2025年3月6日木曜日

FOXニュースもとうとう「関税はアメリカの輸入元が払うんだ」と噛み砕いて説明しなくちゃならん状況になっている。 / 貿易戦争の号砲鳴り響く、カナダ・メキシコ・中国へトランプ関税発動 米四半期成長率、反転マイナス推計も(ロイター) / 「関税男」トランプに迫る景気後退の足音── 1〜3月期の成長率予測がこれまでのプラスから-2.8%に悪化(ニューズウィーク日本版) / コラム:「トランプセッション」到来か、急速な景気後退告げるリアルタイム指標(ロイター);「1月の消費者信頼感指数は過去3年半で最も急激に落ち込み、小売売上高の減少率も約2年ぶりの大きさだった。実質消費支出は2021年初頭以来最も急スピードで減少し、小売り大手ウォルマートは厳しい一年の到来を予想している。」 / トランプ氏の生活費高騰対応、支持は3割=ロイター/イプソス調査 / 著名投資家ウォーレン・バフェット、関税は「戦争行為」「消費増税」に等しいとトランプを批判 (ニューズウィーク日本版)  

独でテスラ車販売が7割減 - マスク氏右派支持が影響(共同) / 仏や北欧でテスラ離れ進む、マスク氏の政治的言動に反発(ロイター) / 「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由(ニューズウィーク日本版 ); <テスラに暗雲が立ち込めている。欧州市場での販売台数が大幅に減少し、株価も下落。かつてのEV王者は、この危機を乗り越えられるのか> / 人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由(ニューズウィーク日本版);<かつての最先端が「時代遅れ」に...テスラ、競合EVに敗北の傾向> 「反イーロン・テスラ・クラブ」爆誕 競合は絶好調!テスラは「時代遅れ」に 業績の急落がヨーロッパで深刻  相次ぐ「ボイコット」活動           



 

再び斎藤氏不信任なら「今度は議会解散すべきだ」日本維新の横山氏(産経) ← 維新が黒幕なんだね / 開き直る斎藤知事、私的文書も言及 県議「告発者つぶしまだやるか」(朝日); 県議会百条委員会という国の法律に基づく調査の報告書に対し、兵庫県の斎藤元彦知事は「一つの見解だ」などの表現を再三にわたって繰り返し、開き直りに終始した。 / 傍聴席のほとんどを斎藤知事応援団が占め、(元維新の)増山議員の反対討論に大きな拍手。閉会後は増山・白井氏を囲んで激励と撮影会。百条委の結論に議場では憮然の斎藤知事も、外で応援団に囲まれ、YouTuberに笑顔で応対。    

江藤拓農水相が石破政権の最初の更迭大臣に?「隅々まで読んだ」はずの食糧法めぐり“逆ギレ誤答弁”連発(日刊ゲンダイ) / 江藤拓農水相、食糧法に価格の安定「書いていない」4連発 実際は法律名にも条文にも明記(産経);「価格の安定なんて書いてありません、食糧法には。書いてありません。書いてありません。書いてありません」と自信満々に答弁した ← 農水大臣として不適格ではないか!

 

2025年3月5日水曜日

トッド氏が語る「米国の敗北」 世界史の転換点で日本に大切なのは(朝日);「私たちは世界史の転換点を迎えています。米国はロシアに対して、非常に屈辱的な敗北を経験しつつあります」 / エマニュエル・トッドが語るトランプ就任後の世界 同盟国アメリカが脅威になる日「SFの話ではない」(AERA.dot)

10億円かけた虐待判定AI、こども家庭庁が導入見送り…ミス6割で「実用化困難」 | ヨミドクター(読売新聞)

大杉栄とその時代年表(425) 1902(明治35)年10月1日~19日 虚子・碧梧桐連名で漱石に子規終焉の様子を知らせる手紙を書く 「其ニモ時々認メアリタル如ク草花菓物等ヲ写生スルコトヲ非常ノ慰籍卜致シ色ノ出シ具合丸ミノツケ具合ナド中中ウマイモノニ有之シガ其モ五六十日間ノ慰籍ニ過ギズシテ愈死期近ヅキテハ筆ヲ取ルコトハ勿論体ヲネジル事モ出来ズ僅ニ菓物帖草花帖一冊ヅゝヲ残シテ永眠致サレ候 尚可申上事申上度事ハ山ノヤウニ有之候へド一先擱筆致候 匆々頓首」

 

高浜虚子

大杉栄とその時代年表(424) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走② 「私がチューリヒからパリ経由でロンドンに到着したのは、1902年の秋――たぶん10月――の早朝だった。」(トロツキー『わが生涯』) 「プレハーノフはすぐさまトロツキーを猜疑の目で見た。彼は、トロツキーを『イスクラ』編集部の若手派(レーニン、マルトフ、ポトレーソフ)の同調者、レーニンの追随者とみなしたのだ。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』) より続く

1902(明治35)年

10月1日

石川啄木(盛岡中学3年、16)、「明星」第3巻第5号に「白蘋(ハクヒン)の筆名」で初めて短歌1首が載る。「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」。鉄幹は、「白蘋」の筆名が寂しそうなので「啄木」とつけててやる。

10月1日

宮崎滔天、新体浪花節桃中軒を組織。雲右衛門ら神田錦輝館で興行。

10月2日

閣議、外相小村寿太郎要求の清国・韓国事業経営費(479万円)支出を決定。京釜・京義線敷設、日清銀行設立(300万円)などの経費。

この月の閣議で小村外相、中国における帝国主義活動の型を分析。①ロシア:名目上は会社の活動、実質は純然たる政府事業、②英米:民間資本による、③独仏:官民共同。日本は独仏型以上によりロシア型に近い方法が必要と指摘。

10月3日

虚子と碧梧桐連名でロンドンの漱石に、子規終焉の様子を知らせる手紙を書く。


「漱石はすでに「ホトトギス」の九月二十日発行分で子規の死を知っている、という前提で手紙は書かれていた。また子規辞世三句はその後の新聞に掲げられたので、それも承知だろうとしながらも、いちおうあらためてつたえた。・・・・・

子規の臨終の模様は、このように書かれた。


(九月十九日)午前一時頃、余り静かなりとて不図(ふと)手を握り見しに已(すで)にこと切れ居りしといふ有様にて、殆ど薬も間に合はず死去せし有様に候。到底は覚悟致居候ひしも、かく急な事にはとも存ぜざりし者多かりしに、実に何人も悲痛驚愕の外無之(ほかこれなく)候。(・・・)

先日浅井(忠)先生帰朝、一度御尋ね被下候て、大兄の御近状をも聞きたる様子に候。実は御帰朝の日を待ち焦れ居りしものならんと、何事も悲しみの種と相成申候。


筆者はおそらく碧梧桐であろう。

漱石がクラバム・コモンの下宿でこの手紙を読んだのは十一月下旬であった。」(関川夏央、前掲書)

"

「虚子は・・・・・子規の病勢について、


時ニヨリテ軽重アリシモ要スルニ、日ニ月ニ衰弱加ハリ愈身体ノ自由ヲ失ヒ終ニ九月十九日午前一時ヲ以テ永眠仕り候 誠ニ傷マシキ限リニテ兼テ期シタル事ナリシモ今更不覚ノ涙ニ暮レ申候


と悔みにつづいて、遺骸のこと、寺のこと、戒名のこと、葬儀のこと、遺族のことを述べ、漱石の数度の「倫敦消息」について、


大ニ子規子ヲ慰メ候ノミナラズ甚ダ「ホトゝギス」ノ光彩ヲ添へ深ク感佩仕候 其後打続キ御願申上度ハ山々ナレトモ御来書ノ主旨モアリ差ヒカへ居候 子規子既ニ逝ク此上ハ同氏慰籍(ママ)ノ口実モナクナリ候へド御閑暇ノ節一二ノ叙事文御恵送ノ栄ヲ得「ホトゝギス」読者ノ渇ヲ医セシメ度万望ノ至リニ御座候


と謝し、「ホトトギス」の原稿を鄭重に依頼している。また、子規についての回想を認めてくれるよう頼んでいる。虚子は漱石が渡航後の子規について書いている。漱石を送別したときの西洋料理の塩辛かったこと、子規が健啖家だったこと、「日ニ月ニ重り行ク病苦ニ対シ常ニヨク堪へ忍ピタルモノハ全ク善ク食フニアリシコト申上ル迄モ無之候」、しかし、


コノ食欲ハ漸次相滅ジ候ノミナラズ歯ハ次第ニ腐朽シ歯根ニハ膿ヲ持チ硬キモノハ固ヨリ柔カキモノニテモ歯ヲカミシメテ食フコト出来ズ前歯腐朽シテ無クナリタル為メ横臥シテ液体ヲ飲ムニモ困難ヲ感ゼラレ候 殊ニコノ二三ケ月ハ毎日数度ノ下痢ヲ為スニ係ラズ暑サノ為メ滋養物ヲ食フコト能ハズ漬物ニ茶漬ヲ以テ常食卜致サレ候


と、・・・・・子規の衰弱していく実態をリアルに写している。

(略)

・・・・・九月になると、「足部ニ終ニハ脚部全体ニ水ヲ持チ其為メ仰臥ノマゝ僅ニ寝カヘリ出来居タル体全ク右側ヲ下ニ釘付ケトナリ些ノ運動モ出来ヌコトト」なる。この苦悶十余日の後、終に病魔に戦い負け、


骨と皮(顔面ハ恐ロシキ迄ニ痩セ衰へ全ク骨卜皮ニナラレ候、其代り足部ハ子規君ノ所謂仁王ノ足ノ如ク大磐石ノ如キ感有之候)ノ遺骸ヲ残シテ英魂ハ遠ク九天ノ外ニ飛ビ去り候


漱石が子規と別れたころも、子規の衰弱はすでに情を制する力がなく、よく泣きよく怒っていたようだが、その後いよいよ甚だしく、情に激したときには、「涙常ニ頬ヲ伝ヒ」、また、「事々ニツケ家人ヲ叱責」すること後になっては、いよいよ甚だしくなり、虚子らこれを「慰ムルニ辞ナク常ニ困却」し、


コノ半年許リハ三四人ニテ当直ヲ極メ殆ド日毎ニ病牀ニ侍シテ浮世話シ等ニ多少ノ慰籍ヲ与フルコトト致候ヒシモ常ニ談話ノ種ニ欠乏シ閉口致候 門ヲクゞレバ誠ニ惨憺タル光景ニテ東台山梺此ノ病詩人ノ庵ニハ日ハ照ラサヌコトカトウラメシク思ヒシコトモ度々ニ有之候                (『子規全集』一九巻)


漱石も新聞「日本」で「病林六尺」は見たことと思うが、と虚子は言い、


其ニモ時々認メアリタル如ク草花菓物等ヲ写生スルコトヲ非常ノ慰籍卜致シ色ノ出シ具合丸ミノツケ具合ナド中中ウマイモノニ有之シガ其モ五六十日間ノ慰籍ニ過ギズシテ愈死期近ヅキテハ筆ヲ取ルコトハ勿論体ヲネジル事モ出来ズ僅ニ菓物帖草花帖一冊ヅゝヲ残シテ永眠致サレ候 尚可申上事申上度事ハ山ノヤウニ有之候へド一先擱筆致候 匆々頓首」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))

10月3日

セオドア・ルーズベルト米大統領、5月12日以来の無煙炭炭鉱スト調停。

10月6

横浜でペスト発生。

10月6

英・シャム共同宣言。シャムは、ケランタンとトレンガヌの外交権を掌握。

10月6

ローデシア、ブラワヨ-ソールズベリー間鉄道開通。

10月7

香港上海銀行、興業銀行より譲受し、日本の5分利公債5,000万円売り出す。

10月7

二葉亭四迷、ハルビンより北京に到着。外語の同窓生川島浪速の家に落着き、川島が監督する北京の警務学堂の提調(事務長)に就任。月給200円。

10月8

ロシア軍、4月8日の露清満州撤兵協約に従い満州第1期撤兵を実行。但し、遼河以西の部隊を奉天東部に移動させ、鴨緑江沿岸に配備(朝鮮国境の兵力増加)。第2期以降実行せず。

10月9

万朝報に連載中の「椿姫」、風俗壊乱のかどで掲載禁止。

10月9

陸軍懲治隊条例公布。兵庫県姫路に設置。

10月9

フランス、鉱山労働者の3分の2がストライキ。

10月10

アインシュタイン父親、ミラノで没。

10月13

無煙炭炭鉱スト(5月12日~)を行っていた鉱夫側、セオドア・ルーズベルト大統領の調停に同意。16日、大統領、調停委員会任命。21日終結。

10月15

露・清、正太鉄道借款成立。

10月16

埼玉県、利根川火打沼の決壊堤防を放置し、川辺・利島両村の買収を計画(遊水池化のため)。

両村民は、①堤防を自力修復する、②納税・兵役の義務拒絶、を宣言。

12月27日、臨時県会で木下周一知事は廃村計画を断念。翌明治36年3月の第2次鉱毒調査委員会の谷中村遊水地化計画に影響(村名は明記されないが)。

10月18

社会主義協会、万国社会党大会に人種的差別反対提案決議。

10月18

京都高等工芸学校授業開始式。

10月19

早稲田大学開校式。東京専門学校を早稲田大学と改称。


つづく


トランプ氏が100ドル紙幣の顔に? アメリカ共和党下院議員が法案提出(FNN)

