2025年1月3日金曜日

大杉栄とその時代年表(364) 1901(明治34)年9月30日~10月2日 子規に宛てて中村不折からパリ到着を知らせる葉書が届く 「浅井忠、不折、それから漱石、みな欧州へ行ってしまった。叔父加藤拓川にも政府から欧州勤務の話がきているようだ。自分だけが六尺の病床に釘付けされて日夜苦しんでいる。子規は遠い空の下にある友人たちを思って悲しんだ。」(関川夏央)

 

1901(明治34)年

9月30日

9月30日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「昨夜十二時過ようよう寝る

眠(ねむり)さむ 上野の梟鳴く どこやらの飼鶴(かいづる)鳴く 牛乳の車通る 隣の時計四時を打つ

明方僅に眠る 睡眠足らず

(略)

中田氏新聞社よりの月給(四十円)を携え来る

明治二十五年十二月入社月給十五円 二十六年一月より二十円 二十七年初め新聞『小日本』を起しこれに関することとなりこれより三十円 同年七月『小日本』廃刊『日本』の方に帰る 同様三十一年初め四十円に増す この時は物価騰貴のため社員総て増したるなり」

(「病室前の糸瓜棚 臥して見る所」の絵あり)


「余書生たりしときは大学を卒業して少くとも五十円の月給を取らんと思えり その頃は学資とりつきの月給は医学士の外は大方五十円のきまりなりき その頃の五十円といえば今日の如く物価のの高きときの五十円よりは値打ち多かりしならん  さて余が書生時代の学費はというに高等中学在学の間は常盤会の給費毎月七円をもらい大学在学の間は同給費十円をもらいたり(この頃は下宿料余円が普通なり) されど大学へ入学以後は病身なりしため故郷よりも助けてもらいし故一ヶ月十三円ないし十五円を費やしたり しかるに家族を迎えて三人にて二十円の月給をもらいしときは金のするはいうまでもなく故郷へ手紙をやりて助力を乞えば自立せよと伯父に叱られさりとて日本新聞社を去りて他の下らぬ奴にお辞誼(じぎ)して多くの金をもらわんの意は毫もなく余はあるとき雪のふる夜社よりの帰りがけお成道(なりみち)を歩きながら蝦蟇口に一銭ののこりさえなきことを思うて泣きたい事もありき 余はこの時まだ五十円の夢さめず縦(よ)し学資たらずとも五十円位は訳もなく得られるものと思えり されど新聞社にては非常に余を優遇しあるなり 余はかくて金のために一方(ひとかた)ならず頭を痛めし結果ついに書生のときに空想せし如く金は容易に得らるるものに非ず 五十円はおろか一円二円さえこれを得る事容易ならず 否一銭一厘さえおろそかに思うべきに非ず こは余のみに非ず一般の裏面に立ち入らば随分困窮に陥り居る者少からぬようなり 五十円など到底われらの職業にては取れるものならずということを了解せり 金に対する余の考えはこの頃より全く一変せり これより以前には人の金はおれの金というような財産平均主義に似た考えを持ちたり 従って金を軽蔑し居るしがこれよりは以後金に対して非常に怖ろしきような感じを起こし今まではさほどにあらざりしもこの後は一、二円の金といえども人に貸せというに躊躇するに至りたり

三十円になりてようよう一家の生計を立て得るに至れり 今は新聞社の四十円とホトトギスの十円を合せて一ヶ月五十円の収入あり 昔の妄想は意外にも事実となりて現れたり 以て満足すべきなり


10月

朝鮮、朴斉純外相来日、中立化案を打診

10月

坪内逍遙「馬骨人言」(読売新聞) 

10月

月末、南方熊楠、勝浦~那智に移る。ここで菌類・藻類の採集に明け暮れる

冬、那智・一の滝の下で小畔四郎(当時日本郵船に勤め、生涯熊楠の門弟として粘菌研究に協力)と知合う。後、小畔は、航海寄港地採取した標本を熊楠に送り、経済援助もする。また、親友上松蓊を紹介、上松も物心両面から研究支援をする。那智滞在4ヶ月、和歌山に一旦戻る。

