1901(明治34)年
8月4日
幸徳秋水、訪問記「夏草(泉州紀行)」(「万朝報」4~18日、4回)。
8月5日
ロシア、中国の東三省の鉄路工業権要求。
8月6日
8月6日~7日 ロンドンの漱石
「八月六日(火)、 Dr. Craig の許に行く。 Dr. Craig から ""Life's Dialogue"" は William Blake (ウィリアム・ブレーク 1757-1827)に似ているけれども、 incoherent (矛盾したもの)だと批評される。
八月七日(水)、土井晩翠から葉書来る。 ""Cassell's Illustrated History of England"" Part 28 届く。」(荒正人、前掲書)
8月8日
権助駐韓公使、韓国の米穀輸出禁止・輸入税免除に抗議。
8月8日
曽禰荒助外相、駐英林董公使に、同盟問題はまず英国側から提議させるように訓令。
8月8日
8月8日~9日 ロンドンの漱石
「八月八日(木)、 ""Cassell's Wild Birds"" 届く。俣野義郎から年賀状届く。(なぜこんなに遅れたか分らぬ)山川信次郎からも手紙届く。
八月九日(金)、村上直次郎から葉書来る。鈴木禎次から『読売新聞』、鏡から『日本新聞』(六月末から七月九日(火)分)届く。」(荒正人、前掲書)
8月9日
米、インディアン居住区のオクラホマ、白人入植者がインディアンから土地80万ヘクタールを買収。
8月9日
コロンビア軍、ベネズエラに侵攻。
8月10日
8月10日~11日 ロンドンの漱石
「八月十日(土)、昼前頃、鏡宛に葉書で、一向書信ないと書く。桜井房記から電報(人事の件と思われるが内容不詳)、 Mr. Fardel (ファーデル)から手紙来る。 Mr. Sweet (スウィート)と Mr. Fardel に手紙を出す。
八月十一日(日)、 Mr. Fardel を訪ねる。 Battersea Park (バタシー公園)の入口で無神論者の演説を聞く。」(荒正人、前掲書)
8月11日
英国王エドワード7世、ドイツ訪問。
8月12日
8月12日~13日 ロンドンの漱石
「八月十二日(月)、土井晩翠と Mr. Sweet (スウィート)から手紙来る。夜、 Mr. Sweet から再び手紙あり、九月十三日(金)に出発したいという。
八月十三日(火)、 Dr. Craig の許に行く。半ポンド払う。井原斗南来て、夜十二時三十分頃帰る。」(荒正人、前掲書)
8月14日
朝8時、西太后ら、西安出発。
11月12日、開封着。
12月30日、正定府着。
翌1902年1月7日、宮殿着。
8月14日
8月14日~15日 ロンドンの漱石
「八月十四日(水)、大幸勇吉(予備門時代の同窓生、元第五高等学校教授、理学博士)から手紙来る。
八月十五日(木)、土井晩翠から電報来る。パリから、土井晩翠、志賀潔と共に Victoria Station (ヴィクトリア停車場)に着く。迎えに行く。土井晩翠は、中根重一・鏡・梅子(鏡の妹)からの手紙と、鏡からは冬物下着二枚とハンカチ二枚、梅子からはハンカチ二枚を預ってくる。」(荒正人、前掲書)
8月15日 漱石、土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎え、彼をグラバム・コモンの自宅に泊める。
「土井晩翠の来英
東大英文で漱石の後輩、土井晩翠が私費留学生としてパリからロンドンに着いたのは三十四年八月十五日である。彼は詩集『天地有情』で名声を得、外遊を思い立ったのである。まだツーチングの下宿にいた漱石は、サミュエル商会の田中孝太郎へ渡辺和太郎(太良)の所在を尋ねた。幸い渡辺は漫遊の旅からクラパン・コモンの下宿に帰っており、土井のために下宿を確保してくれた。漱石が先にその下宿に移ったのは、土井からも手紙が来て、かねて嘱望していた土井と同じ宿に暮らしたかったからであろう。日本の事情も聞きたかったはずである。彼はヴィクトリア駅まで土井を出迎えた。だが土井は一カ月足らずでそこを出て、各地を転々とした。漱石の日記には十月十三日にケンジントン・ミュージアムに同行したことを最後に土井の名は出てこない。ただし、渡辺春渓の回想によれば、漱石を囲んで俳句会を三回催したがその三回目(三十五年元旦)には晩翠も出席していたようだ。次に彼が漱石と会った同年九月上旬には、漱石は「猛烈の神経衰弱」に陥っていた。土井の「漱石さんのロンドンにおけるエピソード」(『中央公論』昭和三年二月)は、当時の漱石の状況を示すと同時に、『改造』(昭和三年一月)に鏡子が記した濡れ衣に正面から抗議したものであった。漱石の病状を文部省に打電したのは絶対に自分ではない、云々。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
8月15日
鳳晶子「みだれ髪」(東京新詩社)。装画藤島武二(第1線の洋画家)。「この書の体裁は悉く藤島武二の衣装に成れり表紙みだれ髪の輪郭は恋愛のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」
構成は、第1章「臙脂紫」98首、第2章「蓮の花船」76首、第3章「白百合」36首、第4章「はたち妻」87首、第5章「舞姫」22首、第6章「春思」80首の合計399首。
文壇へ衝撃与える。攻撃も。
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
「むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子」
「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」
「人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ」
8月16日
北京公使団、講和談判最終議定書清国全権に公布。
8月17日
8月17日 ロンドンの漱石
「八月十七日(土)、鏡に手紙を出す。(八月十五日(木)に土井晩翠が持参した品物と手紙への礼状である)田中孝太郎来る。共に(推定) Hyde Park (ハイド・パーク)に行く。 Speaker's Corner で、 Protestants (プロテスタント)の Catholic (カトリック)に対する demonstration を見る。四、五人の演説を聴く。」(荒正人、前掲書)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