2025年12月5日金曜日

片山財務相、800人の政治資金パーティーを開催「就任前から予定」 (朝日) / 片山さつき財務相が「大規模政治資金パーティ」を開催していた!《大臣規範に抵触か》(文春オンライン) / 内閣パーティー透明度5% 購入者公開、依然低調(共同);「パーティー券を購入した個人や企業が全く記載されていなかったのは、片山財務相や小泉防衛相、上野厚生労働相ら17人。規正法を所管する総務省の堀内副大臣も公開割合が0%だった。」     

高市早苗内閣になってから一つでもいいことあったか? → 防衛費の財源に所得増税、2027年から実施へ 政府・与党が検討(朝日); 防衛費増額のための財源として想定されている所得税の増税について、政府・与党は2027年から実施する方向で検討に入った。 / ネット大荒れ「はあ?」「子育てに罰金」「高市支持やめる!」 高校生の扶養控除縮小検討の報道に騒然「意味分からん」「ほーら増税始まった」「涙出る」「子育て支援は嘘」 公明離脱で再燃(デイリースポーツ)       

「中国人がマンション買いあさり、外国人は国民健康保険料の未納が多い」 SNSのうわさをデータで検証したら(J-CAST);「2025年1~6月に海外に住む人が購入した23区内のマンションは、去年2倍になっているが、台湾192件、中国30件、シンガポール21件、香港15件で、決して"中国人が買いあさって"いるわけではない。転売率もわずか1.3%」  「2890病院の2023年度の全未収金の約881億円のうち、外国人分は1.5%の約13億円で、98.5%は日本人の未収」 「約150の自治体を調査したところ、全加入者の4%が外国人で、支払われた医療費は総額8.9兆円のうち1240億円で1.4%だった。つまり、外国人はあまり保健医療を受診しておらず、外国人の保険料が日本人の医療費の支えになっている」  

 



 

大杉栄とその時代年表(699) 1907(明治40)年1月1日 泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載) 「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)

 

お蔦と別れた主税を見送る柏屋の芸妓たちの図

大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記) より続く

1907(明治40)年

1月

金子堅太郎・伊沢修二ら、日本・清国・韓国3国で最も使用される漢字の辞典をつくるため漢字統一会を組織。

1月

大山巌、公爵となる。

1月

「明星」1月号、「寺院特集」とする。知識人の間で宗教流行。啄木・白秋ら若い弟子の間に「寛老いたり」の印象高める。

1月

啄木(21)、「公孫樹」等(函館の同人雑誌『紅苜蓿』(苜蓿社))。

2月、詩「鹿角の國を憶ふ歌」(『紅苜蓿』)。 

1月

「演藝画報」(「演劇界」の前身)創刊。

1月

竹久夢二(23)、岸たまき(26)と結婚。明治42年5月協議離婚。明治43年1月偶然出会い再び同棲。

1月

東京で満鉄沿線守備のための独立守備隊第1大隊が編成、中国東北に出動、以後第6大隊まで6個大隊が編成され中国東北に派遣、主要付属地に配置される。

各大隊本部が置かれたのは、公主嶺、開原、奉天、連山関、大石橋、瓦房店の6ヶ所で、中隊毎に中間の停車場を中心に分散配置態勢をとる。独立守備隊は、関東都督府陸軍部に隷属し、1908年3月30日には独立守備隊司令部が公王嶺におかれ6個大隊を統括。この独立守備隊は、1919(大正8)年4月12日関東都督府陸軍部が関東軍司令部に改組されると、その隷属下に入る。

このような兵力を背景に、満鉄は各付属地経営を積極的に展開。市街地造成、衛生施設整備、小学校・実業補習学校などの増設、商務会結成など生活必要施設を整え、公費の徴収によって付属地の財政維持をはかり、地方部の管轄のもとに広範な行政権を行使。付属地は、この他に領事が裁判権を持つことにより、領事・満鉄・関東都督の「三頭体制」のもとに運営される。

1月

メキシコ、ベラクルス州オリサバのリオブランコ紡績工場、賃上げ、労働時間短縮(14時間から12時間へ)、売店廃止を要求しスト。軍の弾圧により200名以上虐殺。プエブラでも紡績工場スト続発。

1月

グスタフ・マーラー、リンツで『交響曲ニ長調』演奏

1月

米移民問題に関し日米交渉開始。

1月上旬

大杉栄(22)、エスペラント語学校の第二期を神田錦町の国民英学会で開校する。

1月1日

福田英子『世界婦人』創刊。半月刊。石川三四郎の助力。婦人問題とともに谷中村問題も取上げる。

主な執筆者:安部磯雄・石川三四郎・小野吉勝(有香)・遠藤友四郎・神川松子・堺利彦・幸徳秋水・長加部寅吉・高畠素之・深尾韶・赤羽一(巌穴)・白柳秀湖・内山愚道・大石誠之助・久津見蕨村・西川文子など。二葉亭四迷・小山内薫(1度)も。

「新紀元」に袂は分れたキリスト教社会主義者が唯物論社会主義者に再提携し、英子が内村攻撃の急先鋒の幸徳らと接近、また、英子と石川との内縁関係など、内村を刺激。

この頃、英子を巡る婦人たち:堺為子・幸徳千代子・菅野須賀子・菅谷いわ子・西川文子・熊谷千代三夫人・上司小剣夫人・竹内余所次郎夫人ら。

1月1日

(漱石)

「一月一日(火)、元日。野間真綱・野村伝四・高浜虚子・寺田寅彦に手紙を出し、三日(木)夕刻に夕食を食べに来るように伝ぇる。当日の料理は松根東洋城である。『ホノホ』(『中学雑誌』改題)第三巻第一号一月一日発行に、「夏目漱石氏の書斎」(口絵)・松原生「夏目漱石氏の書斎』掲載される。『読売新聞』の「社告」に、特別寄書家として迎えることを発表するo(四回め)同時に「作物の批評」掲載される。

一月三日(木)、木曜会。松根東洋城来て、馳走する。門下生多く集り、夕食共にする。高浜虚子、旅行中で来ない。(推定)「午前は夏目さんの野分を見る、野分は二つの見方を一時にするを要す、部分々々の論旨大に味深かく此の議論が集まって又一つの小諸とも議論ともなって居るのだ。」(「志賀直哉日記」)」(荒正人、前掲書)


1月1日

漱石作品集『鶉籠』(坊っちゃん・草枕・二百十日を収録)〔春陽堂刊。菊判。橋口五葉装幀。「序」2ページ、502ページ、90銭。実際に発売されたのは前年十12月末〕(初版1千部1割5分、500部毎に印税率は高くなり、2割5分で据え置きである。)

1月1日

『ホトトギス』第10巻第4号

漱石『野分』 、鈴木三重吉『山彦』 掲載

1月1日

漱石「作物の批評」〔『読売新聞』〕、「滑稽文學(談話筆記)」〔『滑稽文学』1巻1号〕、「将来の文章(談話筆記)」〔『学生タイムス』第2巻第1号(新年附録)〕

1月1日

啄木長女京子の出生をこの日をもって届出

1月1日

泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載)

泉鏡花「婦系図」(青空文庫)

「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)


しかし、翌1908年(明治41年)には、伊井蓉峰、喜多村緑郎による舞台化初演以来、新派の代表作のひとつになり、更に映画化は10作以上されている。


〈経緯〉

「やまと新聞」は三面記事に主力を注いだ通俗新聞で、明治34年頃、福地桜痴の下で永井荷風が記者をしていたときは一時「日出国(やまと)新聞」と題号を変えたことがあったが、また「やまと」に戻った。社主は松下軍治。

