2015年11月18日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(79)「首席宮廷画家、そして近代の誕生」(1終) : 『カルロス四世家族図』(1800) : 「一時代の死という不吉なものが、かくも絢爛豪華な意匠をまとって描かれたことは、人類がもつ長い絵画の歴史にも絶無であった。」

首席宮廷画家、そして近代の誕生
 ・・・サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会での穹窿画を除いては、一七九二年以来長くゴヤは宮廷の仕事をしていない。・・・。
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 七年振りで宮廷からの呼び出しがあった。ラ・グランハの離宮へ来て王と王妃の肖像を描けという御注文である。王は銃身の長い鉄砲をもち、ポインター犬を従えての狩猟姿であり、王妃は黒の衣裳をまとっての ー 普通にはこれはマハ姿の、ということになっているが、そうではない - 、これは明白に黒衣のアルバ公爵夫人像と張り合うためのものである。

 それは二枚とも別にどうということもない凡作である。黒衣の王妃像の、スカートの、その節織りの地と組み格子の黒い花飾りを描きながら、おそらくゴヤはしきりとアルバ公爵夫人のことを思い出していたものであろう。・・・
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 この黒衣王妃像が一つだけ黒衣アルバ公爵夫人像と大きく異なるのは、王妃が公爵夫人のように腕蔽いをつけていず、太くてすべらかな腕をむき出しにしていることである。
 というのは、この王妃マリア・ルイーサは、自分のこの白くてすらりとした腕が自慢の種で、宮中では貴族の夫人たちにも腕蔽いをつけることを禁止していた。他の女たちの貧相な腕と比べる、あるいは比べられることが楽しかったのである。・・・

 次にもう一組の、今度は両者馬上姿の肖像画である。これも前者同様に別にどうということもない、ベラスケスを摸した凡作である。・・・要するにベラスケスの馬の模写にカルロス四世とマリア・ルイーサを乗せただけである。
とはいうものの、この王妃の顔の、いささかならず得意満面の高慢ちきな表情は、やはりこの画家にしてはじめてとらえられたものであったろう。
マリア・ルイーサは、自分がそこからゴドイをはじめとして何人かの恋人をひき出して来た近衛騎兵隊の大佐の軍服を着ている。
王と王妃もこの二組の肖像画が気に入った。
そこで今度は、来年(一八〇〇年)に入って「われわれの家族全部」を、ゴヤよ、描け、ということになる。

ゴヤ『カルロス四世家族図』1800年 

 巨大な(二・八〇×三・三六メートル)『カルロス四世家族図』がそれである。

 前記の二組の肖像画と、この家族図との間に、たとえばマドリード画帳と言われるものにも見られたような、一つの裂け目があると思われる。
 それは、ことばでそれを言うとして公式画家としての対象に対する儀礼、敬意、鑽仰などの放棄である。つまりは、首席宮廷画家から、単なる画家、独立した芸術家への移行である。
 すなわち、近代への移行、あるいは近代そのものの誕生にわれわれは立ち会うことになるのである。
 ゴヤはこの巨大な作品にとりかかるについて異常なほどに熱心である。この大作を完成するために下絵を一〇枚も描いている。・・・それに、このとき宮廷が移動をしていたアランホエースの離宮へ彼が四度も足を運んでいる・・・。
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 しかし、つくづくと不思議な人である。アカデミイ会員になれば、途端に肖像画などのアカデミイ会員にふさわしからぬ絵を描きはじめ、次に宮廷画家に任命されると、『気まぐれ』などの、バイユーなどに言わせたら宮廷画家としてあるまじきもの、ということになるものを描く。そうして首席宮廷画家になった途端にただの宮廷画家でさえなくなるのである。

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 チャーチル風に言うとすれば、かくも美々しい衣裳をまとい、金銀宝石に飾られていて、しかもなおかくも資性愚鈍かつ低劣な人間群衆をかつて見たことがない、とでもいうことになるであろうか。この大作を見てテオフィル・ゴーティエは、「富籤にあたった角のパン屋の一族」のようだと書いているが、それではパン屋に失礼にあたるであろう。
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 ・・・首席宮廷画家として、公式の仕事をしながらも、彼は彼自身で見たものだけを表現している・・・。

