2016年8月6日土曜日

明治38年(1905)12月16日~31日 ロシアで50日間のソヴィエト支配終る 韓国統監府及理事庁官制公布 第1次桂内閣総辞職、政友会西園寺首班指名、桂園内閣時代の開幕 満州善後協約と付属協定調印 藤村『破戒』自費出版準備 久原房之助の赤沢鉱山買収 幸徳秋水と片山潜の面会 徳富蘆花が伊香保に籠る 伊藤左千夫が山会で「野菊の墓」を朗読

根津美術館庭園 2016-08-04
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明治38年(1905)
12月16日
・第2次日韓協約、「官報」に「韓日協商条約」として公表。
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12月16日
・(露暦12月3日)50日間のソヴィエト支配終る。
ペテルブルク・ソヴィエト、軍隊に包囲される。
ソヴィエト議長代理トロツキー以下300人の執行委員、逮捕。
トロツキー、クレストゥイ監獄~ペテロパブロフスカヤ要塞~未決拘置所におかれ、裁判・判決後、中継監獄に収監。合計15ヶ月。この間、地代論・ロシア社会関係史に取り組む。ロシア社会史に関して論文「総括と展望」(1906ペテルブルクで出版)。また、パンフレット「政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏」執筆、出版。ボルシェヴィキは共感、メンシェヴィキは沈黙。
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12月17日
・東京市の陸軍大歓迎会。兵士1万5千が日比谷公園から上野公園まで行進。
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12月18日
・日本政府の中国人留学生取締強化に抗議し、留学生の陳天華が自殺。
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12月18日
・露バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、モスクワ着。
20日、ペテルブルク着。
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12月19日
・(露暦12/6)露、ペテルブルク、レーニン、クルプスカヤ、地下潜行
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12月19日
・モンテネグロのニコラ1世、憲法と普通選挙による政府を容認。第1回ツルナゴーラ(モンテネグロ)国会。
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12月19日
・アルバート・アインシュタイン、ブラウン運動についての第2論文が受理される(『物理学年報』誌)。
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12月20
・「韓国統監府及理事庁官制」公布(勅令267号)。
韓国内政全般の監督・支配のための植民地機構。
①統監は天皇直属、
②韓国外交権の行使は東京外務省、統監府の外交事務は地方事務のみ。統監に伊藤博文任命(枢密院議長は山県有朋)。
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12月20日
・満州軍総司令部を解散。連合艦隊編制を解除。
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12月20
・山口孤剣「髯女郎の生活状態」(「光」第3号)。
「内村鑑三氏亦常に人に語るらく「余は四十年間嘗て乞食に金銭を恵みたることなし」と、以て其の強慾なるを見るに足るべし」と、内村批判は人格批判に及ぶ。
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12月20日
・モスクワ・ソビエトのゼネスト、交戦の末軍隊により鎮圧
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12月21日
・第1次桂内閣総辞職。政友会西園寺首班指名(1月7日内閣成立)。「桂園内閣時代の開幕」。
前年12月から桂首相と政友会原敬とが秘密会談4回。
政友会はいかなる講和条件でも政府を支持、戦後は桂が辞職し後任に西園寺を推す密約成立。
9月2日、政友会協議員会で西園寺は講和条件は遺憾としつつも、将来の日本の発展のために政府支持を明言、党員の機先を制する。
原敬は9月4日~10月3日の殆どを古河財閥傘下鉱山視察のため離京。
帰京後は、党大会要求の地方党員をなだめつつ桂と気脈を通じ、12月の政権交代を迫る。
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12月21日
・社説「桂伯等の不徳不臣」(「東京朝日」)。
「去れ、早く去れ、一刻も早く去れ、吾人の塩は既に撒かれたり」。
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12月22日
・日清間、満州善後協約と付属協定調印。
南満州、ロシアから日本への権利譲渡承認。満州経営の第一歩。