鏡花にとっては、伊藤すゞとの結婚を紅葉にはゞまれたことが、青春期の最も大きなショックであった。紅葉在世中の明治32年に、そのモチーフを「湯島詣」に一部分生かして書いたが、それは彼の意を満たすものでなかった。紅葉の亡くなった今、後はそれを十分に書き込もうという考えを持っていた。貧しい書生を救ってくれた師匠は、そのまま厳しい態度で弟子に臨み、弟子が芸者と結婚するのをさまたげる、というのがその主な筋であった。だが、その弟子が師に対しては弱いが、社会悪に対しては伝法に強く出るという鏡花好みの特色を出すきっかけが見つからなかった。

「やまと新聞」に小説を書く話を持って来たのはドイツ文学者の登張竹風であった。竹風登張信一郎は鏡花が逗子へ越した少し後の、明治39年10月、筆禍事件のために、東京高等師範学校教授という地位を失った。彼は早くからのニーチェの研究家で、明治34年頃、高山樗牛がニーチェ主義を文壇に持ち出したときも登張の研究が道案内をしたようなものであった。そして坪内逍遥が教育者の立場から樗牛のニーチェズムを、馬骨人なる筆名で攻撃したとき、側面から樗牛を援助して逍遥を反撃し、「馬骨人言を難ず」「馬骨人言先生に答ふ」を書いたのは竹風であった。竹風は酒を愛する文人気質の男で、樗牛、嘲風(ちょうふう)、桂月等の仲間のうちでは、早くから洒脱なジャーナリストとして世に立った桂月に近い人物であった。竹風のニーチェ研究は、樗牛が日蓮主義に転じて死んでから後も続けられた。彼がニーチェの思想を忠実に説くほど、その論旨は日本の教育の総本山のような東京高等師範学校の教授としては、似つかおしくないものになった。その上竹風は泉鏡花、後藤宙外とも親しかったので、時々小説を蕾いて発表した。そういう著述活動が重なった結果、この年8月に書いた筆舌録などが当局者の忌むところとなり、彼は東京高等師範学校校長の嘉納治五郎に呼ばれて免職を言い渡されたのである。彼がこの学校から得ていた俸給は文部省直轄学校令の4等7号俸で、年千円であった。

登張竺郎はこのとき数え年34歳で、泉鏡花と同年であった。彼の生れたのは広島県能美島で、ここで山田十竹という漢学の師につき、竹風という号をもらった。登張は広島中学から山口高等中学校を経て、明治30年東大の独文科を卒業し、また母校の教授として山口へ戻った。この学校に二年間在任したあと、明治32年に彼は東京高等師範学校教授に転じ、このとき免職になるまで7年間その任にあった。

登張竹風が筆禍事件で高等師範を遂たれたという噂は、忽ち文壇と学界に行きわたった。友人の大町桂月は、すぐ登張に手紙を書いて、自分はいま毎月「太陽」と「中学世界」に時文評論を書いているが、そのうちどちらでも君の気に入る方を譲るから知らせてほしいと言ってやり、感激家の登張をいたく感動させた。登張はそれを受けなかったが、緬それまで住んでいた小石川白山御殿町110番地の家を引きはらって、郊外の大森の入新井村に移った。年の暮れがせまるに従って、どうして暮らそうかと思っていたとき、援助の手が、「やまと新聞」から来た。「やまと新聞」は社長が松下軍治であったが、主筆の笹川潔は、臨風笹川種邸の弟であった。笹川臨風は東大で登張と同級であった。その縁で登張竹風は「やまと新聞」に入り、文芸批評を担当する外に、その新聞にドイツ文の時評を書いていたクンシェという外人の仕事をも助けることとなった。

「やまと新聞」は花柳界や劇壇の消息などを売りものにしていたので、新年からそれにふさおしいような連載小説を載せたい意向があった。主筆の笹川潔から、誰がいいかという相談を受けたとき、竹風は即座に泉鏡花の名を挙げた。笹川の考も同じであった。彼の兄臨風はこのとき宇都宮中学校の校長をしていたが、大学にいた当時から鏡花とは特に親しく、鏡花は臨風と出歩くときは、自分の好きな「東海道中膝栗毛」に模して臨風を弥次さんと呼び、自分を喜多さんと呼ばせるほどであった。

それは明治39年12月のことで、竹風はその25日、逗子の鏡花の家を訪ねた。連載小説執筆の件を持ち出すと、鏡花は当惑の色を浮かべて、「元旦からの掲載となると、あと一週間もない。それではちょっと難かしい。何か面白い種はないか」と言った。竹風が咄嗟に思いついたのは、彼の親友岩政憲三と少年掏摸の話であった。

岩政塞二は山口県柳井の出で、山口孤島中学校では竹風と同級であった。大学では竹風は文科へ、岩政は政治科へ入ったが、三年間同じ寄宿舎で生活した。竹風とは水魚の交わりと言われた。岩政は卒業後に大蔵省へ入ったが、豊かな性格の人間で、将来を嘱望されていた。酒が好きで、部下を連れて飲んで歩くことが多かっだ。明治38年春のある日、竹風が午後四時頃に高等師範学校から帰宅すると、台北税関長をしていた岩政が大蔵省の後輩を三人連れて来ていた。いつも彼がやって来るときと同様、主人が留守でも岩政は竹風の細君に酒を出させて賑やかに飲んでいた。ただいつもと違うことは、その末席に12,3歳の少年が傭向きがちに坐って、その前にも膳が据えられてあることであった。

その少年のことを竹風がたずねると、岩政は「あれは掏摸だ」と言った。彼の説明を聞くと、前夜彼は部下を連れて吉原へ行った。朝になって酔ざましに浅草に出て釣堀で鯉を釣っていると、その少年掏摸が彼のポケットを狙った。岩政は、少年の手を掴んでおきながら、ちょうどかかった鯉を釣り上げ、そこから白山御殿町の竹風の家まで連れて来た。そのまま帰してやるのも不憫だったので、竹風夫人にたのんで、飯を食べさせてやったのだった。"

やがて岩政は懐から十円札を一枚取り出してその少年に与え、「これはお使い賃だ。商売もおれに捕まるような不手際では駄目だ。もっと上手にやれよ」と笑って言いながら少年を帰してやった。

その話を登張竹風がすると、鏡花はしばらく冥想にふけっていたが、やがて膝を打って、「面白い、やっつけましょう」と言った。そして鏡花は、もう四五日しか余裕のない元旦から「やまと新聞」に載せる小説の執筆に取りかかった。


つづく


2025年12月4日木曜日

鎌倉紅葉散歩 建長寺・半僧坊 長寿寺 浄智寺(総門) 円覚寺(惣門) まだ充分に見頃だが、ピークは少し越えている感じ 2028-12-04

 12月4日(水)はれ

今日は、北鎌倉の建長寺・半僧坊と長寿寺の観に行った。

途中、円覚寺惣門周辺と浄智寺総門まえは、拝観素通りで紅葉ぶりを鑑賞してきた。

総じて、まだ充分に見頃ではあっても、ピークを少しすぎている感じだった。

個人的な例年のレパートリーからゆくと、鎌倉の紅葉、残すは瑞泉寺、獅子舞、妙本寺くらいかな。

▼建長寺・半僧坊











▼長寿寺





▼浄智寺総門まえ

▼円覚寺惣門周辺

今日で三回目。さすがに、葉のボリュームが少なくなってきている。



もう世の中に「戦艦」というものは存在していないんですよ → 高市首相「戦艦」言及、間違い否定 政府答弁書(時事) / 「軍艦と言うつもりで戦艦と言ってしまいました、すみません」と非を認めて謝れば済む話なのに、絶対非を認めず謝らない高市首相。失敗と判明しても非を認めない者に国の舵取りを任せるリスク。先の戦争時と同じ流れです。(山崎雅弘)



