江戸城(皇居)二の丸池畔 2015-04-16
*長治2年(1105)
この年
・大規模な強訴。
白河法皇の専権が確立する前後、この年(長治2年(1105))と天永4年(1113)、大規模な強訴がおこった。
前者は、延暦寺の内部抗争および延暦寺と石清水八幡宮という権門寺社間の争い、
後者は、延暦寺と興福寺という二大権門寺社の対立が、院の支配と複雑に絡まり合いながらおきた。
また、前者は、筑前国竈門宮(かまどのみや)に対する末寺末社支配、後者は、京都の清水寺に対する支配、と深く関わっておきた。
これは、権門寺社の全国支配、地方寺社の系列化という問題である。
権門寺社の確立という事態が進行し、それに関わって院政という政治形態が出現した。その背景には荘園制の成立がある。
同じように、白河法皇と藤原忠実との対立、法皇と鳥羽天皇との緊張関係も、宮廷内の暗闘とか主導権争いという次元だけでなく、その背景に王家と摂関家という朝廷内二大権門の成立という問題があり、さらにその権門が荘園制の成立と深く関わっている。
それゆえ、この宮廷内の対立抗争が、その後、保元・平治の乱の軍事衝突につながっていく。
承保2(1075)年以来断続的にくり返されてきた延暦寺の多度押妨は、長治2~3(1105~06)年に至りこれまでとは異なる様相をみせ始める。それは長治元年以降の延暦寺に起こった状況の直接の反映だった。
この頃、延暦寺内部は、頻発する衆徒の武闘や大衆による座主慶朝の退却などによって、騒然たる有様であった。
そうした狂躁的な雰囲気の中で、寺内をリードしていたのは「悪僧の首(つかさ)」とうたわれた法薬禅師である。彼は東塔の大衆によって「本寺都那師(都維那)」に推され、一時期「山上の政」の執行さえしている。法薬を頂点とする悪僧たちは、「近代末寺の庄園と称し悪僧等諸国を滅亡す」と批判されたごとく、諸国で積極的な荘園侵略活動を展開していた(『中右記』長治元年10月26日条)
*
・後の待賢門院璋子(5)、白河院(53)の猶子となる。
璋子は権大納言藤原公実女で、白河院の寵愛を受け権勢並ぶものない祇園女御の養女となる。
白河院は、幼い璋子の足を懐に入れ昼も添い寝をするほど愛育、この年猶子とし、成人後はこれを愛撫。
白河院は、璋子を皇孫鳥羽天皇の中宮とするが、その後も中宮璋子を愛撫し、崇徳天皇が誕生(この年白河院67、中宮璋子19)。
鳥羽院からすれば、崇徳は祖父白河院の子なので叔父にあたり、系図上は自分の皇子であるため、これを「叔父子」と呼んだと伝えられる。
*
・ヘンリ1世本隊、ノルマンディ上陸、カーン市・バイユー市を占領し帰還。
*
・ノルマンディ、ザヴィニー修道院創設。
*
・ピストイア、コンスル制成立。
*
・シュヴァーベン大公フリードリヒ(55)、没(1050?~1105、大公在位1079~1105)。
長男フリードリヒ(15)、相続(1090~1147、大公在位1105~1147)。長男フリードリヒと次男コンラート3世の後見人は伯父の皇帝ハインリヒ5世。
ホーエンシュタウフェン家:
①フリードリヒ:ホーエンシュタウフェン家創始者フリードリヒ・フォン・ビューレン長男。1079年ハインリヒ4世によりシュヴァーベン大公に任命(位1079~1105)。
②妻アグネス(31、1074 ~1143):皇帝ハインリヒ4世娘、ハインリヒ5世姉。1089年(15)フリードリヒと結婚。1105年(31)フリードリヒ没後、オーストリア大公レオポルド3世と再婚。
③長男フリードリヒ(15、1090~1147、シュヴァーベン大公1105~1147)。1120年?ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公娘ユーディットと結婚。長男がフリードリヒ・バルバロッサ(1122~1190)。