 

トランプ大統領「日本の指導者に電話して自国通貨を切り下げ続けてはならないと伝えた」 ⇒ 「石破総理はトランプ大統領と電話会談していない」

2025年3月4日火曜日

図書館がなくなる…突然の表明、厳しい懐事情 問われる「公共とは」(朝日); 「清瀬市の予算規模は…約388億円。このうち、人件費などを含む図書館の予算は1%にあたる約3億8千万円」

大杉栄とその時代年表(424) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走② 「私がチューリヒからパリ経由でロンドンに到着したのは、1902年の秋――たぶん10月――の早朝だった。」(トロツキー『わが生涯』) 「プレハーノフはすぐさまトロツキーを猜疑の目で見た。彼は、トロツキーを『イスクラ』編集部の若手派(レーニン、マルトフ、ポトレーソフ)の同調者、レーニンの追随者とみなしたのだ。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』) 

 


大杉栄とその時代年表(423) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走① 「その頃、私と妻との間にはすでに2人の娘がいた。・・・。私が脱走すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナに二重の重荷を背負わせることになるにちがいなかった。しかし、彼女はたった一言でこの問題を退けた。  『行くべきよ』。  彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1902(明治35)年

10月 

トロツキーの脱走②


 私がチューリヒからパリ経由でロンドンに到着したのは、1902年の秋――たぶん10月――の早朝だった。半ば身ぶり手ぶりで雇った辻馬車は、紙に書いた住所をたよりに目的地まで送り届けてくれた。目的地はレーニンのアパートである。チューリヒであらかじめ教えられていた通り、私はドアノッカーを3回たたいた。開けてくれたのは、ナデージダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤであった。どうやら私のノックでベッドから起き出してきたようだ。時間はまだ早く、文化的な社会生活にもっと慣れ親しんだ人間なら、まだ夜も明けきらないうちに他人の家のドアをノックしたりしないで、1、2時間ほど駅でおとなしく時間をつぶしたことだろう。だが、私はまだ、ヴェルホレンスクから脱出したときの昂ぶった気持ちでいっぱいだった。チューリヒでも同じ荒っぽいやり方でアクセリロートのアパートを騒がせたのであった。もっともその時は早朝ではなく真夜中だったが。

 レーニンはまだベッドの中にいた。その顔は愛想よかったが、無理からぬ当惑の色が交じっていた。私たちの最初の会見、最初の会話はこのような状況のもとで行なわれた。ウラジーミル・イリイチ[レーニン]も、ナデージダ・コンスタンチノヴナも、すでにクレールからの手紙で私のことを知っていて、私が来るのを待っていた。だから、私が着いたとき、『ペローが来た』という声で迎え入れられたのだった。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「そうこうするうちに、サマラから知らせが来た。彼らのところにシベリアからブロンシュテイン(トロツキー)が脱走してきて、彼は非常に熱烈なイスクラ派であり、全員に非常によい印象を与えた、というのだ。『正真正銘の若鷹である』とサマラの同志[クルジジャノフスキー]は書いている。彼らは彼に『ペロー』というあだ名をつけて、『ユージヌィ・ラボーチー(南部労働者)』派と協議するために彼をボルタワへ派遣した。……

 ある日の朝早く、入り口のドアに激しいノックの音が響いた。ノックの音が普段と違ったようになる時は、私たちの所に人が来たのだということを私はちゃんと心得ていた。そして、急いで下に降りてドアを開けた。トロツキーだった。私は彼を私たちの部屋に通した。ウラジーミル・イリイチはまだ目が覚めたばかりで、ベッドの上に横たわっていた。彼ら二人を残して、私は辻馬車の勘定を払いにいき、コーヒーの支度などをした。私が戻った時、ウラジーミル・イリイチはまだベッドに腰掛けていて、トロツキーと何か非常に抽象的なことを盛んに議論していた。そして、『若鷹』についての熱烈な推薦と最初の会話の結果、ウラジーミル・イリイチは新参者を特別注意深く観察するようになった。彼は多くのことを若者と語り合い、彼と散歩に出かけたりした。

 ウラジーミル・イリイチは、トロツキーが『ユージヌィ・ラボーチー』派のところへ行った時のことを根掘り葉掘り尋ねた。――そして、トロツキーの定式化の明快さが気に入った。すなわち、トロツキーが不一致点の要点を即座につかみ、通俗紙という看板の下に自己のグループを維持したいという願望があることを、好意的な声明の皮膜を通して見破ったことが気に入ったのだ。

 ロシアからは、しきりにトロツキーを呼び戻す催促が来ていたが、ウラジーミル・イリイチは、トロツキーが外国に残ってもっと勉強し、『イスクラ』の仕事を手伝うことを希望した。

 プレハーノフはすぐさまトロツキーを猜疑の目で見た。彼は、トロツキーを『イスクラ』編集部の若手派(レーニン、マルトフ、ポトレーソフ)の同調者、レーニンの追随者とみなしたのだ。ウラジーミル・イリイチがプレハーノフにトロツキーの論文を送ったところ、『君の「ペロー」のペンは気に入らん』と返答してきた。ウラジーミル・イリイチは、『文体はどうにでもなる。そして彼には学習する能力があり、大いに役立つことだろう』と答えた。1903年5月、ウラジーミル・イリイチはトロツキーを『イスクラ』の編集部に補充することを提案した。

 トロツキーはまもなくパリに去り、そこで異例の成功を収めた。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』初版「ロンドンでの生活」より)


 「その日の朝だったか、翌日だったか、ウラジーミル・イリイチといっしょにロンドンの街並みを長時間散歩してまわった。レーニンは橋の上からウエストミンスターやその他の有名な建物を教えてくれた。その時レーニンが正確にどう言ったか覚えていないが、『あれが彼らの有名なウエストミンスター[ゴチック様式の国会議事堂]だ』といったニュアンスで語っていた。『彼らの』というのはもちろん、『イギリス人の』という意味ではなく、『支配階級の』という意味である。こうしたニュアンスは、あえて強調したものではなく、すぐれて本能的なものであり、その声色によりはっきりと表れていた。何らかの文化財や新しい成果や、大英博物館の豊富な書籍や、ヨーロッパの大新聞の情報について、あるいは、ずっと後年に、ドイツの大砲やフランスの飛行機について語るとき、レーニンはいつもそういう口調だった。彼らは知っている、彼らは持っている、彼らは何々をした、何々を達成した、だが彼らは敵なのだ! 支配階級の見えない影があらゆる人間文化を覆っているかのように彼の目には映るのであった。そして彼はいつもこの影を白日のようにはっきりと感じとっていた。

 当時の私が、ロンドンの建築物にほとんど関心を持たなかったのはまちがいない。ヴェルホレンスクから初めての外国にいきなりやってきた私にとって、ウィーンもパリもロンドンもきわめて大雑把な印象を与えただけであり、ウエストミンスター宮殿のような『細部』にまで気を配る余裕は、まだなかった。レーニンにしても、もちろん、そんなことのために長い散歩に連れ出したわけではなかった。彼の目的は、私のことをよく知り、それとなく試験することだった。そして試験は実際、『全科目』にわたっていた。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「私はさまざまなことを話した。シベリアでの論争、とりわけ中央集権的組織の問題をめぐる論争のこと、このテーマに関する私の手書きの試論のこと、数週間ばかり滞在したイルクーツクでの古参ナロードニキとの激しい衝突のこと、マハイスキの3つの論文のこと、等々。レーニンは話を聞きだすのがうまかった。

 『それで、理論に関してはどうだったのかね?』。

 私は、モスクワの中継監獄でレーニンの著作『ロシアにおける資本主義の発展』を集団学習したこと、流刑地でマルクスの『資本論』にとりかかったが、第2巻で中断したことなどを話した。われわれは、カウツキーとベルンシュタインとの論争について原典にもとづいて熱心に研究してきた。ベルンシュタインの支持者はわれわれの間では皆無だった。哲学の分野では、マルクス主義とマッハおよびアヴェナリウスの認識論を結びつけたボグダーノフの著作にわれわれは惹きつけられた。レーニンにも、当時はボグダーノフの著作は正しいように思われた。

 『私は哲学者ではないが』とレーニンは不安げにつけ加えた――『プレハーノフはボグダーノフの哲学を、仮面をかぶった観念論の変種だと厳しく非難している』。数年後、レーニンは、マッハとアヴェナリウスの哲学に関する大部の著作を著わしたが、彼らに対するレーニンの評価は基本的にプレハーノフと同じだった。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「私の住む場所としてナデージダ・コンスタチノヴナが案内してくれたのは、数ブロック離れた所にあるアパートだった。そこには、ザスーリチ、マルトフ、それに『イスクラ』の印刷所を管理していたブリュメンフェリトが住んでいて、私のための空き部屋もあった。このアパートは、イギリス式に、各部屋が横にではなく縦に並んでいた。いちばん下の階に女主人が住み、上の各階にそれぞれ間借り人が住んでいた。共同の部屋もあって、住人たちはそこでコーヒーを飲んだり、煙草を吸ったり、いつ終わるともしれぬ雑談にふけったりしていた。その部屋はひどく散らかっていて、その責任は主としてザスーリチにあったが、マルトフにも罪はないとは言えなかった。プレハーノフは、そこを初めて訪れたあと、この部屋を『巣窟』と呼んだ。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


「プレハーノフは、輝かしきマルクス解説者、数世代にわたる教師、理論家、政治家、政論家、演説家であり、ヨーロッパ規模の名声とヨーロッパ規模の人脈を持っていた。プレハーノフと並んで最も大きな権威があったのは、ザスーリチとアクセリロートだった。ヴェーラ・イワノヴナ[ザスーリチ]を指導的地位に押し上げたのはその英雄的な過去だけではない。きわめて明晰な頭脳、広い教養――主として歴史に関するそれ――、たぐいまれなる心理的直観力に恵まれていたからである。『労働解放団』はかつて、ザスーリチを通じて老エンゲルスとつながっていた。また、アクセリロートは、ラテン系の社会主義との結びつきが最も深かったプレハーノフやザスーリチと違い、『労働解放団』の中でドイツ社会民主党の思想と経験を代表していた。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


 「パリではじめてジョレスの演説を聞いた。ちょうどヴァルデク・ルソーが首班の時代で、郵政大臣がミルラン、陸軍大臣はガリフェだった。私はゲード派の街頭デモに参加し、他のデモ参加者といっしょになって、ミルランに向かってあらゆる悪罵を熱心に投げつけた。当時の私は、ジョレスにさしたる感銘を受けなかった。彼は敵だという感覚にあまりにもストレートに支配されていたのだ。それから何年もたってようやく、この偉大な人物を正当に評価することができるようになった。もっとも、だからといってジョレス主義に対する私の態度がいささかでも和らぐことはなかったが。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「『イスクラ』の政治的指導者はレーニンであり、新聞の主要な論説家はマルトフであった。彼は、まるで話すようにすらすらと際限なく書きまくった。当時レーニンはマルトフの最も近しい盟友だったが、レーニンのそばにいるときマルトフはすでに居心地の悪さを感じていた。彼らはまだ『俺、お前』と呼びあう仲だったが、明らかに、両者の間にはすでに冷ややかなものが流れていた。マルトフはレーニンよりもはるかに、今日という日の中で生きていた。時事問題や日々の著述活動、政論、ニュース、会談の中で生きていた。レーニンは、今日の問題に取り組みながらも、明日という日に思いを馳せていた。マルトフの頭には無数の――そしてしばしば機知に富んだ――洞察、仮説、提案がつまっていたが、しばらくすると彼自身そのことを忘れてしまうことも珍しくなかった。それに対してレーニンは、自分に必要なことを、必要なときに捉えた。マルトフの思想は繊細であったが、どこか脆いところがあり、そのためレーニンは一度ならず不安げに頭を振ることになる。政治路線の相違は当時まだ決定的なものになっていなかっただけでなく、表面化すらしていなかった。後に、第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。この呼び名は最初の頃、周知のように大いに流布した。それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。

 レーニンとマルトフに関しては、分裂前でも、また大会前でも、レーニンは『硬派』であり、マルトフは『軟派』であった、と言うことができる。2人ともこのことを承知していた。レーニンはマルトフのことを高く評価していたが、批判的で少し疑わしげな目でマルトフの方をちらっと見ることがあった。マルトフはこうしたレーニンの視線を感じると、気にして神経質そうに痩せた肩をひきつらせるのであった。2人は直接会って話をするときも、もはや友達のような口調で話したり冗談を言ったりするようなことはなかった。少なくとも私の前ではそうだった。レーニンは話しながらマルトフの顔を正面から見ようとしなかったし、マルトフは、きれいに磨かれたためしのない少しずり落ちた鼻眼鏡の奥で生気のない無表情な目をしていた。レーニンがマルトフのことについて私に話すときも、そのイントネーションには独特のニュアンスがあった。