10月

米、インディアン5部族に市民権付与。

10月

第1回国際労働組合会議開催(コペンハーゲン)。

10月

ハーグに常設仲裁裁判所設置。

10月

ベルギー議会、失業者基金設立。

10月

舞鶴鎮守府開帳。長官は海軍中将東郷平八郎。

10月1日

関西美術会、第1回展覧会を京都御苑内で開催。

10月1日

関税定率法及付属輸入税表一部改正、酒造税法中改正、酒精及酒精含有飲料税法、麦酒税法、砂糖消費税法、それぞれ施行。

10月1日

京大・三高・京都府教育委員会共催の風俗改良演説会開催。板垣退助らを招き、岡崎博覧会館で。聴衆は4千人。

10月1日

鉄幹(28)と晶子(23)、木村鷹太郎の媒酌により結婚(入籍は明治35年1月13日)。

10月1日

英、共済組合事務局会議開催。政府に国民年金導入を求める議案を、満場一致で決議。

10月1日

アフガニスタンのアミールのアブドゥル・ラフマーン、没。

3日、ハビーブッラー・カーン、即位(~1919)。

10月2

10月2日 子規に宛てて中村不折からパリ到着を知らせる葉書が届く。


「不折は六月二十九日に出発、八月十五日頃パリに到着した。ハガキは八月二十日頃に投函したのである。

トゥルディエ衝のホテルに落着いた、同宿の日本人が九人いる、部屋代五十フラン、食費百フラン、と知らせてきた。当時のレートは二フラン一円であった。不折は後便でラファエル・コランに師事したといってきたが、その束修(そくしゆう)のほかに諸雑費がかかる。現在の金員に直して月に百二十万円程度は必要で、それでも相当な倹約生活であった。パリの高い物価と弱い円のせいである。だが、官費留学ではない不折は、渡航費用も含めた全経費を画業だけで稼ぎ出していた。

(略)

子規が浅井忠に紹介されて不折と会ったのは明治二十七年三月、神田淡路町の新聞「小日本」編集部の楼上であったが、子規は当時、洋画に対して懐疑的であった。編集者としての子規がもとめていたのは、すぐれた「画工」だったからである。しかし不折が持参した見本を見て、洋画家への認識をあらためた。それから半年ほど、不折と東京市内の展覧会を見て歩いた。上野で雪舟の屏風を見たとき、素人目にはつまらぬ絵を、不折が「結構布置(けつこうぶち)」と何度もいうのに子規は驚き、かつ悟るところがあった。

不折に教えられ得られた眼力が身動きならぬ病人をどれほど慰め得たか、と子規はしみじみ回想した

中村不折は刻苦の人である。一日中飲まず食わずで勉強することさいさいで、人に仕事を頼まれればことごとく引受け、また期日を誤ることがなかったので、書肆は大いに重宝がった。そうやって貯めた金で明治三十二年には、子規庵から程遠からぬ場所に住居と画室を建てた。さらにその後二年を経ず、独力でフランス留学を果たしたのである。

・・・・・不折は背が低くて顔は鬼のようである。髯はぼうぼうだ。生来耳が悪いから声が大きい。それでいて熱血の論客で、程のよい話し方というものを知らない。子規はその面影を脳裏に浮かべつつ、意気軒昂はよいが、弱者後輩をむやみに軽蔑するな、耳が遠くて人の話を誤解しがちであると承知せよ、他者の対話にわりこむな、と不折宛の手紙に書いた。そして、西洋では広く見物し、うまいものを食べて太って帰れ、あまりあくせく勉強すると上手になりすぎるぞ、と付け加えた。

