2026年2月9日月曜日

大杉栄とその時代年表(749) 1907(明治40)年9月1日~2日 (漱石) 「九月上旬(日不詳)、午後、銭湯に行き長谷川辰之助(二葉亭四迷)に会う。風呂から出て、お互いに素裸のまま話し合う。二葉亭四迷は、前年一度卒倒し田端のほうで保養していたことがあると云う。現在は少しよい。それではまだ来客謝絶だろうと聞くと曖昧な返事をする。〝それぢや、行くのはまあ見合せ様。〞と云って別れる。(『長谷川君と余』) 九月二日(月)、体重十二賞五百匁(四十六・九キログラム)から二百五十匁(〇・九四キログラム)減る。胃の調子悪い。」(荒正人)

 

二葉亭四迷

大杉栄とその時代年表(748) 1907(明治40)年9月1日 朝鮮駐剳軍司令官長谷川好道、義兵討伐。徹底的焦土作戦、殺戮指示。 「討伐隊ハ以上ノ告示ニ基キ、責ヲ現犯ノ村邑ニ帰シテ殺戮ヲ加ヘ、若クハ全村ヲ焼夷スル等ノ処置ヲ実行シ、忠清北道堤川地方ノ如キ皆目殆ント焦土タルニ到レリ(「朝鮮暴徒討伐誌」) より続く

1907(明治40)年

9月1日

田山花袋(36)「蒲団」(「新小説」)

「社会は日増に進歩する。電車は東京市の交通を一変させた。・・・四五年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪、海老茶袴、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった」


〈文士花袋の焦り〉

田山花袋は、明治39年3月から前田晃と「文章世界」編輯に当っていた。この雑誌は、博文館の大橋新太郎が、この頃の青年は小説や新体詩を書く術は知っていても、まともな時候見舞の手紙一本を書けないから、そういう実用文を教える雑誌を出す必要があるとして創刊した。しかし花袋と前田は、投書家たちの好みに合わせる必要があるという名目で、次第にそれに小説や詩などを載せ、明治40年半ばには、文芸雑誌の形をとろるようになっていた。花袋は文芸雑誌「文章世界」主筆で、雨声会にも「新小説」編輯長の後藤宙外等とともに招待されていた。

このとき彼は、妻利佐子との間に3人の子供があり、前年(明治39年)末に、郊外の代々木山谷一三番地に家を新築していた。文士の中で自力で家を建てているのは、鷗外や逍遥のように、文士以外の社会的地位と収入を持っているものだけであった。花袋のように30代で家を建てるのは異例のことであった。文壇では花袋は女弟子の親から金を借りて家を建てたと軽口を利くものがあった。

この頃、作家としての花袋は焦りと不満につきまとわれていた。彼が僚友と考えていた藤村は、前年3月に自費出版した「破戒」によって、大きな反響を得、独歩は、前々年に出版した「独歩集」が、発実に世間の認めるところとなり、熱心な読者が増え再版三版と売れているという。龍土会で逢った独歩は笑いながら、「ようやく我々の時代になって来そうだぞ」と言っていた。

明治36年に紅葉が死んだとき、花袋は葬儀に列し、涙を流し、また自分の上にかぶきっていた大きな暗雲が消え去ったと患じた。だが紅葉の死後の空白は、漱石、藤村、独歩などによって埋められつつあった。花袋は一人取り残されたような気がしていた。紅葉死後2,3年の間、花袋は日露戦争に従軍し、また博文館の仕事として他誌の編輯や調査、「文章世界」創刊などに追われて、作品の数は少なかった。

明治38年6月に「文芸倶楽部」に書いた「名張乙女」と今年5月に「太陽」に書いた「少女病」は、ともに心を込めた短篇小説であったが、世評は芳しくなかった。花袋の小説としては、明治35年に書いた「重石衛門の最後」が人に記憶されているだけであった。

この年(明治40年)初夏の頃、花袋は「新小説」9月号の巻頭小説を依頼された。これは、花袋に取って新しいチャンスであり、花袋は意気込んで「書いて見ましょう」と答えた。

その日から、花袋は、日本橋の博文館と郊外の山谷の新しい家との間を往復する間じゅう何をいかに書くべきかについて考えに耽るのか習わしになった。

〈女弟子岡田美知代〉

この数年間、日露戦争がはじまった明治37年から、花袋の心を占めているのは、彼の女弟子岡田美知代のことであった。

彼女が英学塾へ通い出した3月、博文館は春浪押川方存(まさつね)を招いて、4月から「日露戦争写真画報」を出すことにした。

ある日、花袋が出社すると、編集局主幹の水哉坪谷善四郎から、「戦争に行かんか」と尋ねられ、花袋は「「行きましょう」とすぐに答えた。

花袋は、「日露戦争写真画報」に載せる記事を取材する目的で、第二軍所属の私設写真班となり、写真技師の柴田常吉とともに3月23日に東京を出発し手品に向った。

広島で彼は第二軍軍医部長である森鴎外に逢った。花袋は鷗外を尊敬していて、鴎外に逢うのを楽しみにしていた。満洲へ渡る船の中で彼は鴎外をその船室に訪ね、自分の読んだハウプトマンやメーテルリンクやダヌンチオの作品の話をした。当時鴎外が美しい妻しげ子に甘いということは、文壇の噂話になっていたが、花袋はそういう鷗外が好きであった。

清洲上陸以後も、金州や徳利寺の戦場などで、花袋はしばしば鴎外を見かけた。彼は、鴎外が美しい妻をあとに残してこの荒涼とした戦地に起き伏ししているのを考える度に、土手三番町の義姉の家にいる岡田美知代のことを思い出した。