 『なんだって、そうユーリー[マルトフ]が言ったのか』。そんな時、ユーリーという名前は独特な響きで、すなわち、少し強調気味に、まるで警戒するような調子で発音された。『非常に立派な人間だよ。まったく。非凡な人物だと言ってもいい。だけど、何とも温厚すぎるね』。

 さらに、マルトフは明らかにヴェーラ・イワノヴナ・ザスーリチの影響も受けていて、このことは、政治的というよりもむしろ心理的にマルトフをレーニンから遠ざける要因になっていた。(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


 「メンシェヴィキの指導者マルトフは、革命運動における最も悲劇的な人物の1人である。才能豊かな著述家であり、機知に富んだ政治家であり、慧眼な知性の持ち主であったマルトフは、彼が指揮していた思想潮流よりもはるかに優れていた。しかし、彼の思想は勇気を欠き、彼の洞察力には意志が不足していた。回転の早い頭脳はその代わりとはならなかった。事件に対する彼の最初の反応はいつでも革命的志向を示すものだった。しかし、意志のバネで支えられていない彼の思想はすぐに下に沈んでしまう。私と彼との親しい関係は、迫りくる革命の最初の大事件という試練には堪えられなかった。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


つづく



2025年3月3日月曜日

ロバート・デ・ニーロ最高! アカデミー賞授賞式 シンプルな「F」ワードでトランプを強烈批判 喝采を浴びる 言うべき時にそれを言える人がきっちり言う

トランプ氏お気に入りで、保守系のストリーミングメディア「Real America's Voice」のブライアン・グレン氏、とのこと。— Shoko Egawa / トランプ、ゼレンスキーの服装にまで難癖をつける。 / ロシアに侵略されてからゼレンスキー大統領は戦地で戦う国民に寄り添うため戦闘服しか着ないと誓っており、バイデンと会談した時もそうだった。 / 「なぜスーツを着ない?」とゼレンスキーを侮辱し、周りの取り巻き連中もせせら笑っている。ゼレンスキーを「物乞いにきた小国の哀れな男」と見下している。 / トランプ氏、ゼレンスキー氏の服装やゆ 記者も加担(日経);  ホワイトハウスに到着したゼレンスキー氏を「きょうはめかし込んできたな」とやゆ。米記者もからかうように「スーツは持っているか」と質問しました。         



 

米国民の52%、ウクライナを支持 46%はトランプ氏がロシア寄りとの見方(CNN);「世論調査によれば、ロシアとウクライナとの戦争について、52%がウクライナ側につくと答えた。ロシアを支持するとした人の割合は4%にとどまった。...トランプ氏の言動について、46%がロシア側に好意的だとみている。...ウクライナに好意的と考えている人の割合は11%だった。」

 

大杉栄とその時代年表(423) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走① 「その頃、私と妻との間にはすでに2人の娘がいた。・・・。私が脱走すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナに二重の重荷を背負わせることになるにちがいなかった。しかし、彼女はたった一言でこの問題を退けた。  『行くべきよ』。  彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

シベリヤから脱走したトロツキー(1902年夏)

大杉栄とその時代年表(422) 1902(明治35)年10月 漱石のスコットランド旅行 「彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』) より続く

1902(明治35)年

10月

〈トロツキーの脱走①〉


トロツキー(23)、流刑地を脱走、チューリッヒ~パリ経由10月頃ロンドン到着

レーニン・クルプスカヤ夫妻と会い『イスクラ』の協力を始める。この頃よりトロツキーを名乗る。

レーニン宅から数ブロック離れたアパートに、マルトフ、ヴェラ・ザスリッチと住む

(経緯)

この年夏頃より、流刑地に「イスクラ」やレーニン「何をなすべきか」が届く。

秋の近づく頃、妻と娘2人を残して脱走。シベリアには古い世代の革命家の影響をうけた農民達が政治犯脱走を支援。

シベリア鉄道を西に向かい、サマラで暫く滞在。ここに「イスクラ」の国内(非亡命者の)司令部がある。トップは技師グルジジャノフ(1905年、運動からはなれ、後復帰。スターリン体制下ゴスプラン議長)。ここで「イスクラ」派(1898/3第1回党会議後壊滅した社会民主労働党を「イスクラ」の思想と方法で再建をめざす)組織に参加。ハリコフ、ポルタワ、キエフを往来。

早く国外に出すようにとのレーニンの催促により、グルジジャノフスキーは旅費とカーメネツ・ポドリスク方面でオーストリア国境を越える指示を与える。ブローティの町で国境を越えるがチューリッヒまでのお金が不足。

ウィーンでオーストリア社会民主党指導者ヴィクトル・アドラーに面会、支援を得る。

ロンドンでは、亡命者の長老チャイコフスキーや老アナキストのチュルケーゾフと論争。講演の手配などはアレクセーエフが行う。

レーニンは大英博物館で多くの時間を過ごす。


〈トロツキー『わが生涯』より〉


 「その頃、私と妻との間にはすでに2人の娘がいた。下の娘[ニーナ]はまだ生後4ヵ月であった。シベリアでの生活は生やさしいものではなかった。私が脱走すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナに二重の重荷を背負わせることになるにちがいなかった。しかし、彼女はたった一言でこの問題を退けた。

 『行くべきよ』。

 彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。私たちが新しい大きな課題を自覚したとき、私の脱走という考えを最初に言いだしたのは彼女の方だった。この選択を前にして生じたさまざまな懸念を、彼女はすべて取りのぞいてくれた。」


 「脱走後、数日のあいだ彼女は私の脱走を警察の目からまんまとごまかすことに成功した。国外に着いてから、私はほとんど彼女と連絡をとることができなかった。その後、彼女には第二の流刑が待っていた。後年、私と彼女とはたまの機会にしか会うことがなくなった。生活は私たちを引き離したが、思想的なつながりと友情とはけっして破られることなく続いた。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)


 「秋が近づき、泥濘期が迫っていた。私の脱走を早めるために、二つの順番を一つにすることが決定された。仲間の農民が、マルクスの翻訳者であるE・Gという女性といっしょに私をヴェルホレンスクから連れ出してくれることになった。夜になって、野原で、その農民は荷馬車の乾草とむしろの下に私たちを隠し、荷物のように見せかけた。同じ頃、警察の目を数日間ごまかすために、私の家では、病人に見せかけた人形に毛布をかぶせておいた。御者は私たちをシベリア式で、すなわち時速20ヴェルスタものスピードで運んでくれた。私は、背中に感じる道のくぼみを一つ一つ数えながら、隣の女性の圧し殺した息づかいを聞いていた。途中で2度ばかり馬を取りかえた。鉄道に到着する前に、2人がいっしょにいることで失策や危険を倍加させないよう、私と連れの女性とは分かれ分かれになった。私はとくに危険な目に会うこともなく列車に乗り込むことができた。その列車にイルクーツクの仲間が、糊のきいたシャツやネクタイなど文明を象徴する品々のつまったトランクを届けてくれた。私の手には、グネディチが1行6脚のロシア語に訳したホメロスの詩集があった。ポケットには、私が何の気なしにトロツキーと署名した旅券が入っていたが、よもやそれが私の生涯の名前になるとは、その時は夢にも思わなかった。

 私はシベリア鉄道で西に向かった。主要駅に配置されている憲兵たちは、私がそばを通り過ぎていっても無関心であった。大柄のシベリア女たちが、ローストチキンや子豚、ビン入りの牛乳、大量の焼きパンを駅に持ち込んでいた。どの駅も、シベリアの豊かさを誇示する展示会のようだった。列車に乗っている間ずっと、どの車両の客もお茶を飲み、安いシベリア産の丸パンを食べていた。私はホメロスの詩集を読んだり、外国に思いを馳せたりしていた。脱走行には、ロマンチックなものは何もなかった。それは、ひたすらお茶を飲むことで明け暮れた。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)


「私はサマラにしばらく滞在したが、そこには『イスクラ』の国内司令部、すなわち非亡命者による司令部があった。そしてそのトップにいたのは、クレールという変名を持ったクルジジャノフスキー(現ゴスプラン議長)という技師であった。彼とその妻は、1894~95年にはペテルブルクで、その後もシベリアの流刑地で、レーニンの仲間として社会民主主義運動に従事していたが、1905年革命の敗北後まもなくして、『クレール』は他の数千の活動家とともに党を離れ、技師として、産業界で非常に高い地位についた。当時、地下活動家たちは、かつては自由主義者でさえ与えてくれた程度の援助すらクルジジャノフスキーが拒否したことに、不満をこぼしたものだった。10~12年の中断ののち、党が権力を握ると、クルジジャノフスキーはいそいそと党に復帰した。これが、現在スターリン体制の中枢を担っているインテリゲンツィヤの非常に多くの部分がたどった道である。

 そのサマラにおいて私は、クレールがつけてくれた『ペロー』[ロシア語でペンの意味]という変名で、いわば公式に『イスクラ』組織に加わった。これは、シベリアで私がジャーナリストとして活躍したことに敬意を表してつけてくれたものだった。……

 サマラの『イスクラ』ビューローの依頼で、私は、すでに『イスクラ』組織に入っている革命家や、あるいは、これから獲得しなければならない革命家たちと会うために、ハリコフ、ポルタワ、キエフを訪れた。だが、あまり成果のあがらぬままサマラに帰ってきた。南部での結びつきは組織的にまだまだ弱く、ハリコフでは連絡先の住所が間違っており、ポルタワでは地方的愛国主義の壁にぶつかった。短期の旅行ではらちが開かないのであり、必要なのは本格的な活動だった。そうこうするうちに、サマラのビューローと頻繁に連絡を取り交わしていたレーニンは、私を早く国外に寄越すようせきたててきた。クレールは私に旅費を渡し、カーメネツ=ポドリスク方面でオーストリア国境を越えるのに必要な指示を与えてくれた。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)


「 ウィーンで何よりもびっくりしたのは、学校でドイツ語を勉強していたにもかかわらず、私の言うことが誰にも通じなかったことである。道ゆく人をつかまえて話しかけても、ほとんどの人は肩をすくめるばかりであった。それでも何とか、赤い帽子をかぶった老人に、『アルバイター・ツァイトゥング(労働者新聞)』の編集部に行かねばならないことをわからせることができた。私は、オーストリア社会民主党の指導者ヴィクトル・アドラー本人に会って、ロシア革命の利益のためにただちにチューリヒに赴かなければならないのだと説明するつもりだった。案内の老人は私を目的地に連れていくことを引き受けてくれた。われわれは1時間ほど歩いた。だが、目的地に着いてみると、編集部はすでに2年も前に別の場所に引っ越していた。さらに30分ほど歩いた。やっと探し当てた編集部の窓口係は、面会はできないと無情に告げた。案内してくれた老人に払う金もなく、空腹でしかたがなかったし、何よりもチューリヒに行かなければならなかった。・・・・・

(略)

 私を迎え入れてくれたのは、背の低い、ほとんどせむしのような猫背の男で、疲れた顔に腫れぼったい目をしていた。ちょうどウィーンでは州議会選挙の真っ最中で、アドラーは、前日もいくつかの集会で演説をし、夜には論文やアピール文を書いていたのだ。こうした事情は、アドラーの息子の細君から一五分ほど後に聞いた話である。

 『せっかくの日曜の休息をお邪魔して申し訳ありません、博士…』。

 『ふむ、それで、それで…』。その口ぶりは、表面的には厳しそうだったが、人を怯えさせるものではなく、先を促すような調子だった。この人物の顔に刻まれたすべてのシワから知性が感じられた。

 『私はロシア人で…』。

 『うむ、それは言わなくてもけっこう。すでにわかっていました』。

 視線をすばやく走らせながら私を観察している博士に、私は編集部の入り口で交わした会話のことを話した。

 『何ですって? あなたにそう言ったんですか? 誰だろうな? 背の高い男? 大声で? ああ、それはアウステルリッツだ。大声で、と言いましたよね。アウステルリッツですよ。彼の言ったことをあまり本気でとらないでくださいよ。ロシアから革命のニュースを持ってきたのなら、夜中でもわが家の呼び鈴を鳴らしてくださいよ。カーチャ、カーチャ!』、彼は突然大声で呼んだ。息子の細君が入ってきた。ロシア人だった。

 『さあ、これであなたの用件はうまく運ぶでしょう』、そう言ってアドラーは私たちを残して部屋を出ていった。

 こうして、それから先の私の旅は保証された。(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)


