1902(明治35)年
9月23日
ロシア皇帝ニコライ2世、フィンランド自治権剥奪。ロシア人総督任命。
9月24日
この日の社会主義学術講演会には巡査8人と探偵7人が会場に乗りこんで監視し、無事に話し終えたのは安部磯雄と木下尚江だけだった。
太田雅夫『初期社会主義史の研究-明治三〇年代の人と組織と運動』では、その原因は堺が『萬朝報』に書いた「社会主義と元勲諸老」だったと指摘している。堺はこの論説で矢野龍渓の『新社会』を取り上げ、元勲たちが社会主義に対して深い恐れを抱き、慌てているように見えることを皮肉っていた。
9月24日
イラン、ホメイニ師、誕生。
9月25日
四川省の煤油鉱務合弁し、清仏和成公司成立。
9月25日
官設鉄道と関西鉄道(株)、名古屋-大阪間の客貨争奪戦争について協定覚書を交換。競争は一応終結。
9月25日
山陽鉄道、日本郵船(株)と契約して1、2等船客の希望により神戸-下関間の船車振替乗車券を販売。
9月27日
英の東アフリカ保護領(現ケニア、ウガンダ東部)で、王領地条例公布。
9月28日
関東大洪水。関東・東北地方に暴風雨。特に小田原・国府津の津波、足尾銅山の山崩れの被害が甚大。
9月29日
仏、エミール・ゾラ(62)、没。、一酸化炭素中毒。
10月
大杉栄(17)、東京中学校と順天中学校の試験を受ける。順天中学は「下宿の息子の友達(早稲田中学卒業)」に替え玉で受けてもらう。東京中学は不合格、順天中学は合格。神田区中猿楽町の順天中学5年に編入。
友人の登坂高三と本郷区壱岐坂下の下宿屋・甲武館に入る。
本郷会堂で海老名弾正から洗礼を受ける
「僕と一緒にこの順天中学校へはいった友人に登坂というのがいた。やはり僕と殆ど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から遂われて来たのだった。
この登坂とは、その年の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷の幼年学校の面会室で出遭った。そして彼から、新発田の旧友で同時に幼年学校へはいった谷という男ともう一人とが、やはり彼と一緒に退学させられたことを知った。四人はすぐ友達になった。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じような理由で大阪の幼年学校を退学させられた、島田というのともう一人と、どこかで落ちあって、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
みんなはその名誉回復のためというので、互いに戒めて勉強を誓った。そしてその年の九月十日にみんなどこかの中学の五年にはいった。
その中でも登坂と僕とは、最初に出遭った関係からか、またお互いに文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合ったりしたせいか、一ばん近しくなって、殊に一緒に順天中学へはいるとすぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。
二人とも学校の方もよく勉強したが、小説もずいぶんよく読んだ。坂上にちょっとした貸本屋があって、そこから借りて来るのだが、暫くの間にその貸本屋の本を殆どみな読んでしまった。」(自叙伝-母の憶い出・四)
「壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには小説のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引きつづいて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでいた。矢野竜渓の『新社会』は矢来町時代に、丘博士の『進化論講話』は壱岐坂下時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰り返しては愛読した。-『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページ毎に目の前に開けて行くのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにしてその一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本で始めて目覚めさせられた。そして同時に、またすべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいり易くさせた。
『なんでも変らないものはないのだ。旧いものは倒れて新しいものが起きるのだ。いま威張っているものがなんだ。すぐそれは墓場の中へ葬られてしまうものじゃないか』」(自叙伝-母の憶い出・四)
丘博士の『進化論講話』や矢野竜渓の『新社会』等をくりかえして読んで「何でも変らないものはない、旧いものが倒れて新しいものが起きる」と自覚はしたが、「僕にはまだ何かの物足りなさがあった。母が死んだ、というようなことも殆ど忘れたようにはしていたが、意識の中ではよほどさびしかったにちがいない。ー 友人といえば、幼年学校の落武者だけだったが、それも同じ境遇から互いに励み合ったというほどのこと ー たぷんそんな餓えを充たすためだったのだろう、僕はよく飯倉の親戚の家へ出かけた ー しかしそこの人達はみな男も女も綺麗ではあったが、その顔も心も冷たかった。殊に僕が幼年学校を逐いだされてからは、なおさらそのような気がした。」そして「そんな寂しさがきっと主になって、そしてそのほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求が手伝って」キリスト教会へ行くことをはじめた。
「順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行きはじめた。そして下宿から一ばん近い、またお説教の一ぽん気に入った、海老名弾正の本郷会堂で踏みとどまった。海老名弾正の国家主義に気がついたのかつかなかったのか、それともまだ僕の心の中に大ぶ残っていたいわゆる軍人精神とそれとがあったのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髭をしごいてはその手を高くさしあげて、『神は……』と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。・・・先生はよく『洗礼を受ける』ことを勧めた。『いや、まだキリスト教のことがよく分らんでもいい。洗礼を受けさえすれば、すぐによく分るようになる』と勧めた。僕はかなり長い間それを躊躇していたが、遂に洗礼を受けた。その注がれる水のよく浸みこむようにと思って、わざわざ頭を一厘がりにして行って、コップの水を受けた。」(「死灰の中から」)
永井荷風(23)『新任知事』(「文芸界」)。叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたとされ、これがもとで阪本は荷風を絶縁する。荷風の権力に対する反骨精神の反映。
つづく
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