2025年4月16日水曜日

大船フラワーセンター 八重桜はまだ見頃だが、大半がややピーク過ぎ。ギョイコウ満開。ボタンが咲き始め。ツツジ、シャクナゲはそこここにいっぱい。フジはまだほんの少し。サクラソウ展示会は見応えあり。2025-04-16

 4月16日(水)

大船フラワーセンターの花。八重桜はまだ見頃だが、大半がややピーク過ぎ。ギョイコウは満開。ボタンが咲き始め。ツツジ、シャクナゲはそこここにいっぱい咲いている。フジはまだほんの少し。サクラソウ展示会は見応えあり。

▼フゲンゾウ(普賢象)


▼ショウゲツ(松月)


▼センリコウ(千里香)

▼オオチョウチン(大提灯)

▼フクロクジュ(福禄寿)

▼ウコン(鬱金)

▼ギョイコウ(御衣黄)

▼フジカスミザクラ(富士霞桜)

▼オオショウクン(王昭君)

▼タイザンフクン(泰山府君)

▼ボタン(フジヤマガサ藤山笠)

▼ボタン(センカクハク仙鶴白)

▼ボタン(ベニキリン紅麒麟)

▼ボタン(ヤシロ社)

▼赤星しゃくなげ

▼さくらそう展示会場




▼デンドロビウム・キンギアナム

▼セロジネ・インターメディア

▼カトレア

日本学術会議、法案修正求め決議 独立性確保へ、国会審議に影響も(共同) / 日本学術会議の法人化法案は「自律性を縛る」 廃案求め学者ら声明(朝日) / 学術会議 安倍官邸が介入 6人の選考除外 求める文書判明(赤旗);「菅義偉首相(当時)が2020年に 日本学術会議会員候補6人の任命を拒否する前に 安倍官邸側が 学術会議が105人の会員候補を選考していた最中に 6人を選考対象から外すよう求めていたことが明らかになりました。」(大学フォーラム) / 学術会議の独立性 〜会員任命拒否理由の情報公開訴訟【CALL4×デモクラシータイムス 裁判から見える日本の現実】20250320 / 「学問の自由に対する重大な脅威」日弁連、日本学術会議法案に反対表明 ;「学問の自由(憲法23条)に由来する独立性・自律性が損なわれるおそれが大きい」「政府を含む外部の介入を許容する新たな仕組みが幾重にも盛り込まれている」「国家財政支出が確保されなくなる」 / 学術会議改組 学問の自由侵害を憂う(中日);「国立アカデミーが政治権力におもねれば、日本の研究・学問に対する国際的信頼も損なわれる。」 / 〈社説〉学術会議法人化 法案成立させてはならぬ(信濃毎日);「政府は、国から切り離すことで独立性が高まると言うが、まやかしだ。法案は、学術会議の運営や会員の選出に政府が介入できる仕組みを随所に埋め込んだ。」  



 

「F35や潜水艦建造に必須なのに…」 中国レアアース輸出規制、トランプ関税が米国にブーメラン(朝鮮日報日本語版);「米国のトランプ大統領が仕掛けた「相互関税」政策に対抗して中国がレアアースの輸出を制限したため、米国防総省ではF35戦闘機など主要な兵器の製造に問題が生じる懸念が浮上している。」

 

大杉栄とその時代年表(467) 1903(明治36)年11月29日~12月 「僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』やなんとかいう仏教の博士の『釈迦牟尼伝』の、キリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイのいうように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思った。」(大杉栄「自叙伝」)  

 


大杉栄とその時代年表(466) 1903(明治36)年11月22日~26日 「わが全社会よ。まずかの凄惨の声を聞け。しかして、この問題に答うるところを一考せよ。一考してえずんば、ただちに社会主義にきたれ。社会主義の旗幟は、分明に汝の進路を指示するあらん」(幸徳秋水「凄惨の声」ー「平民新聞」第2号) より続く

1903(明治36)年

11月29日

石川三四郎、万朝報を退社し平民社入社。

11月29日

「平民新聞」第3号発行

幸徳秋水「平和の武器」

「普通選挙を要求すべし。工場法案を要求すべし。労働組合を要求すべし。小作人条例を要求すべし。要求は必ずきかるべし。もしきかれずんば、われは恐る。ついできたるもの、すなわち一般同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)、一般革命ならんことを。少数の階級、それ再思三思せよ。」


「露国軍隊の革命思想」

「陸軍大臣クロパトキンが昨年八月各州の軍団長に秘密通牒を発し、軍隊内における革命思想の伝播を杜絶すべき方法について意見を求めたが、その秘密通牒は端なくも『ロンドン・タイムズ』通信員の手に落ち、ついに世界の眼前に暴露された記事がある。そして各地の軍隊内における革命的檄文の配布、兵卒間における宜伝、革命党首領自身の煽動演説、近衛連隊内の革命団体組織等をのべ、「この秘密通牒に記された事実は陸軍大臣が取調べたる結果なれば、その正確には毫も疑いなかるべし」と附記している。」(荒畑著「平民社時代」)

田岡嶺雲「亡是公咄々語」


「第三号から田岡嶺雲の「亡是公咄々語」が連載され、これは千年後の新社会に生まれて過去の時世の非を諷するという形式で十九世紀の文明を批評したもので、連載十四回に及んでついに未完に終ったが漢文調のむずかしい論文であった。」(荒畑)