 近代の誕生の現場にわれわれが臨んでいる、と先に言った所以であった。

 もしゴヤが王妃の手紙にあったように、「(モデルを前にせずに)実物通りに」描いていてくれたりしたら、われわれは一時代の終りと(時は一八〇〇年である)、新しい一時代の開始の、その現場に立ち会うという幸福と不幸の双方に一時に出遭うこともまたなかったであろう。

 新しい一時代とは、すなわち現代そのものに他ならない。

 王侯貴族であろうが平民であろうが、彼が見、そして彼が感得したところのものを、彼自身の方法で表現する。従ってそこには種々様々な規範や図像学上の伝統的規制、ドグマなどは、芸術家自体によって乗り越えられてしまい、そこで、従ってという言い方をもう一度使わせて頂くとして、従って芸術家自体の独自性と独創性がはじめて問題になって来るのである。いわば芸術家はパレットを手にカンバスを前にして、たった一人で、規範、規制、ドグマが乗り越えられたという意味では自由という名の虚無へ、また独自性と独創性という相対的なものに依拠するという意味では、人間とその社会の現実へ進み出て行かなければならなくなる。

 王妃をほぼ中心として - ・・・。
 右の、王とのあいだにいる赤い服の男の子は、ドン・フランシスコ・デ・パウラ・アントニオ親王で、ゴドイとのあいだの子供と言われている。六歳。・・・。王妃の左は、ドーニャ・マリア・イサベル、この子もゴドイとのあいだの子という噂があった。が、噂のことはとにもかくにもとして、この子は母親に実に酷似している。一一歳。この二人の子供たちだけは、子供を描く場合にはいつもそうであるように、ゴヤの愛情をうけている。

 そうして今度は左端から順に見て行くとして、影の部分に何やら胡散くさい表情をしているゴヤ自身は別として、左端がドン・カルロス・マリア・イシードロ殿下。一二歳。この子も、ここに登場している王族の全体にとって何がどうなっているのか一切理解出来なかったであろう一九世紀というものに翻弄され、一八五五年にベネチアの対岸トリエステで死ぬ運命にある。・・・。

 次が皇太子、八年後に、ほかならぬこのアランホエース離宮で父に対して謀叛を起してフェルナンド七世を名乗り、父母とゴドイともどもにナポレオンにバイヨンヌまで呼びつけられる。ここで母のマリア・ルイーサに、ナポレオンの面前で、”この私生児めが!”と呶鳴りつけられるのであるが、誰を父とする私生児なのかはわからない。一六歳。

 次、鳥のフクロウか何かのような顔だけをのぞかせているのがカルロス四世の姉、ドーニャ・マリア・ホセーファ、五六歳。・・・

 その右隣りの、完全にソッポを向いている内親王が何者であるか、何しろ顔がわからないのだから始末におえない。二説がある。

一つは、カルロス四世の長女のドーニャ・カルロ・ホアキーナであろうといわれる。彼女はポルトガルへ嫁に行き、ポルトガルとブラジルの皇太子妃という称号をもっている。背が低くておそろしいほどの醜女で、しかも馬から落ちてびっことなり、かつは気が変になり、母親のマリア・ルイーサの上を行く大乱行をやらかしていたということである。色狂い、と言わざるをえない。彼女が定った恋人をもたなかったのは、母がゴドイにいじめられるのを身にこたえて知っていたからだという説もある。・・・