満州に関する日清条約(東三省事宜条約)・付属協定(北京)・付属取極め。
日本のロシア利権の引き継ぎ。
盛京・吉林・黒龍江三省での開市・開港。
付属協定で日本による安東県~奉天間軍用鉄道(安奉軽便鉄道)の経営継続と改良、「南満州鉄道」の免税。
付属取極めで吉良鉄道敷設権(長春~吉林間)、奉天・新民屯間軍用鉄道の清国への売渡し、「南満州鉄道」並行線・支線建設の禁止などを定める。
即日実施。1906年1月31日公布。

安奉軽便鉄道(韓国国境~奉天):
日露開戦と同時に朝鮮半島を北進し、5月1日に鴨緑江を渡河した第1軍が、兵站輸送路確保のために建設。
臨時鉄道大隊を編成、8月10日安東(丹東)~鳳凰城建設開始、11月3日完成。翌年2月11日鳳凰城~下馬塔完成、8月10日下馬塔~奉天完成。
日本側は、講和条約で譲渡された東清鉄道南部支線同様に日本の管理の下に経営することを画策。京釜・京義鉄道で朝鮮半島を縦断、中国領内で東清鉄道他に連結させる計画。
日露戦争後の、朝鮮・中国東北部支配の確立という「戦後経営」の重要な布石。
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12月22日
・貴族院令改正公布。爵位議員、勅撰議員の定数規定。
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12月22日
・[露暦12月9日]モスクワで労働者が武装蜂起。
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12月23日
・大同倶楽部結成。
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12月23日
・島崎藤村、『破戒』自費出版の進捗。
11月27日に草稿完了。
浄書に取りかかるにあたり、藤村は、本文の組み方から、挿絵や表紙の写真製版の仕方にまで念を入れた。鏑木清方に絵を依頼し、この頃、新しい写真製版術をアメリカから輸入した田中猪太郎に相談して事を運んだ。
また本文の組と同じ字数で、原稿紙1枚がちょうど1頁になるように12行432字の原稿用紙の版木を作り、それを手刷りして、その上に浄書を行った。

この日(12月23日)、浄書は半分に近い250枚に達した。
彼は、先に蘆花が『黒潮』を自費印刷して発行した話や、田口掬汀(きくてい)が自費出版した時の様子を聞き合せた。その結果、自費で印刷製本するのはよいが、販売までを作家が行うのは、面倒も多く、その割に効果が挙らぬことを知った。
そこで、友人たちに、信用のできる親切な出版元はないか尋ね、その結果、出版屋としてばかりでなく、取り次ぎ屋としても東京堂と並ぶ大きな店である神保町の上田屋がよいということを聞いた。
上田屋に相談すると、春頃から、「読売新聞」「新小説」等に藤村の新作が報じられていたので、発売を一手に任せてくれるなら、自分の店の出版物と同様の努力をして見たい、と返事。
藤村は上田屋の店を見に行き、質素だが手固い店の様子が気に入った。
新聞広告などについても両方で相談して出すことに話がきまった。
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12月23日
・フリッチ夫人、幸徳に治者暗殺を論ず。
26日、片山潜(第2インター世界大会出席し、帰路サンフランシスコに立寄る)、幸徳秋水を訪問。29日、再び訪問、会食。
30日、帰国の片山を見送る。
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12月24日
・京浜電気鉄道、品川~神奈川間、全通。
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12月24日
・[露暦12月11日]露帝国政府、選挙手続き勅令。
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12月25日
・日比谷焼打ち事件起訴の群衆300余の予審結果。
免訴182、有罪102(うち重罪18)。有罪は職工・職人・車夫・人夫・店員などで20代前半のもの。
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12月25日
・第22議会召集。
28日、開会。
3月27日、閉会。
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12月25日
・[露暦12月12日]ボルシェヴィキ派、タムメルフォルスで第1回全ロシア協議会開催。
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12月26日
・藤田組を退社した久原房之助、赤沢鉱山を30万円で買収
(茨城県、1591年発見、日本4大銅山の一つ、鉱毒問題や幕末維新期の混乱により開発が進まず休眠状態)、日立鉱山と改称。1912年久原鉱業所設立(1928年12月29日、日本産業に改称)。日本鉱業(株)の前身。