社説「平民の要求」


「第三号の社説「平民の要求」は大要次のごとく諭ずる。

今日、美衣美食の紳士貴女は貧民の保護、失業者の救済、慈善事業の奨励をいわざるはないが、彼等がわずかに数十人、数百人の餓を救うている半面、日々新たに数千、数万の困窮、飢餓、流離が発生している。多数の平民は彼等の保護、救済、慈善を懇請するものではなく、ただ職業を要求し生活の権利を要求するのである。千万人の職業なきは今の紳士貴女がその職業を独占しているからであり、千万人の衣食なきは今の紳士貴女がその衣食を壟断しているが故である。汝の黄金はこれ社会公共の産するところ、汝の珠玉はこれ平民全体の琢(みが)くところではないか。宜しく汝の独占を解き汝の壟断をやめて、これを社会公共の手に返し平民全体の有に帰すべきである。

独占を解き壟断をやむ、人みな職業を有し労働の結果に衣食す。徒手遊食するものなく、労働して生活し得ざる者なし。これこそ社会主義の主張であって、実に正義人道の命ずるところ、また社会国家を形成する唯一の目的ではないか。

「然らば即ち、いかにして彼等の独占壟断を除去するか。換言すれば、いかにして社会主義の理想を実行するを得るか。他なし今の独占者、壟断者たる紳士貴女をしてその特権を奉還せしむる、なお徳川氏の政権を奉還せるが如くならしめんのみ。……」(荒畑「平民社時代」)


「予は如何にして社会主義者となりし乎」連載始まる。

第3号~第13号、第19、44、45(明治37年9月18日)の15回にわたり78名の男性が、「直言」第2巻第12号の「婦人号」(明治38年4月23日)に4名の女性が、「予は如何にして社会主義者となりし乎」について手記を寄せている。

執筆者82名は、安部磯雄、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、山口義三、小田頼三、吉田璣、野上啓之助、斎藤兼次郎、南助松、半田一郎、内山愚童、和田英吉、岡野辰之介、幸内久太郎、杉村縦横、牧野充安、竹内余所次郎、中里介山、鷲尾教導、大亦楠太郎、延岡為子、松岡文子など。この欄にしか名前が見られない無名の社会主義者もいる。

職業は、新聞記者・弁護士・牧師・住職・医者・教員・学生・労働者・農民など広範囲にわたるが、太田雅夫の調査によると、キリスト者が11名、仏教徒が8名もおり、宗教家から社会主義に入った人が多いことがわかる。

社会主義者にさせた原因で、一番多いのは「読書」の49で、総計152の約1/3を占める。二番目が「社会主義の講演・演説・講義」で21、三番目が「貧者・弱者への同情」で17、四番目が「社会の不合理への反抗」15、五番目が「貧乏」の10という順序。

どんな本や新聞から影響をうけたか。

最高は幸徳秋水の『社会主義神髄」の19で、秋水の著書では他に『二十世紀之怪物帝国主義』が3である。

堺利彦の雑誌『家庭雑誌』(明治36年4月発刊)の4と『家庭の新風味」(明治34)の2を加えると、社会主義協会・社会民主党時代の安部・片山中心時代から、平民社時代は、幸徳・堺へと、明治社会主義の中心が移ってきたことがわかる。

安部磯雄の場合は、『社会問題解釈法』(明治34年)の7と、『社会主義論』(明治36年)の3がある。

片山潜の場合は『我社会主義』(明治36年)は皆無で、『都市社会主義』(明治36年)が1あるのみ。

矢野文雄の『新社会』(明治35年)は7と高位を占めている。

11月29日

パリ、職業斡旋所が行っているとされる搾取に抗議デモ。労働者、憲兵と衝突。

11月30

駐韓公使林権助、皇帝に謁見。日韓協定の必要性説く。

12月末、外相李址鎔に、協議に応じるよう指示(皇室の安全、独立保持への日本の協力、事変時の領土の安全保障)。

11月30

閣議、開戦に際しての「対清韓方針」決定。清国には中立を維持させ、韓国は支配下(「攻守同盟若くは保護的協約を締結」)におく。


12月

大杉栄(18)、平民社を訪問

大杉がはじめて平民社の社会主義研究会に出た晩、堺利彦が「みんな、どうして社会主義にはいったかというようなことをお互いに話しよう」といい出して、それぞれの述懐があり、大杉もそのとき「軍人の家に育ち、軍人の学校に教えられて、軍人生活の虚偽と愚劣とを最も深く感じているところから、この社会主義運動のために一生捧げたい」という意味のことを語り、最後に堺の「吾々の思想は天下にひろがり今や大運動になろうとしている。吾々の理想する社会の来るのも遠くない」という激励をきいて「ほんとうにそんなような気がして、非常にいい気持になって下宿に帰った」。

やがて年が改まってから下宿を友達の登坂や田中が移っていた月島にかえ、学校の往きかえりに毎日のように平民社によって、〝帯封を書く手つだい″などするようになった。


「しかしこの旗上げ(注・平民社創設)には、どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の頭を熟しさせていた。雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪ねた。毎週、社で開かれていた社会主義研究会の例会の日だった。・・・(平民社例会の部庭に入ると、まだ開会前で、年とった者と若い者が宗教問題で議論)・・・年とった方はあぐらかいて、片肱を膝に立てて頭をなでながら、しきりに相手の青年をひやかしながら、無神論らしい口吻をもらしていた。青年の方はきちんと坐って、両手を膝において肩を怒らしながら、其赤になって途方もないようなオーソドックスの議論に、文字通り泡を飛ばしていた。-僕はその青年のロについて出る雄弁には驚いたが、しかしまた、その議論のあまりオーソドックスさにも驚いた。僕も彼とは同じクリスチャンだった。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼は殆どそれをバイブルの文句通りに信じていた。僕は神は自分の中にあるものと信じていたのに反して、彼は万物の上にあってそれを支配するものと信じていた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだろうとさえ思った。そして無神論者らしい年とった男の冷笑の方にむしろ同感した。この年とった男というのは久津見蕨村で、青年というのは山口孤剣だった。」(「自叙伝-母の追憶」)。