浅井忠、不折、それから漱石、みな欧州へ行ってしまった。叔父加藤拓川にも政府から欧州勤務の話がきているようだ。自分だけが六尺の病床に釘付けされて日夜苦しんでいる。子規は遠い空の下にある友人たちを思って悲しんだ。(関川夏央、前掲書)

10月2日

英海軍初の潜水艦、就役。


つづく

2025年1月2日木曜日

大杉栄とその時代年表(363) 1901(明治34)年9月25日~29日 「モウ三ケ月ノ運命ダトカ半年ハムツカシイダラウトカ言フテモラヒタイ者ヂヤ ソレガキマルト病人ハ我儘ヤ贅沢ガ言ハレテ大ニ楽ニナルデアラウト思フ」(子規『仰臥漫録』)

大杉栄とその時代年表(358) 1901(明治34)年9月21日~24日 「律は強情なり 人間に向つて冷淡なり (略) 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し 若(も)し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり (略) されど真実彼が精神的不具者であるだけ一層彼を可愛く思ふ情に堪へず (略) 病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱す家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし」(子規『仰臥漫録』) より続く

1901(明治34)年

9月25日

この日の子規『仰臥漫録』。


「高浜より小包にて曲物(まげもの)一個送り来る 小鰕(こえび)の佃煮なり 前日あみの佃煮この変になきこと虚子に話したる故なり

午後三人揃って菓子を食う」


「天津の肋骨より来たりしハガキ」

前日池内氏より贈られたるかん詰めの外皮の紙製の袋の側面」

「ひぐらしの声は疾くより聞かず つくつくばうしは此頃聞えずなりぬ 本膳の御馳走食うて見たし 夕方梟(ふくろう)御院殿の方に鳴く ガチヤガチヤ庭前にてやかましく鳴く 此虫秋の初めは上野の崖の下と思うあたりにてさわがしく鳴き其後次第次第に近より来ること毎年同じこと也」

9月25日

西アフリカのアシャンティ王国、英のゴールド・コースト植民地(現ガーナ)に併合。

9月25日

9月25日~26日 ロンドンの漱石


「九月二十五日(水)、文部省から学資来る。鏡・中根倫から手紙来る。鈴木禎次から手紙・『太陽』八月号(推定)・『読売新聞』とその娘・利喜子の写真届く。

九月二十六日(木)、鏡宛手紙に、「小供の性質は遺伝によるは勿論であるが大體六七歳迄が尤も肝要の時機だから決して瞬時も油断をしては如何ん可成スナホな正直な人間にする様に工夫なさい」と、筆の育て方に心配りをする。」(荒正人、前掲書)


9月26日 この日付けの夏目漱石の妻、鏡子宛て手紙。


「下女暇をとり嘸(さぞ)かし御多忙御気の毒に候。金が足りなくて御不自由是も御察し申す。然し因果とあきらめて辛防しなさい。人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない。」


9月26日

9月26日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「家人、屋外にあるを大声にて呼べど応へず ために癇癪起りやけ腹になりて牛乳餅菓子などを貪り腹はりて苦し 家人屋外にありて低声に話しをる其声は病牀(びやうしやう)に聞ゆるに病牀にて大声に呼ぶ其声が屋外に聞えぬ理(ことはり)なし それが聞えぬは不注意の故なりとて家人を叱る」


しかし自分が生かされているのは、この妹の世話によるものなのだ。あとで反省して「午後家庭団欒会を開く 陸家から秋の彼岸に貰ったおはぎを三人で食べた。(森まゆみ、前掲書)


9月27日

木下尚江(31)・幸徳秋水(29)ら、横浜雲井町の雲井座での普通選挙期成同盟横浜支部主催演説会に出席。

9月27日

9月27日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「「浄名院(上野の律院)に出入る人多く皆糸瓜を携えたりとの話、糸瓜は咳の薬に利くとかにてお咒(まじない)でもしてもらうならん 蓋(けだ)し八月十五日に限る也」(九月二十七日)