④次男コンラート(12、1093~1152、1127~1135対立王、1138~1152ドイツ王)。ホーエンシュタウフェン朝創始者。
⑤長女ゲルトルート(1104?~1141、帝領伯 ヘルマン・フォン・ロートリンゲンと結婚)。
*
1月
・検非違使庁、大宰府大山寺事件に関し大宰府に公文を移送(「卅五文書」)。
大宰府は再び彼の比叡山悪僧らの大山寺支配を認める。
*
1月1日
・延暦寺衆徒、園城寺僧の證観を訴える。
*
1月27日
・高階為遠、再び伯耆守に重任。天仁元年(1108)1月24日尾張守に遷任。
*
1月27日
・従三位左京大夫源顕仲に越前権守を兼任させる。従七位上紀安重、越前少掾に任命。従七位上安倍安国、若狭少目に任命。
*
2月9日
・越前守藤原仲実を春日祭の中宮使に任じる。
3月7日、右大臣藤原忠実、石清水臨時祭の使の越前守藤原仲実に馬を与える。
9日、石清水臨時祭。
*
2月15日
・源義家、摂津多田院に別当導師を置く。
*
2月15日
・藤原清衡、平泉に最初院(中尊寺)を建立開始。金色堂完成は1124年。
*
2月28日
・トリポリ伯レイモン・ド・サン・ジル、モン・ペルランで没。息子ベルトラン、トリポリ伯即位(~1113)。
(1102年トゥールーズ伯レーモン(レイモン1世)、トリポリ伯領成立(1102~1289)。1109年トリポリ占領。)
*
春(日時不詳)
・石清水八幡宮寺別当兼大山寺別当光清と大宰権帥藤原季仲が宣旨を受け、検非違使庁の下部・兵士らが悪僧一味と合戦。大山寺山内の竃門宮の神輿に矢が当たり、日吉社神人の専当(下級僧)の円徳法師が没(「中右記」同年10月30日条)。
*
3月2日
・地震あり。
*
3月30日
・堀河天皇の病気平癒の為、公家御祈始まる。越前守藤原仲実は北斗曼荼羅を出す(「中右記」)。
*
4月1日
・地震あり。
*
4月13日
・大宰府、報告書2通を右大臣藤原忠実に進ず(「中右記」)。
*
4月20日
・アンティオキア公、セルジュク朝より外オロンテス地方を奪う。
*
5月4日
・左大臣源俊房以下、大宰府言上竃門宮乱行の事を議す(「中右記」)。
*
6月2日
・左大臣以下、大宰府大山寺事件に関して竃門宮神人殺害人の赦の可否を議す(「中右記」)。
*
6月2日
・北方で紅雪が降る。
*
6月5日
・この頃より、大宰府大山寺事件により、叡山大衆が石清水八幡宮寺別当兼大山寺別当光清と大宰権帥藤原季仲の処罰をもとめて内裏に押し寄せる(「殿暦」)。
*
6月14日
・祇園御霊会。
検非違使中原範政、祇園神人の乱行を制止せんとして神人より暴行さる。
神人、無実をもって事を構え、200人陽明門に参集、範政を重科に処すよう訴える「中右記」「殿暦」「百錬抄」)。
23・24日、日吉、祇園神人再び陽明門に群参し訴える(「中右記」)。
*
7月21日
・ヘンリ1世とアンセルム、ヘンリ1世妹ブロア伯夫人アディラの仲介によりレーグルで会談。
ヘンリ1世、アンセルムに教会財産を返還、和解への第1歩を踏み出す(「司教任命の教権の諸権利」を承認)。
ただ、王権から受ける「封土」と引き替えに、司教に「忠誠宣誓」を「求める権利」を捨てず。
ヘンリ1世の主張に教皇も合意(1106年春、ローマより使者が帰国 )。
*
8月20日
・宋人、博多に来て貿易を請う。
*
8月29日
・延暦寺衆徒と日吉神人、陽明門に参じ太宰権帥藤原季仲を訴える(「百錬抄」)。
9月5日、日吉社神人、陣頭に押し掛け訴える(「殿暦」)。
*
9月28日
・シチリア伯シモン(12)、没(位1101~1105、ロジェ1世長男)。
ロジェ2世(10)、即位(ロゲリウス2世、1095~1154、位1105~1154)。摂政・母アデラシア(摂政在位1101~1112)。
*
10月
・祗園女御、祗園堂供養。
*
10月10日
・日吉社司、大宰府大山寺事件に関して陣頭に群参し訴える(「中右記」)。12、24、25日にも。