当時の平民社(社会主義運動)とキリスト教との関係

大杉は平民社について、「平民社の四人のうち石川三四郎以外の幸徳、堺、西川は大の宗教嫌いだ」ったと回想しているが、平民社を後援していた安部磯雄、木下尚江は熱心なクリスチャソで、そこに集まって来た青年の大半もクリスチャンであった。当時の思想界では概してキリスト教が一ぽん進歩思想だった。すくなくとも支配的な忠君愛国の思想に背く最も多くの分子を含んでいた。大杉はまた「幸徳や堺もかなり辛辣に宗教家を攻撃もした ー しかし、宗教は個人の私事だということで、同志の宗教には干渉しなかった」ともいっている。

大杉はこのことをめぐって当時の自分とその周囲のことを次のように語る。


「僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』やなんとかいう仏教の博士の『釈迦牟尼伝』の、キリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイのいうように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思った。」(自叙伝)


つづく


2025年4月15日火曜日

だよな~ ⇒ 中国の朱光耀元財政次官は、米国の指導者からの敬意が示されない限り、中国は米国との協議には応じないとの見方を示した。(ブルームバーグニュース)

維新の会 松野明美 「朝ドラであんぱんを見て美味しそうだった。おにぎりではなくあんぱんですよ。」(農水委員会)

横浜市戸塚区 品濃中央公園横の八重桜並木が見頃に 2025-04-15

 4月15日(火)晴れ

朝方まで雨が降っていたが、朝10時頃からは快晴に。

東戸塚駅近く、品濃中央公園横の八重桜並木がそろそろ見頃に。

昨日も一日中風が強かったし、朝方の雨のあと快晴になったものの依然風は強く、そんなに多くないけれど花弁が落ちていた。







万博よりもカジノが本命。早速着手。 ⇒ 日本初のIR、大阪万博会場隣地で24日に本体工事着工へ(日経)

米大学、ハーバードに同調の動き トランプ政権に抵抗(日経); コロンビア大やプリンストン大も同調する声明を出しました。 / トランプ大統領、米大学50校で「リベラル狩り」 (日経); 名門大学の教育を「リベラル偏向」と敵視。政府助成金の取り消しなどで圧力をかけます。ハーバード大学は「要求を受け入れない」と反発しました。 / 米ハーバード大、トランプ政権の要求拒否 補助金1兆円超失う恐れ(時事);「ハーバード大のガーバー学長は声明で「私立大学が何を教えるか、誰を受け入れるか、どの分野を研究するかについて政府が指示するべきではない」と批判」   

トランプ米大統領、気に入らない報道番組に圧力 連邦通信委員会に「懲罰」促す(CNN)

大杉栄とその時代年表(466) 1903(明治36)年11月22日~26日 「わが全社会よ。まずかの凄惨の声を聞け。しかして、この問題に答うるところを一考せよ。一考してえずんば、ただちに社会主義にきたれ。社会主義の旗幟は、分明に汝の進路を指示するあらん」(幸徳秋水「凄惨の声」ー「平民新聞」第2号)

 

平民社の編集室。左から神崎順一、幸徳秋水、堺利彦、石川三四郎、西川光二郎、柿内武次郎。

大杉栄とその時代年表(465) 1903(明治36)年11月15日~21日 週刊「平民新聞」創刊② 「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ。」(白柳秀湖の回想) より続く

1903(明治36)年

11月22日

「平民新聞」第2号発行

片山潜「労働問題の将来」

「労働者は明治三十三年三月十日発布の治安警察法のために団結の権利、活動の自由を奪われた結果、「解傭を恐怖すること実に甚だし、餓死するより優れりという観念は・・・これがために豚同様の生活も・・・敢てする所なり。彼等は権利を要求する声をも発する能わざる恰(あた)かも奴隷の如し」と極言して、「労働運動焦眉の急務は治安警察法の廃止運動にあり」と論じた」(荒畑)

幸徳秋水「凄惨の声」。失業者続出の状況。

「どこか適当なロはございませんでしようか」「ほんの食うだけあればたくさんです」という市民の日常的会話から出発して、失業者の続出する資本主義社会の欠陥に迫る。窮乏の状態におかれた国民の大多数は、領土の拡大を約束する排外主義のとりこになり、日露開戦論にうかれていたが、秋水は、その足もとにしのびよる不景気の問題をとらえて、生活の権利意識を刺激し、社会主義思想へみちびくとともに、非戦論のエネルギーに転化しようと努める。


「わが全社会よ。まずかの凄惨の声を聞け。しかして、この問題に答うるところを一考せよ。一考してえずんば、ただちに社会主義にきたれ。社会主義の旗幟は、分明に汝の進路を指示するあらん」(幸徳秋水「凄惨の声」)


「同志の面影」。第1回は安部磯雄で堺利彦が安部を評する。

「君は実に純乎たる理想家である。……平和論をすれば『私はもう絶対にノン・レジスタンス(無抵抗)の主義をとるのです』と云う。・・・」

「安部は公開の演説会で「もし平和が人道であるならば、平和を世界に宣言してそのために一国が亡びてもかまわぬではないか」と、堂々と唱えるほど理想に忠実であり純粋な信念を有していた。」(荒畑「平民社時代」)

