2018年4月1日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート11 (漱石にとっての『草枕』-1)

鎌倉 妙本寺
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漱石にとっての『草枕』
『草枕』は、明治39年8月27日発行の、『新小説』9月号に発表。
漱石が初めての小説『再説は猫である』第1回目を発表したのは前年1月。その年だけで、『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』『琴のそら音』『一夜』『薤露行』を書き、翌年のこの年には、1月『趣味の遺伝』、4月『坊ちゃん』、8月に『草枕』を発表、10月には『二百十日』、翌年1月の『野分』へと続く。その間、『猫』シリーズを書き続けていた。しかも、東大と一高の教師をしながらである。漱石の創作エネルギーは爆発している。

『草枕』は、『猫』最終回を喜き終えた10日ばかり後の7月26日に書き始め、8月9日には脱稿(8月3日から1週間で書いたという説もある)。
『猫』を終えたあとということで、作家としての自覚と決意をこの作品で表明しようとしたように思える。
「是は小生の芸術観と人生観の一部をあらわしたもの故、是非御覧被下度。来月の新小説に出で候」と、8月12日付深田康算宛の手紙に書いている。

『草枕』という小説
この頃の漱石の創造意欲は、「事実としての美」を表現する小説への強い欲望に基づいており、この小説は「美は実在する」という信念から生まれた。

人の世がほとほと住みにくいと思った画工が、俗な浮世を離れ、「非人情」の芸術世界をめざして、とある山間の温泉へ旅をする。画工は、当時の漱石と同年の30歳。魂全体で泣くひばりの声や一面の菜の花を、ただ無心で楽しむような境地を求め、その境地を絵に描きたい、詩を作りたい、そのような芸術表現をなしたいと願う。
そして那美に出会い、その光と影に触発されて絵を描こうとするが、やすやすと描くことはできない。多分に翻弄され、その過程のなかで、「非人惰」の芸術についてさまざまに考察を深める。「あの女の御陰で絵の修行が大分出来た」と思い、最後に心の中に一幅の絵が完成する。

漱石は、この作品について、「私の『草枕』は、この普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯一種の感じ - 美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない」(談話「余が『草枕』」)。
漱石は、「唯一種の感じ - 美しい感じ」を、那美という女性の美とそれをふくむ小説の美として、表現しようとした。那美は小説の美の核ではあっても、全てではない。画工は那美によって、芸術的境地に浸りつつ、芸術を完成させることができた。那美は、めざす芸術と入り込みたい芸術的境地をより合わせる素材だった。「非人情」の芸術論は、その小説の美を成立させる表現方法だ。

まず、「非人情」の芸術は能や俳句のような象徴美だとして、画工が意識的にその世界に入るように物語を始める。「しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう」(一)と。
画工は、峠の茶屋で「うわさの女性」として那美に出会う。茶屋のおばあさんと、馬を引いてきた那古井温泉の使用人である源さんとが、「本当に御気の毒な」とため息をつきあう話題の人である。そこには結婚に失敗して出戻った不幸な女ということだけでなく、それによって少し精神的におかしくなっているというニュアンスがある。彼らは、嫁入りの時の彼女の馬に乗った美しい振袖姿について語り合う。画工は、その花嫁姿の顔に、I・E・ミレーの描いたオフィーリアの顔を重ねたりする。「不幸」に縁取られた美しい女の幻が立ち上がる(二)。

遅くに那古井温泉に着いて泊まったその夜、彼は、茶屋のおばあさんが話していた伝説のヒロイン「長良の乙女」とオフィーリアが重なる夢をみて目覚め、女のかすかな歌声を聞く。そして、庭に佇む女の影を一瞬目撃するが、影はたちまち消える。再び眠りにつくと、今度は女の幻が部屋に入ってきた、と夢うつつの中で感じる。「色の白い、髪の濃い、襟足の長い女」を、「閉ずる眼(まなこ)のなかから見」た。それが現実であったことはあとで分かる。

翌朝、風呂場から出たところで、ほんの一瞬であるがいきなり本人に出会う。「お早う。昨夕(ゆうべ)はよく寝られましたか」と後ろから丹前を掛けられ、驚いて振り向き礼をいう画工に、「ほほほほ御部屋は掃除がしてあります」というや否や、「ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気(かろげ)に駆けて行った」。
画工は彼女を、「生れて三十余年の今日に至るまで未だかつて、かかる表情を見た事がない」と言う。
「軽侮の裏に、何となく人に縋(すが)りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢(いきおい)の下から温和(おとな)しい情けが吾知らず湧いて出る」。

「この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合な女に違ない」(三)。
漱石は、「不幸」という生々しい現実を背負わせながら、それを止揚した女の美しさ、「画にしたら美しかろう」という美について筆をつくす。