 

「政治とカネ」問題が解決しない理由はコレ → 高市早苗総理に3000万円の巨額献金!「謎の宗教法人」が所有する奈良の神社に行ったらスゴかった!(週刊現代);「奈良県内で観光業や不動産業を手がけるノブレスグループの川井徳子代表(67歳)である。代表を務める宗教法人「神奈我良」(かむながら)から高市氏が代表を務める政党支部に3000万円もの巨額献金をしていたのだ。」 / 高市早苗総理に合計4000万円を寄附!オラクル創業者に日本庭園を売却した「敏腕女性経営者」の正体(週刊現代) / 高市氏、宣伝費に8000万円超 24年総裁選 水面下で巨費投じる 政治(毎日);「2024年の自民党総裁選を巡り、決選投票で敗れた高市早苗首相の政治団体が、宣伝のために8000万円超を支出していたことが、政治資金収支報告書から判明した。3位だった小泉進次郎防衛相側も、PR会社に約2000万円を支出するなどしており、多額の費用を投じた宣伝合戦が水面下で繰り広げられていた実態が浮かび上がる。」 / 高市首相と小泉防衛相が代表の政党支部 上限超える寄付受ける(NHK) / 高市首相に個人献金7000万円 前年比55%増、総裁選が影響か(毎日)      




 




 

大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)  

 

石川啄木

大杉栄とその時代年表(697) 1906(明治39)年12月16日~26日 第23議会招集 原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題) 衆議院では24票差で通過 貴族院では委員会で9対4で勝利、本会議で108対149で否決 原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める より続く

1906(明治39)年

12月27日 

(漱石)

「十二月二十七日(木)、本郷区西片町十番地ろノ七号(現・文京区西片一丁目十二、十三番)に転居する。家賃二十七円。(まもなく三十円)松根東洋城・寺田寅彦・小宮豊隆・中川芳太郎・鈴木三重吉・野間真綱・野村伝四・野上豊一郎・皆川正禧ら手伝う。(森田草平は来たかどうか分らぬ)菅虎雄は馬力の世話をする。夕食後、鈴木三重吉と小宮豊隆は、箱火鉢を囲んで心中がしたいとかしたくないとか、夜遅くまで話す。小宮豊隆は、この日以来、鈴木三重吉に兄事する。

十二月二十八日(金)、午前、鈴木三重吉来る。書物や家財を片付ける。

十二月二十九日(土)、鈴木三重吉・小宮豊隆、一日がかりで障子を張り替える。(各自に手当を五円ずつ支払う)

十二月三十日(日)、湯浅廉孫に『俳句集』の刊行を断る。


その頃は貸家の払底しているうえに、漱石は学期試験で忙しかったので、鏡は周旋屋や御用聞きに頼んだり、後には自分でも出歩いたりして探す。二、三日前に春陽堂の本多直次郎(嘯月)の住む動坂の付近で、田端一群を眺望する座敷あり、間数も十あったので、漱石は見に行こうとしていたが、その前日に他と契約できたので断念する。二葉亭四迷も明治三十八年三月頃に、本郷区画片町十番地にノ三十四号に転居している。五、六百メートルしか離れていない。風呂屋で一緒になることもある。坂の下には、樋口一葉が明治二十九年十一月二十三日(日)に死去した家がある。二葉亭四迷と近いことは知らなかったらしいが、樋口一葉については、うすく知っていたらしい。(森田草平は、明治三十六年十一月、本郷区丸山福山町四番地伊藤ハル方に下宿し、馬場孤蝶から樋口一葉の旧居かも知れめと教えられ、自分の将来が約束されているように思い、感激する。)


鏡は最後まで残り、人力車に乗って貴重品を運び出そうとしていた。そこに皆川正禧かけつけ、ボンボン時計を運んで貰う。これは、漱石が英国留学から帰った時、鏡の実家中根家に出入りする重夫に頼んで買って来て貰ったもので、価格は三円であった。」(荒正人、前掲書)


この年(明治39年)末頃、漱石は、作家としてほぼ完全な自信を持つようになった。文士としての地位も、それまでに書いた「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などによって確立した。彼の身辺に集る文学好きの学生たちや俳人仲間の評価には、身贔屓や阿諛が混ざっているにしても、自分の作品が現代の智識階級にどれぐらい訴える力があるかを、測ることも出来た。

それとともに、10年あまり前熊本の第五高等学校の教授をしていた頃から時々心に浮んでいた、教師をやめて自由な著作家の生活をしたいという欲求が、はっきりした具体性をもって彼の心を占めるようになった。彼は教師をやめ、文学者として生活したいと考えた。学期毎に試験の答案を採点するとき、前年(明治38年)9月から続けている「十八世紀英文学」の講義原稿を準備するとき、教師としての仕事が無意味に思われて、甚しく億劫であった。第一高等学校で受け持っている英語の授業や、文科大学で科外に教えているシェイクスピアの講読などは、比較的楽な仕事であったが、きまった時間に出かけて、学生たちの前で喋るということがまた重苦しく思われた。

漱石の文科大学講師としての年俸は800円、第一高等学校教授としては年俸700円を得ていた。1月当りの収入は125円である。子規は、明治20年頃東京大学の学生として、将来50円の月給を取れればよいと空想したが、死ぬ少し前の明治35年には新聞「日本」の月給が40円になり、「ホトトギス」の経営に当っていた虚子から選科その他として10円の手当てをもらったので、月収は50円となった。漱石は 第一高等学校教授としての年俸700円だけでも、それを上廻る収入であった。

しかし、当時の夏目家の家計は膨脹していて、125円の月収では生活ができなかった。子供時代の養父塩原昌之助が落魄して時々金をせびりに来るばかりでなく、夏目家の一族の中にも何らかの援助をしなければならぬ者が絶えず、妻の実家中根家もまた生活に困って漱石をあてにした。子供は4人あり、来客は多く、妻の性格は派手であったので、出費は目に見えて増した。それで漱石は、明治37年春から明治大学にも出講して月30円の収入を得ていた。

その三つの収入の合計155円が夏目家の生活費であり、少しの余裕もなかった。明治38年から原稿料や印税の収入が次第にふえていたので、その分だけ家計に余裕が出ていた。しかし彼が最も多く書いた「ホトトギス」は稿料の安い雑誌であった。「吾輩は猫である」の第1回の稿料は13円ほどであった。「猫」の評判が高くなるに従って虚子は漱石の稿料だけを特に高く支払った。明治39年4月、「猫」の第10回目に対し稿料は38円50銭であり、同時に載せた「坊っちゃん」の稿料は148円であった。

「猫」の10回は80枚前後であり、「坊っちゃん」は300枚ほどあるから、この時の稿料は1枚50銭の計算と推定される。しかし、この月は漱石が珍しく大量の作品を一時に発表した時であるから、毎月このような200円近い原稿料を得ることができるとは考えられない。またこの明治39年、漱石が「新小説」に書いた「草枕」の原稿料は1枚1円であり、「中央公論」に書いた「二百十日」の原稿料は1枚1円20、30銭であった。ともに300円前後の収入となった。だが文士の地位は極めて不安定なものであり、一時の収入をもって学校の教師の安定した俸給に比較することはできなかった

漱石は、明治38年から39年にかけて、しばしば人に、学校の教師をやめて文士として立ちたいと語り、また知人あての手紙にもその旨を書いた。しかし彼には、今の膨脹した生活班を文筆だけで賄うことができるとは考えられなかった。

