2014年5月15日木曜日

1781年(安永10/天明元)1月~3月 3幕のオペラ・せーリア「クレタの王イドメネオ」(K366) 初演(ミュンヘン)  「・・・シャンデリアに明りをつけたり、戸をあけたり、控えの間で待っていなくちゃいけないような近侍たちや、それに料理人氏たちと一緒じゃ、特別待遇じゃありません。」 【モーツアルト25歳】

江戸城(皇居)二の丸雑木林 2014-05-14
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1781年(安永10/天明元)
・上州絹一揆。絹糸貫目改所設置反対の訴願・打毀し。
公儀主導の流通支配に対抗する支配領域を越えた闘争。
特産物生産地帯の成立にまで進んだ小商品生産の展開を基礎にして、買人からの運上金を商人資本と結んで吸収しようとする政策に対する闘争で、「勝手次第商売」要求を基軸とする反専売制一揆と同じ論理を持つ。
この一揆では、参加地域の広域性だけでなく、地域的分業の進行が条件となって、東上州における都市商人の江戸愁訴、桐生領農民の越訴、西上州農民の改所設置加担者・賛同者を主要対象とする打毀し、という階層的な広がりと闘争様式の相違が生まれる。
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・フィリピン、国民経済同友会創立(~1894)。
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・フランス、ベルティエ(後のナポレオンの元帥)、ロシャンボー将軍指揮下でアメリカ独立戦争に大尉とし て出征、オハイオ川周辺での戦闘で活躍、最初の軍事的成功を得る。
帰国後、すぐに中佐、大佐と昇進。
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・フランス、ナポレオン(14)、ブリエンヌ王立幼年学校で、ヴォルテール、ルソー、フリードリッヒ大王が書いたコルシカ解放に賛同する書物を読む。
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・スイス、フリブールで農民蜂起。厳しく弾圧される。
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1月
・モーツアルト(25)、前年10月からミュンヘン選帝侯カール・テオドールの依頼で、「クレタの王イドメネオ」のためのバレエ音楽(K.367)作曲。
月初、リート「満足」(K.349(367a))、「おいで、いとしのツィターよ」(K.351(367b))、「キリエニ短調」(K.341(368a))、「オーボエ四重奏曲へ長調」(K.370(368b))作曲。
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・ザルツブルクのコロレド大司教の父親ルードルフ・ヨーゼフ・コロレド侯爵が重い病床に臥し、大司教はヴィーンに向かう。
伯父カール・コロレド伯の邸に滞在。カール・コロレド伯はドイツ騎士団のオーストリア管区長を務めていたため、その「ドイッチェス・ハウス」と呼ばれていた。
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1月11日
・この日付けモーツアルト父レオポルトのモーツアルト宛手紙。
1月3日付の手紙では、オペラ初演日が1月22日に決まり、総練習が1月20日に行われると報告していたが、この日付の手紙で、この予定が1週間延期されると報告。

「一番大きなニュースは、オペラがまた一週間延期になったことです。総練習は二十七日にやっと行なわれ - ぼくの誕生日なのにご注意 -、それに初演は二十九日なのです。 - なぜって? - 多分そうすればゼーアウ伯爵は二百グルデンほど節約できるからでしょう ー ぼくはでも嬉しいのです。そうなればもっとたくさん、それももっと慎重に練習ができるからです」。
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1月16日
・米、独立戦争、サウスカロライナのカウペンズの戦い。
イギリス本国軍、ダニエル・モーガン将軍に大敗、900人を失う。
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1月25日
・江戸府内で火事が続くため、幕府、「火付盗賊改」として市中警護にあたる手先組に見回りと不審者の逮捕を命じ、武家屋敷への踏込みも許可。 
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1月25日
・モーツアルト父レオポルト、姉ナンネルル、ザルツブルク出発、ミュンヘンに向かう。
26日、ミュンヘンに到着。

父と姉の他にもこのオペラ上演に立ち会うために、ザルツブルクからは知人・友人がやってくる。
マリーア・ヴィクトーリア・ロービニヒ・フォン・ロッテンフェルト夫人と娘ルイーゼとエリーザべト、息子ゲオルク・ジークムント、ジルヴェスター・バリザーニ博士と夫人テレージア、オーボエ奏者フィアーラなど。
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1月27日
・モーツアルト、 「クレタの王イドメネオ」(K.366)の総練習を行う。
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1月29日
・3幕のオペラ・せーリア「クレタの王イドメネオ」(K366) 初演。ミュンヘン宮廷歌劇場(新築)。指揮カンナビヒ。
イドメネオ役はラーフ、イーリアはドロテーア・ヴェンドリング。
父レオポルトと姉ナンネルも初演を聴きに来る。

