2025年3月3日月曜日

大杉栄とその時代年表(423) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走① 「その頃、私と妻との間にはすでに2人の娘がいた。・・・。私が脱走すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナに二重の重荷を背負わせることになるにちがいなかった。しかし、彼女はたった一言でこの問題を退けた。  『行くべきよ』。  彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

シベリヤから脱走したトロツキー(1902年夏)

大杉栄とその時代年表(422) 1902(明治35)年10月 漱石のスコットランド旅行 「彼のピトロクリー滞在は十月下旬より一週間程度と思われるが、ロンドンの煤煙と雑踏を逃れ、その自然に接した清々しさは、帰国後の小品「昔」(『永日小品』所収)に満ちている。彼が小高い丘にあるディクソンの邸で四方を眺めたとき、一本のバラが塀に添って咲き残っていた。彼は邸の外に出て、主人と一緒に谷川まで下りて見たが、「崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散ってゐた」。鏡子は帰宅した漱石の荷物に、何かの花片が交じっていたことを記憶している。おそらくそれは、この絶景と晴ればれした気持ちの記念として彼が拾って蔵(しま)ったバラの花に違いない。」(十川信介『夏目漱石』) より続く

1902(明治35)年

10月

〈トロツキーの脱走①〉


トロツキー(23)、流刑地を脱走、チューリッヒ~パリ経由10月頃ロンドン到着

レーニン・クルプスカヤ夫妻と会い『イスクラ』の協力を始める。この頃よりトロツキーを名乗る。

レーニン宅から数ブロック離れたアパートに、マルトフ、ヴェラ・ザスリッチと住む

(経緯)

この年夏頃より、流刑地に「イスクラ」やレーニン「何をなすべきか」が届く。

秋の近づく頃、妻と娘2人を残して脱走。シベリアには古い世代の革命家の影響をうけた農民達が政治犯脱走を支援。

シベリア鉄道を西に向かい、サマラで暫く滞在。ここに「イスクラ」の国内(非亡命者の)司令部がある。トップは技師グルジジャノフ(1905年、運動からはなれ、後復帰。スターリン体制下ゴスプラン議長)。ここで「イスクラ」派(1898/3第1回党会議後壊滅した社会民主労働党を「イスクラ」の思想と方法で再建をめざす)組織に参加。ハリコフ、ポルタワ、キエフを往来。

早く国外に出すようにとのレーニンの催促により、グルジジャノフスキーは旅費とカーメネツ・ポドリスク方面でオーストリア国境を越える指示を与える。ブローティの町で国境を越えるがチューリッヒまでのお金が不足。

ウィーンでオーストリア社会民主党指導者ヴィクトル・アドラーに面会、支援を得る。

ロンドンでは、亡命者の長老チャイコフスキーや老アナキストのチュルケーゾフと論争。講演の手配などはアレクセーエフが行う。

レーニンは大英博物館で多くの時間を過ごす。


〈トロツキー『わが生涯』より〉


 「その頃、私と妻との間にはすでに2人の娘がいた。下の娘[ニーナ]はまだ生後4ヵ月であった。シベリアでの生活は生やさしいものではなかった。私が脱走すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナに二重の重荷を背負わせることになるにちがいなかった。しかし、彼女はたった一言でこの問題を退けた。

 『行くべきよ』。

 彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。私たちが新しい大きな課題を自覚したとき、私の脱走という考えを最初に言いだしたのは彼女の方だった。この選択を前にして生じたさまざまな懸念を、彼女はすべて取りのぞいてくれた。」


 「脱走後、数日のあいだ彼女は私の脱走を警察の目からまんまとごまかすことに成功した。国外に着いてから、私はほとんど彼女と連絡をとることができなかった。その後、彼女には第二の流刑が待っていた。後年、私と彼女とはたまの機会にしか会うことがなくなった。生活は私たちを引き離したが、思想的なつながりと友情とはけっして破られることなく続いた。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)


 「秋が近づき、泥濘期が迫っていた。私の脱走を早めるために、二つの順番を一つにすることが決定された。仲間の農民が、マルクスの翻訳者であるE・Gという女性といっしょに私をヴェルホレンスクから連れ出してくれることになった。夜になって、野原で、その農民は荷馬車の乾草とむしろの下に私たちを隠し、荷物のように見せかけた。同じ頃、警察の目を数日間ごまかすために、私の家では、病人に見せかけた人形に毛布をかぶせておいた。御者は私たちをシベリア式で、すなわち時速20ヴェルスタものスピードで運んでくれた。私は、背中に感じる道のくぼみを一つ一つ数えながら、隣の女性の圧し殺した息づかいを聞いていた。途中で2度ばかり馬を取りかえた。鉄道に到着する前に、2人がいっしょにいることで失策や危険を倍加させないよう、私と連れの女性とは分かれ分かれになった。私はとくに危険な目に会うこともなく列車に乗り込むことができた。その列車にイルクーツクの仲間が、糊のきいたシャツやネクタイなど文明を象徴する品々のつまったトランクを届けてくれた。私の手には、グネディチが1行6脚のロシア語に訳したホメロスの詩集があった。ポケットには、私が何の気なしにトロツキーと署名した旅券が入っていたが、よもやそれが私の生涯の名前になるとは、その時は夢にも思わなかった。