江見水蔭は、明治30年代には完全な通俗作家であり、一方で浪費をしなから一方では濫作をするという生活をしていた作家であるが、彼が最も収入の多かった明治28年の収入総額は803円64銭である。この程度の金額が一応名の通った作家の年収だから、専門の文士が売文だけで暮すのは、容易なことでなかった。明治38年島崎藤村は「破戒」を書いているとき月30円で生活していた。だが、そのために子供を栄養不良にして死なせる結果になった、と言われた。それに較べれば漱石の明治39年の収入は、学校から1860円、「猫」を5回分で約250円、「草枕」、「坊っちゃん」、「二百十日」で約750円、合計年収が2860円であるから、膨大なものとなる。稿料の分だけ夏目家は余裕ができていた。当時米1升は23銭であり、大工の1日の手間は1円であった。30円で一家族が暮すのはかなり窮屈であり、50円から60円が智識階級人の安定した生活を支えるに足りる収入であった。明治39年頃の夏目家のように、三つの学校の俸給と流行作家としての収入との両方によって一度膨脹してしまった家計を縮小するのは難かしいことであった。


12月28日

エリフ・ルート米国務長官、青木周蔵駐米大使に日米相互移民禁止協約締結を提議。

12月29日

明治製糖株式会社設立。本社台湾台南市、資本金500万円。取締役浅田正文ら。

1907年8月、蔴荳製糖を買収し事業開始。1910年6月、維新製糖買収。

12月29日

山本安英、東京に誕生。

12月29日

石川啄木(20)、長女京子誕生。

「・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)

12月30日

サンフランシスコ上野領事より革命事件の報告。

12月30日

第1回帝劇創立委員会。

12月30日

全インド・ムスリム連盟創立大会開催(ダッカ)。議長ウィカールル・ムルク。英への忠誠、ムスリム権益擁護などの目標採択。

12月30日

イラン国王、10月7日からの初議会で起草された自由憲法草案に署名。基本法(憲法)第一部公布。31日、国王没。

12月31日

(漱石)

「十二月三十一日(月)、大晦日。『読売新聞』に、来年から特別寄書家として、創作・批評を掲載するという「社告」発表される。」(荒正人、前掲書)


12月下旬

(漱石)

「十二月下旬(日不詳)、鈴木三重吉の下宿を訪ね、下宿代二か月分八、九十円不足していると云うので、第一高等学校からの賞与を、滞っている下宿代の一部にするよう渡す。鈴木三重吉は父から貰うからと断る。本当に貰えるのか確かめ、持ち婦る。(鈴木三重吉「漱石先生」『読売新聞』「故夏目漱石追悼號」大正五年十二月十七日)」(荒正人、前掲書)


つづく

2025年12月3日水曜日

ニデックを支配してきた「永守イズム」の壮絶、「計画未達は罪悪であり大恥であり大不幸である、赤字は犯罪である」は何をもたらしたか(東洋経済) /  黙翁 @TsukadaSatoshi · 8時間 ニデック不適切会計問題の真相、岸田社長も認めた「短期的収益追求」の病根とは何か、2022年にグループ内でいったい何が起きていたのか(東洋経済)    

高市早苗“引きこもり宰相の急所” 《麻生太郎が怒りの官邸突撃「高市は周りを信用しない」》《トランプ忠告を隠蔽する木原稔長官、中国戦狼外交の化けの皮》 高市内閣の「存立危機事態」(週刊文春)

産経ネットメディアが記事盗用 - 5本判明、語尾変え配信(共同);「読売新聞や千葉日報のオンライン記事をコピーしていた。」

大杉栄とその時代年表(697) 1906(明治39)年12月16日~26日 第23議会招集 原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題) 衆議院では24票差で通過 貴族院では委員会で9対4で勝利、本会議で108対149で否決 原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める

 

原敬

大杉栄とその時代年表(696) 1906(明治39)年12月5日~15日 山川均上京。堺は『平民新聞』で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介 より続く

1906(明治39)年

12月16日

張賽ら上海の紳商、上海で預備立憲公会設立。

12月16日

(漱石)

「十二月十六日(日)、午後、『野分』八十枚まで書く。高浜虚子宛葉書に、『野分』八十枚裁きあげたが、予定の半分にも達していない、二十日 (木) には脱稿する積りだが、残りの一、二回分は、十二月二十日以後になるかも知れめと断る。高浜虚子から題名を聞いてきたので、『野分』ではどうだろうかと返事を出す。

(『読売新聞』は、明治四十年一月以後、特別寄武家として迎えることを重ねて予告する。(これは実現しない))

十二月十九日(水)、家内中インフェルエンザに罹る。(漱石だけは罹らぬ)『文學論』校正刷、中川芳太郎に校正を依頼しているのに間遮って届けられ転送する。

十二月二十日(木)、夜になったら、『野分』の最後の章を書いてしまおうと思っていると、鈴木三重吉・中川芳太郎ほか何人か来る。十分ほどで帰って貰う。鈴木三重吉に『鶉籠』を贈呈する。

高浜虚子、人力車で『野分』の原稿を受け取りに来る。十時過ぎまでかかって、原稿の半分を朗読して、助詞の誤りを訂正する。十時頃、瀧田哲太郎(樗陰)来る。小宮豊隆も来るかと思っていたが来ない。

十二月二十一日 (金)、『野分』脱稿する。(この後、『文學論』の補筆・修正・訂正に専念する。)


竹越与三郎を主筆に招いたことから、「社告」として、「一月以後、従来の四面五面を廃止して、火曜日「醫事界」、水曜日「法曹界」、木曜日「経済界」、金曜日「教育界」、土曜日「農事及園藝」、各二頁ならびに日曜日「文藝界」四頁の専門の付録を添える」、附言に「月曜日は例により四頁。第一面より第四面の紙上は現在の通りです」と発表され、その後に、「漱石夏目金之助氏」として、「『吾輩は猫である』以来常に清新の作を公にして文名海内に喧傳せる漱石夏目金之助氏は特別寄書家として其の創作と批評とを本紙上に發表せらるゞ事となりました、丁未以後の文壇に如何ばかりの偉彩を放つかは想像に餘りある事でせう。」と伝える。」(荒正人、前掲書)

12月20日

在米日本人の革命党(竹内鉄五郎・小成田恒郎・岩佐作太郎らの「社会革命党」)、バークレーで雑誌「革命」第1号発行。

記事「カリフォルニア州における日本社会党の運動」中に「ミカド・王・大統領の転覆」の表現あり。日本人排斥気運の中、大統領暗殺を企てていると俗流新聞が煽り、本部(レッドハウス)周辺は騒然となる。翌年初め、官憲の取調べ。

12月21日

英、労働争議法が成立。

12月22日

(漱石)

「十二月二十二日(土)、小宮豊隆宛手紙に、「僕瓦斯会社出張所の前を通つて見世にあるランプが欲しくなつた、札を見たら十五園である。今に瓦斯でも引く家へ這入つたら此ランプを買ふ事に致さう。」と書く。(小宮豊宛手紙は、午後余り遅くならぬうちに書かれたものかと想像されるが、六本めである。現在発表されているのは、ほかには奥太一郎宛のものしかない)

(Dr.Craig 死去する。)

十二月二十五日(火)、小宮豊隆のために、『鶉籠』の見返しに「春を待つ下宿の人や書一巻」と響く。

十二月二十六日(水)、朝から夜遅くまで、鈴木三重吉ら来て、引越しの準備を手伝う。」(荒正人、前掲書)

