2023年11月4日土曜日

〈100年前の世界114〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(6) 『9月、東京の路上で』 『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』より 

 

亀戸事件犠牲者之碑 浄心寺 江東区

〈100年前の世界113〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(5) 『亀戸労働者殺害事件調書』より八島京一・正岡高一と全虎岩(立花春吉)の聴取書 「平沢の靴」 より続く

大正12(1923)年

9月4日 亀戸事件(6)

『9月、東京の路上で』より

1923年 9月4日 火曜日 朝

亀戸署[東京都江東区]

警察署の中で

朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。

朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見ては居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。

虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)

亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。

                           全虎巌

(「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」)より


亀戸署は管内に工場が密集し、労働運動が盛んで、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署。当時の署長古森繁高も、もとは警視庁特高課労働係長。

また震災直後、亀戸署管内は混乱が激しかった。

警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは朝鮮人保護のためではなく、「不遅鮮人」検束への積極性の結果である。

亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったとして逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続けたという彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させた。そこから、活動家や朝鮮人の虐殺が始まる。

全虎巌は、共産主義者の川合義虎などが指導する南葛労働組合メンバー。学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。

2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にして、全は身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かった。道すがら、竹ヤりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。

亀戸署に収容されていた朝鮮人には、自警団の襲撃を逃げのびて自らやって来た人も多かったと、全は証言している。だが、亀戸署内は外よりも危険な場所であった

全は7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の旧捕虜収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の収容所などに保護収容するとの命令を出した。収容は10月未まで続いた。解放後、全はいったんは帰国を考えるが、やはり亀戸に戻ることにする。組合の仲間たちの安否を確からたかったのだ。


『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』より

〈1100の証言;江東区〉

八島京一 

4日の朝3、4人の巡査が荷車に石油と薪を積み引き行くに逢い、その中の一人の顔馴染の某清一という巡査にその薪及石油は何にするかとききたる所、外国人が亀戸管内に視察に来るので、その死骸320人を焼くので昨夜は徹夜した、鮮人ばかりでなく主義者も8人殺されたといっておりました。 

〔略〕自分が4日に清一巡査に会った時は巡査3、4人の外、人夫が2人ばかりおったように記憶します。清一巡査はその時「巡査は実に厭になった」などの話もし、又死骸は何処で焼いたかと聞いたら、小松川へ行く方だと指しながら話しましたから、その方面へ行きました。
すると大島町8丁目の大島鋳物工場の横で蓮田を埋立てた地所に200~300人位の死骸がありました。中には白かすりを着た誰れが見ても日本人としか思えぬものもありました。また平澤さん〔平沢計七〕の靴のあった所はそこから約50間位離れた所でありました。右200~300の死骸を4日に見たのは私一人ばかりではなく近所の者は皆見ています。

 (亀戸事件建碑記念会編『亀戸事件の記録』日本国民救援会、1972年)


〈1100の証言;江東区/亀戸警察署〉 

 全虎岩(チョンホアム) 

私は亀戸の福島ヤスリ工場に工員として働きました。そして大正11年南葛労働組合の亀戸支部が結成され、そこで活動をしました。 

〔略。2日夜〕炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことをいっていました。〔略〕夜になって朝鮮人が多数逃げていくというので、私は近くにある飯場へ行ってみました。飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が20人ばかりいました。行ってみると、黒竜会の連中が日本刀などを持って飯場を襲撃し、ハス沼の中へ逃げ込んだ人まで追いかけ、日本刀で切り殺していました。 私は恐ろしくなってすぐその場を逃れましたが虐殺は3日の明け方まで続き、そのうち女性一人を含む3人はやっと逃げのび亀戸警察署に収容されました。私はあとでこの人たちにあい虐殺の実態を確かめることができました。 あちこちで朝鮮人殺しのうわさが頻繁に伝わってきました。工場の人達は私に外へ出たら危いから家の中にいるようにと言って無理に押し込み、外で見張りまでしてくれました。 

翌日(3日)の昼頃になってこのままでは危いし警察が朝鮮人を収容しはじめているからそこへ行った方が安全だと言う事をきき、工場の友人達十数人が私を取り囲み亀戸警察へ向いました。街に出てみると道路の両側には武装した自警団が立ち並び、兵隊も出動していて険悪な空気が充満していました。そして連行される同胞が道で竹槍などで突き刺され、殺された死体があちこちにありました。私も何度か襲われましたが、やっとの思いで午後3時頃亀戸署に着きました。 

〔略〕4日明け方3時頃、階下の通路で2発の銃声が聞えましたが、それが何を意味するのか判りませんでした。朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。 

〔略〕朝になって我慢できなくなり便所へ行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに30~40の死体が積んでありました。

〔略〕虐殺は4日も1日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました

〔略〕亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも50~60人に達したと思います。虐殺された総数はたいへんな数にのぼったと思われます。 

虐殺は5日の夜中になってピタリと止まりました。巡査の立話から聞いたことですが「国際赤十字」その他から調査団が来るという事が虐殺をやめた理由だったのです。 

6日の夕方から、すぐ隣の消防署の車2台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四ツ木橋のたもとに運びました。あとから南葛の遺族から聞いたことですが死体は橋のたもとに積みあげ(死体の山二つ)ガソリンで焼き払い、そのまま埋めたそうです。その後私は遺族に連れられて現場にいき、死体を埋めたあとを実際に見ました。 死体を運び去ったあと、警察の中はきれいに掃除され、死体から流れ出した血は水で洗い流し、何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは7日の午前中でした。 

 〔略〕当時、荒川の堤防工事で四ツ木橋近くには朝鮮人労働者の飯場が沢山ありました。これは私が実際にみたのでなく震災直後に、習志野からやってきた騎兵隊が、橋の下で同胞たちを機関銃で虐殺したということを実際に見た人から聞いています。その他、亀戸の南の大島付近には中小企業が沢山あって多くの朝鮮人職工が働いておりました。その人達の多くも騎兵隊や自警団によって虐殺されました。ようやく生きのびて亀戸署に逃げ込んだ人もいました。

 (朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)   


〈亀戸事件の項終り〉

つづく

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