この年
・信長40歳、光秀46歳、秀吉38歳、家康32歳
*
1月
・北山城(左京区)の国衆や摂津・伊丹など、畿内で将軍義昭に味方するもの続出。
*
・この頃、信長、義昭へ「異見十七ヶ条」発す。
①参内が少ない。
②以前に約束した御内書への信長添状が守られていない。
③恩賞が不正。
④御物避難は京都の不安を招く。
⑤岩成友通の賀茂神領没収を見逃した。
⑥信長に近しい者達に辛く当たる。
⑦信長が言上した奉公人への扶持に反対する。
⑧若狭安賀庄の代官の件訴訟を再三無視。
⑨小喧嘩をした者が預けた腰刀・脇差までも召置いた。
⑩勅命がある改元の件で公議費用を捻出しないため遅延。
⑪勘当した烏丸光康・光宣を過怠金で赦免した。
⑫他国からの御礼の金銀を隠匿。一体何の御為か。
⑬光秀が徴収した地子銭を買物代金として渡したが、明智が山門領の町から徴収したとして受取主を差し押さえ。
⑭昨年夏、幕府御城米を売却した。
⑮宿直の若衆に代官職を与えたり非分の公事を起こさせている。
⑯先日、洛中雑説により蓄えた金銀を御所から持ち出した。不安を煽る。
⑰諸事欲深い。土民百姓までが悪御所と呼んでいる。
*
・上杉謙信(44)、越中に入り一向一揆を攻撃する。
椎名康胤らが降伏。富山城を開城。富山城に守兵を置き帰国。
謙信帰国後、再び富山城を奪取。
*
・英人フランシス・ドレイク一党、パナマ地峡に上陸、フランス人海賊やシマロン(スペイン植民地からの逃亡黒人奴隷)と共にスペインの銀輸送隊を襲撃。
*
1月1日
・村上義清(73)、旧領信濃に戻ることなく越後根知城で病歿。
*
1月3日
・武田信玄2万5千、徳川方菅沼定盈(山家三方衆田峯の菅沼定忠曾孫)・松平忠正300の拠る三河野田城(愛知県新城市)包囲。23日、三河野田城攻撃。
2月9日、信玄、三河野田城外で被弾。
11日付け信玄の義昭側近上野秀政宛て書状。
信長の逆意5ヶ条を書き、上洛して「現世安民の政」「天下静謐」を行いたいと述べる。
*
1月4日
・北畠具教(46)、鳥屋尾満栄を武田信玄に派遣、出船の密約を結ぶ 。
*
1月6日
・ワルシャワ、ポーランド王選挙方法決める議会(召集議会)開催。国王自由選挙の原則確立。
'72年に186年間続いたヤギェウォ王朝断絶のため。
*
1月6日
・肝付氏の大軍、北郷領大隅末吉を攻める。
*
1月8日
・松永久秀(64)、名刀「不動国行」を岐阜城の織田信長に献上、謝罪し、謀反を許される。
*
1月10日
・京都の神道家吉田兼右(58)、没。
*
1月18日
・幕府御供衆細川藤孝、義昭面前で同僚上野秀政と口論。
義昭は信長討伐挙兵の意向、細川不戦主張。二条城。
*
1月26日
・将軍足利義昭、浅井長政・朝倉義景・武田信玄らと信長打倒を画策。
光浄院暹慶(せんぎょう)らを石山・今堅田に挙兵させる。
この日、信長の兵が石山を攻略。
*
1月27日
・本願寺顕如、朝倉義景に、信玄の三方ヶ原での勝利、伊勢長島と岐阜の三里の新要害での戦い、越中・加賀門徒衆の信長と同盟する上杉謙信との戦い、北近江の門徒衆の浅井長政との協力について述べ、信玄西上に合せての出陣を要請(「顕如上人文案」)。
顕如は、武田信玄・浅井長政・朝倉義景を結ぶ反信長軍事的ネットワークの中心。
*
1月27日
・後に「越前奉書」として有名になる高級楮紙、この頃、「奉書かミ」とみえる(「尋憲記」同日条)。
近世の製紙技術はこの頃迄に確立。
*
1月28日
・ポーランド、ワルシャワ連盟協約。宗教上の寛容。
*
2月
・北條氏繁、羽生・深谷両城を攻める
*
・肝付省均、島津氏に対して謀反し独立する。(記録多数)
*
2月4日
・徳川家康(32)、同盟を結んでいる越後の上杉謙信に信濃出兵を要請。
*
2月6日
・本願寺顕如、朝倉義景の撤兵を非難、武田信玄の三河野田城包囲の様子を伝え、至急近江出兵を要請。
*
2月6日
・山城愛宕郡の岩倉山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯谷久次、明智光秀に敵対。
10日、近江へ布陣。吉田兼見は彼らの預物を拒絶(「兼見卿記」1)。
*
2月10日
・武田信玄、徳川方菅沼定盈(山家三方衆田峯の菅沼定忠曾孫)・松平忠正300の拠る三河野田城(愛知県新城市)陥落。
菅沼定盈ら長篠に護送、浜松城の人質(山家三方衆の妻子)と交換。
信玄の野田城攻略は反信長戦線を活気つけるが、信玄はこの頃から病を得て、軍はゆっくり信濃へ後退。
17日、長篠城へ後退。
*
2月13日
・将軍足利義昭、信長包囲網(義昭・本願寺・浅井・朝倉・武田)を作り挙兵。近江石山と今堅田の砦に自分の兵を入れる。
17日、新御所の堀普請を行う。
「公方様(義昭)内々御謀叛思しめし立つのよし、その隠れなくそうろう」(『信長公記』巻六)
信玄が三方ヶ原で徳川・織田連合軍を粉砕、野田城を陥落。武田の侵攻、浅井・朝倉、畿内の大名、本願寺など反信長勢力の立ち上がりを期待。
洛中が戦場になる可能性が高く、「室町殿(義昭)と信長と御仲悪しきゆえ、雑説申し出で、京中物忩(ぶっそう)もってのほか」(『永禄以来年代記』)と、洛中が騒動になる。