久原房之助:
明治2年萩生まれ。生家は網元・回船問屋・醤油醸造業の旧家。父庄三郎の4男だが、兄達が他家に養子にでたため家督を継ぐ。
藤田伝三郎は父の弟(父庄三郎は藤田家から久原家に婿入り)。藤田伝三郎は明治2年大阪で軍靴を製造し、明治政府の御用商人となり、後、軍用品全般に手を広げる。更に、藤田組を設立し土建業・鉱山経営を始める。房之助の父庄三郎は藤田組重役。
1884年秋田県小坂銅山が久原庄三郎に払下げ。20万円・25年賦。
房之助(22)は慶應卒業後、森村組ニューヨーク支店に赴任直前、井上馨の命令で藤田組に入社、小坂鉱山赴任となる。13年間勤務。久原房之助所長のもとで、小坂鉱山は海外先進技術を取入れ、新技術「自熔精錬法」を開発(鉱石自体のもつ鉄と硫黄の酸化熱を利用する銅の精錬法)、別子・足尾に並ぶ銅山に育て上げる。
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12月27日
・文部省、地方長官に青年団設置奨励・育成に関して通牒。
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12月27日
・(露暦12/14)露、モスクワ・ソヴィエトの武装反乱。セミョーノフスキー連隊により鎮圧。死者千。
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12月28日
・第22議会開院式。桂首相、休会宣言。
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12月28日
・岡山県に住む藤原秀次郎(43、小学校教員、役場吏員)、重罪公判に付される河野広中らの免訴を、開院式に向う天皇に直訴。「狂者」として無罪放免。
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12月28日
・元駐ロシア武官明石元二郎、帰国。
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12月28日
・この日付、幸徳秋水の『光』(西川光二郎編輯)への通信文

「故国に在る同志諸君よ、予が此手紙を認めるのは、明治三十八年の大晦日の四日前、風寒き夜の十一時過ぎ、ストーブの炭火半は灰となった傍で、鉄筆を走らせて居るのです。されど此手紙が諸君の手に入る頃は、日本の朝野は、戦勝後の新年を祝する国旗の勇ましく、太平の春に酔ふて居ることでしやう。

先づ報すべきは去十六日の演説会です。場所はサター街金門会館(ゴールデンゲートホール)といふ広い会堂で、聴衆は四百名ばかり、中には桑港社会党幹事ジョージ・ウィリアムス君を始め十数名の白人も来会しました。そして入口では社会主義の檄と社会主義の歌の印刷物を一々配布し、中では平民文庫其他の出版物の店を出して中々の景気でした。

(略)予の演説了ると、数十名の同志は起ちて一斉に社会主義の歌を高唱しました。曾て東京の平民社の楼上や青年会館の会場で耳慣れた『富の鎖を解きすてゝ、自由の国に入るはいま』の句を此夜此地で聞いた時、予は万感胸に迫るを禁じ得ませんでした。唱歌に次で社会党万歳を歓呼し、岩作君が閉会を報ずると同時に、来合せた白人社会党員は代る代る来つて予と握手し、此の会の成功を祝して、争ふて平民文庫や絵葉書を買つてくれました。(略)

一昨二十六日、テキサスに居ると思った同志片山潜君が、突如として予の室に這入つて来られた時の驚きと歓びとは言語に尽せませんでした。併し三日の後には直に分れねばなりません。予来り君帰る、集散離合の定めなさよ。(略)」

片山潜はこのとき数え年47歳、幸徳秋水は数え年35歳。
片山潜が秋水らの社会主義者たちと立場を異にして、アムステルダムの万国社会主義者大会出席のためアメリカへ発ったのは、明治36年(1903)12月29日。
サンフランシスコ到着後は、体面を構わず種々の労働をした。前の在米時代に苦学生としてコックをした経験があり、主にレストランの給仕として働いた。
翌明治37年8月、ヨーロッパに渡り、14日から9月2日までアムステルダムのその大会に出席。
その後、9月11日にセントルイス市に戻る。当時、セントルイス市では万国博覧会が催されていたので、彼はそこに立ち寄った。1ヶ月後、南部のテキサス州ヒューストンに向い、そこに1年2ヶ月ほど滞在した。