12月24日

福井県小浜の女子技芸学校の生徒213人、校長と教頭の意見衝突により同盟休校。校長は、休職処分に。

12月25日

雑誌「光」第31号で終刊。

12月25日

第23議会招集。28日開会、1907年3月27日閉会。

勢力分布:政友171・憲本94・大同63・他51。西園寺内閣発足時は政友149・憲本98・大同76・他56。原敬の政友会多数派工作により特に大同倶楽部が切崩される。

原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題):

府県制と町村制の中間にあり意義が薄れてきた郡制に対して、原敬は郡役所廃止でなく郡会を廃止し、郡長が郡会の制約を脱し自由に町村を監督できるというもの。官僚制強化となるものでが、山縣派はこれを機に原が郡長の大異動をすることを恐れ反対(郡長は警察官上がりが多く、官僚支配の末端を担い選挙干渉を担当。山縣派官僚支配の基礎。これに対して、原は高等文官試験合格の若手官僚を郡長に送り込みつつあるため)。

衆議院では憲本・大同連合を買収で切崩し24票差で通過。貴族院では、委員会では9対4で勝利、本会議で108対149で否決。原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める

12月26日

徳川光圀以来続けられてきた『大日本史』の編纂完了が明治天皇に報告される。

12月26日

インドの国民会議派第22回大会(カルカッタ大会)開催。~29日。

スワラージ(民族自治・独立)、スワデーシー(国産品愛用)、外国品ボイコット(英貨排斥)、民族教育の4大決議採択。


つづく


2025年12月2日火曜日

横浜山手散歩 「横浜山手西洋館 世界のクリスマス」 深まりゆく秋 イタリア山公園(メタセコイアの紅葉 イチョウの黄葉) エリスマン邸周辺のイチョウの黄葉 各西洋館のクリスマス飾り 2025-12-02

 12月2日(火)晴れ

恒例の「横浜山手西洋館 世界のクリスマス」に行ってきた。

山手の各西洋館で世界各国のクリスマス飾りやテーブルコーディネートを展示しているのだが、個人的には山手通りの深まりゆく秋の景色に痺れた。

▼イタリア山公園(外交官の家、ブラフ18番館)

▼メタセコイアの紅葉がきれい


▼イチョウの黄葉と黄葉の絨毯








▼エリスマン邸周辺




▼元町公園の電話ボックス

▼各西洋館のクリスマス飾りつけ






NHK、米兵の沖縄での性犯罪報道を延期 関係者「高市政権に忖度」 制作現場からは抗議 政権発足翌朝から2週間後(沖縄タイムス);「NHKが沖縄の米兵性犯罪に関する全国放送を、高市早苗政権の発足と重なった「タイミング」を理由に、政権発足翌朝から2週間後へ延期していたことが分かった。複数の関係者によると、日米安保を重視する高市政権や世論への刺激を避けようと忖度(そんたく)した結果だという。NHKは本紙の取材に対し「総合的に判断している」と説明した。」

米国防長官に戦争犯罪の疑惑浮上 難破者の殺害指示か、米政府は否定(日経);「ヘグセス米国防長官に戦争犯罪の疑いが浮上している。米軍が9月に実施した「麻薬運搬船」への攻撃を巡り、米紙ワシントン・ポストはヘグセス氏が船の爆破後に海上で生存が確認できた乗組員も追撃し、殺害するよう指示していた疑惑を報じた。」

特別支援学校生を18歳人口から除外 文科省、大学進学率が不正確に(毎日);「文部科学省の学校基本調査で、大学進学率などに使用される18歳人口の集計から、障害のある児童・生徒が通う特別支援学校(特支)の卒業者が除外されていることが、毎日新聞の調査で判明した。」   

 

高市首相「いいから黙って全部オレに投資しろ!!」 人気漫画せりふで対日投資拡大呼び掛け(AFPBB) / 進撃の巨人のセリフを、そのまま英語にして 海外の投資家に向かって 「Just shut your mouths… invest everything in me」。 国際投資フォーラムで、G7の首相がこの言葉を口にする── これは、外交儀礼としてほぼ“最低ライン”の失点だと思う。 まず “shut your mouths” は、 英語では完全に 「お前ら全員黙れ」 という侮辱語。 アニメの文脈を知らない相手からすれば、 冗談にも聞こえず、ただ攻撃的で幼稚な言葉にしかならない。、、、、、


〈全文〉 

進撃の巨人のセリフを、そのまま英語にして

海外の投資家に向かって

 「Just shut your mouths… invest everything in me」。


国際投資フォーラムで、G7の首相がこの言葉を口にする──

これは、外交儀礼としてほぼ“最低ライン”の失点だと思う。


まず “shut your mouths” は、

英語では完全に 「お前ら全員黙れ」 という侮辱語。

アニメの文脈を知らない相手からすれば、

冗談にも聞こえず、ただ攻撃的で幼稚な言葉にしかならない。


そして今回の聴衆は、

サウジの要人、石油・金融のエリート、王族、国際金融のプロたち。

カルチャーギャップを計算せずにアニメを引用すれば、

笑いも共感も生まれず、

むしろ「なぜ日本の首相がこんな言い方を?」という

冷たい疑問だけが残る。


外資誘致の方向性は正しい。

でも、国際舞台での“言葉の選び方”は、

その国の格とセンスそのもの。


日本がいま本当に見せるべきは、

アニメの内輪ネタではなく、

堂々とした外交と、胸を張れる国家戦略だと思う。

でも──やることなすこと、幼稚なのよね。



大杉栄とその時代年表(696) 1906(明治39)年12月5日~15日 山川均上京。堺は『平民新聞』で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介 

 

後列:左から、山川均、守田有秋、森近運平、堺利彦、佐藤悟。 

中列:左から一人おいて、堺爲子、少女時代の堺真柄、山川の妻の大須賀里子。

大杉栄とその時代年表(695) 1906(明治39)年12月1日~4日 この年、株式の熱狂相場続く。野村徳七も前年以来株を買い続け財産も100万円となる。 この月、弟の徳三郎はこれ以上は危険と株の売却を忠告。徳七も、株式市場が1894~95年の日清戦争後の暴落直前の状況と似てきていることを知る。 12月10日、2~3の大手投資家が売り始めたのを察知し、この日のうちに売り始め週末までには1/3を整理する。しかし、東京の大手投資家が大阪の株を買い始め、株価は毎日上昇し続ける。 26日、徳七の友人で北浜屈指の投資家岩本栄之助も売り始める。それでも、市場は上昇し続け、徳七は大阪の地方新聞に狂乱相場の危険性を警告。 より続く

1906(明治39)年

12月5日

日本と清国、営口還付に関する取極調印。

12月5日

永岡鶴造・南助松ら、大日本労働至誠会足尾支部結成、ストライキ準備。

翌明治40年2月「騒擾」。南は、「平民新聞」創刊後はその読者となる。

12月5日

(漱石)

「十二月五日(水)、第一高等学校で、家主の斎藤阿具が第二高等学校から第一高等学校に転任することを知る。斎藤阿具に現在の家を明け渡す必要があるかどうか問い合せる。(斉藤阿具、第一高等学校の原勝一郎が京都帝国大学文科大学へ転任するので、後任に来ぬかとの誘いを受け、中川元校長への恩義もあり、迷ったが、沢柳政太郎の忠告もあり、遂に第一高等学校への転任を承諾する。十二月末に、第一高等学校に転任する辞令を貰う。東京市本郷区千駄木町五十七番地(現・文京区向丘二丁目二十番七号)の持家を漱石に借してあったので、明け渡しを求める)