 「アクセリロートはトロツキーにいくばくかの金を与え、パリ経由でロンドンヘ旅立たせた。トロツキーはパリからロンドンまで2ヶ月かかっている。われわれは彼を献身の巡礼の途上にある若者として記述しているが、しばらく立ちどまって、2ヶ月かかったという事実を説明する必要がある。パリには、いつもロシアの革命的亡命者の居留地(コロニー)があった。そこには、他のコロニーと同じく、『イスクラ』派のグループが存在した。このグループにはロシアからの新しい移住者や亡命者を歓待する一種の非公式委員会があって、その当時、この委員会の長はナターリア・イワノーヴナ・セドーヴァだった。彼女は闘志を内に秘めた物静かな少女で、頬骨が高く、少し悲しそうな眼をしていた。貴族の出身だが、子どものころからの反逆者だった。ハリコフの寄宿女学校時代、彼女は、お祈りに出席することを拒否して聖書の代りにチェルヌイシェフスキー[ロシアの革命的ナロードニキ]を読むようクラス全体を説き伏せた。その後、モスクワ大学へ進学し、さらに知識と革命の仲間を求めてジュネーブヘおもむいた。そして、プレハーノフを中心とするジュネーブのサークルにそのどちらをも発見したのだった。彼女は『イスクラ』組織のメンバーになり、トロツキーがパリで会ったとぎには、彼女はすでに非合法文書を運ぶためにロシアヘ旅行した経験があった。

 亡命者を歓待する彼女の仕事というのは主に、彼らに住むための安い部屋を探してやることであり、いちばん安いレストランヘ案内してやることであった。そして彼女がトロツキーのために見つけてやった部屋は、通気孔のある押し入れに毛が生えたようなものだった。彼のためにこの部屋を手配してから、階段を降りてきたときに、彼は彼女に出会ったのである…。

 真に良心的な伝記作家なら数章を費すくらいのロマンスがたっぷりあっただろう、と私は想像する。彼の少年時代に少女との関係を特徴づけていた、素気なさで隠した羞恥心を、彼はしだいに捨てたらしい。あるいは、彼は羞恥心をまだ十分に持っていて、それが抗しがたい魅力となっていたのかもしれない。そして、若いころの彼を知っている人々の記憶している彼の評判から判断すると、この重大問題では、彼はエンゲルス派であって、マルクス派ではなかった。したがって、最も重要なことは、トロツキーが、彼の部屋から降りてきたこの少女とばったり出会って恋に落ちたことにあるのではなく、彼が彼女と非情に深く心の通いあった友情をつくりあげ、今日までいっしょに暮しているという事実である。

 ナターリア・イワノーヴナは、厳格な法的解釈からすれば、トロツキー夫人ではない。トロツキーはまだ、ブロンシュテインを名乗っているアレクサンドラ・リヴォーヴナと離婚していないからである。ナターリア・イワノーヴナは、トロツキーの最も親密で最良の友人であり、日々ともに生きている伴侶である。彼女は彼の息子たちの母親である。…そして、同時代の一伝記作者の対象ではない多くの事柄を総括すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナもまた彼の友人なのである。」(マックス・イーストマン『若き日のトロツキー』より)


つづく

2025年3月2日日曜日

大杉栄とその時代年表(422) 1902(明治35)年10月 漱石のスコットランド旅行 「彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』)

 

スコットランドで漱石の泊った宿

大杉栄とその時代年表(421) 1902(明治35)年9月23日~10月 大杉栄(17)、本郷会堂で海老名弾正から洗礼を受ける。「とにかく僕は先生(本郷会堂の海老名弾正)の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髭をしごいてはその手を高くさしあげて、『神は……』と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。」(大杉栄「死灰の中から」) より続く

1902(明治35)年

10月

漱石、スコットランド(ハイランドの中心部にあるピトロクリイ)を旅行。


「十月初旬、 Scotland (スコットランド)に旅行する。 Pitlochry (ピトロホリ Edinburgh (エディンバラ)の西北百キロ)の John Henry Dixon の Dundarach 屋敷に滞在する。 Scotland から London の岡倉由三郎宛手紙に、病気にかこつけて、過去の一切から解放され、気楽に毎日を送っている。十一月七日(金)の日本郵船を予約したため宿の主人からは二、三週間滞在を延長するように勧められたけれども、何時までもいることはできぬ、ロンドンに帰ってお目にかかりたいと伝える。」


「十月末から十一月初めの間(月日不詳)、 Pitlochry (ピトロホリ)から London に帰る。」(荒正人、前掲書)


「坂元雪鳥の「修善寺日記」(明治四十三年八月二十三日)に、「・・・・・蘇格土蘭土(スコットランド)を旅行した時山路で馬車で通つてるとね、道端の木にチヨイチヨイと飛んで遊んでた〔栗鼠〕可愛いもんだね、彼處邊(あそこいらへん)の様な田舎は日本にはないね、實に気持ちが宜いんだよ、一寸田舎町に出ると、夫が又實に綺麗でね、神楽坂なんかよりズツと整つてるし道は宜いしね」また、漱石の塩原行きの日記(大正一年八月十七日)に「いゝ路なり蘇格土蘭土を思ひ出す」とある。これは、 Pitlochry から Pass of Killiecrankie (キリクランー)の古戦場に向う時の体験であったと思われる。泊っていた場所はよくは分らぬが、 Pitlochry の近くの高地にある屋敷ではなかったかと思われる。北に聳える Ben Vrackie (ベン・ヴラッキー山 八百三十メートル強)から西南四キロ弱の地点にある Craigower (クレーガワー山 三百九十五メートル強)の麓を Lake Faskally (ファスカリー湖)に沿って、西北に六キロほど行った所に、 Pass of Killiecrankie の古戦場がある。一六八九年七月二十七日糊、 Dandee (ダンディー)伯爵の率いるジャコバイト党と William Ⅲ (ウィリアム三世)側の Hugh Macay (ヒユー・マッケー)将軍が戦い、前著は後者を山道に追いつめ、多数の死傷者と溺死者を出す。他方、 Dandee 伯爵は戦死する。 - 漱石は Pass of Killiecrankie の古戦場を訪れて、こんな歴史に興味を寄せていたかもしれぬ。『イギリスの園藝』〔談話〕の「花」に「スコットランド邊へ行くと、大概な百姓屋にでも培養されて居る」とあるのは、菊のことである。」(荒正人、前掲書)

Pitlochry と Dundarach 屋敷


「 King's Cross Station (キングス・クロス停車場)から午前十時に出発する急行列車 Scotman に乗ったものと推定される。これは、 Edinburgh (エディンバラ)までである。 Pitlochryまでは、普通列車が通じていたと推定される。 Sidlaw Hills (シッドロー丘陵)の西端に近い Perth (パース)から北上し、鉄道の分岐点 Stanley (スタンレー)から西北に進んだものと推定される。 Pitlochry の西には、 Lake Faskally (ファスカリー湖)があり、湖水地方の一角である。美しい風景に囲まれた避暑地として名高い。漱石は Pitlochry を「ピトロクリ」と書いている。現地でも、「ピトロクリ」と発音するらしい。(角野喜六)一応、発音辞典に従い「ピトロホリ」とする。」


「現在は、 Dundarach Hotel になる。当時は、 John Henry Dixon という貿易商の建てた日本趣味の建物であった。 John Henry Dixon は、東洋貿易で成功し、一八九八年に Pitlochry に移り住む。日木趣味の人で、庭師四人・大工二人・料理人一人・友人一人の八人の日本人と共に住む。屋敷の一角には、日本庭園があった。これらの日本人は、一九二四年帰国する。 Dundarach Hotel となったのは、一九三五年である。」(荒正人、前掲書)


「スコットランド旅行

彼がスコットランドへ旅行したのは自転車稽古に励んだ後、十月初句と思われる。彼はロンドンの暮らしが嫌になり、美しい自然に憧れていた。彼を招待した英国人は、平川祐弘「漱石を抱いてくれた英国人」(番町書房『作家の世界 夏目漱石』所収)や、角野喜六『漱石のロンドン』(荒竹出版)、稲垣瑞穂『漱石とイギリスの旅』(吾妻書房)などによって、明らかにされた。それらによると、漱石が滞在したのはこの地の名士で、弁護士のJ・H・ディクソンなる親日家である。彼はイングランド出身だが、この地を愛し、さまざまな慈善事業やボーイスカウトなどの役員を務めていた。彼はピトロクリーの風物を愛し、一九〇二年からピトロクリーのダンダーラック(樫の木の要塞の意)の邸に住み、日本庭園の大改装を行った。彼は最初の世界旅行(一八九九-一九〇二)で日本に長期滞在し、日本庭園や絵画に魅せられたという。漱石が招かれたのは、まさに現地人がディクソンの指示で改装を終えたころだった。ロンドンで「日本協会」が結成されたのは明治二十五年一月、二十七年には名誉会員、通信会員を含めて四百六十二名に達しでいたという(『時事新報』明治二十七年二月十六日)。もちろんディクソンは会員であり、自分が実見した日本庭園を構想したのである。彼は「日本の有力な美術家数人とも親交があった」というから、その一人は岡倉の兄、天心で、弟にそのことを伝えたとも考えられるし、『永日小品』の「過去の臭ひ」のK(長尾半平、前出)が「蘇格蘭(スコットランド)から帰って来た」という書き出しが事実だとすれば、長尾がスコットランドの良さを漱石に吹きこんでいたとも言える。その両要素が重なり合って、日本の言語、文学、歴史、稗史(はいし)、美術工芸及び古今の風俗を研究する日本協会が、条件に適する漱石をピトロクリーのディクソンの許に送ったのではないか。もちろん、これはまだ一つの臆説にすぎない。

彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


蘇国(スコットランド)に招待を受けて逗留せるは宏壮なる屋敷なり。ある日主人と果園を散歩して、樹間の径路悉く苔蒸せるを看て、よき具合に時代が着きて結構なりと覚めたるに、主人は近きうちに園丁に申し付けてこの苔を悉く掻き払う積なりと答えたるを記憶す」(漱石『文学論』)


 ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途で包んで、じかには地にも落ちて来ぬ。といって、山向うへ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ちついて、じっと動かずに靄んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔むかし、二百年の昔にかえって、やすやすと寂びてしまう。人は世に熟れた顔を揃えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、ある時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透せて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。

 自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日があたる。幾年十月の日が射したものか、どこもかしこも鼠色に枯れている西の端に、一本の薔薇が這いかかって、冷たい壁と、暖かい日の間に挟まった花をいくつか着けた。大きな弁は卵色に豊かな波を打って、萼(がく)から翻えるように口を開あけたまま、ひそりとところどころに静まり返っている。香いは薄い日光に吸われて、二間の空気の裡に消えて行く。自分はその二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上って行く。鼠色の壁は薔薇の蔓の届かぬ限りを尽くして真直に聳えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄の奥から落ちて来る。
 足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥かの下が、平たく色で埋まっている。その向う側の山へ上ぼる所は層々と樺の黄葉が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。明らかで寂びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿(うね)って動いている。泥炭を含んだ渓水は、染粉を溶いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
 うしろから主人が来た。主人の髯は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形装なりも尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥の膝掛のように粗い縞の織物である。それを行灯袴(あんどんばかま)に、膝頭まで裁って、竪(たて)に襞(ひだ)を置いたから、膝脛(ふくらはぎ)は太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。
 主人は毛皮で作った、小さい木魚ほどの蟇口(がまぐち)を前にぶら下げている。夜煖炉の傍へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、この木魚の中から、パイプを出す、煙草を出す。そうしてぷかりぷかりと夜長を吹かす。木魚の名をスポーランという。
 主人といっしょに崖を下りて、小暗い路に這入った。スコッチ・ファーと云う常磐木の葉が、刻み昆布に雲が這いかかって、払っても落ちないように見える。その黒い幹をちょろちょろと栗鼠(りす)が長く太った尾を揺って、駆け上った。と思うと古く厚みのついた苔の上をまた一匹、眸から疾(と)く駆け抜けたものがある。苔は膨れたまま動かない。栗鼠の尾は蒼黒い地を払子(ほっす)のごとくに擦って暗がりに入った。
 主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指さした。黒い河は依然としてその真中を流れている。あの河を一里半北へ溯るとキリクランキーの峡間があるといった。
 高地人ハイランダースと低地人ローランダースとキリクランキーの峡間で戦った時、屍が岩の間に挟まって、岩を打つ水を塞いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
 自分は明日早朝キリクランキーの古戦場を訪とおうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散っていた。」(漱石『永日小品』「昔」)



つづく


2025年3月1日土曜日

鎌倉 本覚寺の河津桜が見頃 鎌倉市役所傍と若宮大路の玉縄桜は三分咲き前後 2025-03-01

 3月1日(土)晴れ

どうなってるのか? 4月上旬並みの陽気。

そして、2日後からは暫く真冬の気温で、雪が降るかも、、、とか。

そんな中で、遅れていた河津桜がようやく見頃を迎えてきた。玉縄桜はちょっと遅れて三分咲き前後。

このあと、ソメイヨシノまでに、寒緋桜、オカメサクラ、コヒガンザクラが登場する筈だが、その辺りのタイミングはどうなるのか、やや楽しみではある。

▼鎌倉、本覚寺の河津桜が見頃

まだ蕾も多いけれど、見頃と言っていいほど咲き揃ってきた。

今日はメジロと遭遇せず。




▼鎌倉市役所傍の玉縄桜、三分咲きくらいかな?