このとき片山は、ヒューストン近郊に数百エーカーの米作用農地を買い、農業経営を始めた。
明治34年に片山が中心となって日本で「社会党」を結成したときの同志の一人、河上清が、その後渡米し、大学を卒業し、アメリカでジャーナリストになっていた。河上は明治38年秋、ヒューストンに片山を訪ねた。そのとき片山は、自分がアメリカへ来たのは初めから農場を開く計画であった、と河上に語った。万国社会主義者大会に出ることも目的の一つではあったが、このテキサスの農場計画は初めから彼の心にあったことであった。
農場を経営する気特になった理由を河上清に尋ねられ、片山は言った。
「私は七年間も休まず働いたので疲れはてている。ゆっくり休む必要がある。その上、戦争に勝ったぬか喜びで国民がみないい気になっている時、社会主義の説教をしてみたところで無駄なことではないか。この気違いじみた興奮が静まり、私の元気も回復したら、日本に帰って、社会主義の旗をかかげて同志と共に働くつもりだ。」

片山は、その農場経営のために1万エーカーの土地を買い、30戸の日本移民を招致する計画を立てた。そのため彼は、日本に帰る途中、サンフランシスコに出て秋水と面会した。
片山と秋水はレストランで食事をした。しかし、社会主義のために働くことを中止して、農場経営に心を砕いている片山と、自己の思想のために更に前進しようとしている秋水とは話が合わなかった。社会主義についても、当時の片山は、労働運動は労働者の生活改善を直接目的とすべきであり、革命は必ずしも暴力を伴わずとも達成し得るものである、という漸進的な穏和な考えを抱いていた。秋水と片山は気まずい思いをして別れた。
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12月30日
・稲垣浩、誕生。映画監督。
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12月30日
・徳富蘆花(38)、これまでの生活を根本から改めるため、千駄ヶ谷の借家を引き払い伊香保温泉へ移り住むことを決意。
この日、「山へ転居」と書いた紙を門に貼り付け、差しあたり正月を逗子の父母のもとで過すために、新橋駅から汽車に乗った。

■蘆花と前田河広一郎
新橋駅には前田河広一郎(18)が見送りに来ていた。
前田河は、仙台の生れで父は大工。宮城県立第一中学校を中途退学して上京、苦学生の友人の神田の下宿に1ヶ月以上も滞在していた。蘆花の愛読者だった彼は、この年の秋、「思出の記」の巻末に書かれていた蘆花の原宿の家まで神田から歩いて行った。
蘆花邸では応接室に通され蘆花と面会することができた。
前田河広一郎は、自分は前から先生を尊敬し、先生の作品を読んで来たものであるが、先生の所で書生として使って頂きたい、と言った。2年前の明治36年、同じ仙台出身で、第二高等学校医学部を中途退学したという真山彬という文学青年が訪ねてきたときは、蘆花は、自分には人の師になる資格はないと断った。
しかし、今回はこの青年の律儀そうなところが蘆花の気に入った。彼は前田河に言った。
「私の宅で麦めしを食べて下さるということは、主義でないから出来ない相談です。けれども何か書いたものがあるなら見せて下さい。じゃ、こうしましょう。一つ抒情文のようなものと、叙事文のようなものと、その作文の課題のような二つを持って来て拝見させて下さい」
2週間待って下さい、と言って前田河は神田の友人の下宿へ帰った。友人もその話を聞いて喜んだ。しかし2週間が過ぎ、3週間目になっても前田河は文章を書くことができなかった。参考書がなかったので、彼は神田の本屋を一軒一軒立読みして歩き、駿河台の坂を下りたつき当りにある洋書輸入商の中西屋でべインの英文の「ロシア文学史」を拾い読みしたり、民友社から出ている「マキシム・ゴルキー」を読んだりした結果、毛筆で半紙五十枚ほどに「マキシム・ゴルキーを論ず」という文学論めいたものを書き、1ヶ月目に蘆花のところへ持って行った。"