騒動は、「庶民はじきに家財を集め、一日に千八百、また二千の荷物、都を出で、兵士らはこれを好機となし、都のなかにて、あるいは公道において隊をなし、家財を略奪し、あるいは槍、あるいは銃をもちいてこれを奪いたり、」(『耶蘇会士日本通信』)という。
義昭側の軍勢は少なく、「京の口々を町人を差しつかわして守らしむ」と、洛中の町人たちに「京の口々」の警固をさせたらしい。
『兼見卿記』2月17日条にも、義昭より「御城中堀二間を申しつく」と、御所の堀を補強するため人足を出すよう命じられたとある。
*
2月13日
・顕如、浅井長政に協力して近江志賀郡で信長方と戦う堅田の慈敬寺証智と門徒の働きを称え、慈敬寺を本願寺の院家に列し黄金30両(約500万円)を給与(「慈敬寺文書」)。
*
2月20日
・近江園城寺の光浄院暹慶(せんぎょう、山岡景友)・磯貝新右衛門ら、将軍義昭に応じ一向宗徒を糾合、石山・堅田で籠城。
信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆4将に討伐を命じる。柴田勝家、岐阜出陣。
24日、4将、渡海して石山城攻撃開始。
26日、石山の光浄院運慶、柴田に降伏。城を破却。
*
2月22日
・信長、義昭と和解するため、信長より嶋田秀満・松井友閑を京都へ遣わす(『兼見卿記』2月22日条)。
但し「信長より大樹(義昭)へ御理(おんことわり)の儀あい調わず、島田にわかに下向」(『兼見卿記』3月8日条)とあり、和睦は不成立、秀満は岐阜へ帰国。
*
2月23日
・足利義昭、浅井長政・朝倉義景・武田信玄・本願寺らに、信長討伐の激を発する。
*
2月23日
・信長、細川藤孝の報告に応え義昭逆心について通達。
①塙直政を京都へ派遣し和睦提示、義昭の提示条件を全て了承、塙直政が眼病を患ったため松井友閑・島田秀満を上京させ人質を提出した。
②摂津周辺では荒木村重が信長に「無二之忠節」を励むという知らせが届く、
③和田惟長が先日信長へ疎略無き旨を通信してきた、細川藤孝に若年の和田惟長へ意見することが重要である。
④伊丹親興が敵に加担したが調略により織田側に帰属させる。
⑤石成友通は表裏無き人物と聞いているが現在はどうか能々相談すべき。
⑥信長・義昭間が破綻したら敵方で味方になりそうな者に宛行い勧誘すべき。
⑦信玄は2月17日に野田表を撤収した。
⑧志賀周辺で一揆が蜂起し、蜂屋・柴田・丹羽に出陣命令した、琵琶湖を渡って急行させるので鎮圧に時間は要しないであろう、信長は佐和山に移動し近日に上洛する。「畿内之事平均」に鎮める戦略は信長「案中」にある(「細川家文書」)。
武田軍が野田に進んだため、信長は、将軍義昭の懐柔に乗り出した。
一方の義昭は勝ち誇っていた。信長が下手に出ていちいち条件を呑んでも、和解する気はなかったようである。2月中旬には石山や今堅田など志賀・高島郡、それに北山城の国衆を反信長方として立ち上がらせていた。彼らに本願寺の指令を受けた真宗門徒が加わり、浅井・朝倉軍、さらに武田軍が来れば、もう信長など物の数ではないと思っていた。
しかし、野田城を落とした後の信玄は西へ進軍せず、北へ動き長篠城を過ぎて鳳来寺に着陣した。23日付け書状では信長は「信玄、野田表去る十七日に引き散し候」としている。信長の情報収集は早い。
信長とてもこの時点では、武田軍がそのまま退却してしまうとは思っていない。義昭との折衝を続けながら、柴田・明智たち部将を派遣して志賀郡の敵の拠点を攻撃させ、2月29日までにはすべてを鎮圧した。
*
2月26日
・信長、実子を差し出して義昭に和平を求める。
*
2月26日
・信長、細川藤孝が京都の状況報告したことに満足す。
松井友閑・島田秀満に義昭と交渉させ義昭が提示した条件は全て承諾した、
幕府奉公衆内で義昭の意を酌まない者を「質物」提出要求条項があり細川藤孝も含まれていたことを留意すること、
細川藤孝は「無二之御覚悟」であるので信長は特に入魂にしていること、
荒木村重・池田恒興らへ疎略の無いように才覚すべきこと、
味方につけるための信長「朱印」を発給するところがあれば承ること、
など通知(「細川家文書」2)。
*
2月26日
・浅井長政、某へ、義昭屋敷落成、義昭御内書が信玄に下された、東美濃へ信玄が出撃し加治田城・つぼ城を攻略した、朝倉義景も間もなく出陣すると通知(「小島明氏氏所蔵文書」)。
*
2月27日
・本願寺顕如、北陸の一向一揆と対戦中の上杉謙信を牽制するため武田信玄に信濃へ出兵するよう依頼。
*
2月29日
・今堅田攻略。湖上から明智光秀が、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆が攻撃。
午刻頃、明智勢が近江堅田城内突入、陥落。一揆・地侍衆を撃破。
西近江を統一。
柴田は京都に向い丹羽・明智が攻撃。明智は坂本に止まり、他は3月2日、京都帰陣。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