 私はシベリア鉄道で西に向かった。主要駅に配置されている憲兵たちは、私がそばを通り過ぎていっても無関心であった。大柄のシベリア女たちが、ローストチキンや子豚、ビン入りの牛乳、大量の焼きパンを駅に持ち込んでいた。どの駅も、シベリアの豊かさを誇示する展示会のようだった。列車に乗っている間ずっと、どの車両の客もお茶を飲み、安いシベリア産の丸パンを食べていた。私はホメロスの詩集を読んだり、外国に思いを馳せたりしていた。脱走行には、ロマンチックなものは何もなかった。それは、ひたすらお茶を飲むことで明け暮れた。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)


「私はサマラにしばらく滞在したが、そこには『イスクラ』の国内司令部、すなわち非亡命者による司令部があった。そしてそのトップにいたのは、クレールという変名を持ったクルジジャノフスキー(現ゴスプラン議長)という技師であった。彼とその妻は、1894~95年にはペテルブルクで、その後もシベリアの流刑地で、レーニンの仲間として社会民主主義運動に従事していたが、1905年革命の敗北後まもなくして、『クレール』は他の数千の活動家とともに党を離れ、技師として、産業界で非常に高い地位についた。当時、地下活動家たちは、かつては自由主義者でさえ与えてくれた程度の援助すらクルジジャノフスキーが拒否したことに、不満をこぼしたものだった。10~12年の中断ののち、党が権力を握ると、クルジジャノフスキーはいそいそと党に復帰した。これが、現在スターリン体制の中枢を担っているインテリゲンツィヤの非常に多くの部分がたどった道である。

 そのサマラにおいて私は、クレールがつけてくれた『ペロー』[ロシア語でペンの意味]という変名で、いわば公式に『イスクラ』組織に加わった。これは、シベリアで私がジャーナリストとして活躍したことに敬意を表してつけてくれたものだった。……

 サマラの『イスクラ』ビューローの依頼で、私は、すでに『イスクラ』組織に入っている革命家や、あるいは、これから獲得しなければならない革命家たちと会うために、ハリコフ、ポルタワ、キエフを訪れた。だが、あまり成果のあがらぬままサマラに帰ってきた。南部での結びつきは組織的にまだまだ弱く、ハリコフでは連絡先の住所が間違っており、ポルタワでは地方的愛国主義の壁にぶつかった。短期の旅行ではらちが開かないのであり、必要なのは本格的な活動だった。そうこうするうちに、サマラのビューローと頻繁に連絡を取り交わしていたレーニンは、私を早く国外に寄越すようせきたててきた。クレールは私に旅費を渡し、カーメネツ=ポドリスク方面でオーストリア国境を越えるのに必要な指示を与えてくれた。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)


「 ウィーンで何よりもびっくりしたのは、学校でドイツ語を勉強していたにもかかわらず、私の言うことが誰にも通じなかったことである。道ゆく人をつかまえて話しかけても、ほとんどの人は肩をすくめるばかりであった。それでも何とか、赤い帽子をかぶった老人に、『アルバイター・ツァイトゥング(労働者新聞)』の編集部に行かねばならないことをわからせることができた。私は、オーストリア社会民主党の指導者ヴィクトル・アドラー本人に会って、ロシア革命の利益のためにただちにチューリヒに赴かなければならないのだと説明するつもりだった。案内の老人は私を目的地に連れていくことを引き受けてくれた。われわれは1時間ほど歩いた。だが、目的地に着いてみると、編集部はすでに2年も前に別の場所に引っ越していた。さらに30分ほど歩いた。やっと探し当てた編集部の窓口係は、面会はできないと無情に告げた。案内してくれた老人に払う金もなく、空腹でしかたがなかったし、何よりもチューリヒに行かなければならなかった。・・・・・

(略)

