花菖蒲 江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-06-04
*いわゆるベラスケスの”発見”について
カルロス三世は、その小型、あるいは中型のフリードリッヒ大王であった
「カルロス三世は、いわばプロシャにとつてのフリードリッヒ大王にあたった。・・・まずその小型、あるいは中型の大王であった、と言ってよい筈である。ブルボン王家出身であり、かつ忠誠なその一員でありながらも、それなりにスペインのために懸命につくしたのである。・・・スペインを啓蒙するため、つまりは文化、文明のフランス化のために力をつくした。
マドリードの街路の清掃、街灯の増設などは、エスキラーチェの乱という滑稽で顕在的な暴動などを招いたりもしたが、それなりの努力はしたのである。道路建設にも力を入れ、全国の交通の便をもよくしようとした。産業や民生、教育の部分でも、他のヨーロッパ諸国に比べれば、格段に劣っていたとはいえ、以前は無に近かったのであるから、目ざましい発展があった、とは、やはり言わなければならない。」
国民教育の普及という面で、王室の所有するスペイン文化の代表的な財宝の一部を銅版画によって国民に見せることを考えた
「・・・この教育、国民教育の普及という面で、この王は、王室の所有するスペイン文化の代表的な財宝の一部を、国民に、・・・とにもかくにもその複製を、銅版画によって国民に見せることを考えていたものであった。国民に、スペイン人としての国民的自覚をもたせるための一つの方途として。」
ゴヤはベラスケスの銅版による複写を依嘱された
「一七七七年から七八年にかけて、宮廷は多くの画家たちに、スペインの秘宝の、いわば複写を依嘱した。
そうしてここでも”機会”は、ゴヤにとって最大の味方であった。
・・・彼はベラスケスの銅版による複写を依嘱された。
・・・彼は七八年のはじめに重病にかかり、四月になってやっと「幸運にも助かった」のであったから。その病気からの恢復期を、この銅版刻画による模写にあてることが出来たのである。重病からの恢復という、いわば内省の時期に、この巨匠の作を前にすることになった。」
彼が真面目にそれをやったものかどうかは疑わしい
『皇太子バルタサール・カルロス騎乗図』の場合
「・・・この仕事にかかった当初彼が真面目にそれをやったものかどうかは疑わしい・・・、ということについて、・・・
それは、『皇太子バルタサール・カルロス騎乗図』の銅版画模写である。つくづくとこの一枚、とりわけてこの版画のためのデッサンを眺めていて、そのうちに私はほとんどびっくり仰天をしてしまった。・・・
ゴヤの模写した銅版画 - 馬は前肢を蹴あげているのであるが、地に前肢をつけたときにはガクッと行きそうなほどに危っかしく、王子はまだ子供のくせに腹が出ていて、王子服を着てはいるものの、まるで百姓のせがれがごてごてしたものを着ているようでしかなく、あろうことか、首から上はどう見てもゴヤ自身なのである!
大胆不敵というべきか、ひどいいたずらをしたものである。この王子の顔と、後に紹介する筈の一七八〇年作の逆光線による自画像の顔とを比較してみれば、それはぴたりと符合をする筈である。」
『酒を飲む人々』の場合
「たとえば、葡萄の葉飾りを頭に冠としたバッカスを中心とする『酒を飲む人々』の場合、ベラスケスの原画について、作家のウージェーヌ・ダビは、
・・・中心に描かれた酒神と菖うべき裸の若者の柔軟な、膨れ気味の体つき、そして丸々とした唇、酒樽に腰かけて葡萄の葉の冠を頭に飾っているようである。この若者の姿のみが荒くれ者の中にあって、この世ならぬもののように思われさえする。
と語っているのである。
けれども、ゴヤの模写では、他の登場人物である乞食か、兵隊か、ごろつきかと思われる連中の方にむしろ気品があって、「この世ならぬもの」の筈のこの若者の方がずっと「荒くれ者」のように見えるのである。眼に陰翳をつけすぎているので、ほとんど下品に堕している。」
『スペインのある王子』の場合
「・・・『スペインのある王子』と題されたもの・・・。これはドン・フェルナンド王子を描いたものなのに、ゴヤはその名を知らなかったか、あるいは調べもしなかったのか。しかしとにかく「宮廷所蔵絵画の版画による模写シリーズ」と自ら題していながら、「ある王子」もないものである。」
複写・模写としては落第
「要するに、漫画であり、カリカチュアである。複写・模写そのものとしては、まず落第の出来という他ないものである。
そうして、模写や複写、複製が下手だということは、当時の事として、画家としては致命的なことであった。・・・
模写や複写、注文通りに仕事をこなすこと、先輩のやり方をなぞって行くことなどが下手では、画家としては落第なのであった。」
ベラスケスの傑作をはじめて目前にして、茫然としてこれを眺めたものであったろう
「ゴヤは、当然に目先のことばかりに気をとられていた。手からロへの日常であった。・・・
おそらく彼は、宮中奥深く秘蔵されていたベラスケスの傑作をはじめて目前にして、茫然としてこれを眺めたものであったろう。
それはイタリア諸派のそれでもなければ、オランダやフランスの諸派諸流でもない。またメングス流の新古典主義でもなく、ティエポロなどのベネチア派のものでもない。