これは旧暦であり、浄名院は根岸から御隠殿坂を登れば近い。今も旧暦八月十五日に糸瓜供養が行われ、咳の出る人、喘息の人を集めている。言問通りが開通したのは大正になってからだから、寛永寺坂はまだないと思われる。こう見ても前年からの糸瓜へのこだわりは相当なものである。昔、体は糸瓜で洗い、湯上りに茎から採ったヘチマ水というのを体につけたのを思い出す。」(森まゆみ、前掲書)

9月28日

9月28日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「いざよいも出ず

門附(かどづけ)表を流して通る

さつま芋を焼いてもろうて食う

この夜蚊帳をつらず

   二つ三つ蚊の来る蚊帳の別かな

   蚊帳つらで画美人見ゆる夜寒かな」


9月29日

9月29日 この日付け子規『仰臥漫録』。


「コンナニ呼吸ノ苦シイノガ寒気ノタメトスレバ此冬ヲ越スコトハ甚ダ覚束ナイ ソレハ致シ方モナイコトダカラ運命ハ運命トシテ置イテ医者ガ期限ヲ明言シテクレゝバ善イ モウ三ケ月ノ運命ダトカ半年ハムツカシイダラウトカ言フテモラヒタイ者ヂヤ ソレガキマルト病人ハ我儘ヤ贅沢ガ言ハレテ大ニ楽ニナルデアラウト思フ 死ヌル迄ニモウ一度本膳デ御馳走ガ食フテ見タイナド、云フテ見夕トコロデ今デハ誰モ取リアハナイカラ困ツテシマフ」

つづく

2025年1月1日水曜日

ロシア、日韓攻撃対象リストを作成 奥尻島基地、関門トンネルなど―英紙(時事) / 英紙 “ロシア 日本と韓国の原発など攻撃対象リストを作成”(NHK) / ロシア軍が日本と戦争になった事態を想定し、防衛施設や『原子力発電所』など攻撃対象リストを作っていたことが判明…巡航ミサイルの攻撃の対象は、茨城県 東海村の原子力関連施設など…(NHKニュース)

 

大杉栄とその時代年表(362) 《子規の妹、正岡律のこと③》 『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著) 「17 雀の子忠三郎  「根岸庵律女」」よりメモ

 

劇団民藝2015年12月東京公演『根岸庵律女』


《子規の妹、正岡律のこと③》

『子規山脈 師弟交友録』(日下徳一著)

「17 雀の子忠三郎  「根岸庵律女」」より


子規の妹律が文学作品に登場するのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』と『ひとびとの跫音』であるが、どちらも脇役としてであり、ヒロインではない。後者では、子規亡きあと子規庵を守る律の姿が生き生きと描かれているが、それでも主人公は律の養子である正岡忠三郎であり、その友人ぬやま・ひろしこと西沢隆二である。

(中略)

ところが、この律をヒロインとする戯曲が現れたのである。それは小幡欣治の「根岸庵律女」で、平成十年一月号の「悲劇喜劇」(早川書房)に掲載され、六月に劇団民芸によって東京芸術劇場中ホールで上演された。・・・・・

小幡欣治は昭和三年東京生まれの劇作家で、するどい風刺と社会性をシアトリカルに描く作風で知られている。馬琴の息子の嫁のお路をヒロインにした『滝沢家の女たち』や、南方熊楠を主人公にした『熊楠の家』など、実在の人物を描いた作品でも定評のある当代一流の劇作家である。

小幡が律のことを知ったのは十六、七年前、『滝沢家の女たち』を上演した時であった。この芝居は、晩年失明状態に陥った馬琴の『南総里見八犬伝』を、読み書きも満足にできない息子の嫁のお路が代筆者となって、苦心の末に完成させるという話だが、そのお路が正岡子規の妹に似ているといわれて、律のことに関心を持つようになったという。小幡はお路と同じように、日の当たらない所にいて、大きな仕事を陰から支えた律の強さに共感を覚えて:この芝居を書いたのである。


