2013年12月26日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(19)「ローマへ」(1) 「ゴヤは、後年のピカソとともに、とにかく闘牛好き、あるいは闘牛狂いと言いたいほどに、典型的なスペイン人であった。」

闘牛の妄
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ローマへ

ゴヤが行衛不明になるごとに、小説は、あるいは伝説は暴力沙汰をもち出して来る
 「行衛不明になるごとに、小説は、あるいは伝説は暴力沙汰をもち出して来る。
ある小説では、女出入りをめぐっての刃傷沙汰で、ある朝彼がマドリードのとある小路で肩にナイフを突きたてられたまま意識を失っているところを、旅の闘牛興行の一隊に見つけられて助けられ、爾後彼はこの一隊とともにドサ廻りをはじめたことになっている。・・・」

ゴヤが闘牛を、実際にやったことがあるか?
フェルナンデス・デ・モラティンの手紙
「ゴヤが闘牛を、実際にやったことがあるか?
・・・
一過の手紙がある。それはゴヤの親友であると同時に、親仏派の外交官で、当時のスペインを代表する大知識人でもあったフェルナンデス・デ・モラティンの手になるものである。

ゴヤは、若い頃に闘牛をやったことがあると言っている。剣を手にしたら怖いものなんかない、と言った。もう二タ月すると、彼は八十歳になります。(一八二五年一〇月)

・・・このときゴヤはフランスのボルドーに、(自発的に)亡命をしていた。
・・・
これは、しかし、八〇歳までも生き抜いた化け物のホラであろうか。
そうではあるまい、と思われる。」

 「・・・少年時代に、ほとんど例外なく闘牛の真似事をするスペイン人として、本当に「剣」をとって、本物の牛を相手にしたことがあったのでなければ、なんのためにいったい八〇歳にもなってホラを吹いたり、自慢をしてみせたりする必要があろう。

それに話相手のレアンドロ・フェルナンデス・デ・モラティンは、「スペインにおける闘牛祭りの起源と進歩についての歴史的な考察」というものを、ピニャテルリ公の要請によって書いた、著名な劇作家で詩人のニコラス・フェルナンデス・デ・モラティンの息子なのであった。しかもこのレアンドロ自身、「令名高き闘牛士ペドロ・ロメーロに捧ぐる賛歌」という詩を書いている。

ゴヤよりも一四歳ほど若かったとはいえ、こと闘牛に関してそういう権威ある父をもった同郷の友人にホラを吹いて威張ってみせる必要は、いくらなんでももうなかったであろう。この老翁は、聾者で感じやすく、かつ嘲けられることを恐れていた。それが事実でないならば、わざわざホラを吹いて嘲笑のタネをまくこともまた不必要であった筈である。」

これだけ材料がそろえば、彼が経験者である、としてよいであろう
「後日ゴヤは、今日のカメラによるスナップ・ショットなどよりもずっと適確敏速に闘牛の諸相をとらえた、素暗しい版画集『闘牛技』を製作するのであるが、そのなかにもおそらく経験者でなければ描けないようなシーンがある。

ゴヤは、後年のピカソとともに、とにかく闘牛好き、あるいは闘牛狂いと言いたいほどに、典型的なスペイン人であった。
・・・

ゴヤを崇拝して弟子にしてくれと頼んで断られた - 老齢と聾者なせいが理由 - バレンティン・カルデレーテなる青年は、
「闘牛の催される日には、ゴヤ先生は恰好を一変しておいでになりました。先生は、頭に大きなソンブレロをかぶり、フランス風の服を着、肩には大きなマントをひっかけ、腕には剣をたずさえて出掛けられました。先生は、令名高い名闘牛士たちと近づきになり、先生の作品に完璧なかたちであらわされている、もろもろの細部に通暁しておられました」と書いている。

またゴヤは、サバテールあての手紙のなかの、ある一通に「闘牛士、フランシスコ(Francisco el de los toros)」と署名をしている。もちろん、親友に向っていささかふざけているのでもあるけれども、しかしこれだけ材料がそろえば、彼が経験者である、としてよいであろうと思う。」

牛は、おそらくゴヤの夢のなかで、たとえば蝶か小鳥のように飛びまわっていたものであろう
「もっとも剣をふるって牛をほふるだけが闘牛ではない。必ず刺殺しておわる闘牛は、五歳から七歳の猛牛であり、ナバーラ地方、あるいはアンダルシーア産の二、三歳の若い牛でのそれは必ずしも殺しはしないのである。そうしてゴヤは二〇年後に、タピスリー用の原画(カルトン)に、この後者の方の技を闘牛場で、実際に自分でやっているところを描き込むであろう。

このタピスリー用の原画『仔牛での闘牛』からはじめて、一八一六年(七〇歳)に出版された版画集『闘牛技』を主たるものとし、最晩年の『ボルドーの闘牛』と題された四枚のリトグラフにいたるまで、彼は生涯を通じて牛との戯れをつづけていたものであった。

闘牛の歴史はまことに古い。ある論者はローマの闘技にその源を求めているけれども、ともあれ円型の、闘牛専用の闘牛場なるものが出来て、そこで行われるようになったのは一八世紀末以後のことであり、いわばゴヤは闘牛技の発展を目の前にして成人して行ったものであった。

牛は、おそらくゴヤの夢のなかで、たとえば蝶か小鳥のように飛びまわっていたものであろう。『妄(=ナンセンス)』(Los Disparates)と題された版画集中の「闘牛の妄」という一篇では、まことに牛どもは軽々と宙を飛びまわっているのである。」

”暴力”こそが彼の核心にあったもの
「闘牛とは何か?
ゴヤにとって闘牛とは何であったか?
・・・

それは要するに”暴力”の一形式であり、”カタルシス”の一形式でもあった。そうして”暴力”はゴヤの仕事を考察するについては、不可欠の一章とならなければならないものである。
またこれを逆に言えば、”暴力”こそが彼の核心にあったものであり、彼を現代世界に生かしめているものもまたこの”暴力”なのであった。」"

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