斎藤緑雨「もゝはがき」(「平民新聞」第2~8号4回連載)

「どれもこれも俊秀なら、俊秀は一山百文だとも言得られる。さて其俊秀なる当代の小説家が、普通日用の語をさへ知らぬ事は、ヒイキたる僕の笑止とするよりも、残念とする所だが、今ではこれが新聞記者にも及んだらしい。けふの万朝報に、悪銭に詰まるとあるのは、悪の性質を収得と見ず、消費と見たので、記者は悪銭身に附かずといふのと、悪所の金には詰まるが習ひといふのと、此二箇の俗諺を混同したものだらう。かゝる誤りは万朝報に最も少かつたのだが、先頃も外ならぬ言論欄に、辻待の車夫一切を朦朧と称するなど、大分耳目に遠いのが現はれて来た。(略)」


〈ここまでの斎藤緑雨〉

明治29年11月23日、樋口一葉が没した際、緑雨は葬儀その他を取り仕切った。その後も、一葉の母の滝子と妹の邦子が住む本郷丸山福山町のすぐ北側に続く丸山新町の崖の上にある下宿に住んでいたので、しばしばこの母娘を見舞ってやった。一葉が生前親しかったのは、「文学界」同人の馬場孤蝶・戸川秋骨であったが、馬場は彦根中学の教師をしていたので、葬式に出ず、緑雨とは面識がなかった。一葉の遺稿の編纂は秋骨と緑雨とが主として当り、2人の努力で一冊本「一葉全集」が出た

明治30年夏、馬場孤蝶(29歳)が樋口家を訪れた際、孤蝶は初めて緑雨(31歳)と出合った。

この年、孤蝶は東京に戻り、日本銀行文書課に勤め始め、緑雨ともよく会うようになった。

年末には、藤村が本郷森川町に下宿し、秋骨も交え孤蝶・緑雨らと会う様になった。秋骨は本郷台町に下宿しており、これら3人以外では上田敏なども集まるようになった。

明治31年、緑雨は「万朝報」に入り下宿も本郷森川町に移り、万朝報には「眼前口頭」、「太陽」には「ひかへ帳」を連載。

この年2月4日、一葉の母滝子(65歳)が没し、妹邦子(25歳)が残された。緑雨と、樋口家親戚の佐久間岡右衛門とで葬式の世話をしたが、樋口家には借金が多く残っていた。緑雨は、邦子の荷物を西村釧之助(樋口家と親しい文房具商)に託し、邦子を大橋乙羽に預かってもらい、借金取りを撃退した

邦子は間もなく西村家へ移り住み、西村釧之助の後をついで店を営んだ吉江政次という青年と結婚した。緑雨はその媒酌人であった。

「万朝報」時代、緑雨は幸徳秋水と親しく交わり、他に森川町の緑雨の下宿には津山から出てきた田岡嶺雲、久津見蕨村などがよく出入りした。ところが、明治32年秋、緑雨は「万朝報」に書いた「眼前口頭」の婦人論により筆禍事件を起こし「万朝報」を退社した。

定収入の途絶えた緑雨は体調不良もありその年の暮れ、浅草向柳原町にある妹じうの婚家に移った。

明治33年5月、地質学者であった弟の斎藤譲が調査先の台湾で病死した(もう一人の弟謙は医家の養子となり東大医学部卒業後、家業を継いでいる)。

明治33年暮れ、緑雨は妹の家を出て、転地療養も兼ねて鵠沼海岸の宿屋東屋に移る。この頃の緑雨の作品は、「太陽」「万朝報」に書く諷刺的短文が主であった。

「太陽」明治33年11月号に掲載の「青眼白頭」に書いた警句「按ずるに筆は一本也、箸は二本也、衆寡敵せずと知るべし」はよく知られている。

明治34年春~暮れには「おぼえ帳」を「太陽」に連載した。

明治34年3月、「明星」に新体詩「面影草」を寄稿。(緑雨は明治27年、「二六新報」で与謝野寛と同僚として働き、その後も交際を続けていた)。

明治34年4月、緑雨は小田原に移る。この時、彼は、鵠沼で親しくなった女中金沢たけと一緒に住んでいた。

明治34年夏頃、10年ほど前に緑雨の弟子として文士生活を始めた小杉天外が一家をあげて小田原に移り住んだ。

明治35年1月と2月、馬場孤蝶は小田原に緑雨を訪問している。

明治35年秋、緑雨は3年ぶりに東京(浅草須賀町)に戻る。

明治36年5月1日、本郷千駄木の団子坂近くに移る。

同5月、随筆集「みだれ箱」(博文館)出版。

同7月~9月、随筆「仕入残り」(「文芸倶楽部」)連載。

明治36年10月23日、本所横網町に移る。

この頃の緑雨には収入は全くなかったが、弟謙の送金や妹の婚家や従兄などからの援助で生活していた。また、上野の近くの坂本町で酒屋をしている従兄の妻が時々やって来て緑雨の世話をした。金沢たけはついていて看病に当っていた。

11月22日

早稲田社会学会、発表会。早稲田大学学生の永井柳太郎・松岡荒村らが組織。発会式には矢野文雄・片山潜・西川光二郎・斯波貞吉・堺利彦出席。

11月22日

大阪で東西連合新聞記者大演説会開催。対露強硬策主張。

11月22日

(露暦11/9)露、ガボン、「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」設立許可願い提出。

11月23日

同日付け片山潜より高野ます宛て書簡から、房太郎がすでに病気であることがわかる。

11月24日

清国、商会簡明章程制定。

11月24日

(漱石)