十二月六日(木)以前(推定)、小宮豊隆、漱石の許で、鈴木三重吉に初めて逢う。

十二月六日(木)、木曜会。松根東洋城・寺田寅彦・高浜虚子・鈴木三重吉・坂本四方太・中川芳太郎・森田草平.野間真綱.皆川正禧らのほか、俳人・歌人・記者二人なども集る。鈴木三重吉、『山彦』を持参する。初めは自分で読んでいたが、昂奮して読めなくなり、高浜虚子が代って読む。二、三か所を非難する。高浜虚子は、径(こみち)ばかり多くて大道がないと云う。但し、高浜虚子は原稿を持帰る。

十二月八日(土)(七日(金)かもしれぬ)、森田草平から手紙で、鈴木三重吉の『山彦』の批評を書いてくる。

十二月十日 (月)、『野分』(題未定)起稿する。」(荒正人、前掲書)

12月6日

英、トランスヴァールとオレンジ・リバー植民地に地方自治政府を認める。選挙権は白人男性のみに付与。1907年樹立。

12月7日

湖南の瀏陽で洪福会斎天会の蜂起(瀏陽革命)。

12月8日

満州製粉株式会社設立。

12月8日

(漱石)

「十二月八日 (土)森田草平宛手紙に、「山彦の評落手拝見一々賛成に候然しデカダン涙の感じは假令如何なる文學にも散點せざれば必竟駄目に候。ボードレール杯申す輩のは遂に病的の感に候。三重吉の方が艅程上等に候。君の方のデカダンは結構に候。但眞の為めに美や道徳を犠牲にする一派に候。夫もよろしく候。僕文學諭にて之を論せんと思ひし所時間なく其儘に相成居候。」(荒正人、前掲書)


12月9

品川沖停泊の軍艦で、渡船の際の突風のため参観者58人が転落、溺死。

12月10

合資会社桐生製作所設立。織物準備機の製作、資本金1万円、1907年3月開業。1917年、桐生機械株式会社となる。資本金10万円。

12月10

旧函館中華会館が完成(ただし翌年大火により消失、現在の建物は1910年に完成)

12月10

日露戦争終結に尽力のルーズベルト,ノーベル平和賞受賞.

12月11

大阪砲兵工廠職工、賃上げを要求し、ストライキ。

12月14日、憲兵・警官750人が出動し、首謀者5人を拘引。

12月12

市川左団次(2世、26)、横浜港から鎌倉丸で出航、ヨーロッパに向かう。

12月13

(漱石)

「十二月十三日 (木)、家主の斎藤阿具に、西片町に家があくから、そこに移転することになろうと知らせる。」(荒正人、前掲書)

12月13

英、労働争議法・労働災害保障法成立。タフ・ヴェール判決を覆す。

12月13

独議会、危機。

植民地統括組織を改編し独領南西アフリカ(現ナミビア)で1904年以来続いているヘレロ族反乱鎮圧のための軍事費拠出法案を、中央党が拒否。帝国議会解散。改選後中央党と社会党の勢力後退。

12月13

英仏伊3ヵ国、アビシニア条約を締結

12月14

独キール軍港でドイツ海軍の潜水艦(Uボート)第1号艦U1が進水。

12月15

逓信省、年賀郵便の受付を初めて開始。

12月中旬

山川均(26)、日刊『平民新聞』創刊に際して幸徳秋水に招かれて倉敷から上京。

『山川均自伝』には、1906年12月中旬に新橋に到着、すぐに新富町の平民社を訪ねて初めて堺に会った、と書かれている。山川は堺より10歳年下で、このとき26歳。以前、山川は有楽町時代の平民社を訪ねて幸徳秋水の講演を聴いたことがあり、秋水に手紙を書いていた。そのことを覚えていた秋水が、日刊『平民新聞』編集員として来ないか、と山川を手紙で呼び寄せた。

堺は同紙の「平民日記」欄で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介している。この「皇太子」はのちの大正天皇、山川は不敬罪で起訴されて重禁錮3年6ヶ月、罰金120円、監視1年の判決を受け、19歳から長く獄中で過ごした。

山川均は10代後半で社会主義に興味を持ち、友人の守田有秋と1900年から『青年之福音』という6~8ページの小冊子を毎月発行。同年5月は皇太子嘉仁と九条節子との「御成婚」があり、守田がこれを批判するような記事を書いた。山川はそれに後で筆を入れたにすぎなかったが、この記事が問題になって2人は不敬罪で投獄された。守田有秋はその後、『二六新聞』記者となり、社会主義運動の同志として堺らと交友するようになる。


つづく


2025年12月1日月曜日

首相就任後、わずか1カ月で戦争を誘発しうる発言をした高市氏。私たちは本当に「戦後」を生きているのか(ハフポスト日本版) ; 植民地支配と侵略戦争を起こし、数えきれない命を奪ったこの国で、加害の歴史を直視しようともしない政治家が「国の顔」となった。そして就任から1カ月も経たないうちに、「台湾有事」をめぐって戦争を誘発しかねない発言をした人物が、この国の舵を握っている。

長期上昇、円安一段と 政府の大型補正に市場が警鐘 経済対策の効果打ち消す恐れも(テレ朝);「高市政権で初となる補正予算案が先週に閣議決定されました。財源の6割以上を国債で賄う内容に、市場は金利上昇と円安で警告しています。」 / 高市『経済失政』の禍根…物価高加速で近づく高転び(「選択」12月号);〈今 リフレ政策をとれば、さらなる円安と物価高は自明。しかし生活苦の国民は高市にとって「二の次」だ。安倍の生き写しでありたい一念で、経済を歪める亡国の大衆迎合。高支持率は今だけの幻想だ〉              

大杉栄とその時代年表【年表INDEX ③ (1906(明治39)年1月~ 更新中)】  /  【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月】  【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~1905(明治38)年12月 )】

 【年表INDEX ①】

大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月)】


【年表INDEX ②】

大杉栄とその時代年表【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~ 1905(明治38)年12月)】


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大杉栄とその時代年表(646) 1906(明治39)年1月1日~6日 ベルリン警察、米人舞踊家イサドラ・ダンカンの舞踊を「猥雑」であるとして公演禁止。ダンカンの舞踊は、古典音楽に合わせた単純で表現力豊かな舞踊。

大杉栄とその時代年表(647) 1906(明治39)年1月7日~11日 徳富蘆花、伊香保に引き籠る 「小生は堺兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃めたり、今後は徳富健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」 徳富健次郎の伊香保温泉での日常生活は、第一が四福音書を読むこと、第二にトルストイの著作を読むことであった。

大杉栄とその時代年表(648) 1906(明治39)年1月12日~25日 「ただ新たな運動の展開に対していささか希望を与えたものは、山県軍閥直系の桂太郎に代って、かつてはフランスに遊んで自由主義の新風に浴した西園寺公望が、新政府の首相に任じた事であった。西園寺首相は住友財閥の当主吉左衛門の実兄、蔵相の阪谷芳郎は渋沢栄一の女宿、内相の原敬は足尾銅山主古河市兵衛の大番頭、また外相の加藤高明は三菱の駙馬というように、少なくとも外観上はブルジョア的色彩の濃厚な政府であったから、その政策も桂内閣の武断政治に比して自由主義的であろうと予測させた。果然、新内閣は社会主義運動に対しても前政府の如く妄りに弾圧することなく、政綱の穏和なるものに対しては結社の自由を認める方針を明らかにしたのである」(荒畑寒村『続平民社時代』)

大杉栄とその時代年表(649) 1906(明治39)年1月26日~31日 1月31日付け宋教仁の日記 「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。この前田氏というのは、漱石『草枕』の主人公那美のモデルと言われる前田卓である。