小説はその後、そうした彼女の姿をさまざまなバリエーションで描いていく。

「振袖」のくだり(六)。
画工は、人気のない静かな旅館の中で、春風にふかれ陶然としている。何も考えず何も見ず、「余が心はただ春と共に動いていると言いたい」境地、「非人情」そのものの境地だ。その境地を絵にしたいがその難しさを思い、音楽にするのが一番いいが、その術はないと諦め、詩を作ろうとする。「葛湯を練るとき」のように想を深めて行く中で、「青春二三月」で始まる漢詩がわき上がってくる。そんな詩境に漂う中で、ふと、襖の向こうに「奇麗な影」が通るのを見る。夕暮れの庭を挟んだ向かいの二階の縁側を、振袖姿のすらりとした女が、音もせず、歩いている。
漱石は、その美しく異様な姿に画工が心動かされたさまをつづる。
「あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べの中につつまれて、幽闃(ゆうげき)のあなた、遼遠のかしこへ一分毎に消えて去る。燦めき渡る春の昼の、暁近くに、紫深さ空の底に陥いる趣である」
「うつくしき人が、うつくしき眠りに就いて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚(うつつ)のままで、この世の呼吸(いき)を引き取る」というイメージも抱いて、この世に戻そうと声をかけようとするが、声も出ない。
まるで暗闇こそが本来の住処であるような、冥界の人かとまで画工は想像する。画工が詩的境地の中で作り上げる、夢幻の女である。

「風呂場」の場(七)。
今度は、衣装を脱ぎ捨てた裸身を語る。湯につかり、陶然として、「土左衛門は風流である」などと思い、ミレーが描いたオフィーリアを思い浮かべて、自分も土左衛門を絵に描きたいなどと思っているところに、女が入ってくる。またしても夢想の中にふわりと現れるのた。夢幻の裸体である。ひたすらこの世の者とは思われない美しさを、漱石は語る。
「やわらかな光線を一分子毎に含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾(ただよ)わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿」であり、その「真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪郭を見よ」と感嘆する。
「ふっくらと浮く二つの乳の下には・・・」と具体的な描写をし、「世の中にこれ程錯雑した配合はない、これ程統一のある配合もない。これ程自然で、これ程柔らかで、これ程抵抗の少い、これ程苦にならぬ輪郭は決して見出せぬ」と、漱石は画工の目を持って、その美を語る。

小説の始まりからずっと、「振袖」の場面でも「風呂場」の場面でも、漱石は那美という名前を出していない。「女」である。「御那美さん」という名前が初めて出てくるのは、その後、画工が観海寺の和尚とともに、那美の父親である「隠居」にお茶をごちそうになったときだ(八)。その会話の中で娘の話題になり、和尚が「御那美さん」と口にする。
そしてそのあとも、画工の語りはほとんど「女」として続いていく。
画工が、「御那美さん」あるいは「那美さん」という名前を思い浮かべるのは、鏡が池に行き、そこに浮かぶ女性の絵を描くなら「やはり御那美さんの顔が一番似合う様だ。然し何だか物足らない」と思案するところ(十)と、那美が「野武士」のような男と出会うところ(十二)、そして最後に、その男と汽車で別れる瞬間の彼女の顔に「憐れ」が浮かぶのを見て、画工の胸中に絵が完成するところ(十三)だけ。日常を生きる姿の描写はほとんど「女」でとおし、絵のモデルとして意識されたときにだけ名前を使っている。
この無名性の強調こそ、ここで出会う人と出来事を能として見る、と冒頭で宣言したことの実践だろう。那美は現実的に画工と関わり合う人ではあっても、あくまでも画工が「超然と遠き上から見物する気で」(一)見つめる対象である。「振袖」のシーンにしろ「湯殿」のシーンにしろ、それぞれのシーンでの画工は、すでに陶然とした「非人情」の境地におり、「女」の姿はその中で見た幻かもしれないと思わせる。「女」で通した無名性はその距離と画工の境地を示す効果を上げている。

画工は、この女の美しさの基本を彼女が持つ「自然」の姿だと見て、彼女に「自然」があるからこそ、「超自然」が導かれてくる。振袖を着て歩く姿は「超自然の情景」であり、幻影を見ているような境地に誘い込まれが、心奪われるのは、その姿の中にある無邪気さ、無頓着さゆえである。「逝く春の恨(うらみ)を訴うる所作ならば何が故にかくは無頓着なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅を飾れる」といい、また、夕闇がその姿を消そうとしていることにも気づかないさまを、「身に落ちかかる災を知らぬとすれば無邪気の極である。知って、災と思わぬならば物凄い」(六)。暮れゆく夕闇の中で、無邪気に無頓着に逍遥していると感じるからこその美ということだろう。
湯殿の姿もまた、「始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代の姿を雲のなかに呼び起したるが如く自然である」といい、この場合の美しさもまた、周囲の目など無いかのような「放心と無邪気」の振る舞いである。
その自然は、那美に備わった本性だろう。

漱石は、那美の無邪気で奔放な自然の姿をさまざまに描く。真夜中に庭に出て歌を歌い、画工がつくったいくつかの俳句に勝手に手を加えたりもする。出会ったばかりの客に「ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」と言い放ち、鏡が池の話題になると「私は近々投げるかも知れません」などともいう。画工との会話はいきいきとして、物怖じすることを知らない奔放な気性にあふれている。
画工はそのつど驚かされる。「花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女」(十)である。
画工は、那美の自然にふれて幻想美を見出し、「非人情」の境地に深く入り込むが、その自然はまたその境地に止まろうとする画工を揺さぶり、生身の男としての画工の心は騒ぐ。『草枕』の面白さの一つは、そのせめぎ合いにある。

(つづく)


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