さて、「根岸庵律女」は二幕入場の芝居で、第一幕は明治二十八年から明治三十四年までの子規庵が舞台。衣川登代(架空の人物、子規の女弟子)やドラマに色どりを添えるため律の前夫が登場する以外は、ほぼ史実通りに子規の死の前年までを描く。

律の前夫というのは、律の二度日の夫で松山中学校の地理の教師、中堀貞五郎のことである。律といえば、兄の看病のために嫁にも行かず半生を捧げたように思われがちだが、前にも述べたように律は二度結婚して、二度とも離婚している。最初の結婚は律が十六歳の時で、相手は従兄の陸軍将校であったが、性格が合わず、じき離縁された。二度目の相手が中堀で、律が二十歳の時に結婚したが、これも一年足らずで破談になった。

(略)

その律のもとへ、春休みの講習会で松山から上京した中堀が訪ねて来て、律に復縁をせまるという設定である。離婚して六年もたつのに、中堀は独身であった。中堀は子規から「律を四国へ連れて帰っておくれ」という手紙をもらって、律に会いに来たという。律はふと松山に戻って中堀と暮らせるなら幸せになれるかも知れないと思ったが、現実はそんな状況ではない。律は兄のやさしい心くばりに、ただ嬉し涙を流すばかりであった。

第二幕は、明治四十五年、雅夫(忠三郎のこと)が律の養子になって正岡家に入籍した時から、大正十年、雅夫が京大進学の希望を律に打ち明けるまでを描く。そして、幕切れで俳句をめぐって、律が突然、雅夫に養子縁組解消を申し出るという意外な展開を見せる。


ところで、律の養子となった忠三郎は、前にも述べたように八重の弟、加藤拓川の三男で、律とは従弟の間柄であった。


拓川は明治三十五年五月三日、産み月の妻ひさを日本に残して特命全権公使としてベルギーに赴任した。子規は叔父へのはなむけに


春 惜 む 宿 や 日 本 の 豆 腐 汁


という句を贈った。それから半月ほどして五月十八日に、忠三郎が生まれた。子規が没する四か月前であった。

子規は七月二十七日付でベルギー公使館の拓川のもとへ手紙を書いた。そして:これが子規が揃川に送る最後の手紙となった。子規は拓川が無事赴任地へ諾いたことを喜び、近況を報告したあとで、「副伸」として忠三郎誕生のお祝いをのべている。


令児ご出生は五月十八日なりし故誰も皆今度は五十八(いそはち)と命名スべキ由いはれ候由、されど余り太鼓持めきてをかしき故御旧名を取りて忠三郎と御名づけありし由


雀 の 子 忠 三 郎 も 二 代 哉

戯作ニ御坐候


拓川は忠三郎の兄二人にも、十月九日に生まれた長男は十九郎、六月十日生まれの次男は六十郎と名付けた。それで今度も五月十八日で五十八を名づけるかと思ったと、叔父をひやかしているわけである。

ところで拓川は号で、戸籍上は恒忠、幼名が忠三郎であった。物事に執着しない拓川は、出国前に男子が誕生したら自分の幼名をつけておけと、妻に言っておいたのかも知れない。

忠三郎の父方の祖父は松山藩の藩儒大原観山で、子規も父が早く亡くなったので観山の薫陶を受けて育った。観山の一族には英才の誉れの高い人が多く、忠三郎の父拓川も秀才であった。拓川は現在の東大法学部の前身、司法省法学校に学び、同級生に原敬、陸鵜南、福本日南などがいた。

拓川は晩婚で、駐仏公使館から本省に戻り、外務省大臣官房秘書課長を勤めていた三十九歳の時、山形県士族、樫村清徳医博の長女ひさと結婚した。ひさは十八歳年下の二十一歳であった。忠三郎には兄が二人いた。どちらも秀才で、二人とも暁星中学校から第一高等学校に進むが、不幸にも共に学業半ばで天折している。

