2015年4月14日火曜日

明治38年(1905)5月10日~16日 野口寧斎歿(竹林男三郎事件) 荒畑寒村・竹久夢二・岡栄一郎の共同生活 衆議院東京市補欠選挙、木下尚江32票

江戸城(皇居)東御苑 2015-04-09
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明治38年(1905)
5月10日
・上海、アメリカの移民制限反対の米商品ボイコット開始。(~8月)
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5月11日
・スペイン、サルバドール・ダリ、誕生。
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5月11日
・アルバート・アインシュタイン、ブラウン運動の論文が受理される(『物理学年報』誌による)。
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5月12日
・寧斎野口一太郎(39)、麹町区下六番町の邸宅で没す。

寧斎の父野口松陽は、もと九州諫早の藩士で、幕末期、大沼枕山(ちんざん)、森春濤、巌谷一六、小野湖山等と並ぶ著名な漢学者・漢詩人。宮内省官吏で、明治14年、40歳で没。

一太郎は、明治4年、5歳のとき父に伴われて上京、麹町下六番町の、もと旗本の屋敷だった大きな邸宅に住む。その3~4軒さきに、同年の芳賀矢一がおり、番町小学校では二人とも目立った秀才であった。一太郎は、14歳のとき哲学館に入り、傍ら漢学を森春濤に学んだ。

20歳頃からその漢詩によって名を知られ、謫天情仙(たくてんじようせん)なる名によって「太陽」等に発表した戯詩による文壇批評もまた、多くの人に愛読された。著書に、「三体詩評釈」、「少年詩話」、「史詩談」、「出門少草」、「開春詩記」、「征露宣戦歌」等がある。
芳賀矢一は、東京帝大を出て、その助教授となり、ドイツに留学して文献学の研究法を学んだ。
明治35年、東大教授になって国語学、国文学講座を担当。

野口寧斎は、明治36年1月から漢詩の月刊雑誌「百花欄」を創刊して、その死にいたるまで刊行し続けた。その発行事務には、彼の弟子である売剣上村才六があたる。社友には、当時の一流の漢詩人たち即ち三島中洲、依田学海、富岡鉄斎、北条鷗所、矢野錦山、巌谷一六、森槐南、国府犀東等が加わっていた。また当時、政治家や軍人たちは、漢学の素養を持っていたので、この雑誌に参加して漢詩を作り、寧斎の指導を受けるものが多かった。即ち一一学人(副島種臣)、石林孤椎(乃木希典)、青淵釣夫(渋沢栄一)、含雪山人(山県有朋)・春畝山人(伊藤博文)、三橋釣侶(坂本釤之助)等がこの雑誌の社友であった。

明治23年、幸田露伴が「縁外縁(えんがいえん)」でハンセン病の女のことを書いた時、その血筋だという世評のあった野口寧斎は、おれの妹をモデルにしたと言って怒った。彼も妹も、まだ病気の気配はなかった。
しかし、明治26年頃から野口寧斎は患いはじめ、彼との交際を怖れる文士が多くなった。明治26年春、尾崎紅葉や江見水蔭等は、吉野の桜を見て京都に寄り、「京都日出新聞」にいた巌谷小波と逢い、賀茂河畔の某楼に遊んだ。たまたま野口寧斎も来遊していて同じ家に泊った。女たちも男たちも彼に近づこうとしなかった。寧斎は江見の室に入って来て、夜明かしして飲もうと言った。江見は閉口して室から逃げ出した。

明治29年小栗風葉の小説「寝白粉」が肉親相姦を描いて発禁になったときも、モデルは野口寧斎だと言われた。この頃から彼の作品は不思議な魅力を帯びて来た。彼は怖れられると同時に、一種の神秘な存在として敬意を払われ、漢詩の指導を受けるものが多くなった。
正岡子規と野口寧斎は当代の二大病詩人と言われた。

その後、野口寧斎は、病状が進むに従って自宅に引きこもりがちになった。彼には父の残した相当の財産があり、母と、曾恵子という妹があった。曾恵子はすぐれた美貌の少女であったが、寧斎の病気を知るものは彼女に近づこうとしなかった。

明治33年、大阪生れの武林男三郎(21歳)、勉学の目的で上京し、麹町紀尾井町の東大教授理学博士石川千代松方に寄寓して飯田町の私立至誠学院に通っていた。その学校で盗難事件が起り、男三郎が疑いをかけられた。彼は退学して、東京外国語学校の露語科へ入学した。

明治33年夏、彼は清水谷公園で偶然野口曾恵子と逢った。武林男三郎も好男子であったので、二人は次第に思い合うようになった。あるとき石川家の息子の欣一が石炭酸液を水と間違えて飲んで入院し、家族が病院で附き添っていた留守に男三郎は野口曾恵子から恋文をもらった。そして男三郎は野口家へ出入りするようになった。彼は、寧斎の病気を知っても怖れなかった。彼は曾恵子への愛情のために寧斎の病気の治療と看護に当ることを誓い、書生として野口家に寄寓した。彼は外国語学校へ通うのもやめて、治療法研究のために図書館へ通うようになった。

