江戸城(皇居)東御苑 2013-12-11
*明治37年(1904)
4月14日
・ドイツ議会、社会民主党ベーベル、中立宣言にも拘らず汽船をロシアに売却したことを攻撃。
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4月15日
・廣瀬中佐が戦死した際、その場に居合わせた粟田富太郎大機関士が、菊池武徳代議士に宛てた書簡。
「廣瀬中佐戦死の模様の如き慥(たし)かに見届けたる者とては誰一人も無之候得共、拙者の軍帽軍服及び其他傍に居合せたる下士卒の被服に灑(そそ)がれたる脳漿肉片及び鮮血等によりて、正(まさ)しく頭部を撃たれたるものなる事を推定したるに止まる次第に有之侯。或者の如きは夜が明けるまで毫も同中佐の戦死を気付ざりし者すら有之たる有様にて、当時端艇が敵の乱射を受けたる二三分間の瞬間は、身其現場に在りたる者と雖も充分に想像するを得ざる位に御座候。(中略)イヤハヤ其大騒動と申すものは形容の出来たものにはあらず。小生も其時ばかりは迚(とて)も一人も生還は六ヶしからんと観念致候。(『報知』4月15日)
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4月15日
・論評「噫、マカロフ中将(死して名誉を全ふせり)」(『報知新聞』)
彼の輝かしい経歴を紹介した上で、日清戦役の際、威海衛で自決した清国の提督丁汝昌を引き合いに出して、「其の末路の悲しきや彼此(ひし)両将真に相似たり、渤海湾頭の両岸、相対して両個の英雄を葬る。威海衛に於ける丁汝昌の死と旅順口に於けるマカロフの死は、永く世界の海戦史に残らんなり」と称える。
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4月15日
・『萬朝報』も「吾人は廣瀬中佐を悲んで、末だ終らざるに又敵の司令長官を悼まざるを得ざるに至りぬ」という。
廣瀬もマカロフも、ともに英雄的な軍人として追悼すべき存在である点は同じだと見ている。
「我れに廣瀬中佐あるは、猶彼れにマカロツフあるが如し、称して双美聯壁(れんぺき)といふも、決して過言ならず」。
日本が誇るべき存在として廣瀬がいるように、ロシアにはマカロフがいるという。
違いがあるとすれば、「独り我れには更に幾多の廣瀬中佐あり、中佐の死は、必ずしも我海軍の実力に影響せず、と雖も、マカロツフに至りては、彼れに在りて、唯一の名将なり、唯一の戦術家なり、愛国者なり、司令長官なり」という点にあった。
廣瀬は決して孤立しておらず、日本の軍人にみなぎる精神を代表する存在だったが、ロシア軍にはそうした基盤はないだろうという。
それ故、「是れ露国海軍の『精神的全滅』なりといふも過言ならず、(中略)其死を聞くに及では、言を以て涙に代へ、将軍未死の魂を弔ふの禁ずべからざるを感ず」と見た。
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4月19日
・ハンガリー、ブダペシュト操車場ストライキ。
鉄道最初の大ストライキ。国内輸送マヒ。軍隊による鎮圧。
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4月21日
・「特別任務班」第1班「チチハル班」(東清鉄道破壊工作)の横川省三・沖禎介、処刑。
横川省三:
青年時代に加波山事件に連座、明治23年東京朝日新聞入社。明治26年郡司成忠大尉(露伴の実兄)の対露防備のための千島探検に参加。日清戦争では海軍に従軍、後、台湾占領作戦参加。明治30~34年、東朝を退社し米に滞在。翌35年、軍事探偵として大陸に渡る。
この年(明治37年)2月11日同志沖禎介(30)と大興安嶺方面のシベリア鉄道爆破のため北京発。
4月12日、チチハル南方でロシア軍に発見、ハルビンに送られる。
21日死刑宣告。
24日「ロイター」通信電で各紙が日本人2人の銃殺を報道。
5月4日ロシア満州軍司令官クロパトキン大将の上奏文が報道され、2人が横川省三・沖禎介と判明。
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4月21日
・堺利彦、下獄。6月20日、出獄。
『平民新聞』第24号には、4月21日付で書かれた堺利彦「告別の辞」が掲載された。
花見には少し後れたれど、小生は本日より二箇月の間、面白き『理想郷』に入りて休養致します。
平民社の城内には勇健なる諸同人あり、城外には之に応援を与へらるゝ諸君あり、小き一卒が暫く其身を隠したりとて、固(もと)より何程の事もありますまい。只此(ただこの)一小卒が、暫く諸君と別れ、新聞と別れ、日露戦争と別れ、世と別れ、人と別れて独り読書と思考とに耽るの間に、何ぞ小なおみやげでも得られぬかどうかと、自身に取りては、聊か楽みな様な、気遣ひな様な心地も致します。
いざさらば! 諸君願はくぼ健在なれ、小生も必ず無事で帰って来ます。
堺の不在は、平民社にとって大きな痛手となった。
秋水は『平民新聞』第30号に「我等は殆ど暗夜に燭を失つたと同様で、何処から手をつけて善いか分からなかった」と書いている。
秋水、西川、石川の三人を中心に、『毎日新聞』記者の木下尚江も平民社に朝夕通って記事を書いた。社会主義協会のメンバーや早稲田社会学会の学生たちも、発送の手伝いや演説会のビラ作りをした。
この頃になると、当局の弾圧は以前とは比較にならないほど厳しくなり、どこで演説会をやっても、最初の弁士2人はすぐに話を止められ、3人目になると演説の中止と解散命令が出た。
そればかりでなく、私服の刑事が社会主義者の家を訪問し、監視し、尾行するようになる。当時の『平民新聞』の発行部数が3、4千部、警察がリストアップしていた社会主義者は全国でおよそ3千人だったが、その人々への締めつけは次第に容赦ないものになっていく。
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4月21日
鴎外がこの日付けで出征の宇品港にて詠んだ詩。
「大君の/任(まけ)のまにまに/くすりばこ/もたぬ薬師(くすし)となりてわれ行く」
彼は、日清戦争の時と同様、日露戦争に対しても、戦争讃歌以外の懐疑を示したものを残していない。この詩は大伴家持を連想させる。
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4月22日
・オッペンハイマー、誕生。
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4月22日
・イギリス、ストライキ中の非暴力的ピケが合法化。