▼若宮大路の玉縄桜、こちらは、まだ三分咲きには届かない感じ





▼自宅近くの遅咲きのウメにウメジロー


【動画も】トランプ氏とゼレンスキー氏 激しい口論 合意至らず(NHK) / 侵略された国が悪者にされるという悪夢 / そもそもトランプがプーチンの代理人になって「プーチンが望む和平」をウクライナとゼレンスキーに押し付けようとしていること自体が極めて異常 / 「外交上極めて異例の決裂劇の背景には、弱い立場にいる交渉相手に過大な要求を突きつけて実利を得る自身の交渉術が奏功しなかったことへのいらだちがある」(日経) / 「お前たちは勝てない」とトランプ氏 米ウクライナ首脳会談が決裂、記者団を前に口論も(産経);  トランプ氏は、ロシアに抵抗するゼレンスキー氏を「第三次世界大戦を起こす危険を招いている」などと罵倒した。 / ホワイトハウス報道官のキャロライン・リービットが「ゼレンスキーがトランプ大統領への謝罪を拒否した」と非難している。 / 「前例のない事態が勃発した。和やかな雰囲気は、辛辣な対立に代わり、室内は混乱に陥った。大勢が声を荒げ、状況にあきれ果て、中傷が飛び交った。そのすべてが世界中のテレビカメラの前で行われた」(BBC)       



 

プーチン大統領 併合したウクライナ4州で米と資源開発の用意(NHK)

 

【全てはディール!】 「今でも、ゼレンスキーが独裁者だと思っていますか?」という質問に対し、 「そんなこと言ったかな? 私がそんなこと言っただなんて信じられない。 はい次の質問」。 と、トランプ大統領。 / 支援と同額の見返り要求 トランプ氏、ウクライナに(時事) ← もうそれ、支援とは言えない(レアメタル狙いの火事場泥棒) / 米、ウクライナのスターリンク遮断警告か(共同通信);「トランプ米政権がウクライナに対し、希少な鉱物資源供与に合意しなければウクライナ軍が情報通信に使うインターネット接続サービス「スターリンク」を遮断する可能性があると警告」 / 「ロシアは全土占領可能」 - トランプ氏侵攻責任認めず(共同) / トランプ氏、ロシアとの戦争は「ウクライナが始めた」と主張(CNN) / 「ゼレンスキー氏は独裁者」 - トランプ米大統領がロシアに同調(共同) / 【そもそも解説】ウクライナ、なぜ選挙しない? 大統領の正統性は?(朝日) / ゼレンスキー大統領“トランプ氏は偽情報の空間に生きている”(NHK) / ロシア、トランプ氏称賛 「ウクライナ戦争の主因はNATO」(ロイター) / 英首相、ウクライナ大統領に支持表明 「民主的に選ばれた指導者」(ロイター) / ゼレンスキー氏は「大統領」 トランプ氏の独裁者批判で―林官房長官(時事)        

 



 

大杉栄とその時代年表(421) 1902(明治35)年9月23日~10月 大杉栄(17)、本郷会堂で海老名弾正から洗礼を受ける。「とにかく僕は先生(本郷会堂の海老名弾正)の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髭をしごいてはその手を高くさしあげて、『神は……』と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。」(大杉栄「死灰の中から」)

 

海老名弾正

大杉栄とその時代年表(420) 〈子規没後の子規山脈⑤終〉 「司馬遼太郎は、明治的時代精神の代表的人物として、明るく多弁で、仕事を自分の命よりも尊重した感のある子規を好んだ。・・・・・司馬遼太郎は昭和五十六年、『ひとびとの跫音』という不思議な小説を刊行した。それは、子規関係者のその後の生の営みをえがいた静かな「歴史小説」であった。・・・・・ 司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。」(関川夏央、前掲書) より続く

1902(明治35)年

9月23日

ロシア皇帝ニコライ2世、フィンランド自治権剥奪。ロシア人総督任命。

9月24日

この日の社会主義学術講演会には巡査8人と探偵7人が会場に乗りこんで監視し、無事に話し終えたのは安部磯雄と木下尚江だけだった。

太田雅夫『初期社会主義史の研究-明治三〇年代の人と組織と運動』では、その原因は堺が『萬朝報』に書いた「社会主義と元勲諸老」だったと指摘している。堺はこの論説で矢野龍渓の『新社会』を取り上げ、元勲たちが社会主義に対して深い恐れを抱き、慌てているように見えることを皮肉っていた。

9月24日

イラン、ホメイニ師、誕生。

9月25日

四川省の煤油鉱務合弁し、清仏和成公司成立。

9月25日

官設鉄道と関西鉄道(株)、名古屋-大阪間の客貨争奪戦争について協定覚書を交換。競争は一応終結。

9月25日

山陽鉄道、日本郵船(株)と契約して1、2等船客の希望により神戸-下関間の船車振替乗車券を販売。

9月27日

英の東アフリカ保護領(現ケニア、ウガンダ東部)で、王領地条例公布。

9月28日

関東大洪水。関東・東北地方に暴風雨。特に小田原・国府津の津波、足尾銅山の山崩れの被害が甚大。

9月29日

仏、エミール・ゾラ(62)、没。、一酸化炭素中毒。


10月

大杉栄(17)、東京中学校と順天中学校の試験を受ける。順天中学は「下宿の息子の友達(早稲田中学卒業)」に替え玉で受けてもらう。東京中学は不合格、順天中学は合格。神田区中猿楽町の順天中学5年に編入。

友人の登坂高三と本郷区壱岐坂下の下宿屋・甲武館に入る。

本郷会堂で海老名弾正から洗礼を受ける


「僕と一緒にこの順天中学校へはいった友人に登坂というのがいた。やはり僕と殆ど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から遂われて来たのだった。

この登坂とは、その年の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷の幼年学校の面会室で出遭った。そして彼から、新発田の旧友で同時に幼年学校へはいった谷という男ともう一人とが、やはり彼と一緒に退学させられたことを知った。四人はすぐ友達になった。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じような理由で大阪の幼年学校を退学させられた、島田というのともう一人と、どこかで落ちあって、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。

みんなはその名誉回復のためというので、互いに戒めて勉強を誓った。そしてその年の九月十日にみんなどこかの中学の五年にはいった。

その中でも登坂と僕とは、最初に出遭った関係からか、またお互いに文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合ったりしたせいか、一ばん近しくなって、殊に一緒に順天中学へはいるとすぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。

二人とも学校の方もよく勉強したが、小説もずいぶんよく読んだ。坂上にちょっとした貸本屋があって、そこから借りて来るのだが、暫くの間にその貸本屋の本を殆どみな読んでしまった。」(自叙伝-母の憶い出・四)

「壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには小説のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引きつづいて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでいた。矢野竜渓の『新社会』は矢来町時代に、丘博士の『進化論講話』は壱岐坂下時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰り返しては愛読した。-『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページ毎に目の前に開けて行くのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにしてその一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本で始めて目覚めさせられた。そして同時に、またすべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいり易くさせた。

『なんでも変らないものはないのだ。旧いものは倒れて新しいものが起きるのだ。いま威張っているものがなんだ。すぐそれは墓場の中へ葬られてしまうものじゃないか』」(自叙伝-母の憶い出・四)


丘博士の『進化論講話』や矢野竜渓の『新社会』等をくりかえして読んで「何でも変らないものはない、旧いものが倒れて新しいものが起きる」と自覚はしたが、「僕にはまだ何かの物足りなさがあった。母が死んだ、というようなことも殆ど忘れたようにはしていたが、意識の中ではよほどさびしかったにちがいない。ー 友人といえば、幼年学校の落武者だけだったが、それも同じ境遇から互いに励み合ったというほどのこと ー たぷんそんな餓えを充たすためだったのだろう、僕はよく飯倉の親戚の家へ出かけた ー しかしそこの人達はみな男も女も綺麗ではあったが、その顔も心も冷たかった。殊に僕が幼年学校を逐いだされてからは、なおさらそのような気がした。」そして「そんな寂しさがきっと主になって、そしてそのほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求が手伝って」キリスト教会へ行くことをはじめた。

「順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行きはじめた。そして下宿から一ばん近い、またお説教の一ぽん気に入った、海老名弾正の本郷会堂で踏みとどまった。海老名弾正の国家主義に気がついたのかつかなかったのか、それともまだ僕の心の中に大ぶ残っていたいわゆる軍人精神とそれとがあったのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髭をしごいてはその手を高くさしあげて、『神は……』と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。・・・先生はよく『洗礼を受ける』ことを勧めた。『いや、まだキリスト教のことがよく分らんでもいい。洗礼を受けさえすれば、すぐによく分るようになる』と勧めた。僕はかなり長い間それを躊躇していたが、遂に洗礼を受けた。その注がれる水のよく浸みこむようにと思って、わざわざ頭を一厘がりにして行って、コップの水を受けた。(「死灰の中から」)


永井荷風(23)『新任知事』(「文芸界」)。叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたとされ、これがもとで阪本は荷風を絶縁する。荷風の権力に対する反骨精神の反映。


つづく


大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX(更新中)】

大杉栄とその時代年表

大杉栄が生きた時代(1885(明治18)年1月17日~1923(大正12)年9月16日)を年表で辿る。

この年表では、ところどころで、同行・伴走する以下の人物が登場します。それらの人物の、大杉栄が生まれた1885(明治18)年時点での年齢は以下の通り。

永井荷風(6歳)、樋口一葉(12歳)、幸徳秋水(15歳)、「七人の旋毛曲り」(18歳)夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨

尚、この1885年の前年(明治17年)11月9日には、秩父困民党軍が馬流の戦いで海ノ口に敗走し、野辺山原において解体する、そんな時代でした。

(参考)

★秩父蜂起インデックス 秩父蜂起に関する記事一覧


1885(明治18)年

1月

漱石(18)は我儘だけれど傑物だとの評判


「一月(推定) (月日不詳)、塩原昌之助に予め通知して昌之助・かつ、女中・婆やたちに外出してもらい、すき焼の材料をとり揃えて、用意だけして貰う。午後三時から、友人二、三人を連れて、すき焼を食べに行く。夜、昌之助とかつが婦ると、食べ散らかしたままになっていたのであきれる。金之助は、我儘だけれども傑物だという評判が立ち、昌之助・かつは喜ぶ。直克のほうでは、金之助を養子にやらなかったほうがよがったと残念に思い始める。(関荘一郎)」(荒正人『漱石研究年表』)


〈この時、漱石、大学予備門に在籍中〉

前年(明治17年)9月11日 漱石、子規、大学予備門(明治19年4月に第一高等中学校と改称)予科に入学。校長杉浦重剛、授業料1学期2円。同級に中村是公、橋本左五郎、芳賀矢一、山田美妙、菊地謙二郎、南方熊楠。


「首尾よく予備門に合格した。その入試のとき、彼は数学の問題だけは隣の人の答案を見て書いたと語っている(「一貫したる不勉強」)。隣の人とは成立学舎で一緒で、のちに札幌農学校(北海道大学の前身)教授となる橋本左五郎である。橋本は皮肉にもこの試験に落ち、再試験で合格はしたが、結局札幌農学校に行った。橋本とはのちに満州で出会い、旧交をあたためることとなる(『満韓ところどころ』)。金之助の「カンニング」を、橋本は自分が紙を机一杯に拡げでいたので、偶然見えたのだろうと回想している。」(岩波新書『夏目漱石』)


「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしてゐた事がある。其時は間代を払つて、隔日に牛肉を食つて、一等米を焚いて、夫で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵(こしら)へて、其中に浮かして食つた。十銭の牛を七人で食ふのだから、斯うしなければ食ひ様がなかったのである。飯は釜から杓つて食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余は此処で橋本と一所に予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本から教へて貰って、其御蔭でやつと入学した。所が教へた方の橋本は見事に落第した。」(『満韓ところどころ』)


「予備門では柴野(のち養子になり中村)是公や、芳賀矢一(一緒の船でヨーロッパへ留学)らと親しくなった。特に是公は、太田達人とともに生涯の親友で、後に南満洲鉄道(満鉄)総裁として名士となった。太田は成立学舎以来の友人で、東大物理学科を卒業後、地方の中学校長を歴任したので、是公のように華やかな経歴は持たないが、温厚篤実で、金之助とは気が合ったらしい。」(岩波新書『夏目漱石』)


「七人男たちの内で、大学予備門に進学したのは、紅葉、漱石、子規、熊楠の四人である。

紅葉だけが一足早く明治十六年九月。他の三人は、翌十七年の九月のことである。

このあたりになると、徐々に、七人男たちの、人生の、歩み方や生き方の違いが見えはじめてくる。大学予備門への進学が、その一つの大きな別れ道となる。ただし大学予備門に進学した四人も、ふつうのエリートとしての道を歩もうとはしなかった。四人の中で、大学予備門(在学中に第一高等中学校と名称変更)、そして帝国大学という学習コースをまっとうできたのは夏目漱石一人だけだった。」(『七人の旋毛曲り』)