末弟の忠三郎もよくでき、府立一中から仙台の第二高等学校に進んだ。中学生になった時から、忠三郎は根岸の子規庵で生活していたが、外交官で海外での生活の多かった実家の加藤家と正岡家では、生活の様式が違うのは無理もなかった。弘化二年生まれで八十歳近い八重と、明治三年生まれで五十歳に近い律に囲まれて、忠三郎が毎日窮屈な思いをしていたことは想像にかたくない。しかし、学校へ行くと忠三郎には立派な友人がいた。府立一中では小林秀雄と同級であり、二高では富永太郎や西沢隆二が友人であった。後に富永を通じて中原中也とも知り合い、親しくなった。

このように、文学的に才能豊かな友人に恵まれていながら、なぜ忠三郎は文学の道を選び、子規の俳句を継承しなかったのだろうか。これが「根岸庵律女」のひとつのテーマになっていて、第二幕第一場では律に次のように語らせている。ところは、養子縁組の報告に子規の墓詣りに行った大電寺の境内である。


律 そのときになったら、おばちゃんはあらためてお願いするけれど、じつはさっきお参りしたのは、これから雅夫ちゃんの伯父さんになる人で、正岡子規という偉い人なの。俳句の神様みたいな人なの。俳句って分るわね。

雅夫 柿くえば、鐘が鳴るなり法隆寺。

律 そうそう、その俳句を作った人なの。いずれ一緒に住むようになったら、雑夫ちゃんにはなんでも好きなことをやってもらおうと思っているけど……ただね、おばちゃんは一つだけお願いがあるの。それはね、なるべくなら、俳句は作らないでもらいたいなァって……そういうことなの。


小幡はこの場面を、めったに文章を書くことのなかった忠三郎が、愛媛新聞社主催の 「子規と漱石展」のパンフレットに書いた次の文章を読んで着想を得たのではないがと思う。今西久穂氏の『子規のことなど』から引用させてもらう。


私は子規といとこ関係にあり、中学一年のとき、「歌も俳句も作らない」約束で正岡家を継ぎました。私はもともと理科系の人間で、文学への興味はさして強い方ではありませんでしたが、年を追い、子規の著作にふれるにつけ、子規の偉大さと、正岡家を継いだ重みをひしひしと感じざるを得ません。特に、「歌よみに与ふる書」など評論部門に子規の才能がいかんなく発揮されており、長生きしておれば政治家を目ざしたことだろうと思います。

第二幕第四場では律が俳句がもとで、雅夫に義子縁組の解消を申し出るという衝撃的な場面を設定して、ドラマを盛り上げている。

話の筋はこうだ。第二幕第三場、大正十年夏。雅夫が律に俳句を禁じられていると聞いた登代が、子規庵にやって来て律を強くなじる。つい先ほど、碧梧桐から東北のある雑誌に載った評判の俳句が、どうやら雅夫がひそかに投稿したものだと聞かされたばかりの律は、登代の批判に思わずカッとなり、二人は激論の火花を散らす。

第四場は前場に続くその夜、久しぶりに帰宅した雅夫を前にして律は、昼間の興奮も冷めやらぬまま語り出す。

律 (雅夫に)……私は何時かこういう日がくるんじゃないかしらと思って、心のどこかで恐れていたわ。あの人にね、雅夫ちゃんは、正岡家の跡を継ぐための道具ですかって言われたの。いきなりそう言われたの。そのとき私は心底腹が立って、怒鳴り返してやったわ。でも、今になって考えてみると、私があんなに怒ったのは、一番触れて欲しくないところに、あの人が触れたからだと思ったの。自分では意識していなくても、心の底の方には、雅夫ちゃんを何時しか道具だと見ている気持が、私の中にあったんじゃないかと思っているの。跡を継いだ人間は、正岡子規だけ守ればいい、俳句なんか作ってもらっては困る。それが私の本心だったの。雅夫ちゃんがこの家へ来ても、だんだん座る場所がなくなってしまったのは、みんな私のせいよ。悪かったと思っているわ。

雅夫 ……。

律 でも、そうは思っても、今まで通してきた考えを急に改めることは出来ないの。俳句を作って下さいとはどうしても言えないの。ねえ雅夫ちゃん、勝手を言って本当に申し訳ないけれど、もし雅夫ちゃんが承知してくれるなら、私はこの際、養子縁組を白紙に戻したらとーー

八重 リーさん!