そこにスペインがあり、それがスペインであったのである。
かつて存在した最高の画家。
とは、後年になってマネがボードレールに語ったことばであったが、そういう「最高の画家」、スペインの魂そのものであるものを前にして、いったいどうすればよいか。
手からロへの日常のなかで、いきなり「最高」のものにぶつかって、しばらくは茫然としていもしたであろう。」
「ゴヤとしても、たとえこの男がいかに大胆不敵で暴力的なものを秘めもっていたとしても、不可能、という思いを、ちらとでも抱かなかったということはないであろう。」
ゴヤの模写、複写は、この最高の画家の澄明な精神を、ねじまげひねこびたものにしてしまっている
「ゴヤの模写、複写は、この最高の画家の澄明な精神を、ねじまげひねこびたものにしてしまっている。」
「『宮廷官女図』という何重もの視線の交換によって成立している不可思議な作品は、教科書の挿絵の如きことになっている。・・・。
後年ゴヤは、この『宮廷官女図』の銅版を破壊してしまっている。・・・
百姓哲学者の「イソップ」はただのアラゴンの百姓男となり、『フェリーペ四世の一寸法師』と題されて、ここでも「セバスティアン・デ・モーラ」という名をもつことを無視されている、宮廷の道化師は、原画に見る、矮人道化師としての悲惨な威厳を完全に失っている。」
ゴヤは、狡猾にも自分にこれらの巨匠の作品を引きつけてしまう
「ゴヤは、ベラスケスの前に立って、それを仔細に研究すればするほどに、自己の矮小さを感じなければならなかった筈である。この巨匠と自分とを隔てている深い淵にも比すべき無限の奈落をも知らなければならなかった筈である。恐れ、おののきもしなければならなかった筈であろう。
・・・
彼は、まともにこれらの傑作の模写、複写が出来ない、不可能であることを知って、かえって、狡猾にも自分にこれらの巨匠の作品を引きつけてしまうのである。出来もせぬ解釈の真似事のようなことをはじめる。正面からぶつからずに、迂回作戦に出た。・・・ベラスケスという完璧に澄明な鏡に、三二歳のゴヤの全貌が映し出されている。」
内的な革命は徐々に、長い長い時間をかけて、彼のなかで醸成されて来る
「ベラスケスという、時間的には過去であるものの現前に立ち会って、命令された仕事は狡猾な方法で処理をしはしたものの、内的な革命は徐々に、長い長い時間をかけて、彼のなかで醸成されて来る。彼のなかに宿っている一人の地下人物でさえが、彼とはほとんど別個に、別人として成育しつつあるのである。ベラスケスはたしかに彼自身のスペイン人としての血にふれている。けれどもその血は、発作的に、しかもまことに臆病なかたちでしか彼のパレットを彩らないのである。
彼の生涯において、重要な事件や現象は、つねに外圧として彼を襲って来る。その点でも彼は典型的なスペインの歴史のなかの人ということになるのであるかもしれない。ベラスケスの〝発見〞もまた、そういう外圧の一つであった。この〝発見〞といわれるものは、長く、爾後数十年にもわたる〝発見の持続〞と補足をしなければならないものである。
そういう重要な外圧が襲って来たとき、彼はこのベラスケス銅版画事件に見られるように迂回をしてそらしたり、エル・ピラールでの穹窿画のときのようにティエポロという仲介者を見つけて自身の技法への道をつけ、あるいはバイユーがあけてくれたメングス周の描法でアカデミイの門をくぐる。
逃げたり、そらしたりも自己自身に到達するための道なのである。彼は壮年に達するまで、自己自身に到達するための直接な道をもたなかった。」
模写が模写にならなかった
「・・・彼は銅版画の技術だけは、すでに身につけていたのである。ただ、模写、コピーをすることは出来なかった。他人の作品に拘束されることが出来なかったのである。しかもそれは、彼に順応の才能がなかったからではなく、その逆であったのである。あまりに素早く、他人の作品中の、おのが持つ資質とは異なるものを見出し、しかもそれを自分の領域のなかへつれ込む、自身にひきつけるところから、模写が模写にならなかったのである。」
如何に卑しい、下品な顔つきからも人間存在の意味を取り出し、描き切ることを、ほとんど本能的に学びとった
「この”発見”されたベラスケスにあるものは、パルタサール・カルロス王子の面(つら)に見られるように、ベラスケスであるよりも、それはむしろゴヤ自身なのである。そうしてベラスケスからは、如何に卑しい、下品な顔つきからも人間存在の意味を取り出し、描き切ることを、ほとんど本能的に彼が学びとったことは、後年の諸作がそれを物語ってくれるであろう。
たとえば、苦心のノミの跡が歴然としていて、しかも成功していない『宮廷官女図』の仕事に従事しながら、たとえばひざまずいて幼い王女にかしずいている左右の官女の在り様などは、後年などではなくても、このすぐあとに描かれるカルトンに、すでにして応用されているのである。
またたとえば、いちばん目につきやすい例をあげれば、彼の『聖イシードロの牧場』(一七八七年)などは、ベラスケスの『サラゴーサ風景図』なくしてはありえない作品である。・・・」
「いわばゴヤは、三二歳にしてはじめて学校に入ったようなものであった。」
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