「十一月二十四日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

十一月二十六日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。鏡、産褥を離れる。

十一月二十七日(金)、無題の英詩三篇作る。

十一月二十九日(日)、無題の英詩作る。

十一月三十日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。」


「金子健二は、十一月二十八日(土)の「日記」に次のように書いている。「夏目先生はどんな豪い英文學作家に対しても必ず鋭い、そして又、冷たい観察眼で其の短所をり刳つて進んで行かれる。(中略)夏目先生にかゝつてはシエークスピアーも『この狸ぢゞいが』の一言で葬られてしまうのである。」」(荒正人、前掲書)

11月24日

オスマン帝国、墺・独からの改革案を受諾。

11月26日

尾崎行雄ら、無名クラブ組織。

11月26日

清国駐在武官に野砲第14連隊長(駐清武官)青木宣純大佐が就任。清国人を利用した情報・諜報・後方攪乱活動のため。

翌明治37年2月、開戦直後に「特別任務班」を編成。


つづく


2025年4月14日月曜日

横浜公園(横浜スタジアム)のチューリップが見頃 2025-04-14

 4月14日(月)晴れ

毎年の楽しみ。横浜公園(横浜スタジアム)のチューリップが見頃。

風の強い日が続いたので、首を傾げた花が多いように感じたけど、気にならない。

開花時期をずらして、長く楽しめるようになっているので、まだ当分の間見頃が続くと思う。















GUCCI、ルイ・ビトン、FENDIなどみな中国製。 / エルメスも / スマホは81%が中国 / アップルCEO「みな人件費が安いから中国製にしてると思うだろ。違うんだ。彼等の人件費は高騰している。我々が依頼している理由は彼等の技術と圧倒的な量なんだ。」

イスラエル軍内で高まる反戦の声、エリート部隊の予備兵も抗議に参加(CNN) / イスラエル 地元世論調査で停戦支持約7割に 兵役拒否も広がる | NHK / イスラエル内紛が露呈:元モサド高官シマ・シャイン氏がテレビで「ガザ戦争は民間人、特に女性と子供を殺すだけだ」と発言。空軍予備役970人が戦争終結を求める書簡に署名し、「これはイスラエルの安全保障のためでなく、ネタニヤフ首相の政治的・個人的な意図に沿ったものだ」と主張。

 

【リセッションを超える危機が来る?】 ブリッジウォーター創業者レイ・ダリオ氏は、米NBCの番組で「米国はリセッション寸前にあり、対応を誤ればそれ以上の深刻な事態に陥る可能性がある」と警鐘を鳴らした。 特に懸念しているのは、トランプ政権の関税政策が引き起こす貿易混乱、急増する米国債務、そして第二次世界大戦以降築かれてきた国際秩序の崩壊リスクだという。 「多国間主義から一国主義への移行は、グローバルな対立を激化させている」とし、債券市場の不安定化や地政学リスクが重なることで、1971年の金本位制の終了や2008年の金融危機以上のショックが通貨システムに起こり得ると指摘。


〈ツイート全文〉

 【リセッションを超える危機が来る?】

ブリッジウォーター創業者レイ・ダリオ氏は、米NBCの番組で「米国はリセッション寸前にあり、対応を誤ればそれ以上の深刻な事態に陥る可能性がある」と警鐘を鳴らした。

特に懸念しているのは、トランプ政権の関税政策が引き起こす貿易混乱、急増する米国債務、そして第二次世界大戦以降築かれてきた国際秩序の崩壊リスクだという。

「多国間主義から一国主義への移行は、グローバルな対立を激化させている」とし、債券市場の不安定化や地政学リスクが重なることで、1971年の金本位制の終了や2008年の金融危機以上のショックが通貨システムに起こり得ると指摘。

トランプ政権は10〜145%の関税を掲げつつも、直後に中国製電子機器への一部免除を発表するなど方針は揺らぎ、先行き不透明感が高まっている。

ダリオ氏は、米中双方が「元高・ドル安」を前提とした協調的な“Win-Win”の貿易合意を模索すべきだと提言。

加えて、米財政赤字をGDP比3%以内に抑えなければ、債務の需給バランスが崩れ、深刻な金融不安を招くと警告した。

この危機はまだ回避可能だが、必要なのは政治的分断の解消と、グローバルな協調路線への回帰だという。


「#万博ヤバい」トレンド入り 検知のメタンガス、過去に死傷事故も(毎日) / 「万博の成否は前半戦」幹部の皮算用 孤島がはらむ混雑と気象リスク(朝日); 乏しい陸路「行きたいのに入れない」恐れも 収支赤字なら税金で穴埋めの可能性 地震リスクを抱える孤島 夏場の熱中症リスクも懸念 / 《えきそば3850円》「しんぶん赤旗」を取材拒否、3月には爆発事故も…交通の便が悪い「夢洲」にこだわった大阪万博は「成功」と言えるのか(文春オンライン) / 大阪万博の今後に大きな不安…初日来場者11.9万人は「最大想定の半分」なのにトラブル続出のア(日刊ゲンダイ) / 大阪万博の初日に行った感想 「準備不足だなんだとバッシングを受けてはいても、最終的にはそれなりに上手くやるだろうと過信した私は愚かだった。  日本国の衰退っぷりを、まざまざと見せつけられた気分だ。」 / 工事未完成のパビリオンも  