律 いいじゃない、正岡の家は絶えてしまっても!

(雅夫に)お願いしてうちに来てもらったのに、今度は元へ戻して下さいなんて…‥本当に済まないと思っているわ。でも、正岡の家を離れれば、私なんかに気兼ねすることもなくなるし、子規伯父さんを意識しないで、好きな俳句だってどんどん作れるようになるわ。大学へ行っても、自由にのびのびと暮らして行けるようになるわ。たとえ緑は切れても、気が向いたら、何時でも遊びにきてくれても結構なんだから……そしてね、学費の方は、失礼だけど、出させて頂きますから……本当に済みませんでした。(雅夫の前に手を突き、心から頭を下げる)

八重 (泣いている)

雅夫は律の申し出には答えず、向島の俳人、富田木歩の家へ行ってきた話をする。

雅夫 ……この間仙台から帰ってきたときに思いきって、向島の家まで木歩さんに会いに行きました。……足が悪いんです。両足が駄目なんです。胸も悪いんです。僕が行ったときには、木歩さんの机の上に、一番愛読しているという伯父さんの子規遺稿が置いてありました。その傍らでお母さんが針仕事をしていました。まもなく妹さんが帰ってきました。妹さんは向島の須崎という所から芸者に出ていて、木歩さんの面倒をみているんだそうです。ぼくはお三人の姿を見ているうちに、ぼくはなにも知らなかったけれど、二十数年も前に、お婆ちゃんやお義母さんが、この上根岸の家で同じような暮らし方をしていたんだろうなと思ったんです。大変だったろうなと思ったんです。お二人の御苦労が、そのときやっと分かったんです。帰りぎわに木歩さんは、境遇は子規先生と似ているけれど、句境の高さは比べようがない。一生掛っても駄目だよと笑っていました。それを聞いているうちにぼくは、俳句はやめようと思ったんです。いえ、手帳に書きとめるぐらいのことはするかも知れませんが、生半可な気特で到底専門の俳人になんかなれるものじゃない。それよりもぼくは、この家を継いで、正岡子規を守ろうと、そう思ったんです

律 (泣いている)

八重 世の中には似たようなお方がおいでるのじゃのう。お気の毒にのう。

律 雅夫ちゃん、あんた本当にいいのね。もし私に気を遣ってそんなことを言うのだったら

雅夫 気なんか遣ってないよ。もう自分で決めたんだから。

律 本当ね。

雅夫 本当ですよ!

律 有難う。……有難う。


雅夫は荷物を置いてきたので今夜は実家へ帰り、あすからは子規庵で暮らすことにする。律は久しぶりに雅夫と歩きたいといって、月の明るい道を鷺谷の駅まで送っていく。"

このようなプロットで、作者は律の子規や雅夫に対する愛を軸に話を進める。幕切れの富田木歩は実在の俳人だが、あとは創作である。雅夫に俳句を禁じたのも、雅夫を思う律の愛情からでった。雅夫がいくら精進しても、子規をしのぐほどの俳人になれる保証はない。子規の縁者としてひとときは持て離されるかも知れないが、やがて忘れ去られてゆくだろう。律はそんなことで雅夫を、ひいては子規の名を傷つけたくなかった。

虚構とはいえ、ここで初めて律がヒロインとして表舞台に押し出された。そして、子規の名を守り抜くためのみに生きた律の半生が、感動的なドラマになったのである。


おわり


謹賀新年 本年も宜しくお願い申し上げます 2025年元旦