大杉栄とその時代年表(650) 1906(明治39)年2月1日~4日 「・・・小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を恩ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ・・・」(2月3日付け漱石の野間真綱宛て手紙)

大杉栄とその時代年表(651) 1906(明治39)年2月5日~16日 イギリス、戦艦ドレッドノート第1号鑑、進水。ポーツマス。世界最強の戦艦。ドレッドノートの出現により、戦艦三笠、ボロジノなどは一挙に旧式化した。以後、建艦競争開始。

大杉栄とその時代年表(652) 1906(明治39)年2月17日~28日 コンノート卿大歓迎大会、日比谷公園にて催す。 「正門前の雑踏ハ甚しく騎馬と徒歩の警官と憲兵と数十名警戒せしが大名行列が繰り出すや潮の湧くが如く人波を打ち鉄柵の前に殊に設けたる丸太の柵を押潰せんず光景で」(読売新聞)

大杉栄とその時代年表(653) 1906(明治39)年3月 著名な国学者の章炳麟が亡命して中国同盟会の機関紙『民報』の編集長となり、編集部を置いた貸家で毎週末「国学講習会」を主宰した。魯迅も国学を学ぶために通ったが、一方で、章炳麟の主宰する革命組織「光復会」が決死隊を中国へ送り込むことになり、そのメンバーに指名された。 しかし魯迅は気が進まず、「もし自分が死んだら、あとに残された母親をどうしてくれるのか、はっきり聞いておきたい」と告げると、一同のけぞって呆れかえり、決死隊メンバーから外されたという逸話が残っている。

大杉栄とその時代年表(654) 1906(明治39)年3月1日~7日 外相加藤高明、鉄道国有化に反対し辞任。 加藤は岩崎家の婿(「三菱の大番頭」)。三菱の御用新聞「東京日日新聞」、元老井上馨も鉄道国有化反対。三菱は、長崎の造船所、高島炭鉱を経営し、更に九州鉄道株を買収中。九州鉄道を手中にすれば、競争相手の三井、貝島、麻生などの炭鉱の運搬も独占し得る。九州の炭鉱主は、三菱の鉄道支配を覆すために政府の鉄道国有化に賛成。

大杉栄とその時代年表(655) 1906(明治39)年3月8日~11日 「明くれは十一日、...日比谷公園には各方面から参集する男女一千余名、...園内の芝山には「電車値上反対市民大会 日本社会党」と大書した赤旗を中心に数十旒の赤旗が林立し、...午後一時、主催者を代表して山路愛山(国家社会党)が全員の拍手喝采裡に左の二決議文を朗読した。(略)次いで主催者代表は、右の二決議を内務大臣に手交するため、...五人を委員に指名したが、大臣不在のため委員は決議文をのこして帰った。五委員は解散後、群衆とともに赤旗四旒、幟二旒を押し立て大太鼓を打ち鳴らしつつ公園を出て有楽町の堅く門扉を閉ざした街鉄会社に押し寄せ、...更に数千枚の檄を配布しつつ 『人民』、『日日』、『時事』、『毎日』、『萬朝』、『読売』の各新聞社前に至り、「資本家に買収された新聞」「電車賃値上げに反対せよ」「反対せざる新聞は購読せず」などと叫んで示威運動の威勢を示した。」(荒畑『続平民社時代』) )

大杉栄とその時代年表(656) 1906(明治39)年3月12日~18日 東京市電運賃値上反対第2回市民大会 「この頃になって警官隊が騎馬巡査を先頭に鎮圧に駈けつけて来た。それを見た西川は、『これで今日は解散する』と群衆に挨拶したが、納まらないのは戦闘的な土工たちであった。彼らは『ここまで人を連れて来てこのまま解散するとは卑怯千万だ』と西川らに詰め寄り、西川たちはその勢いに怖れをなして、逃げ出すような始末であった。」(吉川守邦「荊逆星霜史」)

大杉栄とその時代年表(657) 1906(明治39)年3月19日~23日 「余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重じて居る。さればといって、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る。...然しこの二つの矛盾は只余一人の性情ではない。一般人類に共通なる永劫不易の性情である。自己発展と自他融合と、この二つは宇宙の二大根本基礎である。.....茲に一解あり、意志といふ言葉の語義を拡張して、愛を、自他融合の意志と解くことである。乃ちシヨウペンハウエルに従つて宇宙の根本を意志とし、この意志に自己発展と自他融合の二面ありと解する事である。」(啄木日記)

大杉栄とその時代年表(658) 1906(明治39)年3月25日~31日 「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。」(「早稲田文学」の島村抱月の批評 )

大杉栄とその時代年表(659) 1906(明治39)年4月 蒋介石の初来日 初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

大杉栄とその時代年表(660) 1906(明治39)年4月1日~9日 「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」(トルストイ会見に向かう徳富蘆花の日記)

大杉栄とその時代年表(661) 1906(明治39)年4月10日 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

大杉栄とその時代年表(662) 1906(明治39)年4月11日~17日 啄木(20)、母校の渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。月給8円。徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」(「渋民日記」)

大杉栄とその時代年表(663) 1906(明治39)年4月18日~30日 桜井忠温;松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。

大杉栄とその時代年表(664) 1906(明治39)年5月1日~5日 「仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」(田山花袋「不如帰物語」)

大杉栄とその時代年表(665) 1906(明治39)年5月6日~30日 韓国総監伊藤博文主唱(山縣、西園寺などの元老閣僚会議)「満州問題に関する協議会」、開催。首相官邸。児玉参謀総長ら武断派抑え、軍政廃止決定。 同日、閣議決定(関東総督機関を平時組織に改める、軍政署を順次廃止)。 9月1日、関東総督府廃止。関東都督制となる(都督は大島総督が引続き任命)

大杉栄とその時代年表(666) 1906(明治39)年6月 明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(667) 1906(明治39)年6月1日~4日 崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、3年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』)

大杉栄とその時代年表(668) 1906(明治39)年6月5日~20日 「常磐会」創立 「明治三九年六月十日の夜森林太郎、賀古鶴所の二氏が小山粲、大口鯛二、佐々木信綱の三氏と余とを浜町一丁目なる酒楼常磐に招きて明治の時代に相当なる歌調を研究する為に一会を起さん事を勧められた。(中略)余は無論森、賀古の二氏の勧告に応じ(中略)其後賀古氏から話のついでに此事を山県公爵に申し上げた所が公爵も非常に喜ばれカを添へらるる事を約せられた」

大杉栄とその時代年表(669) 1906(明治39)年6月22日~29日 幸徳秋水、日本社会党の帰国歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」演説。神田区錦町の錦輝館。総同盟罷工による直接行動論。錦輝館は1902年に日本で初めてメリエスの『月世界探検』を上映した活動写真館。1908年6月22日、ここで行われた山口孤剣の出獄歓迎会がきっかけで赤旗事件が起こる。

大杉栄とその時代年表(670) 1906(明治39)年6月30日 徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。蘆花はトルストイの家に5日間滞在した。その間、彼は毎日のようにトルストイと散歩し水浴し、トルストイに親しみ、ある時は彼を敬い、ある時は疑い、結局トルストイの人柄に限りない親しみを感じた。

大杉栄とその時代年表(671) 1906(明治39)年7月1日~3日 「「頭は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇體なものにて十分に三十秒位づゝ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と沸くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから澤山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす(ママ)時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千萬粒のうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な気分になり候。小生は之を称して人工的インスピレーションとなづけ候。」」(漱石の虚子宛て手紙)

大杉栄とその時代年表(672) 1906(明治39)年7月3日~8日 啄木 「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」