1780年秋バイエルン選帝候カール・テオドールより依頼。
フランス、アントワーヌ・ダンシュ原作、ザルツブルク宮廷付司祭ジャンバッティスタ・ヴァレスコ(1735~1805)台本、2月3日、3月3日再演。

「モーツアルトのような最高の天才でさえ、生涯に一度しか書きえない作品」(アインシュタイン)。

2月1日付の『ミュンヒェン国家学術雑報』
「先月二十九日、当地の新オペラ劇場においてオペラ『イドメネーオ』が初演された。作詞、作曲ならびに翻訳はザルツブルク生まれの人たちである。舞台装置は港の眺望と海神の神殿がとくにきわだっていたが、当地の著名な劇場建築技師、宮中顧問官ローレンツ・クヴァーリオ氏の傑作であって、万人の讃嘆を受けたものである。」

初演の歌い手。
クレータの王イドメネーオ:テノール歌手のアントーン・ラーフ(1714~97、60歳台半ば)
息子イダマンテ:ミュンヘンのカストラート歌手ヴィンチェンツォ・ダル・プラート(1756~1828)
トロイア王プリアモスの娘イーリア:モーツァルトと親しいドロテーア・ヴェンドリング(1737~1811)
エレットラ:ソプラノのエリーザべト・ヴェンドリング(1746~86)
イドメネーオの腹心アルバーチェ:テノールのドメーニコ・デ・パンツァッキ(1733~1805)
大祭司:テノール歌手のジョブァンニ・ヴァレージ

モーツァルトの手紙によれば、
ラーフは名だたる名歌手だが、歌い手としては甚だ齢で、演技の点でもさほどうまいものではなかったという。
テノールのパンツァッキは、歌よりも演技の方が得意というタイプ。
2人のヴェンドリングは、モーツァルトがマンハイム滞在中に識ったヴェンドリング家の女性であり、その技術はかなりの線までいっていた。
イダマンテ役のデル・プラートには問題があった。彼はモーツァルトと同齢であったが、舞台で演じる経験に欠け、声も頼りなく、モーツァルトはこの歌手の調教に苦労したという。
「わが親愛なカストラートのデル・プラートには、しかしオペラをそっくり教えてやらなければなりません」(11月15日付)。
「一昨日、ぼくたちはヴェンドリングのところで、叙唱(レチタティーヴォ)の練習をしました。-そして四重唱もそろって練習しました。-六回もくりかえしたのです。-もうすっかり終りました-うまくいかない原因はデル・プラートでした。-この若僧はまったくなんにもできないのです。-彼の声は、頸や喉から出すのでなければ、それほど悪いものではないでしょう。-しかもこの男はイントネーションも-発声法も-感情もなく-ただ歌うだけでーまるで、教会の合唱隊に入れてもらうために聴いてもらっている子供の中で一番できがいい者といった具合です」(12月30日付)。
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2月
・この頃、モーツアルト、オペラ「イドメネオ」でエレクトラ役の歌手エリザベート・ヴェンドリングのために、K.368 レチタティーヴォとアリア「されど、おお星々よ、彼汝らに何をなかせし。岸辺近く願いぬ」作曲。オーボエ奏者フリードリヒ・ラムには協奏曲風のK.368b (370) オーボエ四重奏曲(ヘ長調)作曲。
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・ロドニー、オランダ領セントユースタティウス島攻略。
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・イギリス、小ピットの処女演説。
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2月1日
・常盤津節を完成させた初代常盤津文字太夫(73)、没。
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2月15日
・ドイツ、劇作家レッシング(52)、没。「ミス・サラ・サンプソン」
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2月15日
・クリスチャン・ゴットロープ・ネーフェ、ケルン選帝侯宮廷オルガニスト任命。
ベートーヴェン、クラヴィーア、オルガンを学ぶ
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2月19日
・フランス、財務長官ネッケル、国家財産の「財政報告書」(フランスの予算)を公表。民衆は王室の政策や乱費に目を開く。