〈予備門時代の漱石、子規、熊楠、紅葉、美妙〉


「山田美妙斎とは同級だったが、格別心易うもしなかった。正岡とは其時分から友人になった。一緒に俳句もやった。正岡は僕よりももつと変人で、いつも気に入らぬ奴とは一語も話さない。孤峭な面白い男だった。どうした拍子か僕が正岡の気に入つたと見えて、打ち解けて交るやうになった。上級では川上眉山、石橋思案、尾崎紅葉などがゐた。紅葉はあまり学校の方は出来のよくない男で、交際も自分とはしなかつた。それから暫くすると紅葉の小説が名高くなり出した。僕は其頃は小説を書かうなんどとは夢にも思つてゐなかつたが、なあに己だつてあれ位のものはすぐ書けるよといふ調子だった。」(漱石「僕の昔」)


笠井清『南方熊楠』には、美妙に対する熊楠の追慕の一文が引用されていて、その中で熊楠は美妙のことを「美妙斎と称せし名にそむかず白皙紅顔の人なりき」と回想している。


「ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなった。この人はその後間もなく美妙斎として世に名のつて出た。」(子規『墨汁一滴』)


12月(第一学期)の成績表(『漱石全集』月報、第十号、岩波書店、一九三六年八月)によれば漱石は塩原金之助の名で第四級(奨学生徒)に出ている。その成績表の表題は「明治一七年一二月(第一学期)東京大学予備門前本学第一、二、三級、及び第四級生徒試業優劣表」となっている。それによると平均点七三点で一一七人中二二番から順に漱石、芳賀矢一(国文学者)、小城齊(ひとし)と続いている。数学においては、小城は級のほぼ最上位を占めているが、彼の六女川瀬増子の記憶では、学生時代、夏目君から英語を習い、自分は数学を教えた、という話を父からよく聞かされたのを覚えているという。


1月6日

「秘聞録」の続編「傑士烈女魯国虚無党列伝」(「自由新聞」)

1月8日

この日付け子規(18)の竹村鍛宛ての手紙に子規の最も古い俳句がある。


「雪ふりや棟の白猫声ばかり」


1月9日

立木兼善仲裁により横浜の名望家海老塚四郎兵衛に伴われ武相困民党須長漣造・若林高之助(26)・佐藤昇之輔(18)・金子邦重、県庁に出頭。翌10日、県令邸に招かれ、解党申付けられる(県令邸には原田東馬も同席)。

須長漣造:

嘉永5(1852)年生。明治5年谷野一村戸長(20)。12年谷野など4ヶ村戸長。17年6月新聨合村制度により、隣村留所村の青木鎮郷に戸長職が移り、戸長辞任(32)。12年田畑・山林・宅地20町歩の豪農(自営農型)。19年には八王子不在地主の小作人に転落。23年前自由党幹部・東海貯蓄銀行頭取成内頴一郎と前自由党員・武蔵野銀行副頭取鈴木芳良の小作人(困民党と自由党のアイロニーが象徴される)。12年頃から武蔵野銀行など十数の債主と金融取引。15年は5度に分けて594円の借入れ(営業・納税資金、村民の滞納税立替など)。17年村の6割が税滞納か高利貸・銀行の追及を受ける状況。

1月14日には、相模原大沼新田に農民終結後県庁へデモ。原町田村漆谷付近で警官と衝突。首謀者、凶徒嘯衆罪逮捕。武相困民党解散

総監督中島小太郎、若林高之助、佐藤昇之輔、金子邦重、渋谷雅治郎、石井浅次郎らが拘引。須長漣造は2月に逮捕、18年7月横浜軽罪裁判所で無罪判決、出獄。須長は出獄後も村に残り、「年賦党ノ跡片付」のため債主との交渉継続。若林・佐藤は横浜で開業(佐藤は金貸・銀行を営む)。須長はやがて行商人となり九州~四国~北陸と歩き続ける。

権力側は若林らの動きを十分察知し(細野らの内報により)徐々に追詰め、一方で下部大衆を煽動し(その時点で、幹部は大衆から浮き上がる)、暴発一歩前で幹部逮捕、組織壊滅を図る?

2月17日、武相困民党、9・5事件判決。塩野倉之助・小池吉教、軽懲役6年など215名全員有罪。自由党広徳館の代言人小林幸二郎は公判で小池の弁護を担当。1審後は塩野のために「上告趣意書」を起草。自由党員細野喜代四郎ら仲裁人は負債党鎮撫に協力したとして神奈川県令沖守固より感謝状・記念品貰う。


1月9日

漢城条約調印(明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後約定)。特派全権大使井上馨、金弘集全権と甲申事変善後処理。朝鮮政府は国書により日本に謝罪。死傷者に賠償金11万円支払・犯人処罰・日本公使館再建を約束。同日付けで竹添公使召喚。

井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使宛て機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となったことを認め、交渉で事実究明を行ったならば「我行為の不是を表証するに均」しく、「我公使の体面を損し、主客其地位を顚倒」するおそれがあるので、朝鮮政府に対する「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べる。

1月10日

「東京横浜毎日新聞」、脱亜的条約改正論を批判。「清韓ニ対シテ得ルノ栄誉ハ亜細亜ノ一方ニ局スル者ニシテ世界ニ共認セラルゝノ栄誉ニ非ルナリ」と。しかし、大勢は脱亜的条約改正の方向に向っている。

1月17日

静岡県農民騒擾。1883年冬から騒動があいつぎ、この年2月駿東・君沢両部60ヶ村の借金党の農民1500人が伊豆銀行などに押しかける。3月4郡85ヶ村で借金党が成立するが、4月以後衰微。

1月17日

大杉栄、香川県丸亀市に生れる。大杉東(あずま)、豊(とよ)の長男。(戸籍は5月17日)

父は愛知県東海郡大字宇治の出身、旧家の三男で、志願兵となって兵卒から将校に進んだ篤実努力の人。栄の誕生の時は丸亀連隊の少尉。


つづく


【年表INDEX】

大杉栄とその時代年表(2) 1885(明治18)年 1月~3月 北原白秋が柳川に生れる 尾崎紅葉(18)が山田美妙・石橋思案らと硯友社結成 漱石と太田達人との交流 福沢諭吉「脱亜論」発表(「時事新報」)

大杉栄とその時代年表(3) 1885(明治18)年 4月~5月 中里介山・宮崎郁雨・正力松太郎・野上弥生子・武者小路実篤、誕生 尾崎紅葉『我楽多文庫』創刊 「全国的な飢饉ー酸鼻の極、草根木皮をかじり死馬を食う」(朝野新聞) 漱石、江の島へ徒歩遠足

大杉栄とその時代年表(4) 1885(明治18)年 6月~7月 大杉栄一家、東京府麹町区番町に移る 明治大洪水 子規(18)落第 漱石(18)遠泳参加 幸田露伴(18)北海道余市に赴任 都市下層民の「餓鬼道地獄」現出(「朝野新聞」) 『女学雑誌』創刊

大杉栄とその時代年表(5) 1885(明治18)年 8月~9月 子規、帰省中に秋山真之と親しくなる 木下杢太郎・若山牧水・鈴木文治生れる 逍遙(26)「小説神髄」 漱石、虫様突起炎を患い、実家に戻る 子規と熊楠

大杉栄とその時代年表(6) 1885(明治18)年10月~12月 東海散士(柴四朗)「佳人之奇遇」 山下奉文生まれる 植木枝盛「廃娼論」 大阪事件発覚 幸徳秋水(15)、仮釈放の林有造を訪問 大政官制廃止、内閣官制導入  熊楠、大学予備門の期末試験に落第

大杉栄とその時代年表(7) 1886(明治19)年1月~2月 子規、野球に熱中する 川上音二郎出獄 斎藤緑雨「善悪押絵羽子板」 二葉亭四迷、東京商業学校を退学し坪内逍遥を訪問 平塚らいてう・石川啄木生まれる 幸徳伝次郎(16、秋水)、板垣退助歓迎の宴に出席

大杉栄とその時代年表(8) 1886(明治19)年3月~4月 松井須磨子生まれる 物集高見『言文一致』 坪内逍遙「内地雑居未来の夢」 二葉亭四迷「小説総論」 宮武外骨『屁茶無苦新聞』(発禁) 一葉(14)の復学断念

大杉栄とその時代年表(9) 1886(明治19)年5月~6月 末広鉄腸「夢ニナレナレ」(のち「二十三年未来記」と改題) 全米労働者、8時間労働・8時間休息・8時間教育求めデモ(メーデーの発端) 高村智恵子・石坂泰三・岡本一平生まれる 雨宮製糸場女工ストライキ

大杉栄とその時代年表(10) 1886(明治19)年7月~8月 坪内逍遥(27)、加藤センと結婚 漱石、腹膜炎に罹る(留年) コレラ流行 谷崎潤一郎生まれる 徳富蘇峰(23)と植木枝盛(29)が高知で会う 一葉、萩の舎に入門

大杉栄とその時代年表(11) 1886(明治19)年9月 「郵便報知」の大改革 漱石、江東義塾の教師となり、寄宿舎に転居 吉井勇生まれる 一葉、田邊花圃と出会う 

大杉栄とその時代年表(12) 1886(明治19)年10月~12月 関西法律学校開校 ノルマントン号事件 藤田嗣治・大川周明生まれる 米山保三郎が正岡子規を訪問 子規は2歳年下の米山の博識に「四驚」を喫する 『我楽多文庫』活版第1号 基督教婦人矯風会発会 南方熊楠(19)渡米

大杉栄とその時代年表(13) 1887(明治20)年1月~2月 一葉(15)日記「身のふる衣 まきのいち」(稽古歌会を記録) 葛西善蔵生まれる 一葉(15)、新年発会で第一等の点を取る  徳富蘇峰「国民之友」第1号

大杉栄とその時代年表(14) 1887(明治20)年3月~4月 中山晋平生まれる 啄木一家、渋民村に転住 宮武外骨(21)『頓智協会雑誌』発行 伊藤首相官邸で大仮装舞踏会開催 伊藤博文(47)と戸田伯爵夫人極子(31)のスキャンダル報道

大杉栄とその時代年表(15) 1887(明治20)年5月~6月 板垣退助・後藤象二郎・大隈重信・勝海舟に伯爵辞令 伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎ら憲法草案検討に着手 長崎造船所、三菱に払い下げ 二葉亭四迷(25)「浮雲」

大杉栄とその時代年表(16) 1887(明治20)年7月~8月21日 子規(21)俳諧を学び始める 井上外相の対英軟弱外交(条約改正案)非難 江口渙・山本有三・片山哲・重光葵・荒畑寒村生れる 明治憲法「夏島草案」完成 養子に出した漱石の夏目家への復籍交渉 幸徳伝次郎(17)故郷中村出奔

大杉栄とその時代年表(17) 1887(明治20)年8月25日~9月 幸田露伴、勤め先の北海道余市から東京へ逃げる(途中徒歩200km) 漱石、予科一級に進む 子規、第一高等中学校予科進級 漱石、急性トラホームを患う

大杉栄とその時代年表(18) 1887(明治20)年10月~11月16日 後藤象二郎、丁亥倶楽部結成、大同団結運動に乗り出す 植木枝盛、三大事件建白書起草 旧自由党派「三大事件建白派」、独自の動き開始

大杉栄とその時代年表(19) 1887(明治20)年11月18日~12月 山田美妙『花の茨、茨の花』 坪内逍遥(29)、宮武外骨(21歳)の仲介によって依田学海(55)に初めて会う 子規、野球に興じる(『筆まかせ』「愉快」) 保安条例施行(自由党関係者、東京から追放) 一葉(15)の長兄泉太郎没

大杉栄とその時代年表(20) 1888(明治21)年1月~2月 漱石(21)夏目家に復籍 時事通信社創立 中江兆民「警世放言」(「東雲新聞」) 星亨ら秘密出版で投獄 大隈重信外相就任 一葉、家督を相続し戸主となる

大杉栄とその時代年表(21) 1888(明治21)年3月~4月 各地に女学校創設の気運 三宅雪嶺ら雑誌『日本人』創刊 「市制」「町村制」公布 第2代内閣黒田清隆内閣成立

大杉栄とその時代年表(22) 1888(明治21)年5月~6月 「朝日新聞」(村山龍平)、「めざまし新聞」(星亨)を買収 小泉信三・安井曾太郎・神近市子生まれる 一葉(16)一家、兄虎之助の借家に同居 大同団結運動機関誌「政論」創刊  田邊花圃『薮の鶯』発表 一葉に強い影響を与える 一葉の父・則義、事業失敗 松岡好一「高島炭坑の惨状」

大杉栄とその時代年表(23) 1888(明治21)年7月~8月 漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業 子規ら、長命寺境内の桜餅屋月香楼で夏休みを過す 子規『七艸集』完成 「東京朝日新聞」発行 里見弴生まれる 磐梯山大爆発 子規(21)、江の島で喀血 二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」 三池炭鉱を三井組へ払下げる

