北の丸公園 2013-03-11 ヒマラヤヒザクラ
*寛仁3年(1019)
4月17日
・大宰府より飛駅使が京都に急報をもたらす
このところ病気がちで、先月出家入道した前太政大臣道長のために非常赦が行なわれ、更に、近頃頻発する京中各所の盗賊・放火事件についての対策を議する会議が開かれた。
しかし、4月22日には例によって賀茂祭が行なわれる予定であり、それに先立って19日には斎院選子内親王の御禊がある。
公卿たちの関心はこの祭の準備に注がれて、17日には斎院司の次官を補充するために臨時の除目(任官式)が執行された。
その式の最中、内裏の東門である建春門の左衛門陣に九州大宰府からの飛駅使(早馬)駈けつけ、急報をもたらした。
大宰府からの報告には、刀伊の国の賊船50余隻が壱岐に襲来し、守の藤原理忠(まさただ)を殺害し、島民を捕え、転じて筑前国恰土郡に来襲したとあった。
この日、大納言実資は腰痛のため引き籠り中で、参内しなかったが、夜8時頃、僧の惟円(いえん)が大宰権帥藤原隆家の書状を届けて来た。
隆家は実資と親しかったから、特に実資に宛てて手紙を書き、これを飛駅使に託した。惟円は、もと源遠理(とおまさ)といい、隆家の妻の伯父で、隆家の留守宅を世話していた。
隆家は、長男経輔(つねすけ)の元服の仕度もあって前年秋から京都に帰って来ていた妻にも手紙を書いて、同じく飛駅使に持たせていた。
実資宛の隆家の手紙にはただ一行、
「刀伊の船が対馬に来て、殺人放火した。そこで要所を警備し、兵船を発し、飛駅言上する」
とだけあった。
実資は事件の大要をこれで承知した。
翌18日早朝、
太政官から召使いが廻り、午前10時前に参内するように触れて来た。
実資は腰痛を押して参内すべき旨を答え、一方、養子の参議資平を通じて、昨日の上卿行成から大宰府の報告内容を書面で承知し、そのうえで道長のところにいってしばらく面談して、それから参内した。
ところが既に右大臣藤原公季以上の公卿が参入しており、行成に聞いてみると会議はもう終ったという。そこへ会議を主宰した公季が現われて、実資に大宰府の解文2通を渡し、彼にも対策の意見を求めた。
この時初めて実資は大宰府からの正式報告(4月7日付と8日付の2通の解文)に接した。
彼が前夜受け取った隆家の私信も7日付で、隆家が妻に宛てた手紙は8日付であったから、この時の飛駅はほぼ10日で大宰府から京都に到着したことになる。大宰府~京都間は陸路約700kmある。長徳3年(997)の飛駅は、大宰府発9月14日、京都着10月1日なので、17日もかかっている(長徳3年9月は小の月で29日まで)ので、これははなだ怠慢であるといわれた。
実資は解文を見て、公李から陣定の結果を聞き、多少の意見を述べた。
こうして決まったことは例のように、大宰府に飛駅使を発して、要所の警備、賊の追討、有功者の行賞などを命令すること、種々の祈祷をおこなうこと、山陰・山陽・南海・北陸の諸道に警固を命ずることなどであった。
このうち、北陸道警固は実資の意見であった。公季は寛平5、6年(893,894)に新羅の賊が九州を荒らしたときの処置の先例を調べたところ、実資の言葉通り北陸道にも警固の命が下されていることを確認した。
また、この時の大宰府の解文が、飛駅をもって送られて来たので、天皇に対する奏状の形式をとるべきであるのに、2通とも「奏」の字がなく、太政官への報告書の形式であるのは誤りであるということが、会議でも問題になり、大宰府に下す命令の中にこのことを書き加え、注意を喚起することも議決された。先例や形式にやかましい当時の風潮が現われている。
その後、2、3日しても大宰府からその後の模様を報じてこないので、人々はイライラし、憤慨した。
4月21日、
先日の議決に従い、伊勢大神宮以下の10社に奉幣が行なわれ、賊の退散が祈祷された。
この日は、摂政藤原頼通が賀茂祭に先立って賀茂社に参拝する予定日に当たり、官の奉幣使とかち合ってしまうので、頼通の社参は延期された。
しかし、刀伊襲来のために予定の行事が変更されたのは、殆どこの一事だけといってよく、19日の斎院御禊も22日の賀茂祭も、都では平年となんの変わりもなく見物の群を集めて行なわれた。
4月25日、
大宰府からの16日付けの後報が京都に届いた。
また惟円が持ってきた実資宛の隆家の書状も16日付で、前回の飛駅と殆ど同じ日数で届いている。使いは隼船(しゆんせん、早船)で上京して来たとのことであった。
今回の報告には各地での戦闘状況が記され、敵を撃退し、若干を捕えたことが報ぜられており、第一報以来、僅か10日未満で不安は一応去ったことが判明した。
この飛駅の報告は摂政頼通以下大臣・大納言連中の物忌が多かったために、翌26日のうちには奏上するに至らなかったらしいが、27日、実資は頼通の命を受けて公卿を召集して陣定を開き、解文の内容を検討している。
その結果、
捕虜の3人は高麗人で、刀伊に捕えられていた者というが、よく調べて賊徒が刀伊なのか高麗なのかを決定報告すべきこと、
捕獲した兵器や捕虜は、京に送る必要はないこと、
筑前の四王寺(しおうじ)で法会を行なうべきこと、
対馬守は本島に戻り、壱岐には権摂使を派遣し、兵粮と防人を配備し、警備を固めること、
などを議決した。
また、壱岐守の殺害の件については、解文に調査結果がはっきり書かれていないと指摘し問題にしている。
続いてこれに基づいて太政官符の草稿が作られ、摂政頼通はこれに農業に励むべしとの一条を加えさせて、5月4日、太政官符に印が押されて太宰府に下令された。
4月16日の大宰府解状に、勇戦した大宰府官人で少弐平朝臣致行という人物が見える(『朝野群載』巻20)。
平致頼の子の一人の致光が大宰権大監の任にあったので(『尊卑分脈』)、一族の可能性がある。
致光は若年の頃、天皇最側近の武力である滝口の武者であった。
その時分、斎王の済子と野々宮で通じたスキャンダルは世を騒がせた(『日本紀略』寛和2年6月19日条)。
さらに、致頼の別の子致経は、宇治殿藤原頼通の身辺に伺候していた。
長大な弓を愛用したので、世に「大矢ノ左衛門尉」と勇名を轟かせた名だたる兵である。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