*
10月28日
・太宰権帥藤原季仲の停任・召返しを決定(「中右記」)。
*
10月30日
・叡山大衆数千人、祇園神輿を奉じ内裏陽明門に押し寄せ、大宰権帥藤原季仲と石清水八幡宮寺別当光清らの流罪を訴え騒ぐ。
石清水八幡宮寺神人や俗別当らも陽明門南の待賢門に集まり、別当光清処罰反対を訴える。
神人3~4人が斬られ、夜には俗別当は叡山大衆により暴行を受ける(「中右記」)。
右大臣藤原忠実、家族を避難させる(「殿暦」)。
*
10月30日
・堀河天皇、尊勝寺建立。
*
11月1日
・藤原季仲、権中納言・大宰権帥を停職される。光清、石清水八幡宮寺別当を免ぜらる。(「百錬抄」)。
*
11月2日
・延暦寺の三度目の多度押妨、東寺の勝訴のうちに一段落する。
前年、長治元(1104)年11月頃より、延暦寺の使者による神宮寺および「本宮石本」への押領が始まるが(『平安遺文』1663・1646)、約1年間の太政官における対決の後、この日、文書の理によって「旧のごとく真言の別院たり、重訴致すべから」ざる旨の宣旨が出された。
東寺の使者が宣旨を携えて下向したため、現地にあった延暦寺の使者もやむなく退去(『平安遺文』1663号)。
*
11月3日
・光清、石清水八幡宮寺別当に還任(「百錬抄」)。石清水八幡宮は伊勢神宮につぐ第2の宗廟として訴訟上特権を与えられる。
「今年三月非常の赦の詔文に云ふ、伊勢大神宮八幡の訴へに触るる者はまぬかるる限りに非ずてへれば、仍りて赦に会ふべからざるの由、僉議先ず了んぬ。」(「中右記」同年10月30日条)。
*
12月
・正四位下行越前守兼中宮権大進藤原仲実の12月の勤務、上日(朝から出仕した日)6、宿直6。
*
12月25日
・右大臣皇太子傅藤原忠実、関白となる。
*
12月26日
・前大宰権帥藤原季仲らの罪名を議す。
29日、藤原季仲を大逆を謀ったとして周防配流、石清水八幡宮寺所司3人を解職・禁獄とする(「中右記」)、獄に収容され、頼厳は隠岐、快誉は土佐へ流され、勢源は佐渡へ流されるところ獄中で没。季仲の従類6人も遠流、季仲の子の刑部少輔懐季・少納言実明は解官。
翌年2月17日、藤原季仲は中流の周防を改め遠流の常陸に流され、14年後の元永2年(1119)6月1日常陸で没(74)。
「延喜式」巻第29:
伊豆、京を去る七百七十里。 安房、一千一百九十里。常陸、一千五百七十里。 佐渡、一千三百二十五里。隠岐、九百一十里。 土佐等国、一千二百二十五里。遠流となす。信濃、五百六十里。 伊豫等国、五百六十里。中流となす。越前、三百一十五里。 安芸等国、四百九十里。近流となす。
石清水八幡宮寺は叡山大衆の横暴を跳ね返すが、大宰府大山寺は石清水八幡宮寺の管轄をはなれ、完全に叡山の末寺となる。
叡山の悪僧法薬禅師は、大山寺のもつ宋貿易の権益に目をつけたと考えられる。
*
12月末
・マインツ王国会議。
ハインリヒ5世(24)、父帝廃位宣言の為、議会招集。諸侯50以上が参加。
ハインリヒ5世を唯一正統な国王と宣言。
ハインリヒ5世、マインツ大司教より戴冠。教皇座に服従する為マインツに出席した父帝ハインリヒ4世を逮捕・拘禁。
ハインリヒ4世、帝国諸権標をハインリヒ5世に引き渡す。
12月末
・マインツ王国会議。
ハインリヒ5世(24)、父帝廃位宣言の為、議会招集。諸侯50以上が参加。
ハインリヒ5世を唯一正統な国王と宣言。
ハインリヒ5世、マインツ大司教より戴冠。教皇座に服従する為マインツに出席した父帝ハインリヒ4世を逮捕・拘禁。
ハインリヒ4世、帝国諸権標をハインリヒ5世に引き渡す。
ハインリヒ5世、一切を失うより父親と義絶し教皇との協調を選択。但し、ドイツ国内聖職者の皇帝への臣従は放棄せず。
*
*
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