 

大杉栄とその時代年表(465) 1903(明治36)年11月15日~21日 週刊「平民新聞」創刊② 「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ。」(白柳秀湖の回想)   

 

平民新聞の創刊号(明治36年11月15日)

大杉栄とその時代年表(464) 1903(明治36)年11月4日~15日 週刊「平民新聞」創刊① 「一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。 一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。 一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。 一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。」 より続く

1903(明治36)年

11月15日

週刊「平民新聞」創刊②(つづき)

1部3銭5厘。創刊号は5千部売切れ3千部増刷(計8千部)。

通常の部数は、3,700~4,500部(この頃の新聞業界の部数から見てもそれほど少ないわけではない)。内3,000が売捌店に出され、1,500が直接購読分。

「共産党宣言」の翻訳を載せた53号は初号と同じ8千部。

しかし罰金、発禁、発行人・印刷人・執筆者の投獄という続き、明治38年(1905)1月の第64号を赤刷りにして廃刊

明治36年11月以降1年間で合計約20万部。「平民文庫」は8種1万5,270冊を販売。

「社会主義入門」(10銭)2,301冊、「百年後の新社会』(5銭)2,598冊、小説「火の柱」(35銭)3,469冊、『消費組合の話」(12銭)1,410冊、「瑞西(スイス)」(15銭)1,932冊、「ラサール」(15銭)1,613冊、「土地国有論」(10銭)1,116冊、「経済進化論』(15銭)831冊。また「平民絵葉書」(10銭)650組。

リーフレット「社会主義の檄」(3万2千枚)、「普通選挙の檄」(7千)、「普通選挙請願用紙」(3千)等を配布。

1年間に120回の集会。内訳は、演説会が東京市内44回、地方17回。茶話会その他が市内16回、地方4回。社会主義研究会30回、婦人講演会13回。

地方遊説は平民社の堺、幸徳、石川、西川、社会主義協会の木下、野上啓之助・松崎源吉、山口孤剣等が静岡、茨城、群馬、埼玉、千葉、栃木、神奈川、東京府下、東海道沿線各地で40余回。

山口孤剣、小田頼造が東京・下関間を徒歩跋渉し、小野丑郎、西村伊作、権田保之助、野村某、阿南某、西島某等は千葉、長野、新潟ならびに近畿、関東、東海道、山陽道等にわたって社会主義書類の伝道行商旅行を行う。

「平民新聞」を中心とする読書会、研究会、社会主義宜伝を目的とする団体が全国各地にできる。

永井柳太郎、山田金市郎、松岡荒村、白柳秀湖、大亦墨水、菊池茂、小野有香、安成貞雄など早大学生を主とした早稲田社会学会。森近運平らの岡山いろはクラブ。荒畑寒村らの横浜平民結社(後の曙会)等。

他には、下関、神戸、大阪、京都、高知、丸亀、福岡、宮崎、佐賀、小倉、長崎、鹿児島、柳川、千葉、上州名和村、栃木県佐野、宇都宮、信州神川村、諏訪、長野、上田、陸前の遠田、秋田の象潟、茨城県の柿岡、川越、・横須賀、名古屋、静岡県吉原、紀州の新宮、串本、田辺、飛騨の高山、丹後の峰山、福井、高岡、出雲の安来、札幌、函館、夕張炭山、足尾銅山等。"

堺は「予の半生」で、「予の家の生活は固より苦しくなったが、予の心の愉快と満足とは喩(たと)へるに物が無い程であった」と当時をふり返っている。

白柳秀湖の回想(1936年刊行『歴史と人間』)

当時、秀湖は早稲田の学生だったが、平民社に出入して堺を知り、大きな影響を受け、のちに売文社の社員になっている。戦争気分が高まるなかで、高らかに「非戦」を宣言した平民社は、社会に不満を抱く青年やインテリ層を惹きつけた。その惹きつける力は堺利彦によるものが多かった、と秀湖は分析している。


「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ。(中略)

後年秋田雨雀君が或る席上で、著者(*秀湖)に『あの頃の社会主義運動は可なり空想的な、ユートピア的なものであったね』といひかけたことがある。その時著者は答へた。

『馬鹿をいつては困る。君は大正六年以後、社会運動の方に乗出して来た人だから平民社のことをさう観て居るのだ。平民社の社会主義といふものは全くユートピア時代の殻をぬいで、その基礎をしつかりとした科学的理論の上に置いて居た。「共産党宣言」はもちろんのこと、マルクス、エンゲルス、ベーベル、シヤイデマン、カウツキー、クロボトキンなどの基礎的文献は、すべて研究されてゐたし、アプトン・シンクレアーの「ジャングル」でも、ヴイルゼーの「小兵営」でも、今のプロ文学の種本となってゐるほどのものはすべて手がついてゐた。』秋田君には答がなかった。

しかし、平民社の本格的の仕事は仕事として、平民社に多量の理想郷的空気が漂つてゐたといふことは否めぬ事実だ。これは全く別問題である。」

北輝次郎(21)、佐渡に『平民新聞』創刊号数十部取り寄せて知人に配布。10月には「佐渡新聞』に連載した論文で「吾人は社会主義者なり」と述べている。

11月16日

(漱石)

「十一月十六日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。

十一月十七日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

十一月十九日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。」(荒正人、前掲書)