花袋のところへは、広島へ、また戦地へと岡田美知代の手紙が後を追うように次々とやって来ていた。

大石橋の戦のあと花袋は病気になり、海域の兵貼病院で治療して、9月20日に帰京し、再び美知代の接触が始まった。英知代は外向的な性格で身なりも派手であった。彼女は男友達を作り、夜遅くまで出歩くことがあると義姉が花袋に訴えた。花袋は時々義姉の家へ行って美知代に逢った。時には姉が外出して、彼女一人のこともあったが、花袋は、何かが起るのを怖れるように早目に帰った。彼は美知代に愛着していなから、師として監督者としての態度を崩すことはなかった。

その間、美知代は短篇小説5篇、長篇小説1篇、その他美文や新体詩を数十篇書いて、「女子文壇」「中学世界」「文章世界」などに投書として発表された。

明治38年4月頃、美知代は神経衰弱になり帰国し、9月にまた上京して来た。そのとき彼女は恋愛事件を起していた。広島の実家から来た手紙による旅程と、彼女の上京した日とが2日狂っていたので、花袋が問いつめたところ、美知代は神戸に恋人があって、一緒に2日間京都の嵯峨で遊んだと告白した。その恋愛は純潔なもので、肉体的関係はないこと、将来その恋人と結婚したいから花袋に援助してほしい、と彼女は言った。その恋人は永代静雄と言い、数え20歳で、英知代より1歳年下であった。それが分ったとき、花袋は、妬みと口惜しさのために苦悩した。

永代静雄は、兵庫県北谷村ノ内宮岡村に生れ、小学校長をしていた長谷川順の三男であったが、父の死後兄とともに、祖父の家水代家に入籍した。水代家は寺の住職で、彼の兄がそれを嗣いだが、放蕩によって資産を失った。永代静雄は苦学生として神戸教会理事村松吉太郎の世話になり、同志社に学んでいた。岡田美知代は花袋に弟子入りする少し前、六甲山で催された基督教大会に出席し、そこで永代静雄と知り合っていた。花袋が気づくまでに、2人の恋愛は2年間続いていた。

その3日後、花袋に美知代から、永代が上京して来たという手紙が届いた。美知代と永代の間に何が起るか分らないと思い、彼は義姉の家に出かけて、美知代を問いただし、その次の日彼女を監督のためといって自分の家に連れ戻した。水代は間もなく京都へ帰った。

11月、永代から美千代に宛てた手紙に、東京に出て仕事を見つけるために上京すると書いてあった。花袋は、永代の泊っている宿屋へ行き、帰国をすすめたが、押し問答が続くだけであった。美知代はやがて、生活に困っている永代を助けるため彼と同棲して自分は働きたいと言い出した。

花袋は彼女の父の上京をうながした。39年1月、花袋の家で父、永代、美知代と4人の間に押し問答が続いたが、その間に花袋は、美知代を問いつめて、すでに彼女が永代と肉体関係のあることを告白させた。彼は、水代が独立して生活を確立するまで2人を逢わせないようにさせるという口実において、美知代を父に連れて帰らせた。

明治39年9月、花袋は、「大日本地誌」の仕事を兼ねて広島県に旅行し、福山から府中町、上下町、三次町を経て出雲に出た。その途中で彼は上下町の岡田家を訪れ、美知代に逢った。水代静雄はこの年4月から早稲田大学に入って10月まで在学した。

この事件は田山花袋の心内に根を下していた少女趣味、恋愛のロマンチシズムに決定的な打撃を与えた。

明治40年5月、花袋は「太陽」に小説「少女病」を書いた。それは自分の少女趣味の放棄宣言であった。

〈「蒲団」の主題の着想〉

花袋は、「新小説」9月号巻頭小説に依頼された小説の主題は、この「少女病」の中で象徴的に扱った中年文士の破滅を、もっと具体的に自己の内心をさらけ出して書く外はないと感じていた。

7月未、彼は新しい家の座敷に机を据え、思い切って書きはじめた。彼は、家族よりもさきに起き出し、毎朝10時頃まで仕事をした。そのあと出社して、帰ってからまた夜遅くまで書き続けた。そして100枚余の小説を10日ほどかかって脱稿した。美知代から初めて手紙が来る所かち書き起して、彼女が父に連れられて国へ帰る所までで作品は終った。

この小説が読まれたら、美知代もその肉親たちも驚くにちかいない。しかし、花袋は言いのかれを持っていた。小説において、師である彼が弟子の美知代に執着したという事実を書いたとしても、現実に彼は美知代にその恋情を告白したこともなく手をふれたこともないので、それはフィクションとして受けとられるべきである。現実において彼は師としての道を踏みはずしていない、という確信であった。


9月2日

(漱石)

「九月上旬(日不詳)、午後、銭湯に行き長谷川辰之助(二葉亭四迷)に会う。風呂から出て、お互いに素裸のまま話し合う。二葉亭四迷は、前年一度卒倒し田端のほうで保養していたことがあると云う。現在は少しよい。それではまだ来客謝絶だろうと聞くと曖昧な返事をする。〝それぢや、行くのはまあ見合せ様。〞と云って別れる。(『長谷川君と余』)

九月二日(月)、体重十二賞五百匁(四十六・九キログラム)から二百五十匁(〇・九四キログラム)減る。胃の調子悪い。」(荒正人、前掲書)

つづく

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