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4月23日
・アメリカ、パナマの仏系運河会社を4,000万ドルで買収。
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4月24日
・第1軍(黒木為禎大将)、鴨緑江渡河用船建造。
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4月24日
・第2次ウラジオストク方面威圧作戦(ウラジオ艦隊牽制)。
第2艦隊(上村彦之丞)第2戦隊を中核とする艦隊、ウラジオ港外に急行。濃霧のため砲撃できず元山に戻る。
26日午後0時39分、元山着。「金州丸」事件を知り、ウラジオ艦隊追尾を試みるが発見できず。
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4月24日
・(露暦4/11)ロシア、ガポン組合「ペテルブルク市工場労働者の集い」結成。組合発会式。170人。
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4月24日
・ルベ仏大統領とデルカッセ仏外相、ローマ訪問(−27)。教皇庁との関係悪化。
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4月24日
・カンボジアのノロドム王、没。5月21日、ソワット王即位。
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4月25日
・第1軍(黒木為禎大将)、鴨緑江渡河開始。
25日午後11時20分、第2師団第30連隊第1大隊、黔定島を無血占領。
26日午前5時44分、近衛師団近衛第4連隊、九里島占領。ロシア満州軍司令官クロパトキン大将の戦略は、「遅退作戦」で出血を強制し満州深部に日本軍を「吸引」するもの。
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4月25日
・午後0時30分、元山沖、貨客船「五洋丸」、第3回出撃のロシア・ウラジオ艦隊(イエッセン少将指揮、「ロシア」「グロモボイ」「ボガツイリ」と水雷艦2隻)に撃沈。乗組員は退避。午後5時頃、商船「萩ノ浦丸」も撃沈。
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4月25日
・「金州丸」事件。
午後11時30分、利原付近を偵察し元山に戻る「金州丸」、馬養島南東でウラジオ艦隊と遭遇、停船命じられる。船内には元山守備隊の第37連隊第3大隊第9中隊125人ら総計302人。
26日午前0時、ロシア艦隊が包囲。「金州丸」監督官溝口五郎海軍少佐・海軍大主計飯田庸治は協議して降伏決める。交渉を行う溝口少佐らは抑留される。
午前1時30分、船内の陸兵を確認したロシア艦隊が「金州丸」に魚雷発射、命中。
午前2時頃、2発目の魚雷命中、沈没。死者は65人。
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4月25日
・官設鉄道と関西鉄道(株)、大阪府知事らの調停と名古屋商業会議所の建議により、競争停止の協定書交換。5月16日、実施。
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4月26日
・清国、天津電車電灯公司設立(7月4日、ベルギーが請け負う)。
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4月27日
・「邦人の他に対して誇称するに足たものと云へば、唯だ明媚の山水と、忠君愛国の為めには何物をも犠牲として顧みざるの赤心か、之を外にし特許発明の世界人心を動かすべきものは殆んど絶無と謂ふべし」(『萬朝報』4月27日)。
戦争を通して、日本人は、美しい風景とともに世界に誇れる稀有なものとして、忠君愛国の「赤心」を発見した。
文明開化の歩みは西欧の模倣という側面が強く、日本古来の歴史を否定する過程と見られがちだったが、戦争はそれとは対照的に、日本のすぐれた伝統が発現される機会と看做された。
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4月27日
・ジョン・C・ワトソン、豪で初の労働党内閣組織(議会では少数派)。8月12日までの短命内閣。
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4月28日
・ラオス国王にシー・サワン・ボン即位(~1959年)。
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4月29日
・午前11時5分、第1軍第12師団、水口鎮渡河開始。第23旅団第24連隊第2大隊から渡河。
午後5時、第24連隊全員渡河完了。
翌30日午前2時、水口鎮付近に架橋完成。第23旅団の残部、第12旅団ら渡河。
30日・午前9時25分、黔定島に築かれた日本軍の砲台、九連城を砲撃。両軍の砲撃戦となる。ロシア側被害増。
午後4時5分、砲撃中止。
この日正午頃、虎山方面のロシア第22連隊、第12師団の攻撃を受け馬溝に後退。
午後7時15分、第2師団が完成した九里島付近の舟橋を渡河、午後10時、近衛師団が後続。
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4月30日
・大阪最大の第八十九銀行(蜂須賀侯爵家)、3万余円の手形交換尻不払いのため取付け騒ぎ。蜂須賀家相談役芳川顕正、近藤廉平、松平康毅らが日本銀行・安田銀行と交渉し救済。
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4月30日
・セントルイス万国博覧会開幕。米が仏からルイジアナ購入100周年記念。
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4月30日
・ロシア、ニコライ2世、第2太平洋艦隊編成と東洋派遣発表。
5月2日、司令長官に軍令部長ロジェストヴェンスキー少将(10月20日中将)を任命。但し、艦隊主力の「ボロディノ」「アリョール」は艤装工事が始まったばかりの状況。
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4月末
・石川啄木、4月未~5月、『岩手日報』に感想文をよせ、「皮相の国家主義」を批判。
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