11月17日

ブラジル、ボリビアとペトロポリス条約を結びアクレ地方を併合。国境画定

11月18日

米、パナマ新政府とヘイ・ビューノー・バリラ(ヘイ・ブナウ・バリジャ)条約調印。パナマから運河地帯の永久租借権を獲得。

11月19日

専門学校令によって関西法律学校設立。1905(明治38)年1月1日関西大学と改称。

11月21日

慶應義塾大学・早稲田大学、初めての野球試合。三田綱町グランド。第1回早慶戦。11対9で先輩格の慶應義塾大学勝利。

11月21日

米、ホワイト・スター社の世界最大の蒸気船バルチック号進水。


つづく

2025年4月13日日曜日

動揺を見せない習近平...貿易戦争の準備ができているのは「米国でなく中国」である理由(ニューズウィーク日本版); 米中貿易戦争が始まりそうな様相を呈しているが、中国はもうかつての中国ではなく、アメリカには「不都合な真実」がある https://t.co/cbc003is2M — ニューズウィーク日本版

〈米国債売却が現在のアメリカ経済の「急所」〉 遅きに失した関税一時停止、米国離れが既に進行中-MLIV調査(Bloomberg) / 「米国売り」止まらず 相互関税停止でも―国債・ドル離れ進む(時事4/12) / トランプ氏の急所、米国債なお不安 鎮まらぬ「米国売り」 - 日本経済新聞 / 米大統領 相互関税90日間停止 金融市場の動揺抑えるねらいか | NHK / FOXニュースによると、昨日日本が米国債を売却したことで、トランプ大統領は中国を除く90日間の関税停止を発表せざるを得なくなったという / トランプ氏変心の理由、プロの見解は「米国債投げ売り」 - 日本経済新聞 / トランプ関税停止、背景に米国債売り 「金融戦争」市場が警戒 - 日本経済新聞 / 米関税政策、ベッセント氏ら穏健派が関与強める 交渉重視に転換へ - 日本経済新聞   



 

若手研究者の間で進む"アメリカ離れ"、トランプ政権の愚策がもたらす「産業大国の緩やかな死」 (野口悠紀雄 東洋経済); アメリカから逃げ出す若手研究者 大学への研究助成金も削減 科学者たちが発したSOS   

 

大杉栄とその時代年表(464) 1903(明治36)年11月4日~15日 週刊「平民新聞」創刊① 「一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。 一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。 一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。 一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。」

平民社

大杉栄とその時代年表(463) 1903(明治36)年11月1日~3日 「ハムレットの亡父が青山墓地に幽霊の姿よろしく現はれて来て、その昔シェークスピアー自身が其の役割りを勤めたといふ亡霊の、あの幽かなものすごい口調で、「怨めしや」「怨めしや」の言葉を吐くあたりは、誠に感傷的の気分をそゝるに十分なものがあった。(略)ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。」(金子健二『人間漱石』) より続く

 1903(明治36)年

11月4日

黄興・宗教仁・陳天華ら、反満革命の団体華興会結成(長沙)。

11月5日

鴎外『大戦学理』(クラウゼヴィッツの兵書の訳本)発行。鴎外の卓越した学識や見識に山縣有朋が注目する。

鴎外は明治21年(1888)のドイツ留学時代にクラウゼヴィッツの兵書の研究をしており、第12師団軍医部長としての小倉赴任後もその「講筵」を開いていた。

11月6日

海軍工廠条例公布。従来の海軍造船廠と海軍造兵廠を統一し、横須賀・佐世保・呉に設置。

11月6日

今日出海、誕生。

11月6日

アメリカ、コロンビアからの独立を宣言したパナマ共和国を承認。

11月7日

(漱石)

「十一月七日(土)、曇。午後一時三十分から、東京帝国大学文科大学第三十番教室で、「帝国大学文学会第一回公開講義」催される。姉崎嘲風(正治)「ワグナーの恋愛観」・幸田露伴(成行)「日本文学の滑稽の一面」の講演あり。恋愛を中心とした文芸批評盛んになる。漱石は一言も言及しない。

十一月九日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。

十一月十日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

十一月十二日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。

十一月中旬(推定)(日不詳、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)

11月10日

東京府下の新聞が聯合して「東京市内新聞雑誌通信諸社有志時局問題聯合懇話会」を帝国ホテルで開催し、新聞界は開戦論で統一する動きとなる。

「萬朝報」よりも長く反戦論を主張していた島田三郎の「毎日新聞」も翌11日より開戦論に変わる。

11月11日

『毎日新聞』11月11日「東洋運命の転機」は、「日韓清三国の安危四億五千万人権の消長、東洋後来の運命皆之に繋れり、嗚呼日本帝国の責任、豈亦至大ならずや」と、日露戦争には「東洋の運命」がかかっていると述べる。

11月12日

黒岩涙香(41)・島田三郎(50)・田口卯吉(48)ら、横浜賑町・喜楽座での対露同志記者演説会で講演。

11月12日

姫路平野で陸軍大演習。3万余参加。

11月15日

『毎日新聞』11月15日「一日を緩ふするは一日の不利 実力を背にして解決せよ」に見えるように、開戦論を唱えた新聞各紙が、いずれも一日でも早い開戦を行なうことが日本に有利であると主張

11月15日

平民社設立

幸徳秋水(33)・堺利彦(34)、現在の有楽町マリオンの斜め前あたりの東京市麹町区有楽町三丁目二番地の借家に「平民社」を設立(1階に秋水らが住み、2階が事務所として使われた)。

週刊「平民新聞」創刊(編集発行人堺)。社員はほかに山根吾一、柿内武次郎の計4名。間もなく山根は、片山潜渡米の留守居役として『社会主義』の編集責任者となる。秋水の妻の千代子も実質的な会計役を務めている。