大杉栄とその時代年表(24) 1888(明治21)年9月~10月 森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国 漱石・子規(21)、第一高等中学校本科第一部(文科)進学 二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」 皇居落成 ゴーギャンとゴッホの共同生活 スエズ運河条約締結

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る

大杉栄とその時代年表(26) 1889(明治22)年1月 漱石(22)の新たな決意 漱石と子規の出会い 石原莞爾生まれる 「大阪公論」社説、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる

大杉栄とその時代年表(27) 1889(明治22)年2月 幸田露伴『露団々』 石橋正二郎生まれる 大日本帝国憲法発布 「吾人は直に憲法の改正を請はざる可らず」(幸徳秋水「兆民先生」) 森有礼暗殺 大赦令公布 衆議院議員選挙法公布 陸羯南、新聞「日本」創刊 大隈外相、アメリカと条約改正調印 宮武外骨、「骸骨が研法を下賜する図」により重禁錮3年罰金100円

大杉栄とその時代年表(28) 1889(明治22)年3月~4月 岡本かの子・和辻哲郎・チャップリン・ヒトラー生まれる 光緒帝(19)親政 森鴎外(27)結婚 後藤象二郎入閣 エッフェル塔完成 北村透谷「楚囚之詩」 尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』

大杉栄とその時代年表(29) 1889(明治22)年5月1日~22日 第一高等中学校に国粋主義を標榜する結社(漱石・子規、加入するも積極的行動はとらず) 子規『七艸集』脱稿 大同団結運動分裂 子規喀血 「卯の花をめがけてきたか時鳥」 「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を作り、以後「子規」と号す 漱石、子規を見舞い、のち子規を励ます手紙を書く

大杉栄とその時代年表(30) 1889(明治22)年5月25日~31日 漱石、子規『七艸集』評で初めて「漱石」と署名 山本宣治・内田百閒生まれる 大杉栄(4)一家、東京麹町から新潟県北蒲原郡新発田本村へ移る

大杉栄とその時代年表(31) 1889(明治22)年6月 稲から米が出来るのを知らなかった漱石 漱石、学年試験・宿題などの子規の問い合わせに答える 「東京朝日」、大隈条約改正反対を表明 三木露風生まれる

大杉栄とその時代年表(32) 1889(明治22)年7月 一葉(17)の父、病没 与謝野鉄幹、徳山女学校教師となる 東海道線全線開通 子規帰省 子規、 河東碧梧桐にキャッチボールを指導 陸羯南の新聞「日本」、「条約改正論熱度表」掲載

大杉栄とその時代年表(33) 1889(明治22)年8月 室生犀星・石井光次郎生まれる 漱石(22)、房総を旅行 二葉亭四迷(25)内閣官報局雇員となる

大杉栄とその時代年表(34) 1889(明治22)年9月 志賀直哉(6)、学習院予備科6級(のち初等科1年)入学 子規「啼血始末」執筆 幸田露伴『風流仏』 漱石(22)、房総旅行の漢詩文紀行『木屑録』脱稿し、松山の子規に送る  子規は跋文を書きこれを絶賛  漱石・子規、第一高等中学校本科一部二年(三之組)に進級 子規上京

大杉栄とその時代年表(35) 1889(明治22)年10月 鴎外『しがらみ草子』創刊 緑雨「小説八宗」 中江兆民・幸徳伝次郎、東京で活動再開 子規「水戸紀行」 大隈襲撃・重症(玄洋社社員来島恒喜がダイナマイト投擲) 黒田清隆首相辞任 条約改正延期

大杉栄とその時代年表(36) 1889(明治22)年11月 漱石「山路観楓」 久保田万太郎生まれる 子規「言志会」をおこす 黒岩周六「都新聞」主筆 中江兆民「自由党諸子の大会に就て」 帝国大学文科大学ベース・ボール大会(子規ら参加)

大杉栄とその時代年表(37) 1889(明治22)年12月 坪内逍遥・尾崎紅葉・幸田露伴、読売新聞社入社 子規「ボール会」設立 饗庭篁村、東京朝日新聞社入社 漱石と子規の論争(「オリジナルの思想」と「文章」をめぐり) 愛国公党設立決定(板垣・植木) 中江兆民上京 第1次山県内閣(後藤・陸奥閣内)

大杉栄とその時代年表(38) 1890(明治23)年1月 森鴎外『舞姫』 子規『銀世界』 日本最初の文士劇 富山で米騒動(4月からは他地域にも波及) 現存する一番古い子規の漱石宛書簡 再興自由党結成

大杉栄とその時代年表(39) 1890(明治23)年2月~3月 徳富蘇峰「国民新聞」創刊 「東京朝日」急速に部数を伸ばす 北村透谷「時勢に感あり」 渋谷三郎・野尻理作が共に一葉一家から離れてゆく 丸の内一帯の三菱への払下げ決定  駿河台にニコライ堂が開堂(ジョサイア・コンドル設計) 南方熊楠、博物学を本格的に志す 子規、常盤会寄宿舎のベースボール大会(第4回)を決行

大杉栄とその時代年表(40) 1890(明治23)年4月 「新作十二番」(春陽堂) 第三回内国勧業博覧会 『博覧会他所見の記』(読売新聞 逍遥・紅葉・露伴) 皇紀2550年を記念して橿原神宮が創建 民事訴訟法・商法公布

大杉栄とその時代年表(41) 1890(明治23)年5月~6月 郡制・府県制公布 欧米各地で世界初のメーデー 愛国公党組織大会 雑誌『江戸むらさき』創刊 鴎外(28)陸軍二等軍医正 佐渡相川暴動

大杉栄とその時代年表(42) 1890(明治23)年7月 チェーホフのサハリン島調査 第1回衆議院議員選挙(民党が過半数なるも大合同ならず) 紅葉『伽羅枕』 漱石・子規、第一高等中学校本科及落 露伴「造化と文学」 東京でコレラ(~11月) 集会及政社法公布 ゴッホ(37)没

大杉栄とその時代年表(43) 1890(明治23)年8月 鴎外『うたかたの記』 子規と虚子の出会い 子規、大津に旅行 再興自由党・愛国公党・九州同志会・大同倶楽部解散 厭世的な気分に陥る漱石 子規の励ます手紙に傷つく漱石(のち子規はこれを謝罪) 箱根に滞在する漱石 渡良瀬川沿岸大洪水

大杉栄とその時代年表(44) 1890(明治23)年9月 坪内逍遥(31)、東京専門学校の文学科新設に尽力 尾崎紅葉、東京帝国大学退学 漱石、東京帝国大学文科大学英文科に入学 子規は哲学科に入学 立憲自由党結党大会

大杉栄とその時代年表(45) 1890(明治23)年10月~11月23日 鴎外(28)離婚 星亨帰国、立憲自由党入党 初代貴族院議長伊藤博文 帝国ホテル開業

大杉栄とその時代年表(46) 1890(明治23)年11月25日~12月 第1回帝国議会召集 山県首相は対外進出・軍拡の必要性を強調 「国会」創刊 犬養毅・尾崎行雄ら「朝野新聞」退社 ウンデッド・ニーの虐殺

大杉栄とその時代年表(47) 1891(明治24)年1月~2月 鴎外『文づかひ』 博文館「少年文学」叢書 内村鑑三不敬事件 帝国議会議事堂全焼 子規、帝国大学文科大学哲学科から国文科に転科 土佐派の裏切り(立憲自由党脱党) 中江兆民議員辞職(「無血虫の陳列場」)

大杉栄とその時代年表(48) 1891(明治24)年3月 子規と虚子の文通始まる  河東碧梧桐上京 尾崎紅葉の結婚 川上音二郎(27)、横浜伊勢崎町の蔦座で「オッペケペ」上演 ニコライ堂開堂 立憲自由党、自由党と改称 子規の房総旅行

大杉栄とその時代年表(49) 1891(明治24)年4月1日~15日 大杉栄(6)、新発田の尋常小学校入学 南方熊楠、フロリダに向かう(その後、キューバ~ハイチ~ベネズエラ) 一葉日記(「若葉かげ」)始まる 一葉、半井桃水を訪問、以後頻繁に訪問

大杉栄とその時代年表(50) 1891(明治24)年4月18日~30日 漱石、子規の房総旅行の紀行文に感激する 子規、哲学の試験準備が全く手につかない 一葉、桃水より新聞小説(通俗小説)の手ほどきを受ける

大杉栄とその時代年表(51) 1891(明治24)年5月 カーネギーホール開場 松方正義内閣成立 大津事件(警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)がロシア皇太子を斬付ける) 田山花袋、尾崎紅葉を訪問 ミルン一座、「ハムレット」上演(浜ゲーテ座)

大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる

大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山

大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士

大杉栄とその時代年表(55) 1891(明治24)年9月 田中正造の日記に「鉱毒」が出始める 上野・青森間鉄道全通 硫黄島を日本領とする 子規、ようやく追試に及第 一葉日記「蓮生日記」と改題 津田三蔵(38)獄死

大杉栄とその時代年表(56) 1891(明治24)年10月 中嶋歌子に見て貰うための小説創作に苦労する一葉 一葉と妹くにが開橋したばかりのお茶の水橋を見に行く 近衛文麿生まれる 泉鏡花(18)、紅葉に弟子入り 逍遥(32)『早稲田文学』(第一次)創刊 濃尾地震(死者7,273) 桃水の勧めで筆名「一葉」を使い始める

大杉栄とその時代年表(57) 1891(明治24)年11月 雑誌「足利之鉱毒」創刊・たちまち発禁 露伴『五重塔』 漱石・子規「気節」論論争 「人なき小室の内に、長火桶一ッ間に置てものがたりすることよ .....、あやしかるべき身にも有哉。ましてかたみに語り合ふことなどいとまばゆしかし」(一葉「よもぎふ日記」)

大杉栄とその時代年表(58) 1891(明治24)年11月 瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』の中の「日記の謎」について(なぜ、一葉は明治24年11月24日の日記を途中で処分したのか?)

大杉栄とその時代年表(59) 1891(明治24)年12月 漱石、『方丈記』英訳・解説 逍遥・鴎外の没理想論争 子規、小説「月の都」の執筆着手 子規、「俳句分類丙号」着手 広津和郎生まれる 田中正造、第2議会に「足尾銅山鉱毒の儀につき質問」

大杉栄とその時代年表(60) 1892(明治25)年1月~2月 南方熊楠、西インド諸島巡回からフロリダ州ジャクソンビルに戻る 伊藤博文、新党結成に動く 堀口大学・西条八十生まれる 子規、小説「月の都」脱稿 一葉(20)結核発現の最初の兆候 植木枝盛(35)没 足尾の鉱毒被害者示談工作進む 幸田露伴と根岸派の人々

大杉栄とその時代年表(61) 1892(明治25)年2月1日~2月4日 子母沢寛生まれる 出口ナオ(57)大本教開教 一葉、桃水より同人誌『武蔵野』発刊の計画を聞かされる 「種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一篇あまばやの腹稿なる」

大杉栄とその時代年表(62) 1892(明治25)年2月5日~29日 一葉「闇桜」完成 第2回衆議院総選挙(大干渉にも拘らず民党勝利) 日本初日刊紙「東京日日新聞」(現毎日新聞)創刊 伊藤博文、新党結成断念表明・枢密院議長辞職撤回 子規の小説「月の都」、露伴からも四迷からも評価されず

大杉栄とその時代年表(63) 1892(明治25)年3月 芥川龍之介・野坂参三生まれる 一葉「闇桜」(『武蔵野』第1編) 一葉「別れ霜」(『改進新聞』) 試験が近づいても勉強に身が入らない子規

大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う

大杉栄とその時代年表(65) 1892(明治25)年5月 田中正造、再び鉱毒事件質問状提出(第3議会) 漱石、東京専門学校(現・早稲田大学)講師 一葉「五月雨」完成 池辺三山(28)パリに向かう 子規「かけはしの記」(『日本』)

大杉栄とその時代年表(66) 1892(明治25)年6月 一葉(20)、桃水との仲を噂され歌子の助言もあり桃水との師弟関係を絶つ 花圃の仲介により「都の花」への作品掲載の話が纏まる(文学的転機) 子規「獺祭書屋俳話」(『日本』38回)

大杉栄とその時代年表(67) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅰ) 一葉と桃水の恋愛関係は人々の噂になりつつあった 借金申し込みに見える一葉日記の小説的創作要素 一葉に対する桃水の経済的支援

大杉栄とその時代年表(68) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅱ) 一葉の桃水に対する疑惑、耳打ちされる「醜聞」 伊東夏子、師匠の中嶋歌子から桃水と手を切るように忠告される一葉

大杉栄とその時代年表(69) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅲ) 一葉、桃水に師弟関係解消を申し出る 後悔する一葉 文学者としては必然のめぐり逢いであり別離であった

大杉栄とその時代年表(70) 1892(明治25)年7月1日~16日 漱石、文科大学貸費生(年額70円) 漱石・子規の京都旅行(後半、漱石は岡山へ、子規は松山へ)、帰途に再度京都へ 一葉、花圃の仲介で『都の花』への小説掲載決まる 「松山競吟集」第1回