大杉栄とその時代年表(673) 1906(明治39)年7月9日~28日 7月23日 児玉源太郎(54)、脳卒中で急没。 8月1日、台湾総督府民政局長後藤新平が「満鉄」総裁を引受ける。後藤は7月31日、山縣元帥に手紙を書き、8月8日には大島都督・寺内陸相に建白書を提出。

大杉栄とその時代年表(674) 1906(明治39)年8月1日 関東都督府官制公布。 遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。都督は陸軍大将または中将。清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。 9月1日、大島義昌を関東都督に任命。

大杉栄とその時代年表(675) 1906(明治39)年8月2日~10日 (漱石の妻が電車賃値上反対のデモに加わっていたとの誤報に対して、「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」(漱石の深田康算への手紙)

大杉栄とその時代年表(676) 1906(明治39)年8月10日~31日 「彼(森田草平)は「猫」を読んで以来、熱烈を漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。それを読んだあとでは、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、すでに抵当に入っていた七八反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作った。そして9月初めに上京した。」(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(677) 1906(明治39)年9月1日 「鈴木三重吉から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、三十五歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年の四月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。「千鳥」を読んだために漱石が、それなら自分もこれを書けるという気特で「草枕」を書いたことだけは推定できた。」(日本文壇史)

大杉栄とその時代年表(678) 1906(明治39)年9月1日 「私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ--美くしい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。」(夏目漱石 談話「余が『草枕』」)

大杉栄とその時代年表(679) 1906(明治39)年9月1日~5日 9月5日 諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。

大杉栄とその時代年表(680) 1906(明治39)年9月9日~11日 「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」(木下尚江「旧友諸君に告ぐ」)

大杉栄とその時代年表(681) 1906(明治39)年9月11日~中旬 鶴見祐輔、第一高等学校英法科3年生、漱石の講義を聴く。その時の回想「紺の背廣の夏服を着た先生が、左小肱に、教科晋と出席簿とを抱へて、少し前かゞみに、足早やに入ってこられた。漆黒な髪の毛、心持ち大きい八字髯、ハッチりした眼。そして、どこか取り澄ましたやうに、横など向いて、出席簿を手早やに片付けて。鉛筆をなめて、何やら一寸書き込んで。教科書をパット開かれた。」

大杉栄とその時代年表(682) 1906(明治39)年9月16日~30日 「大杉が、黒板勝美、千布利雄らとともに日本エスペラント協会を設立(註、6月12日)し、神田の青年会館で開かれた第一回大会の席上で『桃太郎』の話をエスペラントでやり、喝采を博したのは、その年九月二十八日のことである。彼はまた、九月十七日に、本郷区壱岐坂下の習性小学校で、日本最初のエスペラント学校を開いた。生徒は四十五名。十二月六日、神田の国民英学校で行われた第一回卒業式には、黒板勝美や加藤高明が来賓として出席、大杉はやはりエスペラントで「卒業生諸君に告ぐ」という訓辞をしている。この学校は夜学で、大杉が翌一九〇七年五月巣鴨監獄に入獄するまで続いた。」(大沢正雄「大杉栄研究」)。

大杉栄とその時代年表(683) 1906(明治39)年10月 二葉亭四迷「其面影」 「内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている問じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。」(日本文壇史より)

大杉栄とその時代年表(684) 1906(明治39)年10月 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。8日、大石誠之助は新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもつ。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。

大杉栄とその時代年表(685) 1906(明治39)年10月1日~10日 「さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」(漱石の若杉三郎宛手紙)

大杉栄とその時代年表(686) 1906(明治39)年10月11日 第一回木曜会 小宮豊隆;彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。

大杉栄とその時代年表(687) 1906(明治39)年10月13日~21日 「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」(漱石の森田草平あての手紙)

大杉栄とその時代年表(688) 1906(明治39)年10月22日~31日 「『光』と『新紀元』との思想や主張の異同については、本書ですでに詳説したから今さら蒸し返す必要はないが、この二派の「社会主義の解釈、若しくは確信に於て、決して相容れざる者に非ず」という説は筆者の承服し兼ねる所である。それ故、石川が平民社の創立人に加わり社会党の機関たる平民新聞の編集当局に就任したことは、背信食言の行為と言わざるを得ない。唯物論的社会主義と基督教社会主義との異同に関して徹底的な論争を行わず、無理論、無原則な妥協に終った二派の合同はその後、社会党大会の決議の上にも痕をとどめた。」(荒畑『続平民社時代』)

大杉栄とその時代年表(689) 1906(明治39)年11月1日~5日 「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯(いつわ)りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。〔中略〕気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。」 (『猫』中篇自序)

大杉栄とその時代年表(690) 1906(明治39)年11月6日~11日 「読売新聞」主筆の竹越与三郎(三叉)、漱石に対して漱石門下生で中央公論主筆の滝田樗陰を通じて、読売の専属作家にならないか、と申し出る。読売の文壇を担当して1日に1欄か1欄半書き、月給は60円という条件。漱石は、報酬が少ないことと地位が不安定なことを理由にして、この申し出を断る。

大杉栄とその時代年表(691) 1906(明治39)年11月11日~13日 更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。 正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。

大杉栄とその時代年表(692) 1906(明治39)年11月14日~20日 (漱石)「十一月十七日(土).....夕方、初めて森田草平の下宿(本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方)を訪ね、夜、柳町・菊坂通りを経て、真砂町で真砂亭(西洋料理。本郷区真砂町、現・文京区本郷一丁目)に寄る。切通しを経て、不忍池のほとりに出る。.....不忍池を一周、弥生町から東京帝国大学裏門の前に出て、第一高等学校と東京帝国大学の間を通り、森川町で別れる。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(693) 1906(明治39)年11月21日~30日 「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。 この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(694) 1906(明治39)年12月 泉鏡花(数え34歳)、この年7月逗子に転居し、文壇人とは没交渉で過ごす。「新小説」11月号に「春昼」を、12月号に「春昼後刻」を書き、小説「愛火」を春陽堂から出版する。

大杉栄とその時代年表(695) 1906(明治39)年12月1日~4日 この年、株式の熱狂相場続く。野村徳七も前年以来株を買い続け財産も100万円となる。 この月、弟の徳三郎はこれ以上は危険と株の売却を忠告。徳七も、株式市場が1894~95年の日清戦争後の暴落直前の状況と似てきていることを知る。 12月10日、2~3の大手投資家が売り始めたのを察知し、この日のうちに売り始め週末までには1/3を整理する。しかし、東京の大手投資家が大阪の株を買い始め、株価は毎日上昇し続ける。 26日、徳七の友人で北浜屈指の投資家岩本栄之助も売り始める。それでも、市場は上昇し続け、徳七は大阪の地方新聞に狂乱相場の危険性を警告。

大杉栄とその時代年表(696) 1906(明治39)年12月5日~15日 山川均上京。堺は『平民新聞』で「諸君の中には山川均君の名を記憶せぬ人もあるでせう、山川君は曾て皇太子御結婚の当時不敬罪を以て処罰せられ、未丁年の故を以て酌量軽減せられながら、猶且つ三年六ケ月の長き月日を巣鴨監獄に送った人である」と紹介

大杉栄とその時代年表(697) 1906(明治39)年12月16日~26日 第23議会招集 原敬と山縣派との闘い(郡制廃止問題) 衆議院では24票差で通過 貴族院では委員会で9対4で勝利、本会議で108対149で否決 原は、政友会の力の及ばぬ貴族院でも善戦し、「山縣の貴族院における勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」と自信を強める

大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記)

大杉栄とその時代年表(699) 1907(明治40)年1月1日 泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載) 「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)