11月29日には朝報社を辞めた石川三四郎、翌明治37年1月3日には『二六新報』を辞めた西川光次郎が入社。事務は神崎順一、広告は熊谷千代三郎が担当。

①小島龍太郎が新聞保証金1千円寄附、②加藤病院長加藤時次郎が当初の創業費750円を貸与、

③10月20日夜の社会主義協会主催非戦論大演説会(中央公会堂)収益金32円余寄附、

④社会主義協会員岡千代彦・幸内久太郎・斎藤兼次郎らの事務応援。

小島龍太郎は中江兆民の古くからの友人で衆議院書記官などを務めていたが、兆民が1901年に没した後は、その愛弟子である幸徳秋水への支援を惜しまなかった。

週刊『平民新聞』の編集人と発行人を決める際、幸徳秋水は病弱な上、老母も抱えているという理由で、堺は自分が発行兼編集人として署名し、予想される弾圧の矢面に進んで立とうとした。秋水は最初、堺の申し出に応じず、論説を執筆する立場上、自分が発行兼編集人になって責任を取ろうとしたが、堺が苦心して秋水を説得したという(師岡千代子の証言)。

堺は『平民新聞』の発行兼編集人になったが、予期した通り、秋水が書いた論説がもとで新聞紙条例違反に問われ、社会主義者として初めて入獄する。

堺利彦と幸徳秋水は10月27日に警視庁に届けを済ませ、月末には新聞広告を出し、すぐに週刊『平民新聞』編集に取りかかる。

11月15日発刊の創刊号は12ページ、第2号と第8号は10ページだが、それ以外の号は8ページ。サイズはほぼタブロイド判で5段組、発行日は毎週日曜日。

第1号1面トップには、たいまつのカットと「平民社同人」と署名した「宣言」が掲げられた。

一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。

一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。

一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。

一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。


伊藤銀月が、『平民新聞』創刊号に「枯川と秋水」という酒脱な人物評を書く。

事の経営に於ては枯川亭主役にして秋水女房役、一旦筆を執るに至れば秋水亭主役にして枯川女房役、語を換へしめよ、内に於ては枯川の旦那に秋水の細君、外に向つては秋水の主人粟枯川の夫人。此の配合は世を終る迄両者の相離るゝを許さず、或は切つても切れぬ腐れ縁の種類歟

枯川の社会主義は趣味七分に理論三分、秋水の社会主義は理論六分に趣味四分。此厳密なる数字的差異、恐らく両者自身も未だ算し到らじ

枯川の文を解剖すれば、洋文素四、和文素四、漢文素二、併せて十。秋水の文を解剖すれば、洋文素四、漢文素四、和文素二、併せて十

秋水の想を解剖すれば、科学素五、純文学素三、哲学素二、枯川の想を解剖すれば、純文学素六、科学素三、哲学素一、秋水を社会主義の団子を円める人にして枯川は其餡(あん)を煮る人也(中略)

秋水と共に人を殺し人を活かすことを謀るぺく、枯川と共に人を医し人を育することを謀るぺし、我れ幸に友あり

枯川は飽迄(あくまで)枯川たれ、秋水は何処迄(どこまで)も秋水たれ」

寄稿者:安部磯雄、木下尚江、片山潜、金子喜一(在米)、村井知至、斯波貞吉、田岡嶺雲、斎藤緑雨、細野猪太郎、久津見蕨村、杉松楚人冠、伊藤銀月、加藤汀月、小島三申、白柳秀湖、山口孤剣。挿絵(平福百穂、間もなく小川芋銭)。

新宮の大石誠之助はや早い時期からの支援者で投稿も始める。

第3号から「予は如何にして社会主義者となりし乎」という記事が連載

英文欄は、斯波貞吉(創刊号~第10号)、安部磯雄(第11号~終刊号)が担当。創刊号は斯波貞吉「ドイツ社会党大会」。9月10日ドレスデンの大会。ベーベルとベルンシュタインの闘いと改良派の敗北。

「創刊号の他のどの記事よりも興味と教訓に富んでいたのは、斯波貞吉「ドイツ社会党大会」の記事であった。斯波は『萬朝報』の堺や幸徳の同僚であったし、社会主義演説会にも出たことがあり、後に山路愛山と国家社会党を組織した。平民社の同情者の一人で、創刊号から第十号までの英文欄を担当した。」(荒畑)

「その期間の『平民新聞』の主要な記事は、創刊号から八回にわたって連載された安部の「社会主義の運命を決すべき問題」である。安部は経済界におけるトラストの趨勢、都市における市有事業の発達、ドイツにおける社会民主党の投票増加、ニュージーランドにおける社会政策の進歩等を引例して、これらがいずれも社会主義実現の大勢を示唆するものであると論証した。」(荒畑)

つづく

2025年4月12日土曜日

鎌倉の桜 明月院の枝垂桜まだ十分見頃 明月院道からモミジの新緑が鮮やか 2025-04-12

 4月12日(土)晴れ

なかなかタイミングが合わなくて、行けてなかった鎌倉、明月院。

枝垂桜、もうダメかなと心配だったけど、まだまだ見頃十分だった。

また、モミジの新緑が非常に鮮やかで、目を楽しませてくれた。

▼枝垂桜







▼ここはかなり散ったのかな?


▼モミジの新緑
年末にはすべて落葉したのに、いま鮮やかな若葉となって再生。
明月院へのアプローチ(明月院道)から始まる。


▼ここから境内