2013年12月17日火曜日

永承6年(1051)3月~永承7年(1052) 永承7年より末法に入る 頼通、宇治に平等院を供養

北の丸公園 201-12-17
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永承6年(1051)
3月
・ベネヴェント市民、ベネヴェント候パンドゥルフス3世(位1033~1060)を追放。
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5月19日
・フランス王アンリ1世(39)、キエフ大公ヤロスラフ娘アンヌ(アンナ、27)結婚。
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7月
・ベネヴェント市民、「教皇がベネヴェントの領主」と宣言、ベネヴェントが教皇領となる。
教皇レオ9世、サレルノ候グアイマリウス5世とアプーリア公ドロゴを呼び寄せ、ベネヴェントを教皇庁財産として尊重するよう約束させる。
まもなく、ノルマンディ戦士集団がベネヴェントを襲撃・掠奪。
教皇レオ9世はノルマン人討伐決意。
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7月19日
・天皇、新造の冷泉院に入る。
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8月10日
・アプーリア公ドゥロゴ、モンス・イラリス城(ボヴィーノ近く)で暗殺(位1046~1051)。
弟フンフレドゥス、即位(オンフロワ、ハンフリート、位1051~1057)。
知らせを受けたフンフレドゥス、即座にモンス・イラリス城を占領、暗殺首謀者捕縛。
フンフレドゥス、ノルマンディ人全員の承認獲得できず、ノルマン人集団は分裂の危機。
教皇レオ9世、この機会を利用してノルマン人討伐のために南イタリア遠征開始。
しかし、サレルノ候の支持を得られず、遠征途上で教皇軍からの離脱者を生み出す。
翌年6月サレルノ候グアイマリウス5世も義兄弟の謀略により暗殺。
南イタリアは混乱。
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永承7年(1052)
この年
・この年、末法に入る。
釈迦の入滅後、正法(500年もしくは1000年)、像法(1000年)、末法(1万年)という三つの時期を経て、その後法滅尽(ほうめつじん)を迎えるというのが、末法思想。
インドの法滅尽思想が6世紀中頃、中国で展開したものが、日本には奈良時代に伝来した。

その後、永承7年から末法が始まるとされるに至ったが、それまでは必ずしもこの年が末法最初の年とされていたわけではなかった。
摂関期においては、比叡山横川の天台僧たちは寛徳2年(1045)、真言僧たちは治暦元年(1065)と捉えていたようで、『往生要集』を著した源信は、書状を交わしていた北宋の僧行辿(ぎようせん)の説によって、寛仁元(1017)年と考えていた。