明治34年頃から、野口寧斎の病気は次第に悪化した。
その頃妹の曾恵子は妊娠した。武林男三郎は曾恵子を連れて信州へ駆け落ちしたが、寧斎の親友で弟子でもある上村売剣がとりなして連れ戻した。二人は結婚し、男三郎は野口家に入籍した。すると寧斎は次第に男三郎を虐待するようになった。そののち、男三郎が外国語学校の卒業証書を偽造していたことがばれて、男三郎は寧斎にひどく叱られ、彼は野口家を飛び出した。彼はひそかに曾恵子と逢いつづけていたが、寧斎は彼を再び家へ入れようとしなかった。曾恵子はやがて君子という女の子を産んだ。

5月12日に野口寧斎が死んだ翌朝、主治医の木沢医師が駆けつけて見ると、死体は、蒲団から外に乗り出して、異常な苦悶のさまを示していたが、この種の病人の死にはありがちのことであるし、また顔には血を拭った痕があったが、寧斎は日頃よく鼻血を出していたので、医師は別にそれを怪しまなかった。

5月25日、麹町区4丁目8番地の小西薬店の主人都築富五郎という男が、前日4時頃に350円の金を持って家を出たきり帰宅しない、ということで、捜索願が麹町署に出された。ところがその時刻に、都築富五郎が、豊島郡代々幡村字代々木93番地の山林で縫死していたのか発見された。この商人の自殺を怪しんだ麹町署では、ひそかに探索を続けた結果、その前に都築のところを訪ねていた野口家の婿の男三郎を犯人だと推定した。

寧斎の死後、野口家では親族会議を開いて、男三郎の復帰問題を議したが、離縁ということに決定した。親戚の中で、手島という夫妻が前々から男三郎に同情していて、男三郎はとにかくロシア語を勉強しているのだから、戦地へ行って通訳官になるのがよいではないか、と言った。男三郎も戦地行きを決心し、6月3日、知人数名に見送られて東京を発つため飯田町の停車場へ来た。その駅頭で麹町署の刑事たちが彼を逮捕した。懐中をしらべると、現金270円余と劇薬らしい散薬を持っていた。彼は殺人の嫌疑で拘引された。

警察は男三郎を都築富五郎殺害の犯人と認めたのみでなく、野口寧斎もまた男三郎に殺されたものと推定した。
更に、その3年前の明治35年3月28日夜に、麹町区下2番町59番地の印刷工中島新吾の長男荘亮(11歳)を殺害したのも男三郎であるとした。中島荘亮少年はその夜、母キクに連れられて風呂へ行ったが、その帰りに母が砂糖を1銭5厘買って来いと言って少年を使いにやった。それっきり少年は帰宅せず、夜の12時すぎになって、同町29番地の遠藤某家の横の小路に、死体となっているのか発見された。少年は鋭利な刃物で左の喉を突かれ、左右の臀肉を大きく切り取られて死んでいた。警察は犯人を捜したが、該当するものがなく、事件は迷宮入りになっていた。人肉が病気に利くという伝説があるので、これもまた野口家に関係のある男三郎の仕業と推定され、拷問による訊問が続けられた結果、彼は犯人たることを自白した。

事件は、新聞に大きく報道され、天下の耳目を聳動させた。
名弁護士と言われた花井卓歳が公判で男三郎の弁護に当ることになった。

明治39年5月15日、東京地方裁判所は、被告人男三郎に、第一の殺人事件(臀肉事件)、第二の殺人事件(義兄野口寧斎殺害事件)については証拠不十分として無罪、第三の殺人事件(薬店店主都築富五郎殺害)および余罪の卒業証書偽造について有罪の判決を下した。
臀肉事件と野口寧斎殺しにで無罪となった理由として、弁護士花井卓蔵の情熱と理知を兼ね備えた弁護方法の功績のためと指摘する意見のほかに、取調べにおいて、警察が拷問を行った疑念が指摘されたためとする意見がある。公判中、花井卓蔵は、検察が提示した証拠と証人の証言の矛盾を指摘している。

男三郎は、明治41年7月2日、市ヶ谷監獄にて死刑執行。享年28歳。"

