1901(明治34)年
7月20日(つづき)
「越したのは七月二十日であった。この家もスピンスター(糸紡ぎ女=老嬢)の典型ともいうべき姉妹が主人で、彼女らの老父にあたるのか、八十なかばの退役軍人大佐が同居していた。しかしこちらの姉妹は前の下宿の姉妹より上品で、フランス語も解した。
越した日の夜は、近くの広大なクラバム・ジャンクションを出入りする蒸気機関車の汽笛が耳についたというから、東京でいえば隅田川貨物駅近くの千住あたりの風情と思われる。下宿人中には日本人もいて、ひとりは東京美術学校教授の下村観山であった。
しかし漱石は、もはや日本人とつきあうこともなく、この引越しをきっかけにクレイグ先生宅に通うこともやめ、後世の英国人が古き良き時代として懐かしむエドワード七世の御世を、三階の自室にとじこもって読書にあけくれるのである。ベルリンから様子を見にきた芳賀矢一が、文部省に「夏目狂せり」と打電したほどの孤絶した集中ぶりは、翌年晩秋、帰国直前までの一年半近くもつづく。
そんな漱石に、もはや子規をかえりみる余裕はない。子規への通信も途絶え、したがって「倫敦消息」もそれきりになった。」(関川夏央、前掲書)
〈猛勉強する漱石〉
・初心に比べて読んだ本の少なさに愕然とする
「擅まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。」
・幼いころから親しんできた漢文でいう文学と、現在学んでいる英語でいう文学との違いに深く懊悩する。
「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。(中略)」
「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。(中略)」
「翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。」
「大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。(中略)余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。」(『文学論』)
・「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心」して膨大なノートを作る作業に没頭する
「余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。(中略)」
「余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)」
「余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。(中略)」
「留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文学論』)
7月21日
阿嘉貫主(内蒙古喇嘛教総統者)、入京。
7月21日
7月21日~22日 ロンドンの漱石
「七月二十一日(日)、暑さ甚だしい。午後、池田菊苗来る。夕食を共にし、十一時頃帰る。
七月二十二日(月)、鈴木禎次(大阪)・奥太一郎(熊本)・西田幾多郎(金沢)・蒲生栄(原紫川)(京都)・田中孝太郎から手紙来る。『時事新報』も届く。(誰から送られたか分らぬ)」(荒正人、前掲書)
「七月二十一日(日)
非常ニ暑シ。午後池田氏来ル。晩餐ヲ喫シ十一時帰ル」(漱石『日記』)
7月22日
タフ・ベイル社と鉄道従業員組合連合の訴訟問題。英上院は労働組合を法人としてその登録名で告訴することは可能と判断。よって、労働組合は法人として認可。ストライキによる損害は告訴の対象となり実質的なスト禁止。これが1つの要因となって、1906年に労働党結成。
7月23日
韓国、詔勅により米穀の輸出禁止、輸入税免除の公示。
8月8日、林権助駐韓公使抗議。
7月23日
7月23日~24日 ロンドンの漱石
「七月二十三日(火)、 Dr. Craig の許に行く。
七月二十四日(水)、""Cassell's Illustrated History of England"" Part 26 (London : Cassell & Co)と ""Cassell's Wild Birds"" Part 10 (London : Cassell & Co.)届く。」(荒正人、前掲書)
7月24日
清国、総理各国事務衙門を外務部と改称し、六部のうえに置く。
7月24日
中村草田男、誕生。
7月24日
デンマークで、初の左翼改革党内閣誕生。
7月25日
「幼稚園唱歌」発行。「鳩ぽっぽ」「お正月」など掲載。
7月25日
東京市、路上見せ物禁止。郡部では、1部を除き従前慣行の有る場所では認可。
7月25日
7月25日~26日 ロンドンの漱石
「七月二十五日(木)、大雨。雷鳴。
七月二十六日(金)、雨。午後四時(推定)、お茶の時、 Miss Leale (リール嬢)の甥の牧師夫婦来る。「郵船會杜へ聞き合ス、晩返事來ル」(「日記」)(何の聞合せか不明である)」(荒正人、前掲書)
7月26日
大杉栄(16)、遊泳演習終了。夏季休暇に入る(8月30日まで)。2年の成績は、訓育(実科)1晩、学科2晩、操行最下位。のち、新発田に帰省。この夏、佐渡を旅行する。
7月27日
幸徳秋水「社会の大罪」(「萬朝報」)。
「今の社会や、生れて悪心なく非行なく数十年間一日の如く、誠実に其の天職を尽して、以て社会の生産に寄与せる者と雖も一朝病に躍り或は老衰の境に至れば、忽ち飢餓に瀕せざる可からず、而して一方に於ては、賄賂を収めて富める者あり、賭博を為して楽しめる者有り、甚しきほ則ち詐欺盗賊を為して巧みに法律の目を潜り、栄耀栄華を尽せる者あり、財産なくして正直なる者は人の慈尊を受くるの外は、其の末路は必然の飢餓なるに反して、不正直なる者は之を成すこと巧なれば、往々幸福の生涯を送ることを得るは、走れ現在に放て争ふ可らざる事実」
7月27日
7月27日~30日 ロンドンの漱石
「七月二十七日(土)、雨。藤代禎輔(素人)・芳賀矢一(共に在ベルリン)から葉書来る。
七月二十八日(日)、 East Hill (イースト・ヒル)に行く。夜、下宿の老大佐(推定)の部屋を訪れる。日本は立派な国になること、日本の青年は礼譲あることをほめる。
七月二十九日(月)、『ホトトギス』(六月号(推定))、正岡子規編『春夏秋冬』の「春の部」(明治三十四年五月二十五日、ほととぎす発行所刊)届く。序は正岡子規が書く。山川信次郎から手紙来る。
七月三十日(火)、午後、 Dr. Craig の許に行く。帰途、池田菊苗を訪ねたが不在である。 ""Cassell's Illustrated History of England"" Part 27 (London : Cassell & Co.)届く。」(荒正人、前掲書)
7月27日 子規、秋田で医師をしている門人、石井露月の結婚・新築祝いに手紙を出す。その手紙に書き添えられた一節。
「小生一日一度位少量麻痺剤を呑む。それが唯一の楽に候」
7月29日 この日付けの漱石の日記
「ホトトギス春夏秋冬の春の部来る」
7月31日
列国連合軍、北京から撤退開始。
つづく
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