蘆花はその間、民友社へ出かけて校正かなにかの仕事がないかとたずねたが、今のところ空きはないとのことであった。前田河が原稿を持って来た日、彼はそれをすぐ半分ほど読んで「ふむ、面白い」と言った。ちょうど、「新紀元」を出したばかりの石川三四郎のところへ行く用があったので、蘆花は前田河を連れて渋谷から院線電車に乗った。前田河は、電車の中の大学生たちを見て内心得意になって考えた。「見ろ、おれはいま、天下の徳富蘆花と一緒に乗ってるんだぞ。」結局前田河は石川三四郎の「新紀元」の校正を手伝うことになった。

そのあとも時々前田河は原宿の徳富家へやって来た。蘆花は彼の身なりのみすぼらしいのを見て、古くなった鳥打帽や二重廻しをくれてやった。また小遣銭をやった。前田河は烏打帽はかぶったが、紳士然とした二重廻しは着たこともないものだったので、すぐ売りとばして、大好物の菓子を買って食べた。

この12月30日、新橋駅へ見送りに来た前田河は、その二重廻しを着ていなかった。寒そうにしている前田河を見て、蘆花は、あの二重廻しは牛鍋に化けたんだな、と思って黙っていた。"
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年末
・伊藤左千夫が小説「野菊の墓」を書いて、「ホトトギス」の文章朗読会、山会に持参し朗読。
この年、山会は、しばしば夏目家で開かれていたが、妻鏡子の出産が近づいたので、年末頃は高浜家で開かれた。夏日は原稿で多忙であったので、それに出席しなかった。
文章は、口語体の中に文語体が混ったぎごちないものであったが、叙述は素朴平明で、少年と少女の素直な愛情が全体に溢れ出ていた。自分の真情を確信し、また男女の愛情を何よりも尊いと考えている伊藤左千夫は、この小説を読みながら、人前で泣き出してしまった。そしてこの作品は正月号の「ホトトギス」に載せられた。

12月29日、「ホトトギス」が夏目の家に届き、夏目はこの小説を読んで感動した。彼はすぐ伊藤左千夫へ次のような手紙を書いた。

「拝啓只今ホトゝギスを読みました。野菊の花は名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい。三六頁の
     民さんの御墓に参りに来ました
と云ふ一句は甚だ佳と存じます。只次にある「只一言である云々」の説明はない方がよいと思ひます。
小生帝文に趣味の遺伝と云ふ小説をかきました君の程自然も野趣もないが亡人の墓に白菊を手向けるといふ点に於て少々似て居りますから序によんで下さい。(略)
十二月二十九日                 金
伊藤大兄」

そして2日後の31日、夏目は森田あての手紙の中に、この作品のことを書いた。
明治39年正月早々森田は「ホトトギス」を買って来てこの作品を読み、その批評を夏目に書き送った。また伊藤左千夫は、漱石から来た手紙を読んで、有頂天になった。そして彼は更に続けて小説を書こうと考えた。

■直情径行、負けず嫌いの伊藤左千夫
この年伊藤左千夫こと伊藤幸次郎は数え年43歳。
伊藤左千夫が正岡子規を訪ねて弟子になったのは、明治33年1月。
子規の没した、その2年半あまり後の明治35年9月19日。

本所茅場で牛乳搾取業を営んでいた伊藤左千夫は、子規に従って、歌の作りかたを全く変えようとしていた明治33年に、
  牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる
という、自己の生き方を確信する気分の漲った歌を詠んだ。
以後左千夫は、同期の子規の歌の弟子長塚節、岡麓と並んで子規の指導のもとに熱心に歌作をした。

しかし子規没後は、彼等は俳句においての「ホトトギス」のような機関誌もなく、また高浜虚子のような雑誌経営に慣れた中心人物も持たなかった。子規が没した翌年の明治36年6月、左千夫等は、その根岸短歌会の機関誌として「馬酔木」を創刊した。編輯同人は、伊藤左千夫、香取秀真、岡麓、長塚節、安江秋水、森田義郎等。やがてこの雑誌経営には、左千夫と蕨真が主として当ることになり、最年長者で強い性格の人であった左千夫が、自然にこの一群の歌人たちの指導者の地位に就いた。