 私を迎え入れてくれたのは、背の低い、ほとんどせむしのような猫背の男で、疲れた顔に腫れぼったい目をしていた。ちょうどウィーンでは州議会選挙の真っ最中で、アドラーは、前日もいくつかの集会で演説をし、夜には論文やアピール文を書いていたのだ。こうした事情は、アドラーの息子の細君から一五分ほど後に聞いた話である。

 『せっかくの日曜の休息をお邪魔して申し訳ありません、博士…』。

 『ふむ、それで、それで…』。その口ぶりは、表面的には厳しそうだったが、人を怯えさせるものではなく、先を促すような調子だった。この人物の顔に刻まれたすべてのシワから知性が感じられた。

 『私はロシア人で…』。

 『うむ、それは言わなくてもけっこう。すでにわかっていました』。

 視線をすばやく走らせながら私を観察している博士に、私は編集部の入り口で交わした会話のことを話した。

 『何ですって? あなたにそう言ったんですか? 誰だろうな? 背の高い男? 大声で? ああ、それはアウステルリッツだ。大声で、と言いましたよね。アウステルリッツですよ。彼の言ったことをあまり本気でとらないでくださいよ。ロシアから革命のニュースを持ってきたのなら、夜中でもわが家の呼び鈴を鳴らしてくださいよ。カーチャ、カーチャ!』、彼は突然大声で呼んだ。息子の細君が入ってきた。ロシア人だった。

 『さあ、これであなたの用件はうまく運ぶでしょう』、そう言ってアドラーは私たちを残して部屋を出ていった。

 こうして、それから先の私の旅は保証された。(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)


 「アクセリロートはトロツキーにいくばくかの金を与え、パリ経由でロンドンヘ旅立たせた。トロツキーはパリからロンドンまで2ヶ月かかっている。われわれは彼を献身の巡礼の途上にある若者として記述しているが、しばらく立ちどまって、2ヶ月かかったという事実を説明する必要がある。パリには、いつもロシアの革命的亡命者の居留地(コロニー)があった。そこには、他のコロニーと同じく、『イスクラ』派のグループが存在した。このグループにはロシアからの新しい移住者や亡命者を歓待する一種の非公式委員会があって、その当時、この委員会の長はナターリア・イワノーヴナ・セドーヴァだった。彼女は闘志を内に秘めた物静かな少女で、頬骨が高く、少し悲しそうな眼をしていた。貴族の出身だが、子どものころからの反逆者だった。ハリコフの寄宿女学校時代、彼女は、お祈りに出席することを拒否して聖書の代りにチェルヌイシェフスキー[ロシアの革命的ナロードニキ]を読むようクラス全体を説き伏せた。その後、モスクワ大学へ進学し、さらに知識と革命の仲間を求めてジュネーブヘおもむいた。そして、プレハーノフを中心とするジュネーブのサークルにそのどちらをも発見したのだった。彼女は『イスクラ』組織のメンバーになり、トロツキーがパリで会ったとぎには、彼女はすでに非合法文書を運ぶためにロシアヘ旅行した経験があった。

 亡命者を歓待する彼女の仕事というのは主に、彼らに住むための安い部屋を探してやることであり、いちばん安いレストランヘ案内してやることであった。そして彼女がトロツキーのために見つけてやった部屋は、通気孔のある押し入れに毛が生えたようなものだった。彼のためにこの部屋を手配してから、階段を降りてきたときに、彼は彼女に出会ったのである…。

 真に良心的な伝記作家なら数章を費すくらいのロマンスがたっぷりあっただろう、と私は想像する。彼の少年時代に少女との関係を特徴づけていた、素気なさで隠した羞恥心を、彼はしだいに捨てたらしい。あるいは、彼は羞恥心をまだ十分に持っていて、それが抗しがたい魅力となっていたのかもしれない。そして、若いころの彼を知っている人々の記憶している彼の評判から判断すると、この重大問題では、彼はエンゲルス派であって、マルクス派ではなかった。したがって、最も重要なことは、トロツキーが、彼の部屋から降りてきたこの少女とばったり出会って恋に落ちたことにあるのではなく、彼が彼女と非情に深く心の通いあった友情をつくりあげ、今日までいっしょに暮しているという事実である。

 ナターリア・イワノーヴナは、厳格な法的解釈からすれば、トロツキー夫人ではない。トロツキーはまだ、ブロンシュテインを名乗っているアレクサンドラ・リヴォーヴナと離婚していないからである。ナターリア・イワノーヴナは、トロツキーの最も親密で最良の友人であり、日々ともに生きている伴侶である。彼女は彼の息子たちの母親である。…そして、同時代の一伝記作者の対象ではない多くの事柄を総括すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナもまた彼の友人なのである。」(マックス・イーストマン『若き日のトロツキー』より)


つづく

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