 第二説は、やがて、二年後に皇太子の嫁に来る筈のナポリ女王の娘マリア・アントニアであろうと言う。・・・。
・・・この未来の嫁御もおそろしい女であったようである。二年後に彼女がマドリードへ来てナポリの母親にあてて書く手紙が物凄い。
「馬車から下りて殿下の顔を見て、私は気絶するかと思いました。私の肩までしかない、まるで玉ころがしのポールですよ。・・・」そして数カ月後、「夫は鈍感で、何もせず、嘘つきで、卑しくて、腹黒く、肉体的にも男じゃありません。一八歳にもなって・・・。この皇太子は何もしません。読まず、書かず、考えず、要するに無です。しかしこれは意識的なものなんです。人々は彼を生えて来た植物の芽のように扱っています。王妃が専断的に支配して行くために、誰かが皇太子を政治のなかに捲き込みはしないかと、王妃の方が怖れていることの結果なんです」と報告している。
この、・・・皇太子妃の観察は鋭かった。それ自体で将来この皇太子が何をやらかすかについての、ほとんど完壁な予言、予見であった。
 しかし皇太子の方も実はたまったものではなかったことも事実である。平和大公ゴドイがチンチョン伯爵夫人と結婚をすることによって、ブルボン家の一員(!)ということになり、この夫婦に子供が生れると、王と王妃は何百年かの慣例を破って突如としてエル・エスコリアールの離宮からマドリードに戻り、鉞(まさかり)付きの槍をもった近衛騎兵隊を引きつれてゴドイ宅へ祝賀兼見舞いに行く。おまけに王と王妃が名付け親になる。
 こういうことをされた日には、いったいどっちが皇太子なのかわからず、疑心暗鬼な腹黒さを、また面従腹背の性格をつくり出して行くのも当り前である。
 そして、そう言われてみれば、というふうでもう一度見直すと、この皇太子は集団のなかで一人孤立しているかに見えて来る。

 次、ドーニャ・マリア・イサベル内親王、一一歳。この娘はやがて二つのシシリー(シチリー島とナポリ)王のところへ嫁に行く。

 次、王妃マリア・ルイーサ、四九歳。このたびは黒のカツラをかぶって矢の形のアクセサリーをつけている。

 次、ドン・フランシスコ・デ・パウラ・アントニオ、六歳。赤の幼児服が実に美しい。

 次、王カルロス四世、五二歳。

 次、ドン・アントニオ・バスクァール、四五歳。王の弟である。この弟君は、日がな一日自室にこもってトンカチを振い、細工物をして生涯を送ったと言われる。

 次、横顔だけ見えているのは、ドーニャ・カルロータ・ホアキーナ、王の長女で二五歳。ポルトガルの女王という称号をもっている。
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 次、ドン・ルイース・デ・ブルボン・二七歳。二年後にはエトルリア王ということになる。

 そうして最後がこのドン・ルイースの嫁、ドーニャ・マリア・ルイーサ・ホセーファ、一八歳。彼女が抱いているのは、当歳の嬰児ドン・カルロス・ルイースで、背骨の曲った畸形児である。
 この夫婦は何度子供を産んでも、どれもがみな畸形児であったという。
近親結婚による血の衰えがこの嬰児によって象徴されているであろう。いや、それだけではなくて、絵画史上にも無類のこの集団肖像が歴史的に象徴し示唆しているもの自体、この畸形の嬰児に集中しているかもしれない。

 身心ともに病み、慕え、退廃し、ぷよぷよの水ぶくれになり、要するに一三人すべては、すでに終った人々、生きながらにして、たとえばエル・エスコリアール離宮内の、死体の腐らせ場に立っている人々である。

 それは中世から数百年にわたって持続して来た、一時代の死である。

 一四人目の人としてのゴヤは影に沈んで、Yo lo vi 私はそれを見た、と呟いている。
一時代の死という不吉なものが、かくも絢爛豪華な意匠をまとって描かれたことは、人類がもつ長い絵画の歴史にも絶無であった。

 しかもこの大画面を、たとえばルーヴル美術館の大壁面を占領している、ゴヤの同時代人ダヴィド ー ゴヤが首席宮廷画家であれば、ダヴィドは帝国の画家 Peintre Official de l'Empire ということになる - ダヴィドの手になる『ナポレオン皇帝戴冠式図』なるものと比べるとき、ゲーテならずとも、われわれは果してどのような時代がこのあとに来るものであるかを、すでに予言されている。本質的に一八世紀の人であるゴヤは後向きに、背中の方からこの全的に新しい時代に入って行く。
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