しかし、歌壇全体では新詩社の「明星」が、小説家・詩人などの寄稿家を包含して歌壇の中心にあり、青年たちに大きな影響力を及ぼしていた。写実を主とし、表現の抑制に努めていた根岸短歌会の作風は、社会的には全く認められていなかった。
この頃から伊藤左千夫は仏教信仰に関心を抱き、雑誌「新仏教」を刊行していた高島米峰と交際し、その雑誌に「仁徳天皇之御歌」という文章を載せた。
また彼は、佐佐木信綱の「心の花」に「神楽催馬楽管見」を書き、「万葉論」、「新古今集愚考」等の評論を「馬酔木」に載せ、歌作のほかにその歌についての意見を積極的に発表しはじめた。

翌明治37年、彼は古典研究に力を入れ、「馬酔木」に「万葉集通解」を連載しはじめた。左千夫の歌論が公けにされるとともに、その作風は子規時代のものに較ぺて、もっと積極的なものに変って行った。この頃から、左千夫の周辺に新しい弟子たちが集まった。

更に翌年の明治38年、伊藤左千夫は浄土真宗系の新仏教の指導者なる近角常観と知り合い、親鸞の思想に傾倒、「歎異抄」を愛読するようになった。

伊藤左千夫は、子親在世中は、3歳年下の子規の言を絶対のものとして尊重し、それに違わぬことを第一義とした。
そして子規没後も、歌については子規はこのように言った、散文についてはこのような意見を持っていたと、子規の思い出に忠実に生きようとした。
しかしかれ自身は、熱狂癖のある我の強い性格であったので、「馬酔木」を中心になって発行編輯するようになってから、彼の我執が表面化するようになり、あたり構もずそれを人に押しつけた。仲間はそれに対して、彼の考え方が狭いと批判した。すると左千夫は「永世的なる詩は狭くとも即ち高からむことを要す。人が予を目して狭隘なりと云う。予は寧ろ之を名誉と感ず」と反駁した。彼の作品について仲間が批判をすると、彼は「人が何程非難しても、自分に面白ければよろしい。自分に安心が出来れば構わない。これは我執でない。我執と安心とは根本が違う。我執では安心が出来るものでない」と言った。

左千夫と同時に子規に入門し、左千夫と最も親しかった長塚節は、傍観的態度でこの時の左千夫を見ていた。子規が没してから後、左千夫が急に功名心に駆られ、また子規の前では出し得なかった我執を現わすようになったのだ、と節は感じていた。
そのため左千夫は、間もなく発行名義人森田義郎と争い、
「(略)貴兄は野生を狭隘なりとし、野生は貴兄を以て雑駁なりと存じ居候」と述べた。遠慮のない性格の森田は腹を立てて発行名義人たることをやめ、この雑誌から遠ざかった。他のものたちは、左千夫の客観性の欠けた性格に当惑しなから、それを我慢していた。左千夫の強すぎる性格のため、仲間は常に不満を感じていたが、彼の自信と攻撃的性格は、外部に向けられたときには、最もその力を発揮した。
世間はまだ伊藤左千夫を一流の歌人として認めなかったが、左千夫は自分こそ大いなる先師子規を正しく継ぐものであると確信して、「明星」系の短歌の論難を続けた。彼は子規没後1年の明治36年9月に書いた。
「予は今先師の遺志を継ぎて新派討伐の進につき、一切新派の諸士に砲弾を見舞はうとするのである。予に一面の識ある諸君、今諸子の製作を論評するに至つたと云ふも、斯道研究上止むを得ないからである。私情的礼儀を欠くの一点は予め諸子の寛恕を乞うて置かねばならぬ。」
このような前置きをして、伊藤左千夫は容赦のない攻撃を他派の歌人たちに加えた。そして、彼のひるむ所ない、新派攻撃は次第にそのカを発揮し、「馬酔木」はその攻撃の故に歌壇で煩さがられ、怖れられ、またその故に注目されるようになった。
左千夫は直情径行で負け嫌いであり、競争心が強かった。
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