英語、ドイツ語、イタリア語にも翻訳される。予算の均衡が示されるが、国王が廷臣に配分している手当てが巨額であることも明らかになる。
他方、アメリカでの戦争費用は支出に計上されず、「臨時支出」として計上されている事が判明し、ネッケルへの批判が起る。
廷臣は自分の手当てが暴露された事に憤慨しており、また財政官はネッケルがいい加減な予算書を公表して人気を博した事に怒っており、ネッケルは辞任を余儀なくされる(1781年5月)。
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3月
・春、仙台藩医工藤平助「カムサスカ・ヲロシヤ私考の事」を脱稿。
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3月1日
・アメリカ各州「立法府」は、アメリカ議会が1777年に起草した「連邦条項」を承認し、これが合衆国最初の憲法となる。これにより連邦共和国が確立するが、各州の繋がりは緩やかで、執行権は弱い。
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3月7日
・7日~10日、モーツアルト、レオポルト、ナンネルル、アウグスブルクへ
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3月8日
・モーツアルト、選帝侯カール・テオドールの愛人の一人だったパウムガルテン伯未亡人の為に、レチタティーヴォとアリア「憐れな私よ、ここはどこなの? ああ、語っているのは私ではないの」(K.369)作曲。「ホルン協奏曲楽章変ホ長調」(K.370b)(断片)作曲。
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3月10日
・モーツアルト、アウグスブルク出発、ミュンヘンに戻る。
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3月12日
・モーツアルト、ウィーン滞在中の大司教コロレドの命令でウィーンに向けて出発
(6週間の予定の休暇が大幅に伸び、モーツァルトがミュンヘンで自由に行動しているのを咎める為)。
(ウィーンの貴族に自分の楽師たちの演奏を聴かそうとしたが、クラヴィーアを担当する音楽家がいなかったために、ミュンヒェン滞在が延びていたこの宮廷オルガン奏者を呼びつけた)
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3月12日
・ド・グラースのフランス艦隊、出港。
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3月13日
・ウィリアム・ハーシェル(43)、天王星を発見。
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3月15日
・米、独立戦争、ノースカロライナのギルフォード・コートハウスの戦い。
イギリス軍コーンウォリス将軍、植民地軍破る。コーンウォリスは北に目を向け、米将グリーンが南部奪還に乗り出す。
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3月16日
・ニューグラナダ、重税と独占に抵抗する反乱
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3月16日
・モーツアルト、ウィーン到着。
午後4時。コロレド大司教伯父カール・コロレド伯爵の館でドイツ騎士団宿舎「ドイチェ・ハウス」宿泊(5月初、大司教に追い出される迄)。音楽会開催、貴族たちの前で演奏。
17日、ガリツィン侯爵の許に赴く。再び、ヴェーバー家と交際を始める。
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3月17日
・この日付けモーツアルトの手紙(ウィーンからの初信)。

(モーツァルトの数多い父親宛の手紙で、これだけが「親しい友よ!」という表現をとっている)。
「昨日の十六日に、神様と死んだお母さんのおかげで、一人っきりで、軽駅馬車で当地に着きました。-時間はすぐ忘れてしまいそうですが-朝の九時でした。ウンター・ハークまでは駅馬車でやってきたのですが-そこでお尻やそのあたりがものすごく痛くなり、我慢できそうもなくなったのです。」そこで馬車を乗り換えた。

ヴィーンでの生活。
「ところで大司教のことです-ぼくは大司教が住んでいるのと同じ邸にすてきな部屋をもらっています-ブルネッティとチェッカレッリは別の邸に泊っています。-なんという差別でしょう!-ぼくの隣人は-フォン・クラインマイヤーさんですが、彼はぼくが着いた時、とっても親切にしてくれました。-彼もほんとに好人物です。昼の十二時には-残念ながらぼくにはちょっと早すぎるのですが-もう食事です。-そこで食事をするのは二人の霊肉近侍氏、会計監査官氏、お菓子作りのツェッティさん、二人の料理人さん、チェッカレッリ、ブルネッティ、それに小生です-ご注意いただきたいのは、二人の近侍氏は上座に坐り-ぼくはそれでも少なくとも料理人たちの前に坐る光栄に浴しています。なんと-ぼくはザルツブルクにいるんだなとさえ思います。-食卓ではくだらぬあつかましい冗談がとびだしますが、誰もぼくとは冗談一つ言いません。ぼくはひとことも喋らないし、話をしなければならなければいつも大真面目でするものですからね。食事がすめば、ぼくはすぐにわが道をゆくです。晩には食事がなく、それぞれが三ドゥカーテンずつ貰います。するとみんな一目散です。-大司教氏はご親切にも家来たちによって輝きをいやまされー彼らから手間賃を奪い取られーその前払いはなされません。」

