運命であろうと達観。

この日夜、母と妹が本郷へ買い物に出た時に、読売新聞記者関如来が来訪。一葉が玄関に出たが、「一葉君はうちにや」と尋ねる。秋風が寒いのに、白と黒の絣(かすり)の浴衣を重ね着し、素肌の上に袴をつけた異様な風態。話もおかしく、帰宅した母と妹が隣室で思わず笑い出す。そのうち、「自分も妻がほしい。媒(なかだち)してくれ」と言い出す。のちに、野々宮きく子を紹介する(結局、うまくゆかなかった)。関は、このあと上田敏を訪ねて、逍遥『桐一葉』の評を書かせるつもりである。逍遥が大学生の作品『滝口入道』(『読売新聞』懸賞小説優秀入選作、作者の高山樗牛は東京帝大哲学科の学生)の批評を書くらしいので、大学側から上田に批評させ、更に依田学海にも側面攻撃を依頼し、「読売新聞」紙上で戦わせようと思っていると。9時過ぎに帰る。雨が降り出したので傘を貸す。新坂に狸が出ますよと言うと、自分も似たようなものだと、嵐のように去って行った。夜更けにますます雨が強まる。

10月8日

朝鮮、乙末事変(閔妃殺害事件)

午前7時前、漢城府庁前に夜間合同演習名目で訓練隊200余整列。前後には漢城守備隊長馬屋原少佐率いる日本軍が配備。軍事顧問公使館付武官楠瀬中佐も待機。

そこに、大院君の輿・日本兵・民間人(60人余)が到着。大院君は輿から出て、訓練隊第2大隊に「決起の理由」を述べ協力要請。

ここで、藤戸与三大尉率いる第1中隊140が到着し、訓練隊と共に戦闘準備を整える。一隊は西大門~市街に入り、光化門付近で国友重章らと合流。

既に春生門付近には日本守備隊第2中隊長村井右宗大尉率いる訓練隊第1大隊が到着。光化門突破工作中、訓練隊連隊長洪啓薫(閔妃の中心)と軍部大臣安駧寿が駆けつける。洪は訓練隊に「みだりに動くな、城門に入ってはならぬ」と命令。この時、光化門が開き、一行は乱入。城外では一部の日本守備隊と洪啓薫の一団との間で銃撃戦。まもなく止む。洪啓薫(54)没

侵入隊は第2の中門~勤政殿を通り康寧殿で大院君の輿をおろす。王夫妻の便殿・乾清殿への本道で王宮警備の侍衛隊と混線、間もなく侍衛隊は退却。

間道を進んだ民間人の一隊は本道を進んだ隊より先に乾清殿に到着。後宮に向う日本人を遮った宮内府大臣李耕植殺害。

閔妃を探す中、問いに答えぬ女官・容貌着衣の優美な女官を殺害。最終的に荻原警部が既に殺害した女官の中に虫の息の閔妃を発見。午前8時30分、絨毯でくるみ松林に放り込み石油をかけ火をつける。

午前8時、三浦公使、国王に呼ばれて杉村書記官と王宮に向う。謁見始まるとすぐに、三浦は岡本・荻原に呼ばれて中座、閔妃の遺体処理を指示。

午前8時30分、大院君が呼ばれ、高宗・三浦と三者で会談。高宗は三浦の文書(内閣改造)に署名。

午前8時50分、楠瀬中佐が川上参謀総長に第1報告(大院君のクーデタ)。

9時20分、新納公使館付武官より伊東軍令部長宛電報(国王無事、王妃殺害)。

午後1時、西園寺公望外務大臣臨時代理より三浦公使に宛て報告を入れるよう打電。

30分後、午前11時発の三浦の報告届く(大院君クーデタ、王妃不明)。何度かの遣り取り。

午後3時30分、三浦より西園寺へ電報、王妃不明、多分殺害、日本人の関与は取調べ中。

午後3時半頃、ロシア公使ウェーベルが三浦を詰問。目撃者多く弁解できず

午後10時32分、西園寺宛、裏で日本人が加わり、三浦も黙視していたと電報。

午後11時55分、外国公使らの反応を詳しく報告。

公使館員らの動きを知らされていなかった日本領事館一等書記官内田定槌は事件当日に東京の原敬外務次官に第一報を送り「王妃を殺害したのは守備隊のある陸軍少尉である」と伝えた。事件が一段落してからの外務省への正式な報告では、内田書記官は「独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為実に残念至極なる次第に御座候」と報告した。

侍衛隊軍事教官ウィリアム・マック・ダイ(米人)と電気技師サバチン(露人)が一部始終を目撃し、各国外交官は真相を知る。国際問題になるのを恐れた日本政府は、10日、外務省政務局長小村寿太郎を弁理大使任命し、井上馨と共に漢城派遣


14日、『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発信したが、東京でさし止められていた、と報じる。


つづく


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