尚、野口寧藤は、森鴎外の小説『ヰタ・セクスアリス』に原口安斎として登場する。

また、獄中の男三郎の様子は、「要するにごく気の弱い男なんだ」と、大杉栄が『獄中記』で詳しく描いている。
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5月12日
・石川啄木、堀合節子を妻として入籍。父一禎、婚姻届を盛岡市役所に届ける。
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5月12日
・社会主義伝道行商(東北)から帰京した荒畑寒村は、雑司ケ谷鬼子母神の傍の農家で自炊していた竹久夢二(早稲田実業)・岡栄一郎(早稲田大学)と三人の共同生活をおくる。三人は、「水とパンだけで過す日の多い生活をも意に介せず、社会主義実現の空想に耽って奔放な議論をたたかわせていた」(『寒村自伝』)。
夢二も、「マルクス、エンゲルスを教えてくれたのも栄一郎だった」と記している。
生活に困窮していた夢二が、新聞配達、牛乳配達をしたり、街頭で『平民新聞』を売ったり、車夫や書生ともなり、教会の留守番にもなったりしていた。こうした生活を通して、夢二の社会を視る目が開かれ、社会批評眼が育っていった。

竹久茂次郎(夢二)は岡山県邑久郡本庄村の酒造家の息子。荒畑より3つ年上で、この時数え年22歳。神戸一中に学び、画家が志望であったが、父の命で早稲田実業に入学。だが学校は籍を置くだけで出席せず、当時岩村透の指導理論による新傾向の印象派の画を教えていた白馬会の洋画研究所に通っていた。そのため学校は落第し、国許からの送金が来なくなった。

彼は困った揚句、その頃流行しはじめた絵葉書の製作を思い立った。葉書型の画用紙に水彩で絵を描いたのを、学校に近い鶴巻町辺の絵葉書屋に卸して、あとでその売上げを集める工夫をした。その絵は割合よく売れて、彼の生活費になった。
ある日竹久は、厚い自筆の習作画帳を荒畑に見せて、その中の適当なものを「直言」に発表するように頼んでほしい、と言った。その中には、赤十字のマークのついた白衣の骸骨と並んで丸髷の若い女の泣いている絵があり、それが「直言」に載せられた。以後彼の絵は、引き続いて掲載された。
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5月13日
・芥川龍之介(13)、「修学旅行の記」。府立三中、現在全集にも収録。
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5月13日
・福岡県文字の石炭仲仕7,000人、賃上げ要求でストライキ。
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5月13日
・有島生馬(22)、横浜港からドイツ船ゲネラル・ローン号で出航、美術修行のためイタリアに向かう。船中で日本海海戦の報を聞く。
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5月14日
・『直言』第15号発行。
衆議院議員補選において日本社会主義同志の名を以て木下尚江を「吾党の候補者」に推薦し、「故に政界に於ける実際運動の端緒を開かんと欲す」との決意を声明。
しかし制限選挙の下で、「選挙場裡の成敗は吾人の目的に非ず、吾人は只神聖なる幾個の投票を泥土の内に掬(すく)ひ、之を高処に掲げて燦然たる光輝を放たしめんと欲するのみ。其票数は僅かに十個なるも可也、五個なるも可也、三個なるも可也、或は単に一個なるも亦可也。同志諸君、願はくば諸君と共に敢て此の愉快なる運動に力めん」という。

木下尚江の衆議院東京市補欠選挙立候補宣言掲載。
政見綱領は社会主義の一語に尽き、この宿論計画を実行すべき手段は普通選挙の実行にあるとした。
今や日露戦争の苦痛は国民をして普通選挙の必要を自覚せしめ、いわゆる論者と称する輩は滑稽千万にも今さらのように「兵役の義務ある者は選挙の権利無かるべからず」と喋々説教するに至った。されど政府は戦後経常の名で急速に軍備の拡張を計画し、資本家的勢力もまた更に政権を掌握し、日本国民を提(ひつさ)げていわゆる東洋問題の渦中に投ぜんとし、帝国主義の勃興は今や必然の趨勢にある。而して普通選挙の実行は帝国主義者のもっとも恐怖排斥するところである、なぜなら無権利の賤民が多くなければ資本家政治、軍人政治は決して成功しないから。故に普通選挙は今後、政界の勝敗を決すべき天王山であって、苟(いやし)くもも民政の発達、社会の進歩を希う者は必ずまずこの天王山を占領しなければならぬ。
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5月14日
・ロシア・バルチック艦隊、ヴァン・フォン湾発。予定通り運搬船7隻が離脱し合計50隻。
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5月14日
・ロシア、ポーランドの学校にポーランド語使用許可。
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5月16日
・平民社、木下尚江を座長として数十名で加納豊を査問。スパイたる確たる証拠ないが、運動より退かせる。
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5月16日
・衆議院東京市補欠選挙の開票。木下尚江は32票。
東京市15区のうち、木下に投票した10区と票数は次の通り。
京橋:9、日本橋:9、神田:6、麻布:2、浅草:1、本郷:1、牛込:1、深川:1、芝:1、小石川:1
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5月16日
・アメリカ、ヘンリー・フォンダ、誕生。
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