「昨日の四時にはもう奏楽をやりました。-確実なところで二十人もの位の高い貴族たちが聴きに来ていました。-チェッカレッリはもうパールフィ〔伯爵〕のところで歌わなければなりませんでした。-今日はぼくたちガリツィン侯のところに参らねはなりません。-この人は昨日も大司教のところの音楽会に来ていました。-ぼくは今、なんにも貰えないものかどうか、じっと待ってみるつもりです。もしなんにも貰えなければ、ぼくは大司教のところへ行って、単刀直入に言います-もしぼくが働いてお金を手に入れることをお望みでないなら、ぼくが自前で暮さなくてもよいように、ぼくにお金を払ってくれるべきだって。」

父レオポルトの返事は失われている。
その父の返事に対してモーツアルトは反論する(3月24日~28日)

「あなたが大司教についてぼくに書いて下さったこと、-ぼくという人間が、彼の功名心をくすぐるというのは、その点では正しいことです-でもこうしたことはみんなぼくにどんな役に立つのでしょう?-そんなもので暮せるものじゃありません。-信じていただきたいのは、彼はぼくにとって当地では明りの笠のようなものだということです。-それに彼はぼくにどんな特別待遇をしてくれていますか?フォン・クラインマイヤーさん、べーニケさん〔宗教局秘書官〕は、高貴なアルコ伯爵と特別の食卓についています。-ぼくがこの食卓についているんだったら、これこそ特別待遇でしょう。-でも、食卓で第一席を占めている以外には、シャンデリアに明りをつけたり、戸をあけたり、控えの間で待っていなくちゃいけないような近侍たちや、それに料理人氏たちと一緒じゃ、特別待遇じゃありません。」

「ところでぼくの主なもくろみは、すっきりとしたやり方で皇帝にお目通りすることです。なぜって、彼はぼくを識る必要があるって、絶対にぼくは思っているからです。-ぼくは彼に楽しんでぼくのオペラに眼を通してもらいたいし、それに素晴らしいフーガを弾いてみたいのです。これは彼のお得意のことですからね。-ああ、ぼくが四旬節にウィーンにやってくることが分かっていたら、小さなオラトリオを一つ書いて、ここじゃみんながやってるように、ぼくの義捐興行で劇場にかけていたでしょうに。-前もって書いておくことも簡単だったでしょう。ぼくはどんな声もみんな知っていますから。-当地の習慣どおり、公開演奏会を催せたらどんなに嬉しいことでしょう。でも、-ぼくにはこれは許されないでしょう。ぼくにはそれが分かっているのです。というのは想像していただきたいのですが、-当地に音楽家たちの未亡人の義捐に音楽会をひらいている協会があるのをご存知でしょう。-音楽という音楽は、ここでは無料で演奏されます。-オーケストラは百八十人強もいて-いささかでも隣人愛がある演奏家なら、協会から頼まれれば、ここで弾くのを断るものはいません。そうすれば皇帝からも公衆からも気に入られるからです。シュタルツァーがぼくに椀んできたので、ぼくはその場で引き受けましたが、それでもぼくは、前もってこれについての主君の裁可をとっておかなければならないと思ったのです。-これは宗教的なものだし、それに無料での善行にすぎませんから、いささかの疑いももっていませんでした。-彼はぼくに許可を与えてくれなかったのです。-当地の貴族たちはこのことで彼のことを悪く取っていました。ぼくには、それだけが残念です。ぼくは協奏曲じゃなくて、(皇帝は前の方の桟敷にいらっしゃるので)一人っきりで、(トゥーン伯爵夫人がすてきなシュタイン製のピアノフォルテをそのためにぼくに貸してくれるはずだったので)即興で前弾きをし、フーガを一曲と、それに『私はランドール』の変奏曲を弾いたことでしょう。この曲を公開演奏の場で弾いた時には、大喝采を得ましたが、それというのもお互いにとっても見事な対照があり、それに、みんななにか得るものがあるからです。でも辛抱です。」

ヨーゼフ・シュタルツァー:
ウィーンの作曲家。1771年、ロンドンの公開演奏会に倣って設立された「音楽芸術家協会」にあずかって力があった存在。この「音楽芸術家協会」は、モーツァルトの手紙にもあるように、音楽家たちの未亡人や孤児たちの福祉を目的として活動していたものであり、モーツァルトもやがて、この演奏会活動に協力を惜しまない。
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3月20日
・フランス、穀物取引自由化、ギルド廃止を行った仏元財務総監アヌ・チュルゴー(54)、没。
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3月21日
・モーツアルト、 ウィーン宮廷楽団次席ホルン奏者J.アイゼンのために、「ホルン協奏曲楽章(ロンド)変ホ長調」(K.371)(断片)作曲。
24日、「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタのアレグロ変ロ長調」(K.372)作曲。
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