この年、関白左大臣藤原頼通は、道長から受けついだ宇治の別業を寺に改め、本堂を供養し平等院と名付けた。前年に六十の賀を祝い、極楽浄土に生きることを望んだらしい。

翌年に阿弥陀堂(現、鳳風堂)を完成し、その後没する迄の20年余間に、法華堂、多宝塔、五大堂など堂塔を造営。
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・アラゴン王ラミーロ1世(位1035~1063)、ベナバーレを奪取。
セビーリャ王国(後ウマイヤ朝の後継諸国家の一つ)ムータディド(位1042~1069)、アルガルヴェ地方を併合。
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・ムラビトゥーン、西サハラ征服。
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・アンジュー地方領主マーテル伯、ノルマンディ地方を蚕食、フランス王や諸卿が反乱。
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・ノルマンディ公ウイリアム(ギョーム)、イングランド訪問。
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・エドワード懺悔王、西方辺境のヘリフォード伯にノルマン貴族ラルフを任命。
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・教皇レオ9世、新サレルノ候ギスルフス2世がノルマン人と同盟関係に入ったとの話を聞き、皇帝ハインリヒ3世の援助を求めドイツ訪問。
レオ9世、ハインリヒ3世と取引。
レオ9世は、フルダ大修道院とバンベルク司教区の自分の権利を放棄。皇帝ハインリヒ3世は、ベネヴェントと南イタリアの教皇の権利を承認。
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・トスカナ辺境伯ボニファティヨ、暗殺。妻ベアトリーチェが相続(娘マティルダ6才、1046~1115)。
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1月26日
・「永承七年壬辰正月廿六日癸酉、千僧を大極殿に屈請し、観音経を転読せしむ。去年の冬より疫病流行し、改年已後、弥々以て熾盛なり。仍って其の災を除かむが為めなり。今年始めて末法に入る。」(「扶桑略記」)。
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3月28日
・関白藤原頼通、宇治の別業(道長の別荘)宇治殿を仏寺(平等院)に改修、供養。
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4月
・アマルフィ、サレルノ候グアイマリウス5世に反乱。
親東ローマ派が蜂起、アマルフィ公マンソ2世を追放(位1042~1052)、コンスタンティノープル在の旧アマルフィ公ヨハンネス2世帰還を要求。
1052年10月、ヨハンネス2世、アマルフィに到着(位1028/29~1034、1037/38~1039、1052~1068)。
アマルフィの反乱に呼応し、アトラーニでも反乱、共にサレルノ候への貢納の支払いを拒絶。
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5月
・上東門院彰子(じようとうもんいんしようし)の病悩による大赦。
検注を妨害した安倍頼良の罪も赦免されることになった。
頼良は喜び、頼義に臣従を誓い、頼義と同音であるのを憚って名を頼時に改めた。
鎮守府将軍を兼帯した頼義は奥六都を直接支配下に置き、頼時は初任検注と官物収納を受け入れた。
こうして安倍氏を手なずけることに成功した頼義は、任期4年を無難に過ごし、任終年も無事に終わろうとしていた。
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5月29日
・疫病流行のため花園社を建て御霊会を行う。
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6月2日
・サレルノ候グアイマリウス5世、暗殺(位1027~1052)。
息子ギスルフス2世、サレルノ候に即位(位1052~1077)。
<経緯>
アマルフィの反乱首謀者、グアイマリウス5世の義理の兄弟4人と連絡を取り暗殺実行。
暗殺後、義理の兄弟の1人パンドゥルフス、サレルノ候即位(位1052)。
ソレント公グイド(グアイマリウス5世)、危機を逃れ義理の兄弟アプーリア公フンフレドゥスに助けを求める。
フンフレドゥス、ソレント公の要請に応じてサレルノ占領(6月8日サレルノ攻撃開始。10日サレルノ陥落)。
グアイマリウス5世息子ギスルフス2世をサレルノ候に据える。援助の代償として、それまで征服した土地全てをサレルノ候より正式に授封。

グアイマリウス5世暗殺後の南イタリアの政治情勢:
ノルマンディ人首領2人が南イタリアの最強の君主。
①アプーリア公フンフレドゥス(位1051~1057)。
②アヴェルサ伯リカルドゥス1世(リシャール1世、アヴェルサ伯在位1049~1058、カープア候在位1059~1078、ガエータ公在位1063~1078)。
サレルノ候ギスルフス2世はこの2人の名目的宗主(フンフレドゥスにサレルノ候の地位を与えられた)。
ノルマンディ人首領2人は、お互いの衝突を避けながら領土拡張。
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7月
・天皇の病気平癒のため御修法・御読経が行われる。 
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8月15日
・トゥーレーヌ、サント・モール近郊の戦い。
アンリ1世、アンジュー伯ジョフロワ・マルテルに勝利、ル・メーヌを平定。
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8月28日
・奈良の長谷寺が焼亡したことを聞き、「霊験所の第一なり。末法の最年に此の事有り。これを恐るべし」と記されている(『春記』この日条)。 
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9月
・ウェセックス伯ゴッドウィン、フランダースで挙兵。
ゴッドウィン一族、イギリスに戻り復権。
エドワード王、即位後10年目で事実上国王の実権を喪失(位1042~1066)。
ゴドウィン、カンタベリ大司教ロベールを廃位しスティガンドを就ける(位1052~1070)。ローマ教皇は承認せず。
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10月
・旧アマルフィ公ヨハンネス2世、コンスタンティノープルよりアマルフィ到着、アマルフィ公として統治開始(位1028/29~1034、1037/38~1039、1052~1068)。
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12月末
・皇帝ハインリヒ3世とバイエルン大公コンラート、衝突。
原因は、対ハンガリー政策についての対立。レーゲンスブルク司教ゲープハルトとバイエルン大公との紛争
南ドイツはザーリア王権の支柱として機能。
ハインリヒ3世、ますます権威主義的・専断的、ドイツ諸侯の反発を呼び、ドイツ各地で個別的反抗相次ぐ。
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