大杉栄とその時代年表(71) 1892(明治25)年7月17日~8月8日 子規、松山で落第通知を受け取る 漱石、子規の退学決意を引き留める手紙 「松山競吟集」第2~5回 漱石、岡山洪水に遭遇 一葉「五月雨」(『武蔵野』第3編) 松方内閣総辞職 第2次伊藤内閣(元勲内閣、挙国一致) 鉄幹(19)本郷駒込吉祥寺に寄宿

大杉栄とその時代年表(72) 1892(明治25)年8月10日~24日 漱石、岡山から松山に子規を訪ね、虚子・碧梧桐らに会う 一葉の桃水宛て手紙 一葉一家を裏切った渋谷三郎が一葉宅を訪問 一葉との結婚話は母がそれを断る

大杉栄とその時代年表(73) 1892(明治25)年8月26日~9月30日 漱石・子規、松山から東京に戻る 熊楠、ニューヨークからロンドンに移る 松原岩五郎、国民新聞社入社 一葉、「うもれ木」完成 規と漱石、逍遥を訪ねる 子規『早稲田文学』俳句欄担当

大杉栄とその時代年表(74) 1892(明治25)年10月1日~25日 子規、大磯で転地保養 漱石『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』 子規「大磯の月見」「旅の旅の旅」 一葉「経つくゑ」

大杉栄とその時代年表(75) 1892(明治25)年10月26日~11月6日 子規、東京帝大退学 子規「日光の紅葉」「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」「第六回文科大学遠足会の記」 黒岩周六(30)「萬朝報」発行 大井憲太郎、東洋自由党結成

大杉栄とその時代年表(76) 1892(明治25)年11月9日~17日 子規、京都で虚子と紅葉狩り 子規、神戸で母八重・妹律を迎え京都見物をして共に東京に帰る 一葉、桃水と再会 宮武外骨、石川島刑務所を出獄 

大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件

大杉栄とその時代年表(78) 1892(明治25)年12月1日~28日 漱石「中学改良策」 子規『海の藻屑』『笑話十句』(『日本』俳句時事評) 漱石、東京専門学校講師退職を決意(その後撤回) 一葉、花圃を介して『文学界』への寄稿を依頼される 一葉一家、「朧月夜」原稿料で久々の安らかな年末

大杉栄とその時代年表(79) 1893(明治26)年1月1日~31日 子規と漱石、坪内逍遥を訪問 一葉(21)「雪の日」完成 漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」講述(「哲学雑誌」掲載) 「文学界」創刊 日比谷公園開園

大杉栄とその時代年表(80) 1893(明治26)年2月1日~28日 北村透谷・山路愛山「人生相渉る」論争 子規、『日本』に俳句欄を設ける 時局救済に関する詔勅 「恋はあさましきもの成けれ。」(一葉日記) 一葉(21)「暁月夜」(『都の花』第101号)

大杉栄とその時代年表(81) 1893(明治26)年3月1日~31日 宮武外骨『文明雑誌』創刊 一葉(21)のもとに平田禿木(2歳)が来訪(初めて会う『文学界』同人) 子規「文界八つあたり」(新聞『日本』連載) 一葉、「糊口的文学」から訣別しようと決意

大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版)

大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉)

大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」)

大杉栄とその時代年表(86) 1893(明治26)年7月1日~12日 「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮併呑を主張 一葉、萩の舎の会に参加するための着物を売却して手元資金に充てる 漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業、帝国大学大学院に進学 狩野亨吉との交際が始まる

大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(88) 1893(明治26)年7月19日 漱石の友人小屋保治が大塚楠緒子と見合い 子規の東北旅行(1) 各地の有力な俳諧宗匠を訪ねて俳話を楽しむという目的は期待外れ 

大杉栄とその時代年表(89) 1893(明治26)年7月19日 子規の東北旅行(2) 「松島の心に近き袷(あわせ)かな」 「秋風や旅の浮世のはてしらず」 「われは唯旅すゞしかれと祈るなり」

大杉栄とその時代年表(90) 1893(明治26)年7月19日~30日 子規の東北旅行(3) 鮎貝槐園との交歓 旅費の工面 商材仕入れのための5円の金が手元にないと歎く一葉 黒田清輝、フランス留学から帰国

大杉栄とその時代年表(91) 1893(明治26)年8月1日~11日 漱石、就職の目途がつかず落ち着かない日々を過ごす 龍泉寺での一葉の荒物店開店(すぐに駄菓子もおくようになる) 一葉が買い出し、妹邦子が店番 一葉、幼年時代を顧る

大杉栄とその時代年表(92) 1893(明治26)年8月12日~9月28日 8月下旬~9月上旬、一葉、頭痛で寝込む日がしばしばある 漱石、東京専門学校講師 一葉、商売は軌道に乗り、売り上げは順調だが、利益は厳しい

大杉栄とその時代年表(93) 1893(明治26)年10月1日~31日 漱石(26)東京高等師範学校(英語嘱託) 一葉、店は邦子にまかせ連日図書館に通う 一葉日記「塵中日記 今是集」 平田禿木が一葉を再び来訪、『文学界』との関係が復活  「二六新報」発刊(社主秋山定輔)

大杉栄とその時代年表(94) 1893(明治26)年11月1日~25日 明治座開場 チャイコフスキー(53)没 子規「芭蕉雑談」 森鴎外(31)陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員 一葉、買い出しと図書館通いの毎日 「琴の音」成稿

大杉栄とその時代年表(95) 1893(明治26)年11月26日~12月31日 第5議会、星亨除名決議可決 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ」(一葉日記) 一葉、ぎりぎりの金策の末、どうにか年越しができる

大杉栄とその時代年表(96) 1894(明治27)年1月1日~31日 三菱1号館竣工 一葉の店の向い側に同業が開店 星野天知(32)が始めて一葉を訪問 「男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(97) 1894(明治27)年2月1日~11日 子規、終の住処「子規庵」へ転居 一葉(22)の年始廻り 絵入り新聞『小日本』創刊(編集主任子規) 子規の月給は30円に上がる 不評だった小説「月の都」掲載

大杉栄とその時代年表(98) 1894(明治27)年2月14日~25日 朝鮮で古阜民乱 商売は行き詰まった一葉の捨て身の行動(久佐賀義孝から援助を引き出す工作) 「「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」

大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号)

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典

大杉栄とその時代年表(102) 1894(明治27)年3月12日~27日 馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問、一葉は好意的評価 一葉、久佐賀に物質的援助を請う 子規『一日物語』  一葉、転居費用調達と桃水訪問

大杉栄とその時代年表(103) 1894(明治27)年3月28日~4月 日本に亡命していた朝鮮の独立派政治家金玉均(44)が上海で暗殺される 全羅道で東学党蜂起 一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)日記を書かず

大杉栄とその時代年表(104) 1894(明治27)年4月1日~5月1日 対清強硬(戦争)論高まる 愛知県庁の工場労働者、「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態 一葉、丸山福山町に転居 「水の上」時代  「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来

大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死

大杉栄とその時代年表(106) 1894(明治27)年5月17日~31日 朝鮮駐在代理公使杉村濬の出兵上申 袁世凱、出兵準備を李鴻章に電請 参謀本部、出兵必要と決定 東学農民軍、全州占領。朝鮮政府は袁世凱に出兵救援を依頼 宗銀、内閣弾劾上奏案可決(総辞職か解散かを迫られる)

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内)

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える

大杉栄とその時代年表(111) 1894(明治27)年7月1日~8日 ラフカディオ・ハーン、五高を退職 イギリスの仲裁に清国が受け入れ難い項目を入れる(筋書き通り調停不調) 一葉、父方の従兄弟の死に衝撃を受ける 大鳥公使、朝鮮政府に改革綱領を提示 アメリカのプルマンスト鎮圧 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令


































大杉栄とその時代年表(145) 1895(明治28)年4月11日~13日 子規、遼東半島に上陸、金州に入る 「たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや」(「我が病」)































































































大杉栄とその時代年表(240) 1898(明治31)年6月1日~22日 この頃、漱石の妻鏡子が自殺を図る 河野一郎生まれる アメリカのサンチャゴ湾(キューバ)閉塞作戦失敗 清英「香港地域拡張に関する条約」九竜租借条約 戊戌の変法(百日維新) フィリピン共和国独立宣言(アギナルド) ハワイ併合に関する決議アメリカ下院通過 アメリカ、グアム占領 憲政党成立(自由党・進歩党合同)


































































大杉栄とその時代年表(306) 1900(明治33)年10月28日 「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。(中略)  英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。(中略)  帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼(けん)狂人のよしなり。(略)たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集(ようきょしゅう)」を出し、又「鶉籠(うずらかご)」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。」(『文学論』序)

























大杉栄とその時代年表(332) 1901(明治34)年4月17日~20日 子規、自身の病状を記す 「小生の病気は単に病気が不治の病なるのみならず病気の時期が既に末期に属し最早如何なる名法も如何なる妙薬も施すの余地無之神様の御力もあるいは難及かと存居候。.....発熱は毎日、立つ事も坐る事も出来ぬは勿論、この頃では頭を少し擡ぐる事も困難に相成、また疼痛のため寐返り自由ならず蒲団の上に釘付にせられたる有様に有之候。.....ただ小生唯一の療養法は「うまい物を喰ふ」に有之候。.....珍しき者は何にてもうまけれど刺身は毎日くふてもうまく候。くだもの、菓子、茶など不消化にてもうまく候。」(子規「墨汁一滴」)













大杉栄とその時代年表(345) 1901(明治34)年6月29日~7月2日 「墨汁一滴」終わる 「鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛、鰺、鯔など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし。(七月二日)」(子規「墨汁一滴」)




大杉栄とその時代年表(349) 1901(明治34)年8月1日~3日 8月3日 ロンドンの漱石 「八月三日(土)、午前、池田菊苗を訪ね、昼食を共にする。その後、 Carlyle's House (カーライル博物館 24 Cheyne Road, Chelsea チェルシー・チェーニ路地二十四番地、旧十番地)を初めて見物する。粗末な感じを受ける。(「カーライル博物館」「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」はこの時の見物をもとにする。) Carlyle's House の少し東にある George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)と Dante Gabriel Rossetti (ダンテ・ガブリエル・ロセッチ 1828-1882)の旧居も尋ねる。前の庭園に D.G. Rossetti の胸像が噴水の上に彫られている。」









大杉栄とその時代年表(358) 1901(明治34)年9月21日~24日 「律は強情なり 人間に向つて冷淡なり (略) 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し 若(も)し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり (略) されど真実彼が精神的不具者であるだけ一層彼を可愛く思ふ情に堪へず (略) 病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱す家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし」(子規『仰臥漫録』)
















































大杉栄とその時代年表(406) 1902(明治35)年8月1日~6日 「鼠骨より贈つてくれた玩器は、小さい丸い薄いガラスの玉の中に、五分位な人形が三つはひつて居る。その人形の頭は赤と緑と黒とに染分けてある。それでその玉に水を入れて、口を指で塞いで玉を横にすると、人形が上の方に浮き上つたりまた下に沈んだりするやうになつて居る。(略)露店の群がつて居る中でも、この玩器を売る店は最も賑はふ処であるさうな。実際の口上は知らぬが、鼠骨の仮声を聞いてもよほど興がある。「赤さんお上り、青さんお上り」「青さんお下り、黒さんお下り」「小隊進めオイ」などとしやべりながら、片方の手でガラスの外から糸を引くやうな真似をするのは、鼠骨得意の処である。」(子規「病牀六尺」)


大杉栄とその時代年表(407) 1902(明治35)年8月7日~15日 「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造花の秘密が段々分つて来るやうな気がする。」 「或る絵具と或る絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色が出ないとまた他の絵具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづつの色の違ひで趣が違つて来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいふものを出すのが写生の一つの楽しみである。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであらうか。」(子規「病牀六尺」.



大杉栄とその時代年表(410) 1902(明治35)年9月 「夏目は莫迦正直に、一生懸命に勉強はしているものの研究というものにはまだ目鼻がつかない。だから報告しろったって報告するものがない。しかも文部省のほうからは報告を迫ってくる。そこでますます意地になったのか、白紙の報告書を送ったとかいうことです。文部省でも変だと思ってるところへ、ちょうど同じ英文学の研究であちらへ行っていられたある人が、落ち合って様子を見ているとただごとでない。宿の主婦にきけば毎日毎日幾日でも部屋に閉じこもったなりで、まっ暗の中で、悲観して泣いているという始末。これはたいへんだ、てっきり発狂したものに違いない。」(夏目鏡子『漱石の思い出』)








大杉栄とその時代年表(418) 〈子規没後の子規山脈③〉 「御互の世は御互に物騒になった。物騒の極子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺の森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。」(漱石「京に着ける夕」)




大杉栄とその時代年表(422) 1902(明治35)年10月 漱石のスコットランド旅行 「彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』)